目覚めた時、初めに見たのは見知らぬ天井だった。元々は白かったのだろう、しかしその天井はややすすけて灰色っぽく変色している。
 "何か"なかった。今まで当たり前に存在していた"何か"が、ぽっかりと俺の中から抜け落ちていた。

「目を覚ましたかね、坊主」

 ふと声がする。少し顔を上げると自分が寝転んでいるのがベッドということがわかり、そして後姿ながら声の主を見つけることができた。小さな背を丸め、何かを書く初老の男性。
 その身に纏っているのは、白衣。

「……病院?」

「そ、ここは病院……で、わしはお医者さん」

 俺がそっちを向いていることをわかっているのだろうか、手を振る代わりなのか右手を上げつつペン回しを披露している。いや、俺もできるし全然驚くことじゃないけど。
 ふぅ、となんだかどうでもよくなって自称・医者のじいさんから目を離す。一番楽な体勢に戻ると、やっぱりそこには灰色の天井があった。
 じいさんが何かを書いているのだろう、カリカリとペンを走らす音だけが耳に響く。

(俺……8回のマウンドに上がって、それで)

 それで……どうなったんだ?
 二球目を投げたところから今のこの時まで、ぽっかりと記憶が抜け落ちている。左手を顔の前でかざしてみると、その手は泥だらけのままで、ユニフォームも着たまま。じんわりと冷たくなった汗を感じるところから察すると、まだ試合からさほど時間は経っていないように思える。
 そう、試合から――。

「――そうだ! し、試合は!?」

 グッ、と身体に力を入れて起き上がろうとすると、突然じいさんがこちらに振り返り、俺の身体を押さえつける。
 い、意外に力あるじゃねえかその細腕で……。

「試合はとっくに終わっとるから、もうしばらく寝とれ」

 諭すようにそれだけ言うと、枯れた枝のような手を離す。そしてまるで興味をなくしたかのように、また机に向かってペンを走らせ始めた。
 それでも、どうしても訊かなきゃならないことがある。

「……結果は?」

「坊主んとこの負け、サヨナラ」

 ばいばーい、とでも言いたげなのかやはりこちらに振り返らず手を振る。なんというか、いちいちリアクションが面倒なじいさんだった。
 それでも自称・医者なのだ。黙って言うことを聞いているしかない。
 大きく溜息をついて、再び天井を仰ぐ。

(……負けた、か)

 わかっていた。勝てない相手じゃなかったけど、あまりにもコンディションが悪過ぎた。
 でも、次は負けない。俺だってまだ伸びしろはあるだろうし、春の大会までには新しいピッチャーも立てられるはず。それにアウトオブシーズンで全体のチーム力だって伸びるだろうし、今回の実績で有望な一年が入ってくるかもしれない。
 春の地区予選を勝ち抜ければ、シード権が手に入る。キャプテンや宮本先輩の最後の大会に繋がる、シード権がその大会に。
 もう一度頑張ろう、ゼロから。

「にしても、無茶するのぉ……ここまで貫き通すと、天晴れだわ」

 今度は扇子でも意識しているのか、ぱっと手を広げてひらひら〜と下ろしていく。

「……何が天晴れだって?」

「坊主の精神力」

 坊主――俺?
 俺が何をしたというのだろうか。ここまで一人で投げ抜いたことか、いやもしかしたら日射病にでもなってたのかもしれない。それなら宮本先輩に言われた顔色のことも説明が付く。
 ああ、それで倒れたのか。二球目を投げた時に。

「んー……でも、無茶し過ぎ。もう無理」

「はは、そりゃ何日かは練習に参加しませんよ……でも、治るんでしょ?」

 治らない日射病なんて、聞いたことがない。
 でもすぐにでも戻ってきそうな軽口が、返ってこない。そこまで軽かったやり取りが、急に重くなる。

「……坊主、勘違いしとるよ」

 キィ、と椅子の背もたれを鳴らし、じいさんは振り返る。そこにはさっきのふざけた顔はなく、至って真面目な――仕事をする、人の目。
 それは逆転してくる、と言ったキャプテンと同じ目だった。突然の雰囲気転化に付いて行けず、言葉が出ない。じいさんの視線が、俺から離れてくれない。
 そのままさっきみたいにふざけたことを言ってくれればいいのにその視線はどこか冷たくて、どこか哀れむようで。

