不幸の後には必ず幸せが来る、そう信じている人がいたりする。
 そんなわけないだろうと。本当に不幸な人は、幸せなんて感じずにこの世を去っているだろうと。俺は声を大にして言いたい。
 不運を口に出せる人なんて本当に不幸じゃない。幸せを知っているからこそそう言えるんだ。幸せを知らない人にとって、不幸なんて当たり前なことなんだ。



――じゃあ、なんで不幸なんて言葉が存在するのだろう?



 酷く矛盾してるじゃないか。



























7.世界の終わる時



























 あとの三人はなんとか抑え、イニングは8回目を数える。
 残り二回、その差一点。

「――どっかの誰かが打たれなきゃよ」

 ベンチに戻ると誰かがそう呟いたのが聞こえた。

「…………」

 事実だ、それは紛れもない。
 全力で投げて、その全力が打たれたのであれば怒りをあらわにできたかもしれない。でも俺は打たれるつもりで投げて、そして打たれた。
 野球人として、あまりにも不誠実な投球。当然の結果だ。
 
「加藤、ネクスト」

 ベンチに座る間もなく、キャプテンからバットを差し出される。

「あっ……はい」

 それを受け取り、棚からヘルメットを取りネクストへ向かう。
 切り替えろ、キャプテンはそう言いたいに違いない。
 でも打たれたことに落ち込んでいるんじゃない、打たせてしまった・・・・・・・・ことに後悔してるんだ。
 この肩はもう限界だ、そんなことわかっている。だけどそれを黙って投げ続けているのは俺の意思であって、決して誰彼に強制されているわけじゃない。
 だから力を抜いた時点で、それはもう俺の責任なんだ。

「よし、ナイスバッティング!」

 先頭の八番バッター・宮本先輩がようやくリリーフ投手からヒットを放ち、この試合初めてノーアウトでのランナー。
 そしてネクストバッターは、俺。

(宮本先輩の足じゃ盗塁はない……)

 つまり俺の打席での得点は、ない。今の俺に長打を狙えるほどの余力はないから。
 逆転まで想定するならヒッティングでチャンスを広げたいところではある、答えは単純で延長まで行きたくないから。だけどゲッツーで二死ランナーなしという最低の状況は避けたい。
 ボックスの前で軽く素振りをしながら、名ばかり監督のサインを見る。いくつか無意味な手振りを繰り返したのち、ダミーに埋もれた本当のサイン。

(……好きにしろ、か)

 バッターボックスに入る。
 そのサインの意図、要はヒッティングということだ。リスクを背負ってでも勝ちを見据えるのであれば一番シンプルで一番得策だと思う。
 相手リリーフ投手が、初めてセットポジションに構える。その一球。

(――外角低め!)

 悪くはないけど、シングルを狙うには十分手が届く位置。
 完璧に捉えた――そう思った。

「ストライク!」

 が、俺のスイングはその甘いストレートにかすりもせず空を切る。一瞬何が起きたのかわからず、フォロースルーしきった状況で時が止まったように感じた。
 でもそれは決して俺の勘違いでも相手が魔球を投げたのでもアンラッキーでもなく、ごくごく当たり前で少し考えればわかることだった。

「……タイムお願いします」

 ボックスを外し、一度スイングをしてみる。

(…………)

 そう、肩だ。
 ピッチングの時の方が酷く痛むけど、終始痛みは変わらないのでフォームは変わっていない。だがバッティングの時はその痛みでスイングが歪んでいる。
 素振りを見てみればわかる、インパクト位置よりやや手前でガクンと抜けるようにスイングが波を打っていた。このスイングじゃボールに当たりようがない。

(前の打席まで我慢できたんだけどな……)

 勿論それは堪えてというレベルだったけど、それでも振れないということはなかった。当たり前なことだけど、やはり負担にはなっているらしい。
 スイングができないいうことは、俺にできることはひとつしかない。サインの意図には反することになるけれど。

「すみません、入ります」

 軽く会釈しつつ、再びボックスに入る。
 サインの交換はタイム中に済んでいたのだろう、大した間も空けずセットポジションに入った。今の空振りを見れば攻め方は変わらないはず。
 だから俺はバットを水平に構えた。

