HOME 林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』

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「『紅い棘』 奥菜恵著」オーマイニュース2008年5月1日

◇読者レビュー◇ 勝ち組的価値観と戦った女優

 本書は、女優・奥菜恵のエッセーである。芸能界引退報道や株式会社サイバーエージェントの藤田晋社長との離婚などゴシップとなった出来事にも正面から語った自叙伝だ。一部では本著を暴露本として扱う傾向があるが、むしろ真面目に人生観を綴ったものである。

 昨今の日本では、勝ち組・負け組に二極化させる格差社会論が大流行である。ヒルズ族の藤田氏と女優の著者はセレブ婚と騒がれ、勝ち組を象徴するカップルであった。しかし2人の結婚生活はわずか1年半で終わった。著者はその理由を「幸せの基準、価値観には埋めることのできない溝があった」としている。

 2人の価値観にはどのような相違があったのだろうか。本書にこう記されている。

 「どこにいても何をしていても一緒にいられる喜びをともにわかちあうことや、その気持ちを大切にすることが私にとっての幸せだった」

 藤田氏の価値観については本人が直接語っているわけではなく、著者の目から見た出来事が語られているのみであるが、そこからは、お金があること、お金で高級なものを消費することにあると推測できる。

 例えば、藤田氏に対し、「あなたの幸せってお金? 肩書き? 世間体? 高級レストランに行くこと? 外車を乗り回すこと?」(108ページ)と、著者が怒りをぶつけている。また、父から誕生日プレゼントとして贈られたジュエリーボックスについて、藤田氏から「どうせお前のお金で買ったんでしょ」と言われて、ショックだったと述懐してもいる。

 実際の藤田氏がどのような価値観を抱いているかは知る由もないが、少なくとも著者が、藤田氏はお金を幸せの基準としていると感じたことは確かである。特定の個人の価値観についての話であるが、一般に語られるヒルズ族と呼ばれる人々に対するステレオタイプな見方と共通していることは興味深い。

 日本が格差社会に入ったと言われるが、そこにはまだ上層・上流の人々の文化の違いは見えてこない。高級マンションに住み、高級レストランで食事し、高級な外車に乗ることは、価格が高価になっただけで、普通の市民生活の延長線上に過ぎず、独自の文化と言えるものではない。格差とは経済格差(所得格差、資産格差、消費格差)のみであり、お金さえあれば上流社会に昇れるかのようである。この点で良くも悪くも日本の格差社会の底の浅さが感じられてならない。

 幸せを含め、お金で全てを買おうとする勝ち組的価値観とは対照的に、著者は沖縄旅行で会った人々や中学からの友人との交流などを通じて癒され、自分自身の原点に回帰していった。

 「自分の生きる意味、幸せの基準を完全に失ってしまう前に、もう一度この手に手繰り寄せることができた」(185ページ)

 人とのつながりを幸福の基準とする著者の価値観は、格差社会を生きる多くの人にとっても参考になるだろう。

双葉社
191ページ
定価1400円
2008年4月発行

「『零細起業―ナゾの職業「猫の手、貸します」』を読んで」JANJAN 2008年5月8日

 ジャーナリストから便利屋を起業した著者による、半生を振り返った自叙伝である。著者は『週刊金曜日』編集長時代に過労で鬱病になり、退職した。当初は新聞も読みたくない、テレビも見たくない、家族と会話することも面倒、という状態であった。数ヶ月間、自宅療養を続けることで次第にエネルギーが蓄積され、「人生のリセット」を決意するに至る。

 人生をリセットする手始めとして、著者は生活空間のリセットを試み、自分で自宅をリフォームした。それが近所の評判になり、近所の人からもリフォームを依頼されたのが、よろず便利屋の始まりである。近隣住民に「猫の手」を貸す便利屋稼業は、頭と体をバランスよく使うため、企業内ジャーナリスト時代には味わえなかった楽しみと快適さ、健康をもたらしてくれたという。

 様ざまな話題が提供されている。まず鬱病からの回復過程については、企業社会のストレスで悩む人にとって参考になる。便利屋として実際に行った仕事内容も書かれており、DIYに取り組みたい人にも役に立つ。古い家具の修理・再生については大量消費・大量廃棄社会への反省を迫る。

 第4章の「三十年の記者生活」は週刊ポスト、日刊ゲンダイ、日刊アスカ、週刊金曜日でのジャーナリスト生活が書かれており、ジャーナリストの仕事に興味のある人は必読である。また、定年後の生活の送り方についても意見しており、第2の人生を送る団塊世代への応援歌にもなっている。

 これだけ盛りだくさんの内容を僅か172ページでまとめている。分かりやすく読みやすい文章で一気に読むことができた。もっと詳しく知りたいと思う点もあるが、著者にとっても書きたいことは、たくさんあった筈である。あれもこれもと飽和させてしまうのではなく、贅肉を削ぎ落とし、読みやすくまとめることは大変であったと推測する。

 盛りだくさんの内容だが、核となるのがジャーナリストから便利屋への転換である。これによって著者は、鬱病から人生を楽しむ健康体へと変わることができた。そこには様ざまな要素があるが、顧客の顔が見えるようになったという点が大きいと考える。著者はジャーナリストとして報道を続けてきたが、読者が本当に喜んでくれたか分からないと書いている。一方、便利屋では顧客が喜んでくれたかは、すぐ分かるとする。そして、顧客が喜んでくれれば心底嬉しいという。

 この点が正に現代の労働では見えにくくなっている点であり、現代の労働者に鬱病や鬱病予備軍が増えている一因であると考える。仕事が細分化・分業化され、労働者からは誰に、どのような価値を提供するために働いているのかが見えにくくなっている。
 
 本書では使えない元サラリーマンが批判されている。団地の自治会で会議や企画を仕切りたがるくせに、自分では動かないで人に頼る人達のことである。会議の進行や議事録作成も満足にできなかったという。会社から与えられた仕事をこなしていただけで人間力の研鑽が疎かになっていたのではないかと著者は指摘する。これも顧客を喜ばせることを考えない労働を繰り返した結果であろう。

 評者自身の経験でも思い当たることがある。評者は東急不動産(販売代理:東急リバブル)から購入したマンションでトラブルになったことがある(後掲記事参照)。評者が交渉した担当者は無責任の一言に尽きた。販売代理の東急リバブルの営業担当者は販売を代理しただけで、後は知らないという態度であった。一方、売主の東急不動産の担当者は建設地の購入や近隣対策屋を通した建設時の近隣折衝に関与しただけで、販売経緯は知らないという状況であった。

 責任を持って販売後の消費者に向き合うことができる担当者が誰もいなかった。だから評者が何を問題にしているのか、何故怒っているのかを理解したのかさえ疑わしい。交渉事であるから顧客の言い分をすべて受け入れるだけが担当者の仕事ではないとしても、最低限、顧客が何を問題にしているかを理解した上で拒否すべきであるが、それが全くできていなかった。

 担当者の資質に依存する面もあろうが、顧客である消費者とは向き合わない分業体制からくる構造的な要因が大きいと感じられた。東急不動産は用地を仕入れて開発する、東急リバブルはモデルルームで販売する、という分業では建設されたマンションに住み続ける住人のことを考える必要はない。誰にどのような価値を提供するかを考えなくても仕事ができてしまう。

 顧客に何らかの価値を提供し、喜んでもらう。この過程が抜け落ちた労働を繰り返すならば、人間力の研鑽が疎かになってしまう。または脳が悲鳴をあげて鬱病になってしまう。それを回避するための手がかりを本書は提供している。

 その意味で本書は人生のリセットを考えている人はもちろん、様々な事情からストレスの多い会社生活を続けなければならない人にとっても有益である。顧客に喜ばれる仕事をする。そのような毎日の経験を仕事のステップアップにつなげる。これだけでもストレスの多い労働を潤いのある豊かなものに変えていけるのではないかと考える。

<関連記事> マンション販売トラブルで「お詫び」 東急リバブル・東急不動産

林田力「『裁判の中の在日コリアン』を読んで」JANJAN 2008年5月27日

 本書は在日コリアンを当事者とした裁判や事件をまとめたものである。在日コリアンは在日韓国・朝鮮人とも呼ばれるが、この記事では本書の呼称にあわせて、在日コリアンで統一する。本書は副題に「中高生の戦後史理解のために」とあるとおり、平易な言葉で分かりやすく説明しており、専門的な法的知識がなくても読み進めることができる。

 本書で紹介された在日コリアンをめぐる裁判や事件は実に多岐に渡る。刑事事件、従軍慰安婦、BC級戦犯、サハリン残留コリアンの帰還問題、日本国籍確認訴訟、就職差別、教育権、ウトロ裁判、入居差別、ゴルフ会員権差別、指紋押捺拒否訴訟、無年金差別、管理職裁判、司法修習生、調停委員・司法委員、地方参政権である。

 驚かされるのは本書の裁判や事件が現代日本の法的論点の多くをカバーしていることである。私は大学及び大学院で法律学を専攻したが、本書の判決は大学の講義で紹介されたものも少なくない。私が殊更、在日コリアンの問題に集中していたわけではない。

 在日コリアンが当事者となった裁判の判決の多くが、良い内容であれ、問題のある内容であれ、司法の場では先例となっているという現実がある。在日コリアンの問題を掘り下げれば、日本の社会と歴史が見えてくるのである。副題の「戦後史理解のために」は決して誇大広告ではなく、文字どおり、在日コリアンの裁判が戦後史理解の鍵になる。

 より驚かされるのは在日コリアンの抱える問題が、一般の日本人にとっても決して他人事ではないことである。在日コリアンは日本社会においてマイノリティーである。同質性の強い日本社会を当然視する日本人が在日コリアンの問題について関心が低い傾向は否めない。

 本書は「はしがき」で「在日コリアンと呼ばれる民族的なマイノリティー(少数者)が戦後の日本社会をどのように生きてきたかを知ってもらうこと」を本書の目的の一つとする。ここには、これまで在日コリアンの問題について広く知ってもらいたいという思いがある。日本社会が直視してこなかった在日コリアンの問題に光をあてただけでも本書には意義がある。

 しかし、本書を読めば、在日コリアンが抱える問題は在日コリアンであるが故の問題とは言い切れないことが分かる。確かに在日コリアンは在日コリアンであるが故に差別され、非合理な扱いを受けている。しかし民族の相違が根本的な問題ではない。在日コリアンを差別する日本社会は、日本人に対しても同じように牙を向けることを認識する必要がある。

 金喜老事件では静岡県警による民族差別が問題になったが、当の警察官は「私には朝鮮人を侮辱したことは身に覚えのないことであるが、万一そういうことがあったら謝罪する」と何ら謝罪になっていない相手の感情を逆撫ででする発言で応じた(54頁)。過去の問題を直視しない警察組織の不誠実は、日本人に対する冤罪事件でも見られるものである。

 また、在日コリアンは日本国籍を持たないという理由で就職や入居を断られている。これも在日コリアン特有の問題ではない。たとえば老人も同じである。就職したいと思っても年齢制限に引っかかることが多い。独居老人には家を貸してくれないことも多い。

 在日コリアンの差別を放置・助長するような政府では日本人の人権を保障してくれるかも疑わしい。日本国憲法が保障した自由や平等や個人の尊厳が、いかに日本社会に定着していないか、愕然とする思いで本書を読んだ。この意味で差別を是正するための在日コリアンの裁判闘争は、日本人の人権状況も向上させるものである。

 最終章では「残された課題」と題して在日コリアンの参政権の問題について紙数を割いている。裁判によって権利回復を図ろうとしてきた在日コリアンが参政権に行き着くことは当然の帰結である。何故ならば多くの判決が、在日コリアンへの配慮が欠いている現状を認めつつも、立法政策の問題として在日コリアンを敗訴させている現実があるためである。

 どのような法制度を採用するかは一義的には国会が決める問題である。そのため、裁判所は国会の判断を尊重し、法律が存在しないのに、または法律に反してまで在日コリアンを救済することに消極的であった。このような裁判所の姿勢は司法消極主義と呼ばれ、強い批判も存在する。

 司法消極主義が正当化できるとしたら、国会が国民の代表者である国会議員によって構成されているためである。国会議員が国民の代表者であるという図式(治者と被治者の自同性)が成立する限りにおいて、国会の議決は国民の意思を反映したものとなる。仮に国会の議決が不当であり、国民の利益を損なうものであるならば国民は次の選挙で国会議員を代えることができる。故に裁判所としては国会の判断を尊重すべきとの結論が導かれる。

 この司法消極主義の論拠に対しては少数派を考慮していないとの批判がある。そして少数派の権利を守ることこそ、司法の務めであると問題提起されている。一方で在日コリアンにとって司法消極主義は大変な問題である。在日コリアンには選挙権・被選挙権が認められていないためである。在日コリアンには自分たちの代表を選ぶ権利がない。それなのに裁判所は国会で決めるべき問題であるとして門戸を閉ざしてしまった。在日コリアンは参政権を持たなければ救済されないのである。

 本書は多くの日本人に読んで欲しいと思える一冊である。在日コリアンの問題は在日コリアンだけの問題ではない。在日コリアンの尊厳が守られていないという状況は、日本で生活する人全てにとっても人権の危機である。本書は日本に暮らす全ての人が尊厳をもって生きていけるような社会を構築するための重要なテキストになるであろう。

林田力「『見える化で社員の力を引き出すタイムマネジメント』を読んで」JANJAN 2008年6月3日

 本書はタイムマネジメントについての考え方と具体策をまとめたものである。タイムマネジメントが求められる背景として、日本のホワイトカラーの生産性が先進国で最低水準にあるという問題意識がある。マネジメントするためには対象を把握しなければならない。そこでIT技術(主にマイクロソフト製品)を活用して仕事を可視化する。即ち仕事の可視化・見える化によって生産性を向上させることが本書の狙いである。

