バーバラ・アンダーソンの発見(1)

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バーバラ・アンダーソン著 2009年1月15日(木) 日本語訳:Sayed Faraj

バーバラ・アンダーソンは、1954年から1997年までエホバの証人でした。 そのうち、1982年から1992年の間は、ニューヨーク、ブルックリンのものみの塔本部で働いて、特に最後の3年間はものみの塔の歴史を調査し(1993年に発刊された”エホバの証人-神の王国を告げ知らせる人々”-日本語版では”ふれ告げる人々”)と、雑誌「目ざめよ」の記事を多く、書いていた。
特に、彼女はエホバの証人の中に起きた「児童に対する性的虐待」について集中して調査を行なった。 これが、後に全米の主要テレビ、ラジオ番組で、彼女が「エホバの証人の児童への性的虐待に対する取扱方針」について、遠慮なき批判者として紹介されることにつながったのである。

 <題目>

1.ものみの塔本部内部にて、欺瞞を見た元エホバの証人

2.結婚

3.疑いを持たない献身

4.わくわくするボランティアへの誘い

5.世界的な拡大

6.ウオーター・フロントの30階建てビルの建設

7.調査の機会

8.驚くべき発見

9.オリン・モイル訴訟事件

10.答えを探して 

11.忘れられない人達

12.女性に対する敬意

13.目ざめよ! 性的虐待の記事についての議論

14.ものみの塔の児童性的虐待問題

15.専門療法とは何か?

16.“抑圧された記憶”と多重人格障害(Multiple Personality Disorder- MPD)とは何か?

17.ものみの塔本部の混乱した助言

18.テネシーの我が家へ

 以降の記事は、バーバラ・アンダーソンの発見(2)をご覧下さい。





1.ものみの塔本部内部にて、欺瞞を見た元エホバの証人


人生の転換

私は、1940年にニューヨーク州、ロング・アイランドにポーランド系カトリックの両親の間に生まれた。 私は、経験もなくて不満な日々を送っていた14歳の時、生涯のチャンスを狭めてしまうことになる、そしてその後44年の行方を決めてしまう選択をした・・・・最も攻撃的で議論されることの多い宗教団体、エホバの証人のメンバーとなった。 そして、これが私の生活の中心となった。

私は、考古学の勉強をしたいという願いを、捨てざるを得なかった。 なぜなら、この宗教団体は高等教育を禁じていたからである。   布教活動が教育よりも大切とされていた。

私は、友達を選ぶにしてもエホバの証人、結婚相手もエホバの証人と心に決めていた。

ぜ、若い娘が、こんなに一生を管理されることを納得したのだろうか?   若いがゆえの理想を持っていただけでなく、退屈でもあった。  この世界の問題を解決するために貢献をするには、私は若すぎたが、同時に必死にそれを求めていた。   このことから、私の心はエホバの証人からの聖書の研究の誘いを受け入れるように、開かれていた。

そんな時、エホバの証人は、善と悪、その他、命の不思議について説明できると言っていた。
まもなくして、私は熱心にエホバの証人の信仰を抱くに至った。  若くて、うぶで、騙されやすい、当時の私は、心が操られていたことをどうして知りえたであろうか?

何十年にもわたって、非常に巧妙に工夫され研ぎ澄まされた教化の方法によって、すべては健全であると、私に確信をいだかせたのである。

他の誰もしらないことを、説得力ある言葉で話す証人達から、私は必要とされていると感じて、私は自立しているという自覚を持ち、且つその考えに魅了された。

そしてエホバの証人の仲間意識によって自信を持って、批判的な態度のカトリックの親族や友達に対抗する力を与えられた。

3ヶ月の聖書研究の後、私は喜んで家から家への野外活動に参加した。 
9ヶ月目に私の母と共に、バプテスマを受けた。
2年後、私の熱意によって少なくとも5人の成人がエホバの証人になった。

1956年、私が16歳の時、インドへ行く計画を立てていたのですが、その時、ロング・アイランドに住んでいたある女性の証人の伝道者から、夏の2ヶ月間、オハイオ州アテネの近郊で「開拓伝道」、又は「全時間伝道」として奉仕するので、一緒に来ないかと誘いを受けた。

そのアテネ地区は、約15年前の第二次世界大戦中に、一部の愛国者達が、国旗に敬礼することや戦争協力を拒否するエホバの証人達にコール・タールを塗りつけ、鳥の羽を付けるリンチをしたことで知られていた。

私達が野外奉仕をしていた時、ある一人の男に「すぐにこの敷地から出て行け、さもなければ、何年か前にやったように、家から銃を持ち出して、この地区から追い出してやる。」と怒鳴られた時は、ちょっと怖気づいた。

以前には、このように脅されることはなくて、私達は熱心に野外活動をしていた。
秋になって、学校に戻った時は、重苦しく憂鬱であった。 なぜなら、この世界は何時、終わるかも知れないことを学び、一日も無駄に過ごすことなく、伝道をしなければという思いがあったからである。
数ヶ月後、私の家族はフロリダ南部に引越して、そこで私はエホバの証人の新しい友達を得た。

2.結婚

1957年、17歳の時、私は2人のフロリダ出身者と一緒にチームを組んで、ミシシッピ州コロンバスでの宣教活動に就くことにした。  コロンバスは、大学の町であり、学生達がほぼすべてのパート・タイムの仕事を牛耳っていた。   
3ヶ月たっても、私達は仕事を見出すことが出来ず、がっかりして失望した。

私達はフロリダに帰るよりも、ニューヨークに行くことを決めた。  ニューヨーク、ブルックリンのものみの塔本部で、ボランティアを必要としていることを知っていたからである。
ちょうど、1958年にヤンキー・スタジアムとポロ競技場において、大規模なエホバの証人の国際大会開催に向けた準備が進められていた。

私達は、住むアパートとパート・タイムの仕事を見つけるまで、エホバの証人の友人達の家に厄介になった。  そして毎週のうち数日はニューヨーク、ブルックリンのものみの塔本部での仕事のため30マイルを通った。

私はニューヨーク大会の数ヶ月前に、ジョー・アンダーソンと出会った。
彼の母親、バージニアは、私と同じく、ロング・アイランドのハンプステッド会衆のメンバーであった。 そこで、彼女は私達を紹介してくれた。  ジョーの祖母はエホバの証人ではあったが、最低限度の関わりしか持たなかったので、その子供達の多くは、エホバの証人に対して傍観者であった。

ジョーが16歳の時、両親はフロリダ州のタンパから、テキサス州、ダラスに引っ越した。
そこで、ジョーの母親は王国会館に通い始めた。
ジョーの父親は酒飲みで暴力的であり、エホバの証人には、全く関心を持たなかった。
熱心な証人が、ジョーを説得し、結果、ジョーは仲間2人と共にダラスで3年間、宣教活動を行なった。 しかし彼の姉妹2人は、しばらくしてエホバの証人を離れた。

(当時は開拓者は一月100時間を、エホバの証人以外の人と聖書を研究することになっていた。 現在は、70時間になっている。 又、開拓者は、生活を支えるためパート・タイムの仕事を持っていた。)


1956年、ジョーは、エホバの証人が「ベテル」と呼ぶ、ニューヨーク、ブルックリン・ハイツにおいて、ボランティアとして住み込み働くことになった。 この建物は、「ものみの塔聖書冊子協会インコーポレーティッド“通称ものみの塔協会”と言われ、エホバの証人の世界本部である。 ジョーはここで1956年から1959年までの間、印刷工として働いた。
1958年に私が会ったときには、ジョーはこの仕事をしていた。

1959年11月に結婚した後、私達はフロリダ州、ウエスト・パーム・ビーチにおいて、私が妊娠し1961年9月14日に長男のランスを生むまで、そこで開拓伝道をした。


3.疑いを持たない献身

私の夫は、私達夫婦の属する会衆の統括監督(長老達の長)として、単に説教だけでなく、野外宣教に共に歩くことにおいても、群れを導き、合計25年間の開拓伝道の奉仕をしていました。

私達、夫婦は熱心な信者として数年の間に80人以上の人達をエホバの証人の信仰に導きました。
1974年、私達夫婦は、南フロリダから来た数十人のエホバの証人と共にテネシー州に引越して、新しい会衆を設立した。


私は、一番初めから、ものみの塔の教義とその考え方を信じていた。 というのは、1950年代の冷戦、核シェルターといった極めて不安で、不安定な時代にあって、命、死、戦争そして平和という古くからの問題に対して、ものみの塔は聖書的解答を持っていると思ったからである。

年が改まるにつれ、世界の情勢は、エホバの証人が言うように、世の終わりが差し迫っていて、ますます困難な状況に直面している時代であると感じられて、私は正しい選択をしたのだと確信した。

