サン・パウロ大学(USP;Universidade de São Paulo)は、サン・パウロ(São Paulo)、バウール(Bauru)、ピラシカーバ(Piracicaba)、ピラスヌンガ(Pirassununga)、リベイラォン・プレット(Ribeirão Preto)、サン・カルロス(São Carlos)に6つのキャンパスを有し、37学部からなるブラジル最大の大学である。
1932年の立憲革命(Revolução Constitucionalista)で、ジェトゥリオ・ヴァルガス政権によって軍事的に敗れた、当時のサン・パウロのエリートたちは知識を通じて州を治め、国を指揮しようと努力した。その意思を受け継いで今でも大学の公認書類には、Scientia vinces(ラテン語で「学術によって勝利を修めよう」)と印刷されている。「教育的維新による運動」(movimento pela renovação educacional)時代の教育者であるフェルナンド・デ・アゼヴェード(Fernando de Azevedo)によって取り入れられ、20年でサン・パウロの支配的文化の改革が行われた。
USP創立への道
1933年8月、サン・パウロ州のインテルヴェントール(非常事態に大統領が州に派遣する臨時執政官)に任命されたアルマンド・デ・サーレス・オリヴェイラ(Armando de Salles Oliveira)によって、サン・パウロ大学創立の道が開かれた。立憲主義運動の指揮者の一人であるオリヴェイラは、O Estado de S.Paulo紙のジューリオ・デ・メスキータ・フィーリョ(Júlio de Mesquita Filho)、 医学部のアンドレ・ドレフュス(André Dreyfus)、 法学部のヴィセンテ・ラオ(Vicente Rao)といった7人の名士からなる委員会を結成し、大学創始のための政令を作り上げるために議論を重ねた。1934年1月25日、最終的に州知事であるオリヴェイラが6283号に当たる州政令に署名し、ここにサン・パウロ大学が創立された。政令の内容は、「哲学的、科学的、文学的、芸術的文化の組織と発展が人々のに自由と偉大さの礎をもたらすのだ」というものであった。
USPの心臓
サン・パウロ大学創立の政令によると、出来たばかりの大学には8つの学部があった。そのうち7学部は6283号の政令を出した1934年1月25日以前に既に存在していた。これらの7学部とは首都圏に設けられた、法学部(1827年設立)、理工科学校(1893年設立)、薬歯学部(1899年設立、現在2つの学部に分かれている)、獣医学部(1911年設立)、医学部(1912年設立)、教育研究(1933年設立)とピラシカーバ(Piracicaba)のルイス・デ・ケイロス農業大学(Esalq;Escola Superior de Agricultura Luiz de Queiroz)(1901年設立)である。
創立当初に存在していなかった残る最後の学部は哲学・科学・文学部(Faculdade de Filosofia, Ciências e Letras)であった。この学部はまさにUSPの「心臓」であり、12世紀のイタリアのボローニャ(Bolonha)、フランスのパリ(Paris)、イギリスのオックスフォード(Oxford)での、高等教育の黎明期の学術機関創立時からのもので、USPにとってかかせない学際的な性格をもたらす目的で創られた。単に哲学部(Faculdade de Filosofia)と当時呼ばれていた哲学・科学・文学部は、生物学、物理学、数学、化学や地質学から哲学、歴史学、社会学、地理学、人類学や古典文学までの壮大な学問領域に跨る「分野」からなっていた。「大学の細部では、学問の全領域で著名人とともに学問分野に自らに入っていき、国家の知性の歴史において未曾有の文化的衝動が起こったのだ」と社会学者フロレスタン・フェルナンディス(Florestan Fernandes)が自著『サン・パウロ大学の論点』(A questão da USP)(Brasiliense, 1984)の中で言及している。
哲学部はその大きな役割を果たすにしては、教授職の空席という重大な問題にぶち当たっていた。30年代のブラジルには専門性が高くさまざまな授業を提供する大学では、教育を行うための十分な教授がいなかった。テオドロ・ラーモス(Teodoro Ramos)教授は、国際的学術交流の豊かな経験を見込まれ、教授職の空席の解決策として、その人員をヨーロッパで探すことを任された。USPで教鞭を執るために来伯したヨーロッパの教授たちはもう既に有名であり、彼らの業績は後に世界的に認められた。とりわけその中にはフランス人のジヤン・マンゲー(Jean Mangüe)、ピエレ・モンベイ( Pierre Monbeig)、フェルナン・ブローデル( Fernand Braudel),クロード・レヴィ=ストロース (Claude Lévi-strauss)、イタリア人のグレブ・ワタギン(Gleb Wataghin)、ジュゼッペ・ウンガレッティ( Giuseppe Ungaretti)、ジュゼッペ・オッキャリーニ(Giuseppe Occhialini)、ドイツ人のハインリッヒ・ラインボルト(Heinrich Rheinboldt)、ハインリッヒ・ハウプトマン( Heinrich Hauptman)などがいた。「USPは外国人の教授から計り知れないほどの恩恵を受け継いだ。それらの教授はUSPで育まれた素晴らしい質を明確にし、きわめて重要な学術的基準導入した。哲学部において、外国人教授の使命は広い文化的革命を起こしたのだ。」とフロレスタンは記している。
