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林田力『東急不動産だまし売り裁判』新聞書評

 

『名ばかり管理職』を読んで... 2

ここにも世代間格差『名ばかり管理職』... 3

ビジネス... 5

【書評】爆発的な流行のメカニズム『急に売れ始めるにはワケがある』... 5

『新規事業がうまくいかない理由』の感想... 6

【書評】『会社を筋肉質に変える!ローコスト・オペレーション』の感想... 8

【書評】『モンスタークレーマー対策の実務と法』の感想... 9

マネー書評... 10

『新版バフェットの投資原則』ジャネット・ロウ著... 10

『月光!マネー学』田村正之著... 12

二階堂重人... 13

『二階堂重人の初めての株デイトレード』初心者向けデイトレ指南... 13

『株 デイトレード常勝のルール』二階堂重人著... 14

書評... 15

『定年後もタイガー・ウッズのように飛ばす!』を読んで... 15

『全日本ロボット相撲オフィシャルブック』を読んで... 16

『ぼくらが子役だったとき』を読んで... 17

『韓国現代史60年』の感想... 19

【書評】泣く男は平和の象徴『女の前で号泣する男たち』... 21

『災害と共に生きる文化と教育−大震災からの伝言(メッセージ)』の感想... 22

『ローマ美術研究序説』の感想... 24

『科捜研 うそ発見の現場』の感想... 25

『打ったらハマるパチンコの罠PART2』の感想... 27

小説... 28

『ハリー・ポッターと謎のプリンス』... 28

【読書の秋】軽妙なコミカル・ミステリー『顧客名簿』... 29

【読書の秋】悲しくも優しい純愛『ハピネス』... 29

日本史... 30

【書評】『直江兼続』軍記物風歴史小説... 30

『利休にたずねよ』の感想... 31

『“戦国BASARA”武将巡礼 真田幸村』の感想... 32

『権力に抗った薩摩人』の感想... 33

【書評】『天駆ける皇子』の感想... 33

 

 

『名ばかり管理職』を読んで

本書はNHKスペシャルとして放送された同名番組を書籍化したものである。管理職が労働法規の規制対象にならない労働力として、残業代も支払われずに限界まで働かされる過酷な実態を明らかにしている。特に過労で全身麻痺になり、今も寝たきりで両親の介護を受ける元ファミレス店長の話には激しい怒りを覚えた。

「名ばかり管理職」の問題は、企業による労働基準法の悪用にある。労働基準法は労働者保護のために労働時間などを規制する。しかし、「監督若しくは管理の地位にある者」(管理監督者)については上記規制の対象外とする(労働基準法第41条)。この規定を企業が悪用し、名目上は管理監督者とした労働者(名ばかり管理職)に残業代を払わずに長時間労働をさせる。これは紛れもなく労働基準法違反である。

どのような労働者が管理監督者に該当するかについては、裁判例や通達で明確化されている。管理監督者は以下の3要件を満たす必要がある(18頁)。

1.経営者と一体的な立場にある。

2.出勤や退勤時間を自分で決められる。

3.一般従業員よりも報酬が優遇されている。

管理監督者であるか否かは、あくまで上記の基準に沿って判断される。部課長のような役職者であっても、それだけで管理監督者になる訳ではない。裁量も権限もない「名ばかり管理職」は言うまでもなく、裁量も権限もある名実共に管理職であったとしても、管理監督者に該当しない方が多い。

結論として現実の企業において管理監督者に該当する労働者は、ほとんど存在しないことになる。管理監督者は労働時間規制の適用除外となる例外的存在であるから、管理監督者に該当する労働者が希少という結論は労働法の趣旨に適ったものである。

従って「部課長だから管理監督者であり、残業代を支払わなくていい」という発想が根本的に誤っている。管理監督者の3要件は昨日今日で公表されたものではない。「名ばかり管理職」が社会問題になる前から明確化されていたものである。本書でも紹介されたマクドナルド店長の残業代支払い裁判は大きな衝撃を与えた。しかし、これが驚きをもって迎えられること自体が、労働基準法に対する無理解を示している。

労働基準法違反が社会問題になるまで放置されていたところに、日本社会の遵法意識の低さを雄弁に物語る。管理監督者を労働時間規制の適用除外とした労働基準法に則っているような外形を見せかけつつ、実態は法の趣旨に反している。何のために法律を守るのかという肝心なところが抜けている。

労働基準法が労働時間を規制したのは、労働者の健康を守るためである。ところが企業は労働者を管理監督者とすることで、労働基準法の規制を無視して、健康を害するまで労働者を酷使し、使い捨てにする。これは正に労働基準法が避けようとしていた事態である。それにもかかわらず、管理職は労働時間規制の対象外だから問題ないと主張する企業のコンプライアンス意識が問題である。

店長や課長は当該企業の人事制度に基づく役職である。企業が店長を高度なマネジメント能力を必要とする管理職と位置付けることは勝手である。しかし、それは企業内の問題であり、労働基準法の管理監督者の解釈とは別問題である。企業内でしか通用しない論理を社会に押し付けようとするのは傲慢である。

社会の常識を知らず、自社の物差しでしか考えない会社人間の傲慢さは私も経験がある。私は東急不動産(販売代理:東急リバブル)から新築マンションを購入したが、不利益事実(隣地建て替えなど)を隠して販売されたものであった(参照「「マンション販売トラブルで「お詫び」 東急リバブル・東急不動産」」)。

http://www.news.janjan.jp/living/0710/0710023335/1.php

引渡し後に真相を知り抗議したが、東急不動産住宅事業本部の課長(当時)は「隣地建て替えは不確定と自社で判断したため、告知しなかった」と言い放った。ここで興味深いのは東急側の騙し売りを正当化する論理である。

消費者がどのように感じようと、自社が不確定と判断すれば消費者に不利益を与える事実であっても説明しなくていいと正当化する。ここにあるのは自社の身勝手なルールのみで、社会のルールや消費者との信義を守ろうとする思想は皆無である。

名ばかり管理職も同根の問題である。自社で勝手に決めたルールを押し付けようとする。消費者も労働者も企業から見れば相対的な弱者である。契約や法に対する意識の低い日本社会では契約や法を無視した強者の勝手な理屈が通りやすい。名ばかり管理職が社会問題になるまで放置されたのは、このためである。

本書の後半では名ばかり管理職への規制強化に対する企業側の戸惑いが取り上げられている。企業側の立場を紹介することで本書はバランスがとれたものになっている。しかし、そこで紹介された企業側の主張には共感も同情も覚えられない。企業側の言い訳を文字通りのものとして向けとめるならば労働法制への無知を告白するものに過ぎず、労働者を雇って事業を営む資格はない。

前述のとおり、企業の人事上の管理職と法律上の管理監督者は同義ではない。企業が管理職と位置付けた労働者が管理監督者であることを否定されたからといって戸惑うような問題ではない。管理監督者でなくても管理職と位置付けることは問題なく、単に労働基準法という使用者に課せられた最低基準を遵守すれば済む問題である。それに抵抗があるならば、どのような言い訳をしたところで、名ばかり管理職の狙いが人件費抑制に過ぎないことは明白である。

 

ここにも世代間格差『名ばかり管理職』

本書(NHK「名ばかり管理職」取材班『名ばかり管理職』NHK出版、2008年)は社会問題になった名ばかり管理職を取り上げた力作である。名ばかり管理職は深い問題であるが、本記事では本書から感じた世代間格差について論じたい。

本書では前半で名ばかり管理職を経験した3人の実例を取り上げる。いずれも取材に基づくものであり、生々しい内容になっている。

1章「若き「正社員」の悲劇」では過労で体を壊した二人の若者を取り上げる。

一人目は20代のコンビニ店長である(24頁)。過労で体調を崩し、休職を余儀なくされた。就職氷河期の世代でフリーター生活を続け、やっと採用された正社員がコンビニの店長職であった。

二人目は30代のファミレス店長である(44頁)。過労で倒れたまま、寝たきり状態が続き、両親が介護している。彼もアルバイト生活から、ようやく正社員になっている。

2章「マクドナルド店長は管理職か」では40代のマクドナルド店長・高野廣志氏を取り上げる(64頁)。高野店長は残業代未払い分の支払いを求めて会社を提訴した。

1章で取り上げた二人の若者と高野店長は対照的である。ここに世代間格差を感じてしまう。

二人の若者は正社員になること自体が困難な状況で、なんとか正社員になることができた。ようやくなれた正社員の地位を失いたくないという思いから必死で働き、そのために健康を害する結果となった。これに対し、高野氏は本書を読む限り、就職に苦労としたとの記述はない。

高野氏が入社したマクドナルドでは決算期に従業員の妻に現金がプレゼントされる「奥様ボーナス」や妻の誕生日に花を贈るなどの家族を大切にする姿勢を見せていた(66頁)。また、店長には地元企業と独自にタイアップするなどの独自の工夫を発揮できた(68頁)。しかし、その後、会社の方針が転換された。家族向けのサービスは廃止され、店長の独自の工夫も否定された。この頃から高野氏は過酷な長時間労働に陥ることになる(69頁)。

高野氏が残業の支払いを求めて提訴に至った背景には、会社が従業員を切り捨てる間違った方向に進んでいるという思いもあったのではないかと考える。人間は改善よりも、改悪への抵抗に力を発揮する生き物である。自由・平等・博愛の理念を打ち立てたフランス革命でさえ最初から変革を志向していたのではなく、発端は増税に対する抵抗であった。

これに対し、二人の若者は働き甲斐のある職場環境を経験していない。二人の若者はアルバイト経験から、いきなり名ばかり管理職になった。そのため、高野氏と異なり、名ばかり管理職の異常さを経験から認識することはできない。これが、体を壊すまで働いた二人の若者と、裁判闘争を進めた高野氏の差になっていると思われる。

日本の職場環境は、ある面では昔よりも過酷で異常な状況になってしまった。それにもかかわらず、異常さに目をつぶり、何も知らない若者を放り込むような状況は世代間の不正義である。それ故に高野氏の裁判闘争の意義は大きい。

高野氏は闘いを続ける理由として「ゆがんだままの働き方を子どもたちの世代に受け継がせないため」とも述べている(88頁)。現代日本には改悪された異常な状態だらけである。少しでもマシな社会を後の世代に引き継ぐために、高野氏に続く、今の世代の奮起を期待したい。

 

ビジネス

【書評】爆発的な流行のメカニズム『急に売れ始めるにはワケがある』

本書(マルコム・グラッドウェル著、高橋啓訳『急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則』ソフトバンク クリエイティブ、2007年)は、流行が爆発的に広がっていくメカニズムを論じた書籍である。

本書は2000年に出版された『The Tipping Point: How Little Things Can Make a Big Difference』の邦訳である。飛鳥新社から同じく2000年に『ティッピング・ポイント―いかにして「小さな変化」が「大きな変化」を生み出すか』のタイトルで出版された。それが上述のタイトルに改題し、文庫化して再出版された。

文庫版はビジネス書的なタイトルになっているが、本書は人間社会のあらゆる分野に適用される普遍的な内容を扱っている。実際、本書が取り上げる爆発的な流行はヒット商品に限らない。ニューヨーク市の犯罪率の低下やボルティモア市の梅毒感染、アメリカ独立革命、十代の禁煙、乳がん予防など実に幅広い。これは著者が経済学者やコンサルタントではなく、ジャーナリスト出身であることが影響しているように感じられる。

