セイショウネン。



好きという感情の先に、一体なにがあるんだろう。

降谷は珍しく寝付けないでいた。
地獄のような夏合宿が終わり、悪夢のような練習試合が終った夜。
前半5回。
初球から降谷の放った球は、相手のバッドに打ち据えられて、自分の頭上かたなへと飛び去った。
思うように上がらない足。
いつもよりも重たい腕。
全身に拘束具がついているような錯覚を覚える。
自分の球で唯一にして、最大の武器はその速度と威力なのに。
とうとう4回、御幸にタイムを請うた。
「悔しいけど、今日は自分の球が投げられません」
駆け寄ってきた御幸は、降谷の言葉を聴くなりポカンとして、それから大笑いした。
「オレのミットちゃんと見ろよ」
御幸は、先輩たちが自分に信頼を寄せてくれているんだ、と事も無げに言った。
試合の流れは、確かに、御幸の手によって覆された。
それから後の後半は、沢村が投球したのだが、考えたくなかった。
ずるい。
降谷は、疲れきった肉体と裏腹に、冴えていく頭をもてあました。
沢村の武器は、打者の手元で動くムービングボール。
打てないのではなく、打ちにくい。
優秀なバックが揃う青道において、自分のように三振か、当たればホームランか、というタイプよりも、沢村のタイプのほうが、重宝され るんじゃないだろうか。
事実……。

