・・・2004年1月某日。

なんとなくこのころから、おなかの調子が悪くどうしようかと悩んでいた。

症状が出る度に近所の病院には行くものの、結局はレントゲンをとるくらいで

痛み止めや整腸剤などの薬を出され、家に帰る。

もともと胃腸が弱く、(と言っても器官も弱いし・・・)

ただの下痢や便秘なのか。それとも痔・・・??(笑)

精神的なものも多分に関係してもいるようだ。

・・・その証拠に、主人のピリピリとした顔を見ると

お腹の痛みが増す。そして組織のことを考えても。(笑)

プレッシャー??

精神的な病気かな。

ただの、怠け病かしら。そこまで自分を追い込んでも

病院に向かう暇さえなかなか作れずにいた。痛みが治まればまた普段の生活に戻る。



そのころのわたしは、こどもの通う中学校の本部役員と、

地域の子ども会の総まとめである地少協役員と、昼間の仕事と学会活動とで

がんじがらめの毎日だった。

今思えば、ゆっくりとこどもたちと対話する余裕さえなかった。  

夜、家にいられる日はほとんどなく、

こども達もやりたい放題に好き勝手をするのも仕方のないことだった。

「あまり、束縛したっていい子に育つわけではないし。」

自分自身にそう言い聞かせ、毎日夕飯の食事の支度を終えると  

こども達の帰りを待たないまま出かける日々が続いていた。

「わたしは間違ってない。中学の先生方とだって交流が大事。子供のためでもあるんだわ。」

主人にもそう言っては、自分自身に言い訳していたのかも知れない。

長男が高1・次男が中1・末っ子は小学4年生だった。  

近所からは、こどもたちのことを「放任しすぎ・放し飼い」と言われるようにまでなり

たびたびの警察からの連絡にも振り回されながらも自分の無謀さに

気づかずにいたのだった。

でも少しずつ、こんなことでいいはずがない。

どうしたらいいんだろうと悩みはじめていたのも事実だった。

・・・どんどん荒れていく長男の姿を見るたび悲しくなり、涙が出た。

中学生の次男の行動も段々派手になり、目つきが変わり帰ってこない日が続いた。

わたしはなんのためにPTAの活動や組織のために奔走しているんだろう。そう思うたびに

お腹が、胃がそして心がチクチク痛んだ。主人もわたしを責めた。

主人も男子部の活動で夜遅い時が多く、こどもとの対話もままならず  

夜中の警察からの電話にびくびくしながら眠る日もあった。パトカーや救急車の音におびえていた。

題目も思うようにあがっていなかったのかも知れない。

会合には参加して、活動してはいたものの惰性に流されていた。

会合にさえ出ていれば守られると勘違いしていた。

思うように折伏が進まない事、部員さんの事でもイライラし、いっぱいいっぱいだった。

精神的にも追い詰められていたのかもしれない。

もともと痩せていた体重はどんどん減り、周囲から心配の声がちらほら聞こえ初め、

はじめて、事の重大さに気づいた。

・・・このままではまずい。病院に行かなくちゃ。

やっと決意できたというのに、そう思うと今度は仕事が忙しくなってくる。

痛み止めの薬でなんとか痛みをごまかし、会合、学校、役員会、仕事と

すべてをこなしていた。

そんな生活が一年以上続き、わたしの体は病気にむしばまれていくのを

ほったらかしにしながら、無謀ともいえるような毎日を送っていたのだった。

今でも、悔いが残るのは末っ子の小学6年生最後の運動会の時のことだった。

最後の小学校の運動会ということで、かけっこはもちろん、騎馬戦や組み体操など

楽しみな種目が目白押しだった。が、わたしは体調が悪く見に行くことすら出来なかった。

見に行くどころか、お弁当さえ作ってやれず本当にかわいそうなことをしてしまった。

弁当はというと、夜中に救急でとりあえず病院にはかかったものの

動けずにいるわたしを看病しながら主人だって作れるはずもなく、主人が朝

コンビニのお弁当を買って、それをお弁当箱に詰め替えるというなんともお粗末なものだった。

朝ギリギリまで、作るつもりでいたわたしだったが