本書の主題は原題のタイトルにもなっている「ティッピング・ポイント」である。これは臨界点や閾値などを意味し、本書では「すべてが一気に変化する劇的な瞬間」と位置付けている。流行は伝染病のように爆発的に広がるという認識があり、感染を広げていくための「世界を傾ける(ティップ)点」がティッピング・ポイントになる。

そしてティッピング・ポイントに至るメカニズムを明らかにすることが本書の目的である。それは物量に依存した大規模な活動ではなく、むしろ慎ましい活動による小さな変化であることが明らかになる。

本書で取り上げられた「伝染」に比べればささやかであるとしても、私にも思い当たる経験がある。私は購入したマンションのトラブルで、売主の東急不動産と裁判をした。マンション販売時に東急不動産(販売代理:東急リバブル)が不利益事実(隣地建て替え)を説明しなかったことが引渡し後に判明したためである。

この訴訟が契機となって、インターネット掲示板上では「自分もこのような目に遭った」と東急リバブル・東急不動産への批判が続出した。これはビジネス誌にも取り上げられ、炎上と報道された(「ウェブ炎上、<発言>する消費者の脅威−「モノ言う消費者」におびえる企業」週刊ダイヤモンド20071117日号39頁)。

本書の理論に従うならば裁判を起こした私は口コミ伝染を司る「通人(メイブン)」に相当する。通人は商品などが爆発的にヒットする口コミ伝染を司る少数者の一類型である。商品やサービスを注意深く観察し、適正でないと判断すれば、それなりの行動を起こす人々である。悪質な企業には関係各所に苦情を申し立て、友人や知人に「買うな」と言い触らす人々である。

本書では「こういう人が市場を公正にしている」と肯定的に評価する(87頁)。週刊ダイヤモンドの記事中で東急リバブル関係者は「今は営業マンの教育や契約書の念入りなチェックなど顧客重視の姿勢をさらに徹底している」と答えている。これが事実であるか否かは確認できていないが、このような回答が少なくとも表向きはなされることは、通人の活躍に文字通り市場を公正にする効果があることを意味する。

本書は2000年に書かれたものであるが、内容は少しも色褪せていない。これは賞味期限の短い分野であるビジネス書的なタイトルに改題されて文庫化されたことが示している。むしろWeb 2.0CGMによってインターネット上の口コミが威力を発揮する時代において、本書の理論は一層大きな意義を持つと思われる。

 

繰り返しが粘りになる

本書は伝染病のように流行が広まる現象を明らかにした書籍である。特に印象が残ったのは「粘り」についての説明である。感染を継続させるためには、メッセージに「粘り」が必要とする。情報を記憶に残すための工夫である。「粘り」をもたらすものとして、人気テレビ番組『セサミ・ストリート』や『ブルーズ・クルーズ』を例に繰り返しの効用を指摘する。

一見すると繰り返しは退屈である。同じ経験を何度も追体験させられるのはかなわないと考えがちである。しかし、体験する度に全く異なる受け止め方をすることもできる。これは私にも思い当たることがある。私は複数の市民メディアに東急リバブル・東急不動産とのマンショントラブルについての記事を書いた。

読者の中には「もう東急批判はいらない」と反発のコメントを寄せる人もいた。しかし、新たな記事で東急批判が繰り返されると、「それでこそ林田記事」と喝采される。たまに東急批判を言及しないと「林田記者の記事は東急不動産との紛争に関連づけなければ読者は納得しないよ」とコメントが寄せられる。本書の表現を借りるならば、東急批判は飽和点に達する。それからノスタルジアが始まるのである。

 

『新規事業がうまくいかない理由』の感想

本書は企業家であり、事業開発のコンサルタントである著者が、新規事業がうまくいかない理由を説明し、新規事業に成功するためのノウハウを明らかにした書籍である。本書は企業内起業、すなわち既存企業が新規事業を立ち上げる場合に対象を絞っている。

個人がベンチャーを立ち上げる場合に比べ、企業内起業は人、金、物のリソースを企業内から調達できるという恵まれた立場にある。それ故、一見すると個人のベンチャーに比べて成功は容易に思えるが、実際の成功確率は高くない。本書は、その理由を明らかにする。

個人のベンチャーと企業内起業の大きな相違はモチベーションやハングリー精神といったメンタル要素である。起業の成功にはメンタル要素が人、金、物といった物理的なリソースと同じくらい重要になる。そのメンタル要素が企業内起業の場合、個人のベンチャーと比べて劣っている。

そもそもチャレンジよりも安定や現状肯定を望むから企業に就職している。起業家マインドが強ければ就職せずに起業している筈である。企業内起業にアサインされた人員が新規事業に人生を懸ける「炎の集団」であることを期待するのは無理な相談である。この現実を理解しなければ新規事業は絶対に成功しないと著者は断言する(21ページ)。

著者の見解は卓見である。モチベーションなどのメンタル要素は躓きの石になる。メンタル要素は定量化できないため、正確な理解は難しい。そのために世の中の論説はメンタル要素を過小評価するか過大評価するかの何れかに偏りがちである。

一方ではメンタル要素に触れずに論を進める。具体的に計測できないものを分かったように論じることに比べれば謙虚な姿勢である。しかし、メンタル要素が大きな影響を及ぼすことはビジネスの実経験から容易に体感できることである。それ故、メンタル要素を完全に無視したならば議論としては物足りないものになる。

他方ではメンタル要素を過度に重要視する立場がある。これは「やる気があれば何でもできる」「上手くいかないのは、やる気が足りないからだ」という精神論に行き着いてしまう。太平洋戦争中の日本において竹槍でB29を撃墜しようとした愚行が典型的である。この種の精神論は現代の日本企業においても、体育会系という言葉があるように完全には払拭できていない。

本書は上記の両極端の立場の何れにも与しない。著者はメンタル要素の重要性を主張している。一方でメンタル要素を強調することで起業を成功させようとはしていない。反対に「ハングリー精神やモチベーションの乏しい人間がオペレーションを行うということを前提とした事業を選べばいい」と主張する(23ページ)。

著者は「メンタル要素が足りないから、もっと頑張らせる」というような非生産的な思考に陥っていない。メンタル要素の重要性を認めつつも、そのような実体のないものが都合よく利用できると考えるほど甘い妄想に囚われていない。論語・雍也篇の「敬鬼神而遠之(鬼神を敬して之を遠ざく)」に通じる健全さが感じられる。

この思想は具体策においても一貫している。例えば著者は企業内起業の担当者に退路を絶たせる人事施策に反対する。「失敗したら本社に戻れて、しかもそのことがマイナスの評価にならないモデルにすべき」と主張する(109ページ)。従業員を追い込むことで頑張らせようというような発想は有害無益である。

著者のユニークさは本書のタイトルにも表れている。タイトルの「新規事業がうまくいかない理由」はネガティブな表現である。失敗しようとして起業を検討している人はいない。新規事業を企画する部署の人が、部署の予算で本書を購入しようとしたら、「失敗したことを考えてどうする」と叱責されそうである。現に起業に問題を抱えている人も、うまくいっていない理由を考えるよりも、何とかして軌道に乗せたいと考える筈である。それ故に「新規事業を成功させる方法」とでもした方が多くの読者を狙えるのではないかと考えてしまう。

本書の副題は「「プロ」が教える成功法則」、帯には「失敗率90%の崖っぷちから御社を救う、最強の知恵」とあり、起業を成功させるためのノウハウがあることをアピールしている。本書の内容も新規事業の失敗と同じくらいの分量で、新規事業を成功させるための指針や成功した新規ビジネスの実例について記述する。

このため、本書の性格上、「新規事業を成功させる方法」というタイトルにしても不思議はない。しかし本書は、あえて「新規事業がうまくいかない理由」とネガティブな表現をとった。そこには意外性ある書名で惹き付ける効果を狙っただけでなく、新規事業がうまくいっていないという問題の直視すらできなければ改善もないという冷厳な事実を突きつけられているように感じられる。

問題点を内省せず、ひたすら成功するための方法を追求するだけの前に進むことしか考えないタイプでは、タイトルだけで本書を忌避してしまうだろう。その意味で本書は読者を選別する書籍とも言えそうである。本書が日本社会に受け入れられるか否かによって日本の企業内起業家の成熟度を測ることができるようにも思われる。

 

【書評】『会社を筋肉質に変える!ローコスト・オペレーション』の感想

本書は様々な企業の再建に取り組む著者による利益を確実に上げる方法(ローコスト・オペレーション)を紹介した書籍である。第1章で企業力を強化する6つのポイントを明らかにし、それら6つのポイントの実践方法を第2章で述べる。第3章では著者が影響を受けた永守重信とウィルバー・ロス氏と一緒に働いた時の経験を振り返り、第4章・第5章では著者が手掛ける企業再生の実例を紹介する。最後の第6章ではローコスト・オペレーションの具体策(人件費・物件費削減)を説明する。

ローコスト・オペレーションではコスト削減を重視する。企業が収益を上げる方法は売上げを伸ばすか支出を削るかである。売上げには粗利率があり、全てが収益になる訳ではない。その上、景気や競合企業の動向の影響を受ける。これに対し、経費は削減した分がそのまま収益に反映され、自らの努力を確実に業績に結び付けられる。さらに経営者が会社の経費を自分の家計費と同じように緊張感を持って節約することで周囲の信頼を得ることもできる(36ページ)。

このようにローコスト・オペレーションは企業経営に有効であるが、コスト削減は従業員のモチベーション低下などのデメリットをもたらす危険がある。本書は、この点も踏まえて企業力強化になるローコスト・オペレーションを提言する。たとえばコスト削減の成果はボーナスとして還元することなどを挙げている(59ページ)。

著者の特徴は管理部門の重視にある。企業にとって売上げをもたらす営業部門の発言力が強くなることは宿命的なものである。しかし、営業のワガママを通し過ぎると与信管理が甘くなり、売上げが伸びているのにキャッシュフローが合わないという状況に陥りかねない。このために営業部門と管理部門のバランスが重要になる。特に著者が手掛けるような再生中の企業では適切な統制がなされなかったために再生を余儀なくされた例が多いと推測される。従って管理部門重視は妥当である。

一方で現場の営業からすれば現場を知らない人間が上から目線で制約をつけることはモチベーション低下要因になる。この点、著者は経費利用部門の従業員と管理部門の従業員にペアを組ませて、お互いに努力しながら一緒に成果を上げさせる方法を採用した。それによって管理部門の従業員にも収益を上げる最前線にいるという意識が芽生えることになる(59ページ)。

本書は経営者の視点で書かれており、人件費抑制など労働者の立場からは厳しい面がある。それでも著者が従業員とのコミュニケーションを重視し、リベラルな企業カルチャーを志向している点は注目できる。ここにはファンドから送り込まれたリストラ経営者とは異なる要素がある。

それは著者がトップツアーの取締役会長であることが象徴する。トップツアー(旧東急観光)は投資ファンドに翻弄された企業である。同社は2004年に親会社が東急電鉄から投資会社アクティブ・インベストメント・パートナーズに変わって以来、労働協約や労使慣行が無視され、労使紛争が起きた(「ファンドに説明責任問う 東急観光労使紛争の波紋」週刊ダイヤモンド2005年4月23日号)。国会でも収益優先主義に走った典型的なハゲタカ経営の問題として取り上げられた。

その後、トップツアーは2007年にポラリス・プリンシパル・ファイナンスに買収され、著者が役員となった。コミュニケーションを重視して企業の活性化を目指す著者の手法は、現場の従業員がどのように感じているかは分からないが、投資先の企業を食い物にするハゲタカよりは洗練されている。サブプライム・ショックにより強欲資本主義が見直されているタイミングで刊行された本書には、投資ファンドの新たな潮流が感じられた。