 本書の立場を裏返すならば、日本のホワイトカラーの生産性の低さは、タイムマネジメントができていないことが原因となる。日本のホワイトカラーは諸外国の労働者と比べて時間を大切にしていないことになる。著者は「ホワイトカラーの生産性の低さは、日本の特異性ともいえます」とまで指摘する(14頁)。ここに私は戦後日本の負の遺産・モーレツ社員の残像が感じられてならない。

 モーレツ社員は高度経済成長期に描かれた従業員像である。ひたすら前に進むだけのモーレツ社員の発想では、効率よく仕事を進めるタイムマネジメントが定着しないことは当然である。失敗しても時間を無駄にしても、最後には徹夜でもして気合と根性で頑張れば挽回できるという発想では、これまでの仕事の進め方を見つめ直し、組織の体質改善を進めていこうとする思想は受け入れられにくい。

 現代日本ではモーレツ社員は過去の遺物となり、多くの場合、否定的ニュアンスで使用される言葉になった。これは日本の労働環境が多少は人間的になったという意味で喜ばしいことである。一方で多くの企業ではモーレツ社員だった人々が重役クラスに出世しており、本質的なところは変わっていないのではないかと感じている。

 タイムマネジメントの先達を自認する著者は、タイムマネジメントという言葉自体は人口に膾炙しつつあるものの、まだまだフロンティアの段階と現状を分析する。日本企業には浸透していないのが現実である。タイムマネジメントが広く日本企業に受け入れられるようになれば「人間を幸福にしないシステム」とまで酷評された日本の企業社会も人間的なものに変わっていく筈である。

 本書はビジネス書であり、スキルアップを目指すホワイトカラーや組織の生産性向上を目指す管理職・経営者を対象とする。一方で日本人の長時間労働は古くは欧米諸国から不公正競争と批判され、過労死の温床となり、最近では少子化や家庭崩壊の要因とも指摘される。タイムマネジメントによる生産性向上が労働時間短縮に結び付くならば、社会的要請となっているワーク・ライフ・バランス(仕事と生活の調和)にも効果的である。その意味でもタイムマネジメントの普及に期待したい。

 本書ではタイムマネジメントのための様々な具体策を紹介するが、書評での紹介は控える。本書のような書籍の価値は文章表現よりも、上記の具体策のようなアイデアにある。アイデア自体は著作権の保護対象外であるが、著者の立場は尊重したい。個々の具体策については是非とも各自が本書を手にとって確認されることを希望する。

林田力「『かまくら切通しストーリー』を読んで」JANJAN 2008年6月11日

 本書は切通しを踏み越えて鎌倉を訪れた人々の記録をまとめたものである。三方を山に囲まれた鎌倉に陸路で出入りするには、山を切り開いて道を通す必要があった。これが切通しで、後に鎌倉七口と呼ばれる。

 本書で取り上げた人物は、鎌倉幕府の創設者・源頼朝を筆頭に、西行法師や徳川家康のような有名人から、聖護院道興や万里集九という名前の知られていない人物、「海道記」や「東関紀行」の作者のように名前の不明な人物まで実に多彩である。しかし本書の主役は人物ではない。その人達が踏み越えた切通しが主役である。

 一方、単なる史跡として切通しを紹介したものでもない。実際に時間をかけて鎌倉を歩く楽しさ、鎌倉の地形の面白さを感じて欲しいというのが著者の狙いである。本書は歴史を扱ったものだが、現在から切り離された過去を語るものではない。現在の鎌倉にも息づく歴史、過去の積み重ねとしての歴史を語っている。

 厳密な論証をするつもりはないが、日本人が歴史好きであると主張したとしても、それほど的外れではないだろう。歴史小説や時代劇は人気のジャンルである。一方で日本人が好むのは物語として歴史を消費することであり、現在に続く過去としての歴史と真剣に向き合っているかという点には疑問がある。むしろ、過去を水に流すことを是とする体質は少なからぬ日本人論で指摘されており、この意味では非歴史性が日本人の特徴になる。

 本書は日本人の御都合主義的な歴史好きに欠けがちなものを補ってくれる。それは現在の風景から歴史を想起する視点である。そして、このような視点こそ「武家の古都・鎌倉」として世界遺産登録を目指す鎌倉にとって何よりも必要なものである。

 残念ながら、現在鎌倉ではマンション開発などによる景観破壊が横行している。世界遺産登録どころか、歴史的遺産・歴史的景観を喪失しかねない危機にある。本書で度々言及された名越切通しを抜けた先に位置する逗子市でも、すでに住吉城址が東急不動産によるマンション「逗子小坪レジデンス」の開発で失われ、建設されるマンションは景観公害になると指摘された。

参照:
マンション建設 逗子「住吉城址」消える

 乱開発による歴史的景観の喪失は、鎌倉のみならず、日本各地で生じている。過去と現在を連続したものとして捉える感覚、過去の積み重ねとして現在を位置付ける意識、現在から過去を振り返る視点などが乏しい限り、今後も日本で歴史的景観が大切にされることはないと考える。

 本書からは、歴史の集積された鎌倉という街への、著者の愛着が強く感じられる。このような愛着こそが、歴史的景観を保全する出発点になる。鎌倉の歴史だけでなく、鎌倉の今についても考えさせられる一冊である。

林田力「不健康を生み出すのは格差社会?『メタボより怖い「メチャド」ってな〜に?』を読んで」JANJAN 2008年6月18日

 本書はメタボリック症候群(Metabolic Syndrome)対策が産官学あげての国策として行われている事態に対する批判的検討の中で生まれたものである。メタボ以上に重大な健康への脅威があると主張する。それを著者は「メチャド」と総称している。

 「メチャド」とは、「メチャ・ド・リスク」の略で、健康への「メチャ(めちゃ)・ド(どえりゃー)・リスク(危険)」という造語である。メタボをもじったもので、学術的なネーミングとはお世辞にも言えないが、言葉が問題なのではない。重要なのは考え方である。

 本書は、専門的な医学上の知見を根拠に、メタボを悪玉視する国の健康政策やマスメディアの論調を真っ向から批判するものである。こうしたテーマは難解なものになりがちだが、本書は一般向けに分かりやすく書くことを目指している。「メチャド」というネーミングも、この観点からだと理解したい。

 本書は大きく三部構成となっており、それぞれのパートにおける主題が明確になっている。この点も、本書を理解しやすいものにしている。

 メタボが問題視される理由は、肥満が生活習慣病など様々な病気の元凶と考えられるためである。しかし本書は最初のI部「『メタボは怖いって』騒がれているけれど」において、肥満そのものよりも、高血圧や高血糖のような危険要因を複合的に抱えている人が危険とする。また、メタボの要因としては個人の不摂生だけでなく、労働条件(長時間労働、不規則勤務。雇用格差、職業ストレス)も大きいと主張する。

 続くII部「『健康のしくみ』を考えてみましょう」では、ストレスを健康の大敵と位置付ける。健康食品など世情流布されている健康知識の誤りも指摘し、驚かされる。急激な運動が突然死を招くという心肝を寒からしめる話もあった。

 最後のIII部「本当に怖いのは『メチャ・ド・リスク症候群』」において、メタボ以上に健康に重要な問題をまとめている。働き盛りの過労・ストレスが健康破壊の元と指摘した上で、「ゆとり」が重要と主張する。肉体的・精神的なゆとりに加え、生活のゆとり(収入の安定や文化的なゆとり)、生き方のゆとり(生き方の多様性を尊重)が必要で、それらを支える社会のゆとり(社会保障や支えあい、平和)が最重要とする。

 著者の立場は現在の厚生行政と対照的である。著者は社会格差や労働条件のような社会的な要因を不健康の原因と捉える。これに対し、厚生行政ではメタボの原因を個々人の生活習慣、不摂生に求める傾向が強い。

 個人の問題に矮小化することで、不健康を生み出す社会の問題から国民の目をそらせることができる。しかも肥満者に自助努力(生活習慣の改善、減量)を要求することで、健康産業は新たな金儲けの機会を得ることになる。本書から浮かび上がる国民不在の健康政策に恐ろしさを感じた。

林田力「『いのちの恩返し がんと向き合った「いのちの授業」の日々』を読んで」JANJAN 2008年6月28日

 著者の山田泉氏は元養護教諭で、乳がんの闘病体験をもとに「いのちの授業」に取り組み、マスメディアにも取り上げられた人物である。「いのちの授業」は重い病気を患っている人達や死期の近い人達の体験談を聞くことで、子ども達に生と死の意味を考えてもらう授業である。

 本書は、07年3月に養護教諭を退職してからの生活を中心にまとめたものである。内容は詩、インタビュー、いのちの授業の記録、日記、対談、娘の手記と様々な形式で構成されている。

 不治の病との闘病生活というと、サナトリウム文学≠想起するが、そのような重苦しさは本書にはない。自宅療養とはいうものの、「いのちの授業」の出前≠ノでかけたり、自宅を「保健室」として開放したり、フランス旅行に出かけたり、と刺激的な日々を送っている。

 これは著者の明るい性格のなせる業であるが、実際のところ、がんには痛みも伴い、苦しい筈である。精神論や楽天性だけでは如何ともし難い。それでも明るさを失わず、活動的な日々を送る著者に、生命力の強さを感じた。

 特に印象に残ったのは、上野創氏との対談である。養護教諭ながら年間100時間以上の授業を行い、がん患者となってからは患者会を立ち上げ、いのちの授業が話題となった著者は、型破りで非常にユニークな養護教諭の筈である。

 しかし、その著者でさえ採用4年目の頃の卒業式で、子どもの髪のゴムの色がバラバラな状態を見て、「あんないろんなゴムの色をしてていいんですかね」と発言したという(203頁)。日本の学校にいると、皆が揃って同じ色のものを身につけるのが自然と考えてしまう空気に染まってしまうと述懐する。

 この対談では、他にも日本の学校のおかしな点が挙げられている。例えば、教師が一日中ジャージを着たままで、子ども達に美やお洒落を教えられるのか、という問題提起。そのため、著者は綺麗な色の洋服を着て学校に行くように努めたという(207頁)。

 また、大分県日出生台の米軍演習に反対している人の話を聞いた時は、子ども達にとっては米軍演習に反対することよりも、身近な非合理に気付くことが大切と諭された。例えば6月1日や10月1日に一斉に夏服や冬服に衣替えするが、実際はまだ暑かったり、寒かったりする。それを変に思わないことが問題と指摘された(214頁)。

 そして、学校の問題は制度に原因があるとしても、現場の教師の発想の転換や工夫によって大きく変えることができる、とまとめている。このように本書のスコープは学校運営、学校教育全般に及ぶ。「いのちの授業」や保健室登校≠ノ関心ある方はもちろん、学校教育に問題意識のある、すべての方に一読をお薦めする。

林田力「『ONE PIECE 50巻』尾田栄一郎著」オーマイニュース2008年6月6日

◇読者レビュー◇回想シーンに感動

 本書は週刊少年ジャンプで連載中の漫画である。連載開始は1997年であるから、既に10年以上続いていることになる。連載漫画が単行本50巻になるまで続くというだけで、ちょっとしたニュースになるが、この50巻はストーリーの節目という意味でも意義深いものがある。

 「ONE PIECE」は架空の世界を舞台に、世界の最果ての地にあるとされる「ひとつなぎの大秘宝(ワンピース)」を求める海賊の冒険を描く漫画である。主人公モンキー・D・ルフィ率いる「麦わら海賊団」は、この50巻目で世界を半周するところまで辿り着いている。副題の「再び辿りつく」は、その意味を持っている。「ONE PIECE」の世界も地球と同様、球体になっており、世界を一周すると元の地点に戻る。物語は50巻かけて、ようやく折り返し地点に近づいたことになる。

 「ONE PIECE」は仲間とともに冒険を続け、悪人と戦うという少年漫画の王道を行く作品である。しかし「ONE PIECE」が人気漫画の座を長期間保持続けた理由は、王道を忠実に守っていたからだけではない。「ONE PIECE」の魅力はストーリーの深さにある。

 敵を倒す、悪を倒す――これが少年漫画の王道である。しかし、こればかりでは次第に戦いの意味すら希薄化してしまう。これに対して「ONE PIECE」では虐げられた側の痛みや憤りが丁寧に、時には長い回想シーンで描写されている。だから敵を倒した時の感動も大きい。

 50巻では、世界政府に従う海賊・王下七武海ゲッコー・モリアとの戦いが展開された「スリラーバーク編」が完結する。正直なところ、スリラーバーク編に対する評価は高くなかった。お化け屋敷風の雰囲気が、これまでの「ONE PIECE」の舞台と比べて違和感がある上、ボスキャラに威厳がなく、あまり強そうに感じられなかった。

 しかし、完結編ではある50巻は、それまでの停滞を打ち消して余りあるほど感動的な内容であった。特に読み応えのあるのが、麦わら海賊団の新しい仲間になるブルックの回想シーンである。宴会で作中歌「ビンクスの酒」の演奏中に回想シーンに入るのだが、過去が描かれるが、現在のシーンと回想シーンを上手く混ぜている。

 回想シーンも楽しかったルンバー海賊団時代と、仲間が死に絶えた跡に一人で魔の三角地帯(フロリアントライアングル)を彷徨っていた頃の2つの時間帯を並行に描いている。陽気な過去と絶望的な過去、そして新しい仲間と出会い、未来への希望が生まれた現在が作中歌「ビンクスの酒」を背景に対照されている。この回想シーンがあればこそ、ブルックの「生きててよかった」という言葉に実感が生まれる。