1960年代の中ごろ、ものみの塔の組織の指導者の発言によれば、1975年にこの世の事物の体制が終わるとの情報が伝わった。  
私達は、エホバ神に充分なことをしていないとの不安にかられて、
1968年に、ジョーはフロリダ電力会社を退社して、私と共にパート・タイムの仕事に就いて、共に開拓伝道の奉仕活動をした。  ジョーは3年間、私は1年間であったが、私は可能な限り、月ごとに参加したり、しなかったりという奉仕であった。 
して、終末の年、1975年が来て、何事もなく過ぎたが、私達は、この信仰をあきらめるには至らないほど、のめり込んでいた。


4.わくわくするボランティアへの誘い

1982年に、私達はものみの塔から、ブルックリンのベテルメンバーとしてボランティアの仕事の誘いを受けた。  そこでは、部屋と食事をあてがわれ、わずかながら労働に対する手当てが支給された。  その1年前に、当時19歳の息子ランスが、ベテルのボランティアとして受け入れられていた。
息子は、ものみの塔の数ある印刷工場の中で、年間、数億冊のものみの塔の発行物を印刷する最高速印刷機の担当を当てられていた。

私の夫は、ベテルに招かれる理由があった。 1982年に私達が息子を訪ねた時、ジョーは、1950年代に仕えたことがあり、その当時、ものみの塔の上部の幹部で印刷機械の監督をしていた、リチャード・ウイーロック氏に挨拶をした。   その際、ジョーが配管工であることを聞いたリチャード・ウイーロック氏は、私達をものみの塔本部に来て仕事をするようにと、働きかけた。

ところが、リチャード・ウイーロック氏は、それから8年後の75歳の時、1990年7月25日に、私達の住んでいた建物の3階から飛び降りて自殺をしてしまった。  彼は5年前に妻を亡くしてから、重い神経衰弱に苦しんでいたのである。

数ヵ月後に、私達の仕事が変わった時、なぜ、リチャード。ウイーロック氏がジョーの技能に興味を持っていたかが分かった。   大部分のものみの塔のスタッフを含めて、ブルックリンの地元住民に知られないように、フォーマン通りにあるイースト・リバー沿いの旧いブルックリンの工場を買収する話が水面下で行なわれていたのである。  この放置された建物は巨大で百万平方フィートの敷地があり、第二次世界大戦中は戦車を製造していた。 特に巨大なエレベーターがあり、大型トラックで13階まで上り降りができるものであった。 買収が終わって間もなく、息子はアダム通りの印刷工場から、フォーマン通りの建物に持ち場が変わり、この巨大エレベーターがどのように建てられ、どのように修理するのかを学ぶことになった。

(因みにこの建物はボランティアによって修理改築された数年後の2004年4月に売却されて、ものみの塔は、莫大な利益を得た。)

更に、ブルックリン・ハイツのダウン・タウンの古い歴史のある地区の一画のモンタギュ通りにある荒廃した建物で1902年築のボッサート・ホテルを、買収する計画が秘密裏に進められていた。

買取の窓口となるのは、コヒ・タワー&アソシエイツといって、金持ちのエホバの証人達によって設立された組織である。 この建物はものみの塔が使用するためのものであった。
コヒ・タワー&アソシエイツを介在させる目的は、第一に建物の買収にものみの塔が関与していることを隠すためであり、第二に、またもや新しい建物がものみの塔の持ち物となることによって、課税対象から外されてしまうことを、地元の反対グループに悟られないためであった。

コヒ・タワーの所有資産であるボッサート・ホテルの固定資産税を減らすために、この建物が歴史的地区の建物であることを州政府に登録する必要があるが、当時、私はその登録に必要な情報を報告する業務を与えられていた。  しかしながら、私の業務が終わって数ヵ月後に、私はコヒ・タワーはこの建物をものみの塔に譲渡したことを知った。  今日に至るまで、ものみの塔はブルックリン・ハイツに20近い住居用のビルを所有している。   なお、2005年には、幾つかの建物が売却に出され、効率化のためのダウン・サイジングが行なわれている。

1982年3月のある土曜日の朝、私達がベテルを訪問した時、多くのボランティアの方々が、いくつかの建物の修復作業を行なっていた。  そして、ものみの塔が数年前に取得した歴史的な12階建のスタンディシュ・ホテル(1902年創業)の修復作業に取り掛かろうとしていた。
これらの不動産取得に伴い、経験のある配管工が必要となることを、念頭において、リチャードは私達をものみの塔の幹部との面接を用意したのである。  この朝までに、ものみの塔ブルックリン本部のスタッフとして採用されたのは、2,000人以上にのぼった。
11年後に私達がテネシーに帰る時には、その後の1980年代、1990年代初頭のエホバの証人の組織のとてつもない成長によって、ベテルのスタッフの人数は約3,300人以上に達していた。  

新しい冒険を求めて、私達は、自宅に戻って、整理をしてから、1982年6月にニューヨークに帰った。  ジョーは配管敷設部門に配属され、そこで古い建物箇所を取り壊して配管を修復する作業を行なった。  私はテープの複製部門で働くことになった。  数週間後、私は仕事に関連する化学物質によって、重い呼吸器アレルギー症状を起したため、配送部門に転属となり、そこでデータの入力作業の仕事をした。



5.世界的な拡大

1年後、私は建設設計部門のスタッフとして秘書として養成された。  この部門は100人以上の人員がいて、設計者、技術者、建築者、秘書、その他の業務を行なっていた。
これらの人達は、エホバの証人が最も急成長していた時代において、世界中のエホバの証人が使う建物の建設、修理、調査、設計、その他何らかの形で関与していた。

私がこの部門に勤め始めた頃、ニューヨーク州、パターソンの広大な土地がものみの塔の所有となった。   こんな不動産をどのように利用するのかよく分からない内に、教育センターとして利用することが決められた。  この開発のために当初、用意された資金は5千万ドルであった。  

私が1989年にこの部門を離れた時には、約1億ドル以上が費やされたが、今なおブルックリン本部が手狭になるにつれ、更に拡大されている。
エホバの証人の統治体の事務所は引続きブルックリンにあるが、パターソンが、ものみの塔の幹部が全世界の組織を指導する中枢部門となりつつある。


6.ウオーター・フロントの30階建てビルの建設

その後、私は一人の建築家の秘書となったが、その建築家は、ブルックリンに30階建ての住居用ビルを設計していた。
ある午後のこと、私がものみの塔事務所のエレベーター・ホールで一人でいた時、統治体メンバーの一人であるジョン(ジャック)・バー氏が近づいてきた。   共にエレベーターを待っている時、ジャックは、私の仕事について尋ねた。  私は、技術部門は現在、環境に対する影響についての声明書(EIS: Environmental Impact Statementの作成を急いでいると答えた。

これは、ものみの塔の30階建住居ビルの建設予定地に関する必要な区画変更申請に当って、ニューヨーク市当局が要求する膨大な資料のことである。
イースト・リバーとマンハッタンのウオール街を見下ろすウオーター・フロントのブルックリンに巨大なビルを建設するのは、有名な景観を阻害することになるとの理由で、地域住民の大きな反対があったからである。

私は、その時、ジャックが言った言葉を決して忘れることはない。             
それは、「我々はこの計画に5千万ドルを費やしたが、銀行口座の残高は全く、減っていない。 これは、素晴らしいことだ。」、そして又、「エホバはいつも備えて下さる。」と、右手で、左から右へ水平線を描いてお金の残高が減っていないことを示しながら言った言葉であった。
しかしながら、エホバは、区画変更の許可を与えることはなさらなかった。
結果的に住居ビルは数ブロック奥側に建てられた。  これはものみの塔の工場に隣接しており、理想の場所とは、かけ離れた場所であった。


7.調査の機会

ものみの塔の建物があるブルックリン地区の中のブルックリン・ハイツは、歴史的地域であり、新しい建物、修復される古い建物すべては、地元の景観委員会の設定した建築基準を満たさなければならなかった。   その当時、私に割り当てられた仕事の重要なものは、この基準を満たすための歴史的及び建築上の問題を調査することであった。

修復の基準は極めて厳格で、例えば、ボッサート・ホテルの正面玄関の脇にかってあった建物の元の住居番号を復元しなければならないことがあった。   誰もが、それは不可能であると思ったが、私はロング・アイランド歴史協会にて多くの時間を費やした結果、ある古い雑誌の広告の中にそのホテルの正面の古い写真が載っているのを見つけた。

この写真に載っている住居番号は、複製するに充分な程度、きれいに写っていた。  この発見によって、その後、私の調査能力は疑いないものとなった。

1989年に、私は著作部に移り、上席執筆者のカール・アダムスの調査アシスタントをすることになった。    彼は、私達の宗教の歴史を書いていて、これは後に1993年に発行された750ページにわたる年代史「エホバの証人―神の王国を告げ知らせる人」(日本語版の題:ふれ告げる人々)となった。
もう一人の上席執筆者、デイビッド・イアネリが、カールと共にこの書物の著作を担当した。

