まっしろいくるくるカールの毛に
黒い目とお鼻がかわいい。
わが家の6人目(!)の家族のりきちゃんは
うそんこプードル(笑)
・・・・その日ダーリンのお父さんが仕事に行った先で
なぜだか拾ってきた。迷い犬。。
父は仕事中だということもあり、すぐさま近くの交番へ届けた。
が、何の因果か買主は現れず
その白い犬は私たちの住む町へとやってきた。
実家の父は犬がダイスキである。
そしてもちろん子供たちもだった。
私も結婚前には実家で2匹の犬と2匹の猫を飼うほど
動物が好きだった。
「この子は、なんて犬?」
「これは、プードルですね。多分。」とおまわりさん。
う〜〜〜ん、本当かなぁ・・・
まいっか。(笑)
そんなこんなで、わが家の仲間入り。とは言っても
犬を引き取ったのは実家であった。
白くてかわいいわんこは、いつの間にか父によって
「りき」と命名されていた。
それからの実家はまさに、りきちゃんフィーバーがおとずれた。
りきちゃんとの散歩は実家の母の日課となり
(どっちが散歩させられてるんだか・・)
りきは、都営住宅内のアイドル的存在だった。
そのころからかな。小型犬を飼う人が増えたような気がする。
母は、夜飲みに行っても
「りきたんが心配だわ♪」と言って早く帰ってくるようになった。
夜は母と一緒の布団で寝、朝は一緒に土手をお散歩。
公園では「りきちゃ〜ん!!」と子供たちが寄って来る。
母もたくさんの近所の子供たちに囲まれ、楽しそうだった。
うちの子供たちも(母にしてみたら孫じゃ)
りきに会うために、おばあちゃんちに遊びに行っていたようだった。
そんなこんなで1年くらいが経ったころ、
警察からの一本の電話。
それは、なんと
りきの、飼い主がみつかったというものだった。
父は動揺し、電話口で警察の人を怒鳴りつけたらしい。
なにを今更。。。!
自分は(りきを)引き渡すのはかまわないが
うちの女房がりきを可愛がって可愛がって、どうしようもない。
今更、返せなんてそんなことおれにはできないっ!!という剣幕に
思いが通じたらしい。警察の方は、
「飼い主の方には、もう死んでしまったということにしましょう。」だって。(まじ?)
本当の飼い主の方には申し訳ないなぁとも思ったけどね。(そんなのあり?)
でも、時が経ち過ぎたよ。りきはもう、カンペキにわが家の一員だったもの。
おとなりのジロに噛まれた時だって
母が寝ないで看病したんだよ。
私たち家族と一緒に旅行へ行くときだって母は
にっこりわらって
「わたしは〜、りきたんがいるからオウチで待ってるわ〜〜。」なんて
平気で言っていた。
ビニール袋とか新聞紙を床に置きっぱなしにすると
その上におしっこしたりして
おこられてたけど
いつもは、ちゃんとお散歩でうんちとおしっこ。
間に合わない時(?)は、風呂場に行って
用を足していた、おりこうりきちゃん♪
おすわりとお手とお代わり・まて!は、かろうじて出来るようになった。
唯一わかる人間の言葉が
「さ・ん・ぽ♪」
だった。(笑)
毛はほとんど抜けないし、けっこう頭がいい。
無駄吠えもまったくなし。おだやかな性格。
人がダイスキ。
・・・まさに、プードル(笑)
もしかしたら、マルチーズかなんかがかかってるかもしれないけど。
とりあえず、命名してみた。
「うそんこプードル」または、「なんちゃってプードル」(笑)
かれこれ、10年くらい経っているんだけどね。カレ(りき)が来てから。
私たちも実家に行ってはいつも、りきと戯れ遊んでいた。
そんなりきたんを、実家から私たちの家で引き取ることになったのは
私たち一家の大きな事件がきっかけとなった。
・・・とあるその日は給料日の次の日。
2002年11月1日の夜11時半のことだった。
主人の弟(三男坊)から珍しく電話がありびっくり。久しぶり〜〜〜!!というのもさえぎり
「妹の(実家の)様子が変だ。見に行ってくれないか?」と弟。
なんだろうと思い、とりあえず実家に電話してみた。すると!
・・・半狂乱の妹の叫び声が聞こえてきた。
「お母さん!お母さんの呼吸が、心臓が止まってるー!!」
そう言ったきり電話が切れた。
あわてて実家に向かう。土足のままで飛び込んで行く主人・・
泣きじゃくる妹。部屋の片隅でボーゼンと座り込む父。
救急車!!