 「ONE PIECE」の構成力の秀逸さを再認識することができた。物語上は50巻で半分である。ということは100巻以上続きそうである。これからも笑いあり、感動ありのストーリーを描き続けて欲しいと思う。

集英社
定価410円
2008年6月発行

『告発のときIn The Valley of Elah』 古閑万希子著

◇読者レビュー◇ 人間性を破壊するイラク戦争

 本書は2008年6月28日から公開の米国映画(ポール・ハギス監督)のノベライズ版である。2003年に実際に起きたイラク帰還兵の殺害事件をもとに、泥沼のイラク戦争で人間性を破壊されたアメリカ軍の暗部を描く。従軍兵士の心をむしばむPTSD(心的外傷後ストレス障害)を直視したサスペンス・ドラマである。

 退役軍人のハンクに、イラク戦争に従軍していた息子マイクがイラクからの帰還直後に失踪(しっそう)したとの連絡が届くところから物語が始まる。調査を続ける中で明らかになっていったものは、自由と民主主義のために戦う正義の英雄とは程遠いアメリカ軍の姿であった。

 『告発のとき』は邦題で、原題は『In The Valley of Elah』である。これはエラの谷という意味で、旧約聖書サムエル記に登場する。後にイスラエルの王となる羊飼いの少年ダビデが、ぺリシテ人の巨人ゴリアテを倒した場所である。

 果たしてアメリカ兵は巨人ゴリアテに立ち向かう勇敢なダビデと言えるのかと考えさせられるタイトルとなっている。むしろ人間性を破壊するイラク戦争を続けるアメリカ軍に抗議する声こそがダビデなのではないか、と自問したくなる。そして、この問題意識が邦題『告発のとき』につながっている。

 原題の意味から離れた邦題は原題のイメージを壊すものとして、英語圏の文化に素養のある人にとっては不満が生じうるものである。しかし、上記のように考えるならば、本作品の真意をくみ取ったひとつの解釈として、味わい深さが感じられる。

 戦場での過酷な生活による、人間性の破壊は日本でも人ごとではない。イラクに派遣された自衛隊員の自殺が問題を示している。自殺という形で自分を傷つけてしまう人がいるならば、攻撃の対象が他者に向かう人もいるのではないか。

 アメリカと比べて自衛隊が閉鎖的で情報公開に消極的であるために明らかにされない面があるならば、日本の方が深刻である。当事者意識の薄い日本人向けだからこそ、よりストレートな意味合いを持つ邦題にする意義がある。

 映像作品の小説版の良いところは、映像だけでは不十分な内容が文字により説明されている点である。これによって読者は映像だけでは分からなかった点も理解することができる。一方、説明が冗長になると物語のスピード感が損なわれるデメリットもある。

 本作品でも、警察と憲兵の仕事の押し付け合いやヒスパニックへの差別感情など、アメリカ社会の背景は、本書を読んだ方が理解しやすいだろう。一方、本書は基本的に真実を追求するハンクの視点で描写されており、彼の調査の進展に応じて場面が展開する。そのため、映画を見るようなテンポで本書を読み進めることができる。映画を見られる方にも見られない方にも推奨したい一冊である。

ポール・ハギス原案
講談社
2008年6月2日発行
167ページ

『G8サミット体制とはなにか』栗原康著

◇読者レビュー◇ サミット体制が格差を拡大させる

 『G8サミット体制とはなにか』(栗原康著、以文社)はサミット(先進国首脳会議)を頂点とする世界秩序(=サミット体制)を批判的な立場から解説した書である。サミットの歴史を振り返り、サミットの目的を明らかにし、サミット体制が各国にもたらした影響を説明する。

 著者はサミット体制を、多国籍企業の利益のために世界各国に新自由主義的な経済政策を押し付ける体制と位置付ける。わずか8カ国の私的会合に過ぎないサミットがIMFや世界銀行などの超国家的機関を媒介として、世界の政治経済について事実上の政策決定を行っているとする。

 1970年代以降、先進諸国はサミットを通して、資本の自由化や貿易上の保護主義の撤廃を進め、多国籍企業が経済活動を行いやすい環境の構築を図った。特に第三世界に対してはIMFや世界銀行を通じて構造調整政策を押し付けた。

 この結果、多国籍企業は利益を拡大する一方で、大勢の人々は困窮した。輸入自由化による農業の崩壊や、労働法制の規制緩和による労働環境の不安定化、民営化による公共サービスの低下など、人々の生活基盤を破壊し、貧富差を拡大させている。

 本書では壊滅的な打撃を受けた例としてソマリアを挙げる。構造調整政策を受け入れたソマリアでは貿易の自由化による安価な輸入作物の大量流入や、農業従事者向け公共サービスの切り捨てにより、国内の農畜産業が衰退した。ソマリアの食糧不足・飢餓は、構造調整政策による人災であると本書は主張する。

 これまで私は、本書で強く批判されている新自由主義的な経済政策には大いにシンパシーを感じていた。日本の公務員の相次ぐ不祥事を出すまでもなく、政府を動かしているのも欲を持った個々の人間に過ぎないためである。政府の役割を過度に大きくするならば、それだけ腐敗と非効率の危険を大きくすることになる。

 政府が適切に経済を管理すれば最適化できる可能性はあるにしても、政府を動かすのは神ならぬ人間である。自由放任により、神の見えざる手が働くとは考えないが、政府の誤った政策による弊害の方がはるかに大きいため、政府の介入は可能な限り減らすべきというのが管見であった。

 一方で新自由主義者とされる人々が外交・安全保障面ではタカ派の傾向を有することには違和感を覚えていた。小さな政府と軍事費増大は矛盾する。また、人間の不完全性を前提として国家権力の介入による弊害を避ける立場ならば、国家が起こしうる最大の惨禍である戦争に対して否定的になるのが自然と考える。

 しかし、実際は新自由主義者とされる政治家(サッチャー、レーガンら)は揃ってタカ派である。これは私にとって1つの疑問であった。この疑問に本書は1つの回答を提供する。

 1980年代に台頭した上記の新自由主義の政治家はまさにサミット体制の申し子であった。そしてサミット体制が進める政策は多国籍企業の利益を守るものにほかならない。その主張する自由とは多国籍企業の経済活動の自由であって、利権の維持・拡大に必要ならば武力行使を躊躇しない。

 その例として、本書ではイラク戦争を挙げ、戦争の目的を、先進国の経済プロジェクトに従属的な政権を打ち立てることにあったとする。多国籍企業の経済活動を保護し、第三世界に対する経済支配を強化する点で、サミット体制は多くの人々にとって自由の対極に位置するものである。

 サミットが開催される度に激しい抗議活動の対象となるのも、このためである。洞爺湖サミットの物々しい警備活動が報道されているとおり、警察権力に守られなければ開催できないのがサミットの実情である。サミットに抗議した人々の境遇と思いに共感するための想像力を働かせることがサミット体制を克服するための第一歩になる。

 本書では2005年に中国各地で吹き荒れた反日デモもグローバル化への抗議活動と位置付ける。グローバル化による貧富差の拡大や農村破壊への中国民衆の怒りが、中国に大々的に進出しており、民衆にとって分かりやすい日本へ向かったとしている。

 本書で言及されているとおり、日本のプレカリアート(非正規労働者ら)が政府や企業への怒りを噴出させ始めていることは注目に値する。一方でネット右翼のように排外的な方向に転嫁して自尊心を満足させる傾向も見られる。例えば反日の声に嫌中で応じるのではなく、反グローバリズムとして連帯できるか、日本人の想像力が試されている。


『G8サミット体制とはなにか』栗原康著
以文社
2008年6月12日発行
定価:1680円
176頁

林田力「『ヒーズールの夜明け』を読んで」JANJAN 2008年7月9日

 本書はヒーズール国のマホロバ村を舞台とした物語である。ヒーズール国は、ほぼ単一民族により構成された架空の島国で、マホロバ村は都から遠く離れた小村である。

 ヒーズール国は明らかに現代日本をモデルとする国である。制度上は民主主義体制であるが、真に国民のための政治が行われているとは言い難い。特に日本の年金問題と同様、社会保険料の不正・無駄遣いが大きな問題となっていた。

 これに対し、マホロバ村は理想郷と位置付けられる。村人達は旧来からの社会主義的システムを維持し、平和に穏やかに暮らしていた。また、村では外部からの攻撃に対し、極力穏便で最善の策を講ずるという掟を守り、資本主義市場経済を採る国全体との軋轢を少なくするように努めてきた。たとえ理不尽な目に遭っても、仲間内で助け合いながら切り抜けてきた。

 しかし、社会保険料の不正や無駄遣いに代表されるヒーズール国の政治に対し、マホロバ村出身者達の不満は限界に達した。他者の苦しみを傍観することも自分達への不正を放置することもできないと主張し、国政改革を志向するようになる。

 本書はユートピア文学に分類できるが、既存のユートピア文学とは異なる特徴が見られる。ここでは3点指摘する。

 第1に外部社会との関係である。伝統的なユートピアは外界から途絶した完結した社会として描かれる傾向にあった。しかしマホロバ村では村に必要な専門知識を得るために若者を外部に送り出すなど、外部社会と一定の関係を有している。

 さらに村の人口が増え過ぎて自然環境を破壊しないように、あえて村外で生活する人々も存在する。これはユートピア社会が、それだけで成り立つのかということを考えさせられる内容である。そして村外で暮らすマホロバ村出身者は出鱈目なヒーズール国の政治に怒り、良い社会にするために行動を開始する。

 第2にマホロバ村における管理の薄さである。伝統的なユートピアは管理社会として描かれることが多い。社会全体が管理された収容所のようで、個人の自由を尊重する立場からは、むしろ理想社会の対極に位置する。それに比べるとマホロバ村は管理するための機構を持ちようがない小さな村である。

 また、マホロバ村では正月に集会場に村人が集まり、各人が順番に壇上で出し物をする行事がある。これは大きな声で意図を伝えることで、社会に対する自己主張の仕方を学ぶ教育効果を意図しているという。このようにマホロバ村が、共同体の調和を乱さず、管理に従うだけの住民を求めていないことは注目に値する。

 但し、それでもマホロバ村には管理社会的な面があることに注意すべきである。生活必需品は、代金の支払いなしで住民の必要に応じて配分されるが、いつ、誰に、どれだけ配分したかは記録される。これによって特定人に過度又は過少の配分がなされ、不公平感が生じるのを回避している。

 これは自分が何を消費したかを村が記録していることを意味し、見方によっては恐るべき管理社会ということもできる。現実社会では企業が商品に無線ICタグ(RFIDタグ)を付して管理することに対し、消費者団体が消費者のプライバシーを侵害すると抗議したことがある。

 それでもマホロバ村では管理されている感覚を持たなくて済むのは、顔の見える小さな村内だからという面があろう。面識のない官僚機構と顔を知っている隣人とでは、仮に同じような管理が行われても、受け止め方が異なるのは当然である。

 この点はユートピアを考える上で重要な意味を持つ。ユートピアは個々人の際限のない欲望を制御する社会である。そのために管理社会として描かれる傾向にあるが、それを国家レベルで行うならば官僚に権力が集中する中央集権的な全体主義となってしまう。これでは理想郷とは程遠い。

 ユートピア文学とは理想的な社会像を描くことで、問題を抱えた現実の社会を改善する方向性を示すものである。冷たい管理社会に陥らないためには、権力・決定権・裁量を分散し、可能な限り、小さな組織単位で完結させることが望ましいと言える。

 第3にユートピアを構成する枠組みである。ユートピア社会が人々にとって理想郷である根拠は、伝統的なユートピアでは特徴的な社会主義的制度に負うところが大きい。本書でも独特の制度が描かれるが、加えてマホロバ村民の生体的な差異を示唆する。

 社会主義的な制度では、成果が報酬に結びつかないならば、誰も頑張って仕事をしなくなるのではないかという懸念がある。制度的には周囲の目によって怠けさせないようにすることが考えられるが、それを徹底するならば監視社会・密告社会となってしまう。

 この点、マホロバ村では村人の性質が協調的・利他的で欲深くないことが、理想郷として成立している要因と示唆されている。本書の表紙に龍安寺の知足の蹲踞(つくばい)が使われていることが示すように、「足るを知る」という人々の意識が理想郷を作ることになる。

 そして主人公ソキュウは、利他的な人と利己的な人の間には生物学的な差異が存在するのではないかとの仮説を立てる。食生活の乱れや化学物質・電磁波などの脳への影響が指摘される現代において興味深いアプローチである。但し、利己的な人を自分とは違う種類の人間と決め付けるならば、優生思想的な差別主義に陥る危険もある。本書では都に住むソキュウの旧友リハツを登場させることで、バランスをとっている。

 このように、本書は理想社会を考える上で示唆に富む内容になっている。ユートピア文学の新たな地平を切り開いた作品と考える。

『機動戦士ガンダム THE ORIGIN第17巻』 安彦良和著

◇読者レビュー◇ テレビ放送時との時代の違いが浮かび上がる

 本書は日本を代表するロボットアニメ「機動戦士ガンダム」の漫画版である。アニメ版のキャラクターデザインを担当した安彦良和が著者で、漫画雑誌「ガンダムエース」に連載中である。

 本作品は1979年から1980年にかけてテレビ放送されたアニメ作品を原作としつつ、原作の非現実的な部分や、原作で説明していなかった部分を大胆に修正・追加している。

 アニメ放送時よりも高めの年齢層の読者を対象としているためか、とりわけ政治劇や陰謀が深く描かれており、リアリティの増した作品になっている。

 第17巻のサブタイトルは「ララァ編・前」。前巻までの地球から舞台を再び宇宙に移す。中立コロニー・サイド6における、主人公アムロ・レイとニュータイプの少女ララァ・スンとの運命的な出会いが山場である。

