1 天地真理の青春の日々

 天地真理の経歴に「空白の一年」というものがあります。マスコミが勝手に名付けたものですが、デビュー当時、渡辺プロが彼女の年齢を1年若く18歳と発表していたために生じたものです。18歳なら高校卒業後、すぐにデビューしたことになりますが、後に19歳と訂正したので、そうすると高校卒業後の1年は何をしていたか、ということになり、詮索の的になったのです。それが有名人のアラを探すことをなれわいとして金を稼いでいる下劣な芸能マスコミに付け入るすきを与え、例の全く根も葉もない噂が振り撒かれたりもしたのです。1年若く発表していたことはプロダクションの作戦だったわけですから、彼女に責任はないし、私の記憶では当時はそう珍しいことでもなかったのです。また、この噂自体誰が考えても荒唐無稽で何の証拠もないわけですから、記事になること自体あり得ないことですが、当時の(今もそうかもしれませんが)マスコミは大衆の覗き趣味に迎合して興味を引き売上を伸ばそうと何でも記事にしていたのです。だから名誉棄損で訴えれば当然勝訴になったでしょうが、渡辺プロをはじめ、古い体質の芸能プロダクションはマスコミとの関係を“持ちつ持たれつ”と考えて、所属タレントの人権を守ろうとしていなかったのです。そのためこの噂は誰も信じていないにもかかわらず、折にふれてマスコミが彼女を貶める話題として蒸し返されることになりました。渡辺プロの愚かな作戦が生んだ1年間の「空白」が彼女を長く苦しめることになったのです。
 では彼女はこの1年間、何をしていたのでしょう?下の表を見てください。これは1970年(昭和45年)のヤマハ音楽振興会主催第2回ポピュラーソングコンテスト(通称ポプコン)(当時は「'70 作曲コンクール」という名称)の入賞曲を除いた応募曲です。(詳しくはhttp://www.yamaha-mf.or.jp/history/e-history/popcon/pop2.html)

曲名 作詞 作曲 歌手
ラブ 岩田 純子 岩田 純子 ひろせ のりこ
恋は日曜日に 邑田 善之 邑田 善之 尾崎 紀世彦
風船が運んできた恋 M.藤原 西 伸生 松村 幸子
LAND OF OO Joan Wigness Joan Wigness マックス
何故に No No Mini エブラハム オーヤン 沢村 和子とピーターパン
恋人でなくても 大村 芳英 ゴトウ シンキチ 高原 みどり
誰もいない島で 前田 静子 杉浦 栄次郎 本田 路津子
FEELING HAPPY Mary Jo Minkler Mary Jo Minkler 沢村 和子とピーターパン
小さな私 田上 えり 田上 みどり 藤田 とし子
ある晴れた日に 安井 かずみ 佐瀬 寿一 安藤 京子
JUNTOS Rosa H.Rocha Graciela Agudelo ミカ沢田
雨の日曜日 林 譲治 大西 正洋 弘田 三枝子
眠りの精 平尾 啓子 平尾 啓子 はつみ かんな
DANCING BALLOONS Betty Hiskey Betty Hiskey 森 朋子
OTHERWISE June Chun June Chun 斉藤 マリ

