
| 熱海に転居してふとしたことで知り合い、真摯で豊かな生き方に感銘を覚えた山田さんから、自費出版の「名主 今井半太夫の足跡」を頂いた。この本には熱海の輝きがちりばめられている。そこでこの本を元に作ったのが、この「湯治客が守った湯前神社」の頁である。引き続いて来宮神社、伊豆山神社と発展していくことができれば幸いである。温泉の守り神として湯前神社の益々の興隆を祈念しつつ。そんな思いで冬のある日に湯前神社を訪れたら地元の人達が木漏れ日の中で神社の清掃に余念がなかった。今でも地域の皆さんに支えられているこの神社は幸せである。 |
| まずは湯前神社についてその概要を紹介しよう。熱海の中心地、市役所のそばの少し山側の小さな森の中に湯前神社は静かに鎮座している。現在は、社殿と神輿庫、鳥居、石段などを残すのみだが、往時には熱海温泉に湯浴みにきた客が楽しむ能舞台等もあったようだ。 付近には大湯の跡や現在でも旅館と共同浴場となっている「日航亭大湯」が存在する。その点では、いにしえからの熱海温泉の中心地であり、今でも多くの源泉が自噴している。七湯巡りで紹介した源泉もこの神社の周囲に点在している。また、鳥居をくぐった右側には、源泉がコンコンと湧き出ている。さすがに湯前神社である。 文政13年(江戸時代:1830)に山東庵京山が書いた「熱海温泉由来」には、「湯前神社は、上町より一丁余り西にあり、祀られている神の名は少彦名命、鳥居の傍らに碑が立っている。明和7年(1770)に社人が建てたもので(略)慶長年中徳川家康公がここに入浴された事、寛永16年(1639)家光公もご入浴なされようとして御殿を建てた遺跡及び調馬場もあったという」との文章がある。また、少彦名命について「わが国では温泉に浴して病を療治する事は少彦名命を以って始めとする。」とし、病を治す神、薬の神、厄除けの神、百薬の長である酒の神とも言われ、神仏混淆では薬師如来にも擬せられている。 また、明和7年(1770)に石渡親由が建てた神社に現存する碑には、「伊豆の国賀茂郡葛見郷に温泉が湧き出し流れ下って海に注ぐ、名づけて熱海という。天平勝宝元年、童に少彦名命神憑りして曰く、ここに湯浴みするものは病を癒し、必ず治る。後の世の人たち、祠を建て煙を立て、祈りを怠ることなく殆ど千年余り、慶長申年にいたって、神祖家康公湯浴みす。寛永16年、三代将軍家光公、命じて廟を建て、武将達もまたここに浴す、その源泉自ら巌の穴より熱を出し「焼き」「茹で」「沸く」べし、沸く時刻あり、昼夜6回「水は沸き立ちその勢い鯨が飛沫を天に噴く如し、その音雷鳴の地を震わす如し(略)吾が大東国に温泉多しといえどもその有様かくのごときもの聞かず」と刻されている。これらの記述でも分かるとおり、熱海温泉の象徴であった自噴の間欠泉・大湯がその想像を越える勢いが神社の原点になったことが想像できる。 このように古い歴史を持つ湯前神社だが、この神社にも幾多の災難が降りかかった。神社の存亡の危機に際し、それを救ったのが、熱海の人達であり、温泉に魅せられた湯治客であった。 その現代版が、現在も続く奉賛会なのだろう。大湯と湯前神社の魅力に引かれ、山田さんたちが呼び掛けて奉賛会が組織されたのは、熱海の興隆に一役買おうとしたのだ。奉賛会は、善意の寄付と奉仕で「湯汲み道中」や「神輿」を奉じ、春と秋には例大祭を挙行している。 「湯汲み道中」は、寛文年中より始まり御汲湯のための御小屋場は今井半太夫前の通り、今のニューフジヤあたりで幅3間半あまり長さ5間ほどの坪数18坪であった。 |
本殿の彫刻 |
神社の由緒記 |