痛くて動けない体にどんなに歯がゆい思いをしたことか。今考えても悔しくてたまらない。

そんな三男坊は、小学校最後の徒競走ではぶっちぎりのトップで独走。それだけでもこの目に焼き付けたかった。

そのころわたしは、処方された薬も効くはずもなく、ベッドの上で

いつ救急車を呼ぼうかとのた打ち回っていたのだった。

主人に電話をするか、それとも救急車か。悩んだ。

でも、母親が運動会も観に行ってやれないというのに、父親まで電話で呼びもどすなんて

こどもが不憫に思えて仕方がなく、泣く泣く我慢したのだった。

2006年の5月末のことだった。



・・・そしてその数ヶ月後に検査を受けると即入院。手術を受けることになるのである。





2006年8月。

お中元の時期も終わり、そろそろ病院に行かなくちゃと決心。

実はね、お腹の痛いときにあおむけに寝てると

痛い部分に硬いしこりをみつけたのだった。

さすがにやばいと思い、このしこりがわたしの病院行きを決定的にしたのだった。

骨のわけないか・・・でも最初は骨だと思ったんだもん。

左の下腹部のあたりだったかな。コロっと。

・・・そこは、今のわたしのお腹の手術のアトと見事合致する。

もしかして、あたし医者になれるんじゃない?(笑)



8月の頭に病院へ行き、腸の内視鏡の検査をお願いする。

先生いわく、「お若いので癌などとは考えにくいのですがまぁ一応検査しましょうね」的な。

・・・そうならいいんですけどね。

「まだ30代でしょう?癌というよりは、潰瘍性の大腸炎なんかが今多いので

そんな病気かもしれませんね。」と先生。

一刻も早い検査を願ったんだけどなにぶん、先生方もお盆の休暇をとったり

またまた内視鏡の検査が予約もいっぱいで。8月の21日がイチバン早いということで

そんなに待つんだぁ〜〜〜って感じでしたね。

そのときはもう、腹が決まってたんで(腸だけに・・・笑)

先生がなんと言おうと重大な病気なのは間違いないと確信もしていたので(そんな確信いら〜〜〜ん)

仕事は一生懸命やりました。しばらく休んでも大丈夫だろうというくらい。

学会の活動は夏季友好中だったんで

みなさんに残暑見舞いのおはがきを書いたりね。

そしてお盆休みは、千葉の別荘に家族で泊まりに行き、楽しい思い出が出来たし。

・・・主人いわく、普段海水浴に出かけても浜に寝そべって海に入ろうとしないわたしが

海にはしゃいで入ってたのを見て、複雑だったようで。(笑)

コイツ死ぬんじゃ?と思ったって。

きゃはは〜〜〜♪

食べたいものもたくさんあって、入院前にどうしても食べたかったのが

某とんかつ屋さんのカツ煮定食。

でも、半分も食べられなくって、悔しかった。おまけに具合も悪くなっちゃって。

そして内視鏡検査。即入院。だったんだけど、一日だけ猶予をもらって

免許の書き換えにも行った。半年までは誕生日過ぎても講習受けてお金払えば

失効ですむんだけど、冬までに退院できるかなって不安もあったし。(←もと教習所のねーちゃんBYふか)

そんなこんなで、すべての準備を整えて入院・手術をむかえたのだった。

これは自分なりに今でも満足してるかな。



・・・って生きてるから言えるんだって。







内視鏡検査っていうのは話には聞いていたものの、楽しい検査ではない。

まず、検査の前日から準備が始まる。

そういえば、わたしは検査の前日までも、地少協のサマーキャンプに参加していたんだっけ。

みんなには、検査のことは言わずに。

でも食べるものが食べられなくってつらかったなぁ。

検査用の食事のキットがあるのでそれをこっそり食べるんだけど。

おかゆとかペースト状のおかずとかね。

んでもって家に帰ってから夜は、下剤。

下剤飲むとお腹が痛くなって、またのたうちまわった。これが病気のせいだとは

のちのちわかることになるけれど。



とにかく検査をするのに腸内を空っぽにするというわけで。

いつもは町内をとびまわってるわたしなのだけれど・・・(おい)



