勢多郡赤城村深山は、2006年2月、合併により渋川市赤城町深山となります。江戸時代末期、この地に仙人を思わせる不思議な人物・楳本法神(うめもと ほうしん)が滞在し、独自の剣法を広め、多くの剣豪を生み出しました。なかでも傑出した後継者であった須田房吉は 、前橋や江戸に道場を開き多くの門弟を抱えました。謀略にあって悲劇的な最後をとげましたが、その流れを汲む持田盛二が戦前の天覧試合で優勝、彼の弟子二人も 続いて天覧試合で優勝し、 戦前に行われた三度の天覧試合の全てに優勝者を出す快挙をなしとげました。
 明治時代に法神流伝来碑が建立されましたが、昭和二十二年の大水害で流出。平成三年、地域住民の協力で立派な伝来碑が再建され、剣豪の里の面目を新たにしています。合併を前に、地域の伝統を改めて知り、 誇りを持って新しい歴史を作っていくことを願っています。

法神流伝来碑の再建(平成3年5月19日)

 赤城村深山(みやま)地区に江戸時代から伝わる剣術「法神流」の伝来碑が、四十三年ぶりに同地区の神社・金山宮に再建された。十九日の除幕式では、地元住民ら約三百五十人が完成を祝った。
 法神流の開祖は、江戸後期に同地区を訪れた剣の達人・楳本法神(うめもと ほうしん)。弟子は当時、千人を超えたという。明治中期、流派の伝来を記した石碑を金山宮に建立。昭和四年の天皇即位記念天覧試合では、同流の持田盛二が優勝して法神流の名が全国にとどろいた。
 しかし石碑は、昭和二十二年の大水害で流出。同五十四年、前橋市の諸田政治さんが「法神流聞き書き」を出版したことで再建話が持ち上がり、村内五百十三人の寄付約六百万円で再建された。
 伝来碑は地元産のミカゲ石で縦二・五メートル。横一・八メートル。碑文は旧石碑の拓本から再現し、さらに分かりやすい新伝来碑(縦〇・九メートル、横一・八メートル)を隣に建てた。除幕式で須田浅太郎・建立委員長は「村民の協力と努力でようやく再建できた。この結束の強さが赤城村の将来を支えるだろう」と感激していた。(群馬よみうり、平成3年5月23日版より)

再建された伝来碑

新法神流伝来碑

二つの碑の碑文


 
法神流伝来碑建立事業経過報告
昭和63年 諸田政治著「法神流聞書」出版により、赤城村内外より法神流法神流伝来碑再現の気運高まる
平成元年 流失した法神流伝来碑の再現に向けて、地区数人で協議を再三実施
深山公会堂にて法神流についての講演実施
平成2年3月 法神流伝来碑建立委員会設立(役員24名)
      4月 趣意書を作成し、役員一丸となり寄付集め実施
     10月  当初目標の300万円集まる
     12月 法神流伝来碑復元 新伝来碑発注
平成3年1月 記念品、芳名碑発注
    5月19日 法神流伝来碑復元、新伝来碑建立、芳名碑建立式典開催

趣 意 書

冬来りなば 春遠からじ
 過ぎ行く歳月と共に忘れ去られて行く様々な出来事の中に、忘れられないあの昭和22年9月の大水害がありました。その時の皆様の血の滲むような努力により、今日の深山の姿ができました。
 その水害の折り、皆様の脳裏に焼き付いている御天狗様のあの美しい境内と共に流出した、法神流伝来碑がありました。
 法神流とは、剣術の流派で、江戸時代剣聖楳本法神により赤城山周辺に伝授され、県下で門人数千人とも云われ、深山においても須田房吉先生より数代に渡り継承されました。
 5代須田平八先生と区民が一体となり建立したのですが、惜しくもあの水害で流出されたままになっております。その伝来碑を惜しむ者も多く、村内外より再現の要望も強く、区に是非共復元していただきたいとの声に、皆様方のご理解とご協力を賜りたく、お知らせとお願いを申し上げます。
  平成2年1月
                第9区長 須田浅太郎

 



法神流形を披露する地元の須田九造教士(右) 

奉賛会御芳名誌
 
513名もの多くの皆さんから浄財が寄せられた。