成人ディスレクシアの独り言 本文へジャンプ
成功と欺瞞の中で


「社長」と呼ばれて

飲食店を飛び出して、次に選んだ仕事は工事現場で働く事だった。現場なら荒々しい自分の性格も生かせ、書く事もないだろうと、単純に考えていた。とにかく、もう「書けないことでうける屈辱」のない世界に行きたかった。
  
運良く時代はバブル絶頂期、建築業界はイケイケどんどんだった。
17歳、運転免許無しでも、直ぐに見習い仕事にありついた。しかも給料は以前の倍以上、「やるしかない」気持ちを奮い立たせて働いた。
今まで、節目・節目で自分を認め、支えてくれた人たちのことさえ思い出す事もなく、日々を必死で働いた。

18歳、運転免許を取った。すぐに車も手に入れた。同じ年の18歳には無い程の自由を手に入れたと思っていた。

免許をとるには試験を受けなくてはいけない。
実はこのころ、学生時代に比べて「読むこと」はずいぶんできるようになっていた。理由は二つ。

1つは映画の字幕だ。子どもの頃から映画は大好きだった。特に海外のアクションものには胸が躍った。入れ替えなどない時代、朝から何度も同じ映画を見続けた。
もちろん、字幕はちんぷんかんぷんだ。それでも何度か見ているうちに、映像と言葉がつながる場面が増えていくのがわかった。1回目より2回目、2回目より3回目、回数を重ねるごとに「今のは多分こういうことが書いてあったんやな」とわかっていく。普通の人なら1回で理解してしまえる内容も、いっぱい見落としているから大変だったが、毎回発見があるのが面白く、何より映像という助け、言葉はわからなくても口調という助けがあることで、「今怒っている」「なんか出てきそう」とイメージを重ねながら楽しむことができた。

大好きな映画。誰にも間違いを指摘されることのない繰り返し。

そんな中で、少しずつスムーズに読めるようになっていったと思う。
ただし、「正しく」ではない。場面に送り仮名をみながら自分の知っている言葉をあてはめたり、簡単な読み方をあてはめたりしていくので、出鱈目のものも多い。それでもよかった。自分に意味は伝わった。


もう一つは、仕事だ。
いじめを受けた飲食店での勤務。
それでも客商売だ。「できません」とばかりは言えないことも多い。先輩のいじめに耐えながら、必死でよく使うものについては読んだり書いたりする練習を重ねた。学校の勉強とは違う。「生きるため」だ。
こちらは店の人に聞くこともできた。ただし、何度も聞いてはまたバカにされる元。なので聞くときは「1回で覚えるんだ」と必死だった。もちろん、それでも間違えることは多かったが、死にもの狂いで覚えようと努力した。

学校時代、何もしていなかったわけではない。
最初はもちろんできるはずだと思っていたし、その後もなんどもこっそり練習したこともある。でも、結果はいつも悲しいものだった。
今思えば「正しくなければ覚えていないのと同じ」という考えにとらわれていた。たとえ意味が分かっていても、間違えて読めば「笑われる」。それは0点と同じことだと思っていた。
でも社会は違っていた。まず「意味が通じる」ことが何より求められた。免許の試験も同じことだ。○×の試験。おそらく音読が評価に入っていたら、一生受からなかっただろう。でも、「意味」で覚えていくことはできた。
例えば「交差点において警察官が両腕を垂直に上げているときは、警察官の身体の正面に平行する方向に交差する方向の交通は、赤色の信号と同じ意味である」という問題。熟語が全部正しく読めたわけではない。「垂直」は今読んでも「ちょくしん」となる。間違った読み方を、自分で作ってあてはめている。それでも、警察官がどう腕を上げている状態なのかは、映像で浮かぶ。意味では理解できている。だから答えられる。漢字を読んでいるというよりは、記号を見て「これは確かこういう意味」と言葉に変えていく感じだ。

周りの人間は「また落ちた」「これで5回目だよ」というヤツもいた。そんな中でオレは一度で免許の試験に合格した。仮免も本免も、全てだ。
あの分厚い教本の膨大な内容を、必死で「自分なり」の読み方で入れていく。自動車学校の授業は、本当に一生懸命聞いた。聞いて覚えた音を、「多分このこと」とあてはめていった。

