神奈川県藤沢市白旗神社公認ホームページ
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義経・弁慶



源義経

 源九郎義経は源義朝(みなもとのよしとも)の第九子で、母は九条院雑仕の常盤御前(ときわごぜん)、平治(へいじ)元年(1159)に誕生(たんじょう)。誕生の地は京都だと言われている。幼名牛若(うしわか)
 平治元年に起こった平治の乱(らん)のため、永暦(えいりゃく)元年(1160)父義朝を亡くす。平清盛に捕えられるが、義経は鞍馬寺の稚児(ちご)となり遮那王(しゃなおう)と称した。兄の頼朝は伊豆に配流された。承安(しょうあん)4年(1174)頃、鞍馬を出て青年期を奥州(おうしゅう)の藤原秀衡(ふじわらひでひら)のもとで過ごす。
 治承(じしょう)4年(1180)兄頼朝(よりとも)が挙兵するとその軍勢に合流。
 元暦(げんりゃく)元年(1184)1月20日兄範頼(のりより)とともに木曽義仲(きそよしなか)を破る。
 元暦元年8月6日左衛門少尉(さえもんのしょうじょう)となり、九朗判官を名乗る。9月18日義経の使い頼朝に報告。頼朝の御気色に違(たが)う。
 元暦元年9月18日従5位下。10月11日昇殿(しょうでん)を許され殿上人(てんじょうびと)となる。
 文治(ぶんじ)元年(1185)3月24日壇ノ浦(だんのうら)に平家一門を滅亡させる。
 文治元年4月21日梶原景時(かじわらかげとき)が頼朝に義経の不義を訴える。
 文治元年5月24日義経鎌倉入りを許されず腰越駅で大江広元(おおえひろもと)へ腰越状を書く。
 梶原景時との対立や、頼朝の許可無く官位を受けて頼朝と不和となったため藤原秀衡を頼り奥州へ向かう。
 文治5年(1189)閏4月30日に藤原泰衡(ふじわらやすひら)の襲撃により衣川館(ころもがわのたち)で妻22歳、女子4歳とともに自害する。31歳だった。

弁慶

 武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)、幼名鬼若(おにわか)。平家物語や、吾妻鏡にもその名が出てくるが、謎の多い人物である。父は熊野別当で名は、「湛増(たんぞう)」、「弁しん」または「弁しょう」だという。義経記では、弁慶は天児屋根(あまつこやね)の末裔としている。

義経と弁慶の出会い
 義経と弁慶が出会ったのは、童話では京都の五条大橋(松原通りに架かっていたが豊臣秀吉が六条へ移転させ、橋の名とともに通りの名も五条となった。)となっているが、義経記では京都の堀川小路・清水寺である。
 湛増と弁慶父子は「闘鶏」で占いをして源氏側についたという言伝えもあります。

牛若丸(うしわかまる) 文部省唱歌
一、 京の五条の橋の上
大のおとこの弁慶は
長いナギナタふりあげて
牛若めがけて切りかかる
二、 牛若丸は飛びのいて
持った扇を投げつけて
来い来い来いと欄干の
上へあがって手をたたく
三、 前やうしろや右左
ここと思えばまたあちら
ツバメのような早わざに
鬼の弁慶あやまった
「尋常小学唱歌」


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