鬱々と沈む気持ちと、砂袋のような身体と、冴え冴えと凍える思考に、降谷は目を閉じて、御幸のミットを思い出すことだけに務めた。
自分に差し向けられるミットと、御幸の不敵な笑みを浮かべる口元。
そういえば。
かすめるような口付けをされた、と思い出し、降谷は自分の口唇をなで、ツメの手入れを思い出した。
まだ上手く利き手のツメにマニキュアを塗ることができずにいる。
風呂あがり、なおそう、と思っていたのに忘れていた。
少し悩んだが、どうせ眠れそうになかったので降谷はだるい身体をどうにかベッドから起こして、手入れの道具を持って部屋を出た。
静かに、ルームメイトが寝ているところを邪魔しないよう、足音を忍ばせてドアを閉める。
マニキュア特有の、あの揮発性のキツイ匂いを思い、降谷は少し考える。
どこで塗りなおそうか。
食堂が、食事時以外は談話室の役割を果たしているが、モノを食べるところでこのニオイを使うのは気が引けた。
とりあえず、食堂や洗濯室のあるほうへ足を向け、ちょうどよい段差がある渡り廊下に目を留めた。
渡り廊下と建物の間に、2段ほど階段があり、そこに寮母が食材の仕入れ先に返却するのだろう、コンテナが3つ置かれている。
降谷は階段に腰を下ろすと、膝より少し高いくらいの位置にあるコンテナを机代わりに使うことにした。
青い布製の袋から、御幸がくれたマニキュアをとりだす。
色はない、透明で少し、マットな質感に仕上がるそれは、女子がよく使うような装飾用ではなく、その下準備に使われる類のものであるら しい。
それから、除光液の瓶とポケットティッシュも取り出す。
今塗られている分をふき取るためのものだ。
小学生の頃、箸やコップを入れて持参させられていた折、それらを入れる布製の袋は母親の手作りだった。
給食袋と呼んでいた、四角く、口に紐が通してあるだけのシンプルな袋。
今、降谷が手入れの道具を入れているのは、その給食袋を一回り大きくしたものだ。
これも、御幸が用意してくれていた。
あと中には、ネイルクリームが入っている。
除光液のふたを開け、ツンと鼻につくニオイに顔をしかめながら、降谷はポケットティッシュを一枚引き抜き、除光液をしみこませた。
指先に濡れたティッシュを巻きつけ、ぎゅっと押さえる。
ごしごしとツメの表面をティッシュでふき取ると、すっと一瞬液体が自分の体温を奪い、ニオイもまたいっそう、広がった気がした。
テカテカと光らないタイプのマニキュアとはいえ、やはり塗っていないツメと塗ったツメの表面には差があった。
降谷はせっせと残りのツメにも同様の作業を繰り返す。
と、ざりっと砂利を踏むような音がして、すっとんきょうな声がした。
「降谷? おまえ、そんなとこでなにしてんだ?」
右手にミネラルウォーターのボトルを持った御幸、ジュースを数本抱えた倉持のふたりが、降谷を見て驚いていた。
「あ……」
自販機で買ってきたらしい飲料を手に、ふたりが近づいてくる。
ニオイで気づいたらしい御幸が、「ああ」とつぶやいた。
「倉持、悪ぃ。オレ、先に抜ける。哲さんに謝っといて」
御幸は肩越しに倉持へ声をかけると、きしし、とからかいの笑いを浮かべて降谷のとこへやってきた。
「なーんでこんなとこでやってんだよ」
並んで階段に腰を下ろす御幸を見た倉持が、「リョーカイリョーカイ」とあきれた声を残して部屋の方へ去った。
「部屋、他の人がもう休んでるんで……」
「だからってなにも、こんなとこで、」
「……におい、こもらないところがよかったから」
ペットボトルのキャップをひねると、ごくりと一口飲み干して御幸がニッと笑う。
「にしたって、まずオレんトコくればいーだろーに」
「……」
少しビックリして、降谷はまじまじと御幸の顔を眺めた。
「ほれ、やってやる。クリームは?」
ボトルを地面に置き、御幸が手を伸ばす。
渡されたクリームのふたを開け、御幸が「ほい、手ぇ出してー」と降谷の右手を取る。
手のひらに収まるサイズの容器から、半透明のクリームを指先で掬い取ると、御幸はそっと降谷のツメ先にクリームをちょん、ちょんと載 せていく。
ツメの付け根のところを親指と人差し指ではさむように持ち、丁寧に一本ずつツメにクリームを塗りこんでいく。
御幸の暖かい手が、同じ動きを繰り返すのを、降谷はじっと見つめていた。
左手も同様にケアされ、いつも冷たい降谷の手先に少し、体温が宿る。
御幸の手の暖かさが移ってきたような錯覚に陥る。
仕上げにティッシュで余分な油分を押さえとると、御幸はマニキュアのボトルへ手を伸ばし、「んー」と首をかしげた。
「ちょっち、やりにくいなぁ」
手の甲を上にして、両手を自分に差し出している降谷と向かいあった格好で、御幸は思案顔になった。
「ローテーブルでも挟んでれば、コレでもやれないことはないんだけどなぁ」
空中に手を浮かした格好で、じっと御幸の指示を待っている降谷を見て、御幸は笑い出した。
「……っぷ……」
イヌが、両手をそろえて、餌を待つしぐさに似ている。
などと、降谷が聞いたら、つんとそっぽを向きそうなことを思ってしまったのだ。
降谷は急に噴出した御幸に、怪訝な顔をし、首を左手に傾げた。
「よしよし」
わしわしと、降谷のアタマをなでると、御幸は立ち上がり、降谷が腰掛ける階段の1段上、背後に腰を下ろした。
降谷の腿の横に、御幸の立てた膝が置かれ、ぽん、と降谷の手をそれぞれ、両膝に置かせた。
「おし、これなら、」
二人羽織の要領で、自分のツメの手入れと同じ感覚でやれるだろう。
御幸がぐっと、背中から自分の前に両手を回し、器用にマニキュアの容器を開け、ふたから伸びる刷毛に溶液をとる。
そうした一連の様が、降谷の目に不思議な映像のように映った。
「右手からなー」
御幸の声が、右耳のすぐ横で聞こえ、降谷は思わず首をひねった。
耳の近さを考え、いつもより静かに発せられた御幸の声、吐息が、降谷の耳をくすぐる。
右上に顔を向けたら、「なんだよ」と、突然動いた降谷にビックリしたらしい顔の御幸の顔が、信じられないくらい近くにあって、降谷は 二重に驚いた。
「……ッ」
降谷の頬と耳に、朱がさし、「なんでもないです」と消えそうな返事がこぼれる。
「ほれ、正面向いて。あ、ちょいと左に首傾けてくんね?」
恥ずかしいのだろう、予想以上に新鮮な反応を示した降谷に、御幸は満足の笑みを深めながら、わざと正面を向いた降谷の耳元に囁く。
素直に、あからんだ耳を御幸に晒しながら、少し左にかしいだ首元に顔を寄せる。
御幸が肩口に顎を預けると、降谷の身体が少しこわばった。
「ほい、塗るぞ、指先伸ばして」
背中に自分の胸を密着させ、降谷のこめかみに頬を寄せた姿勢は、二人の体温が近くて、御幸も少し、緊張した。
ひと刷毛ずつ丁寧にマニキュアが塗られると、溶液のニオイが時折ツンと鼻に届くが、お互いの鼻にふわ、と香っているのは、互いの匂い で、降谷は呼吸を押し殺しながらも、背中に与えられる御幸の体温と匂いに少しずつ身体の緊張を解いた。
右手の五本が終わり、一度御幸が身体を起こしたときには、流れ込んだ空気に寂しさを覚えた。
寒い。
そんなわけはないのに、なぜかそう思った。
「われながら、いい出来栄えじゃん! 右手、膝から動かすなよー」
御幸の声に「はい」と返事をして、「じゃあ、左な」という言葉に、降谷は素直に右に身体を傾がせた。
御幸は、さっきと同じ姿勢を当然としているらしい降谷の、無意識の緩みに微笑んでしまう。
降谷の背中を抱きしめるように、首筋に顔をうずめ「おまえ、ボディソープなに使ってんの?」とたずねる。
降谷はくすぐったそうに身じろぐと、「青いボトルの……」とよくテレビコマーシャルが流れている、有名な商品を口にした。
「あれ、一緒か?」
こめかみに頬を寄せなおし、御幸の利き手から遠い左手に腕を伸ばす。
右手より少し塗りにくいため、先ほどよりいっそう密着する身体からは、同じ匂いがただよってるんだろうか。
降谷が器用に塗られていくマニキュアを眺めながら、つぶやいた。
「……御幸先輩は、なんてシャンプー使ってるんですか?」
小さな声だったが、互いの身体に話す振動が伝わる。
「んーと、今は、」
御幸が美容室とタイアップ報道されている商品を伝えると、降谷は「それ、いいですか?」と珍しく会話を続けた。
「なに、一緒にしたい?」
からかう口調の御幸の言葉に、振動で笑っていることが判る。
降谷はちょっと、む、と口をとがらしかけたが、顔が見えないのに、暖かな体温に包まれていることが、いつもより素直な気持ちにさせた のか、こくりとうなずいた。
左手も塗り終えた御幸は、マニキュアのふたを閉めてコンテナの上に放ると、身体を離さずにぎゅーっと降谷の身体を抱きしめた。
「おまえ、ホンット、かわいいこと言うよなー」
突然抱きしめられて驚いたが、しみじみと放たれた御幸の声が嬉しそうだったので、降谷は黙ってそのまま、されるがままにした。
「乾くまで、指動かすの禁止な」
御幸はそれまで、こうしているつもりらしい。
背中から抱きしめられた格好に、そのまま背中を御幸に傾け、降谷は右手のツメが乾いているのを見ると、そっと右手を自分に回されてい る御幸の手に重ねた。
「おい、そっち乾いたか?」
右の指先で、自分のへそのあたりで組まれた御幸の手を撫でている降谷に、御幸が声をかける。
「はい」
「……」
撫でる緩慢な動きに、他意があるのかないのか。
御幸は腕の中の男の動きに、少し不埒な熱がくすぶってくるのを自覚してしまう。
(……くしょー……)
何を話すでもなく、ただ黙って、体温を重ねて手を撫でられているだけだというのに。
降谷もまた、背中に寄り添う体温と自分の耳元をくすぐる吐息に、今まで自分の中に存在していたとは思えない、幸福感と飢餓感がない交 ぜになった、不可解な熱が渦巻いていることに戸惑う。
呼吸のリズムも静かに重ねて、自分の内側にあるその感情と感覚をそれぞれが観察しているような、相手の内側に自分と同じものが存在し ているのか考え、想うような、静謐な時間がしばらく流れたる。
つ、と左手を空中にかざし、マニキュアが完全に乾いたことを確認した降谷の動きに、御幸もつられてそのツメ先に視線を動かす。
形のいい、楕円形のツメが白い指先にある。
「降谷のツメは、キレイだな」
御幸は素直にそう褒めた。
御幸を仰ぎ見るよう、振り返った降谷の目が、マウンドにいるときとはまた違った、餓えた色を宿していた。
そのまま、そっと、降谷の左手が御幸の顔に伸ばされる。
予想よりも自然に、当然のように、降谷がその手で御幸を引き寄せた。
御幸は不敵な笑みを口元に浮かべて、素直にその顔を降谷に寄せた。
二度目のキスが、互いの気持ちを押し転がそうとしているのは、確かだった。

