
音楽評論
アメリカが他者(ひと)の心に耳を傾けたころ
〜エリック・クラプトン「461オーシャン・ブールヴァード」をめぐって〜
山田がく
40年におよぶエリック・クラプトン(英)のギター人生において、1974年に発表された『461オーシャン・ブールヴァード』ほど不思議なあつかいを受けている作品はないだろう。
全米No.1シングル「アイ・ショット・ザ・シェリフ」を収録し、アルバム自身も全米No.1を獲得。それにもかかわらず、クラプトン70年代の代表作は「いとしのレイラ」、ということにされているからだ。当時の「レイラ」の評価は、同名シングルが全米第10位、アルバムは第16位でしかない。
この評価は、クラプトンのなかでも同様のようで、「レイラ」が現在もコンサートのハイライトを飾るのに対し、「アイ・ショット・ザ・シェリフ」が演奏されることはほとんどなくなってしまった。
エリック・クラプトンは1964年、今では「伝説のバンド」とも言われるイギリスのロック・グループ、ヤードバーズでデビューする。ロック・グループとは言うものの、ヤードバーズはむしろアメリカのブルースへのあこがれを全面に出した演奏をしていた。当時はビートルズがアメリカを制覇しつつあったころで、音楽業界がヤードバーズにもっとコマーシャルなサウンドを要求するようになったのも当然の流れであった。
これを良しとしないクラプトンはヤードバーズを脱退。有名ミュージシャンを何人も輩出した「ブルース学校」、ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズに参加した。ここでゴリゴリのブルースに磨きをかけるなかで、ともにクリームを結成することになるベースのジャック・ブルースと出会うことになる。
ジャック・ブルースは当時の音楽業界に対して戦略を持っていた。「レコードはポップに、ライブはアグレッシブに」。クリームが結成された1966年当時、麻薬の幻覚や幻聴を視覚化・サウンド化したサイケデリック・アートが流行しはじめていた。ジョン・レノンはボブ・ディランの影響を受けて、詩的表現をビートルズの歌詞に持ち込みはじめていた。ジャック・ブルースはこうした流れを受けて、サイケデリックをシングル曲のサウンドやアルバム・ジャケットに取り入れた。作詞には詩人のピート・ブラウンを起用していた。
一方、ライブでは、ブルースやジャズのような即興演奏を取り入れ、レコードではコマーシャルだった楽曲に延々とつづくアドリブのソロ・パートを挿入した。名手ジャック・ブルースはベースをギターのように操り、クラプトンのギターを相手に、今で言う「ギター・バトル」のようなアドリブの掛け合いを繰り広げた。
レコードでは市場の欲求をみたしつつ、ライブでは自分たちのやりたいことをやるクリームは成功したかに見えた。'67年のセカンド・アルバム『カラフル・クリーム』は全米第5位のヒット作となり、翌'68年のサード・アルバム『クリームの素晴らしき世界』はNo.1となった。
ところがクリームは絶頂期を迎えた'68年に解散してしまう。理由を尋ねられたメンバーは「みんなアメリカが悪いんだ」と答えたという。
せまいワゴン車に押し込められて長距離を走るライブ・ツアー。金切り声をあげるばかりの10代の子ども相手に1日6回もの演奏を1週間つづけて強いるニューヨークのラジオ局。
アメリカで売れるためにやったことがメンバーを、とりわけクラプトンを疲弊させていった。
70年代を通してレイド・バック(しゃかりき働くのではなく、ウエスト・コーストでのんびり暮らす)スタイルをクラプトンにさせたのは、クリームのときの強烈な疲労感だったと言ってもいい。
肉体労働に疲れたアフリカ系アメリカ人の心を癒したはずのブルースだが、皮肉なことである。
クリームでイギリス人同士のブルース演奏に疲れ果ててしまったエリック・クラプトンだが、アメリカ人による本格的なブルース、デラニー&ボニー&フレンズの演奏に目を見はった。スティーブ・ウインウッドとのスーパー・グループ、ブラインド・フェイスのコンサートで渡米したはずのクラプトンは、本来は前座であるはずのデラニー&ボニーについてまわったという。