主人の付き添いで病院に着くと、まずは2リットルもの検査ジュースが待っていた。

これを、2時間くらいで飲むというのだった。

冷たく冷やされた検査ジュースは、大きな厚手のビニールっぽい蓋つきの容器に入っていて

ほんのりレモンの風味がする。

うすーいアクエリアスみたいな。

でも飲み干すのは、思っていたより大変で。

同じ部屋の机の向かい側にあたしより早く飲み始めていたおじさんがいた。

すかさず声をかける。

「腸の検査ですか?あたしと同じかな?」

「そうだよ、もう飲めねぇよ。」・・・って居酒屋の酔っ払い同士の会話じゃないんだから。(笑)

気さくなかんじのおじさんと一緒に励ましあいながら、なんとなく気をまぎらわせながら

あたしも挑戦。コップに少しずつ注ぎながら、時計をにらみながら。・・・手酌かよ(笑)

ふー。なんかすごく大変って感じでもないかなぁ。

味にはさすがに飽きてくるけどね。

だんだんまずくなってくるのと、冷たいのを2リットルも飲むから寒くなってきた。

深い深呼吸を何度もしながら飲んだよ。

おじさんは、晴れて完飲。(笑)次に部屋に入ってきたのは、わたしより少し年上くらいの婦人。

この方も気さくな感じの方で。話をしながら呑んだ。じゃなくて飲んだ。

ただ、この方は慣れてるみたいでね。あたしを追い抜くくらいの勢いで迫ってくるから

正直焦った。ビールならいいんだけどね(爆)

競争ではないんだけど。

そして晴れて完飲し、そしたらもよおしてくるからトイレにいって出るものはすべて出すと。

水みたいなのが。最後は透明な水になったら、いいみたいなんだけど。

・・・いつまでたってもあたしは、ならなかったのね。

もうこの時点で、異常なわけだったのね。



いざ検査がはじまったらもうまな板の上のコイ状態で、腕には点滴の針を刺され

どうにでもなれって、感じだった。

つらいって聞いていたのに、そうでもなかった。

なんで?

時計を見てたら、よくわからないんだけどなんか15分もしないうちに終わった。

なんで?

なんで?

心の中で題目をあげてたから痛くなかったのかなぁ。すごいなぁって思ってたのも反面、

これでちゃんと検査できてたのかなぁって疑惑の思いが半分。

予感的中。

肛門からはいって15・6センチのところに狭窄があると。

内視鏡のカメラが入らないほど、狭くなっているとの説明を受けた。

カメラが入らない?

だから痛くなかったんだと。すべてが納得できた。下剤を飲むとのたうちまわるほど痛いのも

いつも下痢なのも、すべてがこれでつじつまがあうのだった。

・・・狭窄の部分の細胞を取って、検査にまわしています。

どういうものかちゃんと調べて、どんな結果にせよ手術は免れないと思います。との言葉に

ボーゼンとするものの、すかさず先生に聞いた。

「先生、あたし癌ってこと?」

「悪性の腫瘍ならそういうことになりますね。」淡々とした医師の言い方に少し腹立たしさを

覚えた。ヒトゴトだと思って!

