大寒を過ぎたと言ってもまだまだ肌寒い、というよりまだこれからが冬本番といった雰囲気だ。
 恭介の就職が決まり、嬉しい反面本当に道を別ってしまうのだな、という事実が寂しく胸に響く。だから僕らは時間の許す限り、皆でいた。リトルバスターズでいた。
 しかしふと僕は振り返る。
 いないのだ、彼女が。

「…………」

 皆いるのに。皆でいたいのに。
 何故か僕が好きな女の子だけが、そこにいない。  時に世間は冬。場所によっては雪も降る、一年で最も寒い日々。

 でもところにより――夏。



























" 真夏のバレンタイン "



























 その話を聞いたのは年が明けてすぐのこと。
 いつものように茶室で彼女とのんびりした時間を過ごしている時のことだった。

「私……国に戻ろうかと思うんです」

 ことん、とクドが湯呑みをちゃぶ台に置いただけが間抜けに響き、なんだかシリアスな気分じゃなかった。でも同時に、血の気が引いていくのがわかった。
 遠退いていってしまいそうな意識をなんとか繋ぎ止めて、クドと向き合う。

「く、国ってテヴアのことだよね……まだ閉鎖されてるんじゃ」

 はい、とクドは俯いたまま言う。

「でも、もう暴動は鎮圧しているそうなんです……一般の開放はまだなんですけど」

 一般への開放。
 きっとクドに意図も裏もない、ただ彼女はあの国に両親がいて。自分もその血を引いていて。

" リキは他人ですから "

 そう言っているわけじゃない。だけど、そう聞こえてしまう僕が嫌だ。
 クドがそんなこと言うわけない、わかっている。わかっているんだけど――クドは行けて、僕は行けない。
 そこには確かな隔たりがあり、それこそが今の状況――僕を置いて国に戻るという状況を生んでいるのではないか。

(…………)

 でも僕にそれを止める権利はあるのだろうか。
 両親に会いたい、安否を知りたい。そう思う彼女を止める権利は――僕にあるのだろうか。
 どこかの部活動だろうか、遠くから声が聞こえる。だから僕らの間に、静寂はなかった。でもそれがなかったからこそ、僕は言葉を発することができなかったのだと思う。

「……もしテヴアに渡ったとして、どのくらいで戻ってこれるの?」

 それでも僕は、それを口にした。それだけは訊いておかないと駄目だ、そう本能的に思ったから。
 暴動が治まっているとはいえ、まだ以前のように自由に行き来できる状態ではない。ということはまだ情勢は安定しているとは言えないだろう。最悪の場合だって、あるんだ。
 でも、クドが開いた口から出てきた言葉は――あまりにも、無常なものだった。

「……あくまで今回の解放は元々渡航していた方向けのものなので、そもそも次があるかどうか……だそうです」

 ぐわり、と世界が湾曲したような感覚にとらわれる。
 でも世界はそのままだった。ただ世界が僕らに現実を突きつけているだけで、ただ世界は不変だった。
 そう、今変わろうとしているのは……僕らの方だ。

「だからもし、行ってしまいますと……しばらく、リキに会うことができません」

 俯いて、クドはそう言った。
 クドが言う、"しばらく"――それはどんなに長い期間だろう、考えも及ばない。考えたくもない。
 でもこれは間違いなく現実で、向き合わなきゃならないことで。

「……行きなよ、クド」

「えっ……」

 僕はそう言わざるを得なかった。
 もしかしたらクドは、引きとめて欲しかったのかもしれない。僕だって本当は引きとめたかった。けれど僕は後押ししかできなかった。
 そう、"それしかできない"のだ。僕にはクドを引きとめて、後悔し悲しむクドの姿を見る覚悟なんてできないし、後押し以上のことも何ひとつできやしない。

「本当は行って欲しくないよ……でもこれは、いつかクドが向き合わなきゃいけないことだから」

 本当は泣き出してしまいたいくらいに辛い。でも、それはできなかった。
 だって僕が好きな子が、先に泣いていたから。ここで僕まで泣いてしまったら、どうにも情けないから。
 だから僕は笑っていた。心の中で泣いていても、表面上だけは。笑っていようじゃないか、この子の前だけでは。

「リキ……」

 トン、と肩に軽い衝撃。糸が切れた人形のように、クドが寄り掛かってきたのだ。
 小さくすすり泣くクドは本当に人形のようで綺麗だ。触ったら壊れてしまいそうなくらいに、儚げな西洋人形ドール。その胸に彼女は、どんな想いを描いているのだろう。どんな闇があるのだろう。
 思わず僕は、その小さな身体を抱き寄せていた。
 
