その手をつかめたら。

 もし、もう一度会う事が出来たならば。

 

 その時はきっと……。

 

 

 『ほら弁丸。もう泣くんじゃない』

 そう言って兄は幼き自分に折鶴を折ってくれた。

 普通の折鶴とは違う、二羽の鶴が逆さに重なっているそれは水面に降り立った鳥を現していると亡き母が教えてくれたのだが、その折り方はとても難しくて。教えてもらったけれどまったく覚えることが出来なくて。変わり兄がその折り方を覚えてくれた。

 そうして何かある度に……主に自分が泣く度に、母から教わったその折鶴を折ってくれたのだ。

 

 『ほら、ごらん弁丸。この鶴はね、「    」と言うんだ。逢いたい人に会わせてくれる、すごい鶴なんだよ』

 にこりと笑みを浮かべながら兄が言う。

 手渡されたのは二匹の鶴が上下鏡合わせの状態になっているもの。亡き母が一番好きだと言っていた折鶴だ。

 『お前が本当に会いたいと願う人がいるならばその思いを込めて鶴を折るんだ。そうすればきっとこの鶴がお前の思いに答え、その人の元へとお前を運んでくれる。それがこの折鶴なんだよ……』

 そう優しい笑みを浮かべて兄は教えてくれた。

 その時、とても会いたかった人が居た自分は必死で鶴を折った記憶がある。けれど、その後どうなったのかはまるで思い出せない。上手く鶴を折れたのかどうかも、定かでは無い。だから兄が言ったように、本当に会いたかったその人に会えたのかどうかも思い出せないのだ。

 けれど、はっきりしている事が一つある。

 その話を聞いた日を境に、自分は会いたいと言って泣く事がなくなったのだ。

 会いたくて、会いたくて、どうしても会いたくて。泣きながら鶴を作った幼き自分。

 けれどある日を境に突然自分は泣き止み、鶴も折らなくなったと幼き頃から仕えている忍が言っていた。

 だからきっと、その時の自分は会いたい人に会えたのだろう。

 現ではなく、夢想の中で。幼き時分に死に別れてしまった母に。

 そんなかすかな記憶があるからだろうか。今、こうして鶴を折っているのは……。

 会えないとわかっているのに、その気持ちを抑える事が出来ない。だから、こうして鶴を折る。

 

 ―会いたい。会いたい。会いたい……。

 たった一目だけでいい。

 ほんの刹那の間で良い。

 例えそれが幻だとしても。どうしても、あの少女に会いたいのだ。

 

 だから、どうか……。

 

 

 そんな密やかな願いを胸に、真田幸村は静かに瞳を閉じる。

 その手には独特な形をした鳥、水面に映る鶴の姿を模したとされる上下鏡合わせになった折鶴が収まっていた。

 旅の途中辿り付いた宿。その借り受けた一室の窓辺に腰を下ろし、窓枠に凭れ掛かるようにして幸村は意識を宵闇の中へと解き放っていく。

 まどろむ意識の中で、かつて聞いた兄の言葉が繰り返された。

 

 『お前の会いたいと願う気持ちをこの鶴が運んでくれる。だからこの鶴の名は……』

 

 人の思いは時として大きな奇跡を呼び、決して叶わないはずの願いを叶えてくれる。

 そして現実には出来ないことでも、夢の中でならばかなえることが出来るだろう。

 そんな一時の夢幻へと誘う鳥。

 表と裏。同じ場所にあるけれども異なる世界を示す境界を形作ったもの。

 

 だからこの鶴の名は『夢の通い路』というのだ―。

 

 

 

 夢の通い路

 

 

 

 は静かに目を開けた。

 いや、本当に目を開けたのかどうかはわからない。けれど、確かにそれまでの目には何も映っていなかった。それが今は何かを見ていると認識している。その事を頭の片隅で考えながら、はぐるりと周囲を見渡した。

 はしばしの間、己が見ているであろう光景を見つめる。

 確かに、自分は目を開けて何かを見ている。そう、認識している。けれどは今己の目の前にある光景が不思議でならなかった。

 「此処は……」

 そう、思わずは呟く。

 辺りは真っ暗で何もない。上も下も横も、空間を表すようなものがまるで存在しておらず、何の音も聞こえない、そんな空間には立っていた。

 「此処、何処だろう……」

 そう呟いて初めての耳は音というものを感知する。

 それほどまでに周囲は静寂で、己以外の誰も、何も存在を感じない。その事実に気付いたは不意に悪寒の様なものを感じた。

 誰も居らず、何も無い空間。何処までも続く虚無の世界。そんな場所にたった一人で居る自分。

 その事実はを恐怖させるには十分すぎるものであった。

 

 「……政宗?」

 無意識の内にはその名を呟いていた。

 それはいつも一緒に居てくれる人の名。一人になってしまったに手を差し伸べ、孤独から救ってくれた人。呼べばいつも来てくれる。

 けれど、どんなに待ってもその人の声はおろか存在すら感じる事が出来なかった。

 「政宗……。政宗!!政宗、小十郎さん!!成実さん、綱元さん!!」

 は必死に声を張り上げ、共に居る人々の名を呼ぶ。

 しかし、やはりというべきか返事はなく、叫んだ声は虚無の空間に吸い込まれてしまい反響すらしない。
 は自分の血の気が引いて行くことに気付いた。そんな時。

 「あ……っ!!」

 ははっ!!と目を見張る。殆ど無意識の内にはそう呟くと、己の目に映った『それ』の元へと走り出した。

 何も無い、誰も居ない虚無の空間。その中に居たの視界に紛れ込んできたのは白い何か。それを見とめたは思わず走り寄り、視界の隅で捕らえた何かに向かって手を伸ばした。

 ひらひらと舞い落ちるようにして視界に現れたもの。それは一枚の羽だった。

 「―これって……」

 が手にしたのは一枚の小さな羽根。白く、穢れの無いその羽は何も無いこの世界の中でやけに鮮明なものとしての目に映る。まるでそれ自体が光り輝いているような、そんな気さえした。

