口づけは次までのお預けにしておこう

 

 

 空に月が輝き、暗闇の世界にほのかな光をもたらしている。
 時刻は深夜。人はおろか草木も眠る丑三つ時。
 眠りの底に沈んでいたは、そのまどろむような眠りの中からふと目が覚ました。

 小さな物音が聞こえた。

 日の光降り注ぐ昼間では様々な音にかき消され、ヒトの耳には入らないと思われるほどの小さな音。

 そんな音を聞く事が出来たのは、今が人々の寝静まる真夜中だからだろう。……そう、思いたい。

 最初はとても小さな音だったそれは、序所に大きくなって行き、の元へ近づいて来ている事がわかる。
 だが、はさほど慌てた様子を見せず、ゆっくりと身体を起こした。

 

 急に音が聞こえなくなる。だが、先ほどとは明らかに空気が異なっていることをは感じていた。

 一瞬、どうしようか考える。だが、すぐに何かを諦めたかのように小さく息を吐くと、褥を抜け出し部屋の一角にある障子戸を開けた。

 スラリ、と静かな音を立てて障子戸が開かれる。

 開け放った先に広がるのは手入れが行き届いている見事な庭園。幼い頃からずっと見ている、の為だけに作られた庭園だ。

 だが、の目に月光に照らされた庭園の風景は映っていない。

 の視線が向かう先はその庭園の中ほどの場所。そこに居る一人の人物。

 「よぅ、元気だったかい?お姫様」

 宵闇の庭園に居たのは一人の長身の男。片目を眼帯で隠し、短い銀色の髪を持った年若い青年だ。
 不思議な、塩の匂いがする。

 「……また、来たのですか?」

 笑みを浮かべる青年に対し、が口にしたのはそんな言葉。完全に呆れ果てているという様子が言葉に込められているが、青年―長曾我部元親は気にした様子もなく、軽い足取りでの元へ向かって来た。

 「おいおい、つれない言葉だな。折角会いに来てやったっていうのによぉ」

 「私は頼んだ覚えがないのですが」

 元親の言葉には間髪入れずに答える。そしてそのまま廊下に出たは後ろ手で障子戸を閉めた。
 部屋に入れるつもりは無いという意志の表れだ。元親もそんなの意思に気がついているのか、無理に部屋に上がろうとはしない。あくまで庭から出ずに、 に話しかける。
 いつもこうして二人は縁側と庭園に別れて話をするのだ。

 「天下を狙う四国の総大将ともあろう者が、このような場所で油を売っていていいのですか?それとも、もう天下取りは諦めたのですか?」

 の口調はあくまで穏やかだが、聊か物言いに棘がある。しかしは撤回しようとはしなかった。
 それに、言われた当人である元親には気を悪くしたというような素振りはない。気を悪くするどころか、逆にくっく……と小さく苦笑をこぼしていた。

  「そのどちらでもねぇなぁ。天下は勿論、この俺がいただく。だが、此処へは油売りに来ているわけじゃねぇ」

 元親はそこで一度言葉を切ると、まっすぐにを見つめた。

  「俺はただ、惚れた女に会いに来ているだけだ」

 何の迷いもなく、はっきりと元親はそう告げる。

 そのあまりにもまっすぐな言葉に、逆にが押し黙ってしまった。

 しばし二の句を紡げずにいただが、元親は小さく口元に笑みを浮かべたのを見て我に返る。そして、すぐにふい、と顔を背けた。

 「心にもない事を……。からかわないでください」

 「からかってなんかいねぇよ。俺はいつでも正直だぜ?……それに、洒落でこんな所に何度も来ると思うか?この安芸の―敵陣のど真ん中に、よ」

 その元親の言葉には逸らしていた顔を再び元親に向ける。
 元親はいつもの様に、不敵な、自信に満ちた表情を浮かべていた。

 

 

  

 ―そう。元親の言うとおり、此処は敵陣のど真ん中。

 中国地方を一手にまとめる希代の策士、毛利元就の領土内であり、にとっては生まれ故郷である場所―高松城だ。
 はこの城の城主、毛利元就の実の妹。つまり四国総大将である長曾我部元親とは事実上の敵対関係にある娘なのだ。