「ひ、ひとつ!」

 両の手のひらに小さな衝撃を感じながら、背にキャッチャーの指示を聞く。外へ逃げる変化球を逆らわずに、一塁線上に転がしたのだ。
 結果ランナーは二塁に進み、俺はピッチャーのフィールディングによって一塁フォースアウト。一死二塁の形になった。
 あわよくば内野安打を、と考えてのセーフティ気味のバントだったが、変化球だった分野手の方が一歩早かった。逆に言えば変化球だったからこそランナーである宮本先輩も察し、アウトにならない走塁ができたのだと思うけれど。
 これ以上は望むまい、最低限の仕事は果たした。

「加藤」

 一塁からベンチに戻る途中、丁度今ネクストから左バッターボックスに入ろうとする先輩――渡辺先輩に呼び止められる。
 リードオフマンでショートを守る、このチームの中心選手の一人。キャプテンや宮本先輩と同じく今大会までレギュラーこそ奪えなかったものの、去年の新人戦・今年の県予選で既に公式戦を経験している実力者だ。
 で、なんでそんな実力者が主将になれなかったのかというと――。

「……お前、サイン無視したろ」

 胸に軽い衝撃、それと同時に先輩の目下まで引き寄せられる。
 早い話が俺は先輩に胸倉を掴まれ睨まれている、公式戦のグラウンド内だというのに。

(――有り得ねえよ、この人)

 とにかくこの人は喧嘩っ早く、いつも後輩に八つ当たりばかりしている。俺たち一年からの評価は、概ねそれで一致していた。直接聞いたことはないけれど多分、先輩たちの中でも。
 ……要はこういう人だから選出されなかった、ということだ。

「あのサインは好きにしろ、って意味ですよね……だから送ったんですけど」

「サインの意図もわかんねえのかっ、てめえはっ!」

 俺の胸倉を掴む先輩の手に、更に力が加えられる。
 そんな単純な意図、リトルリーガーでもわかる。でもできなかったから、ああするしかなかったんだ。
 しかしそれを言うわけにもいかず、俺はされるがままでいた。

(……試合中じゃなかったら、もう殴られてんだろうな)

 ぼんやりと他人事のように考える。なんというか、公式戦で胸倉を掴まれてる時点で有り得ない。なのにもっと有り得ないことが俺たちの日常だった。
 たまに体罰だの部内暴力だのがセンセーショナルなニュースとしてお茶の間を賑わせたりするが、そんなもの氷山の一角でしかない。
 高野連なんてものも所詮起きた事件を処理するだけで、表沙汰にならないものをわざわざ水面下から晒すことはない。俺たちの高校も、そんな水面下にある氷山の一部だった。
 渡辺先輩が後輩に手を上げ始めたのは、夏の大会を終えてから。要は主権を手にしてからだ。
 一年早く生まれたことがまるで免罪符のように、他の先輩の見えないところで姑息にもその拳を振り上げ続けてきたのだ。この数ヶ月間。
 色々有り得ないな、と思う。

「君たち……何をやってるんだね?」

 後ろで行われている不穏なやり取りにようやく気付いたのか、アンパイアがマスクを外しこちらを向いていた。
 高校野球は基本的に技術や勝敗よりも、野球を通しての人間形成を主をしている。そのためにグラウンドで唾を吐く・ガムを噛む・全力疾走しないなどのプロ野球で当たり前のようにされている行為は、注意や処罰の対象になっている。
 それを考えればこのような行為は論外のはずだ、普通に考えれば。

「いえ……サインミスを咎めていただけですよ」

 取り繕うように渡辺先輩は俺を解放するものの、アンパイアの目はまだ訝しんでいる風だ。なんとも言えない空気がその場を包む。

「――すみませんでした、先輩」

 だから俺は自身を折り、頭を下げた……いや、下げるしかなかった。
 この先輩の所業が明るみに出ることがあれば、俺たちは没収試合だけじゃ済まないだろう。それこそ水面まで浮き上がり、今この瞬間に暴力行為をしたように世間に晒されるだろう。
 それじゃ無意味なんだよ、それじゃ。一時が万事になってしまっては駄目なんだ。