 不意には自然と、それでいて誰かに、あるいは何かに導かれるようにして天を仰ぐ。

 その目に何も無い虚無の空間を飛んで行く何かの姿が映ったのはすぐの事だった。

 「……鳥?」

 そう、は考えるよりも先に口に出す。空、と呼べるかはあやしいが、とにかく己の天を行くその姿をは見たことがあった。

 遠目である為はっきりとは見えない。けれど左右に広がった両翼の様なものが見えることから鳥だろうとは認識する。その鳥が落としたであろう羽を手にしたはその鳥を追って走り出そうとした。が、その時。ふいに一陣の強い風が吹きぬけた。

 「わ……っ!?」

 突然の突風を受けたは思わず足を止め、顔を両手で庇う。

 その拍子に掴んだ鳥の羽が飛ばされたが構ってなどいられなかった。突然吹き抜けた風は吹いたときと同じように唐突に止む。それに気付いたは恐る恐る顔を上げる。そうして、次の瞬間目に入った光景には思わず息を呑んでしまった。

 

 何が起こったのかまるでわからなかった。

 気付けば周囲の光景は変わり、ほんの一瞬前まで世界の全てを蔽っていたはずの虚無の空間が消えてなくなっていたのだ。

 その代わりとばかりにの前に現れたのは見た事の無い、それでいて信じがたい光景。

 「わあ……」

 思わずはそう声を上げる。なんと一寸前まで何もなかったはずの場所に、巨大な桜の木が現れたのだ。

 ……いや、そういうよりは世界そのものが一瞬にして変わったというべきか。それまでずっと何も無い世界の中に居たはずなのに、気付けば周囲は何処かの山の中の様になっている。そしてそれは見事なまでに美しかった。

 「すごい……」

 素直には思った事を口にする。

 藍色に染まった空に、短めな緑の草が敷き詰められ穏やかな川が流れる大地。そしてそこかしこに点在する無数の桜は全て絢爛に咲き誇っており、風に吹かれるたびに無数の花びらを散らせていた。淡いピンクに染まった花弁は藍色の空に見事に映え、見るものの心を掴んで離さない。はしばしの間、呆然としながらそんな世界を見つめた。

 それは現実とは思えない、とても幻想的な光景だ。

 一瞬の内に世界が変わった事もそうだが、それ以上にこんな桜が舞い散る幻想的な風景など見た事が無い。そしてそんな光景に見惚れる一方で、なぜかは大人しくその光景を受け入れている自分の存在に気付く。

 先程から立て続けに様々な変化を見てきたからだろか。自分でも驚く程に取り乱すこともなく、世界の変化も浮世離れした光景も全て受け入れている。
だからその姿を見た時も、それほど驚きはしなかった。

 

 ざわり、と風が吹き桜の木々が揺れた。

 はふと、とある桜の木の下に誰かが立っている事に気付く。

 自分以外にも誰かがこの幻想的な世界の中に居るとは思わなかったが、気付いた後も特別驚く事もなくは自然と足をその人影の元へと進めた。

 さわさわと柔らかな風が流れていく。それを受けるたび桜の花弁が吹雪の様に流れ、その下に居る人影の衣服や髪を揺らす。妙に落ち着いた気持ちのまま歩みを進めていると、近づくの気配に気付いたのだろう。不意に桜の木の下に居た人影が動くのが見えた。

 静かな空間の中、桜の木を見上げていた人物がこちらを振り向く。

 そこでようやくはその人影に見覚えがあることに気付いた。

 

 「あ……」

 思わず声が毀れる。

 それが現実の声に呟いた声なのかなど、にはわからない。けれど確かな声としてははっきりと己の声を聞いた。

 その人物もに気付いたらしい。自分を見るや否や驚いた表情を浮かべたのがわかった。

 は呆然とその場に立ち尽くしたまま、その名を口にする。

 かつて一度だけ会った事がある人物。

 そしてまたいつか何処かで会おうと約束をした人。

 間違いない、其処に居るのは……。

 「貴方は……真田幸村さん……?」

 の声を聞いた眼前の人物―真田幸村は驚きに目を見開いた。

 

 

 

 

 これは夢だろうか。

 そう、真田幸村は思う。

 確かに幸村は願っていた。いつかもう一度、会いたいと。

 一目だけでかまわないから、もう一度あの少女に会いたいと。そう願っていた。

 けれど、まさかその思いが本当に、そしてこんな形で実現するとは思わなかった。

 

 「貴方は、真田幸村さん……?幸村さん、ですよね?」

 そう尋ねてくる声が聞こえてきた。

 驚きのあまり幸村は言葉に詰まり、何も言えなくなる。そうして幸村が何も言えずにいる間に、突如現れた少女―はこちらに向かって近づいてきた。

 「やっぱり!!真田さんだ!!」

 にこやかな笑みを浮かべてが近づいてくる。

 「殿……」

 幸村は自分でも気付かぬうちにそう呟いていた。

 それは以前一度だけ会った事のある少女の名。間違いない。幸村の記憶している姿と変わらないが今目の前に居る。こっちに向かってくる。

 幸村の心臓が大きく鼓動した。

  「真田さん!!真田さ……、きゃっ!!」

 「!!殿!!」

 こちらへ向かって走ってくる途中。は草に足を取られたのか、不意に体を傾かせる。それを見た幸村は咄嗟に手を伸ばしてを支えようとした。

 体のバランスを崩したはそのまま前のめりになって幸村の方へと倒れこむ。……が。

 

 ごん!!