 そんな敵対国の人間である二人が出会ったのは今から数ヶ月前の事。

 偶然と偶然が重なり、決して出会うはずのない二人は合間見えることとなり、事もあろうか長曾我部元親はその一瞬でに惚れてしまったのだ。

 それが運命の悪戯だったのか、はたまた決められていた定めだったのかはわからない。

 だが、その邂逅によって元親がに惚れ込んだのは事実。こうして何度も危険を犯して敵陣のど真ん中に足を運ぶほどに、だ。

 しかし、それに対してはというと、正直な所、よくわかっていなかった。

 中国地方を治める君主の妹であるが故に、は生まれてから今までこの城を出た事がない。もっと言うと、この用に作られたという離宮からも出た事が無いのだ。

 突如現れたこの長曾我部元親という男に、興味が無いわけではない。
 だが、それが元親と同じ感情から来るものなのかは定かではなかった。

 そもそも、は恋というものを知らない。人を『好きになる』という感情自体が良くわからないのだ。

 

 だから相手が分からない。だから相手が気になる。

 

 

 

 「……い、おい!!

 ふいに強い口調の声が耳朶を打った。
 その声には引戻されたように我に返る。すると、なにやら顔を顰めている元親の顔が目に映った。

 「てめぇ……、今俺の話聞いてなかっただろう?」

 「え……?」

 どうやらが考え事をしている間にも元親はなにやら話をしていたらしい。完全に上の空だった為は見事に元親の話を聞き逃していた。当然ながら、元親はその事が気に食わない。

 だが、元親は溜息一つで自身の感情を押さえ込んだ。

 場所が場所なだけに元親がの元に居られる時間は限られている。ヘソを曲げている暇は無いのだ。

 「……ったく。まぁいいけどよ。何せ俺の心は海よりも広いからな」

 「海?」

 元親が口にした言葉にが反応を返した。やっと見せた反応らしい反応に、元親は笑みを浮かべる。

 そう、初めて会った時からそうだった。

 には感情らしい感情がない。笑ったり、怒ったりというごく当たり前の事が上手く出来ない少女なのだ。

 それもこれも、元親が何度も通ううちに知った幼い頃から一度もこの離宮から出た事がなく、ずっと一人で居たという育ちの為だろう。

 出逢ったばかりの頃、一向に口を聞こうとしないに元親はあれこれと自分の話をした。

 当初は聞く耳を持たないというようなであったが、何度も通う内徐々に元親の話に興味を持ち始め、こうして会話を交わすようになった。そして、そんなが元親の話に始めて興味を示し、こうして会話を交わすきっかけとなったのが『海』についての話だったのだ。

 

 「おう、そうだぜ。前にも聞かせただろう?この城の外に広がっている青い、どこまでも続いている世界だ。白い波が立っていてな、普通の水と違ってすげぇしょっぱくてよ。時には俺達を飲み込んじまう恐ろしい存在だがな、付き合い方さえ間違わなければ最高の世界なんだぜ」

 元親の言葉を聞いたは、無意識に小首を傾げた。

 元親の話にはよく『海』が登場する。そのため自然とはその『海』というものに対して興味を抱いたのだが、どうにもその『海』という物をはいまいち想像する事が出来ない。話を聞けば聞くほどに、だ。

 まず水が青いというのがよくわからない。

 井戸の水も、庭園に造られている小川の水も、青い色を纏っていない。なのに、どうして海の水は『青い』のだろう。それに付き合い方を間違えれば飲み込まれる世界……、というのも正直、よくわからない。世界なのに生き物とはどういう事だろうか。

 話を聞く度にいつもは想像するのだが、どうしてもわからない。

 「……やっぱり、よくわかりません」

 まるでとんち比べの様になってきたのでは途中で考えるのをやめた。それに、これ以上考えていたらなんだかとんでもない想像物が出来上がりそうでちょっと恐い。

 は縁側に静かに腰を落とし、小さく息を吐いた。

 「見た事のないものを幾ら想像してみても、やっぱりわからない。……それに……、仮に想像することが出来たとしても、此処から出られない私には、『海』 なんて無縁のものですし……」

  そう、口にした瞬間だった。

 

  「

 

 いきなり名を呼ばれたのはすぐの事。ふいに伸びてきた元親の手がの細い手に触れる。が縁側に座った為に、二人の距離が近づいたからだろう。瞬間、 は自分の手の中に何かが握られている事に気が付いた。

