昭和天覧試合の制覇!

 昭和四年の第一回昭和天覧試合に優勝した持田盛二は、当時朝鮮総督府の師範でしたが、翌昭和五年八月に懇請されて東京音羽の野間道場の師範として招かれ、同時に講談社社員となりました。持田氏が師範を務めた野間道場からは、持田氏が優勝した天覧試合の後、戦前に二度行なわれた天覧試合で全て優勝者を出しています。法神流の父を持つ持田氏は、誠に上州男児の真骨頂を発揮したといえますが、持田氏の愛弟子の活躍もまた法神流にとって大きな誇りといってよいでしょう。

 野間道場は、群馬県山田郡新宿村(現桐生市)出身で出版社講談社を創立し「雑誌王」といわれた野間清治氏(1878〜1938)の熱意によって、大正末期に創設されました。学生時代から剣道と文筆と演説に熱狂的な興味を持っていた野間氏は、「剣道即人生」を標榜して「剣道の全てが、真に人間完成の至上道である」と説き、剣道によってもたらされる大調和の世界を追い求め、社員にも剣道を奨励しました。
 大正十二年、令息恒氏が十五歳で有信館に入門し、剣道修行を始めました。その後、教師として安部義一氏、和佐田徹三氏を招き、十四年には増田真助氏が師範権社員として入社され、講談社の剣道は活況を呈し、その年の秋には野間邸内の裏の森に幅五間、奥行き六間の道場が建設されました。
 戦前、東都四大道場と呼ばれた民間道場がありました。小野派一刀流高野佐三郎の明信館・修道学院、神道無念流中山博道の有信館、石井三郎が創設した皇道義会、剣道社長として評判をとった野間清治の野間道場でした。いずれも規模内容からして四大道場にふさわしく、多くの名剣士が学びました。しかし、戦前の剣道には流派にこだわる風潮がまだ残されており、異なる流派とは剣を交えることが少なかったのですが、野間道場は広く門戸を開き、全国各地から参集する多くの剣士に修行の場を提供していました。
 こうした中、天覧試合で優勝した持田盛二が招聘されると、教えを請う剣道愛好家が東京はもちろん全国から野間道場を訪れるようになりました。毎朝の稽古には持田範士を筆頭に、増田真助、八木参三郎、大野友規、桑田福太郎、大畑郷一の各専任の先生をはじめ、教士の先生方は四、五十名に達し、稽古も外来剣道家をはじめ、少年剣士、女性剣士を加えると百名を超える盛況となりました。道場も増築を重ね、稽古場だけでも幅五間、長さ十六間という民間道場としては日本屈指の立派な大道場となり、年とともに発展していきました。
 昭和九年、野間道場史を飾る快挙がありました。それは、皇太子殿下御生誕奉祝天覧試合で、野間恒氏が東京府代表選士として優勝を勝ち得たことです。これによって、いよいよ講談社の剣道が名実ともに高く評価されるようになりました。
 さらに昭和十五年、紀元二千六百年奉祝天覧試合が行なわれ、指定選士として講談社野間道場師範増田真助が出場、また府県選士東京府代表として講談社社員・望月正房(群馬県富岡市出身)が出場、師弟そろって優勝の栄誉を担い、野間道場の名声を天下にとどろかせました。
 しかし、第二次世界大戦も末期になると応召者も多く、稽古をする人員も次第に少なくなり、昭和十九年頃には戦争も苛烈となり、自然に道場から竹刀の音が消えていきました。終戦とともにGHQの命令で剣道は中断されましたが、昭和二十七年東京都剣道連盟が組織され、剣道人口も増加してきたので、野間道場も三十七年秋から再び一般愛好者に開放されました。当時も持田盛二範士(十段)、佐藤卯吉範士(九段)、増田真助範士(九段)を中心に、多数の剣道愛好者が集まり野間道場は盛況を取り戻しました。
 現在も、野間道場は講談社剣道部の管掌のもと、文武両道に秀でた師範を迎え、多くの会員を数えています。(参考:野間道場のしおり)