 

 「ぐふぁっ!!」

 幸村が予想していたよりもの勢いは遙かに強く、体のバランスを崩したは頭から幸村の胸の辺りへとぶつかった。

 その打ち所が悪かったのか、それともあまりにもの頭突きが強かったのか。瞬間的に幸村は呼吸を止め、それに次いでやってきた衝撃と痛みに耐え切れず、幸村は共々倒れてしまう。

 「痛ったたた……って、ああ!!さ、真田さん!?」

 逸早 く我に返ったは、殆ど己が押し倒している状態になっている幸村の様子に気付き声を上げる。けれど当の幸村は痛みのあまり声を出すことが出来ず、一瞬の内に瀕死の状態に陥っていた。どうやら冗談抜きで受けたダメージが大きかったらしい。

 「あ、あれ!?え??真田さん!!真田さ〜ん!!」

 慌ててはぐったりとしている幸村を揺り起こす。

 けれどすぐに幸村は立ち上がることが出来なかった。

 

 「だ、大丈夫、で、ござる……」

 ようやく、幸村がそう告げることが出来たのは、それからしばし後の事。

 いまだに鳩尾辺りに鈍い痛みを感じるが、幸村はそれを隠しつつすぐ傍らに座っている少女―に告げる。ある意味で戦国武将である幸村を倒したコトになるだが、もちろん本人にその自覚は無く、それどころか幸村が倒れた原因である事にすら気付いていない様子であった。

 その為、は笑顔を浮かべのほほんとした様子で無邪気に「よかった〜」と告げる。生憎な事に幸村はツッコミというものを持ち合わせてはおらず、他に誰も居ないため、その事に関しては何も言う事が出来なかった。

 「……それにしてもこんな所で真田さんに会えるなんて思いませんでした。……って、あの、それで此処、何処かわかります?」

 無数に舞い散る桜の木の下、いつかの雨の日のように並んで二人は座っている。

 が思い出したとばかりにそう尋ねると、幸村はすぐに首を振った。

 「それが某にも……。先ほどまでは真っ暗な場所に居り、場所を確かめようと辺りの様子を探っておったのでござるが、面妖な事にいつの間にやらこの木の下に。確か某は宿で休んでいた筈。この様な場所に来た覚えは無いのでござるが……。もしや殿も……?」

 ぶつけた箇所を押さえながら幸村は、ふと気付いたようにに問いかける。

 もすぐに頷いて見せた。

 「はい。私もさっきまで真っ暗な場所に居たんですけど、気が付いたら此処に。そしたらこの木の下に誰かが居るのが見えたんで来たんです。……でも、まさかそれが真田さんだなんて思いませんでした」

 言うなりはふふ、と小さな笑みをこぼす。瞬間幸村は息を呑み、慌てて視線を空へと向けた。

 空は相変わらず藍色をしており、月も星も太陽も見えない。けれども不思議な事に周囲はとても明るく、特に二人の頭上に広がっている巨大な桜は殊更その木自身が輝いているかのようにはっきりとして見えていた。

 そんな時。

 

 「……なんか、夢見たいですね」

 すぐ傍らから聞こえてきたそんな声に、幸村は弾かれたように顔を向けた。

 視線を向けた先、其処に居るのは以前にも見たことのある光景。ずっと心に描いていた少女の姿が今すぐ傍らにある。

 「夢……?」

 そう、自分でも気付かぬ内に幸村は口にすると「はい」とすぐには返事をした。

 いつか見たのと同じ、屈託の無い笑みを浮かべ、は幸村へ告げる。

 「だって、落ち着いて考えて見れば今季節は冬の筈でしょう?なのにこんな風に桜が咲いているし、目の前にはこんなに綺麗な風景がある。それだけでも凄い不思議なのにそんな中で真田さんに会えたなんて。……まるで夢みたいじゃないですか」

 は小さく笑いながらそう告げる。

 しかし、幸村はの様に笑う事は出来なかった。

 「夢……」

 幸村はが告げた言葉、その一部分を復唱する。

 妙なまでに頭に引っかかったその言葉。それを復唱するうち、幸村の中に一つの記憶を思い起こさせた。

 「……そうか。そういう事か……」

 「え?」

 思わず呟かれた言葉を聞いたが反応する。幸村はふと自分の手に握られているものに気付いた。

 いつから握っていたのだろう。まるで気付かなかった。けれどそれは幸村にこの不思議な世界と叶わぬ願いが実現した理由、その全てを物語っていた。

 「殿。これは夢でござる」

 「……ん?夢?」

 は突然言われた言葉の意味をすぐに理解する事が出来ず、そう聞き返す。

 幸村はすぐに頷いた。

 「そうでござる。……殿、これを」

 おもむろに幸村は手を差し出した。

 は身を乗り出してその手に乗っているものを見る。

 「わぁ、すごい!!この鶴くっついている」

 幸村が持っていたもの、それは変わった形をしている鶴だった。

 上下逆さまの状態で重なり合う二羽の鶴。水面に映った鳥を模したとされるその鶴は重なり合ったままの形で幸村の手の平に乗っている。は一言断りを入れた後、その鶴を手に取った。

 「……あれ?この鶴、のりか何かでくっつけてるのかと思ったら……これもしかして一枚の紙で出来てる?」

 「あ、ああ。そうでござる。それは『夢の通い路』と言って、水面に映った鳥を模したものらしく、会いたいと願う相手に会わせてくれるという伝承が……」

 そこで幸村ははっ!!と気付いたように口を閉じた。

 が、もう遅い。はしっかりとこちらを見ていた。

 そんなと目があった幸村は一瞬の内に顔を赤らめてしまう。直後、慌てて幸村は口を開いた。

 「あ、あ、いや、そ、某はその……っ!!!たたた、確かにその鶴は願いを込めて折ると夢路を開いてくれて、会いたいと望むものに会わせてくれると言う言い伝えがあるのだが、そ、そそそその、某は決してそれを望んで鶴を折ったわけではなく……。あ、あいや、あああ会いたいと思ったのはその、それは本当のことだが……、だがけっしてよからぬ事を考えていたという訳ではなく、それも破廉恥な意味では決してないわけで……っっっ!!!!」

 顔を真っ赤にし、両手をばたばたと振りながら幸村は慌てて言いつくろう。

 誤解を与えぬよう幸村は必死に言葉を紡いでいるのが良くわかるが、完全に混乱した状態なので逆に何を言っているのかさっぱりわからない。そしてそんな幸村を前にしたはというと、何の反応も見せずただじっと幸村を見つめていた。そんなの様子がただでさえパニックになっている幸村をますます追い詰める。幸村は顔を赤くし、ただひたすら口をぱくぱくさせるしかなかった。