著作部に来た最初の日、デイビッドは、私が著作部図書館に一人でいるのを見て近づいて話しかけてきた。  その時、デイビッドが、私が著作部に来たことはぞくぞくするほどスリルのあることだと言ったことをはっきり覚えている。   彼は、ベテルにいる連中は、誰でも、この著作部に来たくて、あなたを殺したいほど羨んでいるはずだと言った。   私は、彼の言う意味が分かって、微笑んだ。


ベテルに住んでいる人達は、皆、宣教活動を通して示された霊的に優れた能力のゆえに選ばれて来たのである。  もちろん、彼らの多くは、選ぶことを許されたなら、ベテルにおいて世俗的な仕事を行なうよりも、霊的な活動に集中する日々を過ごす事を選ぶでしょう。著作部は、この宗教の背骨であるものみの塔の出版物を作るところであることから、ベテルのすべての中枢部門である。

私は著作部は誰もが憧れる働き場所であると知っていた。
デイビッドは私がにっこり笑ったのを見て、今度はやや高圧的に言った。 
“真面目な話、ベテルにいる人達は、あなたを殺したいと思うほど羨んでいる、そのことを忘れないで欲しい。”
冷静さと少しの混乱が交錯した気持ちで、私は挨拶して辞し、カールからもらった私のすべき業務一覧表の最初の項目である著作部図書館を見回り始めた。

後に、私はこの著作部に異動させられたことは、ひょとしたら神様が私を罰したのではないかと思い巡らした時があった時、カールのこの言葉を思い出した。   私は、友達と呼べる幾人かの本当によい人達と働く事ができた。  しかし、私の仕事を取りたいために、あるいは、私にひょんなことから不正直なところを見られたがために、私を追い出したいと思う何人かの人達は、水面下で、私に意地悪をして、私の仕事の妨害をしたりした。   
何も知らない私は、これら外見上、友人としてあるいは助けになりたいと振舞う人達を弁護したが、その内、何回かは、カールに叱られる結果を招いてしまった。   一つ例をあげると、著作部に来て2年経った時、ある若い女性を著作部から追い出す結果になった事態が終わった後で、私はカールに対して“彼女はあなたの友達だとばかり思っていた。”と尋ねたが、カールは、“彼女は友達ではない。 彼女は、仕事をあなたに取られたからあなたを嫌っていたんだ。”と言った。


確かにデイビッドが、何人かの人達は私の仕事を取るために、私を“殺す”と言ったのは、正しかった。


8.驚くべき発見

1881年に設立されたものみの塔の最初の代表者は、チャールズ・テーゼ・ラッセルではなくて、アレゲーニー出身のペンシルバニアの銀行家、ウイリアム・H・コンリーであることを発見したのは大きな驚きであった。   最初の会長がウイリアム・H・コンリー、副会長がラッセルの父親のジョセフ・ラッセル、そしてチャールズ・テーゼ・ラッセルは秘書兼財務部長であったことはものみの塔本部の中でも誰一人知らない驚くべき発見であった。

その任命は、一株当り10米ドルの株式の持株数によって決められていた。

私はその関係書類をほぼ発見と同時に渡してしまったため、コンリーが何株取得したのか、正確な数字は覚えていないが、恐らく350株、3,500米ドルであったと記憶している。  
しかし、父親ジョセフ・リテル・ラッセルは、100株、1,000米ドル、チャールズ・テーゼは50株、500米ドルであったことは確かな記憶として残っている。  

私が、エホバの証人の年代史(ふれ告げる人々)のP576を読んだとき、コンリーの記事は書かれていたが、不思議なことにカール・アダムスは、副会長ジョセフ・ラッセルのこと及び各人の持ち株数のことを省略していた。

これら重要な情報は、小さな赤い硬い厚紙カバーの会計帳簿様式のノートの最初のページに、書かれていた。  そこには、ものみの塔の憲章の原文も書かれてあった。  
その紙は二重に綴じられていて、一方は裏表紙の糊付けされていた。  
私は、手書き文章を比べて見て、第1章はチャールズ・テーゼ・ラッセルの妻マリアが書いていることを確信した。   私はこの小さなノートをコロンビア・ハイツ25番の、ものみの塔財務部の中央にあるコンクリート製金庫のファイル・キャビネット内に保管されていた古い書類綴りの中から見つけた。


ものみの塔本部内の古い記録を探す内に、私は、役員室資料室にあった古いキャビネットの底に、麻紐で巻きつけられた古びた茶色の食料品袋を見つけた。
この袋の中には、1913年にラッセル牧師が、J.J.ロスに対して起した有名なカナダでの名誉毀損訴訟の記録の写しが入っていた。
1913年4月4日に、この訴訟が陪審員に提示されると、証拠不十分により、不起訴処分となり申し立ては却下された。(1916年7月8日ブルックリン・イーグル・デイリー紙、P12)

最近になって、私は著作部文書庫には、この裁判記録の写しがあったが、数年前に紛失したことを知らされた。   今になって、私はカールが、この事件に興味を持った多くの研究者の質問に答えるために、ものみの塔文書庫に保管していたことを知った。   
その質問とは、例えばカナダの裁判所が、ラッセル牧師に対して、“あなたはギリシャ語を読むことができるか?”などである。

私は重要な文書の入ったと思われる袋を、中身を見ないでそのままカールに渡した。

その当時、カナダの有力新聞の一面をにぎわせていたこの名誉毀損訴訟について、カールが、ものみの塔の年代史の中で、その当時も、その後も何も述べていないのは、確かに奇妙である。
同じキャビネットの中に、別の非常に古くてぼろぼろになった茶色の紙の袋があって、中には数百ページの黄ばんだ手紙の束があったが、私の知る限り誰も知らなかったと思う。

それらの手紙は、明らかにラザフォード氏の求めに応じて、当時の聖書を学ぶ学生(当時、すでにエホバの証人として知られていた)が、第一次世界大戦中に受けた迫害についての回答であった。   これらの手紙には、これらエホバの証人達が、国旗掲揚、戦争協力を拒否した結果、ひどく殴られたり、コール・タールと鳥の羽を体に付けられたり、裁判もなしに投獄された事が書かれていた。   ラザフォード氏は後に、これらの手紙を、ものみの塔の雑誌“黄金時代”(1920年9月29日-その後、この雑誌は名前が“慰め”と変更され、現在では“目ざめよ”の雑誌となっている)の記事として復元した。

同じ袋の中には、この時代の重要書類、忘れられた書類、新聞記事の切り抜き等が入っていた。 すべて当時の困難な状況に関連するものものであった。
同じ場所の古い机の4つの引き出しから、大量の雑多な写真とポストカードを見つけた。

この中には、この時代のエホバの証人の大会の写真、ものみの塔の3代目の会長であるナタン・H・ノア氏の公私の写真、ノア会長に送られたポストカード、(その中には彼の妻オードリーが結婚前にノア氏に送ったものも含まれていた)、そしてチャールズ・テーゼ・ラッセルの初期の肖像写真があった。   特に重要な発見としては、ラッセル聖書会館の建物の外部と内部、そして図書館の中央の机に座っているラッセル氏の写真など、合計16枚の写真が見つかった。

引出の一つから、ものみの塔の二代目会長で、ラザフォード会長の個人的な写真があった。
私の発見の内、最も納得できなくて、不快なものはこのラザフォードに関するものである。ラザフォードは、1920年代、1930年代に流行していた、黒の袖なしワンピースで上半身から太ももまで覆った体にフィットした水着を着ているものであった。  彼は大きなお腹をしており、海を見下ろすテラスの上で遊ぶのを楽しんでいる様子であった。  
そして、他の人達が長いすに寝そべっている数枚の写真があったように思う。  
わたしは、ラザフォードのクローズ・アップされた顔写真を忘れることはできない。  
これは、カメラと1フイート(約33cm)程度の距離で撮られたもので、彼は舌を一杯まで出した表情のもので、私には酔っ払っているように見えた。

次にものみの塔の4代目の会長で、体が弱く、目の不自由であったフレッド・フランツ氏の大きなファイルに目を通していた時、1930年代にラザフォード会長からフランツに宛てた幾つかの手紙を見つけた。   
一つの手紙は、発行が予定されている「ものみの塔誌」の記事について、ラザフォード会長がフランツに質問し回答を求めているものであった。   
当時のものみの塔誌には、具体的な聖書箇所について読者の質問に対して、ラザフォード会長が答えるコラム欄があった。


この手紙は、1926年に聖書研究者として編集委員に参加し、又、ものみの塔の発行物の著者となったフランツが、実際は、質問に答えていたのであったが、あたかもラザフォード会長が答えたかのようにしている実態を明らかに示していた。   
手紙は具体的であった。  ラザフォードの質問は、質問について研究するようにとは求めておらず、ものみの塔の具体的なコラムに答えるよう求めていた。   この事から、ラザフォード会長は23冊の書籍と68冊の小冊子の著者とされているが、果たしてこの内、実際に書いたのは何冊であろうかと私は疑わざるを得なかった。


