林田力

「新幹線と飛行機、どちらを選ぶ?」オーマイニュース2008年3月7日

東京・岡山間で乗り比べてみた

 東京から岡山市に旅行する機会があった。往路は飛行機、復路は新幹線を利用した。両者を速さ、料金、快適さの3点から比較したい。

その1:速さ

 速度の点では飛行機の方が圧倒的に速い。東京から岡山まで新幹線のぞみ号では3時間半以上かかるのに対し、飛行機では1時間15分と半分以下である。しかし出発地から目的地までの移動時間を考えた場合、飛行機が速いとは限らない点に注意する必要がある。

 新幹線の駅は中心市街地にあるのに対し、空港は離れたところにある。そのため、空港までの時間がかさむ。新幹線の駅はJR在来線の駅でもあるため、乗り換えによる移動が便利である。このため、東京から大阪くらいならば新幹線を選択する人が多いだろう。

 今回の岡山旅行の目的地は車で岡山駅からは50分、岡山空港からは10分程度のところにあった。目的地には岡山駅からは路線バスが通っているが、岡山空港からはない。そのため、行きは岡山空港からタクシーで行き、帰りは路線バスで岡山駅まで出ることにした。

 所要時間という点では搭乗手続きも忘れてはならない。飛行機は搭乗手続きに時間がかかるため、早めに空港に到着しなければならない。ただし、最近は全日空のスキップサービスのように、チェックインカウンターに寄らずに搭乗できるようになり、搭乗手続きに要する時間が短縮されてはいる。それでも改札のみで乗車できる新幹線の方がスムーズである。

 新幹線は飛行機よりも本数が多く、最終便の時間も飛行機に比べると遅い。そのため、出発時刻・到着時刻に制約がある場合や反対に何時出発できるか分からない場合、新幹線を選ぶことになる。特に自由席でもよい場合、あまり発車時間を気にせず利用できる。記者が復路で新幹線を選んだ理由は何時帰るか分からなかったためである。

 飛行機は新幹線と比べると相対的に遅延することが多い。また、雪国に行く場合は欠航や出発地に引き返す可能性もある。

その2:料金

 正規料金では新幹線の方が安い。飛行機の2万7700円(全日空の場合)に対し、新幹線は1万6860円である。しかし格安航空券ならば新幹線よりも安くなることがある。例えば全日空の特定便割引運賃「特割1」ならば最も安い便は1万4200円となる(出発日や便により異なる)。

 今回の岡山旅行で飛行機が選択肢のひとつとなったのも、格安航空券の存在があってのことである。しかし格安航空券は事前に予約し、利用する便を指定する必要があり、何時出発するか分からない場合には向かない。今回の岡山旅行では帰る時間を決めていなかったため、帰路は新幹線とした。

 飛行機のメリットとして、マイルがたまる点がある。たまったマイルは、航空券などに替えることができる。しかし、マイルをためるためには会員になる必要がある。新幹線でも、日常生活で使用しているクレジットカードで購入すれば、クレジットカードのポイントがつく。

その3:快適さ

 この点は、新幹線に軍配をあげたい。飛行機は荷物検査が面倒である。着けているベルトを取らされたり、カバンの中身を空けさせられたりと大変である。係員の態度に自尊心を傷つけられたと受け止める人も少なくないだろう。東海道新幹線では車内改札があり、睡眠の邪魔をされることもあるが、飛行機の荷物検査に比べれば問題にならない。山陽新幹線では車内改札は廃止されている。

 新幹線にはシートベルトは必要なく、移動も自由である。しかし飛行機では着席中はシートベルトを締め、離着陸中は席を立てない。飛行機と比べると新幹線の座席の方がゆったりしている。新幹線は窓が多く、窓側でなくても外の景色を楽しむことができる。飛行機では席によっては空からの絶景が楽しめるが、そうでない場合の方が多い。

 飛行機は新幹線よりも移動時間が短いため、着席中の時間も短くなり、飛行機の方が快適となりそうだが、エコノミークラス症候群が発生するのは飛行機である。飛行機は狭く、移動もできず、景色も楽しみにくいという要因が重なっているためであろう。逆に新幹線は快適すぎて寝てしまい、目覚めた後にのどを痛めたり、風邪をひいてしまったりするデメリットがある。

 乗務員のホスピタリティという点では飛行機の方が優れていると感じられるが、管理されたサービスであり、窮屈に感じるのも事実である。飛行機ではフライトアテンダントが誘導し、ジュースやひざ掛けが提供される。機内誌なども持ち帰ることができる。しかし、これらは旅行する上で必要なものではないし、快適な旅行にとっても必要ではない。ある意味、過剰なサービスである。サービスが過剰ということは、それだけ余計に料金を支払っていることになる。一方、新幹線のワゴンサービスは有料だが、便利である。欲しい人だけが購入すればよく、利用しない人も含めた全乗客に転嫁されるサービスではない。

 飛行機では携帯電話は電源を切っていなければならず、離着陸の前後はパソコンなどの電子機器の使用は禁止である。移動時間で仕事を片付けたいという人には、あまり飛行機は好ましくない。

 新幹線では揺れを感じることはあまりないが、飛行機では離着陸時は緊張する。離陸後、高度が安定して初めて落ち着ける。特に着陸が怖いと感じる人は少なくないだろう。

  ◇

 以上、比較したが、飛行機の最大の利点は速度である。その長所が空港へのアクセスや便数などによって減殺されなければ、飛行機での移動により時間を短縮できる。そうでなければ新幹線の方が便利で快適である。

 交通機関は巨額の設備投資を必要とするため、複数企業による競争原理が働きにくいという性質があり、交通手段を選択できることは消費者にとって素晴らしいことである。新幹線と飛行機おのおのの長所と短所を考えた上で乗り比べをしてみるのも一興である。

林田力「人口密集地への巨大パラボラ乱立に猛反発」オーマイニュース2008年3月9日

スカパーが東京・江東区で建設進める

 「スカパー巨大アンテナに反対する住民の会」が主催する大集会が3月2日、江東区教育センターで開催された。約160人という大勢の参加者がつめかけ、電磁波問題に対する関心の高さを示した。同会は、東陽町の住民を中心に結成され、株式会社スカイ・パーフェクト・コミュニケーションズ(以下、スカパー)によるパラボラアンテナ設置に反対する団体である。

人口密集地に多数の巨大パラボラ

 スカパーは東京メトロ東陽町駅から徒歩5分の場所にスカパー東京メディアセンターを建設する計画を進めている。屋上に直径約7〜8メートルの巨大なパラボラアンテナを12基、直径約4メートルのパラボラアンテナを6基設置する計画である。

 建設地の真向かい30メートルの至近距離にはマンションがあり、周辺には集合住宅やオフィスビルが林立する。そのような人口密集地でのパラボラアンテナ設置により、近隣住民は電磁波を24時間浴びる環境になり、人体のみならず精神に悪影響を与えるため、アンテナの設置を中止すべきと、同会は主張している。