――それでは俺たちの我慢の二ヶ月間が、野球を続けてきたことが、無駄になってしまうのだ。

「……指導はベンチ内で行いなさい」

 納得はしていない。けれど明確な処罰対象がなければ、口を出すことはできない。  そうして口惜しいように、アンパイアはまた俺たちから背を向けた。

「……許したわけじゃねえからな」

 去り際、渡辺先輩はそう耳打ちしてきた。小さな舌打ちとともに。そのままボックスへ向かっていく。

「…………」

 俺だって納得したわけじゃない。それでも、今は我慢の時。
 プレイの声が掛かる前に、三塁側ベンチへと戻った。

「ナイスバント」

「……どもっす」

 声を掛けてくれたのは、キャプテンだけだった。ボックス裏で行われた珍事を、まるで見ていなかったように。
 一年でベンチ入りしているのは俺を含めて三人、残り二人は他の先輩に目を掛けてもらっているため、その先輩たちが不信感をあらわにしている俺に対して易々と声を掛けれないのだろう。そうした派閥ができるのも、大き過ぎる部の問題点のひとつだと思う。
 そして勿論、俺をよく思わない先輩方が俺に声を掛けるわけもなく。

「お前、怪我とかは大丈夫か?」

 ぽんぽん、と俺の脚やら背中やらをはたくように触りながら先輩は言う。別に哀れみだとか可哀相だからこうしているのではなく、本当に心配してくれての言葉。
 いらぬ世話、と言ってしまいたい気持ちにもなる。でも俺にはそれができなかった。本当に信頼してくれる人の手を払うことは、俺には。

「……次、ネクストですよ」

 でも感謝の言葉は、口から出てきてくれなかった。長いこと人に、感謝することもされることもなかったから。
 俺の唯一の才能は投げて、勝つことが当たり前だったから。だから恨まれることはあっても、感謝されることはなかった。「ナイスバッティング」とか「ナイスピッチ」なんて言葉はただの通例であって、心なんて篭ったものじゃない。

「え、あ……そだっけ?」

 本当に失念していたのだろう、「やべやべ」と言いながらベンチ内を忙しなく動き始まる。
 そう、こんな人だから。こんなどこか飄々ひょうひょうとした人だから。



――だからこの純朴で心から当たってくれてる人に、本当に感謝しているのだ。加藤光太という不器用な人間は。



 キャプテンは三番、現在一番の渡辺先輩がライナーゲッツーでも喰らわない限りはネクストに入る必要がある。ベンチに掛けてあったバッティンググローブを手にすると、ベンチ横のヘルメット棚の横に立った。

「この回、必ず逆転してやる……だからあと二回、頑張ってくれ」

 バッティンググローブをはめながらそう言った。
 さっきまでの他人を気遣う素振りはなく、その目はただ相手ピッチャーを見据えている。スポーツを格闘技に例えたりすることがあるけど、それは間違いじゃない。何故なら目の前に立つ人は、殺気すら秘めたような瞳をしていたから。
 ……一瞬、野球がとても恐ろしいものに見えた。

「渡辺っ、間に合うぞっ!」

 その直後だ。
 鈍い音を立て、白球はサード前方で高々と跳ねる。宮本先輩は好スタートを切り、既に三塁に滑り込んでいた。捕球したサードは周りの指示を聞いていたのだろう、三塁を一瞥することもなく一塁へと送球する。
 しかし。

「宮本先輩、ホームッ! ファーストこぼしてます!!」

 ショートバウンドになった送球は一塁手のグラブに収まることはなく、転々と一塁側ファールグラウンドへ転がっていく。
 ライトもカバーに入っているが、逆に勢いが弱過ぎる。カバーに入ったライトのグラブに収まる頃には宮本先輩はホームイン、渡辺先輩も二塁に到達していた。
 今大会わずか2エラーの相手チームの、三つ目のエラー。それは落ち着いてプレイしていればただのワンバウンド送球で済んだ、些細なミスだった。
 一番バッターの内野ゴロに焦ったのか、ボールが握れていなかったのか、イレギュラーしたのか、そもそもあのファースト・サードは守備は不得手なのか、はたまたこちらのチームと同じく疲れが溜まっていたのか。それはわからない。
 けれど、一点。

(……同点、か)

 片やソロホームラン、片やエラー。
 同じ一点だけど、ちょっと情けない気もする。

「お前、ちょっと不満だったりするだろ?」

 その言葉にドキリとした。それはあまりにも的確な言葉だったから。
 声の主はバットを脇に挟み、ヘルメットを被るキャプテン。隣には丁度一通りの部員とハイタッチを交わして戻って来た宮本先輩だ。先輩は流れ出た汗にスライディングによって舞い上がった砂埃が貼りついて、顔は真っ黒に汚れていた。