 元親が握らせたそれは掌に収まる程度の大きさの石。だが、庭にあるような無骨な石とはまったく異なり、の手中にあるそれは降り注ぐ月の光を浴びてきらきらと光輝いている。

 その石は、夜目にもはっきりと見える位鮮やかな青い色をしていた。

 「……元親様、これは?」

 は自分の手の中にある石をまじまじと見つめたまま、問いかけた。

 「綺麗な色だろ?この前偶然見つけてな。それをお前に渡したくて今日はここに来たんだぜ」

 元親はそう言うと静かに空を指差し、月の光に翳す様指示をする。いきなり言われ、戸惑うだが、すぐに言われたとおりに空に輝く月を蓋うように石をかざして見た。

 「……わぁ」

 その声はごく自然にの口から発せられた。元親はそっと満足げに口元を緩める。

 月に翳した石はその姿を朧げに映し、光を乱反射させて、石が纏う青い色を一層輝かせて見せた。
 どうしてだろう。月の姿がこんなにも歪んで見えるのに、とても美しいと思えるのは。

  「それが海の色だ」

 ふいに聞こえてきた声には朧な月から視線を外し、目の前にいる銀色の髪の男に視線を向ける。

 元親はいつもの様に、笑みを浮かべてこちらを見ていた。

 「苦労したんだぜ、海の同じ色のそいつを手に入れるの。でも、探した甲斐があったな」

 「え?」

 元親の言葉には首を傾げる。元親は再び、口元に笑みを浮かべた。

 「―どうしてもお前に『海』を見せたくてな」

 元親の声が再びを呼び戻す。不思議な事に元親の声音はいつもより少し声音が低くなっており、それがとても優しくそれでいて心地よく響いてくる。

 「……これが……海、なのですか?」

 自分でも気がつかないうちに、はそう尋ねていた。「いいや」と元親はゆっくり首を振る。

 「そいつはただ色が同じだけの石。……紛い物だ。本物とはまったく違う。……本当はお前をこのまま此処から連れ出して、本物の海を見せてやりたいんだが、どうもまだ無理そうだからよ」

 元親はそこで一度言葉を切った。だがすぐに「だけどな」と言葉を続ける。

 「だけどな、こうしてこの石を空に翳した時、見えただろう?朧な月が」

 は頷く。元親は右目を伏せる事でそれに答えた。

 「同じように海の中に入って、其処から水面を見上げると、そういう風に見えるんだ。月が」

 「海の……、中?」

 そう呟いた瞬間、は以前元親が言っていた事を思い出した。

 

 

 海は全てのモノを飲み込む。人も、物も、何もかも。

 だけど、ヒトはその海を泳ぐ事が出来る。庭の池を泳ぐ鯉達の様に、自由に海の中を泳ぐ事が出来ると。
 そうして海の中から見上げた朧げに揺れる月はとても美しいのだと……。

 

 「これがその……、海の中から見る月、なのですか?」

 「ああ、よく似ているぜ。もっとも、本物はもっと凄いけどな」

 苦笑交じりにいう元親の言葉に、は掌にある青い石に視線を落とした。 

 此処にあるのは紛い物。だけど、限りなく本物に近いものを見る事が出来る物だという。

 元親はいつも見ているのだろうか。こんなにも美しい月を。
 そしてこれよりももっと美しいという本物の海の中から見る月とはどんなものなのだろう。

 の中に一つの想いが芽生え始める。そしてそれは瞬く間に大きくなっていった。

 

 「……私も……」

 気が付いた時、はそう呟いていた。

 「私も……見てみたい。海を……、海の中から見る月を」

 その言葉はとても小さいもの。だけど、それは紛れもなくが自分の意思で紡いだ言の葉。

 一瞬、元親は驚いたように目を開いた。だがすぐにふ、と口元を緩め、の名を呼んだ。

 すぐには元親を見つめる。元親は静かにに向かって手を伸ばした。

 「……約束するぜ、

 そう言って元親の手が、の頬に触れた。は一瞬、身体を強張らせたが、それは本当に一瞬の事。
 元親は笑みを浮かべ、優しく……、本当に優しい声音で告げた。

 「今はこんな紛い物の海しか見せてやれねぇけれど。でもいつか……、いつか必ず俺が連れて行ってやる。そして見せてやるよ。お前に海を……、そして本物の海の中から見る月をな」

