○文化は山から里へ

  赤城の大沼から流れ出る沼尾川が、東から西へ流れて利根川に注ぐまで約12キロメートルの間、潜下、深山、日陰、久保、南雲、年丸などの部落が発達してきた。
 これまで縄文時代の遺跡が、日陰橋から坂上の寺後一帯、南雲小を中心とした東西に細長の段丘地帯、藤木、津久田から狩野々へ通じる南雲沢で確認され、寺後から南雲沢へと発展していったことが伺われている。私たちの先祖は、水害の不安がなく、しかも湧水に恵まれて水に便利で日光に恵まれた場所、その上食糧の生産にも都合の良いことを条件に適地を選定していることが知られる。
 しかし、鈴ヶ嶽西麓の真藤地内でも石斧が発見されるなど、ある学者が「文化は山から里へ、里から山へかえる」と言ったということだが、文化の流れる道路などを考えても、山から順次川へ下ってくるが、再び川から山へ上っていくような気がしてならない。わが郷土の道路にしても、古い道から次第に中世の道、更に近世、現代の交通路を考えて今日の道は再び山へ戻りつつある。 

○文化の流れる道の変遷

  石器時代や縄文時代の遺跡が本村各地に散在し、信州諏訪産とも思われる黒曜石も見られる
 ことから、狩猟や漁労、石器の材料を運ぶために人々が、太古の時代から移動したことは間違い
 ない。しかし、本村は東には赤城の峻峰、西方に利根の大河があって徒渉を許さない。こうし中、
 平常山野を跋渉の経験から自然に安易な路線を発見し、つぎつぎに誰もがそこを通行するため
 に自然に道路を形成したものであろう。
  さらに、南上州から利根郡に通じる道路は、三国街道を除いては子持山東腹を通ずる十八坂の
 険路のほかは、本村の長井小川田から長井坂によるほかはなかった。このため、上杉謙信が永
 録年間に東上州を進攻した際も、三国峠を下って猿ヶ京に出て、沼田を経て久呂保から本村に入
 り、長井坂を上って長井坂城に入り、関東の諸将を引見したことが各種の史書に明記されてい
 る。また、沼田を経て尾瀬を越え、会津地方に通じることからも重要視されることになった。

 1 赤城山頂に近い道(古道)
   富士見村箕輪から六道の辻に登って大ダオに至り、モロコシ山、キズ山の裾をめぐり、鈴ヶ嶽
  の西北麓から鷹の巣を経て、赤城山頂に近い北東に出て、利根郡の東入方面から会津若松に
  通じたものらしいが、現在は極めて部分的にその痕跡を止めているに過ぎない。  
 2 鎌倉道(中世の道)
   古来鎌倉道と伝承されていたが、開設の年代を明らかにしない。会津方面から利根郡中の栃
  又、尾合、砂川方面から当村内へ入り、シゲジュウから赤城山中の潜上に出で、潜下に下り、中
  山、五郎屋敷を経て九十九曲りから羽端の松に出で、横野村地内の原野を過ぎて富士見村に
  入るものであった。
   平安時代から室町初期までは、深山の潜下、五郎屋敷などは、交通の要所でかなり栄えてい
  たものと推定される。深山の奥に「寺屋敷」の地名があり、古い五輪塔が数基発見されている。
  いつ頃のものか、寺があったのどうかなど全く不詳であるが、仏教文化の最初の遺跡であったろ
  う。潜下には、ハムシ除け(ハムシは養蚕を喰殺する甲虫)の潜下観音が洞窟の中に安置され
  ている。
 3 石井街道(近世の道)
   鎌倉道から西方約2キロメートルの地点で、富士見村から横野村の沖門、穴山窪を上下し、丸
  塚の西方を北上し津久田の原を北に貫き、深山芳ヶ沢の南原開拓地の上端から芳ヶ沢の中程
  を貫き、五領坂を下り、深山芳野曲輪から沼尾川を渡り、岩根の中程を屈曲して登り、岩上、山
  鳥、大平、浅窪を経て、白井野原を横断して利根郡内の青木、砂川通りに通じている。
   徳川時代、溝呂木村に問屋があって、駒の口銭を徴収したが、これを免れるために、ひそか
  にこの山道を通った者もあった。
 4 沼田前橋道(近世の道)
   沼田往還、沼田街道、または中仙道の本庄から分かれて同道の脇往還ともいわれた。江戸時
  代においては、当村の道路中、最も重要視された通路で、江戸へ直結、沼田城主の参勤交代
  のほか、巡検使の通路であった。沼田から森下、南雲、溝呂木、米野と四か所の本陣を経て、
  前橋へ至るもので、利根郡久呂保村川額の日向長井から日陰長井に移り当村に入る。長井坂
  城址から棚下原を南へ雲雀塚の芭蕉句碑を過ぎ、長井小川田の原、今宮を過ぎ藤木の軽浜坂
  から寺後下り、辻に出で、本陣と問屋があった。この辻は、久保の字と共に辻久保と称し、問屋
  は久保に跨り宿場としてにぎわった。辻久保から南へ沼尾川を渡って海老坂を上り、小川田か
  ら更に山道を登り南雲の南原を松ノ木坂にいたり今窪を越え、南西に津久田の原を貫き、北上
  野、勝保沢部落の上を過ぎて、溝呂木の宿にはいる。幅4メートルないし6メートル以上に及ぶと
  ころもあり、一名並木通りともいい、両側には松の並木があって一般の交通はもちろん、物資輸
  送には江戸時代における随一の街道であり、道中奉行の規定によって必ずこの道でなければな
  らなかった。   
   この道も交通の重点が利根川沿いに移動した明治以降は自然に廃れたが、近年、国道353
  号線の一部として、にぎわいを取り戻しつつある。   