 と、 そんな事をしているうち。突然、がぷっと吹き出した。

 「ぷ、くく……あはは!!さ、真田さ……すごい顔……」

 突然腹を抱えて笑い出したはやっとの事でそれだけ告げる。

 対して幸村は反応する事が出来ず、ただただ呆然とするしかなかった。

 ひらひらと絶えず桜の花が舞う。一頻り笑ったは目元に浮いた涙を拭いながら幸村に向き直った。

 「ご、ごめんなさい、つい……。あんまりにも幸村さんの顔が面白かったものだから」

 「……そ、そうでござるか……」

 微妙な表情を浮かべながら幸村は呟く。

 がとても嬉しそうに笑ってくれたのは喜ばしいのだが、理由が理由なだけにさすがの幸村も動揺を隠し切れない。面白いと言われて内心かなりショックだったのだろう。物事をはっきりという幸村にしては珍しく、詰まった声音が発せられた。

 と、そんな時。何を思ったのかは突然、幸村の手を取った。

 

 「……?……っっ!? ど、うおわああああああああああああああ!!!!」

 

 それに気付いた幸村は完全に反射的な声を上げた。……ものすごい、絶叫である。

 「え? 何?」

 今度は逆にが驚く番だ。

 ただ手を取っただけなのに、そんな風に驚かれるとは思わなかった。理由を聞こうとしたが、幸村は元々赤かった顔をさらに真っ赤にし、口を高速でぱくぱくさせている。一目見てそんな幸村から理由を聞くのは無理と判断したは、己が手にしている幸村の手へと視線を動かした。

 「な……っ!! なに、を……!!??なん……っっっ」

 心臓が口から飛び出るかと本気で思った幸村は、やっとの思いで声にならない声を喉奥から絞り出す。

 完全に茹蛸状態になっている幸村だが、とにかく何かを言わねばと思ったのだろう。無理やりに口を動かすのだが、当然そんな状態ではまともな会話が出来るはずが無い。それに対してはというと、やはり特別気にした様子は無かった。

 「あ、すみません真田さん。……いや、夢だって言われたからつい確かめたくなって。結構リアルな夢ですね。本当に触ってるような感触がある」

 のん気というべきか、豪気というべきか。はまったく慌てた様子もなく幸村の手を握ったり触ったりしていている。

 どうやら幸村の言う夢だという言葉を確認しているらしい。思いがけない事態に反応が出来ないでいる幸村は、その事に対して何も言う事が出来ず、ただを見ることしか出来なかった。

 だからこそ。

 「でも、嬉しいな」
 と、そんな声がすぐ傍らから聞こえた時、幸村はすぐに反応する事が出来なかった。

 「……?殿?」

 そっと呟かれたその声に反応するも、よく聞き取れなかった幸村は思わずと言った様子ですぐ隣に居る少女へ視線を向ける。ふと、幸村は以前こんな風にこの少女を 見た事があることに気付いた。

 半年程前。初めて少女に会った時、二人の周りには雨が降っていた。そして今はその変わりに花の雨が降り注いでいる。

 そんな中で見たの顔はとても美しく、幻想的で。

 幸村は己の胸が高鳴るのを止める事が出来なかった。

 

 「私ね、幸村さん。……私、ずっと幸村さんに会いたかったんですよ」

 刹那の間、幸村の耳から全ての音が消えた。

 茹蛸状態になっていた幸村は見る間に平静を取り戻し、真剣な視線をへと向ける。対しては幸村ではなく傍らに広がる桜吹雪に彩られた風景へと視線を向けた。

 「私、幸村さんに会って色々な事話したかったんです。聞いて欲しい事が沢山あって、前みたいに迷っている事もいっぱいあって。……幸村さんに会えばきっと何かが変わるんじゃないかって、そう思ってたんです」

 「殿……?」

 先程とは打って変わり、すごく落ち着いた声音で幸村は問いかける。

 不意に小さく微笑むの顔が見え、幸村は無意識の内に息を呑んだ。

 「でも、いざこうして面と向かっていると……不思議ですね。何を聞きたかったのかまったく思い出せない。なんかそんな悩みとかどうでもよくなっちゃいまし た。……例え夢でも、私はこうして幸村さんに会えた。なんかそれだけで十分なんです」

 本当にそう思っているのだろう。の飾らない笑顔を見ればすぐにわかる。

 どう反応すればいいのか良くわからず、幸村はただそんなを見つめていた時。不意にが幸村の方へ向き直り、正面から幸村の視線を捉えた。間近な位置で二人の視線が交差する。

 ずっと見たかった、探していた眼差しが其処にある。

 「ありがとうございます、幸村さん。……私の事、忘れないでいてくれて」

 にこりと笑みを浮かべてはそう告げる。

 それは幸村の中にあった様々な思いを全て吹き飛ばすには十分すぎるものだった。

 強い思いが動く。まるで突き動かされるように、幸村は考えるよりも先に動いていた。

 

 不意に感じた感触には目を見開く。

 それまで幸村の手を握っていたの手。それが今度は逆に幸村によって握り返されたのだ。

 驚いたようには幸村を見る。すると、幸村はまるでの視線を避けるかのように顔を伏せた。

 「……某も……」

 とても小さな、小さな声。

 そんな幸村の囁くような声をの耳が捉えたのは随分と時間が経ってからの事だった。

  「真田、さん?」

 は静かに問いかける。幸村は顔を上げない。を見ない。けれど繋いだ手を離そうとはせず、それどころかまるで離すまいというかのように強く力を入れていた。

 「殿……。某は……某も、会いたかった……」

 やっとの事で幸村はそう口にする。

 よく聞こえなかったのか、すぐにが「え?」と聞き返す声が聞こえてくる。幸村は顔を伏せたままぐっと拳に力を入れた。

 「会いたかった……。会いたかったのだ、殿!!某は、そなたに!!」

 それまで伏せていた顔を上げると同時、幸村は半ば吼えるようにしてそう目の前にいる少女に告げる。すぐに驚いたような表情を浮かべるの姿が見えたが、幸村は止まることが出来なかった。感情のままに、その心のままに、幸村はに己の思いを告げる。

