勢多郡赤城村深山に生まれて、晩年は沼田市倉内町に住んでいた和算家に須田浅造という人がいた。常にそろばんと書類を入れた風呂敷包みを背に負い、興至れば路傍と砂上とを問わず、尻を下ろしてそろばんをはじき、書物を披見して時の移るのも知らなかった。中年以後は、沼田市に居住し占卜者のような生活をし、その卜占も相当に上手であった。深山の鎮守金山宮を族にお天狗様といって、古来非常ににぎわったことから、或いは自らその天狗を看板としたのかも知れない。そのためか、郷人は彼を呼んで「浅天狗」と呼ぶようになった。
 須田浅蔵の和算の師匠は萩原禎助である。浅蔵が二八歳であった文久二年には、萩原の門人としての記録がある。そして、慶応二年に萩原が著した「算法円理私論」という最高級の算 学書の校訂を行い、附録には「関流宗統九伝 須田由親門人自問自答」として三人の門人の算題解をのせている。由親(よしちか)は浅造のいみなである。この年に、彼は三十二歳であったが、すでに師匠から免許皆伝されていたのである。
 また本書の附録には、浅造が慶応三年三月の日付で勢多郡金山宮に奉納の算額が載っている。しかし、実際の奉納は数年後の明治五年九月であった。勢多郡赤城村深山の集落の一番奥に曹洞宗双永寺があって、その東で二、三十メートル高いところに金山宮がある。金山宮は、古来から武士の信仰が深く武芸者が参籠して修業し天狗飛び切りの術に通達したので「お天狗様」といわれるようになったらしい。
 須田浅造が奉納した算額は、境内の宝永堂に掲げてあったが、現在は双永寺の本堂に保管されている。算額には算題が三問あって、訂正者として賓客二名、門生四名の名前がある。賓客の二名は星野理兵衛と青木与三郎である。青木は、船津伝次平の門人で、彼の子孫の前橋市嶺町の青木家に、須田浅造の稿本が残っている。与三郎の孫の青木弥三郎が須田浅造に入門して、沼田まで通って和算を習ったからである。



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