 同会が提訴や区議会への陳情、署名活動などを展開する一方で、スカパー側は工事を進め、既成事実を作ろうとしている。しかし、集会に160人もの参加者が集まるという事実は、反対運動の広がりを物語っているのではないだろうか。

建設の差し止め求めて訴訟も

 最初の代表あいさつでは、門川淑子代表が状況を報告した。近隣住民らは2007年1月19日にスカパーに対し、アンテナ設備建設の差し止めを求める訴訟を東京地裁に起こしている。今年1月28日に7回目の口頭弁論が行われた。また、東陽二丁目町会会長が江東区議会や東京都議会に陳情を提出した。
 続いて、5人からなる原告弁護団による解説があった。代表して高木一昌弁護士が、「スカパー裁判のこれまでと今後」と題し語った。

 高木弁護士の説明によると、スカパーのパラボラアンテナ設置で、周辺に生活している人は不利益を被る。電磁波は人体に悪影響を及ぼすため、健康・安全に毎日を暮らしていく権利が侵害される。スカパーの経済的利益のために、人として生きていく権利が脅かされる。これが差し止めを求める根拠である。

 他にも、被侵害利益として精神的苦痛、日照・景観の阻害、嫌悪施設ができることによる資産価値低下が、差し止めを求める根拠に挙げられている。

 同弁護士はまた、スカパーの問題は、住民の権利を侵害する実体面だけでなく、「住民に対する姿勢」という手続き的な面にもあるとする。つまり、住民とスカパーの間に話し合いと呼べるものはなかった。理解を求める努力をせずに事業を進めようしている。話し合いのコミュニケーションがないまま、工事だけが進んでいる。

アンテナの電磁波は危険か?

 不誠実な姿勢は裁判手続きにおいても現れている。裁判において原告弁護団は被告側に求釈明(説明を求めること)を行ったが、スカパー側の回答は具体的内容ではなく、人を喰った回答ばかりであった。

 例えば「東陽町以外の場所にメディアセンターを建設することは検討しなかったのか」という問いには、検討場所として複数の地名を挙げるのみで、具体的な地番や検討内容、選ばれなかった理由を開示しない。原告弁護団としては不十分な回答に対しては再度、求釈明を行うが、「裁判の中でもスカパーの対応には問題があることを心にとどめて欲しい」と強調した。

 裁判の争点は、「パラボラアンテナが発する電磁波は人体に悪影響を及ぼすか」である。弁護団はこの点について、国内はもとより世界各国の研究結果を入手して立証を続ける方針とする。

 スカパー側は「電波防護指針」を下回っているから問題ないと主張するが、日本の電波防護指針は先進諸国の基準に比べて緩い。しかも電波防護指針は熱効果を念頭に置き、生理的効果や免疫系やガンなどの非熱効果による健康影響の予防を考慮していない、と弁護団は主張する。

殻に閉じこもるスカパーと建設会社

 弁護団の説明のあと、出席した江東区議会議員が紹介された。斉藤信行、前田かおる、薗部典子、中村まさ子の各議員が紹介され、代表して斉藤議員があいさつした。斉藤議員は区議会建設委員会の委員長で、建設委員会ではスカパー問題の陳情を審議中である。

 斉藤議員は、自らをスカパーとメディアセンターを施工する竹中工務店に憤りを感じている1人、とする。建設委員会で建設現場を視察したが、両者は係争中であると主張して議員を現場に入れさせず、説明もしなかった。仕方なく、隣のマンションから視察したという。

 また、両者に電話で連絡したが、「責任者は留守」「社長は不在」の一点張りで、伝言を残しても連絡は皆無であった。2008年2月1日には委員長名で両者の社長宛に文書で申し入れをしたが、何の音沙汰もない。区民の代表である区議会さえ、ないがしろにする対応である。

 ただ、住民の戦いが両者を追い詰め、殻に閉じこもらざるを得なくなっているとも言える。斉藤議員は、「皆さんの戦いは地域住民の健康を守るだけでなく、電波行政にも影響を与え、各地の戦いの励みにもなる。共に頑張りましょう」と結んだ。

専門家が指摘する電磁波問題

 続いて、荻野晃也・電磁波環境研究所所長(理学博士)が「電磁波による健康への影響について」と題し講演した。荻野博士は、最初にメディアセンターの建設現場を見て、「このようなところに、何でパラボラアンテナを作るのか」と悲しい気持ちになったという。また、「健康とは何かということを理解して欲しい」とも語った。世界保健機関(WHO)は健康をこう定義している。

 「身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、単に病気あるいは虚弱でないことではない(Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.)」

 荻野博士は、つまり健康には精神的・社会的に良好な状態も含まれ、現実にパラボラアンテナが稼動して電磁波が発信され、ガンや小児白血病にならなくても、現在の状態でもスカパーは周辺住民を不健康にしていると主張する。

 電磁波の健康被害については、世界中の研究成果をもとに考えられるさまざまな問題を指摘した。

 ・電磁波の人体の影響には熱効果と非熱効果がある。規制は熱作用のみを対象とされがちだが、近年の研究では熱作用を起こすレベルよりも低い電磁波レベルで、さまざまな生体への影響が出ることが明らかになっている。

 ・電磁波は大人よりも子どもに悪影響を及ぼす。携帯電話の電磁波が大人の頭よりも子どもの頭の方をはるかに深く貫いていることを示した研究がある。

 ・世界各地の疫学研究で、放送や携帯電話のタワー周辺で白血病やガンが増加することが確認されている。

 ・スペイン北部のバラドリッドでの調査によると、携帯電話のタワー周辺のコウノトリの巣ではヒナがいない巣が急増する。

 ・電磁派に過敏な人が増加している。電磁波で免疫機能が低下し、心臓圧迫、ストレス、精神不安、頭痛、睡眠不足などを引き起こす。

 このほか、質疑応答でもパラボラアンテナ設置による悪影響について指摘された。

 ・パラボラアンテナが地震や災害で倒壊する危険性がある。アンテナは軌道上の人工衛星と通信するが、アンテナが倒壊すれば住民に向かって強力な電磁波が放射されることになる。

 ・電磁波が天空に向かって放射されるということは、付近のマンションを高層化することが難しくなり、資産価値を低下させる。

 集会では、最後に原告団長から集会決意が読み上げられた。スカパーは自社の経済的利益のために住宅密集地にパラボラアンテナを建設しようとする。原告団は勝利するまで戦うことの責務を感じている。戦いは容易ではないが、多くの力を結集すれば勝利は可能である、と。

【参考サイト】
スカパー巨大アンテナに反対する住民の会 公式ホームページ
東京都議会都市整備委員会速記録第八号(東陽2丁目町会会長による陳情)

林田力「「科学的」論争の落とし穴」オーマイニュース2008年3月24日

電磁波の安全性議論についての一考察

 ある主張に対して「それは科学的である」「科学的でない」と主張されることがある。電磁波や環境ホルモン、遺伝子組み換え食品、化学物質など登場してから歴史が浅く、影響についてのデータが十分に蓄積されていないものについての安全性・危険性を議論する際に主張される。