「……うん」

 きっとこのくらいじゃ、これから離れゆく僕らの時間は埋まらないだろう。それでも僕はそうせずにはいられなかった。ただ愛おしくて、ただ悲しくて。
 言葉なんか、それ以上出てこなかった。

「リキっ……リキっ……」

 クドはそのまま、僕の胸元を涙で濡らし続けた。
 涙は儚い。こうしてクドを抱きしめたことは覚えていたとしても、この涙はいつか消えてしまう。この涙が消えてしまう時、このことを覚えていたとしても、きっと一抹の現実味リアリティは失われてしまうだろう。

「……うん」

 強く、強くクドのか細い身体を抱きしめる。
 彼女の肩越しで、少しだけ泣いた。










                   ◇









「よ、合席いいか?」

「……恭介」

 昼休み。
 呆けながら食堂のテレビを眺めていると、向かいの席に恭介が腰掛ける。
 朝夕食は変わらず皆で取ることにしているけど、昼食はこうしてぼーっと一人で取ることが多くなっていた。周りがお昼のバラエティを見たがっているのをよそに、淡々とした声のニュースを見る。それが僕の日課になっていた。
 本当に意味なんかない、けれど。

「……大きな動きでもない限り、ニュースには流れないと思うぞ」

 おそらく苦労して手に入れたのだろう、しわくちゃになったカツサンドの封を切りながらそう口にした。

(うん……わかってるよ、恭介)

 きっと恭介も僕がわかっていること、知っていると思う。けれどそれでも恭介は言う。
 それほどに今の僕の姿は痛々しいのだろう、周りから見ると。だから心の中でそう思っていたとしても、僕は口にしない。それは心配してくれての言葉だと思うから。

「ありがとう、恭介」

 だからそれだけを伝えた。多分、これが一番正しいと思うから。
 なんとなく気恥ずかしくて顔は向いていなかったけれど、ちょっと笑っていたと思う。そうやって僕の意思をを尊重してくれるのが、今は一番ありがたい。

(――一ヶ月)

 あの告白から、一ヶ月。彼女がいない日々が始まってから、まだ一ヶ月。

(なんて長いんだろう……)

 クドと付き合い始めてから、こんなに長い間会えなかった時はなかった。この学校で過ごした、ありふれた日々がとても愛おしく感じる。
 この食堂の喧騒の中に身を置き、肩を並べて一緒に食べた。皆にからかわれながら、教室で一緒に勉強した。グラウンドで一緒に汗をかいた。一緒に文化祭を回った。一緒にクリスマスを過ごした。一緒に年を越した。
 ずっと一緒にいたんだ、この場所で。二人で、僕らは。



――じゃあ、なんで今、僕は一人なんだろう?



 本当の意味で、一人というわけじゃないけれど。
 今こうして恭介がいるように、いつも僕の周りには誰かがいてくれた。それは気遣いでもあるし、ただ一緒にいたかったというのもある。ただ単純な好意だ。
 でもそれは僕がクドに抱いているものとは違う、友情という側面の親愛であって、愛情という意味での親愛ではない。同じリトルバスターズで、同じ"好き"であっても、そこだけは分けなくてはならない、絶対的な壁。

(……いや)

 壁なんて、本当はない。
 それは僕が勝手に隔ててしまっているだけであって、皆はそんなもの作っていない。僕がクドと付き合いだしても、変わらず接してくれて、応援してくれて、一緒に心配してくれて、僕の心配をしてくれて。
 そこに壁なんてない。ただここにあるのは、現実だけで。



――能美クドリャフカがいない、という現実だけで。



 たったその一点だけが、こうして僕を堕落させている。まるで半身を奪われたみたいに、無気力。
 こうしてニュースを眺めていることだって、本当に意味のないこと。内容なんて覚えていないし、そもそも本当にテヴア関連のニュースが流れたとして、今の僕が気付けるとは思えない。
 自分勝手な話だけど、僕はここでクドと過ごした時間を思慕するばかりなのだ。もちろんクドの身の安全は心配だけど、僕はそれ以上に楽しかった日々ばかりを想い返している。

(サイテーだよ、僕……)

 思わず目を伏せる。本当に辛いのはクドの方なのに、なんで僕はこんな風に生きてしまっているのだろう。なんで生きているのだろう。
 クドはきっと頑張っている。どんな風に頑張っているかはわからないけれど、クドは困っている人を見たら放っておけないから。
 それなのに、僕は。

(……なにやってるんだろう、ここで)