 

【書評】『モンスタークレーマー対策の実務と法』の感想

本書(升田純、関根眞一『モンスタークレーマー対策の実務と法 第2版』民事法研究会、2009年10月16日発行)は弁護士(升田氏)と苦情・クレーム対応アドバイザー(関根氏)がクレームの背景を分析し、解決の方向を紹介したものである。第2版では業種別クレーム事例を倍増して、より実践的な内容にした。

副題に「法律と接客のプロによる徹底対談」とあるとおり、異なる分野の専門家2人の対談形式で進行する。版元は法律書専門の出版社であるが、本書の内容は法律論よりも苦情処理が中心である。これは升田氏が聞き手で関根氏が語り手という形で進行する流れになっているためである。法律論では合法か違法かで一刀両断することになるが、苦情対応の現場では違法性がないから突っぱねるというものでもない。その意味で法律論を抑えたことは、この分野の書籍として成功である。

かねてより私はクレーマーという言葉の使われ方に疑問を抱いている。クレームは「要求する、主張する」という意味である。権利の上に眠るものは保護されない社会において、権利を主張することは正しいことである。商業メディアがクレーマーにネガティブなイメージを植えつけただけであって、消費者はクレーマーと呼ばれることを誇りにするくらいでいいと考えている。

残念ながら本書でもクレーマーはネガティブなイメージで使われている。しかし、関根氏は「最初から悪意を持ってクレームをつける人は、普通はいません。ところが、クレームの前に、問い合わせをしたときに受け付けてもらえず対応がいい加減だったというようなことがあると、自分の主張を通すために勉強をしてくる」と述べる(17ページ)。

クレームには基本的に誠意をもって謝れば解決できるというスタンスで、クレームを受ける側が顧客の不満を言葉の中から探し出し、相手の立場に立つことが解決の近道と主張する。本書のタイトルにはモンスタークレーマーとあるものの、本書は常識の欠けた理不尽な要求をする人に特化したものではなく、通常の苦情対応の対策書である。

通常の苦情でも対応を誤ればモンスタークレーマーとなってしまう。むしろ、消費者をモンスタークレーマーとラベリングすることで、企業側は自己満足する。その背景を関根氏は以下のように分析する。

「仮に100%こちらに落ち度があったとしても、売り手側、商業側、企業側としては、そうは言いましてもという気持ちがあり、何も抵抗する必要がないのに必要以上に時間をかけてしまう。やがてそれで収まりがつかないと、正しいクレームを言った人に対して、変人扱いをする」(50ページ)。

関根氏がクレームに正面から向き合うことを力説する背景は相手を顧客と位置付けるためである。クレーム対応がまずければ顧客を失うことになるという緊張感を持っている。この発想は人口が減少しリピーターの価値が高まる日本社会では一層重要になるだろう。

また、私は新築マンションの購入トラブル経験があるが、その際の売主側の対応が酷かった理由も理解できた(「マンション販売トラブルで「お詫び」 東急リバブル・東急不動産」)。不動産購入は一般人にとって一生に一度あるかないかの買い物であるため、良心のない不動産業者にとっては一度売った客の相手をしない方が合理的になる。業者の思考回路を理解できるという点で消費者にとっても有益な一冊である。

 

関連記事:マンション販売トラブルで「お詫び」 東急リバブル・東急不動産

http://www.news.janjan.jp/living/0710/0710023335/1.php

 

マネー書評

『新版バフェットの投資原則』ジャネット・ロウ著

読者レビュー◇長期志向で高潔な投資家

本書は著名な投資家であるウォーレン・バフェットの発言を集めたものである。バフェットは辛抱強く待つ長期投資によって世界有数の富豪になった人物である。「株式投資は永久保有を前提に考えたいと思います」とまで発言している(110頁)。

株で財を成した人物というと日本で資金を右から左に動かして利益を上げるというイメージがある。しかし、バフェットの成功要因は無名の段階で将来飛躍的に成長する企業を見出し、株価が安い頃に買った株式を保有し続けたことである。バフェットにとって株式投資は単なるマネーゲームではない。企業を所有し、企業の好業績によって利益を得ることである。この点でバフェットは古典的な資本主義の原則論に忠実である。

資本主義の原則論に忠実であるために、経営者に対しても基本を求めている。「最高のCEOと言われる人たちは会社の経営が大好きで財界人円卓会議の会合に出たり、オーガスタ・ナショナルでゴルフをすることなど好まないものです」と述べている(106頁)。

この言葉から記者は東京急行電鉄の社長・会長を務めた五島昇を反面教師として想起した。五島昇は東急グループの創業者である五島慶太の長男で、1954年に東京急行電鉄社長に就任したが、社長就任後も1年のうち160日はゴルフ場通いであった。部下が禀議書に印をもらうためコースを走り回ることもあったという(「「ドンになり切れないプリンス」ケンカ嫌いがケンカの連続 財界世代交代劇の主役に」日経ビジネス1987511日号)。経営者は経営に専心すべきと投資家が主張するアメリカと、ゴルフ場通いにうつつを抜かす経営者が武勇伝的に語られる日本では落差が大きい。

長期的な視点で投資するバフェットには自分(自社)だけが儲かればいいという発想はない。ソロモン・ブラザーズの暫定会長として、バフェットは以下の高潔な言葉を残している。

「従業員の皆さんには、ルール以上に厳しい規律を自らに課すようにお願いしました。仕事に携わっている間は、自分が今やろうとしている行動が新聞記者の目に止まってもよいか、自分の妻や子供、友人が読む新聞の一面を飾っても恥ずかしくないか、よく考えて行動してほしいとお願いしたのです。たとえ法的には問題がなくとも、普通の市民の立場から見ておかしいと思われる行動は一切とらない。ソロモンは今後、そう考えて事業に取り組みたいと考えております」(152頁)。

記者は東急不動産(販売代理:東急リバブル)から不利益事実(隣地建て替え)を説明されずにマンションをだまし売りされた経験がある(参照「東急不動産の遅過ぎたお詫び」)。

裁判で売買代金を取り戻すことになるが、記者を憤らせたものはバフェットとは正反対の東急不動産の体質であった。「隣地が建て替えられて綺麗になった方が購入者には喜ばれる」など自分の家族や友人に対しては説明できないような主張を繰り返した。この経験があるために上記のバフェットの言葉は非常に感銘を受ける。売ったら売りっぱなしという短期的視野しかない分譲業者と、辛抱強く長期投資を行う投資家の見識の差が現れている。

有望な企業を見極めるバフェットの優れた選択眼は人物に対しても発揮される。バフェットはアメリカ初の黒人大統領となったバラク・オバマを2003年の時点で「彼は、生きている間にアメリカの進路に重要な影響を及ぼす可能性があります」と評している(203頁)。

サブプライム問題以来、アメリカ型の金融資本主義を全否定する風潮が強いが、バフェットのような人物も存在するところにアメリカの奥深さが感じられる。アメリカは実に広大で多様である。まだまだ日本はアメリカから多くを学ばなければならないと実感した一冊である。

 

ジャネット・ロウ著、平野誠一訳

『新版バフェットの投資原則』

ダイヤモンド社

2008821日発行

 

『月光!マネー学』田村正之著

読者レビュー◇消費者のための資産運用

本書は「心静かにお金を増やすための91のルール」とサブタイトルにあるとおり、資産形成のための実用書である。しかし、一般の財テク指南書とは大きく趣が異なる。本書はマネーゲームによる爆発的な資産増加を志向してはいない。ギラギラすることなく、月の光のように静かにゆっくりと資産を増やしていくことを目指している。

本書の特徴は徹頭徹尾、消費者の視点で書かれていることである。例えば投資信託など大手金融機関が積極的に奨める金融商品については手数料の高さを問題視する。「トホホな商品にさよならを」という章を特別に設けて、消費者ではなく販売する金融機関にメリットがあるとしか考えられない金融商品の仕組みを明らかにする。

さらに「ある投信裁判」と題するコラムでは、大手証券会社による投信の悪質な販売によって約6000万円の損害が発生したと個人投資家が提訴した裁判を取り上げている。脳梗塞の障害が残るA氏は証券会社の勧めに従って投資信託を大量に売買した。その結果、A氏には6000万円の損失が発生した一方で、証券会社は1315万円の販売手数料を得たという。

A氏に投資信託を勧めた女性営業職員の証人尋問を傍聴した著者は以下の感想を記している。「休憩時間になると、女性は仲間たちと普通に笑顔を浮かべて談笑していました。その普通の様子がどこか不思議に感じられました」(174ページ)。

記者(=林田)は東急不動産(販売代理:東急リバブル)から不利益事実を隠して新築マンションをだまし売りされたため、裁判で売買代金を取り戻した経験がある(参照「東急不動産の遅過ぎたお詫び」)。

裁判では東急不動産の従業員の証人尋問も行われたが、著者が書いているのと同じく、だまし売りによって他人の人生をメチャクチャにしたという自覚すらない不真面目な態度であった。それ故に著者の違和感は共感できるし、資産運用を勧める書籍で言及したことを高く評価する。

また、本書では税金の控除や病院から差額ベッド代を請求されても支払い義務が生じない条件など、不要な出費を抑制するための情報を掲載している。資産運用といえば稼ぐことを想起しがちであるが、ガツガツしても日本経済の景気回復とか株価回復という詰まらない目的に乗せられてしまうだけである。1円の節約は1円の稼ぎに等しい。月光のような落ち着いた資産運用が消費者には必要である。

一般の財テク指南書は「公的年金は期待できない」と危機感を煽ることで資産運用を奨める傾向にあるが、本書では「なんとかして少しでも多くもらえるようにならないか」との視点で書かれている(238ページ)。ユニークなのは厚生年金についての記述である。

厚生年金保険料は4月から6月までの給与などを平均した額に基づき算出される。そのため、たまたま4月から6月に残業が多かった場合は保険料が高くなる。この事実自体は社会保険制度に関心のある層ならば周知の内容であるが、「4月から6月にだけ残業すると保険料が高くなるので損」という形で説明されることが多い。

これに対して本書は正反対の結論を出す。「保険料は会社と本人の折半ですから、会社には高い保険料を払うことにメリットはないのですが、本人にとっては会社が負担してくれる分が増すので、最終的にはその分お得です」(251ページ)。目からウロコが落ちる主張であった。新鮮な驚きと深い納得が得られる一冊である。

 

田村正之

『月光!マネー学』

日本経済新聞出版社

2008520日発行

263ページ

 

二階堂重人

『二階堂重人の初めての株デイトレード』初心者向けデイトレ指南

本書はデイトレード初心者に向けてデイトレードについて解説した書籍である。著者はデイトレードで生計を立てている人物で、株式投資の書籍を既に何冊も出している。

本書の特徴としては2点挙げられる。第1にデイトレードに特化していることである。本書は「デイトレードと一般的な株式投資との違い」から出発している。デイトレードは「買った株をその日のうちに売る」トレードである。そのため、企業の業績や成長性などは判断要素にならない。つまり、一般的な株式投資とは別な視点で銘柄を選択する必要があり、そこを混同すると最初から失敗してしまう(12頁)。

この点において、本書のスタンスは同じ著者の『【最新版】サラリーマンが株で稼ぐ一番いい方法』(三笠書房、2007年)とは異なる。こちらは日中、会社勤めをしている従業員向けであるためにデイトレードは対象外で、数日のスパンで売買するスイングトレードを解説する。