「今、これだけ情報が錯綜している世の中です。でもなかなか癌ということを受け入れられない方もいますが

 治る時代なんですよ。そして、患者さんに癌だということを隠せるという時代でもないんです。」

いやいや、そういうことじゃない。あたしが聞きたいのは。

治るかってことだ。

いや、違う。この時点でわたしはまだ、癌ではなく良性の腫瘍だと思っていた。

活動もして、題目もあげてきたわたしが癌になどなるはずがないと

信じていた。

今からあげる題目の力で、たとえ悪性だとしても

良性だと医師に言わせて見せると確信していた。



わたしが落ち込んだようにみえたのか、先生がわたしの顔を覗き込んで言う。

「大丈夫ですか。」

・・・大丈夫なわけないだろっ!だから病院に来てるんじゃっ!ってココロで叫びながらも笑顔を作って

「大丈夫です。」・・・なんでこんなときにまで笑っちゃうんだろ。

それから、どうしますかってことになり良性にせよ、手術は免れない話と、入院の日程を決めたのだった。

そして、ここの病院で治療するのかどうかということも含めて。

その翌日、免許の書き換えに行き、新しいパジャマを買い、食べたいものを食べ、

入院生活にのぞんだのだった。





2006年8月23日入院。



入院生活は、少し気がかりもあったけど

未知の世界でもあり、正直わたしにとってホッと出来る空間でもあった。

体調が悪くて、職場から帰るとまずソファに横になる。

食事の支度をして会合や役員会・PTAの活動があるはずなのに

起きられない。

そんなからだが言うことを利かない日が続き、

自分でもどうしていいのかわからなくなっていた。

本当につらかった。

それがやっと、治療に専念できるという安心感がわたしを楽にさせていた。

もっともっと、はやく病院に来ればよかった。

そう、どうしても、家のことに手抜きが多くなっていた。

お惣菜を買ってきただけの食事の支度や、洗濯物をたためない日が続き、

こどもたちや主人の不満もつのっていたと思う。

・・・ごめんね。

悪くもないのに、こどもに当たりちらし、

PTAの活動には出かけていく。会合には出かけていく。

そんな生活が続いていいはずがない。

そんなおり、主人も男子部の部長から副本部長となり  

我が家を部の男子部の拠点とすることもようやくなくなり、

正直、肩の荷がおりた気さえしていた。

男子部は、夜遅いからね。

そんなことさえ感じていた自分が情けない。どんなに男子部のみんなに助けてもらったか。  

今となっては、感謝・感謝で本当に足を向けては寝られない。





目に見える体の変化というのは、体重が減り  

爪が折れやすくなった。そして髪の毛がパサパサになった。

切れ毛も多く、肌も荒れていた。

栄養がみんな癌に取られていくのだった。

・・・そうです。わたしの病名は

直腸癌です。

決して初期の発見ではなく、ステージ4の悪性腫瘍、進行癌です。

内視鏡の検査の一週間後に告知を受けました。

主人と一緒でしたので心強かった。主人とわたしは、多分これほどの強い結びつきは

ないというほどのかたい絆で結ばれているとの確信があります。

それは、愛とか恋とかいう次元の問題ではなく  

色気がなくて申し訳ないと思っていますが、

一言で言い表すとしたら

「戦友」という言葉がいちばんしっくりあうのではないかと。

・・・変な夫婦だなぁ(笑)