 そう思う。

「おう、お前らこんなところにいやがったのか」

 そんな僕の感慨をよそに、真人がトレー片手・・・・・にこちらへやってくる。トレーの上にはうどんの丼。あまりにも恐ろしい光景だ。
 その後ろには「こんな奴とは知り合いではありません」と言わんばかりの距離を置き、謙吾と鈴の姿もあった。多分精神的にも物理的にも危険だからだろうと思う。
 真人はそんな周りの不信感もよそに、恭介の隣の席に陣取る。

「最近理樹の付き合いが悪いからな、俺たちの方が来ることにしたんだ」

 謙吾はそう言うと僕の正面の席に定食が載ったトレーを置き、席に着く。鈴もそれに倣って僕の隣へ座った。
 決して謙吾が言っていることは嫌味ではなく、僕のエゴイズムに付き合ってくれているだけなんだ。付き合ってくれ、なんて僕からは死んでも言えない。
 でも付き合ってくれている。何も言わなくたってこうやって集まってくれているんだ、皆本当にお人好しだと思う。
 恩着せがましいなんて思わない。感謝してもしきれないのだから。

「理樹、やる」

「えっ……うわっ!?」

 真人の隣に座った鈴が何かを投げよこした。反射的にキャッチしたけど、それはさほど大きいものではない。というか、むしろ小さい。
 ビニールに包装された、数cm角。

「……10円チョコ?」

 コンビニや駄菓子屋の店頭に売られている、小さなチョコレート。
 彼女から投げ渡されたのは、正にそれだった。

「今日の定食のデザート、カップゼリーじゃなかった」

 そう言う残念というより、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。そこまでショック受けなくてもいいのに。

「でも、なんで今日に限ってチョコなんだろうね?」

 包み紙をくしゃくしゃに丸めながら、チョコを口の中に放り込む。10円チョコだと思って侮っていたけど、味は悪くない。というか、そんなにじっくり味わうほどの量がない。

「……ああ、そういうことか」

 僕と鈴の一連のやり取りを見て、恭介が一人納得していた。
 いや、僕らに全然伝わってこないんですけど。

「――バレンタインだ、今日」

 その言葉に思わず、息を飲む。と同時に口の中に含んでいたチョコも一緒に飲み込んでしまう。
 それはまた鈴も同じ、いや僕以上に衝撃的な一言だったらしく、目をぱちくりさせていた。

「……鈴、本命か?」

「んなわけあるかっ、 ぼけぇーっ!」

 の割には真人のボケに対して超人的な反応を見せ、真人の顔に右足がめり込んでいた。くぐもった声で「ふみまへん」と聞こえたのは、おそらく僕の聞き間違えじゃないだろう。



――今日は2月14日。聖バレンタインデー。










                   ◇









(そっか……バレンタインだったんだ、今日)

 なんだか気まずくなって学食をあとにして、一人教室に戻る。昼休みはまだ折り返したばかりで、教室にいる人もまばらだ。日課にはならないけど落ち着けるし、これでいいと思う。

「……バレンタインかぁ」

 ぼけーっと窓の外を眺めながら、呟く。全く気付かなかった。というより、全く関心がなかった。
 本当だったらクドから何かもらったりして、一緒に過ごして、「ホワイトデー何がいい?」とか訊いてみたり。そんな当たり前の恋人同士をしていたんだと思う、二人でいられたら。
 でも僕はこうして、一人でいた。

(辛い……)

 去年、皆で馬鹿やっている時はこんな気持ちにはならなかったと思う。
 確か去年は『全員もらったチョコは全て溶かしてひとつにしてみよう』という恭介の乙女心を全く考えていないミッションによって、恐ろしく甘々としたバレンタインになってしまった。とんでもない量だったし一週間以上部屋中チョコの匂いが取れなくて酷い目にあった覚えがある。
 ちなみに提供チョコの割合は5割謙吾・3割恭介・1割僕・1割真人(一個ももらえなくて僕がもらった数だけ買ってきた)といった具合だ。しばらく胸焼けしたけど、本当に楽しかった。

「……あの頃のメンバーは、皆いるのに」

 同じように騒ぐ気には、ならない。
 いや、あのように騒ぐのは不誠実のように感じた。去年の自分が目の前にいたら、叱りつけてやりたいくらいに。
 それほどに、僕は変わった。能美クドリャフカという少女に出会って。そしていなくなって。
 所在なさげに足をぷらぷらさせて顔を伏せた。よくわからないけど、いたたまれない。急に走り出したい気持ちになる。情緒不安定というのはこういうことを言うのだろうか。
 大きく溜息をついているとチョイチョイ、と肩を叩かれる。

(ん……誰だろ)

 真人たちはまだ学食にいるだろうし、小毬さんや西園さんもまだ教室に戻ってきていないだろう。そう考えると、こんなことをするのは二人。
 来ヶ谷さんか、はたまた葉留佳さんか。

(…………)