「読めるようになっていた」と書いたが、「正しく」は伴わない。それでも自分には大きな進歩だった。おそらく普通の人の何倍もエネルギーを使っていたんだろう。必死で文字を追って意味を重ねていった。「読めばわかる」と初めて感じた出来事だったのかもしれない。


免許を取り、しばらくは家具の配送をしながらトラックの運転手をした。

19歳現場にもどった。
免許があることで、車に道具を積みどこにでも出かけられる。即戦力として、今では考えられない程の月給取りに、毎月約35万前後はあったと思う。
暮らしはアパートからマンション、マイカーも買い、初めての月賦(ローン)も組み、ますます暮らしは充実していく。

20歳、建築現場にも、技術革新の波が押し寄せる。木で下地を組むことが主流だったものが、「SGL 軽天・ボード」という新しい素材が台頭し始めた。自分も例外なく、この軽天職人になっていく、大工だと一人前になるのに10年かかるのが、軽天なら1年、21歳に、
なる頃には、いっぱしの職人として現場会議に参加している自分がいた。

しかし、ここでまた「文字」の壁が立ちはだかる。大きな現場は、どうしても「書類」が必要になる。事前にわかっているものは人に書いてもらうことができるが、その場で書かなければならない場合も少なくない。そんな時は「手を怪我しているから」と言って、他の人に書いてもらう。生きて行く為の嘘は、かなり上達してきた。

この手の嘘は、仕事以外でもよく使った。常に右手のサポーターを準備している自分。人がペンを入れているポケットに、自分はバンドエイド・包帯・サポーター。「書けない」言い訳ができる準備をいつもしていた。人から見たら滑稽な姿かもしれない。でも、プライドを保つ為には必要な手段だった。「けがしているので」「手が不自由なので」言うたびに悔しさがこみあげる。惨めな自分。
電話で指示を受けて書く、電話で相手に伝えるなんて作業になると、全くお手上げだ。「にんべんに武士の士で・・」なんて言われてもわからない。逆に「その「カワ」はどの字?」と聞かれても、どう説明していいのか、全く浮かばない。
「オレ全然勉強できなくて」なんていうヤツは、現場にいっぱいいた。でも、なんというか自分とは違う感じだった。

学校を飛び出せば、救われると思っていた。
板前をやめれば、逃げられると思っていた。
でも、「書く」という行為は、仕事はもちろん、生きていくそこここに存在する。
カラオケやレンタルビデオの会員証、役場での書類、ローンの書類、何かしようと思うたび「ではこれに」と紙が出てくる。名前だけであっても、どんなにぎょっとしたかわからない。平然と書いていても「コイツ笑ってるんじゃないか」「自分の名前を間違えたらどうしよう」と手に汗がにじんできた。

他の人は、何年かすんだ住所を、引っ越ししたからと言って書けなくなることはないらしい。でもオレは違う。10年住んでいて、数限りなく目にして書いていた住所でも、引っ越して数か月で書けなくなった。「都」という字は、今は読めるし書ける。でも、紙に書いてみるまで、左右がわからない。書いてみて「あっ反対だった」と気づく。


学生時代よりも、はるかに「書けない」ことが社会では辛かった。働く=信用 書けない=バカ バカとは仕事が出来ない、そう思われると確信していた。だから隠す。必死で隠す。何よりもそれを優先する日々。無限の悪循環が生まれていた。

22歳、ついに「軽天職人」として独立
とても景気のいい時代、22歳の若造でも、仕事が切れる事無く、次々と内装仕事が受注できた。とても、一人では追いつかない、一人また一人とスタッフは増えていく。自分を含め6名になる頃には、法人でなければ仕事ができないほどになってきた。

取引先からも認められ、部下からも「うちの社長はすごい」と言われ、自信がふくらんでいく。「オレはできる」「オレには価値がある」そう思えば思うほど、「絶対に文字のことには触れられたくない。気づかれたくない」とも決心していった。ばれたらあの最初のお店のように、周囲の評価は変わっていくんだろう。また逃げ出さないといけないんだろう。確信にも似た恐怖があった。