 また、アムロと好敵手のシャア・アズナブルも戦場でのモビルスーツ戦ではなく、生身で会うことになる。他にもミライ・ヤシマと許婚のカムラン・ブルーム、アムロと父親のテム・レイが再会するように、出会いのシーンが盛りだくさんである。

 衝撃的な出会いにおける登場人物の心情の動きは、映像作品では文字通り一瞬に凝縮される。しかし、紙媒体では丁寧に描くことができる。

 本作品も実に丁寧に描かれている。思いもよらない相手、すっかり変わってしまった相手との出会いに伴うギクシャク感が上手に表現されている。

 描写の丁寧さは加わったが、ストーリー展開は基本的にアニメ作品に忠実である。この点で、アニメと異なる展開が多かった前巻までの地球上でのシーンとは対照的である。この点にテレビ放送時と今との社会背景の相違が感じられる。

 アニメでガンダムが放送された1979年と比べ、現代の社会環境は大きく変化した。とりわけIT技術の進歩は目覚しい。この点は本作品にも反映されている。

 アニメでアムロは紙のマニュアルからガンダムの操作法を知った。本作品では父親のパソコンから知ったことになっている。また、ペルーのクスコでは文化遺産を保護するため、中立地帯になって戦闘が禁止されている。こういった面で、社会意識も反映されているのだ。

 一方、宇宙開発の面では放送当時から現在まで、さほど進歩が見られない。むしろ、現代では人工衛星打ち上げの失敗が大きく報道されたり、「人類は月に行っていなかった」という主張がテレビ番組で紹介されたりしている。アポロ計画のころと比べるならば、人類の夢を実現するものとして、宇宙開発に大きな期待がされていない時代といえる。

 ガンダムは人類の大半が宇宙で生活する時代の物語であるが、宇宙生活という観点ではガンダムの世界観を修正するほど、現代社会は進歩していない。だから、地上でのストーリーや政治的な駆け引き、人間模様に関しては新たな設定が加わる一方で、宇宙空間のストーリーでは原作アニメをなぞる形になりがちである。

 実際、近時のガンダムシリーズでは宇宙の存在感は小さくなっている。2002年放送開始の『機動戦士ガンダムSEED』では地球の統一勢力と宇宙コロニー勢力との戦いというガンダム世界の伝統的な対立軸は維持されている。

 しかし、これは差別されたコーディネーター(遺伝子操作を受けた人類)が新天地を求めてコロニー国家を建設したためであり、地球に住む人と宇宙に住む人という対立軸にはなっていない。宇宙生活はコーディネーターにとって消極的選択であって、過去のガンダムに見られた人類の覚醒をもたらすものというような積極的意味付けは存在しない。

 2007年放送開始の『機動戦士ガンダム00』では、地球上の3大国間の対立が軸となっており、地球対宇宙という関係は完全に消滅した。この世界での宇宙開発は、軌道エレベーターと宇宙太陽光発電システムという化石燃料に代わるエネルギー供給源としてのものである。

 宇宙空間に生活するのではなく、地球上の生活のために宇宙を利用するに過ぎない。人工衛星を通信・放送や天気予報に利用する現代社会の延長線上にある。

 作品は時代を映す鏡と言われる。1979年に放送された作品と、21世紀に描き直された作品を比べると、それぞれの時代状況が垣間見えて興味深い。

原案:矢立肇、富野由悠季
角川書店
2008年6月26日刊
定価(税込)588円

『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』 黒井勇人著

◇読者レビュー◇ 匿名掲示板にも格差社会!?

 本書はインターネット掲示板「2ちゃんねる」のスレッドを書籍化したものである。

 中卒ニートの主人公「マ男」が母の死をきっかけに一念発起して就職した IT企業での過酷な体験を描いた作品である。出版社がスレッド文学と位置付けているとおり、全編「2ちゃんねる」のスレッドの書き込みを書籍化した形になっている。

 もっとも「2ちゃんねる」の書籍化とはいうものの、『電車男』とは趣を異にする。

 『電車男』では電車男がエルメスとのデートの場所などについて相談するために掲示板を利用した。掲示板のやり取りが、物語を形成する軸になっている。電車男とスレ住人の共同作業によって生まれた物語である。故に『電車男』ではスレッドの書き込みを、そのまま書籍化する意味があった。

 これに対し、本書はスレ主であるマ男の体験談が中心である。それ以外の住民の書き込みは体験談に対する感想や突っ込みであり、ストーリー展開を左右するものではない。この点でスレッド文学の形式を採る必然性はない。

 むしろストーリーが実に面白く作られており、一般の小説形式でも十分に楽しめる水準である。このような作品が「2ちゃんねる」から生まれた点に、匿名掲示板の文化発信力の高まりが感じられる。

 本書はタイトルや出版社の紹介文を読む限り、ブラック企業の過酷な労働環境をテーマとしたものと受け取ってしまいがちである。その種の描写が多いのは確かである。しかし、むしろ本題は主人公の職業人としての成長を描くことにある。

 実際のところ、マ男は飲み込みが早く、かなり優秀な人物である。本書が示すように文才もある。高校中退で就業経験ナシ、という設定がうそ臭く思えてしまうほどである。また、ブラック企業といいつつ、かなりスキルの高い同僚もいる。最底辺の職場の苦しみというよりも、ソフトウエア開発現場の実態を誇張しつつも生々しく描いたところが共感を集めたのではないか。

 従って格差社会・ワーキングプア・過労死などの問題意識から本書を読むならば肩透かしとなる。

 ポテンシャルのある人物が厳しい環境に揉(も)まれて成長したという成功物語ではワーキングプアへの応援歌にはならない。

 むしろ過酷な労働環境を生む社会的矛盾から目をそらし、本人の頑張りで克服するという教訓を導き出すならば、悪(あ)しき日本的精神論に堕している、と批判することも可能だろう。それは本物のワーキングプアやニートを、ますます絶望に追い込むだけである。

 秋葉原通り魔事件で逮捕された加藤智大容疑者は匿名掲示板で行った殺人予告に対し、反応がなかったために「無視された」と感じたという。一方で本書のような面白い内容ならばレスがつくし、反響が大きければ書籍化までされる。匿名掲示板は誰でも書き込めるが、皆が同じ匿名者として平等に扱われるわけではない。

 例えば「2ちゃんねる」では企業への告発情報が溢(あふ)れかえっているが、ほとんどが見向きもされない。一方でマンションの売買代金返還訴訟を契機とした東急リバブル・東急不動産への批判は裁判の枠組みを超えて大きく広がり、ビジネス誌に「炎上」と紹介されるに至った(参照「住民反対運動を招く東急電鉄の不誠実」)。

 当たり前だが、書き込み内容に価値がなければ反響を呼ぶことはない。現実社会から疎外されている人が匿名掲示板だから受け入れられるとは限らない。ともに過酷な職場環境への不満を出発点としつつ、書籍化までされたマ男と、匿名掲示板からも疎外された加藤容疑者の落差は大きい。匿名掲示板もまた、格差社会の一翼を担っているという現実を実感した。

新潮社
2008年6月27日発売
定価1470円

林田力「『観光コースでないシカゴ・イリノイ』を読んで」JANJAN 2008年7月20日

 本書は、米国イリノイ州在住の著者によるイリノイ州及び州内の大都市シカゴの紹介書である。特定の地域を歴史・社会・戦争・対日関係などの観点から掘り下げた「観光コースでない」シリーズの一冊である。「観光コースではない」としつつ、観光客にも有益な内容が含まれている。在米20年以上の著者により、外部から眺める旅行者ではなく、住人の視点でシカゴ・イリノイ、さらにアメリカ社会を浮き彫りにする。

 イリノイ州はアメリカのハートランド(中核地帯)と呼ばれ、人種・年齢・所得などの人口構成が全米平均に近似するアメリカ合衆国の縮図と言える地域である。イリノイを論じることはアメリカ合衆国を明らかにすることになる。

 本書から浮かび上がるアメリカ社会の特徴は、過去の出来事を忘却・風化させず、世代を越えて継承させるための努力を惜しまないことである。歴史的な出来事のあった場所にはメモリアル(記念碑)を建てる。アメリカ人にとって記憶にとどめることは責務であり、誇りである。

 アメリカは歴史の浅い国と捉えられがちであるが、歴史を大切にする点については、むしろ日本は見習うべきである。特に労働者が弾圧されたヘイマーケット事件のような負の歴史をモニュメントとして残すことは、焼け野原から経済大国にしてしまうような前に進むことを是とする日本では考えにくいことである。

 歴史を記念するアメリカ人の精神は、太平洋戦争時の日本の侵略行為に対しても向けられる。アメリカでは2007年に下院で日本政府に対する従軍慰安婦への謝罪要求決議が可決された。著者の指摘は、この種の決議が支持される社会的背景を明らかにするものである。

 アメリカ人の対日批判に対する著者の反応は複雑である。著者は「我が非であるかのように突きつけられる」と感じ(94頁)、「アメリカに何年住もうと、びくつく思いをする」と語る(93頁)。そして戦勝の経験を誇らしげに語ることは「勝者の傲慢」ではないか、と問題提起する(223頁)。

 私は「たとえ100%正しい非難であっても、過ぎ去ったことに対し、非難を繰り返すことは美徳ではない」とは考えない。むしろ、そのような発想が通用するのは、過去を水に流す歴史性の乏しい日本社会だけと考える。

 個人的な次元の話で恐縮だが、私自身、東急不動産とのマンション販売紛争で勝訴した経験がある(関連記事参照)。この経験は、機会があれば何度でも繰り返し話している。中には「いつまでも言わなくても」というステレオタイプの日本人的な反応もある。しかし、私は問題意識を持ち続けることは大切なことと考えている。同様に日本の侵略を非難する精神を保持し続けること自体は、傲慢ではなく、アメリカ社会の健全性を示しているものと受け止める。

 そして私はアメリカ社会の非難の声を日本人が恐れ、不快感を抱く必要はないと考える。恐怖や不安を抱くとすれば、それは日本人が戦前の軍国主義的体質を完全に否定できていないためである。戦前の日本を否定せず、現在の日本が戦前の否定の上に成り立っていると確信を持てないからこそ、他国からの批判を嫌悪する。

 このメンタリティは自虐史観という言葉がよく示している。私自身は日本の侵略や戦争犯罪を殊更強調することを自虐とは捉えない。私にとって侵略や戦争犯罪は憎むべきものであり、それは日本の民衆をも不幸にするものだからである。

 それを自虐と形容することは、侵略戦争を推進した人々や戦争犯罪を行った人々と同じ立場に立つことを意味することになる。それは「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」した日本国憲法前文の精神に反する。むしろ戦前の反省と決別の上に戦後日本があるならば、戦後日本人は外国人と同じ立場に立って日本の侵略や戦争犯罪を非難できなければならない。

 無論、東京大空襲や原爆投下など、アメリカに対し、主張すべきことはあるだろう。しかし、それは戦前の否定・決別の上に行わなければ相手の理解は決して得られまい。前述の従軍慰安婦決議が可決された背景には、歴史を歪曲し、侵略を美化・正当化しようとする日本側の動きがあったことを忘れてはならない。

 一方で、アメリカ人が過去の戦勝を誇りに感じ、勝つことの快楽を忘れられないために、現在でも世界中に軍隊を送り続けているのではないかという懸念が読み取れる。イラク戦争は太平洋戦争と同じと言えるのか、アメリカ人が考えなければならない問題である。

 戦争を推進する側が東条英機とサダム・フセインやテロリストを同視することで愛国心を煽るとしても、そこに論理の飛躍やすり替えはないか。ここでも重要になるのは過去を風化させない歴史意識である。何のために戦ったのか、正しい記憶を継承しなければならない。やはり過去を忘れないことはアメリカ人にとって大切なことである。

 最後に本評では話題が偏ったが、本書はシカゴとイリノイ州に関係する様々な話題に言及していることを申し添える。「観光コースではない」としつつ、観光客にも有益な内容が含まれている。本書はシカゴやイリノイの知識を得られ、アメリカ社会を知ることもでき、異文化社会を通して日本社会を考えることができる一冊である。

『太陽の黙示録 建国編/1』かわぐちかいじ著

◇読者レビュー◇ 戦後と重なる再建の物語

 本書は死亡者2000万人、行方不明者4000万人を出した日本大震災後の日本を描いた漫画である。震災の影響で東京や大阪は水没し、本州は南北に分断された。日本は壊滅的な打撃を受け、北日本(ノースエリア)は中国、南日本(サウスエリア)はアメリカが復興を支援することになった。その結果、それぞれの地域で支援国の影響を受けた政府が分立し、東西ドイツや南北コリアのような分断国家となった。

 震災が作品の出発点であるが、本題は震災による破壊自体よりも、震災後の政治と社会、そして人間である。本書は第1巻であるが、17巻まで続いた第1部「群雄編」の続きとなっている。「建国編」とあるとおり、難民として世界中に散らばった日本人が暮らすための、北でも南でもない、第3の国の建国を志向する。

 『太陽の黙示録』の興味深い点のひとつは登場人物が三国志をモチーフにしている点である。例えば主人公の柳舷一郎は劉玄徳に由来する。ほかにも羽田遼太郎は関羽、張宗元は張飛、宗方操は曹操に対応する。諸葛亮にちなむ葛城亮が柳舷一郎の仲間になり、新たな国造りを目指す建国編は、天下三分の計を髣髴(ほうふつ)とさせる。

 ノースエリアもサウスエリアも、それぞれの支援国であるアメリカと中国の悪い部分が極度に肥大化しており、望ましい社会から程遠い。これに対し、柳舷一郎らは自給型経済と非暴力不服従を理念として、新たな日本の建国を目指す。