 無視しよ、寝たふり寝たふり。
 もうすぐ昼休みは終わるし、面倒なことに巻き込まれるのはごめんだ。特に今のモチベーションだと尚更。皆一緒に何かをやるんだったらとにかくとして、一対一で相手にするのは少々厳しい。こういう時は無視に限る。もし本当にあの二人だったら、実力行使で起こしそうなものだけど。
 今度はゆさゆさ、と身体をゆすられる。

(しつこいなぁ……)

 こうなったら意地でも起きないでやり過ごしてやる。よくわからない決意を胸に秘め、寝たふりを続行する。というか決意の割に本当に地味だなこれ。
 と、そこでようやくゆすられるのも止む。さて、次は何がくるやら……。

「――さっさと起きろッ、直枝理樹いいいいいーッ!!」

「イ――ッ!!」

 ぐわん、と世界が揺れた。
 耳が痛い、というか鼓膜が痛い。鈴風に言うと「耳キーンだ!」……いや文字通りというか正にその通り。僕の耳は今、もの凄い勢いでキーンってなってる。
 僕の机のそばに立つ、この人の手によって。

「ふっ……二木さん!?」

「あなた、誰だと思って寝たふりしてたのよ……」

 あ、バレてるし。

「まぁ、大方葉留佳辺りと勘違いしていたんでしょうけど」

 更にバレてるし。
 二木さんは呆れたように溜息をつき、肩にかかった髪を払いながら言う。

「付いてきなさい、話があるの」

「え……?」

 僕が立ち上がるのを待たずに踵を返すと、そのままつかつかと廊下に向かって歩いて行ってしまう。まだ返事なんてしてないからご丁寧に付いて行くこともないけど、そんなことしたらあとが怖い。よって必然的に付いて行くしかない。
 二木さんの姿を追って廊下に出る。

「ちょっ……待ってよっ、二木さん!」

 一瞥もせず歩き続ける二木さんの姿を見つけ、急いで追っていく。

「直枝、あんまり大声出さないで……周りの迷惑でしょ」

「え、あ……うん、ごめん」

 二木さんに追い付くと、肩を並べ廊下を歩く。もちろん言葉なんてものはない。
 でも、二木さんが僕に話なんてどういうことだろうか。今年は"まだ"周りに被害は出てないし、野球も冬になってからしていない。バトルランキングも今は行われていない。
 ということは、風紀委員関連じゃない……?

「二木さん……話だったら教室でもよかったんじゃない?」

 そう恐る恐る提案してみる。

「……できないわ、あんな場所じゃ」

 まるで呟くように小さな声で、そう言った。
 それで気を悪くしてしまったのか、それっきり顔すらこっちに向けてくれることはなく、もちろん会話もなく僕らは廊下を歩き続ける。
 身に覚えはないし、何よりさっきの反応を見る限りは委員会室に連行されているわけではないらしい。そこはひとつ安心。
 けれど逆のそのさっきの反応こそが、僕にはよくわからなかった。

(教室じゃできない話……)

 ひとつだけ検討が付いた。けれど、おそらく二木さんに限ってそれはないと思う。好感度的にも、人柄的にも。

「階段、上がるわよ」

 それだけ言うと二木さんはすたすた上の階へ向かっていく。だが次の階に上がっても、尚も階段を上がり続けていた。

「二木さん、そっち屋上じゃ」

「いいのよ、屋上で」

 昼休みの屋上と言えば小毬さんがいるはずだけど、本来立ち入り禁止の場所だ。外へ出るのも鍵がなければ窓の止め具であるネジをドライバーで外す必要がある。
 でも小毬さんが屋上にいるとしたら、ドライバーの必要はない。もう既に開いているということだから。

「……やっぱりね」

 立ち入り禁止と張られた一対のカラーコーンを前にして、二木さんが溜息をつく。目の前には埃の上にくっくりと残された足跡。

「二木さん……知ってたの?」

「見逃してあげてただけよ、悪さするような子じゃないってわかってるから」

 それは確かに。

「……あの子の場合、うっかり落ちたりしないかが心配だったけど」

 それも確かに。
 ひらりとスカートを舞わせて、二木さんはロープを乗り越えた。僕もそれに続く。
 踊り場まで出ると、やっぱりネジが外されていて窓が開いていた。

「直枝、先に出て」

「あ、うん」

 先に行かされる理由は前の経験からわかったので、素直に先に屋上へと出る。制服の埃をぱたぱたと払うと風に流れていく。
 ちょっと伸びをしているうちに、二木さんも早々に屋上へ降り立っていた。

