成人ディスレクシアの独り言 本文へジャンプ
toraの「読み・書き」の特性

自分には自分の感覚しかわからない。
だからずっと、自分の文字の間違いや入らなさを「でききないから」と思っていた。
ディスレクシアのことを知り、どうやらそうではないらしいことがわかってきた。
他の人は、オレのように文字と音がこんがらがっていないらしい。
「それってずるいよなあ」と正直思う。
S先生に問題を読んでもらったオレに「ずるい」といったヤツ。おまえこそずるいやんか。
オマエらこんがらがってないやん。オレみたいに必死にならなくても字が覚えられたんやろ?それってずるいなあ。オレだってそうならどんなによかったか。

ネットで読み漁ったものを見ていると「ああわかる」というのと、「これはないなあ」というものがある。
どうやらそれがオレの「特性」というものらしい。

似た音を間違える

妻と話していて、星占いの話題が出たことがある。
「星占いと言っても、本格的なものだとホロコーストでいろいろわかるねんてなあ」
しばらくそのまま話が続く。こういうことはよくあるので、妻もいちいち指摘はしない。
以前、「あっ間違って覚えてるなって気が付いたら、言ってほしい?ほっといてほしい?」と聞かれたことがある。バカにされているわけではないとわかっていても、指摘されたら今までの思いが重なってカッとしてしまう。それに指摘されても正しく覚えなおすのがなかなか難しいことは経験的に知っているので「ほっといて」と言ってある。
しかし、さすがにこれはと思ったのか、「ホロコースト」と連発する自分に、話の切れ目で「ホロスコープちゃう?」と妻。「あっ、そうやホロコーストは大虐殺のことやんか」ちょうど前の晩に見た映画で出てきていた。「ホロコースト」も「ホロスコープ」も知っていて、それぞれの意味も理解している。それでも間違えるし、何度も自分で言っていても間違いに気づけない。

こういうことは、本当に多い。「リコピン」を「ピコリン」と覚えていたりとか。数え上げればきりがない。

日常に耳慣れない言葉はもちろんだが、よく使う言葉でもこの間違いはおこる。


さらに、人が正しく言っているのを聞いても、自分が言っているのが間違っているのに気付けないことがある。相手が「リコピン」と言いながら話しているのに、自分は「ピコリン」と言い続けても、違っていると気づけない。相手には違和感があるんやろうなあ。

正しい音を知っている場合も多い。相手が話していたり、ニュースを聞いていたりしても何の違和感もない。ところが自分が違う音にしていることには気づけない。

「音を間違って覚える」ことで困る場面は、他にもある。
パソコンや携帯で文章を打つ時だ。
パソコンや携帯は覚えていなくても漢字にしてくれる、オレにとってはものすごい武器だ。予測して候補の漢字を挙げてくれたり、意味まで横に出てくるから、本当に助かる。でも、それも「正しく入力できてこそ」だ。間違えて覚えていると、「漢字が出てこない」ということがおこる。
音の間違いだけでなく、表記の間違いでも漢字は出てきてくれない。いつだったか「遠くの方で」と書きたいのに、どうしても「遠く」が出てこないことがあった。オレは「とうくのほう」と打って変換キーを押す。何度やっても「とう9の方」のようになる。「とおく」と書くことがわからなかったのだ。
結局書くのをあきらめたり、他の言い回しに変えたりすることになる。パソコンが使えるからと言って、読み書きのしんどさが消えるわけではない。むしろ今までに覚えてきた膨大な間違いを、度々目の当たりにすることにもなる。

子どもの頃に比べれば、格段に読み書きの力はついてきたと思うし、技術の進歩で助けられることも多くなった。それでも「んっ?」となることはまだたくさんあるのが現実だ。


文字が模様に見える

「怠けてなんかない」に出ていた、ディスレクシアの人の文字の見え方の例を見て思ったのは、「いろんな見え方があるんや」ということ。
オレの場合は、重なって見えたり、歪んで見えたりしたわけではない。