 この展開は戦後の日本をなぞらえているように感じられる。思うに震災後の日本は敗戦で焼け野原になった日本である。そして戦後日本は植民地支配による領土拡張を行わず、戦争を放棄することを出発点とした。これが自給型経済と非暴力主義に対応する。

 しかし、高邁(こうまい)な理念と比べ、戦後日本の実態は、あまりにも中途半端なものであった。戦争放棄をうたった憲法9条は維持されているものの、自衛隊はアメリカの世界戦略に組み込まれつつある。また、直接的な植民地支配はしていないものの、日本企業の発展途上国への進出は、新植民地主義に基づく経済的搾取と批判されている。

 そこで大震災によって戦後日本を破壊し、中途半端になっている戦後日本の歩みを、やり直すことが本作品の狙いかもしれない。リセット願望や「希望は、戦争」という赤木智弘氏の主張と共通するメンタリティが感じられるが、破壊後に目指す理念が自給型経済と非暴力不服従という点は興味深い。

 その意味で本作品の描かれる先には大いに注目している。上述の理念を本質的なものとして、どこまで追求できるだろうか。戦後日本は理念を置き去りにして、ひたすら経済大国への道を邁進(まいしん)した。

 本作品でも日本に帰国したい数百万人の難民がおり、彼らが生活できるようにすることが優先的に求められる。仮に焼け野原から経済大国にしてしまうような、ひたすら前に進むだけの発想で乗り切るならば、戦後日本の繰り返しとなってしまう。新たなる日本がどのように描かれるか、注目したい。


『太陽の黙示録 建国編/1』
かわぐちかいじ著
小学館
2008年6月30日発行
定価:540円
208頁

『女子弁護士 葵の事件ファイル』 岩崎健一著

◇読者レビュー◇ 面白くて、ためになるリーガル小説

 本書は弁護士である著者が「面白くて、ためになる」というコンセプトで著したリーガル小説である。「まえがき」によると、小説としての面白さを追求しつつ、法律知識を身につけられるような内容を目指したという。

 新米の女性弁護士・日向葵を主人公にし、彼女を通して法律事件を描く。物語は事件毎に1話完結型で展開する。扱われる事件は痴漢冤罪事件、リストラ、架空請求、子の認知、過払い金返還、相続と日常的なものながらも多岐に渡る。

 本書では会話文が多用され、法律の説明も依頼者と弁護士、主人公と先輩弁護士の会話を通して行われる。そのため、実用書的な長々とした説明は少ない。

 また、主人公は、かんざしがトレードマークで、ケーキに目がなく、演劇スクールに通っているという個性的なキャラクターである。そのため、法律論ばかりの堅苦しいものにならず、気軽に読み進めることができる。

 リーガル小説としての本書の特徴は法廷シーンが存在しないことである。法律相談関係の本を書くことが出発点であったこともあるが、法的紛争の大半は裁判に行く前に解決するという実態を反映している。

 支払督促を悪用した架空請求のケースでは、督促異議申し立て及び強制執行停止申し立てで対抗するが、本書では裁判所に申し立てたところで終わっている。

 半可通の感覚ならば申し立ては手続きの出発点であり、その後どうなるかが気になるところである。しかし、本書では申し立てにより一先ず安心という形になっている。

 ここには早めに弁護士に相談することが成否を分けるという著者の思想がうかがえる。後になって弁護士に相談しても手遅れになってしまうトラブルも存在するためである。反対に適切なタイミングで相談を受ければ、後は単純な手続きで済む。そのような事件が現実の弁護士業務の大半なのだろう。

 記者(=林田)は東急不動産(販売代理:東急リバブル)とのマンション紛争で東京高裁まで争った経験がある。東京高裁における訴訟上の和解成立後も和解条項の履行をめぐって紛争が再燃した(参照:「東急不動産、「和解成立」後も新たなトラブル」)。

 同じ法律紛争でも、記者の裁判と本書で扱われた事件では、かなり様相が異なる。記者の裁判では原告(記者)と東急不動産は全面的に対立しており、熾烈な争いになった。また、消費者契約法による不動産売買契約の取消しが認められるかという先例のない分野の裁判であった。弁護士にとっても負担が大きい事件であると言える。

 本書は重たい事件や突っ込んだ法廷闘争を期待する向きには不満が残るかもしれないが、裁判を回避できるならば、それに越したことはない。

 記者の裁判が泥沼化したのも東急不動産の非妥協性、頑迷さが原因であり、他の会社が相手ならば長引かなかったはずである。日常的な法律紛争を大事に至る前に解決の具体的な方策を提示しており、「面白くて、ためになる」というリーガル小説の新分野を狙った著者の試みは成功したと考える。

双葉社
2008年6月20日発行
定価1400円(税別)
239ページ

林田力「『京ガス男女賃金差別裁判 なめたらアカンで! 女の労働』を読んで」JANJAN 2008年7月24日

 本書は、京ガス男女賃金差別裁判の原告である著者による男女差別是正の闘いの記録である。同一価値労働同一賃金原則(ペイ・エクイティ)を主張して勝利した京ガス訴訟を中心に記されている。

 著者はガス工事会社の「京ガス」で働き続けたが、同じ経験や能力、仕事内容であっても、女性である著者と男性従業員との間には厳然たる賃金格差が存在した。同期入社の男性従業員と比較すると、初任給の時点で3万円余りの差があったが、年々格差が広がっていった。

 1993年から1998年までの5年間の賃金の差額は約635万円にも上る。この差額分を不法行為に基づく損害とし、「京ガス」に支払いを請求したのが、京ガス男女賃金差別裁判である。加えて、男女差別により被った精神的苦痛に対する慰謝料も請求した。

 一審・京都地裁判決は「原告が女性であることを理由とする差別」と、正面から著者の主張を認めた。認容額は低かったものの、紛れもなく勝訴判決である。 控訴審・大阪高裁ではジェンダーバイアスの強い裁判官に苦しめられながらも、一審判決をベースとした実質勝訴の「和解」で終結した。

 本書を読むと、裁判での原告の奮闘が理解できる。とりわけ、先例の乏しい分野で勝訴判決を勝ち取ることの並々ならぬ苦労が看取できる。私も不利益事実(隣地建て替えなど)を説明されずにマンションを購入してしまい、消費者契約法に基づき売買契約を取り消し、裁判によって売買代金返還を勝ち取った経験がある(関連記事参照「マンション販売トラブルで「お詫び」 東急リバブル・東急不動産」)。故に、著者の奮闘には大いに共感できる。
http://www.news.janjan.jp/living/0710/0710023335/1.php

 著者の経験は労働法の分野のみならず、個人が組織を相手に裁判闘争をする上で有益な示唆が多い。著者の勝因を、私の裁判経験も踏まえつつ、闘志、理論、事実の立証の3点から指摘する。

 第1に闘志である。裁判は闘争である。闘争とは良くも悪くも世間に波風を立てることである。故に「自ら省(かえり)みて直(なお)くんば、千万人といえども我行かん」の心意気が求められる。日本人は裁判を避ける傾向があるとされるが、他人の目や批判を過度に恐れる性質があるためである。

 これに対し、著者は「人が安易に理解することを信じていない」「批判や無理解は人生につきもの」と述懐している(212ページ)。たとえ孤立しても、自らの権利の救済のために裁判闘争を進めるだけの精神的強さが著者にはある。

 実際のところ、「京ガス」との闘争は大変なことであった。指名解雇に抗議した著者がビラ配りを始めたところ、自家用車に数十個の生卵をぶつけられるなどの嫌がらせを受けたという(18ページ)。

 権利侵害に対し、異議を唱えて活動することは当然の権利の筈である。しかし、正義を追求した人が反対に有形無形の嫌がらせを受けてしまうのが陰湿な日本社会の現実である。私自身、東急不動産との裁判中は、マンションに怪文書を配布されるなどの被害を受けた。

 通常、原告は侵害された権利を回復するために提訴する。従って、裁判で主張が全面的に認められたとしても、それは失われた損害を回復するものに過ぎず、それによって利益を得ることにはならない。原告にとっては認められて当然という感覚である。しかし現実には、それが認められるまでには膨大な時間と費用を要し、相手が組織ならば有形無形の嫌がらせまで受ける。

 「正当な主張を貫くことで何故、これほどまでに苦労しなければならないのか」という著者の悲痛な思いは、本書に一貫して流れている。この不合理への憤りに、私も大いに共感する。

 第2に確固たる理論の存在である。裁判の一義的な目的は、法的紛争の解決である。人間の尊厳を回復するための最後の手段として裁判を選択する場合が多いものの、制度面から見た裁判の目的が、法的紛争の解決にある点を忘れてはならない。

 そのためには、依拠する法律理論が重要になる。闘志は十分にあり、同情すべき事案であるにもかかわらず、裁判では敗訴してしまう例が少なくないが、これは理論構成が不十分であった可能性が高い。

 著者は同一価値労働・同一賃金原則を掲げ、決して揺れなかった。著者が厳しい裁判闘争を継続できた要因として、何よりも確固たる理論的支柱を保持していたことが挙げられる。私の東急不動産との裁判でも、消費者契約法(不利益事実不告知)に基づく売買契約の取消しという理論構成を貫いた。

 「京ガス」裁判も私の裁判も一審勝訴、控訴審で訴訟上の和解という点が共通する。訴訟上の和解というのは、民事訴訟法に規定された訴訟を終了させる形式の一つである。「仲直り」を意味する日常語的な和解とは全く異なる。

 「訴訟上の和解」を、相手方への妥協や屈服と捉えて忌避する向きもある。それは、第1には日常語の和解と混同したためであり、第2にはブレない理論構成を持っていないために、無原則な妥協に陥ってしまったためである。従って、譲れない理論を貫き通せるなら、形式的には訴訟上の和解であろうと、胸を張って、実質勝訴と宣言できる。

 第3に事実の立証である。裁判は事実を法律理論に当てはめて結論を導き出すが、この事実も当事者が主張、立証しなければならない。著者が同一価値労働・同一賃金の原則で勝訴するためには、著者の仕事が男性の仕事と同一価値労働であることを立証する必要がある。

 実際のところ、これが難題であった。「管理職男性と同等価値の仕事をしている」という事実を理解してもらえるまでには、想像以上の時間を費やし、苦労した、という。女性である著者の担当したガス工事の検収・清算業務は「仕事の価値が低い」という「思い込み」や「イメージ」を弁護団や支援者にも払拭してもらう必要があった(187ページ)。

 労働者自身が、女性の仕事の価値は男性の仕事よりも低いというイメージに惑わされている現実がある。企業側は社会的な「イメージ」や「思い込み」を操作・利用することで、骨を折らずに否定しようとする。単に「女性事務員の仕事だから」ということで、著者の主張を圧殺しようとする。

 私の裁判でも、日照や眺望が阻害されたのが北側の窓であったために、東急不動産は具体的な立証をせずに、「北側だから大した問題ではない」という態度をとった。これに対し、私は、私の物件で東急不動産(販売代理:東急リバブル)が北側の日照や眺望をセールスポイントとしていたことだけでなく、他の物件でも北向きの住戸を分譲していることを立証した。

 当人にとっては分かりきったことであったとしても、裁判では裁判官に説明する必要がある。これには、きめ細かな主張・立証が必要である。一般に日本人は「以心伝心」を好み、理解されないと安易にコミュニケーションを拒絶してしまう傾向がある。
 
 この点、著者は「人が安易に理解することを信じていない」性格であるため、かえって、相手の理解が得られるまで説明する、しぶとさを発揮できたのではないかと考える。本書は、男性中心の企業社会に正面から異議を唱え、人間的な労働とは何かをフェミニストの視点から伝えることを意図しているが、同時に個人が組織相手に闘うことの大変さ、不合理な現状を実感を込めて伝えている。

 これから組織と闘おうとする、または現に組織と闘っている人にとって、闘いの心構えを知ることもできる一冊である。

林田力「『くらしと建物ものがたり−旭川動物園の町旭川と北海道編−』を読んで」JANJAN 2008年7月29日

 本書は北海道(特に旭川)を中心とした多数の歴史的な建物について記録した書物である。著者は建築史を専門とする研究者であり、本書はフィールドワークの成果である。とはいえ平易な文章で一般向けにまとめてあり、専門的な知識がなくても読み進めることができる。

 タイトルに「くらしと建物」とあるとおり、生活に密着したものとして建物を捉えている点が特徴である。建物の学術的な分類だけでなく、居住者の暮らし方も描写する。建物の履歴から生活や文化が見えてくる。

 本書で取り上げた建物は居住者の生活や自然環境・気候風土について、考え尽くされた上で建てられている。この点で雨後の筍のように乱造されている近時のマンションとの落差を思わずにはいられない。

 果たして、それだけの重みが近時のマンションにあるか、大いに疑問である。マンションは消費財のように販売され、ひたすらスクラップアンドビルドが繰り返される。ここからは現代日本の住環境の貧しさが浮かび上がる。

 人間の文化的な生活に不可欠な要素として衣食住が挙げられる。ところが「衣食足りて礼節を知る」という言葉では「住」が抜けている。原典の管子・牧民篇で「衣食足則知栄辱」と説かれた時代は深刻な住宅問題がなかったために住について言及する必要はなかったのかもしれない。

 しかし、現代日本における「衣食足りて礼節を知る」には、住環境の軽視が象徴されているように思われる。ウサギ小屋に住んでいても、無機質な高層マンションが乱立する景観が破壊された街であっても、衣服や食事が満たされていることで経済大国を誇る日本の姿がある。

