その日、夜からシトシトと雨が降り始めた。
 明日から連休のためか、いつもの週末より寮内は静かに思える。俺のルームメイトも授業が終わるとさっさと自宅に帰っていってしまった。

(……今はこの方が良い)

 痛む肩を抱える。
 これでいい、俺は一人で投げ切れる。仲間や友達なんて、頑張ったって信じたって裏切るものだ。
 ただアウトを捕ってくれる道具だと思っていた方が、何も考えずに済む。

(勝てばいいんだ……)

 勝ち続けていれば、今のままでいられる。知ってしまったことを忘れることはできないけど、それを変えていくことはできるはずだから。きっと勝ち続けていれば、変わっていくと思うから。
 肩を抱く手のひらの力が、一層強くなる。

――まるで別れを惜しむように。



























6.我楽多の肩



























 朝窓を開け放つと、昨日の雨が嘘のような快晴だった。
 突き抜けるような青色、正に秋晴れというべき群青色。一般的には良い野球日和だろうと思う。

(…………)

 まだ濡れている校舎や木々を眺めながら、少し呆ける。どこも幻想的ではないのに、どこか現実味のない風景。気分は泥に浸かっているような気分なのに、どこかフワフワと浮いているような身体。
 少なくともベストコンディションではないけど、不思議と不調とも言えない気がする。

「ま、良い分にはありがたいけど……」

 肩を回しながら今日の準備を始める。痛みはあるけど、昨日までに比べるとそう深刻な状況だとは思えない。
 希望的観測にしか過ぎないが、一日何もしなかったことが功を制したのかもしれない。少なくとも一昨日の試合よりは良い状態だと思う。

(……勝ちたい)

 それは実に純粋な功名心だった。
 投げて、試合に勝って、勝利投手になって、もう一段階高いステージに立って、また投げて、また試合に勝ちたい。
 ひとつでも多く勝てれば、将来的にももっと大きなステージでプレイできる可能性が出てくる。俺は今のところ他に才能が見つけられていないから、できればこの道で進んでいきたい。
 いや、進みたい。

(負けるものか……)

 今日の相手に。
 そして、今日の痛みに。

 手早く準備を済ませ、寮室を出る。いくら身体の調子は悪くなかろうと、昨日一日身体を動かさなかったということは不安だ。
 集合時間まで、早めの準備運動と行こうじゃないか。










                   ◇









「――九番ピッチャー、加藤」

「はい」

 ベンチ前でキャプテンからスターティングメンバーが発表され、各自その場でストレッチを始める。昨夜の雨の影響で、グラウンドにはまだ整備が入っているからだ。
 まだ第一試合の入り時間に少し早いものの、まだ慌だしい姿を見かけることから見ると、ここまでの状態にするまで相当の時間がかかったのではないだろうか。
 今までは学校から程近い市営球場ばかりだったけど、今回からようやく県営球場での試合になる。夏の大会と違い、数多くの予選を県内各地で行っているのだから、その辺りは仕方がないかもしれないけれど。
 外野両翼は今までよりもやや広い。マウンドや内野だけでなく外野の芝も濡れに濡れてしまっているので、ボールを追うことも送球することも苦労するはずだ。ここ数試合のようにポンポン外野に飛ばされてしまっては、試合にならないかもしれない。
 しかしそれは内野も一緒で、今係員の人たちがスポンジで水を抜いているにしても相当土は緩いだろう。勿論バウンドも変わってくるだろうし、足を取られることもあるはずだ。
 どちらにせよ、エラーや長打で失点やスコアリングポジションで投げる機会は増えてくると思う。できれば球数は増やしたくはないけど、そう言っていられる相手じゃない。

(――この状況じゃ最悪な相手だよな)

 相手はここ数年振りにブロック予選を勝ち抜き、古豪復活と名高い学校。
 特に守備に力を入れているチームで、今大会もわずか2エラー。先発中継ぎ2人ずつで毎試合継投し、1試合最高失点で2点。
 一方、それに比べると我がチームはどうやって勝ち抜けてきたんだ? と言わんばかりの守備成績。ここまで残っているチームでは確かワースト1だ。
 勝てる見込みがあるとすれば乱打戦だけど、継投を駆使されたらそれも難しい。
 と、いうことは、

「せいぜい抑えてくれよ――我が校の大エース様・・・・・

「――――」

 ドン、とキャプテンの気遣いとは違う荒い肩の叩かれ方をする。それは頼むぜとか、頑張れよとか、そういう激励の意味ではなくて。

 ただ単純でシンプルな――悪意。

「……加藤、気にするな」

 その痕にそっと上乗せするように、キャプテンが俺の肩に手を乗せる。

「――いえ、俺が踏ん張らなきゃいけないのは事実ですし」

 そう、それは事実。
 そもそも俺が打たれなければ負けることはない。今までの調子だったら無理なことだけど、今日の調子ならいけるかもしれない。
 堅守ではあるけど、正直貧打の部類に入るから。もしかしたら打撃成績だけだったらこちらの方が上かもしれないし。

「無理はするなよ、うちはお前しかいないんだ」

 それもまた事実で。
 投げたくなくたって、投げるしかない。俺は今そういうポジションにいる。
 もう泣き言なんて言ってられない。マウンドに立って試合開始のサイレンを聴いたら、あとはもう必死に投げ続けるしかないのだから。
 今のところ痛みはないけれど、投げ始めたらどうなるかはわからない。今までと同じか、もしかしたら昨日以上に酷くなってしまうかもしれない。
 でも、投げ続ける。もうそれしかない。

