〜英霊が命と引き換えに守って下さった命を、私達は今生きているのだと思います〜

           日本軍の将兵の方々の遺骨収集

先の大戦で亡くなられた日本人の戦没者は約240万人と言われていて、その内の約115万人の
方々のご遺骨が世界各地の戦跡で眠っておられます

日本人のご遺骨が未だ日本に帰ることが出来ないまま取り残されていることは、大変心の痛む事実
です。私はご遺骨を1柱でも多く日本にお迎えするために遺骨収集を8年間続けて参りました。


<きっかけ>
遺骨収集のことを知ったのは平成13年、学生時代最後の年に、日本軍将兵の方の遺書を読んだのがきっかけでした。
この方は茶谷武さんという方
で、学徒出陣の後、フィリピンのルソン島で22歳で戦死されました。その両親に宛てた遺書にはこのように書かれていました。

『 武もとうとうお役に立つ時が参りました。
 生をうけて二十余年、唯の一度もお心を安ませることなく過して来たことをお詫び致します。(中略)
今思いますに人一倍子煩悩の父上にとってこれを読まれればどんなであるか、よし全部でなくとも推しはかることが出来ます。
 でもこの皇國危急のとき、私達の涙は隠されねばなりません。

 私の肉体はここで朽つるとも、私達の後を、私達の屍を乗り越えて、私達を礎として立ち上ってくる第二の國民のことを思えば、
又これらの人々の中に私達の赤き血潮がうけつがれていると思えば、決して私達の死も嘆くにはあたらないと思います。

 日本に生れた者のみに許される永遠の生に生きるということが言えるのです(中略)
 どうぞ私のことを笑ってほめて下さい、武も笑って散ります。
 では父上母上お身体を大切にしてください。
         さようなら。     武より

ここで出てくる『第二の國民』とは、これから産まれてくる孫の世代のことを指すのだと聞きました。その時私は悲しみで胸があふれました。

その頃学生だった私は、戦争とは過去のものだと教わっていて、教科書に載っている遠い昔のことだと思い、自分の今の生活とは、かけ離れて
いるものだと思っていました。

でも茶谷さんは自分の家族だけではなく、私たち、これから産まれてくる孫のことを守るために戦い、亡くなったのです。
 茶谷さんのような方々に守られ、茶谷さんが願ったとおり、孫である私たちは現在安全な暮らしをしています。
 茶谷さんの遺書を読んで私は初めて、戦争とは遠い過去の話ではなく生かしてもらった私達国民と密接に結びついているものなのだと思いました。

それなら私たち孫は、茶谷さんにお返しをしなければならない・・そう思いましたが、なす術が思いつきませんでした。
 もし私に出来ることといったら、心の中で鎮魂の気持ちと感謝の気持ちを持つことしか出来ないのではないかと思っていました。

その時に、ちょうど、遺骨収集活動をしている大学生の講演を聞いたのです。その方は、先の大戦で戦死した日本兵のご遺骨を収集している。
これまでタイやシベリア、硫黄島で何度もご遺骨を収集をしている、と話していました。

遺骨収集という活動があること、まだ海外に日本人の遺骨が残っていること・・全てが初めて聞くことばかりでした。戦争については学校の歴史の
授業の最後に簡単に触れられて終わってしまったことや、テレビドラマなどで見たことしか分からず、戦争は過去のことだと思っていた私にとって、
遺骨収集の話は本当に驚きました。シベリアではマイナス60度にもなる厳寒の地で、タイではジャングルの中で野ざらしで、硫黄島では最高80度
近くにもなるサウナのような壕の中で、ご遺骨は取り残されているという話を聞き、大変なショックを受けました。

私の肉親や親戚には戦争に行った人も亡くなった人もいません。でも同じ日本人としてマイナス60度や80度の場所に日本人の遺骨が残っている
なんて本当に辛いと思いました。私も自分の手で、ご遺骨を故郷に帰してさしあげたい。それこそが、正に茶谷さんの孫の世代である私が出来る
せめてものお返しになるのではないか、そう強く思い、私もすぐに遺骨収集に参加したいと思ったのです。

 このページでは、今まで行ってきた遺骨収集についてお話していきたいと思います。

  1、ミャンマー戦没者遺骨収集  
最初に行ったミャンマーはインパール作戦があり、総兵力32万人のうち19万人が戦死した場所です。
 私たち遺骨収集団は、京都の方々で多く構成された「安」という師団の野戦病院の跡地に眠るご遺骨をお迎えするために、カドという名前の村に野戦病院の跡を探しに行きました。
   2、パプア・ニューギニア遺骨収集
 東部ニューギニアでは16万人の兵隊さん達が戦い、15万人以上の方々は二度と日本の土を踏むことはありませんでした。死因のほとんどが飢餓と病気によるもので、戦闘で亡くなった方は僅かだったのです。
 私達は、ニューギニアの村の方が農作業中に見つけたという日本人のご遺骨をお迎えするために、その村まで向かいました。

   3、ビスマーク・ソロモン戦没者遺骨収集
 ビスマーク・ソロモン諸島ではラバウル占領・アドミラルティ諸島の戦いで11万8千人が戦死され、今も多数のご遺骨が野ざらしにされたままです。
 日本兵のご遺骨があるとの情報があった目的地の洞窟へ辿り着くまで、ジャングルの険しい山を果てしなく登りました。

   4、ロシア遺骨収集(沿海州)
 ロシアでは60万人以上の日本兵・民間人がシベリアに抑留され、6万人の方々が冬はマイナス30〜60度にもなる酷寒の中での強制労働と飢えにより亡くなりました。
 収集の初日、冷たい土の奥深くからご遺骨が見つかりました。指の細かいお骨まで残っている完全体で、服を着て靴を履き髪の毛も残っているそのお姿は、まるで本当に生きて眠っているかのようでした。

   5、ロシア遺骨収集(ザバイカル地方)
 今回、私達は日本人墓地のある場所の情報を得てバイカル湖の右下に位置する小さな村に派遣されました。
 お迎え出来たご遺骨は、8人も9人も、無造作に同じ穴に投げ込まれていました。
 その中には満州鉄道の職員の方も数多くいらっしゃいました。兵隊さんたちだけでなく、民間人も抑留され、酷寒の地での強制労働の末、亡くなったのです。

   6、モンゴル(ノモンハン事件)遺骨収集
 モンゴルではノモンハン事件の遺骨収集を行いました。
この地では、満州国との国境やハルハ河を巡ってのソ連・モンゴル軍との戦いがありました。事件と呼ばれていますが、日本兵7千7百名が戦死した「戦争」でした。実際にモンゴルでは「ハルハ戦争」と呼ばれています。

   7、沖縄遺骨収集2008  

      沖縄遺骨収集2009     
沖縄では多くの女性や子供達も亡くなりました。
沖縄での遺骨収集派遣は期間も短いために、多くの社会人が会社を休むことなく土日を利用して参加しています。
 8、硫黄島遺骨収集NEW  
 硫黄島では、本土を守るために2万2千人の方々が戦死され、今も1万3千人の方々が土の中に埋まっています。
 収集は7月の始めでしたが既に48度という暑さでした。壕やトーチカを掘り陣地を作り、アメリカ軍が5日で攻略できると言った島を1ヶ月以上も守りぬいたのです。そして砲撃に倒れ、壕の中で焼き殺されたのです。
 お迎えしたご遺骨は見るのも辛いくらい、バラバラになってしまっていました。
   9、フィリピン遺骨収集 

 2009年、11月にフィリピンの遺骨収集に行って参ります。

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