9.オリン・モイル訴訟事件

法務部の図書館では、私は、1940年10月に、オリン・R・モイルがものみの塔の役員と法人「ものみの塔聖書冊子協会インコーポレーティッド・ペンシルバニア」、法人「ものみの塔聖書冊子協会インコーポレーティッド・ニューヨーク」に対しておこされた名誉毀損訴訟の記録の写しを含む2冊の本を見つけた。

私はこの本を熟読したところ分かったのは、モイル氏が勝訴し法廷は3万ドルの賠償金をものみの塔側に支払うように求めたことであった。   私は訴訟文書について慣れていなかったため、この2冊をカール・アダムスに手渡したが、彼は私が渡したものを見て驚いた。  彼は1943年に起こされたこのモイル訴訟について何も知らなかったと言った。   
私は今だに、カールがこの件について何も知らなかったと信じることはできないでいる。  この訴訟が起きた時、カールは14歳であったが、彼はそのほんの数年後にものみの塔に入っており、その当時でも、モイル判決はエホバの証人にとって引続き辛い話題であったからである。

オリン・モイル判決はエホバの証人の歴史において重要な事件であるにも関わらず、エホバの証人の年代史には書かれていないのだろうか? 私は、未だに分からない。

私がベテルを離れた後、1994年にカルフォニア州バーバンクを訪問した時、2人の有力なエホバの証人の長老と奥さんから、同じ質問を受けた。    エホバの証人年代史の主任研究者として、それは私の仕事であった。  この長老の方々は、年代史に魅力を感じていて、それ故に、私の夕食への招待を受け入れてくれたのだった。

その晩、私が会ったのは、長年、エホバの証人であったジョージ・ケリー氏で、彼はベテルにおいてものみの塔の顧問弁護士のハイデン・C・コビントン氏の秘書をしていた。(米国の最高裁判所に提訴された138件の訴訟のうち、111件についてコビントン氏は法廷弁護士を勤めた。)

オリン・モイル氏も、1935年から1939年までものみの塔の弁護士であったが、ラザフォード会長によって追放された。  モイル氏の後任としてコビントン氏が、1940年に起きたマイナースビル学区対ゴビティスの公立学校の国旗掲揚義務に関する訴訟について、ものみの塔側の弁護士として担当した。  

ケリーと一緒にいた、もう一人の人は、私が滞在していた家の主人で、カリフォルニア州、バーバンクの有力な長老ライル・ルーシュであった。  彼は1935年6月にベテルに入り、全時間奉仕を始めて、ものみの塔の米国における特別代表を長く勤めた人である。

この二人とも、モイル訴訟について、1993年発行のエホバの証人の年代史(日本語名:ふれ告げる人々)に、何も触れられていないことに、驚きと不満を述べた。

ケリーとライルの二人は、モイル訴訟事件の以前、そしてその最中には、ものみの塔において親しい仲間として働いていた。   彼らは、ものみの塔の指導者、特にラザフォードが、ものみの塔誌の記事の中で、自分達の顧問弁護士であったモイル氏を中傷した、このとんでもない事件について、年代史の著者が、どのように記録するであろうか、非常な関心を寄せていたと語った。

訴訟記録によれば、モイル事件は、モイル氏が、ラザフォード会長の日常の行状を見ていて、過度の飲酒と他人に対する行き過ぎた罵倒発言について、不快感を持っていることを、ラザフォード氏に直接、手紙を書いて、苦情を申し入れたことに端を発する。  
ケリーとライルの友で長年、ベテルのメンバーであったアーサー・ワースレイ氏は、ラザフォード会長から何度も侮辱され、罵倒され続けたことを、モイル弁護士に訴えた人の一人であった。   ラザフォード氏はこの手紙に大層、立腹して、モイル氏とその妻をベテルから追放し、モイル氏個人の持ち物を歩道に放り投げることまでやった。  モイル氏はこの仕打ちにショックを受けたが、仕返しをするような素振りは見せなかった。  
ラザフォードとその仲間は、モイル氏を追放するだけで満足せず、ものみの塔誌に、モイル氏の性格について、悪意に満ちた中傷記事を載せた。    これが、モイル氏が、ものみの塔の関係者を名誉毀損で訴える直接の引き金になった。

私は、ケリーとルーシュに対して、アーサー・ワースレイの名前を持ち出した。  私達は、モイル裁判においてアーサーの果たした役割について話し合ったが、二人ともアーサーは法廷において明らかに偽証したということで一致した。   私はモイル裁判の記録を読んだ後、私のよき友であったアーサーに、彼が法廷でものみの塔を弁護する証言をした理由について質問したことを、この二人に伝えた。  
記録によれば、オリン・モイル氏は、ある朝のこと、ベテルの食堂においてアーサーが、何の理由もなしに、ラザフォード会長から衆目の中で非難されていたのを目撃していると反論した。

そしてモイル氏は、アーサーからこれについてどんなにか屈辱的であったかと苦情を言われた。
しかしながら、法廷では、アーサーはラザフォード氏が私を非難したことについては正当な理由があると考えたと証言した。   又、アーサーは叱ることは、秩序を乱すものではないとも言った。 特にモイル氏が驚いたのは、アーサーは誰にも苦情を言っていないと証言したことであった。

とは言え、アーサーは、私達に食堂での出来事について話し、且つラザフォードの侮蔑的な行動について苦情を言っていた。
私達は、何故、アーサー・ワースレイは法廷において、宣誓の上で、「ベテルにおいて一度もそのような汚い言葉を聞いたことはない」と証言したのか、又、食堂のテーブルに酒が用意されていたことについても何故、否定したのか、何故、事実と全く異なる証言をしたのかを話し合った。

アーサーは、明らかに狼狽して、悲しそうに、「もし私が、モイル氏の申し立てを裏付けるような証言をしたなら、私はベテルから追放されて、どこにも行くところがない。
だから法廷では嘘を言った。」とのことであった。
にもかかわらず、法廷における集中審理が行われた結果、裁判所はラザフォード氏(但し、この時、すでに死亡後であったが)とその他のものみの塔幹部に名誉毀損の有罪判決を下した。

アーサーは私達に、当時のものみの塔幹部は激怒して、モイル氏が3万ドルの損害賠償金という銀貨を受け取った“ユダ”であると非難していたと話してくれた。

ものみの塔は、この屈辱的で不快なモイル事件の話題を年代史から無視し省略することによって、組織が穢れていないイメージを懸命に植えつけようとしたのだが、完全に真っ白にすることはできなかった。   その晩、夕食を共にしたエホバの証人達は、モイル事件が年代史から省略され、無視されたこと、それと、ものみの塔の歴代の指導者達の多くが、組織は汚れのない、失敗のないものであるとして、明らかにその歴史を修正した事について、不満を持っていることを明らかにした。  そしてそのことは客観的でもないし率直なものでもないことであると。


10.答えを探して 

カールは、私の仕事の一つとして、ラッセルの離婚の記録、特に反対尋問の記録資料を私に渡した。   しかし、ラッセル氏の妻マリアの反対尋問の記録については渡してくれなかった。
その当時は何故かとは思わなかったが、数年後に不思議に思って、それを読んだ。
それによって、カールがマリア・ラッセル側のストーリーを私に見せたくなかった理由がはっきりした。

マリア夫人が勝訴しており、裁判所は、ラッセル牧師が妻マリアに対して犯した度重なる屈辱的言動を有罪と認めたのであった。   つまり、カールは私がこの事実を知れば驚くことを知っていたからである。   妻マリアは、夫ラッセル氏が広めた悪意のある風評、つまりマリアが女性の人権の支持者であって(その当時は侮蔑語であった)、ものみの塔誌を支配する意図を持っていて、彼女自身の栄光のために分かれたなどのウワサが、事実無根であることが判決によって証明されたのである。
しかしながら、ものみの塔の修正主義者達は、今日に至るまでこの欺瞞を続けたままでいる。

さらに、私は、1916年12月1日付けものみの塔誌の記事「チャールズ・テーゼ・ラッセルの死」を読んで、チャールズ・テーゼ・ラッセルとマリアとは、別居生活を続ける結婚であったことを知った。   私は、当然、非常に驚いた。   私が、この不明瞭な事実関係はエホバの証人年代史(ふれ告げる人々)には公表されるのかと質問したところ、答えは「否、公表されない。 統治体は、この情報によって、多くの群れが躓く恐れがあるから」というものであった。

エホバの証人の大切な教えの一つに、紀元1世紀の終わりごろ、キリストの弟子達が亡くなった後、大いなる偽クリスチャンがはびこり、これが後のローマ・カトリック教会の確立となったというものである。
しかしながら、エホバの証人は、キリストの最後の弟子から、チャールズ・テーゼ・ラッセルの時代に至るまで、“真の”クリスチャン達は、イエスとその弟子達のオリジナルの教えを守ってきたと主張する。  カールからの指示は、この真のクリスチャンを見出すことであった。