 「奥州でそなたとお会いして以来某は……、某は殿の事を忘れた日はなかった。いつかまた会えると信じ、その日が来る事を願っておった。……けれどその思いが……このような事態を引き起こしてしまった」

 「?それって、どういう……」

 言われた言葉の意味がわからず、は思わずそう聞き返した。

 幸村はの視線から逃れるように視線を逸らすと、再び顔を俯かせる。そうしてゆっくりと、それまで力の限り握っていたの手を離した。

 「……すまぬ、殿」

 突然、何の前触れも無く幸村はそう呟く。驚いた様な視線をが送ってきたのがわかったが、幸村は顔を上げようとはしない。

 顔を俯かせたまま幸村は

 「これは……、この不可解の出来事は恐らく、某の責任だ」

 と、静かに告げた。

 

 よく意味が分からなかったのだろう。

 が小首を傾げたのが視界の隅で見えた。自分でも驚く位、小さくて弱々しい声だ。今の幸村は普段従者や敬愛する主に見せている姿とはまるで対照的な様子だろう。けれど、真実その時の幸村にはそれが精一杯だった。

 幸村はそっと息を吐いて僅かに気を落ち着かせると、ゆっくりと伏せていた顔を上げ、を見る。そうして幸村と繋がっていない、もう一方のの手に握られた ままになってるた先の折鶴へと視線を移した。

 「殿が持っているその折鶴。……『夢の通い路』はその名の通り夢の中の道を開き、他者との夢を繋げると言われているのでござる」

 「夢を、繋げる……?」

 の呟きに幸村は「左様」と答える。

 が手にしている独特な折鶴『夢の通い路』。その意味は夢の中の道、または夢に見るということだ。そう、幼き頃幸村の実兄が教えてくれた。

 その頃の幸村はとても幼く、教えてはもらったもののその言葉の意味がまったくわからなかった。しかし、今ならわかる。

 水面に映る鶴。二つの世界の境界。夢の中の道。会いたい人に会わせてくれるという言い伝え。

 この鶴が『夢の通い路』と呼ばれているのは……。

 「恐らく某がそなたを……そなたの夢と、某の夢を繋げこの世界を作り上げたのだろう。某の身勝手な思いが……そなたを惑わせ、この夢の中に引きずりこんだのでござる」

 そこで言葉を切ると、幸村はから視線を逸らした。

 なんということをしてしまったのかと幸村は思う。

 これは夢だ。現実に起こっていることではない。そうわかっているのだが、それでも幸村は己を許す事が出来なかった。

 どんなことであれ、を巻き込んだのは事実。幸村の一方的な思いがを夢路へ誘い、迷惑を掛けてしまった。

 夢は心。その人だけの世界だ。そこに他者が入り込むのは決して許されない。その事実が幸村に重く圧し掛かっていた。

 「まことに……申し訳ないでござる……」

 幸村はただただ謝ることしか出来ない。は無言でそんな幸村を見つめていた。

 しばしの沈黙が二人を包む。その間もすぐ近くにある桜の木からは花が舞い散り、頭上から花の雨を降らせていた。

 このような美しい光景をと共に見れているというのに、幸村の心は沈むばかりだ。

 情けない。不甲斐ない。そんな言葉ばかりが脳内を占めていたそんな時。

 「―真田さん……」

 静かに、己よりも声高な少女特有の声が聞こえてきた。同時に。

 

 むに。

 

 突然幸村は頬を引っ張られた。

 「……むっ!?」

 驚きのあまり目を大きく見開き、何事か喋ろうとするが頬を引っ張られているため、上手く口が動かない。ので、幸村は口の変わりに視線を動かした。

 幸村の頬を摘む細くて白い指。連なる腕を通って視線をその先へと向かわせると、案の定というべきかそこには見覚えのある少女が居た。

 その少女は幸村と目が合うや否や、にこりと笑みを浮かべる。そうして徐に幸村の頬から手を離すと、間髪居れずは幸村の間近な位置にまで顔を近づけた。

 驚いた幸村は反射的に上体を逸らそうとしたまさにその瞬間。

 

 「ばーーーーーーか」

 

 そう、間近な位置で言われ、幸村は一切の動きを止めた。

 ……今、一体なんと言われたのだろう。まったくもって頭が動かない。頭が動かなければ体も動かず、幸村は文字通り石化してしまった。

 まだまだ半人前とはいえ幸村は良家出身の名高き戦国武将。このような言葉、君主として崇める信玄からしか聞いた事がない。ましてやの様な女人から言われたことなどあるはずが無かった。

 さらに加えて言った相手がだと言う事。それらの事実が幸村の名かでぐわんぐわんと反響する。ある意味で彼が生涯の宿敵と呼べる青年と出会ったよりも衝撃的な事だった。

 と、 が軽やかな笑い声を上げたのはそんな時。

 色々な意味でショックを受けていた幸村は呆然としたまま、そんなを見る。再び笑った事で涙が出てきたのだろう。またしてもは目元を拭いながら幸村に近づけていた体を離し、少し距離を取った。

 「ちょっとは落ち着きました?」

 そう問われたものの、落ち着けるはずがない。

 幸村が返答しないことを肯定と取ったのか、は一言、失言した事について謝罪をする。そうして、さらに笑みを浮かべると。

 「誤る事なんか、ないですよ」

 そう、静かな言葉が呟いた。

 幸村は弾かれたように我に返り、を見る。

 すぐに小さく微笑みながらそう言うの姿が視界に入り、幸村はそんなと視線を合わせた。

 「そんなに自分を責めることないですよ。逆に私、すごく嬉しいんです。だって、そのおかげでこうして私と幸村さんは再び会う事が出来たんでしょう?」

 「……え……」

 自分でもびっくりする位可笑しな声が出た。幸村は呆然としたまま動かない。動けない。そんな幸村をよそにさらににこりと笑みを浮かべたはほんの少し視線を逸らした。

 「言ったでしょう?真田さん。私は貴方に会いたかったって。……私だって、ずっと会いたいって思っていたんですよ。それなのに、怒ったり責めたりするわけないじゃないですか」

 ……確かに。と幸村は思う。

 そうだ。確かには言っていた。自分に会いたかったと。あまりにも信じられない言葉だったので、無意識に心がその事実を否定していたのかもしれないが、言われて見れば確かにの言う通りである。