 は大きく目を見開いた。
 力強い、はっきりとした元親の言葉が静かにの中に広がっていく。

 

 

 どうしてだろう。その言葉に言いようの無い温かさを感じてしまうのは。

 どうしてだろう。涙がこぼれそうになったのは……。

 

 それはきっと夢物語。叶う事の無い、お伽話の様なもの。だけど……。

 

 

 はごく自然に、自らの手を頬に触れる元親の手に添えた。
 それは思いもよらないことだったのだろう。驚きを露にしている元親の表情が見えた。
 それがおかしくて、は己の口元が緩むのを止められなかった。

 「……」

 元親の、驚きに満ちた声が聞こえる。

 自分でも知らずうちに、は笑みを浮かべていた。

 

 

 

 そんな時だった。

 ふいに元親の鍛え抜かれた感覚が異変を察知する。

 なにやら城の方から騒がしい。どうやら侵入者の存在に気付かれてしまったようだ。

 「ちっ!!……ったく、いい所だったっていうのに」

 そうぼやくと元親は名残惜しそうにから手を離した。も引き止めるような事はせずに、すぐに添えていた手を下ろす。

 触れ合っていた二人が、ゆっくりと離れた。

 「悪ぃな。今日はこれまでだ」

 「はい……」

 静かに、あくまで静かには答える。だが、元親は気が付いていた。その声が以前とは異なっているという事に。

 以前よりも、の声には感情が込められている。
 少しだけ、残念そうに聞こえたのはきっと自惚れではないはずだ。

 

 複数の足音を元親の耳が捉える。もう行かなければ毛利軍に見つかってしまう。

 「じゃあな、。またな」

 そう言って元親は踵を返し、歩きだそうとした。

 が、ふと元親はすぐに足を止め、もう一度に振り返った。

 「?元親様?」

 何事かとは首を傾げる。
 ふいに元親はに顔を近づけると、素早くの頬に口を寄せた。

 

 

  ―……一体、なにが起こったのだろう。

 

 

 突然の事態に呆然とする。すぐににやり、としたいつもの不敵な笑みを浮かべている元親の姿が見え、さらに呆然となってしまう。

 元親はから離れつつ、言った。

 

  「口づけは次までのお預けにしておいてやるよ」

 

 笑みを浮かべたまま元親はそう告げると、「じゃあな〜」と軽い口調と共に片手を振り、素早く身を翻す。

 そして元親は、瞬く間に宵闇の中に消えていった。

 

 

 

 

 一人残されたは呆然としたままその場に固まっていた。

 動く事も、叫ぶ事も出来ない。ただ、ただ、元親が消えた庭の闇を見つめ続ける。
 どの位経ってからだろう。やけに周囲が静かになってから、ようやくは動き出した。

 は手の中にある青い石を、先程と同じように空に輝く月にかざす。再び朧げに歪んだ月がの目に映った。

 青く彩られたその月は、元親が見ているものとは異なるが、とても似ているという。

 やはりまだ、海がどんなものなのか、にはわからない。

 けれど、とても美しい場所である事は間違いないだろう。

 

  『約束するぜ……。

 

 頭の中で、先ほどの元親の声が反響する。何度も何度も繰り返される、『約束』だ。

 「約束……」

 は無意識のうちにそう呟き、知らず内に口元を緩めた。

 

 

 いつか、本当に元親と同じものを見る事が出来るだろうか。

 本物の海というものを。

 本物の、海の中から見る月を。

 あの、銀色の髪を持つ隻眼の青年と共に ……。

 

 

 ふいには、先ほどの頬に受けた感触を思い出し、顔が熱くなるのを感じた。

 今夜はもう、眠れそうに無い。


 

 

  END


あとがき
「愛しき君への花便り」の参加作品で、初元親の夢でした。
偶然発見し、衝動のままに参加させて頂いたですが、こういう企画自体に初参加なのでなかなかに難しかった……。(汗)
ちゃんと企画テーマ&お題に答えてるのか不安でならないです。
よく分からない上、アニキが偽者ですみません。でも書いてて面白かったです。

企画者の憂世様、素敵企画に参加させていただきありがとうございます。
そして此処まで読んでくださった皆様、ありがとうございました。

2007 8/7