私の課題は、王国の子供達が一致している、4つの共通の基準を基礎とするものであった。  この内、3つは、三位一体、地獄の火、人間の魂の不滅を否定することであった。

4つ目は一番難しい問題で、キリストの身代わりの犠牲をエホバの証人の解釈に従って、受け入れることであった。   数ヶ月間、著作部は、ヨーロッパ各国、英国、米国の関連図書を持ち込んだ。

私は、宗教改革以前と、以後の非協調主義の分離宗派、急進派の改革時代に知られていた宗派に関する外国の書物の英語訳を読み漁った。  少なくとも、これら初期のアリアン運動、ロラード、ワルデンス、ソシニアン、アナバプテスト等の宗派を批判的な目で調べることは、非常に魅惑的であった。

その後、カールは私の綿密な調査結果を見て、この4つの基準を満たす真のクリスチャンの宗派は一つとして存在しないことを信じた。  カールは、今後はこの計画は2度とやらないと言って、取りやめにしたが、今日に至るまで、この真のクリスチャンの継承の教えは放棄されていない。
年代史「エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々」のP44において、カールが、この質問に対して、最大限、言い得たことは、次の通りであった。

“紀元1世紀後、真のクリスチャン達は、どうなったのか?”という問いに対して、“その後、真のクリスチャン達はなくなってしまうことはありませんでした。” そして “何世紀にもわたって真実を愛する人達は常にいました。”と答え、幾つかリストされた聖書に忠実なグループの説明へと続いている。

カールが私に与えた他の仕事は、1917年から1918年の時期について、合衆国連邦政府が、ラザフォード会長とその仲間を告訴した背景と理由は何であったか、とりわけ、1917年6月15日施行のスパイ活動防止法違反の共謀、及びその犯行、及び第一次世界大戦における合衆国の志願兵、徴兵に対する抵抗について調べることであった。

ラザフォード氏は、ものみの塔の書籍「終了した秘儀」(聖書研究の第7巻)のP247〜P253の箇所が政府に楯突くことを知ったので、彼はこれらすべてのページを削除するように指示した。
その後、この本を配布することは、スパイ活動防止法に違反することになると分かったので、ラザフォードはこの本の配布を停止するように命じた。

これらの努力にも関わらず、ラザフォード氏と7人の仲間は、懲役刑を受け、連邦刑務所に収監された。  しかし、戦争が終わって釈放された。


カールと私が法廷記録“ラザフォードと米国政府”を読んだとき、ラザフォード氏がしばしば、政府に対して“悪魔的”と公言しレッテルを貼っていたのにも関わらず、法廷では、政府と法廷を喜ばすようなご機嫌取りとお追従の証言をしていることに面食らった。  
疑いもなく、ラザフォード氏はあらゆる方法で当局をなだめようとしていた。   
カールが指摘したように、ものみの塔の二代目会長は、誠実さを捨て妥協してしまったのである。   カールと私は、ラザフォード氏は、有罪判決を受けたことが、受けた迫害にもかかわらず、釈放後、直ちに、王国の便りを公に発表した理由であろうとの結論に至った。

私がラザフォード時代の調査した結果、明らかになったのは、ラザフォード氏は他宗教、政府を攻撃することによって、意図的にトラブルを引き起こし、聖職者達が、聖書を学ぶ学生に対して報復するように仕向けたことである。  これにより、ラザフォード氏は、しばしば、“迫害だ”と叫ぶ事態となった。

私がカールと働いた2年間、私の調査によって、組織についての驚くべき事実、良い事も悪い事も明らかになった。  しかし私はこれらの否定的な事実によって、私の信心を疑いはしなかった。 もちろん、組織を非難する結果になったことに失望したが。 

しかし、私は、教えられた信仰の内容が真実か否かを疑うような性格を持ち合わせていなかった。
専心した信者にとっては、ものみの塔の指導者達の不愉快な行いは、人間のくずとしてのものであって、宗教の真実の姿が反映されたものではないと信じる方が容易であった。


11.忘れられない人達

私は著作部の一員となることを告げられた時、エホバの証人の群れに聖書についての新しい洞察を与えている、これらベテルの最も霊的な人々と日々、共に仕事をすることは大きな特権であると信じた。  
著作部の役員は統治体の3人の役員、ロイド・バリー氏、ジャック・バール氏、そしてカール・クレイン氏であった。  大学卒のロイド・バリー氏は、この部門の頭脳であった。  
1992年以降、高等教育を求める若いエホバの証人に対して、それを受け入れる姿勢を示したのはバリー氏であった。 なお、この方針は2005年11月に変更された。 

私はロイド氏が大好きである。  ある日、私はロイドに対して、ニュージーランド支部からの古い手紙を楽しんで読んでいますと言った。  ロイドは直ちに何故、私が丸秘文書に関与しているのかを知りたがった。   彼は、一瞬、カール・アダム氏の新しい年代史の調査のために、私がこのような資料を読む仕事を与えられていることを忘れたのであった。  私がこの事を言うと、彼は笑った。

ロイドはニュージーランド人あったが、私は、その当時、ニュージーランド人のものみの塔の宣教師フランク・デワー氏について読んでいた。  これは1930年代のインドネシアにおける冒険的な宣教活動で、私はこれを読んだ時、映画の主人公“クロコダイル・ダンディー”を思い出したのである。

フランクにとって、奥地にいる人々にものみの塔のメッセージを宣べ伝えることを妨げるに高すぎる山はなく、深すぎる河はなかったからである。   ロイドは、フランク・デワー氏は好きな宣教者だし、クロコダイル・ダンディーも好きな映画だと言った。 だが、映画については、クロコダイル・ダンディーの主役俳優が、妻と離婚し、その映画の共演者と結婚する時までであるがとロイドは話した。 

新しい年代史のP446で、カール・アダムスは、フランク・デワーについて次のように記している。

「フランク・デワーは、シャム(タイ王国の旧名)に行く途中、旅を続けるために費用を得るためにクアラ・ルンプールに一時的に滞在した。  しかし、そこでフランクは交通事故にあった。  トラックが自転車に乗っていたフランクに衝突したのである。  怪我が回復してから、フランクは、シンガポール発、バンコック行きの列車に乗ったが、彼のポケットにはたった5ドルしかなかった。 エホバが備えて下さると信じて。」

この年代史から、実は極めて人間的な出来事が省かれている。  事故に会った時、フランクは気を失い、とある安ホテルと思われるベッドの中で気がついた。 しかし、そこは悪名高い売春宿であって、親切な売春婦に介護されていたとフランクは言っていた。  もし、年代史の著者がフランクのこの体験を省かないでそのまま書いていたら、この物語はエホバの証人の開拓者たちが証言を約束する“本当に率直な物語”となったであろうに、と思う。  しかし、この事件は、年代史の著者のエホバの証人の歴史を歪曲する方針に合わなくて、省かれてしまった。


1989年はカール・クラインにとって明らかに最良の年であったと私は思う。  彼はよれよれの年寄りで、気難しく、子供みたいな性格で、その喋り方と年のせいで常軌を逸した態度であったために、誰もが避けていた。   私は、カール・クライン氏が、ものみの塔の書籍や雑誌の最終原稿を承認するために読み終わった時、暇そうにしているのをよく見かけた。 

1992年のある日、誰も見向きされないカール・クライン氏は興奮して、私と著作部の他のスタッフに、“統治体は今朝、新しい光となった。 これは私が示唆したのだ”と言った。 当然、このような形での発言はベテルにおいては、ルール違反であるのを知りながらである。

その朝、ニューヨークの3箇所にある大食堂において、6,000人のエホバの証人達は、“エホバはご自分の名前が正しいことを証明する必要はなく、主たる目的は、その主権を証明することである”との発表を聴いた。  

1935年以来、エホバの証人は、エホバの主たる目的は、人々を救うことではなくて、ご自身のお名前が正しいものであることを証明することであると教えられてきた。  そしてカール・クライン氏は、その57年後に、私達は彼(カール氏)がこの事柄について神の洞察を持っていたことを確かめたのであった。  彼は聞く気のある人に対しては誰にでも、この変更は彼が言い出したものであると語った。

そしてジャック・バール氏であるが、私達はこの人を友人と思っていた。 彼は、親切な人であったが、ロイド・バリー氏の陰に寄り添い、彼の指示に従っていた。  彼は、“ビロードの手袋をした鉄の手”(冷酷な)人ではなく、“しなやかな手”(気弱な)の人であった。  バール氏の気弱な性格はロイド・バリー氏が出張した留守の時、明らかとなった。  
1992年4月8日の雑誌「目ざめよ」の印刷について、テッド・ジャラッツ氏は、自分の支持しない記事が書かれているという理由から、著作部門についての権限がないのにも関わらず、この「目ざめよ」の印刷をストップするよう命令してきたことがあった。   
この勝手な命令を排除し、予定通り印刷するために、著作部の上席スタッフが3人がかりでバール氏に圧力をかける必要があった。   統治体の各メンバーは、担当業務が明確に定められていて、テッド・ジャラッツ氏は、サービス部門業務を担当しており、著作部の編集方針について全く権限がなかった。  ちょうど、バリー氏、バール氏、クレイン氏が、サービス部門業務に何らの権限がないのと同じである。