「神北さん、降りてらっしゃい」

 上に向かってそう言うとドンッというかガンッというか、とにかくとんでもなく鈍い音がする。そして風鳴りにかき消されそうな大きさで『ごめんなさい〜……』という声が聞こえてきた。
 きっとまた給水塔の下に隠れようとして頭でもぶつけたのだろう、難儀な人だ。

「……怒らないから」

 はぁ、とひとつ溜息。
 今まで見逃していたのだから本当だろうけど、どちらかというと呆れてるというか案の定と思っているのか。確かにこんな調子じゃいつ足を滑らせてもおかしくはない。
 上からがさごそと音がしたと思ったら、僕らが想像していた人物と同一の人物がはしごを降りてきた。「よいしょ」と言いながら降り立ち、ぱたぱたとスカートを払ってからこちらへと向き直る。

「ふぇ……理樹くんと、二木さん?」

 降り立つまで本当に気付かなかったらしく、いつも通りのおとぼけ具合を発揮する。また二木さんが溜息をついた。
 確かに意外な組み合わせだとは、我ながら思うけど。

「私たちここでお話をしたいのだけど、席を外してもらってもいいかしら?」

「あ、うん。わかったよ〜」

 それがお咎めなしとの交換条件だと思ったのだろうか、小毬さんは微笑んで踵を返す。元々時間も時間だしもう戻るつもりだったのかもしれない。丁度良い頃合いだったんじゃないだろうか。二木さんはそこまで計算していたのかもしれない。
 と、小毬さんが窓の前でぴたりと止まり、振り返った。その顔に笑顔は浮かんでおらず――。

「……理樹くん」

 そう、乞うように僕の名前を呼んだ。

「……小毬さ」

「――ううんっ、なんでもないよっ」

 小毬さんは僕の言葉を遮り、取り繕うに笑うとそのまま駆け出すように窓の向こうへ消えた。徐々に遠ざかる足音だけが耳に響き、そしてその音はいつしか風鳴りの中に消えてしまう。
 残ったのは、僕ら二人。

「……罪作りな男ね、あなた」

 今日何度目の溜息だろう、二木さんは呆れるように言った。

「――――」

 僕は鈍感な部類の人間に入ると自分でも思う。でもだからと言って、毎日顔を合わしている少女たちの好意に気付かないほどに朴念仁でもない。
 鈴の妙な反応も、今の小毬さんの表情の意味も、それも全てそういうことだ。クドと付き合い始めてから気付くという、とても愚かな僕だけど。

「最近、腑抜けてるそうね?」

 腑抜けるという表現が正しいかはわからないけれど……確かに僕は、以前の僕とは違う。クドがいなくなってしまってから。
 でもそれは人として当たり前だろうし、クドが帰ってくるまできっと変わらないこと。情けないことだけど、それは事実。
 事実、だけども。

「……クドリャフカがいないから?」

 すとん、と二木さんが僕と同じ舞台に降り立った気がした。簡単な言葉で、更に言葉を選ばないとしたら"土足で踏み入れた"と言ったところだろう。
 事実だけども、はっきりと言われるとそれはまたそれで癪だった。

「……そうだよ、だから何なのさ?」

 二木さんに悪意がないのはわかっている。この人はいつも正しい方向にしか物事を運ばない人だから。ただその常識が全ての人の感情に当てはまるかと言えば――NOだ。
 だから僕は、その苛立ちをそのままあらわにせざるを得ない。

「あら、ごめんなさい。気分を悪くした?」

「――……」

 前言撤回。
 こんな笑い方――悪意以外他ならない。苛立ちは募るばかり。

「嫌味を言いにここまで来たのなら、帰るよ」

 教室で言えない話がこんな話なわけない、僕が二木さんから引き出したいのはその本音だ。
 二木さんのような御堅い人がこんなイリーガルなところに連れてきたのだ、よっぽど秘密にしたいことに違いない。僕はそれが知りたかった。

「そうね、なら単刀直入に言うわ」

 腕を組み、言葉を探すように二木さんは目を閉じる。
 北風が冷たい。この場所には長くいられないだろう――だけど二木さんは目を閉じ、まだ何かを迷っていた。
 そしてようやく開いた彼女の口から出た言葉は、あまりにも予想外なものだった。

「――強くいなさい。クドリャフカと一緒にいた頃のように、胸を張りなさい」

「……え?」

 意味がわからない――いや、理解ができない。
 僕が弱くて何がいけないのか。好きな人がいなくなって、弱くなってしまうことはいけないことなのか。そもそもなんで二木さんにそんなことを言われなきゃならないのか。
 僕には理解できなかった。

「周りの女の子に弱さを見せないで、と言ってるの」

 それを指すのは、リトルバスターズの皆のことだろう。
 確かに皆は喪失感ばかりの僕を支えてくれていた。でも僕らは仲間だから、少しぐらい寄りかかってもいいんじゃないだろうか。それすら今の僕には、許されないのか。