2に初心者向けであることである。板(注文数が表示されるボード)やローソク足チャートを丁寧に説明するなど文字通り初心者に向けて執筆されている。さらにオンライン証券(松井証券とSBI証券)の操作手順まで掲載している。

この点において同じ著者が同じ年に出版した『株 デイトレード常勝のルール』(すばる舎、2008年)とは異なる。こちらは、ある程度の知識がある人向けにデイトレードのルールを数多く紹介している。

著者の書籍は、タイトルや冒頭で当該書籍の趣旨や対象を明確に表現している。この点が株式投資という同じ分野で著者が類書を何冊も出版できる秘訣である。一方で取引に対する基本原則は共通する。それは取引ルールを確立することや塩漬けではなくロスカット(損切り)を行うこと、損小利大(損失を小さく利益を大きく)を目指すことなどである。一貫した原則と状況に合わせた応用が著者の思想の根幹となっている。

株で稼ぐとなると不労所得との印象を受けるが、本書で紹介されたデイトレードは中々大変である。日本の証券市場は9時に取引が開始されるが、遅くとも8時前には起きてNYダウなどの海外市場の結果を調査すべきという(116頁)。

取引中は板やチャート、ランキングなど様々なものを確認する。画面をいちいち切り替える手間を省くために、複数台のモニターを設置し、別々のモニターに表示させることを推奨するほどである(30頁)。大引け後も損益の計算やトレードの振り返り、相場の流れの調査など行うべきことは多い(158頁)。デイトレードは決して楽な作業ではなく、怠け者では無理である。初心者向けであるが、株式取引の奥深さがわかる一冊である。

 

二階堂重人

『二階堂重人の初めての株デイトレード』

日本文芸社

2008930

 

『株 デイトレード常勝のルール』二階堂重人著

デイトレのノウハウが豊富

本書はデイトレードのテクニックを向上させ、専業トレーダーとして成功するためのルール作りの手助けをする書籍である。

本書が出版された20084月の後にリーマン・ショックが直撃し、証券市場は一層厳しい環境に置かれている。しかし、むしろ現在のような状況こそ本書で紹介されたデイトレードの意義がある。購入した株をその日のうちに売るデイトレードは株式保有リスクを回避できるためである(15頁)。

とりわけ日本市場はニューヨーク株式市場の下落と連動して翌朝の価格が下落する傾向が強い。米国以上に売られることさえある。その日のうちに利益または損失を確定するデイトレードならば翌朝下落してしまうのではないかという心配は無縁である。

著者が強く主張していることはトレーディングのルールを確立すべきということである。気分ではなく、ルールに則って取引すべきと主張する。株式取引は儲かることもあれば損をすることもある。損失の発生は不可避である。

だから重要なことは損失を小さくすることである。たった1回の損失でも、その損失が既存の利益を上回ってしまったならばトータルは赤字になってしまう。行き当たりばったりの取引では損失をズルズルと拡大させてしまう危険がある。故にルールを確立し、それに従って取引することが重要になる。

本書では取引ルールにできるような売買のタイミングを数多く紹介する。見開き2ページの左側に説明文、右側にチャートなどの図解を配し、分かりやすく説明されている。但し、紹介量が多いために1回通読した程度では消化不良になる。本書の趣旨は自分のルールを押し付けることではなく、各自に適したルールを確立させることである。全てを理解しようとするのではなく、適したものを取捨選択することが本書の読み方として妥当である。

本書で特に参考になったのは指値注文についての記述である。事前に下値を指値して買い注文をしておくことの当否を論じている(176頁)。株式取引では指値注文を出しておけば、株価をチェックしていなくても指値で指定した価格になった時に自動的に約定してくれる。そのため、事前に株価がある程度まで下がり、後は反転上昇することを見越して、下値に指値注文を出しておくことは便利であり、不精な記者も多用している。

しかし、それを本書は推奨できないとする。場合によっては下値を勢いよく割ってしまうためである。その場合、すぐにロスカットできなければ大きな損失になる。特にサブプライム問題に端を発し、リーマン・ショックが直撃した昨今の証券市場は乱高下が激しい。通常予想される値動きを大きく逸脱して下がってしまうことも多い。

記者も下値と思って指値したものの、株価が指値を勢いよく割ってしまい、失敗したことは一度や二度ではない。そのため、本書の記述は勉強になった。この箇所も含め、勝つことよりも大きく負けないように投資することがコンスタンスに利益を上げる秘訣であると感じられた。

 

二階堂重人

『株 デイトレード常勝のルール』

すばる舎

200844

 

書評

『定年後もタイガー・ウッズのように飛ばす!』を読んで

本書はアマチュアのゴルファーによるゴルフのレッスン書である。著者は40年以上もの長きにわたってゴルフを続けてきた人物である。長年の取り組みから抽出したゴルフのエッセンスを明らかにしたのが本書である。

本書の大部分は効果的なボールの打ち方の説明に費やされている。とても具体的で実践的な内容になっている。飛距離を伸ばし、スコアを縮めるための方法をシンプルにまとめている。

プロでもシングルプレーヤーでもない著者だからこそ、失敗を繰り返し、試行錯誤を重ねることで効果的な理論を会得できた。体力に恵まれ、優れたコーチに正しいフォームを叩き込まれるプロは往々にしてスキルを無意識的に身につけてしまう。そのようなスキルを人に伝えることは難しい。優れた選手が優れた指導者であるとは限らないと言われる所以である。その意味でアマチュアならではの着眼点で書かれた本書の意義は大きい。

日本ではゴルフは中高年も取り組むスポーツとして普及している。しかしゴルフ人口の中に本当に好きでゴルフをしている人が、どれくらい存在するのか疑問である。付き合いや接待でしている人も多いのではないか。組織の中で他人がしているのからするという特殊日本的集団主義に汚染されているだけではないかとも思われる。

しかし、本書を読むとゴルフが立派なスポーツであることを改めて実感させられる。第2章第7節では「効果的な練習法」と題して練習時の注意事項をまとめている。ここでは練習前に体を温めることやゴルフシューズを履いて練習することという基本的な指摘も記述している。本書は読めば効果を出せることを意図しているが、決して安易な方法を提供するものではない。スポーツとしての基本を押さえる必要がある。

さらに練習後には整理体操を推奨した上で、著者が帰宅後に行っている真向法を紹介する。真向法はゴルフとは関係なく、血液の循環を良くするための健康体操である。ゴルフの上達は健康づくり、体づくりとも密接に関係する。

ゴルフ以外にも通用する著者の思想は最終節の「心を鍛えると確実にスコアが伸びる」において深まっている。ここで著者は名選手の体験を引用して、想像力の重要性を説く。ボールの軌跡や着地の仕方をイメージした上でスイングする。これはゴルフ以外の活動にも応用できるものである。

著者の発想は弓道の世界にまで広がる。オイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』から、無心の境地を描いた「暗中の的」のエピソードを引用する。その上で「静止しているボールに息を吹き込み、自分のイメージを託するという芸術に似た一面を持ったこのスポーツの極致に、このような世界があることを信じて明日も精進をしていただきたい」と結ぶ(204頁)。

弓道のみならず、柔道、華道、茶道など、日本の伝統的な技能には「道」が付くものが多い。それらが単にテクニックを習得するものではないためである。修錬によって精神を鍛え、人格を磨き、人間形成の「道」を修めるものだからである。その意味で著者にとってゴルフは「道」である。本書はゴルファーはもちろん、ゴルフを知らない人でも学べるところがある一冊である。

 

『全日本ロボット相撲オフィシャルブック』を読んで

本書はタイトルのとおり、全日本ロボット相撲の公式ガイドブックである。競技の説明や歴史、試合結果、強豪チームへのインタビュー、出場ロボットのデータなどをまとめている。

全日本ロボット相撲大会は1989年に始まる歴史あるロボット競技大会である。富士ソフト株式会社が主催する。ロボット相撲は2台のロボットが相手のロボットを土俵外に押し出すことで勝敗を決める。人間の大相撲と異なり、土俵内で倒れるのは問題ない。あくまで土俵外への押し出しで決まる。また、「土俵」とは言っても、直径1.5メートル強の金属板である。

ロボットには自立型とラジコン型の二種類がある。前者はプログラムにより、ロボット自身が自動的に動作する。相手ロボットを探知し、自らも向きを変えて動く。後者は操作員が電波を利用してロボットを操作する。

ロボットと聞くと人型のものを想像したくなるが、ロボット相撲の出場ロボットは重心の低いブルドーザーのような形態である。それが相手ロボットからの衝撃に抵抗し、相手ロボットを押し出す上で合理的なのだろう。

全日本ロボット相撲の出場者には工業高校の生徒が多いのが特徴である。複数のチームを出場させている高校も少なくない。2007年の第19回全国大会では初めて無作為の抽選会を行い、初戦での「同部屋対決」が行われた。ロボット相撲は大相撲から着想を得ているが、大相撲の不合理な点は積極的に改めようとしている。

本書ではロボットをパワー重視、スピード重視、両者のバランス重視の3パターンに分類する。意外にもパワー重視タイプは少数派である。圧倒的なパワーのロボットが存在しているため、パワーだけでは勝負にならないためと分析する。

多数派はバランス重視タイプで、相手の弱点に対応した戦術により勝利を目指す(17頁)。ロボット相撲では幅と奥行きが20センチメートル以内、重さ3kg以内という規定があり、大相撲の力士のように巨大化する一方という訳にはいかない。それ故に、ひたすら圧倒的なパワーを追求することには限界がある。

本書は一般人に向けたロボット相撲のガイドブックであるが、競技者にとっても有益な参考書になる。本書では全国大会に出場したロボット192台のデータを掲載する。これは競技者にとっては章題に記述されているとおり、知恵の宝庫である。

出場者にとって自分のロボットの情報は、できるだけ対戦相手に知られたくない情報である。パワーやスピードで相手を圧倒する戦いよりも、相手の弱点を突く高度な勝負が増加している状況では尚更である。逆に対戦相手の情報を知っていれば有利になる。この点で過去の出場経験という財産のある常連出場高校が有利になる傾向は否めない。

本書は、その差を情報公開によって少しでも縮めようとする点に意義がある。初心者にも敷居を低くし、ロボット相撲の裾野を広げることは、「ものづくり」の楽しさを伝える大会の目的にも合致する。本書によって全日本ロボット相撲大会が益々発展することを期待したい。

 

『ぼくらが子役だったとき』を読んで

本書は子役経験者14人との対談集である。対談相手は紅白歌合戦での豪華衣装で名高い小林幸子氏や、主演ドラマ『相棒』が好評な水谷豊氏ら多彩な顔ぶれである。

子役と言えば映画やテレビ、演劇における子どもの出演者が先ず想起される。本書の子役は、それよりも広い。著者は子役を「幼少の職業的芸能者」と定義する(323頁)。そのため、子どもの頃から歌手や落語家、狂言師の仕事をしていた人達も対象になる。

著者の中山千夏氏自身も子役経験者である。話し手も聞き手も子役という共通項があるため、話はスムーズに進む。著者だからこそ可能なインタビューになっている。インタビュー内容は子役の意識や環境という主題を掘り下げており、表面的な芸能インタビュー記事では登場しないような内容が語られている。

子役経験者に共通しているのは、大人社会の中で生活することであった。これが子役の特殊性である。一般の子ども達は、一日の大半を学校で同年代の子ども達と過ごす。大人と接しているために、子役にとって他の子ども達が非常に幼く見える。