 呆然として何も言えないでいる幸村。そんな幸村を前にしたは不意にその視線を逸らした。

 「それに……、それだけ幸村さんは私の事、考えてくれてたんでしょう?……それなのに、怒るわけ、ないじゃない」

 不意に聞こえてきたのは少し気恥ずかしそうな声。

 その声を聞いた事で我に返った幸村は、思わずじっと己の間近な位置に居る少女を見つめた。

 割と近しい位置に居るのにも関わらず、珍しくも幸村は動揺しない。ただただ、静かに傍らにいる少女を見つめる。

 「私も貴方に会いたかった。私だって貴方の事、忘れた事なんてなかったんです」

 静かに告げられたの言葉。それを耳した瞬間、幸村の心が一際大きく鼓動した。

 飾らない、素直なの言葉。だからこそ、深く幸村の内に響き、そしてその心を捉える。

 言われた言葉の意味を理解するまで相当な時間が必要だった。幸村がその言葉を理解したのはが気恥ずかしそうに視線を外してからしばし後の事。
そしてそれを自覚したその時、既に幸村は動いていた。

 

 不意に幸村が半ば飛び掛るようにの背へと腕を回した。

 それは時間にして一瞬の事。瞬く間にはその逞しい腕の中へと収まってしまう。

 「ゆ、幸村さ……!?」

 驚いたがそう尋ねようとしたその時、の顔に影が掛かる。そうして気が付いた時、と幸村の唇が触れ合っていた。

 突然の事に目を見開く。だがそれは一瞬の事。

 すぐに感じたのはとても甘美な不思議な感覚。そして胸の内に広がる温かな感情だった。

 ……ああ、本当に。これは夢なのだと、そうは思う。

 幸村は言った。コレは夢なのだと。そうしてそれをは受け入れた。

 だからコレはきっと夢なのだ。だってそうだろう。こんなことが現実に起こりうるはずが無い。こんなにも甘く、幸せな事が、二人の間には起こるはずが無いのだ。

 けれど、感じる思いは本物だということを二人は知っている。

 この強く胸を締め付け、心を満たすこの想いが幻想のものであるはずが無かった。

 

 何度も願った。夢でもいい。一目でいいからもう一度会いたいと。

 叶わぬ願いと知りながらも、ずっとそれだけを願っていた。

 だからこんな不思議な場所でも最初はに、そして幸村に会えたことに驚いて、ただただ嬉しくて、仕方なかった。かつて出会ったときと変わらぬ姿と優しさに再び胸を打たれ、告げられた言葉に心を奪われた。

 それ程までに自分はこの相手を求めていた。

 その身を、その心を、その全てを。出会ったあの日からずっと求めていたのだ。

 幸村は感情のままにの背に回した腕に力を込め、さらに己へと引き寄せる。

 するとはそれに答えるかのように幸村の首へと手を回し、自らを相手へ近づけた。

 二人の距離が一層近くなる。ただただ夢中になって、二人は互いを奪うかのように互いを求めあった。

 

 やがて、どちらからとも無く二人は互いに唇を離す。

 しかし体までは離そうとはせず、は幸村の胸に凭れ掛かり、幸村はの肩に己の頭を埋めた。

 二人の頭上からは今もなお、桜の木が花びらを降らせている。幸村は一層を抱く腕に力を込めた。

 「……殿」

 静かに、幸村はその名を呼んだ。は声こそ発しなかったものの、すぐにその声に呼応するかのように幸村の首に回した腕に力を込める。それだけで幸村はの思いに気付いた。

 も気付いている。自分と同じように、既にもうわかっているのだ。

 此処は夢の世界。現ではない、限られた時間のみしか存在する事が出来ない、虚ろな幻の場所。

 その世界が今終わりを迎えていると言 う事に、二人は気付いていた。

 「……夢の通い路には、代償がある」

 幸村はを抱いたまま、そう告げる。と、腕の中でが小さく反応したのがわかった。けれど、それでも幸村は続ける。

 思い出した。何故、かつて自分が急に母に会いたいと言わなくなったのか。突然鶴を折らなくなり、母に会った事を忘れていたのか。

 かつて見たのと同じ、夢の中に居るからこそ思い出す事が出来たのだろう。けれど、その事実はあまりにも辛いことでもあった。

 「夢の通い路は会いたい人に会わせてくれる。けれどその代わり、この世界での記憶は現へ持っていくことは出来ないのでござる……。つまり殿……、そなたが目覚めた時には、もう……」

 「でも」

 そこまで幸村が言った時だった。

 幸村の言葉を遮るようにしてが口を開く。思いの他強く響いたその声に幸村は口を噤み、はほんの少しだけ体を離して幸村を見上げた。

 「でも……、この思いは本当でしょう?」

 不意に紡がれたの言葉。

 それを聞いた幸村ははっと目を見張り、を見つめる。

 するとはにこりと、屈託の無い笑みを幸村に見せてくれた。

 「例え此処真田さんと……幸村さんと会った事を忘れてしまっても。この胸の思いはきっと消えない。この想いだけは、絶対に」

 ね?とは幸村に問いかける。幸村は無言でを見つめた。

 ずっと会いたかった。忘れた日などなかった。

 どんな形でもいい。たった一目だけでいい。ただ、会いたいと。そう思ったのは本当で……。だからどんな形であれこうして会うことが出来、とても嬉しかった。

 ずっと思っていたのだ。またいつか会いたいと。そう、願っていた人が目の前に居る。夢を通して会うことが出来た。

 だからきっと……。

 「だからきっと、また私達は会えますよ。……今度は夢じゃない、現実の世界で」

 「殿……」

 そう、思わず幸村が名を呼ぶとはにこりと再び笑みを浮かべる。

 その笑みが今にも泣き出しそうに見えたのは、気のせいでは無いだろう。

 幸村は精一杯の力と思いを込めて、再びを抱きしめた。同様にも幸村の背へと腕を回す。

 花の雨が降り注ぐ。優しくて儚い、夢の世界を満たして行く。そんな中でと幸村は再び唇を重ねた。

 