価値中立的な外観

 「科学的である」「科学的でない」との主張は、議論において強力な印象を与える。一般に「科学的であること」は「科学的でないこと」に比べて優れているとの価値判断がある。一方で科学的とは、客観的で、価値中立的であることを含意する。

 つまり「科学的である/ない」と主張することで、批判者は一つの価値判断を下しているにもかかわらず、客観的で、価値中立的な判断を下しているような外観を作出できる。このため、本当に科学的であるのか否かという点は別として、「科学的である」「科学的ではない」と決め付けることは議論で自説を押し通す上で非常に強力な武器となる。

 従って、議論において「科学的である/ない」という主張が出てきたら、雰囲気に流されず、「科学的である/ない」と判断した根拠が何かを冷静に考える必要がある。

 何の根拠もなければ「科学的である/ない」という主張も単なる決め付けであり、主張者の感想に過ぎないことになる。

 そこで「科学的であること」とは何かが問題になる。ある主張を「科学的である/ない」と評する場合の「科学的」とは第三者が検証可能であることを意味すると考える。第三者が検証可能、即ち他の人が同じように検証しても同じ結論に到達できるような主張が科学的である。

 科学的とは客観的と言い換えられるかもしれないが、客観的とは何かという問題が発生し、トートロジーとなる。しかも、客観性を突き詰めると主観的な存在である人間が真の意味で客観に辿り着くことが可能なのか、という根源的な疑問が出てくる。

 「科学的であること」を検証可能であることと捉えるならば、ある主張に対して「科学的ではない」と決め付けることが、勝ち誇ることには直結しない。

 なぜなら、ある主張が「科学的でない」というのは第三者に検証可能な形で提示できないことであり、その主張の正しさを第三者が納得できなかったというにとどまり、その主張が誤りであることを意味しないからである。

 例えば「電磁波は健康に悪影響を及ぼす」という主張がある。この主張が「科学的である」ためには、電磁波を浴びることで健康が害されたことを、第三者に検証可能な形で証明できなければならない。これができなければ上記主張は「科学的ではない」との烙印を押される。

「科学的か否か」で議論は決着せず

 実際のところ、電磁波の有害性を主張する研究の多くは疫学研究である。放送タワーや携帯電話の基地局のような電磁波発生源の周辺に住む人は、他の地域に住み人に比べてガンや白血病など病気の発生率が高いという内容が多い。

 ここでは電磁波発生源の周辺に住む人々は病気が多いという統計から「電磁波を浴びたことが病気の原因」という結論を導き出している。これに対して、疫学的研究だけでは、電磁波を浴びたから白血病になったという因果関係を説明してはいないと批判することは可能である。すなわち、「電磁波は有害」との主張は「科学的ではない」との批判である。

 ただ、「電磁波は有害」が「科学的ではない」と批判できたからと言って、それで議論が決着する訳ではない。電磁波の有害性を第三者に検証可能な形で提示することができていないとするにとどまり、主張が誤っていることを意味しない。むしろ、多くの疫学研究が電磁波と病気発生率との相関を示しているという事実は厳然と存在する。

 また、「電磁波は有害」との主張が「科学的ではない」と退けたとしても、「電磁波は安全」ということにはならない。電磁波の安全性を主張したいならば「電磁波は安全」が「科学的であること」を示さなければならない。

 積極的に安全であることを証明するのが「悪魔の証明」になると言うのならば、電磁波の有害性の根拠となっている疫学研究に対し、病気発生率が高いのは電磁波以外の要因であることを説明できなければならない。それができないならば「電磁波の安全性」についての主張は「科学的ではない」との批判を免れない。

 結局のところ、「科学的である/ない」という評価軸だけでは、何れの主張も科学的に認められるところまで至っていない場合、安全なのか危険なのか結論が出せない。あくまでか科学の立場で論じるならば、科学の進歩を待たなければならない問題である。

 しかし、規制をするか否かという判断を下す場合のように、とりあえず結論を出さなければならない場合もある。その場合、「その主張は科学的でない」として議論に終止符を打つことはできない。何らかの結論を出すためには「危険性が立証されなければ安全とみなす」または「安全性が立証されなければ危険とみなす」の何れかのルールが予め合意されている必要がある。

 従来型の自由主義経済の下では、規制は最小限度に止めるべきであり、とする発想が支配的であった。その場合、危険性が確認されなければ規制されるべきではない、となる。危険性の主張を「科学的ではない」と攻撃し、積極的に安全性を説明しようともしない態度は、この「危険性が立証されなければ安全」とみなす思想に立脚しているからに他ならない。

「因果関係が明らかになったときは、手遅れ」を防ぐため

 この発想に対するアンチテーゼとして登場したのが、慎重な回避(Prudent Avoidance)、予防原則(Precautionary Principle)、予防的方策(Precautionary Approach)である。すなわち、「安全性が立証されなければ危険とみなす」という考え方である。

 環境・健康問題では因果関係が明らかになった時には既に手遅れになることが多い。取り返しがつかなくなる前に対策しなければならないという思想で、ヨーロッパを中心に広がっている。

 国連環境開発会議(地球サミット)の「環境と開発に関するリオ宣言」(1992年)第15原則は以下のように述べる。

 「環境を保護するため、予防的方策は、各国により、その能力に応じて広く適用されなければならない。深刻な、あるいは不可逆的な被害のおそれがある場合には、完全な科学的確実性の欠如が、環境悪化を防止するための費用対効果の大きい対策を延期する理由として使われてはならない」

 「危険性が立証されなければ安全とみなす」と「安全性が立証されなければ危険とみなす」の何れを選択するかという問題はポリシーの問題であって、科学の問題ではない。

 この点についての認識のないままで「科学的である/ない」という主張を応酬しても噛み合わなくなる。実際に電磁波などの安全性についての議論が混乱するのは、この点が曖昧のままで「科学」を持ち出すことが一因であると考える。

 科学的な議論をすることは第三者と共通認識を形成していく上で非常に重要なことである。しかし同時に、科学の限界についても認識しなければならない。それが真の科学的態度である。

【記者付記】 本記事の着想は別記事「人口密集地への巨大パラボラ乱立に猛反発」のコメント欄から生まれたものである。コメントから意見が対立する原因、議論が噛み合わなくなる原因を探っていく中で本記事の着想が生まれた。コメントを寄せてくれた方々に感謝の意を表したい。

林田力「エネルギーを無駄にしない〜興味深い社訓を見つけた」オーマイニュース2008年3月27日

前に進むだけが善ではないのだ

 新年度を前にしたいま、興味深い社訓を見つけたので、紹介したいと思う。

 「エネルギー(体力)を無駄に使わない」というのだ。

 社是・社訓・経営理念・企業行動憲章・ミッションステートメント・クレドなど、呼び方はさまざまだが、企業の経営姿勢や従業員の行動基準を定めた社訓は、従業員を企業の目指すべき方向に合わせる上で、一般的に有益なツールだ。

 言葉自体は古びた感じがするが、社訓に相当するものの重要性は現代の企業にとって増している。価値観が多様化した いま、企業は従業員の多様性を認め、ライフスタイルを尊重しなければならないが、その一方で、企業目的の実現のために従業員を1つの方向に束ねなければならない。その1つの方策として、社訓がある。