救急隊を待つ時間の長いこと。
りきは、近所のTさんの腕に抱かれじっとしていた。
そして母は・・・私と主人がかけつけた時には、心肺停止の状態だった。
その日は、いつもと同じ。いつもと変わらない日常を過ごし、夕食を終え
ダイスキな大福を食べていたという母。
翌年(2003年)の1月に結婚が決まった三男坊のことをうれしそうに妹と話す母。
ただひとつ、気がかりだったのは
その三男坊だけが御本尊を受持していないことだった母。・・・もちろん私たち家族も思いは同じだった。
その前の週にわが家(次男宅=わたしのダンナね)に三男坊が婚約者を連れて来た。
結婚の報告のためだった。
その時に、母と私たちの思いを主人と熱く語ったのだった。が、
突然の話に戸惑ってしまった弟の狼狽した顔は
今も忘れられない。「なんで今、そんなことを言うんだよ!」
泣き出す婚約者のな○ちゃんの顔をみて
「いずれは、話さなくてはならない事にしても早まったかなぁ。」後悔さえした。
いい方向に向かえばいいけど・・・
主人も私も、途方に暮れてしまった。
そんな話を実家で母にすると
「何言ってるの〜〜〜?あの子はだいじょうぶ♪絶対やるわよ。」と
笑い飛ばしたまさに楽観主義(?)そのものだった。
でも、これが原因で破談になったりしたらどうしよう・・と私が言うと
「あの子は、私の子なんだから絶対にダイジョウブよ☆」
と、ウインクしてみせる母。・・・両目をつぶってしまっていたが。(笑)
・・・そんな母の子供のような無邪気な笑顔が
今も浮かんでは消えてゆく・・・
人工呼吸をされ、酸素マスクをされた母が
弱く、弱くだったが心臓の音がすると
救急車で帝京病院に搬送される事になった。
三男坊がタクシーを飛ばしてようやく実家にたどりついたそのときだった。
担架の上で意識のなかったはずの母が
自分の方をしっかりと見て、確かに笑ったという。
そういえば、そのすぐ上の兄・次男であるうちの主人も同じような事を言っていた。
私には、母の意識が戻ったようにはまったく見えずにいたが
2人は口をそろえて
かあちゃんが、こっちを見て微笑んだ。と同じことを言った。
しかし、ようやくたどり着いた三男坊をにらみつけ、一番下の妹が
「おまえのせいだ!おまえがかあさんをこんなふうにした!おまえのせいだ!」
と、なじる。
ボーゼンとたちつくす三男坊の弟に、私は
かける言葉さえみつからなかった。
父は、放心状態で天を仰ぎ、救急車に乗る気力もない。
「お義父さん!!しっかりして!!」と背中を押す。
主人の車で救急車の後を追走し、病院へ。
・・・この時、まだ私は母の命が尽きる事などまったく考えられずにいた。
絶対元気に戻ってくると信じ、母と仲良しだったTさんとふたりで夜通しお題目をあげる。支部にも連絡。
すぐに、地区婦や支部婦から激励をいただく。同志の思いに、あふれる涙がいつまでも止まらなかった。
その日は、病院の待合室で弟(三男)と妹が母の回復を祈りながら
待つことになった。そのときに、ケンカした二人の間では色々な話が出来たらしい。交代で看病ということで
主人(次男)と父が夜中の2時過ぎに帰宅。
母はすでに、脳死に近い状態だということを知らされた。
翌日ほとんど眠れないまま、いてもたってもいられず朝早くからみんなで病院へ向かった。
私は、家の用事をごくごく簡単にすませ、
ご近所のKさんを連れてタクシーで病院へ向かった。
親戚・同志たちがぞくぞくと集まり母にお題目をおくってくれた。支部でも唱題会をもっていただいた。
私の友人も何人かが病院に見舞いに訪れ
母の手をさすったり声をかけたりしてくれた。温かい励ましにまた涙がでた。
そして、倒れた次の日、2002年11月2日。家族みんなが見守る中
母は静かに、安らかに、眠るように旅立って行ったのだった。波乱に満ちた62歳の生涯をまっとうしたのだった。
・・・2002年11月1日。この日が我が一家にとって長い長い一日の始まりだった。
その日はいつも通り、実家は夕食も終え一家団欒。
1月に結婚をひかえた三男坊に電話をした母は、
なんとしてでも信心の話をしたかったに違いない。今思えばのことだったが。
テレビを見ながら、「なんか胸が苦しい・・」
とキッチンに水を飲みに行き、
