成人ディスレクシアの独り言 本文へジャンプ
ディスレクシアだと知って 〜解放と希望


自分を隠さない日の平穏


ディスレクシアという言葉を知り、「自分のことだ」と確信を持ってから数年は、本当に苦しかった。何をしていても
「だったらあの時、あんな目に合わなくてもすんだんじゃないか」
「自分には無理だと望むことすらあきらめなくてもすんだんじゃないか」
と悶々としてくる。
「は?こんな簡単なことも書かれへんのか?」とバカにした先輩の顔、
くすくすと遠巻きに笑っていたクラスメートの声が浮かんできて、
どうしようもなく腹が立って仕方がない。
「オレのせい」とあきらめていた全てに、何かをぶつけたい衝動に駆られる。

威圧して暴れてきた学生時代。
誰より稼ぐことで周囲をにらみつけた社長の時代。
「オレ様」状態の若いころも、ずっと負い目を背負っていたことを、改めて思い知らされた。

重すぎて、気持ちが切り換えられずにいた。


それでも生きていかなくてはいけない。
思えばいつも「生きていく」ことがオレを支えていた。
どんなに悔しくても苦しくても、「生きていく」ために働き続けた。
どこかで「誰にも頼れない」と思っていたのかもしれない。それでも、「生きていく」ためにしなくてはならないことからは、オレは逃げずに来たと思う。いろんな人に迷惑や心配をかけてきたかもしれないが、「生きていくことからは逃げ出さずにきた」それだけは胸を張って誇れる。

気持ちが沈んでいても、役割を果たす自分。そんな日々の中で、少しずつ気持ちが変化していった。

何か劇的な転換があったわけではない。
本当に日々の中で少しずつ少しずつ、「ああ、オレは文字が入りにくいというしんどさと生きてきたんやな。そしてこれからも生きていくんやな」ということが腑に落ちていった。


以前、妻から電子辞書をプレゼントされたことがある。「これで調べれば、思い出せなくても大丈夫だよ」そう言われたが、ほとんど使わなかった。
今出ているものに比べて旧式で、使いにくかったということもあるが、一番大きな原因は「そんなものを使っている姿を見られるのに耐えられない」からだった。
「他の人も普通に使っているよ」といくら言われても、書ける人が使うのと書けないオレが使うのとでは意味が違うと思っていた。
誰も笑わないのかもしれない。
誰もそんな細かいことまで気にしないというのは真実だろう。
それでも、そうは思えない自分がいた。
「書けないのでは?」と微塵も疑われてはならない。かくしてかくして、絶対に気づかれてはならない。そう強く思い込んでいた。

自分も、携帯電話を使って文字を調べている人をよく見かけるようになっきている。
「みんな調べてるなあ」わかってきてはいたが、どうしても笑われる気がしていた。


それが、ディスレクシアを知ってから数年後ぐらいから、「自分も調べてもいいんだ」と思えるようになってきた。
役所の窓口、仕事先の事務所、今でも書く場面は山ほどある。
以前の自分なら、ありえないぐらいに緊張したり、周囲を見回して書くべき文字の手本を探したり、あれこれ理由をつけてその場では書かずに持ち帰ったりしていた。かえって、かなり挙動不審だっただろう。
行く前から「書く場面があるかもしれない」とかなり緊張したりいらいらしたりもしていた。

そのストレスが、今はない。
携帯電話で調べればいい。やっと、心から納得してそう思える。行動に移せる。
「書いてください」と言われても、以前のように胸がぎゅっとなるような緊張をしなくなっていった。


なんて言ったらいいんだろう。
人は「たったそれだけのこと?」と思うかもしれない。
でも、オレには例えようもない大きな変化だった。
40年以上、ずっと「隠さなくてはいけない」と思っていた自分を、やっと隠さなくてもいいんだと思うようになった。そんな感じだろうか。