「患部は肩……それも、重度の野球肩よ」

 そう、はっきりと言った。

「え……」

 そりゃ肩はとんでもなく痛いし、そう簡単に治るレベルじゃないことぐらい俺にだってわかる。長期間の投球禁止やリハビリは覚悟していたし、周りから小言を言われることも当然だと思う。
 まさか、と思う。

「で、でも治るんですよね……?」

 でもほんのちょっと前まで、一応古豪相手に好投してたぐらいだ。重度と言っても、必ず治るはず……いや、治らなくたって投げれるはずなんだ。
 ちょっとだけ痛みを我慢すれば、またマウンドに上がれる。またピッチャーとして、グラウンドに戻れる。
 まさか、と思う。

「さっき無理、って言うただろうが……もう壊れとるんだ、お前の肩は」

 溜息をつくように、そう言う。

「――……」



――まさか、だった。



 俺の野球人生は、ふざけたじいさんに引導を渡され、終わった。



 ああ、終わったさ。



























8.はじまり、はじまり



























 学校に戻ってくると、グラウンドはまるで祭りの後のように静まり返っていた。負け試合の後だからか部員の姿は全く見えず、奥のグラウンドで練習しているはずのソフトボール部もランニングに出ているのか、その姿を確認することはできなかった。
 限りなく並行に差し込む夕日が世界を赤く染め上げる。それが何故だか不思議と幻想的に思えて、まるでこの世界に一人しかいなくなってしまったのでは、と錯覚してしまうほどだ。
 しかし今はそれが何故だか変に安心でき、グラウンドに降りる。そして整備が済んでいるだろうグラウンドを堂々と横切り、自分の定位置に向かった。
 その場所、マウンドに立つ。いつものようにプレートにスパイクの歯を引っ掛けてみても、それは変わらなかった。
 喪失感――いや、虚脱感に近い。だってまだ、俺の信じたものはここにある。少し視線を落とせば、すぐに見つけられる。
 でも"それ"は今や、県営球場に立った時の"それ"とは全くの別物になってしまっていた。



 多くのバッターを振り遅らせたストレートも。

 組み合わせて空振らせたスローカーブも。

 緩急で打ち取ったチェンジアップも。



 もう、この肩じゃ投げれない――。



「……なんで、こんなことになったんだろう」

 振り被ろうにも俺の右肩はそこにあるだけで、だらしなくぶら下がっているだけ。動かそうにも付け根が信じられないぐらいに腫れ上がってて、指先と肘が申し訳ない程度に動くのみ。
 ここにあるのは間違いなく現実で、この肩は間違いなく壊れてて。
 どうにもならなくて、その場にへたり込んだ。

「はは……は……」

 渇いた笑いが漏れる。別におかしいわけでも、笑いたいわけでもない。よく腰が抜けた、なんてことを聞く。あれと一緒で、力が抜けて入らない。顔も緩んでつい笑いが込み上げてしまう、そういうことなのだ。
 尿意がなくてよかった、神聖なマウンドを汚さずに済んだ――心の中でそう思ってしまうのは、多分ピッチャーの本能なんだと思う。
 昨日の雨のせいでこのグラウンドのマウンドも表面しか渇いていない。そんなマウンドにひとつの滴が落ち、小さな染みを作る。初めは小さかったその染みは、次から次へと滴が舞い落ち大きな染みになっていく。
 ああ、同じだ。この涙の染みと一緒だ。俺の身体の中にあった染みは、本当に小さいものだった。それがまだ小さい時に、病院に駆け込めばよかったんだ。
 でもそこで我慢してしまったから、染みは少しずつ大きくなっていってしまって。まるで感染症のようにそれは俺の身体を蝕んでいって。