 花が舞う。花が散る。

 世界の終わりがすぐ其処まで来ているのがわかった。

 待って欲しいと幸村は強く想った。

 あと、少しだけ。まだ話していない事があるのだ。大事なことがある。伝えたい想いがある。だから……。

 

 (殿……。某はそなたの事が……)

 

 その思いを言葉にする事が出来ぬうち、幸村の意識は闇に飲まれて行った。

 

 

 

 

 たとえこれが夢幻の事だとしても。

 たとえ叶わぬ思いだとしても。

 それでも願う。

 今、この瞬間二人が抱く思いは本物だから。

 

 

 ―また、いつか。何処かで会う事が出来たなら……。

 

 

 

 ……な。……んな……。旦那……。

 声が聞こえる。

 聞き覚えのある声だ。この声は誰だっただろう……。そんなことを考えながら幸村はゆるりと閉じていた瞼を開いた。

 「旦那。真田の旦那ってば。そんな所で寝ていたら風邪引くって」

 酷く緩慢な動作で顔を上げた幸村の視界に、見知った青年の顔が映る。しばし焦点の定まらない目で自分を見下ろしている青年を眺めていた幸村は、酷く時間を掛けた後「佐助」と幼き頃より追従している忍の名を呼んだ。

 「まったく……。寝るならちゃんと布団で寝なって。こんな寒いのに窓開けてそこで寝るなんてさ。腹壊しても知らないよ」

 ぶつぶつと文句を言いながらすぐ傍にある窓を閉める佐助。幸村はそんな佐助の話を聞きながらもぐるりと周囲を見渡した。

 薄暗い、夜の闇に彩られた世界。僅かな行燈の光がちらつくその場所はまごう事なき幸村が泊まっている宿の一室だ。

 戻ってきたと、幸村は思った。

 戻ってきたのだ己の世界へ。夢の世界から、本来の己がいるべき世界へ。……なんとなく、幸村はそう思った。

 何故そんな単語が頭に浮かんだのか幸村にはわからない。けれど、どうしてもそう思わずにはいられなかった。

 胸を締め付けるような強い感覚がする。幸村はそっと嘆息を着き、そうして窓辺に寄りかかるようにしていた体を起こそうとした。その刹那―。

 

 「……?」

 ふと、幸村は己の右手が何かを掴むように握り締められている事に気付いた。

 そう言えば眠りに落ちる直前、あの『夢の通い路』を折っていた事を思い出す。幸村はそっと握り締められた掌を開く。が、次の瞬間、そこにあったものを見て幸村は驚きに眼を見開いた。

 「ん?どうしたの、旦那」

 主の異変に気付いたらしい、佐助が幸村の頭上から声を掛けてきた。

 無礼極まりない行為はあるが、そんなことを気にする主従ではない。それが分かっているからこそ、堂々と覗き込む佐助。しかし、その佐助も幸村の掌に乗っているものを見た瞬間、顔を顰めずにはいられなかった。

 「それ、桜の花びら?……なんでこんな冬なのに旦那そんなの握ってるの?」

 佐助がもっともな疑問を投げかけてくる。しかし、幸村はその問いかけに答える事は出来なかった。もしかしたらその問いかけ自体、幸村の耳には入ってなかったのかもしれない。

 

 幸村はただひたすらに己が掌に乗っている一枚の花弁を見つめる。

 会いたい人に会わせてくれるという『夢の通い路』。それを折っていたはずの幸村。しかし目が覚めた今、その折鶴は幸村の周囲はおろか、部屋の何処にも存在していなかった。

 その代わりとばかりに幸村の手に残されていたのは一枚の桜の花びら。

 それが意味する事は……。

 「某は……」

 幸村は静かに呟くと、虚空へと視線を向けた。

 

 

 

 

 はぱちりと目を開けた。

 その瞬間飛び込んできたものは見知った青年の顔。しかもドアップ。

 「……っっっ!!! きゃあああああああああああああああ!!!!」

 あま りにもなインパクトある光景に、は殆ど反射的に声を上げると同時に拳を振り上げた。

 「ぐっ!!」
 ばき!!と見事なまでにいい音が周囲に響く。そこで初めては自分が何をしたのか気付いた。

 「あ!! ゴメ……っ、政宗!!」

 殴ると同時に体を起こしたは慌てて己が殴り倒した青年―伊達政宗に近寄る。当の政宗はというと、顎の辺りを殴られたらしく、其処を抑えながら切れ長の眼をさらに細めていた。

 多くの猛者を従え、自ら軍を率い一国を統べる天に名高き独眼の竜こと奥州筆頭伊達政宗は大の男でも腰を抜かす独眼を静かにへと向ける。

 しかしそんな独眼を前にしてはまったく臆すことなどなかった。それほどまでにはその独眼を見慣れているのだ。

 「てめぇ……、相変わらずいい度胸してるじゃねぇか。この俺を殴るとは」

 低い独特の声音が響く。

 聞く人によれば鬼よりも怖い竜の声音なのだが、はまったく怯まず「ごめん」の一言で全てを終わらせた。

 天下を目指す戦国武将―伊達政宗に対してこれほどまでに軽い態度を取れるのは恐らくこの日ノ本ではこの少女以外、居ないだろう。そんな軽口が許され、尚且つ殴ってしまっても平気でいられる。言い換えればはそれほどまでに政宗と近しい位置にいるのだ。

 「ったく。この寒ぃ中、布団にも入らず部屋の隅で寝てやがるからわざわざ運んでやったっていうのによ。その仕打ちがコレとはな」
 ちくちく、政宗の言葉が突き刺さる。

 本気では「ごめん」としか言い様がなかった。

 「だって……、びっくりしたんだもん。目を開けたらいきなり政宗のドアップだったから」

 「悪かったなぁ、だがそれは不可抗力だ。こっちだって驚いたぜ。お前が何か呟いていたから何を言っているのか聞こうとした矢先、いきなり目ぇ開けるんだからよ」
 だから目を開けた瞬間、政宗のドアップだったのかとは知る。