ただ「模様に見えた」のは事実。
うまく言えないが、例えば「かるた」という文字が「¶ДЮ」のように見えるという感じ。
「かるた」という音は知っているし、意味もわかっている。でも「¶ДЮ」は知っている「かるた」になかなか変換しない。必死で「¶」を見て考えて「あっこれ[か]やな」とやっと見つける。次の「Д」を見て同じ作業。「[る]かな」と当たりをつけ、「Ю」を「たぶん[た]とやっているころには、いったい最初の文字がなんだったのかわからなくなる。必死になればなるほど、意味なんて分からなくなる。
ひらがなは、1つ1つの文字は2年生の頃にはなんとか読めたと思う。それでも「・・かぁ・・るぅ・たぁ・・・がぁ?」と読んでいると、時間はかかるし意味は分からない。おまけにくすくす笑われる。

映画の字幕のことは以前のページで書いたが、あれで「急いで読む」ことや「意味で予想して言葉をあてはめていく」癖がついた。正しくはないものも多いし、声に出せば「えっ?」と言われることもあるだろうが、それができるようになってどんなに救われたかわからない。それに字幕をどう読んでいようと、誰にも笑われない。声に出さないのだから、間違いを指摘されることもない。

もちろん、それで意味を取り違えていたことも山ほどある。
あるときは、「グリーン」と字幕が出たのを「ピンク」と読んでしまった。その映画の中で、その後何度「グリーン」と出てきても、頭の中は「ピンク」と読み方を当てていた。もちろん意味が通じない。かなりたってから「あっグリーン、緑か」と気づいて苦笑いしたこともあった。一度思い込むと修正がきかなかった。

今もこの「意味を予想して自分で音を当てる」という読み方で生きている。

先日、思うところあってある資格試験を受けた。○×がほとんどだったが、膨大な問題数と分厚いテキストに、正直不安だった。2次の実技は誰にも負けない自信があったが、時間制限もある試験、記述の項目もある1次は、本当に心配だった。
1000人以上が受験し、1次の筆記試験に受かったのは約45%。それも過去問が極端に減った、問題の改変の年に当たってしまった。
それでもオレは、なんとか合格した。高校の入試に名前しか書けなかったのに。そう思うと、すごい進歩だ。学校を飛び出してから、オレは学んできたんだと思う。

この試験勉強の時も「予想して読みを勝手に作る」で乗り切った。
膨大な内容だったが、ほとんど経験したことのあることなので、場面の画像が浮かんだ。場面を思い浮かべながら、文字を予想して読んで勉強した。
もちろん、困ることも多かった。
例えば、「粗い」の読み方がわからない。「あらい」か「こまかい」なんだろうことは、なんとか前後から予想ができた。しかしどちらの言葉が入るかで、意味が真逆になってしまう。

普段は「正しく」なんて考えない。だいたいのことがわかればいいと思いながら読んでいる。それでストレスがずいぶん減ったが、さすがに試験はそういうわけにはいかなかった。

どこを読んでいるかわからなくなる

子どもの時から、「次の行」がよくわからなくなった。文字の変換で必死だから、意味が通じなくても気づけない。「そこじゃないよ」と何度言われたことかわからない。
今もものを読むときは、指を添えることがある。
大事なメールを読むとき、仕事の仕様書を読むとき、紙でもパソコンでも指が動いてしまう。ついでに頭も動く。横書きの文章を読んでいるときには横に、縦書きの文章を読んでいるときは縦に、かなり動いているらしい。「らしい」というのは、自覚がないから。妻から言われて初めて気が付いた。他の人は「目で追う」ということができるらしい。自分は「目だけで追っていく」というのが難しいのかもしれない。

先述の試験勉強も、膨大な文章を読まないといけなかったので、間違えないよう、とばさないようと、ものさしを読んでいる行の下において読んでいった。

思えば運転免許試験の時も、問題用紙のはしかなにかをちぎって、読んでいる所の下にあてていた。誰に教えてもらったわけではないが、そうすると読みやすかった。そうしないと、読んでいた行がわからなくなってしまった。

見ててわからなくなることは、文字を読む以外の場面でもあった。

特に感じたのは球技をしている時だ。とにかく運動には自信があったし、球技も人並み以上にできたと思うが、自分的にはものすごく苦手意識があった。目で追っていても、ボールがどこに行ったのかわからなくなるのだ。身体能力も反射神経も、誰にも負けない自負があったが、球技ではそれがうまく動かない。肝心のボールが負えないのだ。体操や陸上なら、思うように動く体なのに、言葉にできない違和感があった。