○長井坂城の攻防・・・須田加賀守の登場

  赤城山西麓は、戦国時代末期、上杉、武田(真田)、北条氏の争覇上の要点であった。とりわ
 け、長井坂城は戦略上の重要拠点で、三氏の火の出るような激戦がしばしば行われた。
  永録三年(1560)には、上杉謙信その人が長井坂城まで進攻してきて、沼田城主を降伏させて
 いる。さらに時代が下って、天正八年八月には、武田勝頼の重臣・真田昌幸(沼田在城、幸村の
 父)が 長井坂城を攻撃したため、北条方の須田加賀守らは白井の本城へ退出し、要害を明け渡
 している。しかし、翌年十月には、昌幸の家臣・恩田越前守が200騎ほどで守る長井坂城を、北
 条方は5千余騎の軍兵で攻撃し、激戦の末取り戻している。そして、この後は宮田の住人・須田加
 賀守が長井坂城を預かっている。
  さらに、武田氏の滅亡の後、上野国は織田信長の重臣・滝川一益が支配するところとなり、一益
 は厩橋城に着任した。しかし、その二ヶ月後に本能寺の変により信長が倒れたため、一益は本国
 伊勢に引き上げることになった。この折に、一益の甥・儀太夫が城主であった沼田城を元沼田城
 代・藤田能登守が攻撃したので、一益は激怒し自ら二万の大軍を以て長井坂城に陣取った。藤田
 能登守は、目にあまる大軍を前後に受けながら激しく戦ったが、ついに破れ、越後の上杉景勝を
 頼って落ち延びた。 

○深山村の発展

  現赤城村では、深山村の発達は古い。深山村の名称を付けたのは、元禄二年(1689)に長井
 小川田村から分村した時に始まるが、大部分は須田氏一族で、戦国の頃に信州須坂から移住し
 て栗屋に居住したが、時を経て現在地へ移ったと伝えられている。最初の移住地には今もなお、
 氏神十二神社がまつられている。この須田氏は次第に発展して、寛永の頃、その一族が津久田
 村の小池原部落を占め、栗屋の十二神社を分祠して氏神とし、その際石灯籠一基持参したとい
 われる。現在も大切に保存されて、氏子の信仰を得ている。さらに南延して、樽村の須田氏や富
 士見村小暮の須田氏一族となった。深山村に勢多郡北部須田氏の根拠があったことは間違いな
 い。

○「須田」氏発祥の地

 赤城村のいちばん奥まったところにある大字深山は、かつては全戸須田だった。信州須坂城主須田加賀守がここに移り住んだと伝え、ここの須田が、赤城村約200戸、北橘村約30戸、富士見村約80戸にひろがったという。
 しかし、右の須田加賀守は宮田に住み、道苗新左衛門とともに小田原北条氏の旗下の氏。また隣村樽にも北条旗下の氏がおり、長井坂城、不動山城などで大活躍しているので、いずれが古かったのか簡単に決めかねる。
 深山の鎮守は、金山八幡宮であるが、もと山の神である十二様だったのではないかと思われる。津久田などの須田氏は、氏神を十二様としている。また、須田氏には、「須田にしめなし」の家例がある。先祖が江戸城普請に忙しくて、正月のしめをつくる余裕がなかった。それが、家例となったというのである。須田氏が各地に分派していくさい、右の氏神と家例をもって各地に小集落を形成した。これによって同族を知ることができる。家紋:五三の桐 (都丸十九一、上州の苗字と家紋より)



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