また、大人の顔色をうかがうことが得意であったという人が多い。中には裏表のある嫌らしい大人もおり、芸能界は決して理想社会ではない。しかし、それが現実の社会ならば、そのような社会で生きる経験は重要な社会経験となる筈である。

学校は未成年者が社会に出るために訓練する場である。社会というものは全ての世代から構成される。にもかかわらず、学校では同年代の子ども達を集めて教育する。しかも学力で学校や学級を分け、同年代の中でも、さらに同程度の学力を有する生徒をまとめようとする。学校教育という仕組み自体が根本的な矛盾を抱えているのではないかと感じてしまう。

子ども時代に学校以外の世界を経験した子役だから見えることがある。それに本書は気付かされる。子役経験者の体験談が一般の子どもの生き方の参考になると著者が考える所以である。

学校教育が大きな問題を抱えていると指摘されて久しい。学校教育の問題は学校教育を改善することで解決していくのが本筋ではある。しかし、どれほど学校教育が理想を目指したとしても、世の中の全ての子ども達に適したものになると考えるならば傲慢である。子役という生き方も一つの選択肢として認められる社会が豊かな社会と考える。

最後に本書への要望を一つ挙げる。著者は子役を通して、社会と子どもの関係を考察する普遍的な子ども論を展開しようとする。本書に登場した対談相手は若くても1970年代生まれであり、子ども論を展開するならば、もっと若い世代の声があれば良かったと思う。

「子役時代を振り返る」というコンセプトであるから、現役の子役が対象外であることは理解できる。しかし、現在は20代の子役出身者も少なくない。それらも対談に含めれば、バランスのとれた子ども論を展開できたと考える。

20代の子役経験者は、より上の世代に比べると、子役時代を振り返るには早すぎて深みに欠けるかもしれない。しかし、彼らの経験談が、より現代社会に密接であり、現代の子どもと社会を論じる上で意義を持つことは確かである。

著者自身、昨今の芸能界の低年齢化や、親や子役の意識の変化、使い捨ての風潮などについて度々言及する。一方、「あとがき」に相当する箇所で著者はインタビューに応じてもらうことの困難さを述べている。恐らく、この点が著者にとっても心残りであったのではないかと推測する。

 

『韓国現代史60年』の感想

本書は光復から盧武鉉政権までの大韓民国の激動の現代史を綴ったものである。幾多の弾圧を乗り越えて発展した民主化運動の歩みが主題である。本記事では本書の特徴、日本との関係、翻訳の三点について論じたい。

第一に本書の特徴である。本書は「現代史」と銘打つものの、通史的な解説書と比べると、特徴的な内容になっている。ここでは二点ほど指摘する。

先ず本書は民主化の進展に焦点が絞られている。これは本書が韓国の民主化運動を記録し継承するために設立された法人「民主化運動記念事業会」の企画で出版されたものであることと無縁ではない。その影響で文化史や技術史の記述は弱くなっている。

日本の植民地支配によって朝鮮人の大半が被支配者・無産者に陥った状態から出発し、軍部の独裁に苦しめられながらも不屈の精神で民主化を達成した歩みを簡明に叙述する。ここには紆余曲折を辿りつつも、民主化が進む方向を社会の進歩とする歴史観がうかがえる。

韓国に比べると、日本は民主主義を進展させたと胸を張れるような現代史になっているか、大いに疑問である。日本国憲法によって基本的人権の尊重、主権在民、平和主義が謳われた。これが世界に大きな災厄をもたらした十五年戦争を生み出した旧体制への反省に基づくものであることは憲法前文が示している。

しかし、日本の戦後の歩みを総括するならば、憲法の理念を徹底させるのではなく、反対に骨抜きにしていく方向にあった。本書のような民主化運動を是とする歴史観に立つならば、日本の戦後史は後退につぐ後退の歴史と映るだろう。

次の特徴として本書は出来事を中心に記述する。本書には多くの人物が登場するが、彼らの生い立ちや思いについての記述はほとんどない。あくまで出来事の説明として人名を登場させている。本書の主人公は韓国人民であって、個人の英雄的な活躍を賞賛するものではない。この点は独裁者の圧制によって苦しめられた経験が反映されているように思われる。人間ドラマとしての歴史を好む傾向が強い日本社会にとっては新鮮な歴史認識である。

結論として本書は韓国の現代史を知るだけでなく、歴史そのものについての捉え方についても考えさせられる一冊である。

 

第二に日本との関係についてである。本書の出版自体に大きな価値があるが、邦訳されたことの意義も大きい。日本では数十年前の隣国で民主化を求めた人民の苦闘の歴史があったことは、それほど知られていない。本書冒頭の「日本語版によせて」で「日本人は韓国現代史をよく知らない」とあるとおりである。

本書では日本に対する視点は厳しい。民族性を抹殺させようとする過酷な植民地支配を行っただけでなく、戦後の日本政府が民主化運動を妨げる側を擁護したためである。たとえば独裁者・朴正煕の維新大統領就任式(1978年)には米国も台湾も使節団を送らない中で、日本の岸信介・元首相らのみが参加した(124頁)。このように日本政府は独裁政権の支持者として振舞った。

日本政府が朴正煕軍事政権を歓迎した理由を、「国会なしの軍事政権なので韓日国交正常化がしやすいという判断もあった」と分析する(89頁)。軍事政権の方が自国に都合が良いという発想である。これは日本政府の行動原理から民主主義という基準が欠落していることを示している。韓国人民が日本政府に反感を抱くのも無理がない。

また、韓国において日本のイメージを実際以上に悪化させたものとして、親日派の存在がある。光復後の韓国では親日派の責任追及が十分ではなく、反対に要職に就いて民主化を弾圧する側に回った。親日派への反感が反日感情を増幅させている面がある。

本書では日本の陸軍士官学校出身の朴大統領について「自身の感情を制御できないまま日本軍人風の短気に身を任せていた」と表現する(127頁)。このように親日派の悪性格が日本のイメージと結び付けられている。

これは一義的には韓国内部の問題である。親日派の悪事の責任を日本に負わせるならば、日本にとっては迷惑な話である。しかし、日本政府が戦後も民主化運動を弾圧する親日派を支持していた。このため、日本にも責任がある。

近時の日本ではルサンチマンの蓄積したネット右翼などが声高に嫌韓を叫ぶ傾向が見られる。嫌韓を正当化する根拠として、韓国が「反日」であるためと主張される。しかし、上述のとおり、韓国の反日には根拠がある。それは民主主義を信奉する日本人にとっても支持できるものである。日本の国是の一つに民主主義が存在するならば、愛国的な日本人であることと、韓国の反日を支持することには少しの矛盾も存在しない。正しく歴史を理解する必要がある。

 

最後に本書の訳語について指摘したい。本書は韓国人の立場で書かれたものであり、それは邦訳版でも変わらない。たとえば日本と韓国間の関係を述べるときは「日韓」ではなく、「韓日」である。

また、韓国で使われている漢語表現を、そのまま訳語にしている。たとえば本書では政治の実権を握ることを執権と表現している。日本語でも執権は権力を掌握するという意味を持つが、鎌倉幕府執権が有名過ぎて、現代政治では使われることは少ない。

他にも与党候補は農村部、野党候補は都市部に強い状況を意味する「与村野都現象」(45頁)のような韓国政治の術語が頻繁に登場する。加えて、「檀君以来最大の金融事件といわれた李哲煕・張玲子事件」という表現がある(156頁)。これは檀君が神話上の最初の王であるという知識がなければ意味を理解できない。

以上のように本書は韓国についての予備知識を持たない日本人には必ずしも親切とは言えない。しかし、語学の分野ではなくても外国を研究する上で相手国の言葉を知ることは必要である。韓国の術語を大幅に残した本書は韓国現代史の認識を深める上で有用な一冊である。

 

【書評】泣く男は平和の象徴『女の前で号泣する男たち』

本書は恋人との別れ話で泣く男について調査・分析した書籍である。恋人に振られて泣く男性が増加しているという問題意識が出発点である。「男はメソメソ泣くものではない」と育てられた著者にとって、別れ話で泣く男の存在は大きな驚きだったという(8頁)。

正直なところ、著者よりも若い世代である記者にとっては別れ話で泣く男がいるということは驚く話ではない。普通に受け入れられることである。むしろ泣く男を驚きと感じる人が存在することの方が驚きである。それ故、本書に対しては「最近の若いものは」的な若年世代批判の一種でないかと予想し、それほど期待していなかった。この予想は良い意味で裏切られた。

著者は本業であるマーケティングコンサルタントの知見を活かして泣く男の実態を調査する。その結果、「泣き喚く男がジワジワと増殖している」という事実が明らかになる。その上で著者は泣く男の社会的意義を分析するが、これが秀逸である。そもそも「男はメソメソしてはならない」というのは普遍的な価値観ではなく、「ねじ曲げられた武士道精神に基づく軍国主義による影響」と喝破する(157頁)。

時代を遡れば「平安時代の男たちにとって恋愛で泣く行為は当然のことだった」という(167頁)。現代において泣く男が増えているということは、それだけ現代日本が平和な社会になったことを意味する。最後に著者は以下の主張で本書を締めくくる。「「男が泣けない社会」など二度と作ってはいけない」(203頁)。

著者は当初、「男はメソメソ泣くものではない」という価値観から、泣く男の存在に驚いていた。ここにはジェンダーに囚われた旧世代的価値観が見受けられる。ところが著者は調査・分析を経ることで、泣く男は平和な社会の象徴と積極的に評価する。著者の思索の展開には事実を直視し、異なる価値観を理解し評価する柔軟性がある。

人間には自らの理解したいものしか理解しようとしない傾向がある。異なる価値観に直面すると、頭ごなしに否定しようとする。この頑迷さは単一民族幻想・一億総中流幻想に取り付かれた日本人には特に強い。その点で著者のような柔軟な姿勢は非常に貴重である。

この著者の姿勢の原点は小学生時代に愛読していた『暮らしの手帖』にあるという(10頁)。『暮らしの手帖』は商品が表示通りの内容であるか実際に測定し、その結果を実名入りで掲載していた。著者は「事実は事実」と冷たく突き放す『暮らしの手帖』に感銘を受けたという。私自身、購入した新築マンションが不利益事実(隣地建て替えなど)を隠して販売され、売主の東急不動産との裁判でようやく売買代金を取り戻した悔しい経験がある。それ故に不都合な内容でも事実を大切にする著者の思想には強く共感できる。

現代の日本では戦後民主主義的価値観を否定し、戦前の軍国主義的価値観を無批判に美化する右傾化の危険に晒されている。しかし、戦前の国民は幸せだったのか、長い日本の歴史の中で侵略に明け暮れた戦前こそが異常な時代でなかったかなど検討すべき内容はたくさんある。泣く男を平和の象徴と結論付けたように、客観的なデータと冷静な分析という著者の手法は多くの分野で有益であると考える。

 

富澤豊

『女の前で号泣する男たち 事例調査・現代日本ジェンダー考』

バジリコ

20081013

 

『女の前で号泣する男たち』(富澤豊著、バジリコ刊)

恋人の女性に振られて号泣してしまう男性が増えていることを分析した書籍です。別れ話で泣く男性がいるという話を聞いた著者が「そんな男性がいるのか?」と疑問に思って研究を始めたのが発端です。

「男は泣くものではない」と育てられた著者にとって、泣く男の存在は信じ難いもので、最初はネガティブに評価していました。ところが、著者は本業であるマーケティングの手法などを駆使して様々なケースを調査した結果、泣く男の増加を事実として受け止めます。