 その意味で建物の履歴を記録し、そこから人々の暮らしを考察する著者の問題意識は貴重である。これからの家づくり、街づくりに大いに活かすべきである。たとえば雪国では除雪に膨大なエネルギーを費やしている現状があるが、雪に埋もれることを前提とし、雪を利用した建物にすべきではないかとの示唆は興味深い。著者の取り組みは旭川に限らず、日本全国それぞれの地域で行う価値がある。

 本書では約60棟もの建物が紹介されている。著者のフィールドワークの集大成と思いたくなるが、「あとがき」によると本書に掲載したのは原稿の半分程度という(207頁)。本書で紹介できなかった建物については続編をとして出版する予定とのことである。

 続編は楽しみであるが、出版されるにあたり一点、希望を申し上げたい。取り上げた建物が、どの辺りに立地しているかを示す地図を添付されれば、北海道に土地勘のない人にもイメージが湧きやすくなると考える。

林田力「【コミック】長期連載成功の秘訣『こちら葛飾区亀有公園前派出所160巻』」ツカサネット新聞2008年7月28日

本書は週刊少年ジャンプで連載中のマンガの単行本である。漫画作品として有数の長いタイトルのため、「こち亀」と省略されることが多い。「こち亀」は基本的に一話完結型のギャグ漫画で、亀有公園前派出所に勤務する中年の警察官・両津勘吉巡査長(ニックネームは両さん)を主人公とする。

「こち亀」の魅力の一つは警察官を主人公としていながら、警察とは無関係な話題が豊富なことである。職業が警察官でなくても成り立つ話題の方が多いとさえ言える。

取り上げる話題は両さんの趣味や特技の多さを背景に、プラモデルやテレビゲーム、漫画、スポーツ、サバイバルゲーム、ベーゴマ、メンコなど多岐に渡る。「こち亀」は1976年から30年以上も連載が続いているが、様々な話題を扱っていることが長期連載を成功させている一因と考えられる。

この160巻でも話題は豊富である。サブタイトルにもなっている「海が呼んでいるの巻」では帆船の運転技術が取り上げられた。他にもテレビショッピングや移動型の回転寿司、携帯電話の新機能、コンピュータによる作画などがある。今では使われることの少ない帆船の運転からCGのような最新技術まで幅広い知識・技術を有しているのが両さんの驚くべきところである。

特に面白かったのは冒頭の「工場に惹かれての巻」である。これは工場鑑賞という最近注目されている趣味を扱った話である。工場の建物や配管の質実剛健さや機能美、SF映画に登場する近未来都市のような感覚を愛する「工場萌え」の感覚にとりつかれ、両さん達も工場見学に出かける。

通常の「こち亀」では、このような場合、両さんは対象分野に精通した、かなりのマニアである。しかし、ここではビギナーの位置付けである。見学先の工場で偶然に出会った工場マニアの奥深さには付いていけず、引いてしまっている状態である。このギャップが笑いを誘う。

この話の前提として「工場萌え」が一定のブームになっている現状がある。工場の写真集が売れ、工場見学ツアーも行われている。このような状況をヒントに作者が創作したことは、「工場萌え」の書籍を参考文献として挙げていることから判断できる。

しかし、「こち亀」の素晴らしい点は単に流行の話題を取り上げただけではない。漫画では工場が実に緻密にリアリティをもって描かれている。アシスタントが大変だったと思ってしまうほどである。工場の魅力と迫力を読者に伝わるようにしている。表面的に話題を借用しただけではなく、きちんと漫画の中に取り入れる姿勢には敬意を表したい。

たとえば車の漫画で車、軍艦の漫画で軍艦の描写にリアリティをもたせることは当然である。むしろ最低レベルの条件とさえ言える。しかし一話完結の「こち亀」では、次回は全く別の話題となってしまい、工場鑑賞の話題は二度と登場することがないかもしれない。それにもかかわらず、工場の描写に力を入れている。このような手抜きをしない姿勢が「こち亀」のクオリティを高めていると考える。

秋本治著
集英社
192ページ
定価410円
2008年6月発行

『銀魂 第24巻』 空知英秋著

◇読者レビュー◇ 信念を貫くキャラクターの清々しさ

 本書は週刊少年ジャンプに連載中の人情コメディー漫画の単行本である。『銀魂』は黒船ならぬ天人(宇宙人)が来襲し、突如価値観が変わってしまった町、江戸を舞台としたSF時代劇である。勤皇の志士や新選組など幕末の人物をモデルとしたキャラクターが登場する。下ネタも多い少年誌連載漫画だが、アニメ化もされ、女性ファンも多い。

 ギャグやバトル、人情などさまざまな要素が詰まっている点が『銀魂』の魅力である。第24巻は志村新八が文通をする話と、老人と老犬の話、ジャンプスクエアに掲載された読み切り漫画『13』から構成される。いずれもギャグが詰まった展開であるが、最後の最後で、どんでん返しとなる。十分に笑った後に爽(さわ)やかな読後感を味わえる。

 『銀魂』は主人公・坂田銀時の魂という意味である。宇宙人の来襲で価値観が変わってしまった中でも、侍の魂を持ち続けた人物であることを示している。主人公も含め、『銀魂』のキャラクターは不器用だったり、普段はでたらめだったりしても、意地にも似た信念を貫き通している。

 キャラクターが一本筋の通った信念を有しているのは重たい過去を背負っているからである。一回限りで登場する老人や犬でさえ深いキャラクター設定がなされている。重たい過去があり、そこから目を背けずに行動しているからこそ、過去が明らかにされていない時はギャグになるような行動も読み終わってみると感動的なものになる。

 記者(=林田)はマンションのだまし売り被害に遭い、売り主の東急不動産(販売代理:東急リバブル)と徹底的に戦った経験がある(参照:「東急不動産の遅過ぎたお詫び」)。このスタンスは現在でも変わらないし、変えてはならないものと考えている。

 そのような記者にとって信念を貫く『銀魂』のキャラクターたちは共感が持てるし、まぶしくもある。目の前の敵とひたすら戦うだけで、状況が変われば過去の敵もなぜか味方になってしまうような戦闘漫画とは一線を画す面白さが『銀魂』には存在する。

『銀魂 第24巻』
集英社
2008年7月4日発行
定価:410円(税込み)
192ページ

林田力「貴重な利用者の目線『介護情報Q&A』を読んで」JANJAN 2008年8月6日

 本書(著者:小竹雅子、出版社:岩波書店、定価:700円+税)は介護に関係する情報をサービス利用者の立場から平易にまとめたものである。介護保険制度が内容の中心となるのは性質上当然であるが、医療保険や高齢医者虐待防止法など関連制度にも目配りする。

 本書は、制度を体系的に説明するのではなく、あくまで利用者の目線で利用者の役に立つ情報を提供するというスタンスを貫いている。例えば、苦情解決の項目では介護保険制度上の苦情解決機関だけでなく、市区町村の消費者相談室や消費生活センターなども相談窓口として紹介する(P.64)。

 介護保険のサービスは契約に基づいて提供されるものであり、その点で消費者契約の問題となるためである。利用者にとっては無意味な縦割り行政の弊害から、本書は自由である。消費者契約法に基づく契約の取消しについても言及する(P.118)。消費者契約法(不利益事実不告知)に基づき、マンション売買契約を取り消した経験がある私にとっては嬉しい内容である(関連記事)。

 役人ではなくても、介護の専門家は介護制度に特化し、他は知らないとなりがちである。著者が縦割り行政と同種の罠に囚われていないことは高く評価したい。

 現在、政府では縦割り行政の弊害解消の一環として消費者庁の創設が検討されているが、消費者問題が極めて広い分野に渡る以上、様々な官庁が消費者問題に関係することは、むしろ当然である。

 本質的な問題は各現場担当者の消費者問題への理解が乏しいことであろう。たとえば消費者問題としての問題意識を有する介護専門家のような人材を揃えれば、財政状況の厳しい折、わざわざ消費者庁のような官庁を新規に創設する必要はないと私は考える。

 本書は介護に関する制度の仕組み(サービスの内容や費用など)を説明するものであって、制度を評価するものではない。しかし、記述の端々から著者の介護保険制度に対する主張を垣間見ることは可能である。

 著者は「介護保険はサービスの種類が多く、手続きも面倒な制度」と評価する。2005年の法改正によって「さらに複雑になり、利用する人たちや介護する人たちには、とてもわかりづらくなりました」とする(P.14)。

 しかも利用者の負担が増大したため、サービスの利用を抑制する人たちが増えているのではないかと懸念する。そして「制度にかかわる人たちには、利用しない人や利用をやめた人たちの実態調査を行うなど、課題の解決にむかう姿勢を持ってほしい」と訴える(P.23)。

 著者は必ずしも現状の介護保険制度を肯定的に評価していない。それでも本書が必要なのは、その不十分なレベルの介護サービスさえ役所が提供を拒むケースがあるためである。

 要介護等認定の申請をしたところ、窓口で「子ども達がいるのに介護できないのか」と言われ、申請が受理されなかったケースもあるという(P.27)。受理してしまうと法律に則って手続きを進めなければならず、もっともらしい理由をつけて受付を拒み、申請自体をなかったこととするのが介護保険に限らず、役所に共通する住民無視の逃げ口である。私も不動産の問題では、消費者関連の部局との間に苦い経験をした。

 本書は、そのような役人の卑劣な怠慢と戦うための有効な武器になる。著者は「声をあげていかないと問題は解決に近付きません」とも語る(P.64)。正しい知識を身につけ、非合理なことに声をあげていく。本書は、その大いなる手助けになるだろう。

『ミュージック・ブレス・ユー!!』津村記久子著

◇読者レビュー◇ ポップでキュートな青春小説

 本書は「音楽について考えることは、将来について考えることよりずっと大事」な高校3年生アザミを主人公としたポップでキュートな青春小説である。作中で登場人物が実在のバンドを評しており、エモーショナル・ハードコアなどの分野が好きな人にも薦められる1冊である。

 高校3年生と言えば進路について真剣に考えなければいけない時期である。しかし、アザミはやりたいことが見付からず、考えようとする意欲もわかず、好きな洋楽(ロック)を聴いてばかりという毎日である。

 音楽でなくても、小説だったり、漫画だったり、映画だったりと対象はさまざまであるが、受験勉強をしなければならないのに趣味に没頭してしまう経験は多くの人にあったはずである。やりたいことと、やらなければいけないと周囲から言われていることの乖離(かいり)や、周囲から取り残されることへの焦燥感は世代を超えて共感を得られるだろう。

 一方で現代の高校生世代に特有の要素もある。インターネットや携帯電話など情報技術の発達である。本書でも音楽の趣味を共有するアザミはアメリカの少女アニーのブログを読み、英文メールでやり取りしている。

 アザミの聴く洋楽は同級生では聴く人が少ないマニアックな部類に属するが、インターネットを通すことで、地域的な壁を越えて、趣味や感性を同じくする人とコミュニケーションできる。これが人間関係・交友関係の限定されていたインターネット普及以前とは大きな相違である。「今の子どもは理解できない」という類の言説を聞くことがあるが、子どもの世界はITの発達で拡大しており、昔の感覚では理解できなくて当然である。

 アザミはアニーのブログでアニーの友人の溺死(できし)を知って大きな衝撃を受ける。布団を頭からかぶってしまい、何をしたのか、いつ眠ったのかも覚えていないほどの衝撃であった。リアルで接している家族や友人はアザミの変貌(へんぼう)は理解できないはずである。子どもが理解できないと嘆くよりも、インターネットを通じて異なる世界にも生きているという点を理解することから始めるべきである。

 物語の縦糸がロックならば、横糸は同級生チユキとの友情である。二人は同級生を傷つけた男子生徒に報復する。後に露見しそうになった時、アザミは最後までチユキをかばおうとする。なぜ、そのようなことをしたのか本人が後で考えても分からないという本能的な正義感からの行動であった。

 大切なものが傷つけられたために抱く激しい憎しみ。たとえ自分が不利になったとしても、信念を貫くために戦う正義感。これはまさに青春である。記者(=林田)はマンションのだまし売り被害に遭い、売り主の東急不動産(販売代理:東急リバブル)と徹底的に争った経験がある(参照:「東急不動産の遅過ぎたお詫び」)。

 故に純粋な正義感に基づいた真っすぐな怒りには共鳴するし、二人の友情がうらやましくもある。本書は無意味に浪費しているようでいて、懐かしくいとおしい、かけがえのない青春の日々を生き生きと描いた作品である。

『ミュージック・ブレス・ユー!!』
角川書店
2008年6月30日発行
定価1500円(税別)
218ページ

『名作マンガの間取り』影山明仁著

◇読者レビュー◇ 間取りからキャラや時代を想像する

 本書は建築コンサルタントである著者がマンガを中心としたフィクション作品に登場する建物の間取り図を作品中の描写を元に作図したものである。取り上げる間取りは『ドラえもん』の野比邸や『サザエさん』の磯野邸など住宅がほとんどである。

 一方で『ナニワ金融道』の帝国金融や『機動警察パトレイバー』の特車二課のように事業所の間取りもある。マンガに登場する間取りを集めただけでも斬新な企画であるが、事業所の間取りが出てくるとは想像できなかった。著者の設計経験とマンガ読書量の豊富さがうかがえる。

 実際に作品中の建物の間取りを作図すると、さまざまな無理や矛盾が生じており、著者の想像で補ったという。設計士から見た突っ込みどころを、ユーモラスにコメントしている。

 著者は「あとがき」で家族仲がよく、特に母親の存在が大きい作品の建物は作図しやすかったと感想を述べる(110ページ)。人間関係における住環境の重要性を示唆している。これは現実世界の問題であるが、マンガの世界にも適合している点が面白い。