そんな主人に本当に感謝していることは、

告知される前に実は、主治医から主人の携帯電話に先に一報が入っていたという事実。

それを、わたしは後で知ったわけです。

わたしと主人と先生の3人で話し、病状についての説明や告知を受ける場面があったのですが

その前に主人は知っていたのです。わたしの病名を。

そして事前に電話で、本人に告知するかどうかを先生に聞かれたそうです。

主人は迷うことなく、「お願いします。」と言った。

それを知らずに、主治医を待ちつつもお気楽に

「今のうちに売店でアイスクリームでも買って食べよう」と、いつもと変わらず笑いながら

主人のことをひっぱり回していたわたしを

どんな思いで見ていたのかと思うと、涙が出た。

・・・ありがとう。

迷わずに、病気と立ち向かわせてくれて本当にありがとう。

あたしのこと、「こんなに一生懸命に信心しているんだからコイツは絶対に勝つ!」って

認めてくれたことも「絶対にオレが治す!」って言ってくれたことも

本当にありがとう。

あたしを信じてくれて、守ってくれてありがとう。



主治医からの電話のあと、ベランダに出て

こっそり一人で泣いたそうです。

こどもたちに気づかれないように。

こどもたちについつい、当り散らしてしまったことも

つらくて思わずこぼした涙を、次男に見られてしまったことも。

あたしはその話を聞いただけで、涙が止まらなかった。

告知を受けた日、家に帰ると言って病室を後にしたけど

病院の駐車場の車の中でひとりボロボロ泣いたって

最近聞いた。・・・つらかったでしょ、不安だったでしょ。

でもあなたのおかげで、100%あたしはいままで頑張ってこれたと思ってるよ。

その感謝をこめて、退院後あたしはおそろいのIDペンダントを作って主人にプレゼントした。

ローマ字で

I Tai Do Shin  Y to T with thanks

そして、結婚記念日ともうひとつ、あたしが手術をした日にちを刻印したのだった。

・・・異体同心 あたしが大好きな言葉だ。





2006年9月5日。

その日は、末っ子三男坊甘ったれのよっちくんの12回目の誕生日の翌日でもあり、

わたしは直腸癌の手術を受けることになりました。

手術は、4時間の予定。

事前に色々な検査をし、万全の体制でのぞむことが出来ました。

・・・医学的にも、メンタル面でも。



事前の検査の結果、リンパ節への転移の疑いと

MRIでは子宮への影(転移の疑い)が認められ

直腸の狭窄部分は切除が決まっているものの、リンパ節と子宮については

まさに、開けてみなければわからないという状況でした。

子宮に転移があれば全摘出の可能性もあり、

その前から極度の貧血状態に陥り、輸血なしの手術は難しいだろうと

言われていました。

ま、こどもは3人いるから子宮は諦めてもいいにしても。

貧血が問題でした。入院してから毎日、鉄剤の点滴を受け続けました。

ヘモグロビンの数値が7しかなかったのです。通常、婦人は12くらいが普通だそうです。  

おそらく、癌の部分からの出血があるため貧血になっているらしいとのことでした。

その数値がなんと手術前に、9.9まで上がりました。

このまま行けば輸血はいらないかも知れないとのことでした。

もともと貧血気味だったわたしは、鉄剤の点滴のおかげで元気イッパイでした。(笑)  

あまりにも血色がいいので、お見舞いに来ていただいた方たちが驚いて帰るような状況でした。

・・・そうなのぉ〜〜〜?体調悪いならはやく病院行ったほうがいいよ〜〜〜なんて

おまえに言われたくないよ!なんて感じだったでしょうね、みなさん。

手術の日にちに合わせて、色々な検査の毎日でイヤにもなっちゃうくらいだったけど  

ひとつひとつがまた、大切な検査なわけで。自分にそう言い聞かせながら過ごしました。

病室のとなりベッドのおばさんが、これまた同志の方で。

とっても心強かった。そして数年前にいただいた携帯ご本尊がやっと、日の目を見ることができました。

カーテンをひいたまま、またベッドにもぐったままの勤行は変な感じもしたけど

これほど真面目に題目のあがった期間はなかったかもしれない。

主人はというと毎日、新聞の切り抜きを持参してくれていましたが

しまいには、めんどうになったようで新聞を丸ごと持ってくるようになりました。

先生のご指導のコピーの束や書籍などたくさん同志の方々にいただいて

毎日、読みあさりました。

この信仰は、このご本尊は、本当にすごいんだと改めて痛感しました。  

感動・感謝の連続の毎日で

こんなこと言っても通じないかもしれませんが、この病気に感謝さえしていました。

いちばんの気がかりだった次男坊のひーくんが、ひとりで何度も何度も病院に訪れ

たくさんしゃべるわけではないけれど

ずっとそばにいてくれたことも、すごくうれしかった。

・・・あんた、学校大丈夫なの?もうすぐ受験だよね。お母さん家にいてやれなくてごめん。

・・・大丈夫だよ。なんとかなるから。

いつもそんな簡単なやりとりしかなくて

がんばってねとか、はやく治してねとかいう言葉のねぎらいなんてまったくなかったけど

あんたの思いは、本当にあたしにがんばる勇気をたくさんくれたよ。



長男もカノジョと友達まで連れて、お見舞いに来ました。多分ひとりで来る勇気がなかったんだと思う。

カノジョはうちで夕飯まで作ってくれたよ。もう嫁じゃん(笑)

そんなことも本当にうれしかった。

末っ子はまだ一人では来れないので主人に連れられて来ては、夏休みの宿題まで

一緒にやったっけ・・・このアホ、いつまでもおまえがこんなだから病気にもなるんじゃ(笑)



そんなこんなで入院前より、こどもたちとの対話が出来るようになってきた。

みんなの顔つきが変わっってきたように見えたのは、あたしだけかもしれないけれど。

でも、一番大変だったのは主人だった。今までやったことのない家庭のこと。食事の支度に洗濯。

そして仕事に、病院。会合も。

たまに疲れた顔を見ると申し訳なさでいっぱいになった。

とにかく題目しかないね、題目。わたしも点滴中はあまり動けないし寝たふりしながら、

同室の方々に邪魔もされないので、自然と題目タイムになっていった。

そして新しい患者さんが来るたびに記念にと言っては、住所を聞きまくっていた。

今後のためにも。(笑)

そして手術の前日に思いがけないつて?から、護符をいただくことが出来た。

すごいのは、男子部で10時間唱題会を持っていただき(それも2回も!)

