白い世界

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 降りしきる雪を超えた先に、彼女の姿が見えた。
 長い時間この場所に座っていたためというわけでもないが、腰かけている噴水の縁と触れる個所には感覚がない。時間は深夜零時を過ぎ、少し遠くに見える電子温度計はマイナス二十度。人が歩き回るには厳しい時間帯だろう。今日と明日の境界線を越えた今から、日の出に向けて夜が終っていく。
 でも、俺達の時間はこれから始まるはずだ。
 近づいてくる彼女は前を見ていても、認識はしていないらしい。
 すぐ傍まで来たところで、静かに声をかける。
「ようやく、こっちに来た」
 俺の声に振りかえる彼女の顔には驚きが満ちていた。街の中心部に位置する公園とはいえ、こんな時間に誰かいるなど予想もしなかっただろう。そんな彼女の顔を見れただけでも、価値があったかもしれない。
 俺が初めて彼女を見てから、ずっと笑顔で踊っていたのだから。
 星空を見上げ、雪の降りしきる雲を見上げ、どんな時でも笑顔を絶やさず踊っていた。
 通り過ぎる人々をすり抜けて行く姿は、一目でこの世の人ではないと気付いたけれど、関係なかった。美しさに定義なんてない。
 生きていても、死んでいるのだとしても、彼女の踊りは美しい。
「あなた――」
「何日か、君を見ていたんだ。綺麗だなって素直に思った。あまり芸術とか、こういうの疎いんだけど」
 彼女の言葉を遮り、呟く。
 色のない人生を歩んできた。流行りのドラマや漫画、曲、ゲームは名前を聞く程度で、ちゃんと触れたのは見合いで結婚した女性と一緒に暮らしてからだった。結局、その時にはもう深く興味を持つことが出来なかったが、少しはそういうものを受け入れる感性が育ったらしい。
 だからこそ、彼女を美しいと思えるのだろう。
「踊ってくれないか。最後に笑顔の君を見たい。僕はそろそろ、この場所にこれなくなる」
 出来るだけ安心させるように彼女に問いかける。何の因果でこの場所に居続けるのか分からないが、恨みとかそういうものではないだろう。いや、たとえ笑顔の裏に何らかの憎悪があったとしても、俺に踏み込む権利はない。俺はただ、彼女の踊りを見て、綺麗だと褒める観客になる。
「……分かりました」
 何か言いたそうに口を開いたが、出てきた言葉は同意のもの。彼女なりに何かを感じ取ったのだろう。頷いて一礼すると、文字通り体が浮き上がりそうな軽やかさで円を描きだした。
 以前テレビで見たフィギュアスケートの動きに似ていた。というよりも、そのものなのだ。生前にやっていたのだろうか、素人目に見ても大したものだ。とてもアマチュアとは思えない。テレビで見たことはなかったが。
 スケートリンクでもないこの場所で、それを感じさせない動きで回る。滑らない代わりに軽やかに前に進んで、飛び上がって空中で回転する。三回転半後に着地し、勢いを殺さずに次の動作に繋げる。慣性を利用した円運動。動きを直線に繋げ、再び準備を整えてジャンプする。再び三回転半。次は多少よろけてしまう。
 どうやら何か狙っているらしい。
 そこからの動きを見ていると、どうやらジャンプした際の回転を今の三回転半よりも増やそうとしているようだった。三回転半の次ならば、四回転か。
 それまでは他の踊り――演技か――にも気を使って綺麗に舞っていたが、よりジャンプすることへと先鋭化していく。ジャンプして着地。そこからの簡単な円運動。余分な演技はいれずに、すぐさまジャンプへ向けて足を進める。何度飛んでも三回転半の壁は越えられない。
 可能なはずなのだ。今の彼女ならば。
 すでに幽霊となった彼女に肉体の限界はない。疲れもないはずだし、望めばずっと飛んで、回転していられる。
 でも彼女は生身の人間であったころの自分のままで四回転を目指している。それが彼女がここに留まっている原因なのかもしれない。
 四回転を目指し、達成しようとしている。しかし生前できなかったことを、死んで成長が止まった今、行うのは可能だろうか。
 一心不乱に飛び続ける彼女は徐々に最初にいた美しさを減らしていく。着地してもよろけたり、手をついたりして、演技も汚くなっていく。
 それでも、その姿を美しいと思った。綺麗だと感じていたそれまでとは全く違う、美しさ。
 降りしきる雪を通り抜けて空を飛ぶ姿は、忘れていた涙腺を刺激しているような感覚を覚えるほどに。
 時刻を見ると夜中の三時にさしかかろうとしていた。踊りを見せてくれと頼んでから、もう少しで三時間。
 ふいに、この時間が終わるような気がした時、彼女は中空で四回、俺のほうを見た。
 着地をして倒れる彼女に、噴水の縁から立ち上がって一歩ずつ歩み寄る。
 彼女は地面を見たまま立ち上がり、視線を合わせてはくれなかった。
「できたな」
「……できません」
「できた」
「できて、ません」
「できてた」
「できていないんです!」
「四回転した」
「四回転、しました。でも、できませんでした」
 彼女は忘れていた涙を流しているかのように顔に両手をあてた。指の間から白い息もなく、くぐもりも、嗚咽にもなっていない、生前の名残を挟んで俺に自分の思いを伝えてくる。風が雪をまとって俺達を包み込み、真っ白に世界が染まった。