「野球は点取りゲーム、一点は一点……違うか?」

「……うっす」

 俺がそう言うと二人はちょっとだけ笑い一人はベンチの中に、もう一人はネクストバッターサークルへと向かう。一死二塁、まだチャンスはこちらにあった。
 しかし二番バッターの打球はセカンド正面のゆるやかなゴロで、一度セカンドがファンブルしたものの渡辺先輩も二塁上から動けず、アウトカウントだけが増える。二死二塁。
 バッターは、三番・キャプテン。

『この回、必ず逆転してやる……だからあと二回、頑張ってくれ』

(――……)

 ボックスへ向かう背中を見送りながら、まさかと思う。
 堅守のチームがエラーで失点した直後に、タイムリーを放つなんて。もし確率を弾き出すとしたら、一体何%になるのか。検討も付かない。
 いや、タイムリーはタイムリーでも、タイムリー"ヒット"ではないかもしれないじゃないか。現に今目の前で起こったのはタイムリー"エラー"。落ち着いてプレイすれば今のセカンドゴロでチェンジになっていたはずだ。
 でもそれは起こった。しかも圧倒的に劣る守備率のこちらではなく、堅守で名高い古豪の方に。しかも、大事な場面で。

「……同点、だよな?」

 この球場は広いけど造りは古く、スコアボードは人間の手で入れ替えられている。そのスコアボードにはっきりと、同点を示す数字。
 これが本当に、同点というムードだろうか。二死ながらランナー三塁、ヒットでなくともバッターが一塁に到達した時点で逆転。ひとつのミスも許されない彼らに、余裕はあるだろうか。
 今思えば、二死目を奪ったセカンド。さっきのゴロだってそんなに難しいものじゃない。ランナーを警戒していたからといって、堅守で通っているチームのレギュラーが、あんなゴロでファンブルするものだろうか。

「同じ……高校生」

 そう、そこに立っているのはプロ野球選手でもメジャーリーガーでもない、俺たちと同じ甲子園を目指す、高校球児。そんな少年たちが「ここでエラーしたら負ける」という場面で、平常心を保っていられるか。
 いや、そんなわけない。緊張しているに決まっている。

(――でも、それは)

 バッターだって同じ。ここで凡退してしまえば、逆転ムードは途絶えてしまう。相手が盛り返してしまえば、いくら4番から始まるからって基礎守備力が違う相手に攻めきれるわけがない。
 それに俺の肩だって、延長まで戦える余力なんてない。いや九回だって投げきれるかどうかわからないんだ。
 そう、勝つ確率なんて既にないに等しい。ここで逆転しなければ、十中八九負けたと言ってもいいだろう。
 そのはず、なのに。



――あと二回、頑張ってくれ。



 どこかであの言葉を、信じていた……いや、信じたかった。俺は裏切り続けられていて、信じたくても信じられなくて。そうしていつしか惰性でマウンドに上がっていた。
 自分で抑えて、自分で打って。それで勝てればそれでいいと思っていた。勝てれば、それで。
 でも。

「……打って下さい、キャプテン」

 思わずそう呟いていた、誰にも聞こえないくらい小さな声で。
 そして、乾いた音が響く。

「せ、せかんっ……いや、ショートッ!」

 相手チームからの指示。ギリギリピッチャー頭上を越えた打球は、勢いを衰えさせながらほぼ二塁ベース上を通過していこうとする。その打球に向かって、セカンドとショートがベース後方で滑り込んだ。
 しかし、それの打球は二者のグラブに収まることなくセンター正面へと転がっていく。捕球する頃には、既に。

「南先輩ナイバッチーッ!!」

 スタンドからベンチ入りできなかった部員たちの声。ベンチ内も先ほどの意気消沈具合が嘘のような盛り上がりを見せている。
 できないと思われていた、逆転――わずか一点ながらも、それは確かなリードだった。残り二回を守りきれれば勝てる。

(――守りきれれば、か)

 果たしてそれができるだろうか、今の俺に。
 果たして投げきれるだろうか、この肩は。

 そっと、昨晩と同じように肩を抱きしめるように触れる。

「あっ――」

 それはどういう言葉で形容したらいいんだろう。
 単純に言えば、痛い。抽象的に言えばそこには継ぎ目とか解れがあって、そこに「あれ? ここおかしいな」って触ってみたら糸がするすると取れてしまう。そんな感覚。
 また縫い合わせれば元通り、そんな風に人間の身体ができていたら世の中苦労しない。ははは、とちょっと笑って俯いてみた。

(……この肩で投げる? 誰が? 何を? 何のために?)