手術前日の10時間の題目のしみこんだお水で飲ませていただいた。

そして、その唱題会には我が家の3人のこどもたちも参加させていただき

みんなの題目のしみこんだお水でそれを、のませていただいたというわけで。

護符をもって来ていただいた区の婦人部長いわく、

「なかなか、いただけるものではないのよ。」と。

まして、8月下旬に入院して9月の頭に手術という急な運びだというのに

すごい福運ねぇ〜〜〜と、しみじみ。

手術当日は、平日であるにもかかわらず地区でまた10時間の唱題会をもっていただいた。

たくさんの同志のまごころに包まれて、

わたしが守られないはずがない。

切ってみなければわからない、開けてみなければわからないという状況のなかで

すでにあたしは、確信していた。

絶対に治す。治してみせる。治せないはずがない。(治すの3段活用!)

そして、この体験をみんなに聞いてもらおう。新聞に、大白に載るんだと。

病気に負けそうになっている人に聞いてもらいたい。

知ってもらいたい。子育てに悩んでいる人に話してやりたい。



19歳のときに入信して以来、

なんだかんだ言っても周囲の方々に守られ、

ちょこっとさぼっては、ちっちゃな罰を受けたりしながらも少しずつ少しずつでも

守ってきた。

この信心をしてきたのは、このためだったんだと心からそう思えた。

不思議と、病気に対する恐怖はみじんも感じられなかった。

感謝の思いが、心の底からふつふつとわきあがってくるのを感じた。

自分でも不思議で仕方なかった。



・・・今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なり







9月5日午後。



麻酔から覚めると手術室の時計が目に入った。

でも、何時なのか頭がよくまわらず時計が読めない。

体が動かない。しゃべりたいのに口がまわらない。主人と両親の顔が目に入る。

聞きたいこと、たくさんあるのに。

・・・言葉がでてこない。

あんなおしゃべりなあたしが。悔しい。

ドウダッタノ?アタシ、ナオルノ?テンイシテタノ?シュジュツハ、セイコウシタノ?

聞きたいこといっぱいあるのに。

周囲が声をかけてくれた。

「おい、がんばったな。大丈夫だよ」

・・・大丈夫って言ったって。どう大丈夫なんだか。

目しか動かすことができないあたしは、目でうなずいたり、意思表示することしかできなかった。

実家からかけつけてくれた父が両手で大きな大きなマルを作ってくれていた。

きっと言葉がでてこないのがわかったんだろう。

「大丈夫。聞いてるだけでいいんだよ。」って言ってくれた。

・・・ありがとう

言葉にならず、最初に口からやっと出たのは

・・・地区に・・・連絡して・・・  

そのひと言だけだった。

主人があわてて婦人部長に電話を入れてくれた。手術の成功の報告だった。

・・・麻酔がまだ覚めてないんですけど、最初にしゃべったのが地区に・・・って言葉だったんです。

婦人部長は電話口でオイオイ泣いてしまったらしい。・・・鬼の目にも(爆)

主人はその日は仕事を休み、ずっと付き添っていてくれた。

あたしはというと、麻酔が切れ痛みがおそってきた・・・

痛み止めの注射をうってもらわないと眠れなかった。

あれは、まさにジゴクだった。

傷口が痛くて目が覚めるのだった。痛くて痛くて泣いた。

体はあちこち点滴とチューブがつながれ、見るも無残な姿だった・・・らしい。

鼻からチューブ。その管をほっぺたにぺたんと貼り付けられ、お腹にチューブが刺さり、

背中と腕には点滴が刺さり。お腹は縦に20センチ以上にわたる傷が出来ていた。

世が世なら、切腹じゃ。(怖)

主人がポツリと言った。

入院してから、初めて病人らしくなったなぁ、と。(誰がじゃ)

そんな苦しいのも束の間、3日、いや4日かな。(爆)

そんな、しおらしい姿もそれでおしまい(あれ?)