22歳後半、法人会社設立、当然、書く書類は山のように増えた。同じ年に結婚し、あらゆる書類を妻に書いてもらう事になる。建築の「けの字」も分からない妻。書類に何をどう書くのかもわからない。忙しい自分は「とにかく書け」と当たり散らし、覚えさせ、調べさせ、書かせた。怒鳴るたび、自分も辛く壊れていくようだった。
ついに、妻に告白した。
人から「オマエ書けへんねんな」と笑われることはあっても、自分から「読めない・書けない」ことを話したことは、それまでただの一度もなかった。
わかってほしかったんだと思う。救ってほしかったんだと思う。必死で話した。紙に書きながら、「こんなやねん」「こうなるねん」と、読むことが人よりもはるかに出来ない、ほとんど書けない、書いても人より数倍、時間がかかる。そして間違える。話しながらどんどん思いがあふれてきた。ずっととらわれていながら、口に出したことのない思い。止まらなかった。
妻は黙って聞いていたが、複雑な表情だった。それも分かる。当時、仕事の打ち合わせや、人との対応は自身に満ち溢れ、スタッフへの指示は的確に与えることができた。仕事の先を読み、段取りを付けることも巧みだったと自負している。「勉強嫌いやねん」という話はしていたが、とても「読み書き」の出来ない人間には見えなかったはずだ。「字が下手で人前で書きたくないのだろう」ぐらいに思っていたのかもしれない。

話しが進むにつれ、複雑な表情は微妙に変わっていく。悪い方へ・・この場の空気、過去に何度も経験している。告白しなくても「えっオマエ書けないの?」と気づいた時の相手のとまどい。かける言葉がみつからないのだろう。

しかしそこは夫婦、受け入れてくれた様子だった。そのことで態度が変わることはなかった。

ある時、嫁からプレゼントをもらう、「これで勉強していこうよ」国語・算数の2年生のドリル。とりあえず「ありがとう」と言ったものの、気持ちは複雑だった。
彼女が厚意からドリルを買ってきたのはわかる。書けないことのつらさを必死で訴えるオレを、彼女は彼女なりに救いたかったんだろう。でも、違う。「やってもあかんねん」「オレ何度もやってきてん」「また絶望するとこからするんか?」言えずに飲み込んだ言葉がたくさんあった。
当時のオレには自分がなぜ読めないのか書けないのかが分からない。せいぜい、何度も繰り返し言われた「怠けていたから」「アホやから」という程度。でも、こんなに現場で有能なのに。こんなに仕事ができるのに。できることとできないことのバランスが悪すぎて、自分で自分がわからない。どうすることが自分を救うことなのかもわからないまま救いを求めていたわけだ。妻もつらかっただろう。
彼女の思いを受け止めて、時々ドリルもしてみるが進展も無く、かえって落ち込む一方だった。直ぐにドリルを見なくなっていった。
 
この頃、小学生2.3年生の出来事を、かなり強烈に思い出していた。
それは、大好きだった叔父さんの離婚劇だ。原因など、当時の自分は知る訳も無いが、離婚直後、叔父さんが暮らしていた家を母と片付けに行った時の「大人達の会話」が忘れられなかった。
叔父さんが結婚生活をしていた家は、大阪で定番の「お好み焼き屋」だった。叔父さんは外に仕事に行き、奥さんが一人できりもりしていたらしいが、計算が出来ず、伝票もつけれなかったそうだ。書棚には、叔父さんが買って来たらしい、2.3年生のドリルが並んでいた。母が「っまぁー、聞いてはいたけど、この程度か!」「tora、お前も勉強せなぁ、こんなんになるでぇー。このドリル、お前が持って帰り」
叔母は裁縫や編み物の名人として、周りの人たちによく感心されていた。料理も上手で、家事の達人だった事を覚えている。受け答えもしっかりしていて、とても低学年のドリルもできないような人には見えなかった。母だって「いやあ、すごいなあ。こんなんよう編めるなあ」とほめていたのに、影では、こんなことを思っていたのかと、驚いた。

棚に並んだドリルを見ながら「ああ、オレも同じだ。妻は母のように俺を見ているのか?」と疑心暗鬼になっていった。だんだん、妻の見方、接し方が変わって行くのを感じた。

ある時、嫁が実家に電話している会話を聞いてしまう。「あの人ね、もう勉強しなくなったのよ。まぁ私が書くから大丈夫だけど」愕然とした。これを聞き流せない自分は、深刻な状態だったのだろう。叔母を嘲った母の姿と重なった。「お前までわかってくれないのか」やり場のない思いがふくらんでいく。