好きという感情の先、そこに欲望がともなってしまうことへの畏れと、誘惑。

渡り廊下の向こうから、倉持と沢村の、二人を迎えに来た声が聞こえてくる。
ぎりぎりまで、ついばむような口付けを交わし、降谷はそっと身体を起こした。
道具を青い袋にしまい、御幸に向かって頭を下げる。
「ありがとうございました」
そこへ倉持が「おー、居た居た。明日も練習試合あんだぞ、おまえら」と降谷の背中に飛び掛り、ふたりをいつもの健全な日常へ引き戻す 。
御幸も快活に笑い、立ち上がると「オマエらがオレの部屋から帰れば、すぐ寝るよ」と軽口をたたく。
沢村が並んで歩きながら、降谷のツメ先を「見せろ」とせがんだ。
自分の右手をつかみ、「やっぱ、やってもらったほうがキレイにできるよなー」と不器用さを嘆く沢村の横顔を、降谷は見下ろして考える 。
田舎に彼女がいるらしい沢村だが、どう見ても今は、クリス先輩しか見えていないと思うが、やはり普通はそうした憧れと、欲望を伴うあ の感情は別物なんだろうか。
もし降谷が、もう少し開けた性格ならば、沢村に聞いているところだったが、降谷にはそうした話を同級生たちと交わす習慣や経験がなか った。
前を歩く倉持の背中を見て、同じことを思う。
彼らの中にも、欲望を伴う「好き」というあの激情が、誰かに対して存在しているのだろう。
そう思うと、不思議だった。
普段、どんなに野球のことだけを考え、練習一色に明け暮れていたとしても、この感情はふとした瞬間に湧き出して、自分を支配する。
御幸の部屋から、わいわいと声が聞こえてくる。
ここに集う、全国制覇を目標とする、素晴らしい先輩たちも、みんな、そんな感情を抱えているのだろうか。

この気持ちが、不健全ではないと、あなたが赦してくれるなら。

知らず、こぼれたため息は、苦く胸にとどまった。



-fin-