術後、お腹に力をいれられなくて苦しかった。

一番苦しかったのは、おかしくても笑えないこと。

・・・でも、自分でおもろいこと言っちゃうのよ。んで主人に逆切れ。

もともと性格が。(爆)

ふざけてるからね。



そのころ少し考えていたのは、病気のことをみんなに

どうやって伝えようかと、思い悩んでいた。

一から説明するのはめんどいし。

そこで、ブログを考えた。

特に、外部の友人とわがやのこどもたちと、入院中も繋がっていたかったためだった。

もともと仲の良い友人にだけ公開していた懸賞日記のブログを

メールでみんなに知らせて読んでもらうことを思いついた。懸賞日記から闘病日記になったけど。

・・・結果、ふざけた内容になってしまったが。ホンネもちらほらのぞかせて

そこに病状の告白ということで書くことにしたのだった。

もちろんおひとりおひとりに感謝の思いはあっても、

携帯のメールって結構大変なときもあって。

・・・でもそのブログがまたふざけたブログになってしまって、入院してておもしろかった事などを書いた。

こどもたちの友達まで読んでは笑っていたみたいで。

そのブログで病状の報告をさせていただいたものの、

同志の方々には本当におひとりおひとりにお礼を言いにまわりたい思いだったのですが

代表の方々を通してメールで報告をしました。

そのメールを男子部はメーリングリストで皆さんに配信していただいたようで

たくさんお返事も激励もいただいて本当にうれしかった。

婦人部サイドでは、支部の婦人部長と、地区婦とは本当に密にメールでやりとりしました。

つらいとき、くじけそうになったときにまた読み返して勇気をもらいたいと思っています。

今わたしが使っている携帯は、宝物になると思います。



さて次に、お待たせしました。

あたしの起こした奇跡の病状について・・・




あたしの起こしたミラクルとは♪

執刀医の部長先生いわく、

「びっくりするくらい良い結果がでました!」と思わず言うくらい

ありえない結果らしいです。

切り取った癌細胞の病理検査の結果でした。

まず、心配されていたリンパへの転移がまったくなかったこと。

そして、子宮へ写っていた影というのが、

直腸の狭窄の部分(癌のところ)が子宮に押しあたり圧迫して影を作っていただけだったことが判明。

子宮には問題なし。

子宮を切除することがなく、出血も最小限で済み輸血も必要なし。

なんとか鉄剤の点滴でヘモグロビン値もギリギリOK。

他への転移は認められず当初、ステージ4との診断が

ステージ2だとの診断でした。

これには、先生方も驚きを隠せずびっくりしていました。

手術は、これ以上ないというくらい予定通りに進めることができ

出血もほとんどなく、 

癌細胞はおとなしく、ひとつのところにぎゅっと固まっていて

取り除きやすかったと。

普通はあちこちに飛んだりするものなんですけどねぇ・・・としみじみ言われ

あたしは勝った!と心の中でガッツポーズをしました。主人と目が合い、ニッコリ。言葉は、いりませんでした。  



先生は医学的に見てそう言ったけれど、あたしの見解は少し違っていて、

手術の前日に、福運でいただく事ができた護符をみんなの題目のしみわたったお水でのんだ。

実はそこから、ミラクルがまたあったのだった。

それを飲んだ夜。

夜中に腹痛。そして血便が出始めた。

おかしい。そんなこと入院してから、今までなかったのに。

一応ナースに告げ、見てもらった。が、手術は明日だ。どうにもならない。

でも、あたしのなかで、考えられないことではあるけれど癌細胞がボロボロと崩れていくのを感じた。

気のせいかもしれないけど、あたしはそう思ったの。

あたしの中の癌が、苦しんでいる。壊れていく。  

あたしは勝つ。絶対に勝つ!

そう思って主人に電話をした。すごく心配していたけれどさらに題目を送ってくれたに違いない。

術後、子宮の影は癌の影だったと先生は言ったけど

そのときは本当は転移があったのかもしれない。それを、いつの間にか消えたとは言えないだろうからね。

リンパにだってそうだ。本当はリンパ節にまで行っていたかもしれない。それを崩したのだ。

だって、当初の見解は?ステージ4のはずだ。

ステージ4は、もう末期の一歩手前ということだ。

・・・それもあたしは今回知ったことだけれど(笑)

それが、いくらなんでも誤診じゃあるまいし、最終的にはステージ2だって。どうよ?

これは絶対に、題目の勝利だとあたしは確信しているわけです。

先生あたしは勝ちました!(←ってこっちは手術した先生じゃなくて。ね!)