「ずるを、しました。何度もやって、できなかった。いつも三回転半だった。生きていた時の限界を、私は今日、越えてしまった。幽霊だから、望めばいくらでも宙にいられたから」
 笑顔で踊っていた彼女を思い起こす。
 生きていた時の限界を越えなかったから。その不文律を崩さなかったからこそ、彼女はいままでここにいた。
 なら、今日それを崩したのは――
「あなたが悪いのよ。誰も見ていない。見られることから解放されたと思ったから、私はずっと踊っていられた。演技していられた。同じ演技を好きなだけしていられたのに」
「だから、あそこまで綺麗な顔をしていた。でも、俺が見てしまったから、上を目指した?」
 彼女は頷いただけで答えなかった。都合の悪い言葉はこちらに言わせて、同意することで少しでも罪悪感を回避するつもりらしい。
 彼女はきっと逃げ出したのだ。それでも好きで止められなかった。好きだから止めたくない。でも人には認められたい。でも、できないのは辛いから見られたくない。
 とても身勝手だ。楽しいことしか見たくない。辛いことには向き合いたくない。
 本当に自分勝手だと思う。
 でも。そんなもの、もう関係ないのだ。
 もう死んでいる、俺達には。
「いいじゃないか。できたんだから」
 俺の言葉に顔をあげて、彼女は睨みつけてくる。呪い殺されるかもしれないが、気にせず言う。
「いいじゃないか。もう死んでる女が何を気にする必要がある。できたんだから、いいじゃないか。そして、俺のせいならそれでいいじゃないか」
 上っ面の言葉を連ねるのは得意だった。
 仕事をする中で、部下向け、上司向けとさまざまな言葉を身に着けた。
 だから、心から思っていることを伝えるというのは、難しい。
 ゆっくりと、一言一言伝えたいことを言う。それしか、今はできない。
「君はもう、悪くない。好きなだけ演技して、そして四回転できた。俺には、それに挑んでいた君は、綺麗な演技をしていた時よりずっと綺麗だと、思った」
「嘘……」
「嘘じゃないさ。死人が嘘をついても、意味はないだろ」
 体を通り抜ける雪は俺に寒さを感じさせない。三時に近づくほどに雪は風と共にやってくる。だが、俺と彼女は視界が狭まるだけで影響は少ない。
 俺達の間には、生きている世界の干渉は届かない。
 最初から俺達には寒さなど関係ない。ただ、夜の中で、過ごしている。
「……楽しかったんです。でも、辛かったんです」
 ぼそぼそと話し出す彼女の言葉は、最初だけであとは聞こえなかった。死人の言葉にはもう意味はない。そう、俺達は意味のないことをしているだけ。
 それでも、彼女には続ける理由はある。意味はなくても、理由が。
 俺は死んだ理由も覚えていないし、相手のを聞く必要もない。消滅する前のモラトリアム。たまたま生にも死にも居場所がなかったから、ここにいただけだ。きっと。
 そして彼女が踊っていたのも好きだから今まで頑張れただけなのだ。
 語り続ける彼女の姿が薄くなっていく。最初は彼女が成仏していくからかと思ったが、俺のほうが消えかけているからだった。
 俺の願いがなんだったのかは、もう忘れてしまった。でも彼女の頑張りを見ていたことで、得るものがあったんだろう。公園の噴水から体が離れたのもその表れだったのだろうか。あの場所にどんな意味があったのかも分からなかった。気付いた時にはここにいたんだ。生前の思い出でも詰まっていたのか。過去が分からない自分は何も意味がないと思っていた。だから、この場所にいる意味はなく、死んでいるのにさらに死人とでもいうようにぼーっとしていた。
 雪に包まれ、白く染まった世界の中。そこに現れた彼女は、ここにいる理由を与えてくれたのだ。
 霞む視界の中で彼女の姿が下がっていく。自然と空に体が浮かんでいるようだった。すでに声は聞こえない。まだ彼女は俺がいると思って何か事情を語っているのだろうか。
 やがて彼女も消えて、運が良ければ誰かに生まれ変わるのだろう。輪廻があるのなら。それは本当に死んでからじゃないと分からない。
 雪が通り抜けるたびに意識も刈り取られていく。
 ふわふわとした感覚とともに、雲を抜けた。
 雲の上にあるのは、たくさんの光と大きな円。
「――ぁ」
 何を言おうとしたのか思い出せない。目の前にある景色を、表す言葉があったはずなのに。
 きっと、意味はないんだろう。もう消えるだけの自分には。
 それでも、理由はある。その言葉を、呟く。
 ――理由が。
「綺麗ですね」
 隣を見ると、彼女がいた。その顔は何かに悩んでいて、満ち足りた笑みということはなかった。
 それでも自分なりに何かを納得させたような顔だった。
 彼女が誰で、自分が誰かももう思い出せない中で。
 その言葉だけを、繰り返す。
「最後に君の笑顔が見れた。――綺麗だ」
 その言葉は、届いただろうか。
 星空に溶けていく視界の中で、彼女の笑顔を見たような気がした。
 二人でまた行けるだろうか。
 白い世界へ。


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