「……できないよ、そんなこと」

 だから、そう言った。

「――そうやってあなたは自分のことばかりっ!!」

 響き渡る、彼女の声。荒い息遣いが僕の耳に届く。
 それでも荒れた呼吸を整えることもなく、次の言葉を搾り出す。

「あなたの仲間はね、"仲間"である前に"女の子"なのよ……?」

「あっ……」

 そうか。
 僕の周りには、僕に好意を寄せてくれる人がいて。
 でも僕には好きな人がいて。
 そしてその人は今はいなくて。
 僕は一人で。
 僕は弱くて。
 その弱い僕を支えてくれるのは、僕に好意を寄せてくれる人で。
 僕の隣には誰もいなくて。



――もし、逆の立場だったら?



 ……なんて都合の人間なのだろう、僕は。自分で自分が嫌になる。

 教室から今に至るまで、二木さんはずっと何かを恨むような、そんな怖い顔をしていた。当たり前だ、こんな馬鹿な男を説教しに来ているのだから。
 でも次の言葉を紡ぐ前にフッと、優しい顔を見せた。次の言葉を聞いた時、その表情の意味を理解する。
 それは妹を想う、姉の顔だったのだ。

「葉留佳ね、昨日あなたにチョコを作ってたの……」

 愛おしく、でもちょっと「馬鹿ね」と想う姉の顔。

「でも完成したのに渡さないって……どうしてかわかる?」

 分からないわけがない。だって葉留佳さんは、ああ見えて優しい人だから。

「『ここで私が渡しちゃったら裏切りになる』って……泣きながらに言うの。馬鹿でしょ? あの子」

 馬鹿じゃないよ、だって二木さんも泣いてるじゃないか――あれ、僕も?

「……きっとあなたの周りの子は皆、同じように用意してるわ。でもきっと渡さない、あなたは一番の相手から受け取れないから」

 ああ、馬鹿だよ。実に馬鹿だよ、僕は。皆は馬鹿じゃない……好きな人にあげたいと思うのが、当たり前じゃないか。バレンタインなんだもの。

「あの子が……ううん、あの子"たち"が、どんな気持ちでチョコを作ったか……考えてあげてっ……!」

 うん。

「……ありがとう、二木さん」

 二木さんは泣いていた。妹と、その仲間を想って。
 僕も泣いていた。二木さんの妹と、その仲間に謝りたくて。

「……ありがとう、二木さん」

 もう一度、そう言った。
 僕は二木さんに叱咤されなければ、ただの馬鹿で終わったはずだった。自分が傷付いた振りをして、周りをもっと傷付けて。
 そうして偽りの信頼関係を結び続けていたはずだった。



「……ごめん、皆」



 僕の呟きは、北風に流れて消え行った。









                   ◇









 夢を見ていた。二つの意味で、夢。
 僕は寝ていて、そしてこれは叶わないことで。だからこれは夢で。とても悲しい夢だった。

 でも、それはとても幸せな夢。



『――リキ、泣いているのですか?』



 うん、泣いてる。久し振りに、自分以外のために泣いてる。



『――辛いですか?』



 うん、辛い。凄く辛いよ、君に会えなくて。



『――じゃあ、この"青"を見て下さい』



 僕は砂浜に立っていた。さらさらと足元が崩れて、転びそうになる。
 その先にクドがいて、その先に――"青"があった。





『――私たちはいつでも、いつまでも一緒なのですっ』



























(…………)

 気が付くと、そこは机の上だった。寮の自室の、僕の机の上。そこに突っ伏して僕は寝ていた。
 あのあと僕は教室に戻らず、一人寮へと戻った。5時間目が終わった後の休み時間に真人が様子を見に来たけど、早退する節を伝えて欲しいと言っただけだ。
 そして、そのあと――。

「……うわ」

 制服の端で目元を拭うと、すぐにぐしゃぐしゃに濡れてしまった。
 それはとてもとても幸せな夢。
 僕と僕の彼女と、見たこともない青色。そしてとても暑かった覚えがある。

(よく、わからないけど――)

 あれはきっと、クドの故郷。日本が真冬の時、真夏の南の島。
 そこで僕は出会っていたのだ、クドと。二人で。

「ぐぉおおぉぉおおぉぅぅー……」

「――……」

 余韻に浸ろうという時に、人外としか思えない音で現実に呼び戻される。
 端的に言うと、真人のいびき。

「……あれ」

 明るいと思ったけど、電気が点いているわけじゃなかった。それはもうカーテンから漏れる朝日。
 要は僕はこんな不自然な体勢で、もの凄い時間寝ていたのだ。

「いてて……」

 立ち上がると身体がとんでもなく固まっていて、ヨロヨロと窓まで向かう。カーテンを開けるとそこには、いつもと変わらぬ冬模様があった。

(……そんなわけないよね)

