法神流伝来碑文(原漢文)

法神流新伝来碑文 (原文のまま)

  従一位勲二等公爵近衛篤麿篆額
 物の後世に伝わるや必ず其の人を得て伝わる焉、其芸に於て其術に於て人を得るに非ずんば、即ち伝わること能はず。難い矣哉其人を得ることや 粤に原法神流剣術の伝わるや往昔音住なる者あり焉かつて神仙に値うて其術を伝う音住これを以て是を石坂保重なる者に伝う 保重富樫政親に伝う政親政持に伝う政持政好に伝う 政好知菊に伝う知菊政高に伝う政高白生翁に伝う 各諱は政武氏は富樫白生其の通称なり其先は鎮守府将軍藤原利仁後胤となす。子孫鎌倉氏に仕え数世の後加賀候に仕う世々禄千石を喰みて政武に至る政武年甫めて十五天下を歴遊し諸名家の門を叩いて其術を試みるに敵するものなし其余諸技に通ず。是を以て名声を普く聞こゆ常に慷慨の志を懐いて王室の式微を歎じ更に藤井右門と称し専ら英傑の士と交わり将に以て為すあらんとし事未だ成らずして縛に付く然りと雖も其挙たるや至誠より出たるを以て天之を憐れみ逃るる事を得たり即ち跡を奥羽に隠して楳本法神と称し遂に此地に来って老を養う。
 傍ら医を好み治を乞う者あれば即ち薬を与うるに功を奏せざるなし。其の為す所稍常と異なれリ故に神仙を以て称せらる。癸天保元年庚寅に没す。其の生まれたる寛文三年葵卯を距る年を得る事百六十有八なり。大徳は必ず其の寿を得ると蓋し亦翁の謂なるか明治二十四年十二月十七日正四位を贈らる。須田房之助なる者あり姓は源諱は為信弱冠にして深く武芸に志し翁に師事して其の蘊奥を極む名声都鄙に籍甚たり門に入る者多し嫉妬の輩陽に謀って将に之を撃たんとす。力敵せず終に銃殺に遭う時に天保二年辛印季春なり享年四十有二男なし 勝江玄隆なる者為信の遮弟なり医を翁に学び剣を為信に習う故を以て其名の後世に朽ちんことを恐れ同門の諸氏と相議し力を合わせ正に石に勒して金山祠側に建てんとす。嗚呼其芸其術其の人を得て伝うることを得後世又其の人を得て之を伝えなば庶幾夫れ永く朽ちざるなり。銘に曰く
 芸は功瑳に成り術は琢磨に熟す。武の道たるや自ら利し他を利す。治に乱に古往今来文と併び称せらる。其徳偉なる哉後世に伝来する其の人を得ずんば其術も亦廃す。鬼に通じ神に通じ翁の如き者あって芸術を真に伝う 。
    二位勲一等伯爵東久世通禧併書

 剣聖上泉信綱戦国の末兵法新陰流を創始武名天下に香し、高弟に奥山休賀斎なる者あり、徳川家康の剣師となる、晩年三河明神に隠棲して神僧となり音寿(住)斎と号す、高弟に右坂保重なる者あり、その奥旨を得て諸国を歴遊す、行きゆきて加賀国に至る、名族政親頻りにその術を乞う、保重遂にその奥秘を政親に伝う、政親より五伝して白生政武に至る、政武天稟の資あり若年にしてその剣技父師を凌駕す、剣名四隣に高し、政武故あって姓名を楳本法神と変え諸国を歴遊する、術を試みるに敵する者なし、世人今牛若という、長崎に至りて医術を学ぶ、翁寛政初年の頃赤城山麓にその勇姿を現す、白髪痩躯その歩行さながら翔ぶが如し、入神の剣技と槍法、救世の医療、村人赤城の神仙として崇め敬慕す、その門に学ぶ者千余、法神流と称す、翁文政十三年に没す、享年百六十八才と云う、門人中傑出せるは須田房之助なり、諱、為信通称深山の房吉と称す、金山宮下に生る、躯幹長大にして剛力無双なり、天賦の才あり刻苦遂に当流の蘊奥を極む、江戸に道場を開く、その剣技江都に於て右に出ずる者なし、遺恨の輩あり、難を逃れて故山に帰る、奥利根追貝の星野家に入り道場を開く、剣名利根一円を圧す、隣村薗原に神道一心流の剣客某あり競合の上争点を生ず、某の剣技房之助に遠く及ばず即ち欺騙して銃殺す、この時房之助四十二才天保二年三月の事なり惜しいかな、房之助の義弟箱田の住人森田与吉郎その跡を継ぐ、剣弟に町田寿吉なる者あり、世人法神流の三吉と称せり、森田の高弟に根井行雄、須田平八あり森田門の竜虎となす、平八また書技に秀で至妙の筆跡今にあり、根井の高弟に持田善作なる者あり、次男持田盛二天稟の才にして幼童より法神流を学ぶ、後に剣道範士となり昭和四年昭和天皇御即位記念天覧試合に優勝す、これより法神流の盛名天下に鳴る、門人に野間恒なる者あり、昭和九年天覧試合に優勝、また門人望月正房昭和十五年天覧試合に優勝せり、斯かる事例は全国にその比を見る事なし、その栄光万世に燦たり、嗚呼偉なるかな法神流の流れや、郷土の心の遺産これに優るものなし、然れども、流れうつり行く星霜の中に、この偉大なる道業の忘失せん事を恐る、ここに士人相寄り相集い相議し、浄財を募り吉日を卜として法神流発祥の地金山宮の神域に文を石に刻み碑となすは是後人奮起の資となさんが為なり。
   平成三年五月吉日
                                諸田政治 撰文
                                都丸芳雄 書
 

※藤井右門説・・・現在では楳本法神とは別人と考えられている。
※百六十八歳説・・・非常に高齢であったと伝えられるが、百六十八歳や百三十六歳説
    はあまりに高齢である。九十歳とか百二歳説もあり、これらの方が現実的である。
※明治二十四年十二月十七日正四位を贈らる・・・この時追贈されたのは藤井右門等で
    あり、現在では楳本法神とは別人と考えられている。