――俺の一番大切なものを、奪っていった。



 その染みにゴン、と左の拳を叩きつける。ぺしゃりと泥が跳ねてユニフォームの膝を汚した。ああ、でももういくら汚れてもいいのだ。このユニフォームは、二度と誰かに着られることはないのだから。身長が伸びると思って少し大きめに作ったユニフォームがピッタリになる日は、一生来ない。不器用にも頑張って自分で付けたエースナンバーも剥がされ、また背負うことはない。
 このグラウンドを毎日のように駆け回る日々も終わりを告げ、教室の窓からぼんやりと眺める日々だけが続いていくのだろう。週末にすら許されなかった外出をしたり、放課後に意味もなく友達と話し込んで部屋に戻る時間がなくなって夕食を取りに直接学食に向かったり、夜遅くまで娯楽室のテレビに噛り付くように見て寮長に怒られたりして。
 そんな当たり前の学生生活になっていくのだ、これから。

(なんだ……別に悪いことじゃないじゃないか)

 ただ普通の学生になる、ただそれだけのことじゃないか。今までの俺が異常だっただけで、それは決して不幸なことではないんじゃないだろうか。
 野球を続けている限り来なかった当たり前が、目の前にある。それは喜ばしいことかもしれない。でもそれは手に入れたことではなくて――仕方なく始まってしまった、退屈な日々。
 そんな日々に、満足できるのだろうか。馴染んでいけるのだろうか。
 ……それは喜ぶべきことなのだろうか。

(……もし、喜ばしいことだとしても)

 笑えなかった。今も、そしてきっとこれからも。
 この出来事を笑えず、思い返し続けるのだ。呪いのように。

「おう、やってんなぁ……悲劇のエース様・・・・・・・

 その声を耳にした時に、背筋がぞくりとした。人間だって生き物だ、だから敵意を持つものに過剰に反応するようにできている。
 俺の後ろに立つ人物は、間違いなくそれ(敵意)を持っていたのだ。

(……ああ)

 もし神様がいるとしたら、なんて残酷な運命を課すのだろう。こんなに辛いことがあったとしても、気持ちの整理を付ける時間も与えてくれないのか。あまりにも無慈悲じゃないか。
 せめてもう少しぐらい、一人の世界を与えてくれてもいいじゃないか。せめてちょっとぐらい、優しくいてくれてもいいじゃないか。
 俺が一体、何をしたというのか。

「でもよ、野球できねえ奴がグラウンドに入ってくるんじゃねえ……失せろ」

 同時に丸めていた背中にドン、と何かが落ちたような衝撃があった。別に何をされているだとかは考えなかった、けれどそれは一瞬にしてわかる。
 ああ、人の脚って案外重くできているのだな、と。

「……楽しいですか、こんなことして」

 ギリ、と奥歯が音を鳴らしたのがわかった。思わず左の手のひらが、マウンドにできた染みを握り潰していた。
 多くの先輩の顔と声は一致しない。それは昨日の一件でわかっていたことだ。だけど今、この背を足蹴にしている人物の顔と名前は一致していた。それは決していい意味ではなかったけれど。
 そもそもこんなことする人物なんて、一人しかいないんだ。嫌でも覚えるに決まっている。

「楽しいかって聞いてんだよっ……渡辺先輩クソ野郎ッ!!」

 プツン、と何かが切れる音がした――というのはあまりにもベタな表現かもしれない。けれど常識、良心、守ろうと思っていた何か、そういった類の何が壊れた気がした。
 そう、壊れてしまえばいい……何もかも。





 ……そこから先は曖昧にしか覚えていないし、思い出したくもない。生まれて初めてやらかした殴り合いの喧嘩というものは、とてもじゃないが正気でいられるものじゃなかったから。
 殴られるのも痛いし、殴るのも痛かった。それでも力を抜いてしまうと一撃、二撃とまた拳が降ってくるので休んでもいられない。案外喧嘩というものは忙しいもので、こちらが歩むのを一度止めてしまうと相手は決壊したダム水のように押し寄せてくる。
 しかし決壊したのは渡辺先輩の両の拳だけでなく、どこから現れたのか他の先輩方クソ野郎も同じだった。渡辺先輩と一緒に俺に拳を向けるものもいれば、全く関係のない先輩同士でも殴り合ってたりもしていた。