「はい、整備終わりましたよ」

 人のよさそうな中年の係員の方が、グラウンドからの去り際にそう言った。

「よし、アップ始めるぞ!」

 キャプテンの号令に応えた声たちが、まださほど人が入っていないスタンドに反響していた。










                   ◇









 試合は驚くほどに拮抗していた。

「オーライ!」

 高く上がった三塁線上のフライを、サードがややバックして捕球する。これで三者凡退。
 わずか2安打しか許さなかったエースをあっさりと降板させてのリリーフだったか、浮き足立つこともなく堂々としたマウンド捌き。敵ながら実にリリーフ専門向けな性格な選手だと思う。
 一点が遠い。というより、ここまで三塁すら遠い。でもそれは相手も同じで、ベストピッチでないにせよこちらも3安打2四死球でまだ三塁を踏まさず。エラーもなんとか出ていない。
 一昨日の登板に比べると調子が良い。それは間違いない。

(あと三回……か)

 頬まで流れ出る汗をタオルで拭い、グラブを手に持ち立ち上がる。
 攻撃はあと二回しかないけれど、守備は少なくともあと三回ある。もし点を取ったとしても失点してしまえば意味がないし、負けじゃないにせよ延長の可能性もある。

「加藤、この回の投球練習は?」

 ベンチから出る間際に正捕手の先輩――宮本先輩に話し掛けられる。
 イニングが始まる前の規定投球練習は通常五球。多く投げることは許されないが。減らす分には構わないとされている。だから俺は前回から投げるのを止めた。
 限界が近い、と感じ始めているから。

「……いえ、この回も」

 そっか、とだけ言って先輩はキャッチャーボックスへ向かう。
 これは俺の主観でしかないが、宮本先輩は良い人だ。ちょっとキャッチャーとしては少々頼りないかもしれないが、キャプテンと同じで俺のことを認めてくれる、部内でも数少ない理解者の一人だと思っている。
 だが高校に入るまで捕手経験がなく、捕手としての公式戦デビューも今大会。リードはもっぱら俺の方がしている状態だ。負担は少なくないけど、キャッチングとブロックサインで手一杯の先輩に任せるよりは確実だと思う。

(っても……しんどいな)

 ぬかるんだマウンドからロージンバッグを拾い上げ、右の手のひらで遊ばせる。
 調子は悪くない、だからといって痛みがないわけではない。あくまで投球できるレベル、というなだけだ。
 言うなれば潤滑油を失い、錆びても尚動かし続けなくてはならない鉄の関節。ボロボロと錆が削れ落ちても休むことは許されず、朽ち果てるまでマシーンのように投げ続けるのみ。
 そしてこの腕は、いつか落ちてなくなるだろう。我楽多ガラクタのように。

 機械のように、パーツを交換したら直ればいいな――他人事というか、まるで絵空事のようにそう思った。

「バッターラップ!」

 ネクストバッターサークル付近で軽く素振りしていたのはラストバッター、相手は前の回に8番のピッチャーのところに代打を出したが、そのまま凡退。リリーフが入っている。
 二死ランナー一塁で代打ということはよっぽど良いバッターだったのか、もしくはよっぽどリリーフを信用しているか。
 もしくは。

(――このバッターに回したかったか……だ)

 ここまで二度の対戦で1の0、1四球。第一打席は見逃しの三振で、前の打席はワンスリーから速いストレートでカウントを整えての遅い変化球だったが、見送られて四球。そもそも俺がボールを先行させてしまったのが悪いのだが、選球眼は悪くないと思う。
 貧打としてしか認識していなかったけど、上位と下位で両方クリーンナップを組んでいるのかもしれない。

(様子を見るか……)

 外角にストレートのサインを出す。さっきは最後の一球以外ははっきりとしたボールだったから、もしプルヒッターなら手を出してくる辺りだが。

「ボール!」

 出してこない。ギリギリストライクを狙ったつもりだったけど、ボール半個分ほど外してしまった。

(……この球威でこのコントロールかよ)

 一回戦辺りに比べると程遠い威力と精度のストレート。三振も取れなければストライクすら取れないなんて。
 ……ああ、痛えな畜生。

(ここはカウントを整える)

 チェンジアップのサイン。今の調子なら全力のストレートよりまだマシなコントロールのはずだ。グラブの中でクルリと握りを変える。
 前の試合から肩の痛みを考慮し、ランナーなしの場面でもセットポジションから投げることにした。その一球。

「ボール!」

 予想より遥か手前でワンバウンドし、今までで一番ハッキリとしたボール球。ノーツー。

(……ヤバイ)

 俺の持ち球の中でカウントを取れる球は、もうない。
 抜く球であるスローカーブはどこへぶっ飛んで行くかわからないし、他の球はまだ練習中だし何より宮本先輩が捕球できない。
 せめて荒いバッターであればストライクゾーンに投げれば、打ち損じてくれる可能性もある。でもこのバッターは見る目もあるし、おそらくミートも悪くない。

(なら……素直に打ってもらおう)

 無死の場面で敬遠するなんて馬鹿らしい、球数も無駄だ。ならコーナーを狙わずに打たれた方がまだマシだというもの。
 俺はサインも出さずに、その一球を投じる。





――ギギ、と何かが軋む音がした。





 上がる歓声、駆け寄ってくる先輩――遥か後方に舞い上がっていった白球。
 この日初めて気を抜いた投球がそのままバックスクリーンに飛び込むなんて、誰が思っただろう。



 我楽多ガラクタの肩が、ガラガラと音を立てて崩れていくのがわかった。