著作部に、悪名高く、我慢ならない上席スタッフが統治体のアシスタントに任命されたばかりの時に、私はバール氏に苦情を言ったときがあった。  彼は、組織の借入に関係する大変、重要な書類が紛失したことについて、私が、彼を疑って詮索していると考え、私を脅していた。

私は、このような倫理に反する行いは、彼を現在の地位から追い出すべきかどうかを、検討すべき状況だと考えた。   私の話を聞いたジャックは、“彼は聖霊によって任命された”から、取り消しは不可能であると言った。  これは、ジャックが正しい判断を避けるやり方であった。


私が最も記憶に残る著作部にいた友達は、ハリー・ペロヤンである。  彼は著作部の上席著者の一人で、雑誌「目ざめよ」の共同編集者であった。   ハリーはハーバード大学卒で、1957年からベテルのスタッフであった。   ハリーの灰色の髪の下には、鋭い頭脳があり、年を取っても、その知性は衰えることはなかった。  この才能豊かなカリスマ的な男は、若いときにエホバの証人になったのだが、高給が得られる仕事を止めて、そしてエホバの証人を辞めないと言ったことから、裕福な父親から勘当されてしまった等、高い代償を払ってしまったと言っていた。   
今日に至るまで、ハリーは、エホバの証人だけが、真理を持っていると固く信じている。

しかしながら、私は彼との会話から得た、彼の意見から判断する限り、彼の信仰は固いものではないように思えた。   なぜなら、彼がある神学的な教えが聖書的ではない、あるいは組織の規則が聖書の教えに反するのではとの見解を持った時、すばやく意見を変えたのである。


私は、ハリーと、共通する好きな話題について、信仰の問題か世俗的話題を問わず、楽しく話し合った。   勿論、いつも意見が一致するわけではないが、お互いの意見を尊重していた。 

彼は活発な議論の中で、核心に触れる部分を話すときに、デスクトップのPCを、握り拳が紫色になるまで握り締めることが、しばしばあった。   彼は、組織がより同情的に変わっていく過程において外見上は、静かに装いながら、いつも腹の中では、はしゃいでいる人達に対して、怒りを向けており、ちょっとしたきっかけで、すぐに怒りを爆発させた。

私達は、子供たちを育てることの人間本来の楽しさと同時に苛立たしさについて語り合った。 ハリーは妻のローズを2005年に亡くしており、子供がなかったのであるが。

話は1990年代にさかのぼるが、雑誌「目ざめよ」に、より良い人生のために聖書的な助言を用いるという記事をどのように構成するかについてである。

私達の息子が、エホバの証人として素晴らしい養育を受けたと言って、私達に感謝を表した、思慮深くて親切な手紙を送ってきた。   ハリーは、この手紙を再現して、聖書の助言に従った両親の子育ての成功例として、「目ざめよ」誌1993年8月8日号の背表紙の記事とした。

ものみの塔の出版物の読者に興味を持ってもらうためには、いつも新しいアイデアが必要とされた。  ハリーはものみの塔本部内の様々なグループの人々や、ものみの塔の外部の人達とも交わって、今、話題になっていることや、興味のあるテーマについて話をしているのを見てきた。

彼と著作部の何人かは、ものみの塔の統治体メンバーを含めて実に多くの人達が、1950年代の考え方に縛られ身動きができない状態に陥っているのを、ひそかに嘆いていた。

数十年の間、社会と隔絶されたベテル内部で過ごしてきたものみの塔の指導者達は、エホバの証人達が日々、直面している、現在の重大な、そして複雑な社会問題を自分達の問題として捉えるには、あまりにも限界があることは明らかであった。  しかも、無垢なエホバの証人の群れは、光は他ならぬこの指導者達からのみ、来ると信じているのである。


私がカール・アダムスの依頼に基いて調査結果を提出した頃に、偶然、ハリーがその一部を読んで、私にものを書く才能があるのを見出してくれたのである。  
そして私は、彼(ハリー)とコーリン・カッケンブッシュの監督の下で、雑誌「目ざめよ」の7つの記事の一部又はすべてを書くようになった。  私は、これらの記事を、仕事が終わってから調べ、そして書いた。   私は、「目ざめよ」誌の記事の多くは、著作部外の男性、女性によって書かれ、著作部のスタッフが編集していることを知った。   ハリーの机はいつも整頓されていて、彼に割り当てられた記事について、外部の人に書かせて、ハリーの名前で掲載する方法をしばしば取った。  

私は、今に至るまで、彼が書いたと言っている書籍、冊子は、はたして本当に彼が書いたのだろうかと疑問に思っている。  
仮に彼が実際に書いていないとして、彼は書かれた記事の趣旨を裏付けるために、その記事に引用された出典について、チェックをしたのであろうか?
あるいは、ハリーは、記事が引用箇所を偽って表現されていたとしたら、その記事について責任を負っているのだろうか?

アラン・フューエルバッハというものみの塔の教義批判者は、ハリーが書いたことになっている出版物の中から、多くの引用箇所を指摘している。
私は、ハリーが責任ある著者であり、彼のために記事を書いて提出した人達が引用した情報ソースをハリーは知らなかったと思いたい。


12.女性に対する敬意

ハリーは、ムチを持って聖書を教えるような家父長的な方法で、女性と子供を支配することに反対していた。  私達は、夫が家の頭として権威を誤用していると苦情を言っている多くの不幸なエホバの証人の妻達の事を知っていた。

私は1992年1月にハリーの事務所で、同じく上席著者のエリック・ビバリッジ氏とハリーに、私が休暇中に会ったあるエホバの証人の妻から聞いた話をしていた。  彼らによれば、組織の中の多くの男性は、女性を劣った存在であると見て、敬意を払っていないそうである。   ある女性は、あるエホバの証人の男性の家の掃除をしていたときに、その男性に強姦されたと怒りを込めて言った。

当然、尋問されたが、男性は尋問した長老に対し、事実を認めたが、合意の上でのことだと主張し、そして悔い改めていることを表明した。   
彼女は合意の上ではなくて強姦されたのだと主張した。  
彼女は嘘をついたという理由で排斥処分を受け、一方、男性の方は、罪を悔い改めたということで、排斥にはならなかった。  
この男性を知る女性のエホバの証人達は、非常に憤慨して、この男性は風評も悪く、信用できない人だと言っていた。
(因みに、誰もこの事件を警察当局には届けなかった。)


ハリーとエリックにとっては、この話は面白くなかった。   この会話の後、ハリーはエリックに「目ざめよ」誌の“女性問題”シリーズの記事を書くことを承諾し、私には、事前調査する仕事を割り当てた。   その結果、1992年7月8日の「目ざめよ」誌に“女性―今日敬意を示されているか”という題で、15ページにわたる記事を掲載した。   この「目ざめよ」誌の記事が出た後、多くの女性からの礼状が届いた。   私達が最も面食らったのは、75%の手紙には、署名がなかったことである。  理由の説明によれば、この手紙の写しが、各会衆の長老に送られて、フォローするように指示が出され、会衆や家庭において報復を受けることを恐れているからとのことである。


13.目ざめよ! 性的虐待の記事についての議論

ものみの塔の組織には、どんな訴訟事件についても、機密保持方針があって、関係するエホバの証人は、審理委員会にだけ話すこと、それ以外は沈黙を守ることが定められていた。

私が、組織内における児童性的虐待事件を聞いたのは、1984年のことであった。
建設部で一緒に働いていた若い女性が、ベテルに来る前にいたニューヨーク北部の会衆のある有力な長老が、児童性的虐待で逮捕されたことを、興奮気味に私達に話してくれた。

その後、私は問題の長老が有罪判決を受け、懲役3年の刑を科されたことを知った。
この有名なカリスマ的長老は、長年にわたって、権威を悪用して、自分の娘と会衆にいた若い女性に対して性的虐待を、続けており、警察に届けるなと脅していた。
私は、これを聞いた時、この行為は一時的な精神異常によるものではないかと思ったが、その後、それは間違っていたことが分かった。  

エホバの証人の子供達が性的虐待の被害に会っており、沈黙を強いられていたのはこの事件だけでないという何よりの証拠は、1985年1月22日の「目ざめよ」誌に、“児童性的虐待―すべての母親の悪夢”という題でのシリーズでの記事掲載が認められたことである。

私の著作部の経験から言って、このような記事の掲載が承認されるということは、エホバの証人の組織の内部において、子供に対する性的虐待の事件が増加しており、エホバの証人の親が、自分の子供達をどのように被害から守るか、そしてどのように性的虐待のサインを見つけるかについての情報を必要としていることを、組織の指導者達が知っているということである。