今年になって仕事関係で銀行の人と話していたとき、融資についての書類をたくさん書かなければいけない場面があった。以前ならきっとパニックになっただろう。でも、オレはその時本当にごく自然に「すみません。オレ書かれへんのですよ。昔から文字が入らなくて、ディスレクシアって知ってはりますか?」と言った。
担当の方はあっさりと「ああ、知ってますよ。そうですか。それは御苦労されましたね」と頷いてくれた。そして、オレが書くべきことについて、下書きをしてくれたり丁寧に本当に丁寧に教えてくれて、一緒に書類を作ってくれた。

ディスレクシアを知っていてくれたことはもちろん、初対面の人に本当にに自然に自分の苦しさをわかってもらえたことが驚きだった。
まるで「オレ近眼やねん」と言ったら「ああ大変やね」と言ってもらった感じだ。

自分が、「書かれへん」と言えたことにも驚いた。以前なら、銀行マンなんて賢そうな相手に対しては、ことさら「バカにされる」と警戒しただろうに。


誰でもがその人のようにわかってくれる時代でないのは、わかっている。
オレはラッキーだったんだろう。
それでも、この経験は、「わかってもらえるかもしれないんだ」という希望につながった。


オレは「読み書きできないオレ」を、やっと受け入れられたのかもしれない。最近、そう思うようになってきた。
驚くほど、気持ちが軽い。
自分を隠さなければいけない、知られてはいけないと思っていた頃、
意識していない時も、きっと何かのアンテナをピンと張っていたんだと思う。
今はそれがない。
「ごめんけど、書いて」と全く卑屈にならずに言える。
「これ、何て読むん?」とわからない時には聞ける。
応えてくれる相手を「優しそうなふりして、本当はバカにしてんのやろ」と疑わずに済む。

隠すことにエネルギーを費やさなくていい今は、本当に穏やかな気持ちでいられる。
重い、重い荷物を、やっとおろせた、そんな感じだ。


今やっと、自分がディスレクシアだと知ることができてよかったと思える。
知ったことで、ようやく自分を責め続けなくていいことがわかった。


読み書きの力が変化したわけではない。
「知った」だけだ。
それなのに、なんて気持ちが楽なんだろう。


これからもオレは「読み書きが苦手」なオレとして生きていく。
でも、それもオレの一部だ。
調べたらいい。
聞いたらいい。
助けを求めてもいいんだ。
困ることもあるだろが、方法もきっとある。
そんな気持ちになれた。



今、学校で読み書きが入らなくて苦しんでいる子ども達がいたら、
早く、できるだけ早く助けてあげてほしい。
今はたくさんの手立てがあると聞く。
自分をダメな人間だと思わずに済むようにしてあげてほしい。
オレのような思いをする子が、いなくなることを願わずにはいられない。
彼らの選択肢を奪わないでほしい。


知ることができたオレは、ラッキーだったと思う。
きっとオレのように、読み書きの困難から学校をドロップアウトしていった人間はたくさんいるだろう。
今も、かつてのオレのように必死で自分を隠して生きている人もいるだろう。
それがどんなにつらいことか、生きにくいことか、オレにはわかる。
最近は、メディアでもディスレクシアやLDが取り上げられることが以前より増えてきた。
でも、それを「自分のことかも」と思って見返すことができるかといえば難しいと思う。俺もそうだったが、そういう「読み書き」に関することは、聞きたくもなかった。不愉快な記憶がよみがえるから。すぐにチャンネルを変えていた。

だからぜひ、社会全体に知ってほしい。
近眼と聞けばどんな症状か誰もがわかるぐらい、ディスレクシアと聞けばどんな状況かわかるようになれば、どんなに生きやすくなるかわからない。

海外の映画のセリフの中には、ときどき「私難読症なのよ」と出てきたり「オレは読み書きできないんだ」と出てきたりすることがある。どきりとするが、相手もあの銀行マンのように「そうか」「大変だったね」と普通に受け入れている。
ああ、こんな社会ならどんなにいいだろう。


オレにできることは、ほんとうにわずかだろう。
それでも、せめて自分の周りの人には、自分を隠さず生きることで、少しずつでもわかってくれる人を増やしていけたらと、今は思っている。