さらに過去の価値観と比較することで、泣く男への評価を180度転換させました。「男は泣くな」という価値観は戦前の軍国主義によって歪められたものであることに気付きます。そして泣く男は日本が平和であることの象徴と肯定的に評価します。

自分の先入観に囚われず、調査結果を受け入れる著者の思考の柔軟さには感心しました。また、恋愛行動の分析とマーケティングの手法という組み合わせの意外さが面白かったです。

 

『災害と共に生きる文化と教育−大震災からの伝言(メッセージ)』の感想

本書は「災害文化」と「災害教育」について探究した書籍である。災害は起こりうるということを念頭に、被害を防止・減少させるための文化を根付かせ、教育を進めることに役立てたいという思いからまとめられている。

本書は大きく5部に分かれる。

第I部「阪神・淡路大震災と「災害文化」」では阪神・淡路大震災でのボランティア活動や震災の記憶を継承させるために活動を述べる。

II部「学校における「災害教育」の創造」では小中学校・高校・大学の各段階での災害教育の取り組みや留学生への震災教育について述べている。

第V部「歴史とともに生きる「災害文化」」では関東大震災や南海地震・津波、阪神・淡路大震災における資料保存・展示活動についてまとめている。

IV部「地域における新たな「災害文化」形成」では和歌山県串本町の自主防災組織などを例に各地の災害文化の形成について述べる。

V部「世界のなかの「災害文化」と「災害教育」」では自然災害への国際的な支援活動と、その課題について述べる。

本書は研究者、教育・行政関係者、NGO、ボランティア経験者ら20名弱の執筆者が各々の経験から「災害文化」と「災害教育」について特定のテーマを論じており、幅広い内容になっている。一方で本書は各執筆者の既発表論文を収録した類の書籍ではなく、統一的な編集方針の下で執筆されている。各々の論稿が有機的につながっており、この種の書籍としては通読しやすいものになっている。

私は日本社会に災害文化を根付かせる上で障害になる要素として日本人の非歴史的性質があると考える。過去を水に流すことを是とする日本社会の傾向は、被害を嘆くよりも復興に頑張ることを前向きと評価してしまいがちである。これは日本を焼け野原から経済大国にした原動力にもなり、このこと自体については日本人の長所と受け止める向きが多い。

しかし、社会の価値観として「失ったものにクヨクヨするのではなく、前向きに頑張る」ことを押し付けるならば、被害に苦しむ人を益々苦しめてしまう。一番頑張らなくていいような人が「頑張れ」と励まされ、頑張ることを押し付けられる社会は生き辛い。近年、『頑張らない』という書籍がヒットし、PTSD(心的外傷後ストレス障害)が注目されている。これは日本人自身が「過去の苦しみを忘れて前向きに生きる」という日本的価値観を拒絶し始めたことを意味するように思われる。

本書では被災者の辛い体験を社会が受けとめることの重要性を述べている。阪神・淡路大震災によって娘が精神的な障害を負った人は「初めて人に自分の話をさせていただいて、これまで溜めこんでいたものを吐き出すことができた」と涙ながらに語ったという(42ページ)。このような心のケアこそ日本社会に最も欠けている要素であり、それを正面から取り上げる本書は貴重である。

ようやく「心のケア」という言葉が市民権を得たが、早く立ち直らせるための取り組みという程度の理解では悲しみを直視したい被害者を苦しめるだけである。「悲しみや苦しみを、忘れるのではなく、乗り越えていかなければ生きていけない」のである(280ページ)。

本書では「災害文化」をテーマとすることで、単なる災害対策には得られない視点が存在する。興味深い点を二点ほど指摘する。

第一に「災害文化」をテーマとすることで、対極の存在である「災害−非文化」に目配りすることができた。「災害−非文化」状況の極端な例として、関東大震災における朝鮮人や社会主義者の大量虐殺が挙げられる。上述の被害を語る場がなかった孤立した被災者も「災害−非文化」の一例になる。これら「災害−非文化」が生じないように努めることも災害文化の発展には必要と本書は主張する(9ページ)。

第二に災害への対応を体系的な知識や技術ではなく、文化として捉えている点である。ここには人々が日々作っていくものという意識がある。自然災害による被害の防止・減少を第一とするならば専門家によるシステマティックな対応が最も効率的に思える。しかし、行政・専門家任せは住民自身の災害対処力を減退させるというパラドックスに陥る。

加えて国家主導の防災となると、人々の生活よりも国家の目的が優先される恐れがある。実際、上述の被災者の心のケアは経済復興優先という行政目標の中で無視されてしまった。

本書では関東大震災後の防災訓練が防空演習に変質し、戦時体制に組み込まれていったとの指摘を紹介する(9ページ)。また、関東大震災の震災復興記念館に展示された絵画を摂政宮(後の昭和天皇)の視線の下での復興を記念していると解釈する(186ページ)。関東大震災からの復興が天皇制イデオロギーや軍国主義の維持・強化に利用されたことになる。

本書の「災害文化」という位置付けは「文化としての災害ボランティア活動」におけるボランティア観に集約されているように思われる。ここではボランティア活動を「社会選択肢のひとつとして根付こうとしながらも、つねにそれでよいのかと問い直しつづける運動」と定義する(226ページ)。

ここにはボランティア活動の普及を肯定する一方で、ボランティアが既存のシステムに取り込まれてはならないという問題意識がある。NPONon-Profit Organization)が「非」営利組織として、営利組織でないという点に存在意義を有するように、ボランティアも本職や本務でないことに特徴がある。既存の活動ではないという「否定の力」があればこそ社会に新鮮な選択肢を提示できる(221ページ)。

災害文化も決して固定的なものではなく、常に問い直し続けながら発展させていくものである。災害文化の普及を求めつつ、画一的な方針を押し付けるのではなく、ボランティアなど草の根の活動に軸足を置いた本書は広く読まれて欲しい一冊である。

 

『ローマ美術研究序説』の感想

本書はローマ美術とは何かという難問に正面から取り組んだ力作である。著者のオットー・ブレンデルはドイツに生まれ、アメリカで活躍した考古学者・美術史家である。

本書は先行の研究を丹念に紐解いた上で著者の見解を明らかにする学術性の高い書籍である。ローマ美術や先行研究についての知識を当然の前提として書かれている。但し日本語版では訳者解説や本文で言及された作品の写真、ローマの歴史年表を追加することで、理解しやすくなっている。

私はローマの文化といえばホラティウスの言葉「征服されたギリシア人は、猛きローマを征服した」を想起する。法律(ローマ法)や建築(水道橋など)のような実用面では構成に大きな影響を与えたものの、芸術や学問はギリシア文化の焼き直しに過ぎないという印象を抱いていた。しかし本書は、それほど単純な問題ではないことを明らかにする。

ローマ美術論を難しくさせる一因は、ローマ美術と一括りにするには古代ローマの美術が多様である点にある。本書はローマ美術の二元性として整理する(122ページ)。イタリア(エトルリア)的対ギリシア的の二元論や古典的対非古典的の二元論である。ローマ美術にはイタリア半島の土着文化の影響を受けた作品群がある一方で、ギリシア・ヘレニズム文化の影響を受けた作品がある。

また、現在を過去の偉大な再生とする古典的様式が周期的に復活する傾向が見られる。この古典主義の周期的な復活は14世紀以降のイタリアで花開いたルネサンスや18世紀のフランスで流布した新古典主義のように近代ヨーロッパにも見られる傾向である。ここにはローマと近代の類似性が見られる。そして、これは著者の結論に関係していく。

著者は「ローマ美術における様式的統一の欠如」を「驚くべきことではない」と主張する(157ページ)。これは現代において様々な様式の美術作品が制作されていることと同じだからである。古代ローマにおいては過去の作例や構想を認識した上で、受容または拒絶が判断された。つまり、ローマ人は趣味や目的に応じて選択していたのである。この点において「ローマ美術は史上初の「近代」美術と考えられるかもしれない」と結論付ける。

著者の主張は過去の文化をカテゴライズする際に忘れてはいけない点を想起させてくれる。例えば現代の日本美術を平成美術と一括りにしてしまったならば多くの芸術家の多様な作品を理解することはできなくなる。カテゴライズには個性を捨象してしまう危険が存在する。

一方で芸術家個人ではなく、一つの社会における美術を研究するならば、様式に基づくカテゴライズは必要である。個々の作品を羅列するだけでは事実を箇条書きしただけだからである。個々の事実を結び付けて意味のある分類をしてこそ知的営為となる。

特定の社会の美術をカテゴライズすることには学問的必要性と多様性(個性)を捨象する危険性の相反する緊張関係が存在する。この緊急関係の中でローマ美術を論じた本書は古代ローマ美術だけでなく、美術史学に共通する普遍的な問題を提起する。美術史に関心のある人に薦めたい一冊である。

 

『科捜研 うそ発見の現場』の感想

本書は科捜研技術吏員によるポリグラフ検査の経験を分かりやすく書いたものである。著者は大阪府警本部科学捜査研究所に35年間勤め、数多くのポリグラフ検査に従事した。その実体験を書いたものであるためにリアリティがある。

本書を読むと真実であるかのように平然と嘘をつく人間がいることが分かる。著者が「犯人ではなさそう」との印象を受けた被疑者の多くがポリグラフ検査では特異反応を示している。そのような事例を特に集めたのかもしれないが、見かけだけでは簡単に騙されてしまうことを意味している。

私自身、売主の東急不動産(販売代理:東急リバブル)から不利益事実を隠されてマンションを購入した経験がある。売買代金の返還を求めた裁判では被告の嘘を崩すことが大きな課題であった(参考「マンション販売トラブルで「お詫び」 東急リバブル・東急不動産」)。「嘘をつくと顔に出るから分かる」というようなレベルの問題ではないことは身をもって経験しているため、本書の内容は考えさせられた。

http://www.news.janjan.jp/living/0710/0710023335/1.php

著者は先入観から手痛い失敗をしている。それは中古車販売会社の売上金紛失事件での経験である。営業所入口の鍵を持っている6人の従業員の誰かが犯人ということで、ポリグラフ検査をすることになった。その中で若い女性事務員については最初から捜査員は関係なしと決め付け、それを真に受けた著者もおざなりの検査で済ませてしまう。

ポリグラフ検査では犯人は分からずに終わったが、後日、その女性事務員が犯人であったことが判明する。この経験から著者は「いかなる事情があろうとも、予断を持った手抜き的検査は禁物であり、検査記録が唯一の判断材料であることを身をもって知った」と語る(83ページ)。

その後も著者の第一印象が裏切られる事例が多いが、データを歪曲せずに検査結果を受け止める著者の技術者マインドは評価に値する。これは見込み捜査が批判される日本の警察においては重要である。

私が「今年のベストブックはこれ!」で薦めた書籍では先入観に反していても「事実は事実」と突き放す冷酷さこそデータ分析に携わる者が持たなければならない思想であると断じている(富澤豊『女の前で号泣する男たち』バジリコ、2008年、11ページ)。著者のスタンスも、これに通じるものがある。

警察の内幕物と見た場合、ポリグラム検査を専門とする技術吏員の視点で書かれた点が本書の特徴である。警察組織は本庁と所轄、キャリアとノンキャリア、刑事警察と公安警察など様々な対立要素を抱えている。テレビドラマ『踊る大捜査線』が人気を博したのも、警察内部の対立構造をリアルに描いたためである。それを踏まえれば本書でも技術吏員という特殊な職種故に立場の異なる他部署との軋轢や苦労話がありそうに思える。ところが本書では著者も現場の刑事も互いの職務を尊重して自然体で仕事をしている。