悲しい事に、その記事には、保護者をどう助けて、被害者の受けた性的虐待の影響をどう取り扱うかについての必要な情報はほとんどなかったし、又、事件が発覚したらすぐに警察に届けるようにという指示も書かれていなかった。   事実、ニューヨーク北部の事件も、子供達の一人が性的虐待を受けていると警察に届け出たのは、学校の教師であった。

私が、エホバの証人の年代史の仕事が完成する少し前に、1991年10月8日付けで「目ざめよ」誌が、再度、子供に対する性的虐待の記事を掲載した。

記事の題は“児童虐待の傷を癒す”である。  この「目ざめよ」の記事は、性的虐待を受けた子供をその後遺症からどのように救うかについて具体的な情報が書かれていた。  加えて、虐待の被害者の後遺症がいかに破壊的かを、家族や友達が理解できるように手助けとなる情報が書かれていた。


私はこの記事を読んで、多くのエホバの証人と同じように、この憎むべき犯罪によって、引き起こされる後遺症を和らげるのに助けとなる情報であると信じた。

私達のほとんどは、この記事の背景に、1980年代に教会その他の組織において児童に対する性的虐待の実態がTV等のメディアで大きく報道された事があると考えた。

なんと言っても、エホバの証人になった多くの大人達が、かって子供時代に性的虐待を受けていたことがあったとしたら、彼らこそ、「目ざめよ」誌に助けとなる情報の必要を感じているはずである。

この「目ざめよ」誌が発行された後、ものみの塔本部は何千というお礼の手紙や電話を受け取ったが、いずれも統治体に対してこのような記事を掲載してくれたことに感謝の意を表していた。

興味あることに、ものみの塔の歴史において、1990年7月8日付「目ざめよ」誌の“動物実験―祝福か呪いか”の記事を例外とすれば、この1991年10月8日付「目ざめよ」誌の“児童虐待の傷を癒す”の記事ほど、多くの読者から手紙を受け取ったことは、かってなかった。


14.ものみの塔の児童性的虐待問題

1991年の終りごろ、ハリーは私に、この「目ざめよ」の記事は、誰が書いて、誰が承認して、掲載されるに至ったか、詳しく話してくれた。   それは、ハリーがロイド・バリー氏の承認を得て、リー・ウオーターズに書いてもらったのであった。   リーは、マイノリティーが必要としていることには特に敏感で、同情的な人で知られていた。   ハリーとリーは、1989年〜1990年に米国のエホバの証人の間で読まれていたエッセイ “前に進むー虐待と命の犠牲に取り組むエホバの証人を救え”を読んだ。(http://www.silentlambs.org/education/movingforward.htm

私はこのエッセイがどのようにしてものみの塔・著作部の知るところとなったか思い出せないが、これは私に強い印象を与えた。   これは、エホバの証人のメアリ・ウーダードが、彼女自身を含む女性のエホバの証人達が子供の時に受けた性的虐待によって受けた影響について書かれたものであった。

メアリとはフロリダの会衆の長老経由で連絡を取り、ものみの塔本部の著作部に来てもらい、ハリーとリーとに、この性的虐待の話をしてもらったが、この時のメアリの話が1991年10月8日の「目ざめよ」誌の記事の元ネタになったのである。


メアリは1992年に自殺をはかったことをハリーに話した。 2003年に、私は、メアリーにものみの塔著作部に来てもらって、実に長い話合いをした。  彼女は、「目ざめよ」誌の記事を準備していることを知らせるリーからの私信を私に見せてくれた。

「目ざめよ」の記事には述べられていないが、主要な関心事としては、児童性的虐待の加害者は、無視できないほど多くの場合、エホバの証人であることを告発していた。

私は後になって、性的虐待の訴えを警察当局へ届出ることは、会衆の規則によれば、例外的な事であることを知った。    私の知る限り、私も含めて著作部の誰もが、警察に届け出ないことに不満を言う者はいなかった。   というのは、“神の組織”は、警察当局よりも遥かに優れた問題解決をすることができるという考え方を植えつけられていたからである。   さらに、警察当局に届け出ることは、私達を外の汚れた空気に晒すことで、エホバの証人の評判を汚すことであると知っていたからである。   このような訴えは、組織内で審理委員会が秘密裏に取り扱っていた。 (会衆の長老は、エホバの証人のメンバーの悪行の訴えがあった場合に、3人以上からなる委員会を作って、訴えを取り扱うことになっている。)    

しかし、もし被害者の訴えに疑義があって、児童性的虐待者の被疑者が罰せられなければ、不満の残る証人たちは、自分の意見を飲み込んでいるか、もしくは、彼等自身が罰せられることになる。    従って、不満を残しつつも、このような事件は組織内部では、例外的なものであることを信じつつ、沈黙することになる。    やがて来る地上の楽園において、すべての涙が拭われるであろうから、“エホバを待て”と不満の残る証人たちは告げられる。


1991年の終わりごろ、私はものみの塔の年代史に関する仕事をほぼ終わり、新たにアート部門の調査の業務を与えられた。  しかし、数ヶ月もすると、ジャック・バー氏が私のところに来て、ハリーと、「目ざめよ」の著者が、私を必要としているからと告げて、私は再び著作部の仕事をすることになった。    1992年に入って、私は著作部から、世界中のエホバの証人の会衆内部における児童性的虐待事件の深刻な問題について知らされた。

まもなくして、ロイド・バリー氏は、この件に関連する別の記事を書くことを承認した。 
1992年4月8日付け「目ざめよ」誌の“私はうれしくて涙を流しました”の記事の事である。  この記事には、1991年10月8日の「目ざめよ」誌の記事に対して、児童性的虐待の被害者の家族、友人から統治体に寄せられた深い感謝の手紙が引用されている。

多くのエホバの証人の読者達は、この「目ざめよ」誌10月8日号は、組織にさわやかな一風を吹き込んだものと考えた。   しかし、これは何千人もの生き残っている児童性的虐待の被害者達が、専門の精神科医の助けを求め始めることによって、信頼されていたエホバの証人達が、実は組織内において性的虐待を行なっていたという事実を明らかにすることになる、いわばパンドラの箱を開くことになったのである。


15.専門療法とは何か?      

「目ざめよ」誌の記事は、児童性的虐待の後遺症に対して助けとなる示唆を提供し、被害者を助けようというものであった。  一つの例を挙げれば、専門の精神科医を探し、必要な場合は、仲間のエホバの証人からヒアリングするといったものである。  しかし、統治体メンバーのほとんど、特にテッド・ジャラッツは、会衆の群れのために精神科医やセラピストを探すような事は、何もしなかった。   彼らは、これら専門家のカウンセリングは、悪魔の世界からのものであると信じていたからである。    統治体とものみの塔の幹部達は、ものみの塔の出版物に載せられている聖書によるカウンセリングの方が、児童性的虐待のトラウマを含めて、精神的な落ち着きを与えると信じていた。    一般的に言って、いわゆる“円熟したエホバの証人”は、普通のエホバの証人が何で悩んでいるかに関わらず、与える助言はいつも“聖書を読みなさい。 集会に出席しなさい。 家から家への野外奉仕をしなさい。”といつも同じであった。     組織が児童性的虐待を受けたエホバの証人の子供たちが、組織外部のセラピーを受けることに反対したので、彼らは長老に泣きついたが、それは子供達にとっても長老達(加害者)にとっても悪夢のシナリオであった。


被害者達が、1991年10月8日付け「目ざめよ」の記事が掲載されたことによって、それ以降組織内部の無神経な態度が、変わると期待したならば、彼等被害者達は、手荒く思い知らされたことになる。   現実には、長老側(加害者)の状況はほとんど変化がなかったのである。

組織のこうした態度は、基本的に変わらなかった。   なぜなら、10月8日付け「目ざめよ」誌が引用した“この世の本”の助言ではなくて、聖書からの助言のみが、いのちを癒すからという理由だからである。(これは、エホバの証人の指導者達の多くが、「目ざめよ」誌の記事に反対している主要な理由でもある。)


16.“抑圧された記憶”と多重人格障害(Multiple Personality Disorder- MPD)とは何か?

この「目ざめよ」誌には、他の話題として“抑圧された記憶”として知られている不思議な症状が述べられている。  この話題は、エホバの証人の組織の上部の人達には好まれていない。

リーが、性的虐待の被害者とそのセラピストから確認した結果、被害者である多くのエホバの証人は、彼らが何年も前の子供の時に受けた性的虐待のことをはっきり覚えているとのことである。   これらの“記憶”の信頼性について、精神科の専門医の間で、そしてものみの塔の組織内部でも、議論の中心となった。  

本部で、エホバの証人の各会衆の監督責任はサービス部である。  この部門の責任者は統治体メンバーであるテッド・ジャラッツ氏であるが、彼は、この“抑圧された記憶の異常について質問する長老達に対しては、否定的に答えていた。     実際、テッド・ジャラッツ氏は、“抑圧された記憶”に対する反対者であると私は聞いている。     ハリーがこの“記憶”について立証するまで、エホバの証人の組織の”この話題についてこれ以上何も言う事はない”という見解は、疑問を持たれることはなかった。

多重人格障害(Multiple Personality Disorder-MPD)は、現在、解離性同一性障害(Dissociative Identity Disorder-DID)と呼ばれており、熱心に議論される話題になっている。   

多重人格障害(MPD)症状について、ものみの塔の出版物にも、長老に対する組織の方針通知書にも、一切述べられたことはなかった。  米国中の長老達は、会衆内において児童性的虐待の後遺症に悩まされている被害者達の症状について、ひどい場合には、悪魔付きとレッテルを貼られて、伝えられていた。  

サービス部の何人かが、多重人格障害(MPD)、解離性同一障害(DID)及び“抑圧された記憶”について、一時的な現象であるとみなし、そのように回答している状況の中で、この被害者達はどんな助けがあるだろうか?