――俺が、ボールを、試合に勝つために……投げる?



 笑い話だった。実に出来の悪い、悪夢のような笑い話。
 それでも俺は笑い話の中に身を投じるだろう。このまま投げ続ける分には、笑い話で済む。俺が降板して負けるなんて、きっと笑い話にもならない。
 俺が情けないピッチングをしてなんとか勝つか、ボロボロに負けるか。それなら笑い話で済むだろう。
 俺が降板して、とてもテンポの悪い試合で負けるか、コールドで負けを喫するか。世間の評価も、部内の評価も、どちらが好ましいか俺にだってわかる。

「加藤、チェンジだ」

 顔を上げると、そこに笑うキャプテンの姿があった。自身の手で逆転打を放ち、チームを牽引するあまりにも眩しい笑顔が。
 何故この人は、俺なんて卑屈な人間に目を掛けてくれるのか。何故この人は、いつも笑っていられるのか。俺は不思議で仕方がなかった。
 野球って、そんなに面白いスポーツだっただろうか。そこまで真剣になれるスポーツだっただろうか。ただ一心にやっていれば、心の底から笑い合えるスポーツだっただろうか。

「――はい」

 俺にはもう、思い出せない。
 額に浮かぶ脂汗のような気持ちの悪い汗をタオルで拭い、立ち上がる。笑い話の主役である、道化ピエロがマウンドに立つために。
 戻れるかどうかわからないベンチを、後にした。

「……お前、顔色悪いぞ。大丈夫か?」

 ベンチを出る際に、ベンチメンバーに手伝われながらレガースを付ける宮本先輩に話し掛けられる。あれ、そんなに一目でわかるぐらいに酷い顔をしているのだろうか。

「あと二回……頼まれたんですよ、俺」

 それだけ言い、マウンドへ向かう。
 もう自分の功名心なんかじゃ、この痛みは堪えきれないだろう。それでも俺はマウンドに登った。
 それは何年か振りに受け取った、信頼へのお返し。どう頑張ったって手に入らなかったものをくれた人への、感謝の2イニング。
 俺は不器用だから口になんかできないけど、その分野球で返すしかない。だって俺には他の才能を持っていないし、努力だって重ねてこなかったから。
 だから俺はマウンドに登り続けよう、この気持ちを返せる時まで。例え野球がつまらないものだとしても。
 そこにエースではなく、"加藤光太"の姿があるなら、それでいいじゃないか。

「バッターラップ!」

 アンパイアの呼びかけに、相手の4番バッターがボックスに入る。当然再び逆転を狙っているのだろう、まるで獣のような雄叫びがグラウンドに響き渡った。
 それは自分を猛るためなのだろうか、それとも相手を萎縮させるためなのだろうか。特にジンクスもなくボックスに入っている俺にとって、それだけはちょっと気になった。別に萎縮したりはしないけど。
 基本的に振り回すタイプの4番だ、凝ったリードもいらない。ストレートのサインだけ出して、早々に振りかぶる。そして大きく"大の字"を描くように腕を回して――。

「ぼっ……ボール!」

 ぽとり、とモーションの途中でボールを落ちてしまった。
 本来この場合ボークに値するはずだが、ランナーがいないのでそうはならなかった。プレートを踏んでいたしこの場合はボールデッドが宣告され、1ボールとして扱われたのだろう。この辺りは少し難しいルールだけど、決して不服なんかじゃない。
 投球モーション中でボールを落とすことなんて、普通滅多にないから。

「た、タイムお願いします!」

 ランナーはいないものの律儀のタイムを掛け、慌てて宮本先輩がマウンドへ向かってくる。それに合わせて内野陣もだ。
 
「加藤……お前、本当に大丈夫かよ?」

 さっきの顔色の件も尾を引いているのだろう、宮本先輩は本当に心配そうに訊ねてきた。
 やっぱりこの人も良い人だ。裏表なく、ちゃんと俺を見てくれる人。キャプテンと同じ、俺個人を見てくれる先輩だ。
 もし、このチームにキャプテンと宮本先輩しか俺を認めてくれるいないとしても……俺は頑張れる。そう思った。