 ただし、社訓には立派なことが書かれているが、従業員の行動規範になっていないという企業も少なくない。

 「愛と誠心と感謝をこめて、お客様に愛される不二家になりましょう」という社是を持つ不二家が、消費期限切れの牛乳を使ってシュークリームを製造・出荷した事件は、その典型例である。

 社訓を従業員に浸透させる努力を怠ったとも言えるだろうが、社訓の内容に問題があるともいえる。抽象的なきれいごとを並べているだけで、行動規範になっていない場合もありうるのだ。

 たとえば、経営者の自己満足や世間向けのアピールのために社訓を作成し、事務所に掲げ、朝礼で唱和させる。しかし、実際に規範となる内容を持たないため、日々の業務では社訓に反するような指示が日常化してしまう。社訓の内容がきれいごとで終わっていないか、検討する必要があるのだ。

 冒頭に挙げた社訓は、その点示唆に富むものである。

 株式会社PACSPLUS(東京都中央区、代表取締役・崔迥植、旧称:株式会社メディカルスタンダード)という、医療用画像ファイリングシステムを提供する韓国企業の日本法人のものだ。

 社訓は、冒頭に「創意」「協力」「責任」「挑戦」という4つのキーワードが記されている。その下の社員の心構えのなかに、太字で、「エネルギー(体力)を無駄に使わない」とある。

 これはどういうことか。通常、社訓は従業員に企業目的に沿う行動を積極的に求める。しかし、同社の社訓は「無駄に使わない」のである。高度成長期の日本でもてはやされ、今は時代遅れとなった「モーレツ社員」の対極に位置する。

 同社の社訓は、さらに「利益を生み出す行為」と「不利益になる行為」を箇条書きで列挙したあと、最後に「人を幸せにするとは、その人の願う事に対してほんの少し手を貸してあげる事」と付記している。

 これは、実にささやかな行動である。そこには「社会公共に責任を負っている」といわんばかりの気負いはない。

 「自社の事業は、社会公共の利益に合致している」と思い込めば、事業の推進によって不利益を受ける人々の声を聞かず、彼らの犠牲を当然視してしまう企業姿勢に行き着く場合が多々あるのだ。それを踏まえれば、同社の社訓がより健全と感じられる。

 日本では前向きであること、積極的であることが是とされる傾向がある。一番頑張らなくていい人にまで頑張らせ、また、頑張ることが美徳であるかのように受け止める風習がある。

 だが、同社の社訓では無理に頑張ることを強制するような要素はない。こういった企業が日本で成功するようになれば、人間を不幸にするシステムとまで言われた日本社会も、より多くの人にとって働きやすい、豊かで多様な社会になるのではないか。

林田力「日本マクドナルドの株主総会を実況リポート!」オーマイニュース2008年3月29日

フランチャイズ戦略は成功するか

 日本マクドナルドホールディングス株式会社の第37回定時株主総会が27日、東京国際フォーラムで開催された。株主として出席したので、内容を報告したい。

 会場のロビーでは、ドリンクコーナーが設置され、ホットコーヒーやウーロン茶がサービスされていた。そのためか、13時からの開始だが、30分前にはかなりの人数が集まって、コーヒーなどを飲んでいた。株主に、小さな子どもを連れた母親の姿が目立っていたのが印象的だ。

 総会では最初に、原田永幸代表取締役社長が「定款の定めにより、議長を務める」と宣言し、定足数を確認した。出席株主数は約5万人と説明された。報告事項については、VTR放映で事業報告および計算書類報告の概要を説明し、次いで原田社長からスライドを使っての説明がなされた。

成長を続ける4つの成功要因

 原田社長は、最初に日本マクドナルドの業績の向上について強調した。1997年から2003年までマイナス成長していたが、2004年以降、4年連続でプラス成長している。そしてプラス成長を続ける成功要因として4点を挙げた。グローバリゼーション、徹底した投資、徹底した客数向上、人材の意識向上による企業改革である。

 第1にグローバリゼーションである。これは全世界の成功事例を日本で展開するという戦略である。具体的にはメガマックやマックグリドルなどの新メニューである。この新メニューによって新規顧客を獲得できたとする。キッチンシステムやトレーニングシステムについても世界で成功しているベストプラクティスを導入した。

 第2に投資戦略である。新規店舗の出店や不採算店の閉鎖に加え、既存店舗の改装サイクルを今まで以上に速くすることで、市場動向に迅速に適応できるようにする。

 第3に客数向上である。客単価を上げ続けることはできないとし、新しい顧客を招くこと、来店頻度を増やすことを目指すとした。具体策として100円マックと24時間営業を挙げる。今後も深夜営業のマーケットを開拓していくとする。また、綿密なリサーチの下で実施した地域別価格についても、消費者の理解を得て顧客数を失わなかったと総括した。

 第4に人材の意識向上である。業績向上は従業員の意識向上にかかっていると断言する。そして店長の役割について言及する。店長は管理職であり、成長戦略の原動力とする。店長には高いレベルの知識・スキル・強いリーダーシップが求められる。人材の確保・労務管理は店長の責任である。

 また、あるべき労務管理に近づけている。残業は激減しており、サービス残業は禁止している。ワークライフバランスという日本人の文化で理解できていない点も浸透させていきたいと述べた。

徹底した利便性の追及を目指す

 まとめとして原田社長はマクドナルドの価値をスーパーコンビニエンス(最高の利便性)と定義する。これはマクドナルドが創業以来、一貫して追求した価値とする。もともと、ファーストフードは注文したら、すぐに食事を出すクイックサービスという利便性を提供している。車に乗ったまま注文できるドライスルーも深夜営業も利便性向上の延長線上にある。マックラップも片手で食べることができるという利便性を追及したメニューである。

 食の安全の観点ではフランチャイズ企業による自主衛生基準の逸脱について言及した。マクドナルドは食の安全に対するプライドと自信を持っていたが、反省点は心の問題とする。技術的なトレーニングだけでなく、安全性を求めることの意義について伝えきれていなかった。食品管理伝道師(Food Evangelist)という専門チームを組織し、目的意識を醸成していくとする。

 出店戦略としては300店舗増加を打ち出した。直営店からフランチャイズ店へシフトさせ、フランチャイズ比率を増加させる。フランチャイズ化推進の理由はフランチャイズ店の方が直営店よりも業績が上だからとする。フランチャイズ化により、純資産利益率が上がる。その結果、株主価値は向上する。

単独スポンサー番組「全力!チューンズ」放映開始

 最後に、マクドナルドの単独スポンサー番組についてVTRを交えて紹介した。日本テレビ系列で4月から土曜18時30分から「全力!チューンズ」という番組名で放送する。音楽の才能ある子どもを紹介する。家族皆が楽しめ、家族間のコミュニケーションの機会を提供できるような番組を目指す。CMではマクドナルドのCSR・食育の取り組みとする。15秒や30秒のスポットCMでは伝えきれないため、単独スポンサーとなり、90秒のCMを流すことにしたとする。