 本書で取り上げた中で記者(=林田)にとって最もなじみ深い作品は『ドラえもん』である。実際に野比邸の間取り図を見ると部屋数の多さに驚かされた。居候のドラえもんを除外すれば、子ども一人の三人家族であるが、間取りは5DKである。のび太の幼いころは祖母と同居していた描写もあり、2階の一部屋が祖母の部屋だったと推測される。1階には居間(和室)と洋室(応接室)が別々に存在する点が特徴的である。

 気になった点は、のび太の机が南向きの窓に面して置かれている点である。直射日光が当たる南向きの場合、一般に集中力が途切れがちで、落ち着いて勉強しにくい。のび太は、机に向かうと5分であくびが出てしまうが、机の向きも一因ではなかろうか。机の向きを変えると少しは勉強好きになるかもしれない。

 これに対して『あたしンち』の立花邸では子ども部屋を北側の部屋(窓は東向き)にしている。立花家では両親がユニークなキャラクターであるのに対し、相対的に子どもたちは常識人である。キャラクターと間取りの相関が感じられて興味深い。

 日本人は農耕民族としての伝統からか、陽光を最大限に享受できる南向きの人気が高かった。しかし、日照が強い南向きは勉強部屋に向かない上に、急激な室温上昇や壁紙・家具・カーテンの退色などのデメリットがある。反対に北向きの窓ならば年間を通して柔らかく安定した採光が得られる。住宅事情が悪いための消極的選択という面も皆無ではないが、最近では南向き神話は弱まりつつある。

 それを端的に示したのは記者が原告となって、マンション売り主の東急不動産を訴えた裁判である。この裁判の東京地裁判決では北側の窓の日照阻害などを理由に売買契約の取り消しが認定された(参照:「東急不動産の遅過ぎたお詫び」)。

 この判決は不動産売買契約について消費者契約法に基づく取り消しを正面から認めた点で先例的価値を有するが、北側の窓からの日照阻害を重要事項と認定した点にも意義がある。日照といえば南向きという図式の崩壊が裁判でも裏付けられたのである。

 本書はタイトルに名作マンガとあるとおり、古い作品が多いが、その中で相対的に新しい作品に『カードキャプターさくら』がある。この作品の木之本邸は一戸建てであるが、階段を南側に配置しており、南からの居室への日照は期待できない。ベランダは西向きに設置している。ここには南向き神話は見られない。時代別に作品を整理して間取りを分析すると、時代の傾向が発見できるかもしれない。

 間取り図からキャラクターの特徴や作品の時代に思いをはせることができる。本書はさまざまな点で想像力を刺激させてくれる1冊である。

『名作マンガの間取り』
ソフトバンク クリエイティブ
2008年8月8日発行
定価952円(税別)
111ページ

林田力「ダイちゃんの失敗談『ザイデンシュトラーセン2 鉄工少年のもとめた絹の道』を読んで」JANJAN 2008年8月13日

 本書(著者:まるみせもあ、出版社:現代図書、定価:1905円+税)は生きる意味を考え、求め続けた著者による自伝小説である。

 タイトルのザイデンシュトラーセンはドイツ語で絹の道という意味で、地理学者フェルディナント・フォン・リヒトホーフェンが中央アジアを横断する交易路を命名した言葉である。日本では英語のシルクロード(Silk Road)として人口に膾炙している。本書では人の成長過程(道)をシルクロードに喩えている。

 前著『ザイデンシュトラーセン 私のもとめた絹の道』では極貧生活の中でも画才を伸ばしていく幼馴染み「トムちゃん」(蓮尾力氏)を中心とした。これに対し、本書では著者自身である「ダイちゃん」にスポットライトをあてる。但し「畏友の外遊」のようにトムちゃんを主役にした章もある。

 本書はダイちゃんの半生をダイちゃんの生きてきた時代に重ね合わせて叙述する。「日本の敗戦後から今日に至るまでを、社会情況を背景に端的に描いてみたい」(583頁)というのが著者の思いである。太平洋戦争や戦後の社会状況、学生運動やベトナム戦争など時代状況を間に挟みながら物語は進行する。その意味でダイちゃんの人生は日本の戦後史の一部である。

 一方で社会状況の描写は、時代が下るほど薄くなっている。時代が下っても、その時々で社会的な大事件は起きているが、国民共通の経験や関心事というものが限りなく少なくなったためと考える。だからダイちゃんも社会状況に拘束されずに自らの絹の道を追求することができる。

 実際、本書の力点は主人公の精神の遍歴にある。とりわけ人を傷つけたことに対する後悔と反省を正直に描いている。中でも印象深いものは、日本社会で民族差別に苦しむ在日朝鮮人とのエピソードである。

 ダイちゃんは大学生の頃に、成績は優秀ながら差別に苦しむ朝鮮人の女子高生に対し、「気にすることではない」と言った。本人は善意から、励ましのつもりで発言したが、差別を気にしている当人に対しては残酷な言葉であり、深く傷つけてしまった(232頁)。

 しかし、ダイちゃんの立派な点は後悔の念を引きずり続けている点にある。教師となった後、ダイちゃんは同僚との飲み会の場で、上記エピソードを語る。これに対し、同僚教師から「その事実を大いに気にしていくべきです」「その問題を真正面から見詰めて一緒に闘っていきましょう」と相手と同じ視線に立って生きていく意志を表明すべきと指摘された(335頁)。

 過去を水に流すことを是とする日本社会において成長というと「過去に囚われてはいけない」「過去は忘れて前に進むべき」というような発想が生じがちである。しかし、都合の悪い過去をリセットするスタンスでは真の成長はありえない。

 本書はダイちゃんの失敗談ばかりと並んでいると言っても過言ではない。それも笑って済ませられるような軽いものではなく、人を傷つけてしまった重たいものである。その経験を忘れることなく直視し続け、自伝小説において赤裸々に語る著者の姿勢に敬意を表したい。

『関野昂 著作選2 機巧館殺人事件』を読んで

 本書は「推理小説の形態を借りた思考実験的幻想哲学小説」と紹介される作品である。タイトル「機巧館殺人事件」にしても、探偵と刑事が訪問した居館で連続殺人事件が発生する筋書きにしても、推理小説そのものである。機巧館という外界から途絶した環境で次々と殺される状況はクローズド・サークルである。

 作品は刑事・支倉俊之の視点で語られる。謎解きをするのは探偵・布川京太郎である。ちょうどワトソン博士とシャーロック・ホームズの関係に似ている。しかし、ワトソンが冷静な観察者に徹しているのに対し、支倉は幻覚や夢を見たり、事件発生直後に気絶してしまったりと観察者としては失格である。実際のところ、支倉は自分自身のことも正確に認識できていない。空想と現実の境界が曖昧であり、幻想的な作品になっている。

 推理小説は犯罪の謎解きがメインである。従って、どれほど有能な探偵でも犯罪を抑止することはできない。読者が名探偵に期待することは犯罪を食い止めることではなく、トリックを解明することだからである。このような価値観は現実社会においては許されざるものであり、そこに推理小説の現実との矛盾がある。この矛盾の穴埋めとして、多くの推理小説において探偵は犯罪を憎む正義感の強い人物として描かれる。

 しかし、本書の探偵・布川には、その種の正義感は見られない。殺人が起きることを不可避の運命とさえ認識しているように見える。多くの推理小説と同様、最後に布川は真犯人と対面し、推理によって解明した連続殺人の謎を明らかにする。

 ここでは、真犯人の異常な心理を明らかにすることに力点が置かれている。真犯人が誰か、どのようなトリックが使われたかという点は、あっさりと進む。ところが犯行に至るまでの心理の解明が非常に長い。布川の台詞は現実の会話ではあり得ない様な長文が続く。哲学書を読むような難解さがあり、読み進めるのには時間がかかった。

 著者にとっては、心理を説明したいがために連続殺人を描く必要があったものと思われる。著者の哲学的思考を発表する形式として推理小説での謎解きを借用している。その意味で本書は思考実験であり、哲学小説である。

 本書は、著者が小学校高学年の頃から執筆した作品である。これだけの文章をローティーンで書けることに先ず驚かされる。著者は2003年8月24日に14歳で自らの命を絶った。本書は父親の編集による遺稿である。

 末尾の「編集者による解題」を読むと父親が息子の作品を実に深く読み込んでいることが分かる。遺稿を出版することだけでも簡単なことではない。親子の断絶が指摘されている中で、これほどまでに親身な理解者に恵まれて著者は幸せであると感じた。

【書評】ドブ板と政策本位『政治家は楽な商売じゃない』(平沢勝栄 著)

本書(平沢勝栄『政治家は楽な商売じゃない』発行・創美社、発売・集英社、2007年10月10日発行)は自由民主党所属の衆議院議員(東京17区)による政治家の生活や政局を述べたものである。本書は全部で7章まであるが、大きく分けると4つに分かれる。

第1章及び第2章で政治家の日常を語り、政治家は大変な仕事であると説明する。これが本書のタイトルにもなっている。

第3章では2007年3月の参議院議員選挙で当選した丸川珠代氏の選挙活動を振り返る。この中で丸川氏の勝因と歴史的な大敗をした自民党の敗因を分析する。

第4章及び第5章では参議院で連立与党が過半数割れした「ねじれ国会」下の政局を論じる。

第6章及び第7章では集団的自衛権や拉致問題という重要な論点について持論を述べる。


最初の政治家の日常生活では、地元に顔と名前を売るドブ板選挙的な活動を赤裸々に述べている。まず、ここまで率直に述べていることに感心する。
平沢議員は選挙区の東京都葛飾区・江戸川区小岩地域とは無縁の俗に言う落下傘候補であった。1996年の衆議院議員総選挙で新人として立候補した際は、対立候補優勢の下馬評を覆して当選した。当選するための地道な努力の一端がうかがえる。政治家を志す人にとっても参考になる内容である。

平沢議員は新人として立候補した1996年の総選挙において韓国の政治学者バク・チョルヒーの調査・取材に積極的に応じ、その調査結果は書籍として公刊されている(バク『代議士のつくられ方 小選挙区の選挙戦略』文藝春秋、2000年)。

本書にしてもバク氏の書籍にしても政治家の手の内を明かしている面がある。にもかかわらず、堂々と公刊する平沢議員の開放的な姿勢には注目する。ドブ板選挙には批判があるものの、政治家が有権者とまめに接しようとすること自体は望ましいことであり、むしろ責務ですらある。

問題なのは旧来のドブ板選挙が町内会や職能団体などの人脈つながりで行われており、選挙区外に通勤・通学する新住民が疎外される傾向にあったことである。この新住民は大体において無党派層に重なる。この新住民を取り込むことが政党や政治家にとって大きな課題となっている。

無党派層の重要性を再認識することになったのは、2007年の参院選における丸川候補の当選であった。著者は丸川候補の選対本部長を務めていた。自民党は参院選東京選挙区に、現職の保坂三蔵氏と新人の丸川氏の2名を公認候補として擁立した。保坂氏は組織票をまとめ、丸川氏は街頭演説中心に無党派層を狙う形で棲み分けを図った。

組織票を固めた保坂氏の当選は確実視されたが、保坂氏落選、丸川氏当選という関係者にとって予想外の結果であった。この結果からは従来型の組織票が磐石ではないことを示している。一方で丸川氏の当選も知名度のあるキャスター出身故という単純なものではない。

本書に「最後まで本人が諦めずに頑張って戦った結果」とあるとおり(91頁)、ひたむきに街頭演説を続けた努力が反映された。ここからは町内会や職能団体のような既存組織の人脈つながりではなく、もっとダイレクトに無党派層に向き合う新しいドブ板選挙が有効であり、必要であることを示唆している。これは来るべき衆議院選挙への教訓として考えるべきであろう。

平沢議員の政局観は、本書が2007年10月出版されたものにも関わらず、1年が経とうとする現時点でも色褪せない内容になっている。平沢議員の慧眼を評価すべきか、昨年から国政が停滞している状態を嘆くべきか、微妙なところである。

平沢議員は自民党への逆風をシビアに認識しつつも、早期解散の可能性を覚悟する。「政治家は厳しい選挙で鍛えられる」との英国のサッチャー元首相の言葉を引き合いに出し、国民の目線に立つ必要性を強調する(122頁)。これが自民党の総意になっていないところが残念なところであるが、厳しい状況から逃げずに正面から立ち向かおうとする姿勢は好感が持てる。

最後の政策については激しい意見対立のある問題であるにもかかわらず、率直な主張が述べられている。ドブ板選挙は政策本位の選挙の対極に位置付けられ、否定的に評価されがちであるが、平沢議員は政策も明確に述べている。等身大の政治家を理解することができる一冊である。

林田力「【書評】政治家の成長『危うしニッポン!ズバリもの申す』(平沢勝栄 著)」ツカサネット新聞2008年9月7日

本書(平沢勝栄『危うしニッポン!ズバリもの申す―番組じゃ言えない「アレ」や「コレ」』KKベストセラーズ、2001年)は自由民主党の代議士による政局や政策を論じたものである。外国の首脳が発言したとされる「日本は20年後に消滅する」への強い危機感が出発点となり、日本の方向転換を強く迫る内容になっている。

タイトルに「ズバリもの申す」とある通り、著者の自説を前面に押し出している。憲法改正や終戦記念日の首相の靖国参拝など賛否が分かれるデリケートな問題に対し、臆することなく持論を展開する。また、二度の選挙で激しく戦った創価学会・公明党(一度目の選挙では新進党)への嫌悪感も表明している。

この点は2007年に出版された同じ著者の『政治家は楽な商売じゃない』とは対照的である。こちらでも自説は明確に主張している。しかし、本書に見られるような主張の押し付けがましさは抑制されている。これは現実の政治状況を冷静に分析した上で自説を出しているためである。本書は全く同意見の人からは熱烈に支持されるが、拒否反応を示す人もいる筈である。それに対し、『政治家は楽な商売じゃない』は、より幅広く受け入れられるだろう。