自分は、なぜここまで字が書けないか?
どう説明していいか、分からない。本当のつらさは誰にも分かってもらえない。
妻も例外でない。どんな思いでオレが打ち明けたか。逃げて逃げて、見ないふりをして気づかないふりをしてきた思いを、初めて言葉にしたのに。実家に何と話しているのか、想像するのも嫌だった。

皮肉なことに、仕事はしごく順調だった。どんどん大きくなっていく会社。20代前半の若造が、何千万ものお金を動かし、札束を机に積んでスタッフに給料を払うようになっていった。会社は複数になり、事務仕事はスタッフがつくようになった。当時かなり高額だった携帯電話も購入し、とにかく聞いたことや決めたことはすぐに会社に電話して書き取らせた。「メモをとらずにすむ」ために、いくらかけたかわからない。
お金をかけて書くことから逃げても、心のもやもやは何も解消しない。

仕事は順調、金は有る。次第に夜の街で遊ぶことを知る。ちやほやとしてくれる場所。不愉快なことが全くない場所。こんなおもしろいところがあったのかと、どんどんのめり込んでいった。当時はバブル末期。夜の街で遊ぶには、お金などいくらあっても足りなかった。
仕事場から遊びに行き、また仕事場へ。誰よりも働いていた自負はあるが、誰よりもバカなお金の使い方をしていた後悔もある。

面白いようにお金が入っていたころ、こんなことがあった。
電車での移動中、作業服のオレ、周りにはスーツを着たサラリーマンがいっぱい。「でも、この中のだれよりオレがかせいでる」と、思っていた。
同じ時期の同窓会。オレが今どんなに景気がいいか。稼いでいるか。新米ぺーぺーで金のない大卒の同級生たちに言いたくて仕方がなかった。きっと、自慢たらたらで、さぞかし感じが悪かっただろう。

「なんでそんな愚かなことを」と人は言うかもしれない。今なら自分もそれがわかる。
でも当時は「金こそ力」だと思っていた。
「金を手に入れたオレが逆転した」のだと。
頭のいい連中。エリートの連中。でも、だれがオレほど稼げる?
読めない書けないオレをばかにしていた連中みんなに言いたかった。
「どうや。すごいやろう。お前たちに稼げるか?これだけの現金、見たことあるか?」
「お前ら、オレのことバカにしてたやろ。アホヤと思ってたやろ」
「言えへんでもわかっとったわ。バカにされてるって知っとったわ。」
「でも、アホがこんなに稼げるか?18人直接雇って、100人近くの人間に仕事まわせるか?」
「オレは実はすごいヤツやってんで。ただの不良とちゃうねんで。読めへんでも、書けへんでも、アホちゃうかってんで」と。

給料日には机の上に札束を重ねて、そこから数えて支払うようすを社員に見せた。
妻には毎月100万を生活費で渡していた。家族に、欲しいものを我慢せずに済む生活をさせたかった。それを支えることができるオレであることが誇りだった。もちろん、自分でもどんどん使った。
その代り、誰よりも働いた。「アイツすごい」と一目置かれる状態でいたかった。

そんな日々は長くは続かない。
遊びだすと、人も離れていく。ついに離婚。遊びすぎの離婚は商売には致命的だった。
「いくらでも仕事はある、金は入る」と、周囲に勧められのせられるままに拡張し続けていったことも、仇になった。
バブルの崩壊の時期も重なり、あっという間に会社はパンクした。

お金が無くなると、今まであれほどいた取り巻きもあっという間に離れていった。残るは莫大な借金のみ。建て直しを図るも、唯一孤独を癒してくれた夜の遊びが辞めれず、28才ですべての会社を倒産させてしまう。負債は大きく、個人破産も経験することになる。
「金が力だ」と思っていた。「金を手に入れたオレはすごいんや」と言い聞かせていた。
でも、失った。手のひらを反していく周囲。あれほどちやほやしてくれた夜の街も、金のない人間には冷たかった。