 決議事項については原田社長から一括上程一括審議方式を採用するとの提案があり、了承された。決議事項は剰余金の処分、取締役選任、監査役選任の3点である。

 いよいよ質疑応答である。挙手した株主の中から原田社長が指名した人物が質問する。質問希望者全員は質問できず、途中で打ち切られた。質問は株主の立場からのものと消費者(利用者)の立場からのものに大別された。

質問:店頭公開当時からの株主である。当時100株単位で40万円以上したが、現在の株価は3分の1程度である。公募当時に役員が40万円以上の価値がある判断したから、公募価格を決定したのではないのか。現状の株価をどうのように考えているのか。市場原理の結果という回答はなしでお願いしたい。

 (質問者は出資した財産が3分の1に減少しているという思いがあり、恨み言に近い感じで長々と話していたため、「質問は簡潔に」と静止されたが、逆に会場から「株価を上げろ」と質問者に同意する意見が飛んだ)

回答:4年前から経営陣が変わっており、着実に成果は出ている。ここで会場から拍手が出る。今年は投資のピークであり、投資効果も今後は上がっていく。フランチャイズ化を進めることで、オーナーに複数の店舗を経営させるようにする。フランチャイジーの規模を拡大させることにより、フランチャイジーの投資余力を増大させ、既存ビジネスの投資をフランチャイジー主体にシフトさせる。

 株価下落については真剣に受け止めている。株主へのお願いとして、一時の上下で見るのではなく、長期的に保持して欲しい。昨年、サブプライム問題の影響で株価は暴落したが、マクドナルドの株価の下落率は日経平均やJASDAC市場の平均株価の下落率よりも小さい。下落幅が小さいということは評価された結果と認識している。

質問:マックカフェ事業の将来性はどうか。マックカフェは個人的に客数が激減し客単価も減少しているように見受けられる。

回答:マックカフェは実験段階であり、いまだ実験の結論は出ていない。採算性の厳しい小規模店舗の活用策を模索する目的もあり、単純に売上高や利益だけで成功不成功を判断するつもりはない。

質問:子ども連れや中高生主体の店舗でも禁煙が徹底していない。フロア内分煙で伏流煙が流れてくる店舗、4階建てで禁煙席が3階以上で喫煙席の2階を通る必要がある店舗がある。形式的な分煙ではなく、きめ細かな対応して欲しい。

 (この質問に対して、会場からは拍手が寄せられた)

回答:会場の株主のような方たちばかりならば禁煙を推進できるが、現在の調査結果では禁煙の徹底は売り上げを下げることになる。また古い建物ではダクトの位置などの関係で、禁煙席を上階とせざるを得ない場合がある。会社の方向性は禁煙にあるが、バランスを取りながら進めたい。

質問:江東区の店舗で、分別したゴミ箱が設置されていない。

回答:自治体で分別を義務付けている場所では分別したゴミ箱を設置するようにしている。ただしスペースの関係で設置できない店舗もある。そのような店舗では回収業者に分別させている。調査の上、改善していきたい。

質問:ハンバーガーでは新製品が販売されるのにドリンクは変わっていない。お茶の種類を、コンビニのように増やせないか。また、シニア世代にも支持されるメニュー作りが必要ではないか。

回答:ドリンクは利益率が最も高いため、検討している。ランチ以外の時間帯の来店率を高めるためにもドリンクの充実には意義がある。コーヒーを刷新したのも、このためである。アイデアはいろいろあるが、優先順位をつけて投入していきたい。一方でマクドナルドらしさは忘れないようにしたい。

 シニア世代向けという点については、お子さま、若者、ファミリーが客層の核であることは変わらないとする。もっと上の世代に広げていく努力はしなければならない。しかし、それよりも今の世代が一生付き合えるような関係にしていくことが重要である。若いころはよく行ったが、最近は行かなくなったということは避けたい。

 (ここで会場から「質疑応答を打ち切って早く採決すべき」という無許可発言が出される。まるで与党総会屋のような発言である)

質問:上場以来の株主だが、消費者や株主の意見が経営に反映されていないのではないか。意見を吸い上げる仕組みを作って欲しい。また、株価が下がっているのは魅力がないからではないか。新しい株主優待を検討して欲しい。

回答:コミュニケーションを活発化させたい。例えば来店客数に比べて、ウェブサイトへのアクセス数が低いという問題がある。消費者の声は結構、聞けているのではないかと思ってはいるが、一方的な情報発信だけでなく、その逆についても積極的に進めたい。

 優待については、どのような形が良いのか検討したい。ただし企業が成長するために内部留保は不可欠である。

 (ここで先ほどの与党総会屋的無許可発言を受けたのか否かは不明だが、「だいぶ時間が経過したので、質疑応答は残り3名で終了させたい」との説明がなされる)

質問:株主総会出席者への記念品として大量のコーヒー無料券を配布しているが、ほかのメニューを購入した方のみを対象とした方がいいのではないか。また、無料券が金券ショップで販売されているという現実がある。問題ではないか。

回答:コーヒー無料券の配布はビジネス的に意味がある。マクドナルドに来る機会がなかった方にも利用機会を提供する。実際のところ、コーヒー無料券でコーヒーだけしか注文しない方は少ない。合わせて別メニューも注文しており、売り上げに貢献している。
また、無料対象をコーヒーにしたのはマクドナルドのコーヒーがまずいという固定観念が染み付いているためである。飲まず嫌いの方に無料で飲んでもらって、イメージを変えて欲しいと考えている。金券ショップで売られているのは遺憾であり、対策が取れるか検討したい。

質問:外国人の役員の方に株主へのメッセージを話して欲しい。

回答:パット・O・ドナヒュー取締役、デビット・T・マーフィー代表取締役、クレイグ・M・レナード取締役より、それぞれ通訳を介してあいさつがなされた。内容は、親会社は日本マクドナルドに信頼を寄せている、素晴らしいブランドの株主であることに誇りを持って欲しい、将来はもっと良い方向に進むというものであった。

 (あいさつの後に原田社長が「外国人役員の使命は日本法人を管理することよりも、日本人のマネジメントを育成していくことにある」と補足コメントした)

質問:最近、オペレーションの質が低下している。商品の入れ忘れやキャンペーンのクーポンを入れてくれないことがある。フランチャイズ化推進による質の低下が心配である。

回答:年間のべ14億人の顧客が来店し、クルーは15万人もいる。質が低下しないよう人材育成への投資を継続していく。教育だけではなく、モニターするシステムもある。顧客にマクドナルドとは分からない形でアンケートを採り、競合他社との比較もしている。まだまだパーフェクトではないが進歩している。

   ◇

 以上で質疑を打ち切り、議案の採決に入った。拍手承認ですべての議案が承認された。最後に本総会で承認された新任の役員を原田社長が紹介し、総会は終了した。

 質疑応答は途中で打ち切られた上、質問者が経営側の回答に対して再質問もできず、株主とのコミュニケーションという意味では充実したものは言えなかった。ガス抜きという効果さえ期待できず、不満を有している人にはかえって不満が高じる結果となってしまったのではないかと思われる。