(ああ……なんてつまらない中に身を置いていたんだろう)

 もうどこが痛いのかもわからず、マウンドの上で寝転んでいた。大地と並行にいた太陽は、夜が広がりつつある青空と白い雲を赤く染め上げている。
 日が暮れてもボールを追い続けていた日々が、終わる。色々あったけど、これで終わるのだ。



(……夢、叶わなかったな)

――一回くらい、甲子園のマウンドに立ちたかったな。

(……約束、守れなかったな)

――謝っても許してくれないだろうな。



 薄れいく意識の中、誰かが叫んでいた。拳を振り上げながら。
 その拳はきっと俺を傷付けるだろう、でも避けようにも身体は動かない。それにそもそもどこが痛いのかわからないぐらいだ、今更一発くらいどうということでもない。



「――せよ! 俺の夢っ……返せよッ!!」

 口のあちこちが切れてて言葉にはならなかったけど、「こっちの台詞だよ」と一人ごちた。





 その翌日のことだ。
 この出来事が世間の目に晒され、センセーショナルなニュースになってしまったのは。










                   ◇









「…………」

 早朝。人目のない、朝霧に包まれたグラウンドを眺める。
 遠くでは朝練だろう、どこかの部活が掛け声と思しきものを上げていた。そんな練習の喧騒は、あの時と変わっちゃいない。変わってしまったのは、野球部俺たちの方だから。
 こんな目立つところで乱闘していたら、目に付かない方がおかしい。あれから話は聞いていないけど、おそらくランニングから帰ってきたソフト部辺りが呼んだのだろう、男性教員たちによって俺たちは止められた。
 その後比較的軽傷の部員は指導室に押し込まれ、俺を含めた酷い怪我を負ったものは病院へと担ぎ込まれたのだ。

 しかし、それが安易な考えだったのだろう。

 あっという間に学校・病院にマスコミが押し掛けその夜にはニュースに、翌日のスポーツ誌ではいくつかの紙面で一面を飾った。
 それもそのはず、ただの暴力事件だったら「また」で世は許すかもしれないが、今回の件は紛れもない「乱闘事件」なのだ。こんな安易で美味しい事件を見逃すほど馬鹿なジャーナリストはいない。
 俺自身はしばらく入院してたので知らなかったが、参加した者の多くが処分を受けた。

 参加した者は最低一週間の停学。そして後に今までの所業も晒されてしまった渡辺先輩は、退学へと追い込まれたという。

(――まずはざまあみろ、と)

 俺自身の停学は入院中に終えてしまったようで、こうして寮に戻る頃にはまた当たり前のように制服に袖を通すことを許されていた。謹慎していたつもりなんて、全然なかったけど。
 あれから早くも二週間近くが経ち、すっかり秋の装い。あの試合で感じていた夏らしさはもう、この世界に微塵も残っていなかった。
 一人の生徒が起こした事件であろうと、部自体に処分を下す。それが高野連という、頭の硬い連中だ。
 といっても今回はほとんど部員全体が参加したということもあり、処分されて当然……と個人的には思っている。何も知らない部員たちには、本当に申し訳ないと思うけど。

 半年間の活動停止と対外試合禁止、及び一年間の大会出場停止。

 廃部にならないだけマシか、と思った人はきっと高校野球のサイクルを知らないのだろう。一年間ということは、来年の夏の大会には参加できない。今高校一年の俺たちは高校二年になっていて、今高校二年の先輩たちは高校三年になっていて。
 それは、つまり。

(……先輩たちと、もう一緒に野球することはないんだ)