私たちは、「イギリス人もアメリカ人もおなじ英語を話し、人種的にもおなじアングロ・サクソン系だから共通文化を持っている」と思いがちだが、こと音楽に関してはまったく異なる存在と言っていいくらいイギリス人とアメリカ人とは異なる。
霧のたちこめるドーバー海峡に代表されるイギリスの風土は、イギリス人の演奏するブルースにも影を落とし、どこか几帳面で、ともすれば神経質なサウンドとなる。
一方、アメリカ南部のさんさんと降り注ぐ太陽は、アメリカ白人の演奏するブルースにもおおらかさや伸びやかさを与える。
この対比は、'70年に発表される『いとしのレイラ』でのクラプトンとデュアン・オールマン(米)の演奏にも、そのままあらわれることになる。
オールマンを起用したのは、プロデューサー、トム・ダウドの才覚によるところが大きいが、クラプトンもまたデラニー&ボニーからメンバー3人を引き抜き、アメリカ人のなかにひとり身をおくかたち(新バンド、デレク&ザ・ドミノス)で『レイラ』を用意していた。録音はマイアミのクライテリア・スタジオで行われた。
こうしてつくられた『レイラ』は、ブルースの聖地に乗りこんだ、というよりも、ブルースのディズニーランドに乗りこんだクラプトンのはしゃぎぷりが目立つ作品となった。クリームやブルースブレイカーズのようなサウンドの「影」はここにはない。どこまでも明るい太陽のような「光」ばかりが感じられる。
演奏の巧みさから、イギリスでは「神さま(ゴッド)」とも呼ばれたクラプトンだが、ここではむしろゴツゴツとした演奏で、それがまたアメリカ人だけで演奏される「おきまり」のブルースにはない目新しさを生んでいる。
こうしたイギリス人によるブルースの再評価は、発売当時のアメリカ人リスナーにとっても新鮮だったのだろう。『レイラ』は全米第16位のヒット作となっている。
対照的に、あまりにもアメリカ的な作風が嫌われたのだろう。イギリスでは、ついにチャート・インすることができなかった。
イギリスのブルース・シーンに疲れきっていたクラプトンは、イギリスのチャートなどは気にもならなかったのではないだろうか。彼はアメリカに渡ることで新しい活路を見出した。誰の目にもそう見えた。それにもかかわらずクラプトンはドラッグ中毒の落とし穴へはまりこむこととなってしまった。原因はアルバムのタイトル曲となった「いとしのレイラ」にあった。
エリック・クラプトンがビートルズのジョージ・ハリスンと兄弟のような交友関係にあったことはよく知られている。「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウイープス」でうまく泣きのギターを演奏できなかったジョージはクラプトンをスタジオに招き、代表作のひとつとなる名曲を完成させた。「ヒア・カムズ・ザ・サン」はクラプトンの家で作曲された。ビートルズ解散直後に制作されたアルバム『オール・シング・マスト・パス』にはデレク&ザ・ドミノスのメンバーが参加し、解散直後のジョンやポールがなし得なかった内容の濃さと演奏レベルの高さを誇っている。
(作風があまりにも違うので今まで誰も言わなかったが、レコーディングのメンバーや時期から言って、『レイラ』と『オール・シング・マスト・パス』は「双子の兄弟」と言ってもいいだろう。)
ジョージとクラプトンの交友関係は仕事にとどまらず、プライベートでも深められたことは言うまでもない。ところがここで、ふたりの関係にとっては困ったことが生じた。クラプトンが、当時のジョージの妻、パティ・ボイドに恋をしたのだ。
「いとしのレイラ」のタイトルは、ペルシャの作家ニザミによる悲恋「レイラとマジュヌンの物語」からとられたという。このためか、アメリカのおおらかさに包まれたアルバム『レイラ』にあって、タイトル曲だけが狂おしいまでにもイギリス的なテイストを持っている。
「いとしのレイラ」がシングル曲として全米でヒットしているあいだも、クラプトンとジョージとの交友関係は続けられた。翌'71年、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでジョージがひらいた「バングラデシュ難民救援コンサート」にクラプトンも参加している。ここでの「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウイープス」はコンサート前半のハイライトだった。アナログ・レコードで聞いていたころは、私もそう思っていた。
