昭和の剣聖・持田盛二範士



剣聖 持田盛二先生頌徳碑

(前橋市グリーンドーム東駐車場)

 持田盛二は、明治十八年一月二十六日、勢多郡下川淵村(現:前橋市)に父・善作の次男として生まれ た。善作は、法神流第四代根井行雄の高弟で免許皆伝の腕を持ち、屋敷内の道場で門下生の指導をしていた関係で、盛二も兄愛作とともに幼い頃から竹刀を握った。
 人一倍けい古熱心な盛二はめきめき腕を上げて、十六才の時群馬と埼玉の選抜対抗試合にいどみ大人十八人に勝ち抜いて「持田の小天狗」の異名を取った。その後上京し、東京一の実力者高野佐三郎の道場で実力をみがき、明治四十年、京都の武徳会本部武術教員養成所に入所、普通三年かかるところを一年半で卒業し、以後剣道の道一筋を歩むことになった。昭和二年には、剣道家として最高の称号である「範士」を四十三歳という最年少で授与されている。  
 盛二の名が天下に知れ渡るようになったのは、何といってもあの昭和四年五月四、五日の御大礼記念天覧武道大会の優勝である。 この大会は、昭和天皇御即位の御大礼を記念して、皇居旧三の丸跡の覆馬場(おおいのばば)および済寧管で宮内省主催のもとに開催された。大会の演武種目は、剣道、柔道の各優勝試合と大日本剣道形・柔道古式之形・銃剣術試合であったが、その中心をなすのは剣道及び柔道の優勝試合であった。出場選士は、剣道、柔道とも指定選士の部と府県選士の部の二つに分けられ、両部別個に優勝が争われた。府県選士というのは、各府県及び北海道、朝鮮、台湾、樺太の各地から、一名あて選出された選士で、専門家を除くアマチュアの中から府県知事が推薦した者である。指定選士は、宮内省に設けられた指定選士詮衡委員会が、全国の専門家の中から特に実力、人格の秀れた者三十二名を選んで指名した者であり、それだけでも名誉であった。事実、当代屈指の実力者ばかりが選ばれていた。
 五月四日は、四人一組の予選リーグであったが、持田は納富五雄(武徳会・佐世保海兵団)、大島治喜太(武徳会・警視庁)、大沢藤四郎(明信館・北海道警察部)と対戦し、三戦三勝でこの組の代表となった。決勝トーナメントでは、古賀恒吉(武徳会・石川県第四高校)、植田平太郎(神道流・香川県警察部)を破った持田は、決勝で高野茂義(明信館・関東州満鉄)と対戦した。高野茂義は、秩父水滸伝で有名な剣聖高野佐三郎が浦和で明信館道場を経営していた当時、十六歳で入門し、後に養子となった。少年時代から怪力の持ち主で、横綱常陸山から力士をすすめられたこともあった。佐三郎に稽古を付けられて進歩めざましく、高野道場の四天王の第一と称されていた。大正天皇の御前で試合で勝って名声を高めるなど、左上段から打ち下ろす骨をも砕く強烈な剛剣で優勝候補の筆頭と目されていた。
 この試合の模様を「剣道五十年」(時事通信社・庄司宗光著)は、次のように記している。「指定選士の決勝戦は、はしなくも満鉄剣道師範として満州に君臨する高野範士と、朝鮮総督府師範として朝鮮剣道界を率いる持田範士の対戦となった。高野の剛勇に対し、持田の冷徹、いずれが日本剣道界の覇者となるか、決勝戦にふさわしい顔合わせである。立ち上がるや双方正眼に構え、互いに大事をとってしかけず、呼吸をはかること約二分、機熟したか高野はやおら左上段に構え、じりじり相手を追い込もうとする。持田これに逆らわず、剣尖を少し下げて一歩下がった。高野さらに追いこもうとすれば、持田は巧みに場内をまわりこんで位置を代えるとき、高野、面をのぞんで打ち込んだが間が遠いため短い。鍔競合いから離れたとたん、今度は持田が得意の片手突きをくり出したが、これも短い。高野はまたもや上段、じりじりと間をつめて面を打ちこめば、持田、間をはずして受け流した。ここぞと高野は矢つぎばやに二本目の面を打ちこもうとした瞬間、持田パッと体を右に開いて胴を打てば見事にきまって一本。(二本目)高野は依然、左上段から強引に持田の面を割ろうとじりじり押せば、持田巧に間を離して高野に乗ずる機会を与えない。持田その間に機を見て片手突きにおびやかすなど息詰まる熱戦となった。高野またも、これでもかといわんばかりに面小手を強襲する。明敏な持田は巧みに高野の攻撃をさばきながらたんたんとして隙をうかがううち、高野のまさに一歩踏みこまんとする出鼻へ持田ハッシと左小手を打てば、高野の猛攻も万事休して持田の勝ちとなった。かくして指定選士の優勝者・・・・・日本一剣豪は範士持田盛二と決定した。持田は首尾よく栄冠を獲得したとはいえ、剛勇高野が、前日大長教士との戦いに脚部に負傷したにもかかわらず押して出場し、この見事な奮闘ぶりを示したのは、特筆すべき事であろう。」優勝のあと、持田は新聞記者や雑誌記者の追尾を巧みに避けて、いち早く朝鮮に帰ってしまわれたという。こうして持田範士の名声は全国津々浦々に鳴り響いたが、人に騒がれることのきらいな持田は、この時のことを人に語ろうともせず、ただ黙々と剣の道に精進されたという。
 その後、持田盛二の弟子である野間恒、望月正房が、昭和9年と15年の天覧試合で優勝している。
 昭和49年没、八十九歳、剣道十段 
 