「あらら、わたしちょっとヘンだわ、救急車呼んで。」
「苦しい・・・」
胸を押さえた母を父が抱きかかえた。
「どうした?お母さん!!お母さん!!!」
父の腕にもたれて
父の服に、食べたモノを少し吐いた。すると少し胸が楽になったらしく
小さな声でお題目を三回唱えた母は、にっこり笑ってぱたりと動かなくなった。
そして、あわてて救急車を呼んだのだった・・・
偶然にもその時、たまたま母からの留守電を聞いた三男坊が
実家に電話をいれた。
すると、半狂乱の妹の声。
尋常じゃないと思い、すぐそばに住む我が家に電話をくれたのがその三男坊だった。
すべてが、母の書いたシナリオ通りに思えた・・・(今だから言える。)
母が倒れたのも、いつも家にいないはずの父と妹がいる時で本当に良かったと
本当に守られたと思った。
若いころからさまざまな苦労をして
父にも悩まされつづけてきた、信心強情なそんな母が
最後の最後を迎えたのは
悩まされ続けてきた、父の腕の中だった。
・・・そして私自身、すべてを受け止め、すべてが良かったと思えるようになったのは
半年以上過ぎてからのことだったが。
そんな我が家の、すべてのドラマを見てきた愛犬りきちゃんは
今は、次男坊である(ウチの)主人の意向で、わたしたちが引き取ることになり
毎日我が家でのんびりと暮らしている。
たまに、母のいた実家の方を散歩に連れてゆくと
「あら〜〜〜りきちゃん、元気なの〜〜??」
という近所の方々の声が
本当にうれしい。
「わたしはね、お宅のお母さんにいつも助けてもらったのよ。」
との思い出話に道端で涙ぐむ人もいる。
私の友人もみんな母がダイスキで、
「いいお母さんだったよね・・・」と言っては懐かしんでくれている。
そして、唯一母の気がかりだった肝心の三男坊は、御本尊を受持していく事を決意したものの
今でも「かあちゃんに、はめられた〜〜〜」と冗談めかして笑う。
そしてそんな時私は、母の「ダイジョウブよ・・・」との言葉を思い出す。
・・・こういうことだったのかな?(やったね♪お母さん!!)
オーストラリア在住の兄がただひとり
母の死に目に会えなかったことが、悔いにはなっているが。
カレも、緊急帰国し長男として通夜・告別式をまっとうして
シドニーに帰っていった。シドニーの会館では、SGIメンバーとしてお寿司をふるまったりしているらしい。
でもね、改めて母のおかげだなぁ〜〜〜と思えるのは
仲がいいのよね、一家みんなが。
特に兄弟。それぞれ、さまざまな悩みは尽きないけれど、
一致団結っていうのかなぁ。本当にみんなで助け合って生きてると思うし
地域の方々も口々に誉めてくださるのも本当にうれしく感じる。
やはり、これは母の子育てのたまものだと。
(父ももちろんりっぱですが。)←フォロー(笑)
私はね、兄弟としては義理だけど(自称・小雪ねえちゃん)
この一家に嫁ぐことが出来て本当に良かったと実感できたし、
母に本当に可愛がってもらって
たくさんのことを教われたことが、心から功徳だな〜〜〜って思えるのね。
最後に、母の告別式に
母のダイスキだった、美空ひばりの「川の流れのように」のCDを流し、
一家全員で母へのメッセージを書いた色紙を棺に入れて
ありがとうを言う事ができた。
・・・・・そんな偉大なる母に捧ぐ・・・
おばあちゃん、天国に行ってね。・・・・・やっぱり泣いちゃった、ユウタ
おばあちゃん、ありがとう・・・・・一番泣いてた、ヒロキ
おばあちゃんの顔書いたよ♪・・・・・一番甘えんぼの、ヨシヤ
ありがとう!!(コトバがみつからず。)・・・・・長男シドニーでお寿司屋さんの、ナオキ
世界一のかあちゃん、ありがとう・・・・・次男いつまでもそばにいた、タケシ
がんばるよ、見ててねかあちゃん!!・・・・・三男イチバン母を悩ませた、カツジ
絶対に、お母さんみたいなお母さんになります。・・・・・長女イチバン親思いの、アケミ
母さん、本当にありがとう!!!・・・・・これからがんばらなきゃね、お父さん(笑)
・・・そして、最後にワタシ。
根っからの楽観主義・肝っ玉母さんに教えてもらったこと。
水の流れるような信心
他人じゃない・すべて自分!!
それだけは、いつまでも忘れないよ。・・・・・BYいちばんいろんなことを教えてもらった、ユウコ