湯汲み道中は、享保の頃徳川吉宗公の御代に盛んに行われ、始めは陸地を通って送っていたが、その後は船で輸送したようである。享保年中の9年間に3,643樽、天明4〜5年に掛けて229樽が送られたという記録が残されている。 最初20人位の会員で始まった奉賛会は、神社に人を集めようと手作りで祭りを開催し、露天商と交渉し参道に露天を出してもらったり、二年目には神輿をリースで借りて担ぎ、次の年には1千万円の目標で寄付を集め、目標を超過達成して東京の一流の宮神輿製作所に製作を依頼している。 そして次が大湯の移転させて温泉史跡公園を作ろうといういう運動。ニューフジヤが増築をする為大湯の土地を買い取る話があり、その資金を活用して大湯の移転先を整備して湯前神社の付近に温泉史跡公園を作ろうというもの。しかし、文化財審議会に反対の方がいて遂に実現できなかった。もうひとつ実現できなかった企画に海中より吹き上げていた温泉を万巻上人が山の中腹に移したという故事にちなんで海岸の渚地区に湯前神社の一の鳥居を作りたい、費用は奉賛会で用意すると熱海市と静岡県に働きかけたが渚の景観に不似合いという理由で実現できなかった。これらが実現されていれば熱海の観光にとってひとつのシンボルとなっていたかもしれないと思うと少し残念な気がする。 もうひとつ、湯前神社のエピソードを紹介すると、明治35年(1902)の熱海市の火災に際して、温泉を愛する人達の寄付で湯前神社が見事に再建された経緯と神部さん達の寄付の顛末である。江戸から明治時代に掛けてどこの街でも一番怖い災害は火事。熱海も例外でなく、数度の大火に見舞われている。明治35年二度の火事があり、一度は温泉寺が、それから数日して大乗寺本堂より出火、湯前神社6棟に延焼し火は上ノ山方面まで広がったという。しかし、再興の資金が集まらず難航している折、東京神田で呉服商をしていた神部さんが、自ら千円を寄付するだけでなく界隈の湯治仲間に呼び掛け2千円の基金を作り湯前神社の再建を果たしたという。神部さん自筆のメモには「此処において身体も壮健、家運隆昌なるは、神仏の加護によるは勿論、入湯の功も空しからず、熱海の鎮守湯前神社の去る十年前に焼失せし侭、壊滅状態になっていることを悲しみ率先して寄進し、友人に |
有馬公寄進の鳥居 |
有馬公寄進の石灯篭 |
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境内に沸く源泉 |
石渡親由が建てた碑 |
| も進めて浄財弐千円を作って普請に取り掛かり明治44年に彫刻も見事な神殿が出来上がり地元の人々は勿論、宿屋の人々大いに喜び斡旋して遷宮祝駕をなした」と記されているという。現在、このことを記念して神部さんの顕彰碑が境内に建てられている。 また、江戸時代から熱海は多くの大名達にも好まれ、中でも九州・久留米藩主有馬則維(6代)、頼僮(7代)は、熱海温泉を愛好され石鳥居と石灯篭二基を寄進している。山田さんが久留米市に紹介したところ久留米市教育委員会から頼僮公の資料と「熱海湯治の記」という宝暦8年の原本のコピーが送られてきたが、それを見ると大名が湯治に江戸を出ることの手続きが大変面倒なものであったことに驚くほどだったという。石鳥居と石灯篭は、現在も残され、「奉献納石華表 安永庚子九月中旬久留米佐少将源朝臣頼僮公」の文字が刻まれているという。 |
| 熱海の温泉は人王25代仁賢天皇(488-498)の頃、温泉が海中に湧き出て魚類が死に絶えそのために人跡も絶えてしまっていた。それから180年程たった人王39代天智天皇(668-671)の天平宝字の頃、箱根権現に徳の高い僧が居り、日々万巻の経本を読んでいたので人々は万巻上人と呼んでその徳をたたえていた。あるとき常陸の国の鹿嶋明神参詣の帰途、熱海を通り会場を見渡したところ波の内より煙が立ち昇り火焔が吹きだして魚類は焼け死に焦熱地獄の様相を呈していた。上人はこれを見て大変哀しまれ、暫らく立ち止まってお経を読み念仏を唱えているとき、どこからか白髪の翁がやって来て上人に向かい「見られるようにこの海中に温泉があって熱湯を噴出し魚類を焼き殺している事を常に哀れと思っていた。そればかりではなく人の万病を治す不思議な霊湯を海中に置いておくのは玉を淵に沈めておくに等しい。どうか仏法の功徳を持って上人がこれを祈りこの霊湯を山里に移し給えばその功徳は幾万年にも伝えられるであろう」と言い終わるとその姿は見えなくなった。上人は「只人ではない」と思い、断食して21日祈ると満願の夜後の山々が鳴動し山が崩れて石と石の間から熱湯が湧き出し、その有様は「神竜が口を開いて水を吐き出しているようだった。山東庵京山「熱海温泉由来」 |