ところが音が鮮明になったデジタル・リマスター版('05年発表)では、クラプトンのギター・ソロに精彩がなく、どこかヨレた演奏に聞こえてしまう。特別ゲストのボブ・ディランは別にしても、リンゴ・スターやレオン・ラッセル、ビリー・プレストンまでもが自分の持ち歌でボーカルをとるなか、クラプトンの見せ場は「ホワイル・マイ…」でのソロだけ、というのも今考えると変だ。あるいは麻薬中毒が進行していたのではないだろうか。
このコンサートの後、クラプトンは表舞台から姿を消すことになる。デレク&ザ・ドミノスはメンバー間の対立から崩壊した。ドラマーのジム・ゴードンは売れっ子スタジオ・ミュージシャンになったものの、あろうことか、実の母親を射殺して刑務所に入れられることになってしまった。このためだろうか、クラプトンは後年、「あやまった恋にもとづいた、あやまったバンドだった」とさえ言っている。
ドラッグ治療に専念し、なかばリタイア状態となっていたクラプトン(当時は毎年アルバムをリリースするのがノルマのようになっていて、2年間何も出さないのは廃業したと見なされても仕方のない状態だった)だが、'73年のレインボー・コンサートとそのライブ盤で復活する。そして次のレコーディングのためにマイアミのクライテリア・スタジオに戻ってきた。プロデューサーは『レイラ』と同じトム・ダウド。しかし共演するミュージシャンはベースのカール・レイドル(当時はラドルと表記されていたように思う)しか残っていなかった。カ−ルは新しいメンバーに声をかけ、トム・ダウドはここでも2人目のギタリストとしてジョージ・テリーを用意した。
スタジオに入ったものの、病み上がりのクラプトンは事前に2つしか楽曲を用意できなかった。メンバーはブルース・ナンバーのセッションをくり返し、ときにはゲストを迎えてジャムった(気ままに演奏しながら楽曲を練り上げていくことを「ジャム・セッション」と言った。煮詰めるところが食品のジャムと共通しているからだという。)
こうしてつくられた『461オーシャン・ブールヴァード』(これも発売当時はブルーバードと表記されていた気がする)は、「ギヴ・ミー・ストレングス(ぼくに強さをください)」「アイ・キャント・ホールド・アウト(やりきれないさ)」「プリーズ・ビー・ウイズ・ミー(そばにいてください)」と、心身ともにぼろぼろになったクラプトンの内面を赤裸々にさらけ出したような曲名が目につく。
それにもかかわらず、全曲ウエストコースト風の軽いのりのアレンジが施されていることに、発売当時の私は「クラプトンは人生から逃げている」と思ったものだ。自身の苦悩をぎりぎりのところでさらけ出したジョン・レノンの『ジョンの魂』を聞いたあとでは、よけいそう感じられたことだろう。
発表から30年以上がたち、私もまた人生の浮き沈みを経験した現在では、別のことが見えてくる。演奏や歌に『レイラ』のはしゃぎっぷりはなく、イヴォンヌ・エリマンの癒しのコーラスは傷心のクラプトンをなんとかカバーしようとしている。そして全体として、人生のどん底からなんとか立ち上がろうとする男の姿が見えてくる(ジェーミー・オールデイカーのドラムスだけが今でも軽薄だ)。そんなどん底の男に救いの手がさし出されていた。ボブ・マーリーの「アイ・ショット・ザ・シェリフ」だった。
クラプトンは、ジョージ・テリーからボブ・マーリーを勧められて、はまったという。ひ弱さばかりが目につく『461オーシャン・ブールヴァード』にあって、「アイ・ショット・ザ・シェリフ」だけが、しゃんとした、背筋の伸びた作品となっている。キーボードのパートは原曲そのままだが、ギターのカッティングはより洗練されたものになっている。
ボブ・マーリーは「クラプトンはこの曲を理解していない」と語ったという。「アイ・ショット・ザ・ポリス(俺は警官を撃った)」と歌いたかったが、それでは政府がびっくりするので「ポリス」にしたのだと。
「権力を民衆に」というボブ・マーリーの姿勢はクラプトンに理解されず、「アイ・ショット・ザ・シェリフ」はアメリカン・ニューシネマの傑作「俺たちに明日はない」の音楽版となった。これが幸いして、「アイ・ショット・ザ・シェリフ」は'74年の9月には全米No.1を獲得している。