 一方で質問者の質問は株主利益の受益者の視点や利用者の視点であった。これに対して経営側は経営の視線で語るため、そもそも有益な議論とは言い難かった。実際のところ、質疑応答の途中から退席者が続出しており、総会出席株主でも質疑や議案について関心の低い株主が少なくないことを示している。記念品のマックカードやコーヒー無料券目当てで総会に出席する株主も相当数いるのではないかと推測される。

フランチャイズ戦略に注目

 株主総会の内容から日本マクドナルドの今後を考える上で注目すべき点を上げるならば、フランチャイズ化である。クーポンの大量発行や100円マック(低価格商品)、24時間営業などは客層拡大を実現するものだが、利益率の低下やコスト増大という形で現場の負担が重くなる。ところが、フランチャイズ店ならば、それらの負担をフランチャイジーが負担することになる。

 また、残業代不払いで裁判になった店長管理職問題は、フランチャイズ店ならば店長を非管理職とする司法判断が確定したとしても、日本マクドナルド本体の労務問題ではなくなる。このように考えるならば日本マクドナルドにとってフランチャイズ化は現在の戦略を進める上でのデメリットをフランチャイジーに転嫁し、メリットだけを享受できる点で非常に好都合である。

 一方でフランチャイズ化がつまずきの石になる可能性もある。2007年11月に売れ残ったサラダに張ってある調理日時のシールを張り替えて翌日に販売した問題が判明したが、この背景にはサラダを廃棄せず、販売することでコストを節約したいという動機が存在した。フランチャイズ店では日本マクドナルドとは別個の存在であるフランチャイジーが経営主体となり、フランチャイジーは日本マクドナルドと利益が背反する場合もあることを認識しなければならない。

 また、フランチャイズ化が日本マクドナルドに好都合な理由はフランチャイジーに負担させることができるからである。しかし価値を生み出さず、フランチャイジーを搾取するだけならばフランチャイズ商法になってしまう。経営側が客数を拡大して、フランチャイジーとの共存共栄を目指していることは疑っていないが、理想通りに展開するか注視しておく必要があるだろう。

 最後に2008年度にマクドナルドが負の面で社会的に取り上げられた問題として、サラダの調理日時偽装問題と店長への残業代不払い裁判がある。両方とも株主総会において原田社長が言及したことは企業の姿勢として評価していいと考える。当然のこととの見方もできるが、当然のことをできる企業が少数なのが現実である。

 しかも世間的に大きな話題になったから仕方なく言及するという形ではなく、食の安全や従業員の意識向上という経営戦略とリンクさせる形で言及したことは、これらの問題と正面から向き合っていることを示すものとして積極的に評価したい。

 もっとも説明不足の点も感じられた。特に店長の問題については、店長が責任ある立場であることは理解できたが、労働基準法上の管理監督者である必要性について積極的な説明はなされなかった。

 一方でフランチャイズ化の推進は店長が日本マクドナルド本体の経営上不可欠の役職であるという主張の説得力を弱めることになる。この場合、店長が管理監督者の要件である「経営者と一体的立場」でないと認定する方向に働くだろう。この意味でもフランチャイズと直営店の関係がどのようになっていくかについて注目される。

林田力「原水爆禁止国民平和大行進、東京から出発」オーマイニュース2008年5月8日

平和を願う心は皆同じ

 原水爆禁止日本協議会などが主催する「2008原水爆禁止国民平和大行進」の「東京―広島コース」が5月6日、夢の島公園(東京都江東区)の第五福竜丸展示館前から出発した。

 これは、核兵器の廃絶や反戦・平和を訴えながら東京から広島までを歩くというもので、広島には8月に到着する予定だという。

 夢の島を出発した行進は明治通りを北上し、日曹橋交差点で左折し、永代通りを西に進み、茅場町で新大橋通りを南下。港区役所前が都内行進コースのゴールとなっていた。

 平和大行進の先頭集団は青年が中心。レゲエ、ヒップホップなどの音楽を流すサウンドカーを先頭に、ピースパレードが行われ、その後、労組系団体の行進が続き、参加者の年齢層も上がる。のぼり旗が林立し、デモの雰囲気をかもし出していた。

 ギターを持ったミュージシャン風の人や女性の団体、僧侶のグループなどもあった。初めて見た人には何の集まりだか分からないかもしれない。

 いろいろな参加者がいるが、「平和を願う心は同じ」ということを感じさせる行進であった。国民平和大行進は今年で50周年を迎えるが、それにふさわしい、幅広い参加者を結集することができのではないだろうか。

林田力「やさしいまちの誘導システムが江東区北砂に登場」オーマイニュース2008年5月10日

ユニバーサルデザインの至れり尽くせりの案内板

  やさしいまちの誘導システムが、江東区北砂地区に設置された。

 これは、誰もがわかりやすく安全に利用できるようにという、ユニバーサルデザインの考えに基づき設計された案内板である。
 もともとは、東京都の先駆的モデル事業として、東京メトロ東西線南砂町駅周辺に誘導システムが設置された。今回、江東区独自の事業として、南砂町駅の北側のエリアである北砂4丁目、7丁目にも設置されたのだ。砂町銀座商店街や仙台堀川公園のあるエリアである。

 誘導システムは、黄色を背景色としており、街中で一際目立っている。盤面は紺の背景に白い文字で書かれており、読みやすい。

 弱視や色覚に配慮した案内板になっている。表示内容は、広域案内図や周辺案内図、最寄りのバス停やトイレと豊富である。電子音を発して位置を知らせ、夜間は照明がつく。至れり尽くせりの案内板である。
 江東区は、伝統的な下町の性格を残す一方で、近年のマンション建設ラッシュにより、新旧住民が入り混じる街である。また、東西方向の移動には、地下鉄が便利だが、南北の路線は少なく、徒歩やバスによる移動も多い。この点に、誘導システムが求められた背景があると思われる。

 一方で、親切過ぎる案内板には「過剰サービス」「税金の無駄遣い」との批判が生じる余地もある。江東区では「やさしいまちづくりワークショップ」を開催し、この誘導システムを検証する予定である。

林田力「労働組合の政治活動をどう考えるか」オーマイニュース2008年5月12日

目的に合致、組合員の主体的取り組みも重要

 労働組合が政治活動を行うことの是非について考えたい。私は記事「原水爆禁止国民平和大行進、東京から出発」で、労働組合が核兵器廃絶を求める行進に参加していることを紹介した。

 この記事に対して未登録コメント欄では、労働組合が政治的な運動に関与することは労働組合の目的に反しているのではないかとの声が寄せられた。また、他の記者からも同種の問題意識を持って記事を書き、話題になった経験があるとのコメントをいただいた。そこで、労働組合が政治活動を行うことの是非について考えてみたい。

労働者の権利守るための政治活動

 結論を先に書くならば、労働組合が政治活動を行うことは労働組合の目的に合致しうると考える。労働組合の定義は労働組合法第2条で規定されている。即ち「労働者が主体となって自主的に労働条件の維持改善その他経済的地位の向上を図ることを主たる目的として組織する団体」とするものだ。