ここから私は別の元警察官の著書の一節を想起した。

「仕事の優劣なんてまったくない。例えば警備の任務にしても、交通課の協力がないと交通整理もできないし、信号も変えられない。そのため、お互いの部署間の関係にはとても気を使うし、お互いを尊重しあっている。だから、一つの仕事に対して優越感や劣等感なんて内部的思考は全くない」(北芝健『やんちゃ、刑事。』竹書房、2007年、177頁)。

警察内部に醜い争いがあることは否定できない事実であろう。一方で下らない優越感や劣等感・対抗意識を持たず、互いの職務を尊重して協力して成果をあげている人々がいることも事実である。これが仕事のできる人とできない人を分ける一因になっていると感じられた。

 

松野凱典

『科捜研 うそ発見の現場』

朱鷺書房

2004101

 

『打ったらハマるパチンコの罠PART2』の感想

本書はパチンコ依存症の問題を指摘し、それを放置する日本社会を批判した書籍である。パチンコを禁止した韓国の事情を取材し、日本でもパチンコ禁止を訴える。

著者のパチンコ批判は徹底している。「ほんの一握りのパチンコ業界関係者や警察官僚の莫大な利益のために、100万人以上の人が依存症で苦しみ、その依存症の人たちを放置している国は国家としての体をなしていない」とまで断言する(22ページ)。

著者によるとパチンコが放置されることによる弊害は実に多方面に渡っている。「犯罪の多発にしても、自殺者の増加にしても、韓国のようにパチンコを禁止すれば済むことが少なくない」と主張する(「はじめに」)。

また、パチンコによる浪費が消費低迷の要因になっているとする。これは特に自動車のような高額商品に影響が大きい。「若者の多くは、スロットやパチンコで負け続けて、車を買うお金がなくなっている」とする(19ページ)。

そしてパチンコ屋の存在は街の景観や行きかう人の心理にも影響を及ぼしうる。「ケバケバしいパチンコ屋の看板や、パチンコ屋のネオンがないだけでも、街の景観は大いに救われる面が大きい」と語る(33ページ)。

さらに自民党遊戯業振興議員連盟にみられるように業界擁護の政治家の姿勢と北朝鮮問題を絡め、「拉致問題に熱心だと言われる議員が、北朝鮮に多額の送金をしているパチンコ業界を応援しているのはどういうことなのか」と問題提起する(「はじめに」)。

これらにはパチンコを批判するあまりバランスを失している見解もなくはない。たとえば新車の販売低迷は排気ガスや交通事故の問題を考えれば必ずしも悪いことではない。新車に乗ることをカッコいいとする発想もマスメディアが作り出した価値観に踊らされた結果であり、健全な消費とは言い難い。また、パチンコ店の経営者に在日コリアンが多いという指摘も、日本企業に存在する就職差別を無視して論じるならば民族的偏見を煽る危険がある。

とはいえパチンコの問題が様々な分野に影響を及ぼしていることには純粋に驚かされる。そして一つの問題から徹底的に掘り下げる著者の粘り強さに敬服する。

私が市民記者として初めて書いた記事は自身が経験した不動産トラブルの裁判についてであった(参照「不動産トラブルと消費者契約法」)。以来、幾つかの記事を書いているが、不動産問題と直接関係しないテーマであっても、上記裁判の経験を引き寄せることで考察を深められることがある。

http://www.news.janjan.jp/living/0701/0701218525/1.php

その不動産問題に関して、本書では住宅ローンで購入した分譲住宅をマイホームではなく、「バンカーホーム(銀行の家)」と称している。「借金までして「バンカーホーム」の支払いに追われ、時には人生を破滅させる人までおられるのは理解に苦しむ」と主張する(76ページ)。

実際、欠陥住宅や耐震強度偽装物件の購入被害者が一過性の悲劇で終わらないのは、物件が無価値であっても、形式的には住宅ローンの返済義務は残るためである。これは売買契約を取り消した記者のトラブルでも問題になるが、東京高裁における訴訟上の和解において既払いの金利・保証料を上乗せした形で売買代金が返還されたため、踏み込んだ法的判断はなされなかった。

パチンコの問題を論じた本書で私の問題意識と重なる文章に出会うとは思ってもみなかった。まさに「すべての道はローマに通ず」である。本書から一つのテーマを掘り下げることの重要性を改めて認識した。

 

小説

『ハリー・ポッターと謎のプリンス』

本書(J.K.ローリング著、松岡祐子訳『ハリー・ポッターと謎のプリンス 上下』静山社、2006年)は世界的ベストセラーとなった人気シリーズの第6巻である。

『ハリー・ポッター』シリーズは20087月に邦訳が出版された第7巻『ハリー・ポッターと死の秘宝』で完結した。この第6巻は最終巻に続く重要な内容になっている。また、ホグワーツでの学校生活が味わえる最後の巻でもある。

この巻は魔法省大臣がコーネリウス・ファッジからルーファス・スクリムジョールに交代したことの説明から始まる。前巻までにおいて、ファッジはヴォルデモート卿復活の警告を無視し、ハリーやダンブルドア校長と対立を続けた。その魔法大臣の交代により、いよいよ魔法省とダンブルドア率いる不死鳥の騎士団が団結してヴォルデモート卿に対抗すると思わせる展開である。

しかし、現実は違った。スクリムジョールは戦うポーズを示すためにハリーを利用しようとしているだけであった。それを見破ったハリーは毅然として協力を拒否する。表向き人間は変わったとしても、組織の体質が変わるものではないことを示している。

私は購入したマンション・アルス東陽町301号室が不利益事実(隣地建て替えなど)を隠して騙し売りされたものであることを知り、東急リバブル(販売代理)及び東急不動産(売主)に抗議した。その際の特徴は担当者がコロコロ変わることであった。東急リバブル住宅営業本部の宮崎英隆は担当者が変わることで対応が改善されることを期待させた。

しかし、金太郎飴の如く不誠実な体質は変わらなかった。しかも、後から担当を名乗りだした東急不動産住宅事業本部の大島聡仁は社会人としてのマナーもどうかと思われるほど最悪であった。その経験があるため、大臣が変わったというだけで過去を水に流して協力を求める魔法省大臣の依頼を拒絶するハリーは痛快である。

翻って日本の政治に目を向けると、総理大臣の就任時は支持率が上がるという奇妙な現象が続いている。一体、何に期待しているのだろうか。日本の有権者にもハリーの勇気と知性を学んで欲しいものである。

http://ameblo.jp/tokyufubai/entry-10151881365.html

 

【読書の秋】軽妙なコミカル・ミステリー『顧客名簿』

本書(ローレンス・サンダーズ著、高野裕美子訳『顧客名簿』講談社、1999年)はアーチィ・マクナリーを主人公としたコミカル・ミステリーである。

アーチィは父親の経営する法律事務所の秘密調査員である。法律事務所のクライアントに持ちかけられた投資話の裏を探ることが今回のストーリーである。それは精緻な仕掛けで名高いロシア皇帝の秘宝「ファベルジュの卵」についてのものであった。

本書は同じ主人公によるアーチィ・マクナリー・シリーズの一冊であるが、ストーリーは各巻で独立しており、この一冊だけ読んでも十分に楽しめる。このマクナリー・シリーズの原題は「McNally's Puzzle」「McNally's Secret」「McNally's Dilemma」という形で「マクナリーの○○」という形になっている。本書の原題は「McNally's Gamble」である。こちらの方が新しいが、『涼宮ハルヒの憂鬱』などの涼宮ハルヒシリーズを想起すれば分かりやすい。

本書は主人公が探偵として活躍するミステリーだが、主人公は知性派でも肉体派とも言い難い。口が達者のお調子者である。料理や酒、女性とのデートの話題も頻繁に登場し、軽いタッチで展開する。

これは舞台が南国フロリダであることも影響している。ビジネス街を舞台にしたリーガル小説に見られる重々しさはない。それは大都市の法律家と異なり、時間にあくせくしていないからである。アーチィには時間的な余裕があり、それが人生を楽しむ余裕にもなっている。

一方でアーチィは軽薄に見えつつも、芯の通った人物である。命を狙われたために友人から「銃は持たないのか」と心配される。それに対し、「持つもんか!どっちに銃口を向ければいいのさえ、わからない。ご心配なく、ぼくは誠意と正義と真心で武装しているから」と応じる(267頁)。小説の中とはいえ、中々勇気ある発言である。

日本という極度に中央集権化された島国に居住していると、アメリカも同じような形で単一的な社会として見てしまいがちである。しかし、本書では金儲け優先で働き詰めの法律家や銃社会というステレオタイプのアメリカとは異なるアメリカ像を見せてくれる。深刻な問題を抱えつつも、やはりアメリカは多様で豊かな社会であると感じてしまう。

本書は騙しの手口も犯人の動機も単純である。純粋にミステリーとしてまとめるならば短編で済ませることも可能な内容である。それが一冊の書籍の分量になっているが、決して薄く引き延ばした作品ではない。むしろ人生を謳歌する主人公らの粋な毎日が詰まった作品である。

 

【読書の秋】悲しくも優しい純愛『ハピネス』

本書(ホ・ジノ、キム・ヘヨン著、蓮地薫訳『ハピネス』ランダムハウス講談社、2008101日発行)は2007年に韓国で上映されたホ・ジノ監督の映画「幸福」のノベライズ版の邦訳である。訳者は24年間も北朝鮮での生活を余儀なくされた拉致被害者である。

病に冒された男が恋人も仕事も全て都会に捨てて田舎の療養所に入る。難病を抱えているにもかかわらず、療養所の患者達には希望があった。彼らの希望は現在の病状を好転させることではなかった。壊れた体でもいいから、現在の生をつないでいくことを望んでいた。そのモットーは「今より悪くならない」であった(57頁)。

この発想は非常に新鮮である。日本では患者の生活を闘病生活と表現されることが多い。日本の患者には頑張って病に打ち勝つことが求められる。病気で苦しんでおり、頑張らなくていいような人々にまで頑張ることを強制し、それを美徳とするような息苦しさが日本には存在する。

しかし、その日本でも『がんばらない』というタイトルの書籍がベストセラーになるなど、日本人自身が特殊日本的精神論に嫌悪感を示し始めている。本書のように悲しくも優しさに溢れた韓流の作品が日本社会に歓迎されたのも、この辺に理由があるように思われる。

本作品の主題は幸福であるが、登場人物は中々幸せにならない。むしろ満ち足りている筈なのに別の幸せを求めたくなる。そして最後には全てを失ってしまう。失って初めて過去の幸福に気付く。

厳しい見方をすれば、本作品の主人公ハン・スヨンは相手の信頼を裏切り、自己管理さえできず、酒に溺れる存在である。彼には男性の身勝手さと愚かさが満ちている。結末の悲劇をもたらした原因が外的な不可抗力ではなく、自らの行動に起因するとあっては、やるせない気持ちになる。これでは、とても感動的なストーリーになりそうもない。

しかし、本作品は紛れもなく純愛を描いている。それは主人公が身勝手で愚かであっても、カッコ悪いほどストレートに感情を表現しているためである。そこには飾りもゴマカシも存在しない。読み終わった後に悲しみの陶酔に浸れる一冊である。

 