 野球を失った俺とは違い、プレイすることができる身体があるのにできないもどかしさ。それはどちらの方が苦しいのだろうか。
 転校したとしても規定により一年間は試合には出れないし、結局のところ意味はない。ということは、もうこの処分が決まった時点で、先輩たちの高校野球は終わってしまったのだ。
 きっと同輩たちの何人かは転校し、野球を続けるだろう。転校先でこの事件のことで色々問題はあるかもしれないけど、きっと大丈夫。俺のように不器用じゃないから。

(皆から野球を奪ったのは……俺なんだ)

 俺がいつものように押し黙っていれば、こんなに厳しい処分は受けなかった。せいぜい春の大会の出場停止くらいで、来年の夏は参加できたはずなのだ。
 それは理不尽なことかもしれない。でも今まではそうして耐えてきて、そうして秩序を保っていた。正しいことじゃないのかもしれない、それでも今まではそうしてきたのだ。皆で。
 でもそれを壊してしまったのは――紛れもない、俺なんだ。

「……隣、いいか?」

「――……」
 
 ……もう嫌だった。なんでこの人は変わってくれないのか。
 全てが変わってしまったのに、何もかも変わってしまったのに、なんで変わってくれないのか。それが逆に辛かった。
 こんな早朝だというのに、何故この人はここに来てしまうのか。甚だ理解しがたい。何のために俺がこの時間を選んでいるか、少しぐらい汲んで欲しい。

「ここ座るなら……俺、行きますよ」

 そう言って腰を上げ、背を向ける。
 逃げていると言われても仕方がないだろう、実際にそうなのだから。

――先輩たちと、もう一緒に野球することはないんだ。

 結局、俺も偽善者だ。そんなの詭弁でしかない。
 俺は自分を大切にしてくれた先輩に顔向けできないだけなんだ。その期待に応えるどころか、その可能性の芽すら摘んでしまった。
 合わす顔がない……いや、それすら過ぎた言葉だ。俺はここにいることさえ許されない。

「――お前は辞めるなよ」

 ……それなのに、なんでそんな言葉を掛けてくれるのか。思わず歩みを止めてしまう。
 もう甘えてはいけない、俺はもうこれ以上この人の負担になっちゃいけない。この人の夢を奪った俺に、この人の枷になるような真似をしちゃいけない。
 それなのに、なんでアンタは俺の前に現れるんだ。

「……キャプテン」

 それでも俺は、思わず振り返っていた。
 結局俺は偽善者で、卑怯者で、弱者だ。口先ばっかりで考えてることとは全く正反対のことしたり、一時の感情に身を任せたり。もう俺は限界だった。
 なのに、何故この人はそんなことを言うのか。罵ってくれればいい、何ならこの傷だらけの顔を殴ってくれてもいい。今更一つや二つ傷が増えようと、大した差はないから。
 もしそうなら俺はこの人と潔く道を別つことができたのに、何故そうしてはくれないのだろうか。何故この人はまるで俺を許そうとしているのだろうか。

(これじゃまるで……正反対・・・じゃないか)

 俺が被害者で、キャプテンが加害者で。
 そういう風に思ってしまうじゃないか、紛れもなく俺が招いた結果だというのに。この人はあまりにも優しい……そして、あまりにも俺を思ってくれているが故にわかってくれない。
 痛みだけは引いている肩を、強く抱いた。

「……こんな肩じゃ」

 あれからあのじいさんの元には一度も行っていない。治る見込みがないなら、わざわざ時間を割く必要なんてないと思うから。
 入院中にすっかり肩の痛みは引いた頃、誰もいない屋上で黙って試してみたりもした。もちろん、ピッチングをだ。

――残酷だった。

 振りかぶった時点で、急に肩から脱力してフォームを保てない。仕方なしにセットポジションでもやってみたが、8回のボークモドキの時と同じでモーションの途中でどうしてもボールを落としてしまう。
 それでも何度も何度も、それを繰り返した。真後ろにすっ飛んでいったこともあったし、頭上に舞い上がったこともあった。それでもちょっとずつ、ちょっとずつ前に飛ぶようになって。