 ここでは「労働条件の維持改善その他経済的地位の向上を図ること」を目的とするのみで、どのような手段によって目的を実現するかは制限していない。労働条件を改善するためには使用者と団体交渉を行い、賃上げなり労働時間短縮なりを勝ち取るのがオーソドックスな活動となるが、それに限定されない。

 例えば最低賃金を上げる、労働時間を制限する、というような法律の制定を働きかけ、それによって労働条件を改善させる方法も一案である。そのための政治活動ならば、労働組合の目的に合致する。

 実際問題としてホワイトカラー・エグゼンプションのように法律によって労働条件が激変してしまう場合があり、それは使用者との団交では解決できない問題である。労働組合が政治活動を行うことは必然とさえ言える。

 また、労働者の権利は日本国憲法によって保障されたものである。憲法で保障された権利がなくなれば、労働組合の存立基盤さえ脅かされる。日本では欧米諸国と異なり、労働組合の法的承認は労働者による長い闘争を経て勝ち取ったというよりも、日本国憲法の成立によるところが大きい。よって日本の労働組合が憲法についての議論に敏感になるのは当然で、労働組合が護憲運動と結びつくことは自然の成り行きである。

 加えて戦争と労働者の経済的地位向上は両立しがたい。戦争は市民生活を破壊しうるものである。戦争中は戦争の遂行が優先され、労働者の経済的地位向上は望めない。日本は十五年戦争における総力戦で身をもってそれを経験した。従って労働組合が反戦・平和運動に同調するのも当然である。

 以上より、労働組合が政治活動、しかも労働問題とは関係が薄そうな護憲運動や平和運動にまで取り組むことは、労働組合の目的に合致しうると考える。

組合員の主体的取り組みも重要

 一方で労働組合の政治活動に否定的な意見が少なくない理由として優先順位の問題がある。

 政治活動が労働組合にとって意義のある活動であるとしても、他に優先すべき活動があるのではないか、という問題は残る。労働組合のリソースを政治活動にばかり配分し、他の活動が疎かになっているのではないかとの問題意識である。その結果、使用者には逆らわず、賃上げ交渉は行わない、リストラがあっても雇用を守らない組合では本末転倒である。

 ここにおいて労働組合法の定義に戻る。条文で「労働者が主体となって自主的に」と規定している点がポイントだ。労働組合が政治活動をすること自体は問題ないが、「労働者が主体となって自主的に」行うものでなければならない。政党の集票マシーンとなるような活動は労働組合の目的に反する。

 そして、労働組合の政治活動に批判的な立場も、この点を問題視していると考える。職場ではサービス残業やパワーハラスメントの問題があるにもかかわらず、労働組合は改善しようと努力していないのではないか。それでいて政治活動だけは熱心で、組合員を動員のための駒としか考えていないのではないか、との問題意識である。

 これは組合員と組合執行部の意思の乖離の問題だ。組合執行部の方針が組合員のことを考えた内容になっていないことからくる問題である。これに対しては組合員が組合執行部の方針を正しい方向に変えていくしかないと考える。

 労働組合は民主的な組織であることが法律によって規定されている。労働組合法第5条第2項では「単位労働組合にあっては、その役員は、組合員の直接無記名投票により選挙されること」と定める。従って組合執行部の方針に不満があるならば、組合員として発言し、方針を変えていくことができる。また、別の組合に加入することや自ら組合を立ち上げることも選択肢として存在する。

 現存の労働組合の活動に不満があるとしても、それ故に労働組合の意義をも否定してしまうことは建設的な姿勢ではない。執行部任せではなく、労働組合員一人一人が主体的に組合活動に取り組むことが正しい労働組合のあり方であると考える。

アニメ

林田力「アニメ『BLEACH(ブリーチ)』新章突入」オーマイニュース2008年4月25日

オリジナルストーリー「新隊長天貝繍助編」への期待

 テレビ東京系列で放映中のアニメ「BLEACH」(ブリーチ)が2008年4月23日に放送された第168話から新章「新隊長天貝繍助(あまがいしゅうすけ)篇」に入った。BLEACHは虚(ホロウ)を退治する死神の能力を身につけた高校生、黒崎一護(くろさきいちご)と仲間の活躍を描いた漫画である。週刊少年ジャンプで連載されている久保帯人のマンガが原作であるが、この「天貝繍助篇」はアニメオリジナルストーリーである。

 それまでアニメでは原作にほぼ忠実な「虚圏(ウェコムンド)篇」を放映していた。新たにアニメオリジナルストーリーを放映する理由としては連載中の原作にアニメが追いつき、原作のストックが減少したことが考えられる。これは連載マンガ原作の人気アニメでは、しばしば見られることである。アニメ「BLEACH」でも過去に「バウント篇」というオリジナルストーリーを放送したことがある。

 このような場合、通常、原作の話が一段落した後でオリジナルストーリーを放送するが、「天貝繍助篇」は違った。「虚圏篇」が決着していない状態で「天貝繍助篇」に入るという、かなり強引な展開になっている。

 4月16日に放送された第167話では最後に、キャラクターに「大人の事情」で次回から新しい話に入ると説明させただけであった。一方で連載中の漫画も2008年4月上旬に発売された週刊少年ジャンプ第18号以降、「虚圏篇」から唐突に「過去篇」に移っていることは興味深い。

 BLEACHの魅力のひとつは個性的なキャラクターにある。中でも死神の世界・尸魂界(ソウル・ソサエティ)を守護する護廷十三隊の隊長・副隊長はファンの人気が高い。一護に死神の能力を与えたために囚われた朽木ルキアを救出するため、一護たちは尸魂界に乗り込み、護廷十三隊と対峙することになる。

 このため、護廷十三隊は主人公たちにとって敵対する位置にいた。少年漫画の王道的なパターンでは主人公たちが敵役を順々に倒していくことになる。ところがBLEACHの異色な点は、護廷十三隊の隊長たちが順々に主人公たちと戦うのではなく、それぞれの思惑で行動した点である。これによって戦いだけではなく、ストーリーに深みが増した。

 この尸魂界篇に比べると、虚圏篇は、捕らえられた主人公の仲間(井上織姫)を救出するために敵地に乗り込む点は共通するが、ある敵を倒したら次の敵が登場という戦いの連続に終始する傾向が否定できない。週刊少年ジャンプで連載中の漫画が舞台を110年前の尸魂界に移す過去篇に唐突に移ったのも戦いの連続に飽きられるのを避け、過去の謎を明らかにすることで物語に深みを持たせようとしたものと考えられる。

 同様にアニメがオリジナルストーリーを放送するのも原作のストック減少が主要な動機であるとしても、戦いの連続による飽きを避ける面もあったと思われる。オリジナルストーリーが「新隊長天貝繍助篇」と題し、護廷十三隊にスポットを当てる内容にしたのも、主人公側と敵側の戦いが中心の虚圏篇で出番の少ない護廷十三隊の面々を登場させたいと思いがあったのではないかと推測する。「新隊長天貝繍助篇」では護廷十三隊の面々の興味深いエピソードが放送されるのではないかと期待する。今後の展開が楽しみである。