 バレンタインの日に、真夏だなんて。
 ありえないことだった。

「……あれ」

 ふとさっきまで僕の寝ていた机に目をやると、見慣れない小包があった。遠めから見ても、もの凄く不恰好な小包。
 二木さんの言う通り、僕は昨日プレゼントを何ひとつ受け取っていない。それは盟約とかそんな壮大なものなわけじゃないけれど、暗黙の了解のようなものだったんだと思う。
 ということは、真人が誰かから受け取ってきたのだろうか。形として僕は早退したわけだし。
 半分ほど小包に踏み潰されていたメモを抜き取る。

『寮長から受け取った。名前が書いてあるけど読めねえ。』

 そう殴り書きのような字で書かれていた。まぁ、真人の字はいつもこんなもんだけど。
 そんな難しい名前の人だったのだろうか? そんな難しい名前の人、僕の知り合いにいただろうか。小包を手に取って小さく貼られたラベルを見る。



『Dear Riki Naoe. From Kudryavka Noumi.』



「えっ――」

 そこに書かれていたのは、この国にいるはずのない女の子の名前だった。
 でもそれもそのはず、この小包はよく見ると手渡しではなく郵送、しかも国際便ということがわかる。つまりこれは、日本からではなく。

「……テヴアから、送ってきたんだ」

 かたん、と腰が折れるように机に座る。そしてそのままその不恰好な小包に添えられていた手紙を開いた。










 Dear リキ



 リキ、お久し振りです。元気にしていますか? 私は慣れないことだらけですけど、とっても元気に暮らしています。
 今私は暴動で住むところや家族を亡くされた方の避難所にお父さんと同行していまして、配給などのお世話をお手伝いしています。
 あ、そうは言いましても国内の情勢は安定しています。まだ政権の再編成が済んでいないので外交を閉鎖しているだけなのです。心配なさらないで下さい。
 こちらはとても暑い日々が続いていますが、日本はそろそろバレンタインデーだと思います。支給されたものを湯銭して固めただけなので美味しくはないかもしれませんが、受け取って下さい。
 あ、でもそもそもこの手紙がリキに届くかもわからないんですよね……ど、どうしましょうっ。違う直枝さんに届いてしまったらとても恥ずかしいのですっ。
 ……もしリキじゃない直枝さんに届いてしまっていたら、直枝リキという人に届けて欲しいのです。お手数ですがよろしくお願いします。
 
 テヴアの海と空の青さと一緒にしたためて。



 From クドリャフカ










「……ぷっ」

 思わず吹いてしまった、あまりにもクドらしい文章で。
 というか最後、僕に向けての言葉じゃないじゃないか。これ全国の直枝さん向けのメッセージじゃん、最後。

「フ……フフ……アハハハハハ!!」

 笑った。大いに笑った。涙が出るぐらいに笑った。あの日以来、初めて笑った。
 あの日以来、初めて嬉しくて泣いた。大声で、笑いながら。本当に、腹の底から。
 朝だということも忘れ、本当に大声で笑ってしまった。こんな時ルームメイトが真人でよかった、と心から思う。全然起きないし。

「は……腹痛いっ……なんで手紙で焦ってるのさっ……」

 もっと沢山推敲して、書きたいことだけ書けばいいのに。きっと苦労しただろう、苦労したんだからもっと書きたいことを書けばいいのに。
 そう思うと、涙が溢れた。

(……これで終わりじゃないんだ)

 これは僕らの始まりであって、終わりじゃない。これから何通も何回もこうしてやり取りをしたりするんだ。時として届かなかったり、心配して前の手紙が届く前に次のを送っちゃったりして。
 そうして見た目には辛い、そして予想以上に愉快な遠距離恋愛が、続いていくんだ。  僕がクドを好きである限り、クドが僕を好きである限り。
 こんな悪戯な運命に負けやしない、僕たちは。

「そうだ……ちゃんと食べないと」

 形の残るものじゃない、だったらちゃんと食べて思い出にすることが一番正しいことなんだと思う。
 粗末な包装を解き、小さな箱を開けてみる。中には料理部部長(部員一人だけど)が製作者だとは思えない、岩のようにゴツゴツとしたチョコの塊がいくつか入っていた。
 その中のひとつを摘み上げてみる。