術後の経過というのがまた驚きで。

主治医も驚く回復力。

たくさんの点滴とチューブをひきずったまま、自分の病室にICUから歩いて帰りました。

その距離20メートルくらいだったけど。手術の次の日のことでした。

その翌日からはもう歩行訓練を始めました。

ベッドから起き上がるのもお腹の痛みがつらかったけど、

はやく歩いたほうが治りが早いとはげまされて、一生懸命歩いたよ。

3日目には普通に歩くことが出来、4日目には導尿の管をとってもらった。

ただ、笑うのがお腹が痛くてつらかったけど。・・・そのわりに面白いことを自ら言ってしまい、困ってた(笑)



たくさんのチューブがついていたときというのが、おばけみたいな姿で。今思うと笑える。

すごかったでしょうね、その形相といったら。髪の毛はぐちゃぐちゃだろうし。

腹から2センチくらいの太さの管がささってるでしょ。パジャマのすそとかはだけちゃってても自分で直せないし。

鼻からも管でしょ。おまけに絆創膏でほっぺに張り付いてるし。

腕には点滴で、点滴の台ひきずって、おしっこの管(導尿ね)入ってるからおしっこの袋ぶらさげて

パジャマのズボン半分おっこってるし(笑)背中には痛み止めの点滴ささってて、

その容器をひもで首からぶら下げてるし。もう特に男子部のみんなには見せられないわよ(笑)

今考えても笑っちゃう姿だなぁ。こわいなぁ。



傷口の消毒で先生が毎回、「やっぱ若いなぁ。」と。

早いって。

若さだけじゃないのよ。

ふっふっふっ。

この題目の秘術、先生方にはわからないんでしょうねぇ。残念っ〜〜〜♪

 






最後に、術後間もなくみなさんへ

感謝の思いをこめて送ったメールを記して終わります。



「・・・このたびは、温かい激励・先生のご指導や御書が盛りだくさんの激励メール、そして真心からのお題目と

数えきれない程の応援を頂き、本当にありがとうございました。

楽観主義だとはいえ、告知を受けた夜は病院のベッドで

引き出しにしまってあった携帯御本尊をこの手に握りしめずにはいられず…

私が泣いてちゃいけない。主人だって辛いのに。

涙なんて絶対に見せるもんか。いや違う、泣くのは勝ってからだ。

・・・いろいろな思いが頭の中を駆け巡りました。

でも主人からの「絶対に俺が治す!」との言葉に私も絶対に勝つと、そう心に決めました。

弱い自分自身に負けそうになった時もあります。

でもみなさんからの温かい激励に励まされ、

越えられない難などない。今この業を断ち切る時だ!

今まで信心してきたのは、このためだったはずだと思うことができ

不思議と感謝の思いがこみあげてきました。

題目をあげるたびに、感謝の涙がとまらず、

こんなにちっぽけなわたしが、こんなにもたくさんの同志に支えられているということを、

心から実感することが出来ました。

もちろん手術は大成功!他に転移も認められず

ガン細胞も小さく、他の臓器を傷付けることもなく終えることができました。

また出血も最小限で輸血をすることもなく、すべてが願った通りの結果となりました。

子宮に転移の疑いのあるCTの画像は

開けてみると直腸の癌があたっていた影が映っただけで子宮への転移もなく、子宮を無くさずに済みました。

あとは、切り取った癌の病理検査の結果待ちで

今後の治療方法が決まります。

体の回復を待ちながら、新しい部屋の方たちと住所の交換をする約束もしました。

しっかりたたかいにつなげて行きます。頑張ります。

本当にありがとうございました。

2006年9月10日 ふかちゃん♪デシタ。・・・」



・・・オチ話。

でもね、実はこの感謝のメール、手術の前日に手術を受ける前に携帯で打っておいたの。

絶対に大成功で大勝利でこうなる、こうさせてやる、って大確信があったから。(笑)

その大勝利のシナリオ通りイメージして題目だってあげましたよ。

そしてそのシナリオを演じてるんですよね。

なんせあたしたち婦人部は女優ですから。

先生の弟子として、これからもしっかりたたかって行きます…今ある場所で。

    

足立戸田区 宝城本部 新田大勝支部 女優 fukachan♪

おしまい。