 それと同時には何ともいえない気持ちになった。

 「寝言……、言っていたの?私」

 「Yes」とはっきり政宗は答えた。

 「……聞いたの?それ」

 今度の返事は「No」だった。
 「まぁ、もちろん悪ぃとは思ったけどよ。聞こうとはしたのは事実だ。……
But,結局は聞かなかったぜ。殴られたから」
 ぐうの音も出ない。政宗の言葉には閉口するしかなかった。
 寝言なんて聞かないで欲しいと抗議したいところだが、殴ってしまった手前何もいえない。結果的にはなにも聞いていないと言う事なので、はそれ以上考えない事にした。

 居心地悪そうには政宗から視線を逸らす。と、その直後。あるものがの目に映った。

 「……っ!!これ……」

 咄嗟にその折鶴を手に取ったは誰に言うでもなくそう呟く。すぐに政宗が「ああ」と声を上げた。

 の傍らに落ちていたもの。それは珍しい形をした折鶴だった。

 

 「運んでいる間に落ちたのか。……それ、大事そうにお前持っていたけど、なんなんだ?」

 政宗の言葉にが弾かれたように顔を上げる。

 驚いたようなの反応に逆に政宗が困惑気味に眉を顰めた。

 「なんだよ。お前のじゃねぇのか?さっきまで大事そうに手に持って眠っていたから俺はお前のだと思っていたんだが……」

 違うのか?と問われたが、は答えず手にした折鶴を見つめる。

 「持っていた……?私が……大事そうに……」

 思わずは政宗から聞いた言葉を復唱した。
 まるで何事か確認するかのようにゆっくりとした調子で一つ一つ、言葉を紡ぐ。けれど。
 「……覚えてない」

 それがの辿り付いた答えだった。

 

 「An?覚えてない?」

 「うん。なんだろ……確か何処かで、誰かに貰ったような気はするんだけど……。でも、よく思い出せないの。……どこか、桜の木の下で……手渡されたような気がするんだけど……」

 記憶を手繰るようにしながらはぼんやりとしたままで呟く。

 なんだそれは、という政宗の呆れたような声が響くのも無理は無かった。

 「オイオイ、随分と頼りねぇなぁ。夢でも見たんじゃねぇのか?」

 「夢……」

 政宗の言葉にが反応する。夢。その言葉が酷く引っかかった。

 夢。そうかもしれない。

 確かに先ほどまでは何か夢を見ていた。だけどそれがどんな夢だったのか、まるで思い出せなかった。

 目を開けたと同時に夢の世界は消えてしまい、現実へと戻ったの記憶には一切の欠片も残されてはいなかったのだ。

 ……いや、違う。本当に全てというわけではない。

 の手に残された折鶴。二羽の鳥が逆さになってくっつきあっている特殊な形のもの。コレだけがに残されたものであった。

 そう。それだけだ。他には何も残されていない。何も覚えていない。

 夢の中で渡されたこの折鶴がどうしてここにあるのかわからない。けれど、確かなものとしてその折鶴は今の手の中にある。それが夢から覚めたに残された全てのもの。そして夢を見たという証。

 「随分、変わった鶴だな。なんだそれは」

 じっと折鶴を見ていたら、政宗がそう尋ねてきた。

 は鶴を見たまましばし動かなかったが、やがて思い出したように

 「夢の通い路……」

 と、 呟いた。

 

 それは突然頭に浮かんだ言葉だった。この鶴の名前。それをは知っている。

 誰に教えてもらったのかまるで思い出せないが、それでもは己が口にしたその言葉がこの鶴の名前であると確信していた。
 誰かが教えてくれた。この鶴は会いたい人に会わせてくれるのだということを。そしてその通りこの鶴は夢を繋ぎ、会わせてくれたのだ。と、誰かを……。

 この鶴はその人から貰ったものだとはっきりとは覚えていた。

 「……本当だったんだ……。本当に、会いたい人に会わせてくれるんだ」

 誰に会ったのか、どんな夢を見たのか、まるで思い出す事が出来ない。けれど、何故だろう。とても心は落ち着いており、不思議と満たされている。

 それはきっと思いが通じたから。

 会いたいと願っていた人に会うことが出来たからだろう。そんな気がした。

 

 「また、会えるよね……。夢じゃない、現実でもきっと……」

 そっとはそう掌に乗る折鶴に告げる。

 同じ時。幸村は掌に乗った桜の花びらを見つめながら呟いた。

 「今度は夢ではなく、現実で……。某はきっと……」

 そう、密やかに幸村は己が心を定める。

 誰に会ったのか、覚えておらずとも構わない。今は忘れてしまっても、会えば必ずわかる。

 例えどんなに離れていても、心は通じあっていることを二人は知っているから。

 

 だからもし、もう一度。

 夢ではない現の世で、会うことが出来たならならば。その手を掴む事が出来たならば……。

 

 「某は、決してその手を離さない……。何があろうとも、絶対に……」

 

 密やかなる誓いを胸に、幸村は桜の花びらを握り締めた。

 

 

 END


あとがき

10万打記念、ミユウ様キリリク、『幸村夢、連載のIF物』でした。……が、いかがだったでしょうか。

リク頂いた時、すぐに話は思い浮かんだんですが、やっぱりというべきか。なんだか途中から良くわからない事に。(オチもすごく微妙……)しかもめっさ長い!!そしてすごい遅い。本当、お待たせいたしました。

最初幸村はヘタレなカンジだったんですが、どうにも気に食わなくて全て書き直したら今度は幸村大暴走してしまいました。

なんか本当の意味でのIF物です。時間軸的には連載の79話から80話の間辺り?のつもりだったんですが、どんどん可笑しな方向に向かって行ったので、途中から考えないようにしました。(オイ!!)ほのぼの〜微糖でというリクもらっているのに、何処に行ったそれ。ってカンジになってしまい、本当に申し訳ないです。桜とか、季節外れすぎるだろうっていう……。なんか本当、すみません……。ボロボロだ。

でも、書いている瞬間は楽しかったです。果たしてこれがリクになっているのかどうか不安ですが、ミユウ様へ捧げます。

10万打リクありがとうございました!!

2009 6/17