剣聖 持田盛二先生頌徳碑・碑誌より
     
(前橋市グリーンドーム東駐車場・元スポーツセンター跡地)

 先生名は邦良明治十八年一月二十六日群馬県勢多郡下川淵村鶴光路(現前橋市鶴光路町)に善作氏の次男として生る。遠祖持田監物は神陰流の祖上泉伊勢守信綱等と共に上州箕輪城主長野信濃守業政に仕う、永禄中武田信玄に陥られこの地に来たりて帰農し世々農桑を以つて業とし、傍ら剣の道を伝う厳父善作氏は楳本法神流の免許皆伝なり、先生資性温厚克く父母に仕え寛恕克く人と交わり沈毅克く事を処す。幼少にして学を好み父に従って剣道を修め明治三十一年三月下川淵村高等小学校を卒業後昌覧学院に学び傍ら剣を武徳会群馬支部修め明治四十年三月大日本武徳会本部武術教員養成所に入り四十一年十二月卒業本部剣道科助手並びに京都府警察部剣道教師となり、四十四年九月武術専門学校助教授を拝命、同十月剣道精錬証、大正八年六月剣道教士、昭和二年五月剣道範士の称号を受く、四年五月御大典記念天覧武道大会には剣道審判員、並に剣道指定選士を命ぜられ、宮中に於て全国三十二人の剣豪と覇を競へ優勝し、宮中覆馬場に於て全国三十二人の剣豪を破り畏くも今上陛下より日本刀一振りを賜り、昭和の剣道史上燦と輝く光栄に浴す。尚昭和九年五月皇太子御誕生奉祝天覧武道大会、同十五年六月紀元二千六百年奉祝天覧武道大会には、剣道指定選士銓衡委員委員、並びに剣道審判員となり併せて名誉ある特選試合に出場を仰せ付けられ赫々たる名声を後世に残す。又先生は大日本武徳会京都支部教師、千葉武徳会千葉支部剣道主任師範、千葉県警察部剣道教師、東京高等師範学校剣道講師、朝鮮総督府警務局、京城帝国大学、警視庁、宮内省皇宮警察部並に学習院、陸軍戸山学校、慶應義塾大学、第一高等学校及大日本雄弁会講談社等の剣道師範全日本剣道連盟審議員、警視庁名誉師範等。今尚寸暇を惜んで東奔西走全国各地を巡歴して武道の為日夜努力を惜しまざるものあり、かくの如くにして昭和五年九月武徳会総裁宮殿下より二等有功章を、同十二年二月一等有功章を同三十二年三月警察庁長官より警察功績章を警視総監より感謝状を贈られ又客年十一月には紫綬褒章下賜の栄を賜る等剣道界に尽せる功績はまことに大なるものあり、依って先生の徳を慕い喜寿の齢と紫綬褒章の拝受とを記念し、全日本剣道連盟の行う記念祝典の一環として其の人徳と偉業を顕揚し範を無窮に伝えんとす、頃日群馬県剣道連盟の提唱に基き賛同者多数の力を得て頌徳碑建設するに当り文を余に需む余此の美挙に感じ敢て辞せず茲にこの文を草す。
           昭和三十七年十一月三日                            
                        群馬県知事 神 田 坤 六 撰

(昭和37年建立時の持田盛二先生頌徳碑)