パーツの組み合わせ方がわからない

「書き順を覚えれば漢字は覚えられるよ」「漢字は左の上から右の下に流れていく決まりがあるねん」そう教えられたことを覚えている。

ところが、この「書き順」というヤツがさっぱり入らなかった。
「左上から・・・」のあたりも、そもそも左右がよく混乱していたので、助けにはならなかった。(今でもナビが「次の交差点を左折です」とか言うと、一瞬、えっ左折ってどっちやったっけと思うことがある)

社会人になって、生きるために文字を書くようになると、書き順なんて無視だった。その方が書けた。

ただ、単純なパーツは書けるようになっていったのに、組み合わせ方はいつまでたっても入らなかった。これは今も続いている。
以前のページで「都」という字を例に出したが、「浮かんでいるのに書くまでパーツの場所がわからない」ことは本当に多い。
比較的、「上下」の間違いは少ないと思うが、「左右」なると本当に混乱する。
「部」なんて、パーツは全部書けるし、見れば「ぶ」と読めるが、書こうと思うとどれがどこにあるのかわからなくなる。とりあえず書いてみると「あれ違うかも」「ああこうだった」とわかる。

そんな感じだから、人前では絶対に書かない。
書き順無視の自分なりの書き方も、書いてみてパーツの組み合わせを確認する方法も、他の人がしないことだとわかっていたから。「できないことがばれてしまう」「笑われてしまう」そう思っていた。
自分の名前を書くときでさえ、人目がない所へ移動する。弁当を隠す中学生のように、書く手元を隠した。


正しい音でなく意味で読む

それでもこうして振り返ってみると、学生時代絶望的に覚えられなかった漢字に、もしかしたら救われてきたのかもしれないと思うこともある。
ひらがなやカタカナは、ジャストミートな音を再生しないといけない。これが自分には本当に難しい。「グリーン」を「ピンク」と読むなんて、他の人には考えられない間違いを起こす。
「トランク」を「トラック」と読んでしまう。全く意味が通らないのに。おかしいと思って何度も読み返すが、何度読んでも「トラック」になる。「トランクじゃない?」と言われて、「あっ本当だ」と気が付く。どちらも読めるはずなのに、一度思い込むと修正がききにくい。

その点、漢字は「意味」でなんとかなる部分がある。
「走る」「行く」なんて文字は、走っている姿や「行くぞ」と言っている姿と重ねて覚えた。免許の試験に出てきた「交差点」「信号」なんていう熟語もそうだ。「こうさてん」「しんごう」と今は読めるが、たとえ読み方を間違えていても、画像が浮かぶ。だから意味で理解できた。
もちろん、音読をさせられたら、今もとんでもない読み方をしてしまうだろうが、それでも専門用語満載の資格試験に通るぐらい、読んで意味がわかる自分になってきている。


いつだったか「日本沈没の映画が好きだった」と話していたとき、妻から「同じ小松左京の作品で[果てしなき流れの果てに]というSF小説があって、ものすごく面白かった」と聞いて、「読みたい」と思い、本を買ったことがある。小さな字の文庫本。本が好きな妻でも「面白かったけどものすごく話が入り組んでていて、途中までわけがわかんなかった」と言っていたが、オレは一気に読み切った。「夢中になって本を読んだ」なんて体験は初めてかもしれない。文字を読むことに困難があるのを妻は知っているので心配していたようだが、あっという間に読んでしまったのを見て、驚いていた。

理由はいくつかあると思う。
まず、舞台の多くが大阪であること。とにかく、地名に覚えがあった。「あそこのことやな」とすぐわかった。驚いたのはその本が書かれた時代には、まだ今のように開発が進んでいなかったはずの場所なのに、主人公がタイムスリップする未来の描写は、まさしく今の阪神高速東大阪線の風景そのものだったことだ。大きな開発事業は何十年も前から計画されているというから、もしかしたら小松左京はこの町がどうなっていくのかを知っていたのかもしれない。そうだとしても恐ろしいほどの一致だった。わくわくしながら読み進めた。
不思議なことが大好きな自分にとって、「オーパーツ」というキーワードが出ていたのも興味を引いた。

それまでも、「読んでみたいな」と手に取った本がないわけではない。でも多くは最後まで読み切ることなく終わっていた。世界観がイメージできたこと、興味深いテーマだったことがあるとはいえ、「読めた」こと「理解できた」ことは、やっぱりうれしかった。


自分は「できない」んじゃない。
自分なりの「やり方」が必要だったんだ。
それさえあれば、文字の世界ともつきあえるんだ。
そう感じた出来事でもあった。