日本史

【書評】『直江兼続』軍記物風歴史小説

本書は戦国武将・直江兼続を描いた歴史小説である。『大軍師直江山城守』(叢文社、1986年)を再編集して文庫化した。

同じく兼続を主人公とした火坂雅志『天地人』(日本放送出版協会、2006年)が2009年のNHK大河ドラマの原作となったために改めて脚光を浴びている。PHP文庫では近衛龍春『前田慶次郎』や星亮一『上杉景勝』などとともに大河ドラマフェアの対象作品としたほどである。兼続を多面的に理解するために有益な一冊である。

本書は坂戸城主・長尾政景の溺死から始まる。この事件は上杉謙信が政景の遺児・景勝を養子にするきっかけとなった。これは兼続の運命にも大きく関係することになる。大河ドラマ初回放送も豊臣秀吉の謁見シーン後の実質的な物語の冒頭は政景の溺死事件である。本書も大河ドラマに影響を及ぼしているのではないかと思わせる一致である。

『天地人』に比べると本書は淡々と進行する。『天地人』では義に適っているかと葛藤する兼続の心理描写が詳細であった。また、初音やお涼といった架空人物との恋愛譚もある。これに対し、本書では謙信・兼続に限らず、他の戦国武将の動向にも頁を割いている。豊臣五奉行の一人・長束正家の伏見城攻めでの活躍など、歴史に埋もれた武将にもスポットライトをあてている。『天地人』が現代小説風であるならば、本書は軍記物風と言えるだろう。

兼続の名を歴史に残した関が原の合戦時の上杉家の思惑に対する解釈も両書では異なる。石田光成が挙兵すると、会津征伐に向かっていた徳川家康の軍勢は光成への反撃のために反転した。これに対し、兼続は追撃を進言したが、景勝は受け入れなかった。この景勝が拒否した理由が両書で異なる。

『天地人』での景勝の論理は、上杉家は家康に売られた喧嘩を買っただけというものである。会津を攻める気のない家康を追撃して奥州を混乱に陥れることは義の精神に反するとした。これに対し、本書の景勝は領土の平面的な拡大を狙い、家康の追撃よりも最上攻めを望んだ。本書では義という精神性は後退するが、戦国武将らしいリアリズムがある。

反対に関が原の合戦後の徳川家への降伏に際しては、本書の方が浪花節的である。兼続は家康に「すべての罪はこの兼続にあり。日本一の弓取りの家康公とぜひ一戦交えたかった」と申し開きをした。景勝が家康追撃に反対したことをもって、景勝には責任がないと主張した。

これに対し、『天地人』での兼続は家康の重臣・本多正信に根回しするなど政治家的な腹黒さを発揮している。また、『天地人』では産業の振興など兼続の民政家としての手腕にも着目しているが、本書は上杉家への米沢30万石安堵で終わっているために触れられていない。人間としての兼続を全方位的に描いた『天地人』に対し、本書は武将としての清冽な側面を描いた作品である。

 

中村晃

『直江兼続 宿敵・家康も惚れた名軍師』

PHP文庫

1995515日発行

 

『利休にたずねよ』の感想

本書(山本兼一『利休にたずねよ』PHP研究所、2008年11月7日)は侘び茶の完成者・千利休の半生を描いた歴史小説である。第140回直木賞を受賞した。

本書は利休が茶道、そして美に執着した理由を明らかにすることをテーマとするが、独特の構成によって効果的な演出に成功している。特徴的な点を2点指摘する。

第1に章が改まるごとに過去に遡っていくという通常とは反対の展開になっている。物語は千利休の切腹から幕を開ける。第2章は切腹の前日、第3章は切腹の15日前という形である。過去に遡っていくために利休に決定的な影響を与えた出来事の全貌が明らかになるのは最後である。問題の出来事を小出しに明らかにしていく構成は読者の興味を惹起する。

第2に章ごとに主人公(視点)が別人になる。第1章は利休、第2章は豊臣秀吉、第3章は細川忠興という形である。利休自身の内面だけでなく、様々な人々から見た利休を描くことで多面的な利休像を構成する。

 

『“戦国BASARA”武将巡礼 真田幸村』の感想

本書は人気ゲーム「戦国BASARA」に登場する戦国武将ゆかりの地をたどるガイドブックである。戦国武将一人ひとりを取り上げるシリーズ物の一冊で、本書のテーマは大阪の陣で活躍した真田幸村(真田信繁)である。

「戦国BASARA」は戦国武将達を操り、敵をなぎ倒す爽快さがセールスポイントのアクションゲームである。戦国武将がスタイリッシュに描かれ、歴女(歴史好き女子)ブームの一因にもなった。

「戦国BASARA」自体はフィクション性の高い設定である。幸村は武田信玄に仕え、伊達政宗とは宿命のライバルになっている。また、戦国武将の衣装や武器も時代考証から離れたものになっている。これに対し、本書は史実の真田家に関連する名所を紹介する。

紹介する地域は真田一族発祥の地である真田の郷(長野県)、上杉氏・北条氏・武田氏・真田氏の間で争われた沼田(群馬県)、徳川の大軍を二度も撃退した上田(長野県)、幸村の兄・信之から初代藩主となった松代(長野県)などである。取り上げる内容は城跡や寺社、温泉、旅館、名物料理、土産物まであり、旅行ガイドブックになっている。

幕末まで続いた真田松代藩では8代藩主・幸貫は下級藩士の佐久間象山に洋学を学ばせた。象山は洋学の第一人者となり、吉田松陰や勝海舟、坂本龍馬ら幕末を動かした人物に影響を与えた。ここに本書は実戦的かつ合理的な真田家の精神を見出す(61ページ)。戦国時代というスポットで限定するのではなく、幕末にまで続く流れとして歴史を見ることも勉強になる。

興味深いのは歴史関連書籍やグッズを扱う「時代屋」若女将・磯部深雪氏のコラムである。若い女性ファンには幸村をはじめ、石田三成や島左近、大谷吉継ら関が原の合戦時の西軍武将が人気という。そこには切なさやロマンがある。これに対して、豊臣秀吉や徳川家康のような一度でも勝者になった人達には切なさやロマンは感じにくい。幸村達の精神面の美しさやカッコよさに魅了されるとする(89ページ)。

「歴史は勝者のもの」と言われるが、西軍武将人気は正反対である。歴史上の人物を勝ったことではなく、何を成し遂げようとしたかで評価する。これまでの歴史常識からは外れるが、実は真っ当な人物評価である。歴史は為政者にとって国民支配の道具にもなる。そのような官製の押し付け歴史観に対抗する意味でも歴女の感覚に健全性を感じた。

 

『権力に抗った薩摩人』の感想

本書は江戸時代薩摩藩の浄土真宗弾圧と弾圧にもかかわらず信仰を貫いた民衆の抵抗を解説した書籍である。江戸時代のキリスト教弾圧と隠れキリシタン(切支丹)については広く知られているが、同種の弾圧と抵抗が薩摩藩にも存在した。

本書は3つの章に分かれる。

最初の「禁教の発端」では薩摩藩が真宗を禁止した動機を探究する。真宗信者を激しいく弾圧したにもかかわらず、禁止した理由は為政者側も良く分かっていない。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」的な発想から、真宗が槍玉に挙げられた可能性が高い。ここには恣意的な理由で弾圧する権力の不合理が存在する。

2番目の「信者はひそむ」では薩摩藩による真宗弾圧の歴史を明らかにし、厳しい迫害にもめげず、信仰を守り通した信者が多数存在したことを確認する。

最後は「不服従の抵抗」である。ここでは「かくれ念佛」が信仰を守り通した背景と意義を日本の歴史における薩摩の位置づけと絡めて明らかにする。

本書の特徴として2点ほど指摘する。

第1に為政者ではなく、無名の民衆の視点で歴史を語っていることである。本書では個人の英雄的な活躍は登場しない。薩摩藩は他藩以上に支配体制が強固で、江戸時代を通じて一揆はほとんど起きなかったという(59ページ)。民衆は強大な藩権力の前に押し潰されてしまうような小さな存在であった。その民衆が信仰を守り抜いた背景には講と呼ばれる信者組織の存在があった(61ページ)。団結が力になるという結論は現代の市民運動においても多いに励まされる。

第2に単なる過去の事実として歴史を見るのではなく、現代的意義を問い直す姿勢を有していることである。無力な民衆が信仰を守りぬいたことを本書では「日本精神史上の光輝ある存在」と評価する。政治権力による個人の内面への干渉は日の丸・君が代強制に見られるように決して過去の問題ではない。それ故に封建社会において権力に抗った薩摩人の存在を積極的に取り上げられるべきとの本書の主張(72ページ)に共感する。

同時に「かくれ念佛」のような抵抗精神が脈打っていたにもかかわらず、明治維新という支配階級間の権力闘争によって近代化が進められたところに日本の不幸がある。現代日本でも真の意味で民主主義や国民主権が根付いていないと指摘されるが、民衆から乖離したところで歴史が語られてきたことも一因と考える。その意味で無名の民衆の抵抗を掘り起こした本書の試みを高く評価する。

 

【書評】『天駆ける皇子』の感想

本書(藤ノ木陵『天駆ける皇子』講談社、2010年1月12日発行)は飛鳥時代の皇族・穴穂部王子を主人公とした歴史小説である(タイトルは「皇子」であるが、本文では「王子」で統一されている)。

穴穂部は厩戸王子(聖徳太子)の叔父であり、額田部大后(後の推古天皇)や蘇我馬子、物部守屋と同時代人である。仏教という新しい思想が伝来し、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の緊張が高まった時代である。

この時代では聖徳太子が圧倒的な知名度を誇り、既に多数の作品で主人公として描かれている。しかし、聖徳太子の他にも激動の時代に相応しく個性溢れる人物が活躍している。著者は前作『駒、玉のちりとなり』で崇峻天皇(穴穂部の弟)を暗殺した東漢駒を描いた。本書の穴穂部も、それほど有名ではない人物である。歴史に埋もれた人物にスポットを当てることが歴史小説の醍醐味の1つである。

穴穂部はタイトル「天駆ける皇子」から想像できるとおり、激しい性格の持ち主である。自分には大王になる力があり、自分こそが大王に相応しいと信じて疑わない。本書では対照的な人物を登場させることで、穴穂部の性格を際立たせる。

まず穴穂部の異母弟の宅部王子である。宅部は母親の身分が低く、後ろ盾となる豪族もいないために政治的野心を抱くことができず、恬淡とした性格であった。穴穂部にとっては王位を巡る競争相手ではなく、身近にいながらも利害が衝突しない存在として心を許すことができた。本書では宅部との交流を描くことによって、兄弟が骨肉の争いを繰り広げる時代において、穴穂部の人間味のある一面を示すことに成功した。

より大きな特徴は渡来人の刀装工(長順)の物語を並行させたことである。長順は権力者に対して庶民、倭人に対して渡来人という徹底的に部外者の立場にある。この部外者の視点によって、倭国の権力構造における穴穂部の異端さを客観的に示すことができた。

この時代は中国大陸及び朝鮮半島から先進技術を持った人々が倭国に移住してきた。かつて彼らは帰化人と呼ばれていた。しかし、倭国の王の徳を慕って帰順してきた訳ではなく、反対に後進的な倭国に先進的な文明を伝える側であった。それ故に渡来人と呼ぶことが正確である。そのような渡来人の思いを本書は丁寧に描いている。それが「日本史」という近代国民国家的な観念で狭められた歴史観では想像できないほど国際的であった時代を描く歴史小説としてリアリティをもたらしている。