この曲のヒットがアルバム『461…』を押しあげたのは間違いないが、聞き手のアメリカ人の側にも、クラプトン同様にさんさんと輝くマイアミの空の下に逃げこみたいという心理があったのではないだろうか。
1974年当時、ベトナム戦争は泥沼化を通りこして、アメリカの敗戦が色濃くなりつつあった(翌'75年、アメリカ軍の撤退により終戦)。ニクソン大統領はあろうことか野党民主党の党本部を盗聴するウオーターゲート事件をひきおこした責任をとっての辞任に追いこまれていた。中東戦争に端を発した'73年のオイルショックは高度経済成長の息の根をとめ、世界同時不況と超インフレが進行していた。経済状況の暗転は、60年代を謳歌したヒッピー、フラワーチルドレンから生活の基盤を奪っていった。かつてのエスタブリッシュメントも、カウンター・カルチャーの側も、ともに足元をすくわれて、どん底の生活に投げ出されていた。
そんな時代、'74年に発表された『461オーシャン・ブールヴァード』だからこそ、傷ついた当時の人たちの心に染みわたり、支持されていったのかもしれない。
親愛なる神さま
やり遂げるだけの力を私にください
おっしゃるとおり
私は間違ったことをしてきました
それでも神さま
我が家に帰りつけるだけの
力を私にください
「ギヴ・ミー・ストレングス」(超訳)
余談になるが、1974年は、クラプトンの親友ジョージ・ハリスンもまたスランプに苦しんでいた。
前年、全米No.1となったセカンド・アルバム『リビング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』の余勢をかっての、新作のレコーディングと全米ツアーが予定されていたにもかかわらず、作業は遅々として進まなかった。それどころか、声帯を痛めて、ざらざらとしてダミ声になってしまった。
ここでもパティ・ボイドが原因だったのだろう。ふたりは結局、この年の6月、正式に離婚している。
そんな時期にもかかわらず、ジョージは5月には自身のレーベル「ダーク・ホース」を設立し、そこからデビューさせる男性デュオ、スプリンターのアルバムをプロデュースしている。
離婚の痛手を忘れるために仕事をつめこむというのは、わからなくもないが、そのために自分のレコーディングはどんどん遅れ、11月からのツアーをひかえたリハーサルの合間にまで食いこんでしまった。
難産の末、12月に発表されたアルバム『ダーク・ホース』は、当然のことながら離婚で傷ついたジョージの心を赤裸々に語るものとなった。「バイ・バイ・ラヴ」など、レコーディングに参加もしていないクラプトンとパティの名がクレジットされている。当時のレコード付録解説にはふたりが参加したように書かれていたが、音源からは女性のコーラスもクラプトンのギターも聞こえてはこない。そもそも『461オーシャン・ブールヴァード』のよれよれ状態だったクラプトンが、離婚でとんがりまくっていたジョージの前にのこのこ出て行けるとは思えない。やはりクレジットはあてつけだったのだろうが、それではよけいに痛々しさがつのるというものだ。
こうしたことからイギリス本国や日本では「失敗作」の烙印を押されてしまった『ダーク・ホース』だが、アメリカのアルバム・チャートでは、翌'75年に第4位を記録している。当時のアメリカの人たちは、赤心のジョージの歌にもしっかりと耳を傾けたのである。
ヒット曲「アイ・ショット・ザ・シェリフ」を含む70年代クラプトンの
ヒット作
今では70年代の
代表作とされている
「いとしのレイラ」
「ホワイル・マイ・ギター…」でクラプトンがゲスト出演したビートルズの「ホワイト・アルバム」
「レイラ」とおなじメンバーでつくられたジョージのファースト・ソロアルバム
クラプトンのソロも聞ける「バングラデシュ・コンサート」ジョージは絶好調
ビートルズ解散直後の心情を赤裸々に歌った傑作
「ジョンの魂」
「アイ・ショット・ザ・シェリフ」を含むボブ・マーリーの代表作
(ライブ盤)
これも全米No.1
ジョージのセカンド・ソロアルバム
「ジョージの魂」
全米第4位。
「461オーシャン・ブールヴァード」と聞き比べてほしい
こちらはアウト・テイク、ライブ盤のおまけつき「461オーシャン・ブールヴァード」
エリック・クラプトン「461オーシャン・ブールヴァード」をめぐって