赤城の神仙・楳本法神

 
江戸時代の末、赤城村や利根郡東入地方を一定の住所も定めずに、弟子たちの家を転々と泊まり歩き、法神流の剣法の妙技を伝授しながら、ほとんど無料で他人の病気を治療しつつ、極めて無欲恬淡な生活を送った一人の老翁がありました。
 老人ながら非常に健脚で、一日数十里(一里=4km)を行くことも平気で、今日はここにいるかと思えば、明日は遠く離れた意外の所に姿を現したといわれています。 生地も、生い立ちも、経歴も、未だかつて口外したことがなく、世人からはあたかも仙人かまたは神の化身かとも思われていました。
 晩年は勢多郡と利根郡に足を留め、最も長く深山村地方に流寓していました。剣柔二道の教授を為し、門人は数百人の多きに達していました。なかでも深山村の須田房吉(後、房之助、加賀之助等と改める)、北橘村箱田の森田与吉郎(後に勝江玄隆)、同村上南室の町田寿吉郎は、法神門下の三田三吉と言われ、また黒保根村上田沢字樫山の青山雅楽之助とともに、同門下の四天王とも云われた高弟があ りました。翁は深山にいる間といえども、常に居所を変えて一所に定住せず、その行動は端倪することができませんでした。折々、利根郡東入地方へも遊んで、柔剣道の弟子が多 くありました。柔道では、桜井源太郎という弟子があり、その人が後年新徴組の勇士になりました。穴原村の中沢良之助、大揚村の金子甚内や初期の県会議員に選ばれた追貝村の永井貞義なども弟子で した。
 翁は非常に用心深く、いかなる害敵にもよく自ら身を守り、人の怨恨を買うようなこともなく、医術にも達して施療を好み、自身衛生にも注意したと見えて 、伝えられている百六十八歳は信じられないまでも、おそらくは百歳以上の高寿を保ったと思われます。妻子もなく、老後は多くの愛弟子たちに守られて、安楽に仙人的な余生を送ったようで す。
 利根郡片品村大字下平に愛弟子がありましたが、若い頃大病をした時、翁の医療によって九死に一生を得たことを常々感謝していて、わざわざ深山村まで来て、数年間付き添って老後を慰めた そうです。 そのうち、寄る年波は争われず、翁はついに文政十三年八月十四日、四人の高弟の一人であった、勢多郡黒保根村大字下田沢(現・桐生市)の青山歌吉(青山雅楽之助藤原剛ともいう)の家で没し ましたが、片品村から来た弟子もおそらく下田沢村まで付き添って、翁の臨終を看護したことでしょう。翁の没後故郷の利根郡へ帰り、翁から伝授されたらい病の妙薬を「法神丸」と名づけ、家伝薬として長く発売したと云うことで す。
 初めから生年月日を明かさないから、年齢が果たして何歳であったか不明です。また、そのうち誰云うとなく、この不可思議の人物は明和年間に有名であった山形大弐とともに徳川幕府ににらまれ、ともに死刑に処せられ、後明治時代に勤王家として正四位を追贈された藤井右門が、死刑前に逃逸 し、世を忍んで上州の山奥に隠れて、余生を送っていたものと誤り伝えられ、年齢もまた百六十八歳と伝わるようになり、時日の経過とともにそれが全くの事実であると固く信じられるようにな りました。

法神翁の語り伝えられる逸話(作製中)

  1 隙があったらいつでも打ってよろしい
  2 暗闇の手ぬぐい
  3 呼吸のあるものは打てない 
  4 飛び切りの術
  5 笠間の試合
  6 キセルの爆発
  7 くまん蜂のはね切り落とし
  8 床屋のうらみ
  9 隙があったらいつでも打ってよろしい(2)
  10 悪漢の襲撃
  11 敷居の鉄扇
  12 吹き針の妙技
  13 医術への開眼
  14 太鼓の七度打ち
 


勢多郡黒保根村(現・桐生市)医光寺にある法神の墓 

 法神の墓は、当初黒保根村樫山の吉祥寺にあったが、その寺が小学校敷地になったので、大正八年五月、五十四代住職忍教師により医王寺に移された。この墓は、五十五代住職恭信師により建立されたものである。
 なお、説明版に上泉伊勢守に師事したとあるが、年代が異なるため誤りと思われる。

 湧丸山医光寺は、嵯峨天皇の弘仁11年(820)弘法大師 が東国遊化の折に薬師仏を刻み開創したと伝えられ、霊験あらたかな薬師如来の御手から丸薬が湧きだし、病む人々を救ったという、お大師さんに関わる伝説から、寺の山号もこの地区の呼び名も湧丸とされている名刹である。
 虚空蔵菩薩像(群馬県指定重要文化財)、本堂欄間の彫刻(中国二十四孝)、赤堀道元の娘の帯などでも知られる。