最初の法神流伝来碑と須田平八(左から三人目の白髪の人物)。明治時代の貴重な写真である。

 須田平八と伝来碑の建立

  須田平八は、天保元年深山に生まれる。号を沢斎または昇竜と称し、諱(いみな)を義叙といった。利根郡東入の賢和(けんな)について書道を修め、師に似て篆書を善くした。筆子に茂木権八(香園)を始めとして多くの書家を排出した。彼が晩年に書いた「綾戸橋」の三字の石額は最もよくできている。彼はまた、楳本法神が当地方に伝えた法神流の剣道を箱田の森田与吉(後の勝江玄隆)に学び弟子が数百人の多きに達している。晩年に至るまで、三、四里の所は絶対に外泊したことがなく、いかなる暗夜といえども提灯を用いたことがなかった。万一用いる時には、長竿の先端につるした。代々名主の家柄で前橋藩の御用達を勤め、苗字、帯刀を許され、かつて藩主の命によって、この地方にまだ甘藷の栽培の絶無の時代にそれを試作して一般に広く伝播した。非常に酒を嗜み前橋城改築落成祝賀会に招かれ、十分飲酒の後最後に七、五、三の大杯を順次に苦もなく飲みほして、松平侯からその豪酒を賞讃されたことがあった。ある時、泥酔して高下駄で前橋からの帰途、米野並木で数名の追いはぎに襲われたが、そのうちの一人を投げ飛ばしたため、他の賊は恐れて皆逃散したという。
 かつて藩主の許可を得て、前橋に出て居を構え、葵の紋の幔幕を張りめぐらし、御用金貸し付けをした傍ら剣道と書道の教授をしたが、貸金の回収が思うに任せず、ついに自己の家産までも傾け、晩年は郷里に帰って剣と書道の教授に老後を送り、大正七年六月二十七日深山において享年八十九歳で没した。
 翁は、身長五尺二寸そこそこの小柄で、長髯を蓄え、法神翁の再来を思わせる風貌であった。明治十七年、現在の渋川市中村、早尾神社の献額中にも剣士として名を列している。晩年は常に両杖をついて歩行し、依頼者があれば喜んで得意の篆書を書き与えた。同門である北橘村箱田の根井行雄とともに法神流の剣士中の傑出したものであった。
 平八翁が晩年最も力を入れた事業に、「法神流伝来碑」の建立がある。流祖楳本法神以来の法神流事跡を、永遠に後世に伝えようと企画したもので、金山宮(深山の御天狗様)境内に金石文として残したのである。「法神流聞書」を著した諸田政治氏も、日本各地の剣法碑を数多く見歩いたが、その大きさ立派さにおいて、極めて数少ない豪華な碑であったことが、まぶたに焼き付いて離れないと記している。しかし、惜しくも昭和二十二年、この地方を襲った台風水害によって流出してしまったのは、惜しみてもあまりある。
 この碑は、従一位公爵近衛篤麿篆額、正二位伯爵東久世通禧撰併書となっており、当時の草深い田舎からでは困難もあったことと思われる。時は明治の三十年代で、まさに皇国史観の勃興期であり、楳本法神の前身と目された藤井右門が、罪人から一躍勤王の志士によみがえり、贈位されたことなども、この碑の建立に拍車をかけたことと思われる。平八翁は、碑が立派に建立された時、「俺あ、これでいつ死んでも心残りはねえぜ。」と家族にいってほほえんだという。

※平八翁の茶飲み話
 「わしらが修行中には、夕飯を済ましてから、わらじばきで木刀を持って鈴ヶ嶽に登り、山神様にお祈り申し上げ、一千本の打ち込みをやって、帰ってきて一寝して、朝草刈りに行き、日の昇るまでに馬に一駄の山草の荷を刈ってきたもんだよ。」
 「前橋(深山から往復40km程)に買い物に行って半日で帰り、午後に一人前の仕事をして、夜稽古でよく師匠に引ったたかれたもんだよ。」
「早朝、赤城の鈴ヶ嶽に登り、始めに五十声くらいからだんだんきたえて、千声に達するまで怒鳴ったもんだよ。するとのどから血が出たがよう。その内に慣れてくると平気になって、不意に気合いをかけると、たいがいの者は腰を抜かして、ぶっ倒れたもんだよ。」