ここには本書出版時からの政治家としての成長が見受けられる。本書出版時、平沢議員は2期目であり、政治家の世界では若手であった。この頃は、たとえ敵を作ることになったとしても、鋭い発言で注目されることが有益である。

一方、『政治家は楽な商売じゃない』出版時は4期目で、参議院選挙では丸川珠代候補の選対本部長を務めるなど他の候補者の面倒を見る立場になっている。この頃になると幅広い支持を集めることが重要になる。

また、両書籍の出版時の時代状況も反映している。本書出版時は小泉純一郎が首相になり、国民の高い支持を得ていた。自民党改革派として改革を強く主張することが国民から支持された。一方、『政治家は楽な商売じゃない』出版時は参議院選挙で連立与党が過半数割れし、かつてないほどの逆風が自民党に吹いている。謙虚に反省し、国民の声に耳を傾ける姿勢が求められる。

時代状況を理解することは民意に応える責務がある政治家にとって非常に重要な能力である。安倍晋三前首相や福田康夫首相は共に「空気が読めない」ために国民の支持を失い、政権を投げ出すことになった。この点、著者の時代を読む目は評価できる。

著者のバランス感覚は本書にも萌芽がある。著者は本書で外国人参政権に強固に反対する。「政治家生命を懸けて阻止する」とまで書いている(110頁)。

著者の論拠には同意できない点がある。例えば在米韓国人が米国政府に参政権を要求しないのに日本にだけ要求するのは不当と主張する(106頁)。これは理由として成り立たない。出生地主義の米国で生まれた韓国人は米国籍を付与される。従って外国人参政権付与を主張する必要性自体が存在しない。米国の基準ならば在日コリアンの大半は既に参政権が保障されることになる。

上記点についての著者の主張は同意できないが、一方で著者は現在の問題点についても認識している。即ち、「日本国籍の取得は手続きが煩わしい」と認めている。その上で帰化要件について「特別永住者は自動的に日本国籍が得られるくらいに緩和してもいいではないか」と主張する(110頁)。

参政権を行使する者に他国ではなく、日本国の一員としての自覚を有してもらうことは当然である。一方で日本国民になることが自らの民族的アイデンティティーを否定し、日本人に同化することを意味するならば在日外国人が拒否するのも当然である。

外国人参政権が大きな問題になっている背景として植民地支配に由来する特別永住者の存在があることは確かである。従って特別永住者が自動的に日本国籍を選択できるならば問題の解決になる。

この点からは他人の主張を、全てを聞かなければ評価できないことが分かる。外国人参政権に反対であるとしても、在日コリアンが日本社会から疎外されて当然と全ての論者が考えているとは限らない。著者の場合、帰化要件の緩和という代案を有した上での主張になっている。

ここにはテレビでの断片的な主張では理解できない深さが著書には詰まっている。ワイドショーという形で国民が政治家に興味を持つだけでなく、政治家が政策を論じ尽くした著書を出版し、それを国民が読んで評価する。それが真の国民主権の実現のために有益であると考える。

ここにも世代間格差『名ばかり管理職』

 本書(NHK「名ばかり管理職」取材班『名ばかり管理職』NHK出版、2008年)は社会問題になった「名ばかり管理職」を取り上げた力作である。名ばかり管理職は深い問題であるが、本記事では本書から感じた世代間格差について論じたい。

 本書では前半で名ばかり管理職を経験した3人の実例を取り上げる。いずれも取材に基づくものであり、生々しい内容になっている。

 第1章「若き「正社員」の悲劇」では過労で体を壊した2人の若者を取り上げる。
 1人目は20代のコンビニ店長である(24頁)。過労で体調を崩し、休職を余儀なくされた。就職氷河期の世代でフリーター生活を続け、やっと採用された正社員がコンビニの店長職であった。

 2人目は30代のファミレス店長である(44頁)。過労で倒れたまま、寝たきり状態が続き、両親が介護している。彼もアルバイト生活から、ようやく正社員になっている。

 第2章「マクドナルド店長は管理職か」では40代のマクドナルド店長・高野廣志氏を取り上げる(64頁)。高野店長は残業代未払い分の支払いを求めて会社を提訴した。第1章で取り上げた2人の若者と高野店長は対照的である。ここに世代間格差を感じてしまう。

 2人の若者は正社員になること自体が困難な状況で、なんとか正社員になることができた。ようやくなれた正社員の地位を失いたくないという思いから必死で働き、そのために健康を害する結果となった。これに対し、高野氏は本書を読む限り、就職に苦労したとの記述はない。

 高野氏が入社したマクドナルドでは決算期に従業員の妻に現金がプレゼントされる「奥様ボーナス」や妻の誕生日に花を贈るなどの家族を大切にする姿勢を見せていた(66頁)。また、店長には地元企業と独自にタイアップするなどの独自の工夫を発揮できた(68頁)。しかし、その後、会社の方針が転換された。家族向けのサービスは廃止され、店長の独自の工夫も否定された。この頃から高野氏は過酷な長時間労働に陥ることになる(69頁)。

 高野氏が残業の支払いを求めて提訴に至った背景には、会社が従業員を切り捨てる間違った方向に進んでいるという思いもあったのではないかと考える。人間は改善よりも、改悪への抵抗に力を発揮する生き物である。自由・平等・博愛の理念を打ち立てたフランス革命でさえ最初から変革を志向していたのではなく、発端は増税に対する抵抗であった。

 これに対し、2人の若者は働き甲斐のある職場環境を経験していない。2人の若者はアルバイト経験から、いきなり名ばかり管理職になった。そのため、高野氏と異なり、名ばかり管理職の異常さを経験から認識することはできない。これが、体を壊すまで働いた2人の若者と、裁判闘争を進めた高野氏の差になっていると思われる。

 日本の職場環境は、ある面では昔よりも過酷で異常な状況になってしまった。それにもかかわらず、異常さに目をつぶり、何も知らない若者を放り込むような状況は世代間の不正義である。それ故に高野氏の裁判闘争の意義は大きい。

 高野氏は闘いを続ける理由として「ゆがんだままの働き方を子どもたちの世代に受け継がせないため」とも述べている(88頁)。現代日本は改悪された異常な状態だらけである。少しでもマシな社会を後の世代に引き継ぐために、高野氏に続く、今の世代の奮起を期待したい。

【書評】警察の内幕を面白く『続・警察裏物語』

 本書(北芝健『続・警察裏物語-27万人の巨大組織、警察のお仕事と素顔の警察官たち』バジリコ、2008年)は元警視庁刑事による警察の内幕を扱った作品である。出版社のバジリコでは「裏物語シリーズ」と題して『自衛隊裏物語』『ナース裏物語』と特殊な職業の裏事情を明らかにする書籍を刊行している。

 著者は会社員から警察官になり、退職後はコメンテーターやマンガ原作者としても活躍する異色の経歴の持ち主である。本書によれば、警察官時代も交番勤務から刑事警察、公安警察と警察のあらゆる分野に携わり、そこ頃から副業としてマンガ原作者になっていたという。

 本書はベストセラーになった『警察裏物語』の続編である。本書は続編であるが、前著の続き物にはなっておらず、前著を読んでいない方でも十分理解できる内容になっている。著者の警察官としての多彩なキャリアを活かし、様々な警察の側面を雑学的に詰め込んでいる。ヤクザや米国警察のエピソードが多いのが本書の特徴である。マンガ原作者をしているだけあって、読みやすく面白く書かれている。

 タイトルに「裏」とあるが、本書は裏金や不祥事などの内部告発物ではない。警察を糾弾するのではなく、警察の内部事情を伝えることで、警察への理解を深めてもらうことを目指している。むしろ読者が警察に好意的感情を抱いてもらうことを期待している(239頁)。

 とはいえ、著書のスタンスは警察OBとして警察を無批判に擁護することではない。本書は、ありもしないような警察官の美談を並べたものではない。等身大の内幕を明らかにすることで、読者の評価を委ねている。著者の姿勢は公正である。

 例えば本書には、米国のギャングを逮捕状なしで拘束し、ようやく逮捕状が出された2時間後に初めて「お前を逮捕する」と告げたエピソードが掲載されている(88頁)。本書では著者の武勇伝として語られているが、法的には大いに問題がある内容である。
日本警察の遵法意識の後進性を示すものと批判することも可能である。このように本書には警察に対する見方によっては賛否が分かれる内容であるが、一般に知られていない内幕を公刊しただけでも貴重である。

 本書を読むと、著者が他人をリスペクトできる人間であることが分かる。本書に著者自身の武勇伝が列挙されているのは、この種の書物の性格上、予想できることである。しかし、感心できるのは、それと同じくらい、優れた他者を評価していることである。
官僚機構は露骨な競争社会でもあるが、本書では同僚警察官の才能を高く評価している。また、警察と自衛隊や他の機関の間には縄張り意識があるものだが、著書は他の機関の能力を認め、連携の必要性を主張している。

 さらに著者はヤクザに対しても人間としては尊重し、認めるところは認めている。公務員の中には自分が国民に対して人格的にも上であるかのような勘違いをした人間もいるが、そのような歪んだ公務員意識は著者には見られない。他人を素直に評価できる著者の性格が著者の幅広い活躍の原動力になっていると思われる。

 本書でも語られている著者の華々しいキャリアに対しては、一部週刊誌から経歴詐称とバッシングされた。この点について著者は巻末で「捏造週刊誌との対決、最終報告」で触れている。

 著者は言われなきバッシングを受け、名誉回復のため、出版社を提訴したという。「弁護費用がかさむという経済的合理性だけで、出版社は捏造記事を書いても泣き寝入りするだろうと踏んでいたのであろうが、そうは問屋がおろさない」と書く(240頁)。

 これは私にも思い当たることがある。私は東急不動産(販売代理:東急リバブル)から新築分譲マンションを購入したが、不利益事実(隣地建て替えなど)を隠して騙し売りしたものであった。引渡し後に真相を知った私は東急不動産に抗議した。

 しかし、東急不動産住宅事業本部の課長(当時)は「裁判所でもどこでも好きなところに行って下さい」と言い放ち、協議を打ち切った。「一消費者が裁判をすることはないだろう」という発想からの強気の態度であった。しかし私は泣き寝入りせずに売買代金返還を求める裁判を起こし、東京地裁平成18年8月30日判決で勝訴した。

 この経験があるために著者の憤りには大いに理解できる。刑事や公安での経験が盛り込まれた本書が出版されることは著者にとって、バッシングに屈服しないことを示す記念碑的な作品となる。著者は「私の生き方はこれからも「ケンカ上等!」です」と語る。著者の今後の活躍にも期待したい。

『定年後もタイガー・ウッズのように飛ばす!』の感想

 本書はアマチュアのゴルファーによるゴルフのレッスン書である。著者は40年以上もの長きにわたってゴルフを続けてきた人物である。長年の取り組みから抽出したゴルフのエッセンスを明らかにしたのが本書である。

 本書の大部分は効果的なボールの打ち方の説明に費やされている。とても具体的で実践的な内容になっている。飛距離を伸ばし、スコアを縮めるための方法をシンプルにまとめている。

 プロでもシングルプレーヤーでもない著者だからこそ、失敗を繰り返し、試行錯誤を重ねることで効果的な理論を会得できた。体力に恵まれ、優れたコーチに正しいフォームを叩き込まれるプロは往々にしてスキルを無意識的に身につけてしまう。そのようなスキルを人に伝えることは難しい。優れた選手が優れた指導者であるとは限らないと言われる所以である。その意味でアマチュアならではの着眼点で書かれた本書の意義は大きい。

 日本ではゴルフは中高年も取り組むスポーツとして普及している。しかしゴルフ人口の中に本当に好きでゴルフをしている人が、どれくらい存在するのか疑問である。付き合いや接待でしている人も多いのではないか。組織の中で他人がしているからするという特殊日本的集団主義に汚染されているだけではないかとも思われる。

 しかし、本書を読むと、ゴルフが立派なスポーツであることを改めて実感させられる。第2章第7節では「効果的な練習法」と題して練習時の注意事項をまとめている。ここでは練習前に体を温めることやゴルフシューズを履いて練習することという基本的な指摘も記述している。本書は読んで効果を出せることを意図しているが、決して安易な方法を提供するものではない。スポーツとしての基本を押さえる必要がある。

 さらに練習後には整理体操を推奨した上で、著者が帰宅後に行っている真向法を紹介する。真向法はゴルフとは関係なく、血液の循環を良くするための健康体操である。ゴルフの上達は健康づくり、体づくりとも密接に関係する。

 ゴルフ以外にも通用する著者の思想は最終節の「心を鍛えると確実にスコアが伸びる」において深まっている。ここで著者は名選手の体験を引用して、想像力の重要性を説く。ボールの軌跡や着地の仕方をイメージした上でスイングする。これはゴルフ以外の活動にも応用できるものである。

 著者の発想は弓道の世界にまで広がる。オイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』から、無心の境地を描いた「暗中の的」のエピソードを引用する。その上で「静止しているボールに息を吹き込み、自分のイメージを託するという芸術に似た一面を持ったこのスポーツの極致に、このような世界があることを信じて明日も精進をしていただきたい」と結ぶ(204ページ)。

 弓道のみならず、柔道、華道、茶道など、日本の伝統的な技能には「道」が付くものが多い。それらが単にテクニックを習得するものではないためである。修錬によって精神を鍛え、人格を磨き、人間形成の「道」を修めるものだからである。その意味で著者にとってゴルフは「道」である。本書はゴルファーはもちろん、ゴルフを知らない人でも学べるところがある一冊である。

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