創立からの10年間は、USPの心臓部は首都圏に散らばっていた。インテルヴェントールであるフェルナンド・コスタ(Fernando Costa)により、1941年からブタンタン(Butantã)地区の地域をUSPに割り当てることになり、USPは現在のアルマンド・デ・サーレス・オリヴェイラ大学都市(USPの別称Cidade Universitáriaの正式名称)へと徐々に移動し始めた。最初に落成された建物は今日の州立科学技術事務局(Secretaria de Ciência e Tecnologia do Estado)の前身である技術調査研究所(Instituto de Pesquisas Tecnológicas)(1944)であった。
哲学部のあった都心の中心街にあるマリア・アントニア通り(Rua Maria Antonia)で起こった事件は大学都市(Cidade Universitária)への移動を促した。1968年USPの学生が、哲学部の目の前に建っているマッキンズィ大学(Universidade Mackenzie)の建物に避難した共産主義狩りのコマンド部隊(CCC=Comando de Caça aos Comunistas)の構成員と戦闘状態に入った。この抗争で中等過程の学生が一人亡くなった。1970年、大学の様々な学部はそれぞれ独立した機関へと変わり、物理学研究所(Instituto de Física)、化学研究所( Instituto de Química)、教育学部( Faculdade de Educação)、精神学研究所(Instituto de Psicologia)として大学都市へと移された。そして哲学・科学・文学部(Faculdade de Filosofia, Ciências e Letras)は、人文哲学部(FFLECH;Faculdade de Filosofia, Letras e Ciências Humanas)と名前を変えた。しかし、大学都市への移転は前からでに始まっており、マリア・アントニア通りでの抗争だけがその原因ではない。
天才的な学者
USPで研究していた天才的なブラジルの学者がおり、その中の一人に1993年に亡くなった医学部の教授であるエウリークリデス・ゼルビニ(Euryclides Zerbini)がいる。1968年、彼はラテンアメリカで最初の心臓移植を施す外科医となった。アインシュタインによって称賛された物理学者マリオ・シェンベルグ(Mário Schenberg)はロシア人のジョージ・ガモフ(George Gamow)と共に研究し、素粒子の一つであるニュートリノについて特筆すべき研究をした。1947年、物理の分野でセーザレ・ラッテス(Cesare Lattes)は粒子の一つであるパイ中間子を発見した。シェンベルグとラッテスはUSPの物理学研究所の教授であった。リベイラォン・プレット(Ribeirão Preto)にあるUSPの医学部の教授であるマウリーシオ・オスカール・ローシャ・エ・シルヴァ(Maurício Oscar Rocha e Silva)は今日、高血圧症に対する薬の基となるブラジキニンという物質を発見した。化学研究所を退官した教授にして、2000年にノーベル賞を受賞にノミネートされたオット・ゴットリーブ(Otto Gottlieb)は今日でもブラジル化学界でも一際有名である。彼らのような学者はUSPがブラジル社会にもたらした、偉大な学術的進歩の最初のものとなった。大学は、例えば1972年の「みにくいアヒルの子」(Patinho feio)として知られるブラジルの最初のコンピューターの製作に対して責任があった。偉業は理工科学校の統合システム研究所(Laboratório de Sistemas Integrados da Escola Politécnica)に委任された。ラテン・アメリカで最初の肝臓、腎臓や心臓の移植は医学部で施された。サン・カルロス物理学研究所(Instituto de Física de São Carlos)は世界で最初の骨を成長させる超音波機を製造し、ブラジルの原子時計と光学顕微鏡を発展させた。今日、USPの5千人の学者のほとんどは社会にもっと利益をもたらすために彼らの研究テーマに毎日励んでいる。「USPは連続的に改革を行うことにより、優先的に教授職の空席を埋めて教育を行なうことを目指し、全学問領域におけるシステムを導入したことが、その発展の主な原因である」とマリア・セシーリア・ロシアーヴォ・ドス・サントス(Maria Cecília Loschiavo dos Santos)教授は自著『サン・パウロ大学−発見の母』(Universidade de São Paulo- Alma mater paulista) (Edusp)で、そう分析している。「大学は全アスペクトに文化的、文学的、そして芸術的生活から、科学的、政治的、社会的で経済的、工業的な生活が交錯する社会についての豊かで複雑な組織をつくりあげた」。これがUSPに入学する時に、新入生が受け継ぐ、とても豊かな伝統である。
2009/2/17
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