「……溶けてくっ付いてるし」

 ひとつ摘んだつもりが、全部くっ付いてきてしまった。大きく溶けてしまっているわけじゃないけど、ところどころ。
 テヴアの暑さだろうか、それとも飛行機の熱さだろうか。長い旅を続けてきたクドの想いは、ちょっとだけ形を変えて僕の元まで届けられた。
 不恰好なチョコを下からかじり付いてみる。

「美味しい」

 ちょっとだけビターな、固めのチョコレート。
 飾り気のないこのチョコがとても美味しく感じるのは何故だろう。本当に湯銭して形を整えただけのチョコが何より愛おしく感じるのは何故だろう。

(ああ、そうか……)

 バレンタインだからだ。
 クドの想いがいっぱい溶け合っている、ちょっと苦いチョコレート。
 今の僕らの関係と同じで、とても無骨で苦い日々だけど溶け合って続いていく日々。
 きっとこれからも会えない日々が続いて、辛い日々が続くと思う。
 でも、もう大丈夫。僕は歩いていける。こうしてクドが一緒にいてくれると、わかっているから。

「きっと届けるよ、クド」

 来月はホワイトデー。今度は僕がお返しを送る番だ。
 届くかどうかわからないけど、届くまで何度も送ろう。このバレンタインのお礼をしたためて、僕の想いも彼女に届くように。
 僕のプレゼントも少しだけ溶けちゃうかもしれないけど、きっとクドもわかってくれる。

 溶けてなくなっても一緒に歩んでいくよ。きっと君の元にも行くよ。
 決してこの想いは、消えてなくならないから。










 僕は君が好きだから。










                   ◇









(……届いたでしょうか、リキに)

 波打ち際で素足を晒しながら、地平線の向こうを眺める。この遥か海の向こうに、リキがいるはず。
 この海岸で拾った、ボロボロのコンパスが壊れていなければだけど……。

「……ど、どちらにせよこの地球のどこかにリキはいるのですっ」

 大きく両手を開いて、誰に言うわけでもなくざざーんと鳴く海に叫ぶ。なんというか、虚しい。
 きっとあの小包は、リキに届く。もし違う直枝さんに届いたとしても、きっとリキに届けてくれるはず。自分で言うのも難だけど、大したものじゃないから。
 あ、でも税関に引っ掛かってたりしたら届かないかも。

(…………)

 だ、大丈夫。多分。やましいことは何もないんだから。ヘンなものも入ってないし……入ってませんよね? テヴア製チョコレート。

「心配なのです……」

 燦々さんさんと照り付ける太陽の下、いじいじと砂にうずまきを書く。こんなに綺麗な場所で、私は何をやっているのだろう。
 いくら寒いのが苦手な私でも、こんなにいい天気が続くとちょっと嫌になる。日本のように湿気が強いわけじゃないから気持ち悪くはないけど、ちょっと飽き飽き。
 格好付けて『テヴアの海と空の青さと一緒にしたためて』なんて書いてみたけど、一ヶ月以上毎日見ていたら感慨も薄れてくる。この青さはテヴアにとって、当たり前なことだから。
 でも、これだけは思う。

「……いつか、この青をリキと見たいのです」

 自分のわがままで一度は道を別ってしまった私の、最後のわがまな。
 もし、リキが今でも私を待っていてくれるのなら……一緒に見たい。この青を。海と空の境界がない、この世界を。私の愛する人と、この国の当たり前を。
 二人で、見たい。

「クーニャ、手伝ってくれるかい?」

「あ、わかりましたっ」

 おとうさんの声が海岸に響く。
 この海岸に私以外の人はいない。何故なら今、この国の人はこんな当たり前なことに気を取られている場合じゃないから。靴を手に持ち、海岸をあとにする。
 さぁ、今日も頑張ろう。こんな当たり前なことを、一人でも多くの人が思い返せるように。

「…………」

 ごめんなさい、またちょっと格好付けました。
 本当は一日でも早くリキに会いたいから。一日でも早くテヴアが安定してあの人のところに、皆のところに帰りたいから。
 でもテヴアが安定して欲しいのも本音で、リキのところに早く帰りたいのも本音。八方美人なんて言われちゃうかもしれないけど、どちらも譲れないことだから。



――今日は2月14日。



 きっと日本はとっても寒い。マントと帽子を被ったくらいじゃ、寒さなんて防げない。もっともっと着込まないと。
 あ、でももしかしたら私が帰る頃には暖かくなってるかもしれない。リキと出会った頃のように、桜色の花弁が風に舞っているかもしれない。
 でも今は冬。場所によっては雪も降る、一年で最も寒い日々。



 でもところにより――夏。




















 あ はっぴー ばれんたいんでい とぅー ゆー! なのですっ。








後書き




↑ご感想があれば是非!↑