「せっかく逆転したのによ……お前、ヘンな間作るんじゃねえよ」

 他の内野陣よりワンテンポ以上遅れ、帽子をぱたぱたとうちわ代わりに扇ぎつつ渡辺先輩がマウンドへ登ってくる。
 この人にとって、野球は惰性でやっているに過ぎないのだろう。先輩の自主練を見たことはないし、校内で会っても女生徒と二人でいるところしか見ない。
 つまりこの人にとってこの試合は"モテる手段"でしかなく、野球は"爽やかなムード"を醸し出そうとするスパイス以外他ならない。

「――や、すみません。ついロージン付け忘れちゃいました」

 右の手のひらをぐーぱーしながら、ちょっとおどけたように言う。ロージンを拾って一回、二回と手のひらの中で遊ばせた。
 渡辺先輩は俺だけじゃない、周りの皆の空気すら悪くてしまったから。それぐらいしないと、妙な空気のまま守ることになってしまう。だったら、俺が道化ピエロになればいいじゃないか。
 そう思ったのだ。

「……しっかりしてくれよ、加藤。あと二回だ」

「うっす」

 ぽん、とミットで胸を叩いて宮本先輩は定位置に戻っていく。そして内野陣も。

「あー……だるぅ」

 ……ショートのあの人だけが、駆け足もせずにマイペースにしていたけど。
 試合が再開する。

(もう握れもしねえのかよ……)

 グラブの中でボールを遊ばせる。こんな150g程度のボールすら、満足に握れない。そんな状況で投げきれるのだろうか、この試合。
 プレートに触れる前に、ライト方向に視線をやる。

「……ドンマイドンマイ! ピッチ落ち着いて行こうぜー!」

 その視線に気付いたのか、景気付けの声。その声に周りも反応し、多くの言葉が俺に向けられる。

(――……)

 さっきも考えていたけど、野球の声掛け・信頼なんてたかが知れている。一歩グラウンドに出てしまえば、それが本音かどうかすぐにわかることだ。
 でも、こうしてマウンドにいる分には悪くない。もう少しだけ頑張れそうだ、と思わせてくれる。それはもしかしたら、いやもしかしなくても偽りのものだけど、少ないながらその中に信頼してくれる人がいるからだろうか。やっぱり悪くないな、と思ってしまうのだ。
 つまらないことだけど、それはずっと野球に携わってきた人間の本能だな、と思う。

(あと二回……)

 再びストレートのサインを出し、振りかぶる。今度は途中で落とさないようにしっかりと意識し、でも引っ掛からないように握力を微調整して。
 あと二回なら全力投球で凌げる。抑えが効かない変化球に頼るより、よっぽどそっちの方が信頼を置ける。体力的にもなんとかなるだろう、全力投球なんてできる調子じゃなかったから。





――全ては肩さえ保てば、の話だけど。





 それが過ぎった時、グワリと歪んだ世界が歪んだ。視界はどんどん地面に近付いていって、ぼやけて見える世界は一回二回と跳ねて踊った。まるでバンジージャンパーに取り付けられた、小型カメラの映像のように何度も何度も。

 そして来る、暗転。










                   ◇









 なんだかとても騒がしい。
 あれ? 試合はどうなったんだろう。あと2イニング残っているはずなんだけど。
 そうだ、ピッチャーの俺が投げなきゃ試合にならないんだ。チームにピッチャーは俺しかいないんだから、俺が投げなきゃ試合にならない。
 真っ暗闇の中でぽんぽん、と身体を確認する。ああ、身体は大丈夫そうだ。これならまだまだ投げられるだろう。



 ようし、行くぞと立ち上がろうとする――立ち上がれた。

 さて、ロージンを付けないとな、と拾い上げようとする――拾えた。

 じゃ、宮本先輩行きますよ、とボールを放ろうとする――放れない。


 
 あれ? おかしいな。身体は大丈夫なのに、ボールだけは投げられない。どうにも変な気分になって、試しに右腕を上げてみる。高く、高く。
 けれどその右腕はだらしなくぷらぷらと揺れているだけで、うんともすんとも言わない。お陰で痛みも感じないけど、まるで右腕がこの闇に飲まれてしまったような感覚に陥る。
 その肩を見て、思う。





――あ、終わった。





 ただそれだけ。