ものみの塔の指導者達の間には、多重人格障害(MPD)について実に多くの混乱と不信があって、ハリーは私にこれについて記事を書くように言った。

残念ながら、1991年10月8日付け「目ざめよ」誌について騒動が続いている最中で、ロイド・バリー氏は、これ以上の議論を引き起こすことを恐れて、多重人格障害(MPD)の話題に触れることをよしとせず、よって記事を書くことは問題外の状況となった。


17.ものみの塔本部の混乱した助言

上記から、かたくななサービス部は、虐待の被害者を慰めることはできなかったことがお分かり頂けると思う。   一般的にいって、サービス部は、質問者に対しては“聖書を読んで、何の困難もなくなる新しい世界を待ちなさい”と回答するだけであった。

この回答はこのような複雑な問題には何の解決にもならない。   さらに、ある人達の無神経な “ただ乗り越えなさい”といったような回答は、被害者にとって、また著作部の自由なメンバーにとっても、理解されることはなかった。   事実、著作部のスタッフが被害者の訪問を受けて話し合う場合には、被害者は同情的に応対され、この問題についての最も新しい情報によって助言を受けることができた。    このような状況で、被害者は再度、被害者になりそうになったり、助言を求める長老達の間に混乱を招いたり、矛盾の只中に放り出されてしまった。


1991年12月末にすべての会衆の長老は、各地の王国宣教学校に出席してものみの塔の最新の方針を学ぶ時を与えられた。   その後、間もなく、1992年3月23日に全米の会衆の長老に対して、通達が届いた。   通達には、王国宣教学校で話された児童性的虐待事件の被害者が経験した深刻な問題について、改めて述べられると共に、、従来と同様に、専門的なセラピーが非難されるものではないが、王国宣教学校でのカリキュラムは、「目ざめよ」誌に述べられた情報についてのみ行なわれたものであると書かれていた。    通達は、被害者達に同情的で、彼らが精神科医、心理学者、心理療法士等の診察を求める場合、幾つかの注意点を述べながらも、個人の判断によるものであると再度、確認した内容であった。  

一つ、明確に述べられたのは、長老は、治療法を学んではならず、又、治療者と同じような役割を担ってはならないとされたことである。  しかし、実際には、何人かの長老達はこれを行なっていたのである。    また、被害者達を助けるために何を言うべきか、最も必要な示唆についても、書かれていた。    事柄は確かに良くなっていったが、長くは続かなかった。


会衆の内部やその周辺では、小さな汚い秘密は続いていて、どういう理由かはわからないが、性的虐待の加害者をかばうのは日常茶飯事となっていた。     1992年に統治体のあるメンバーが、(ハリーは、ジャック・ジャラッツ氏に違いないと言っているが)、数人の有力な巡回監督と地域監督に対して、性的虐待の被害者たちに会って、沈黙を守らせるか、もしくは、排斥するように悪意に満ちた指示を出した。    1994年にハリー・ペロヤン氏の事務所において、私と夫ジョーは全米各地からものみの塔本部に届いた苦情の手紙のファイルに目を通した。    興味あることに、苦情の手紙の中によく出てきた、被害者を脅した巡回監督は、現在、統治体メンバーの一人になっている。


“風呂の水と一緒にして赤ん坊を捨てるな”と、ハリーは、相変わらず強硬な態度を取り続けるサービス部の頑なさについて悪くなる一方のニュースを聞くたびに、この言葉を言っていた。 ハリーは、日々、児童性的虐待の情報を日々聞いて、どうしたらよいか、これによって私達が組織を離れるようなことがないようにと望みながら、心配をしていた。   そして彼の心配は正しかった。


18.テネシーの我が家へ

1992年8月に、私の高齢の両親の健康の問題から、私達夫婦は、1992年末にブルックリン本部を離れることを決意した。    しかし、残された期間、私は調査の仕事に時間をさいた。         

ハリーは、ものみの塔の組織の内部において児童性的虐待の深刻な問題が厳然として存在していることを立証し、それに警鐘を鳴らすため、私に対して、統治体への実態報告をまとめるようその権限を与えた。  
1993年1月の初め、私が本部を去って数週間後のこと、ハリー・ペロヤンは、私がまとめた膨大な資料集を統治体の各メンバーに渡した。


10年半にわたって数千人の“ベテル・ファミリー”の中で生活したことは、小説になるような経験であった。   私達がテネシーの我が家に帰った時、数百人の友人と息子夫婦をベテルに残してきた。   私達が出発する数日前には、ジョーと私は、数百の別れの挨拶状を受け取った。   私は、今もその時、著作部の仲間から、もう一緒に働く事はできないことを惜しんで、将来の幸せを願った愛情溢れるメッセージが書かれた小さなノートを宝のように大事にしている。   将来、何が起きるか、彼らがその時知っていたなら!   

そのノートに、ハリーは、私と一緒に働いたことに謝意を示し、私の助けと判断と同情がなくなることを残念に思うと書いている。   リーは、私が去ることを残念に思うとだけでは始まらない、私の助け、情報提供、調査はいずれも計り知れないものであったと書いている。上席著者のジム・ペレチアは、“旋風を巻き起こす”ことを助けてもらってありがとうと書いている。

皆が、私の仕事をこのように評価してくれたのは、背後に、児童性的虐待に対する組織の取扱いを変えるよう、統治体を説得しようとしているからである。     そして、著作部にいた最後の日に、デイビッド・イアンネリ氏が別れの挨拶と共に、私がこの組織の中の誰も知らなかったことーつまり、ものみの塔の最初の会長は、チャールズ・テーゼ・ラッセルではなくウイリアム・H・コンレーであることを発見してくれたことーに謝意を示してくれた。


私は本部を離れたことに後悔はなかった。   私は、エホバの証人の組織の中枢において私のすべてを奉げた。   私はそこの人々を愛していたので、ジレンマはあった。   ニューヨークを離れた後、私は、ものみの塔の組織内部の隠された児童性的虐待スキャンダルについて知りえたことを沈黙して、“同情の気持ち”に注意することができるだろうか?    もし私が、ベテルの外で、“同情の気持ち”から、事柄を荒立てれば、私は排斥されることになるだろうことを知っていた。

ニューヨークを離れて、私は、エホバの証人の組織の中において“羊”の皮を被った欺瞞的な“狼”の犠牲のなった人達に心の底から出てくる同情を押し殺すことはできないことを知った。   しかし、私は何をすべきであろうか?    


私がテネシーに帰った数ヵ月後、1993年2月3日付けで、再度、児童性的虐待問題についての手紙が、全米の長老に対して送られた。    それは、私が統治体に対する報告の中で述べた情報について論じているもので、明らかに私の報告の仕事の結果であった。

その手紙には、事件の起きたずっと後になってもなお、性的虐待の記憶が残る被害者を助けるための示唆が述べられていた。    これを見ると、“抑圧された記憶”の実態に対して、統治体の態度が軟化したように思われた。   さらに、被害者のエホバの証人が、専門医の助言を求めたり、警察当局に届け出ることについて、長老が非難すべきではないと手紙は繰り返していた。   そして、それがすべてではなかった。   1993年10月8日付け「目ざめよ」誌において児童性的虐待についてよく書かれた記事が掲載され、“このような深刻な子供達の心の傷を癒すには、適切な専門医の助けを求めること”を支持する内容であった。


私は、自宅で、引続き著作部のための調査を行なっていた。   私は、他の宗教、そして広く社会の中での児童性的虐待の問題を調べた。   このような方法で、私はものみの塔本部の中で何とか統治体の児童性的虐待に関する方針を変えさせたいと考えている人達の役に立つことができると考えた。  


しかしながら、私はこの働きの結果に満足すると同時に、テネシーに帰って数ヶ月も経たないうちに、テネシーの地元の会衆において、児童性的虐待の訴えや自白の件数が異常に多いことを知って驚いた。  この内、一つとして警察に届けられていなかった。

考えるだけでも不安に思うのに、これらのケースがすべて、児童性的虐待について何ら知識のない男達の手によって取り扱われていることを知って、本当にぞっとした。




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