 ……でも、そこまでだった。

 放物線を描く拙い投球でも、一度たりとも壁まで届かなかった。
 病院の屋上は狭く、マウンドからベースまでの距離すら確保できなかった。それなのに、だ。
 俺が投げたボールは、一度足りとも壁に跳ねて戻ってくることはなかった。

「もうっ……夢見れないですっ……!!」

 情けなかった。この人の前で、俺は最後まで気丈でいられなかった。
 あの日病院の屋上で泣き叫んだ時から、もう泣くまいと考えていたのに。俺はそんな自分の中の小さなルールさえ守れずに。
 玩具をなくした子供のように、俺は泣き喚いた。

「……いいじゃねえか、お前はお前で」

 そんな俺に、やっぱりこの人は優しく微笑む。失ったものは、同じだというのに。たった一年しか長く生きていないというのに。
 この人は、あまりにも大人だった。

「お前は一人でも走れよ……ピッチャーだけが野球じゃないだろ?」

 それはつい最近まで気付けなかったことだけど、確かにその通りだ。野球は九人でやるもので、決してピッチャー一人じゃ試合は成り立たない。
 でも、そういう問題じゃない。俺はただ一心にこの道を走り続けて、そしてつまづいてしまった。その時の怪我がもう、俺にとって致命傷だったのだ。
 ピッチャーとしての道を失うことは、それは俺の野球人生の終わりを示していた。

「……無理です」

「無理じゃない」

 それは諭しだった。何もかも捨ててしまいたい俺への、優しい諭し。
 そしてあまりにも自分勝手で、無責任な――絵空事。

「お前は野球人だろ? ……俺は野球を捨てたお前を、見たくないよ」

 じゃあ、目をつぶっていてくれよ、と言いたくなる。
 野球を捨てた俺も、キャプテンの目の前で泣き続ける俺も……全部、見ないでくれ。
 俺にとって野球は全てだったけど、野球は決して俺に優しいものじゃなかった。少しの贈り物をしてくれて、そして多くを奪っていった、まるで死神のような存在。
 あまりにも野球は優しくなかった。無慈悲だった。たった一人の少年を屈折させるには、あまりにも過ぎた代物だった。
 だからもう、野球は捨てる。正確には俺が捨てられたのだろうけど、この際どちらでもいい。俺はもう、野球なんてやらない。野球を通じて手に入れたものも、失ったものも、何もかも全て、このグラウンドに置いていく。

「……肩が治ったら、キャッチボールくらいには付き合います」

 踵を返す。
 きっとこのグラウンドは、しばらくこのまま晒され続けるだろう。おそらく今まで部員だった奴らは、二度とここには戻ってこないから。

「――辞めんなよっ! わかったなッ!?」

 わかりません、キャプテン。ここまで裏切られ続けたら、俺には戻ってくることはできません。
 走った。そのまま後ろを振り返らずに、どこへ向かうかもわからずに。ただ走り続けた……いや、逃げ続けたと言った方が正しいかもしれない。
 身体のどこかが軋む、怪我もあるし二週間以上運動から離れているからだろう。ああ、また鍛え直さないといけない。

(……その必要はないのか)

 もう、野球なんてやらないから。
 すぐに苦しくなって顔を上げる。朝の冷たい空気が、流れた汗を冷たいものしてくれる。それがちょっとだけ心地いい。





 目前に広がる朝の秋空は、どうしようもなく青かった。



























 その半年後。



 "奴ら"がこのグラウンドに現れるだなんて、誰が思っただろう。









                   ◇









 それから惰性に生きてきた。
 自分が歩いているのか走っているのか立っているのか転んでいるのか浮いているのか、そんなこともわからないような、無駄な日々。
 それ以外に価値がないのに、それに裏切られた自分は、どうやって生きていけばいいのだろう。どうして生きているのだろう。

 夢の中で空を見上げていた。いつか見た、透き通るような青空だ。
 再び地に視線を戻すと、誰かがいた。そして手を伸ばしてきた。



――君の力が必要なんだ。



 そう、聞こえた気がした。








 はじまり、はじまり。





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