 この表の9番目にある「小さな私」という曲の作詞・作曲者を見ると「田上えり、田上みどり」とあります。つまりこの曲こそ「水色の恋」の原曲なのです。この時は別の歌手が歌ったのですが、これを真理さんが気に入っていて、結局彼女自身のデビュー曲になったというのは(少なくとも彼女の全盛期には)よく知られたエピソードでした。ではどうして彼女がこの曲を知ったのか?上の表の最後の行に「OTHERWISE」という曲があります。その歌手が「斉藤マリ」となっています。これこそ後の天地真理さん(本名:斉藤真理)です。どうしてこのコンテストで歌うことになったのか、具体的には知りませんが、高校3年の時からヤマハミュージックスクールの夜間コースへ通い、特に高校卒業後は昼間コースに移って本格的に学んでいた(マーサ三宅についていたようです)関係で、ヤマハ主催のこのコンテストで歌うことになったのでしょう。
 彼女はこのように高校卒業後、自分で研鑽を積んでいたのです。彼女の母校が国立音楽大学付属中学・高校ということはよく知られています。小学校2年生の時からピアノを習い始め、中学ではピアノ科に入学します。母子家庭で家計も苦しい中でお母さんがピアノを習わせたのは、将来ピアノの先生になって生計が立てられればという気持ちがあったようです。期待に応えて彼女はかなりの腕前にはなったのですが(これはセカンドアルバムの付録レコード「ピアノと私」で確かめることができます)、手が小さくそれ以上の上達はあまり見込めないということ、それにそのころから歌に興味がわいてきたことから高校では声楽科に進んだのです。しかしそれはもちろんクラシック音楽の声楽で、次第にフォークソングに惹かれてきた彼女は、学校での勉強にあきたらず、フォークソングのクラブに加入し、早稲田大学のフォークソングクラブとも交流していきます。そして卒業にあたって、大学へのエスカレーター進学ではなく、あえて畑違いのポピュラー歌手への道を選んだのです。安定した道ではなく、自分の夢を選んだのです。今でこそこういうことは珍しくありませんが、当時でいえばこれはとても勇気のいることだったと思います。
 高校卒業後は上述のように、昼間はヤマハミュージックスクールに通い、夜は渋谷(青山?)のスナックでアルバイトをして授業料を稼いでいました。スナックでは、時にギターを弾きながら歌うこともあったようです。この間、毎日座間の自宅から電車で通う毎日でした。また、ヤマハミュージックスクールでは、時々数人でバンドをつくり各地の支店を回って演奏するという活動もあり、8月には発表会があったようで、そういう活動の中で認められて11月のコンテストに出場するようになったのかもしれません。また、ファーストアルバムに載っている経歴では大阪万博の電気通信館で司会をしたとあります。この万博は1970年の3月から9月まで開かれていましたから、たしかにこの年ですが、どういう経過で司会をすることになったのかはわかりません。ともかくいろいろのことに挑戦し自分の力をつけようとしていたのでしょう。このように、“空白の一年”はマスコミが何の根拠もなく騒いだようなものではなく、堅実に働きながら歌を学ぶ日々だったのです。   
 彼女は「時間ですよ」への抜擢によって、幸運に恵まれてスターになった“シンデレラ”のように思われていましたが、実は、自分で道を切り開こうと努力を重ねる下積みの日々が(長くはなかったけれど)あったのです。その点では、たとえば地元沖縄のテレビ番組に出演していてスカウトされた南沙織さんの方がシンデレラというにはふさわしいでしょうし、宝塚音楽学校を首席で卒業して最初から芸能界のエリートコースにのっていた小柳ルミ子さんと比べれば、ずっと不利な状況からのスタートだったのです。デビューのきっかけになったのはこの年の6月、ヤマハミュージックスクールの友人とTBSの「ヤング720」に出たことがきっかけでした。この時、彼女は「遠くへ行きたい」を歌ったそうですが、それがCBSソニーのディレクターの目にとまり声を掛けてきたのです。それでも彼女にはためらいがあり、いろいろ相談した結果、11月にデビューへの意志を伝えたと言われています。上記のポプコンは実は1970年の11月5日に行われたのですが、それは奇しくも彼女の19歳の誕生日でした。それがデビューへの決意の前なのか後なのかわかりませんが、深くかかわっていたことは間違いないでしょう。
 彼女のデビューへ至る経過は、「時間ですよ」オーディションでの落選からの復活劇があまりによく知られていますが、夢へ向けて何の頼るものもない未知の世界へ歩み出した彼女自身の決断と、その実現へ向けての地道な努力と挑戦がまずあり、それに幸運が呼び寄せられてきた、というべきではないでしょうか。その2つの糸が結びついたところに位置したのがこのポプコンで、そこで出会った曲がのちのデビュー曲になったのです。
 これらの事実は決して私が特に調べ上げたことではありません。すべて当時からよく知られていたことです。「平凡」「明星」「近代映画」といったアイドル雑誌では当たり前に書かれていたことです。ところが(大人の)週刊誌はそういう事実を無視して「空白」を捏造したり、彼女の努力は捨象して「幸運」だけを強調したり、虚像をつくりあげていったのです。マスコミはよく彼女を「つくられたアイドル」などといいましたが、「つくった」のはマスコミ自身で、いわば自作自演だったのです。マスコミは“空白の一年”と呼びましたが、真実は、彼女が夢へと向かって一歩一歩歩んでいったつつましい“青春の日々”だったのです。

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