■関連リンク
BLEACH(テレビ東京アニメ公式サイト「あにてれ」)

林田力「コードギアスR2第5話衝撃の結末」ニュースのたね2008年5月5日

来週の放送が待ち遠しい

TBS系で放映中のアニメ「コードギアス 反逆のルルーシュ R2」第5話(2008年5月4日放送)の結末は衝撃的であった。「コードギアス」は現実とは別の歴史・技術力をもつ世界において、主人公ルルーシュが神聖ブリタニア帝国に反逆する物語である。
2006年に深夜番組として放映されたが、続編となる「R2」は2008年4月より日曜17時枠で放送中である。TBS系列の日曜17時枠は土曜18時枠から移動してきた枠で、土曜18時枠では従来、「機動戦士ガンダムSEED」「鋼の錬金術師」などの人気アニメを放送してきた。それだけ「コードギアス」の人気と「R2」に対する制作陣の意気込みを示している。
ルルーシュは北米大陸を本土とする神聖ブリタニア帝国の皇子であったが、母の暗殺後、真相も明らかにされぬまま、妹のナナリーとともに人質同然の扱いで日本に送られた。その後、ブリタニアと日本は戦争になり、無条件降伏した日本は植民地となった。日本は「エリア11」に改名され、日本人は「イレヴン」と差別され、旅行や携帯電話の所持さえ禁止された。
ブリタニアを憎むルルーシュは、ギアスという超能力を手に入れることで、母親の死の真相を明らかにし、ナナリーが平和に暮らせる世界にするためにブリタニアと戦うことを決意する。ルルーシュは巧みな統率力と戦術で日本人の抵抗組織を糾合し、そのリーダー「ゼロ」になる。抵抗組織のリーダーが敵国の皇子という設定は、良くも悪くも外圧がなければ何一つ変わることができない現実の日本社会への皮肉に見えて興味深い。
深夜放送された前編ではルルーシュ率いる黒の騎士団による反乱が成功直前になった時にナナリーが誘拐され、ルルーシュが指揮を放棄して救出に向かったところで終わった。リーダー不在の黒の騎士団は指揮系統が瓦解し、ブリタニア軍に制圧された。ルルーシュも捕らえられ、皇帝のギアスの力で記憶を改変され、平凡な学生生活を送っているところからR2は始まる。
コードギアスの魅力の一つは人型ロボット兵器の戦闘物でありながら、学園物の要素も楽しめるところである。主人公は正体を隠して戦っており、普段は学生として生活している。前編では生徒会副会長と黒の騎士団のリーダー「ゼロ」の二重生活であったが、R2ではルルーシュの学生生活はブリタニアから監視されており、ドタバタの学園シーンの中にも緊張感が同居している。
今回の第5話は、そのような楽しみを凝縮した回であった。日本人でありながらブリタニアの軍人となり、ゼロを捕らえた枢木スザクが学園に復学した。スザクの狙いはルルーシュの記憶が戻ったか否かを確かめることにあった。ルルーシュは記憶が戻ったことを悟られないように友人として振る舞い、それにスザクも合わせている。ドタバタはあるもののルルーシュのペースで進行していたが、最後にスザクがルルーシュに電話で話すように言った相手が衝撃的であった。
その相手はルルーシュにとっては生きる目的といえるほど大切な存在であったが、その人物についての記憶を失っていることになっていた。記憶を失った振りをしなければならない以上、相手のことを知らないと嘘をつかなければならない。しかし、それを言えば相手が傷つき、そのような事態はルルーシュにとって何よりも耐え難い。
ルルーシュは主人公であるが、正義の味方にしては腹黒い人物である。第4話の最後では相手を優しい言葉で寝返らせておきながら、内心では「散々使い倒して、ボロ雑巾のように捨ててやる」と独白している。これに対し、前編では主人公を阻むスザクの方が優等生的であった。「間違った方法で手に入れた結果に、価値は無いと思う」と発言し、内側からブリタニアを変えるためにブリタニア軍人を志願した。
そのスザクがルルーシュの一番痛いところを突いた過酷な罠を仕掛けた。放送後のインターネット掲示板などではスザクに対し、「酷い」との声が多数寄せられた。ルルーシュがどのように切り抜けるのか、次回の放送が楽しみである。

参考URL
コードギアス 反逆のルルーシュR2 公式サイト
http://www.geass.jp/

林田力「アニメ記事から考える「本掲載」と「たね」の境界」2008年5月22日

1歩離れて作品を相対化する姿勢

 市民記者にとってオーマイニュースへの記事掲載基準は大きな関心事である。私自身が投稿した記事を元に、どのような記事が掲載されるのかについて考えてみたい。

 私は最近、アニメについての記事を2本投稿した。ともに放映中のアニメ作品を評したものである。一方は「BLEACH」という作品、他方は「コードギアス 反逆のルルーシュ R2」という作品についての記事である。

・記事「アニメ『BLEACH(ブリーチ)』新章突入
・たね記事「コードギアスR2第5話衝撃の結末

 このうち、前者「BLEACH」についての記事は本掲載。後者「コードギアス」の記事は「ニュースのたね」扱いとされた。両者の何が異なるのか考えることで、どのような記事が掲載に値するのかが見えてくるのではないかと考える。なお、本記事中の意見はすべて記者個人のものであって、編集部の見解は取材していないことをお断りしておく。

 「BLEACH」の記事は、アニメが新しい章に突入したことを説明する。アニメオリジナルストーリーを放映することについて、原作マンガとの関係や作品の魅力を踏まえながら考察した。

 一方、「コードギアス」の記事はアニメ第5話が衝撃的な終わり方をしており、来週の放送が楽しみであると述べたものである。この記事では純粋に「コードギアス」のストーリーから感想を導き出している。「BLEACH」の記事で書かれたようなストーリー外の外部要因を踏まえた考察は見られない。作品内で完結している記事である。

 この点が本掲載と「ニュースのたね」を分けた大きな要因ではないかと考える。

 オーマイニュースは、その名のとおりニュース媒体である。作品内の感想にとどまる限り、作品世界で終わってしまい、社会の出来事を伝えるニュース記事として、足りえないとの判断が働いたように思われる。

 純粋に作品レビューとして評価する場合、外部要因を持ち出さず、作品内の世界で完結したものの方が優れているという見解も成り立つ。むしろ変に外部要因を持ち出して論じるのは作品の楽しみ方ではないという考えもあるだろう。しかし、ニュース記事においては対象を論じつつも、一方で一歩離れて対象を相対化する姿勢が求められると言えよう。

 実際に「ニュースのたね」記事を見ると、映画や舞台・イベントの感想記事が、それなりの割合を占めている。これらの多くは「コードギアス」記事と同じような理由で「ニュースのたね」とされたのではないかと思われる。

 エンタメ系の情報は、アクセスが集中した加護亜依(元モーニング娘。)インタビューの例を出すまでもなく、需要が見込める分野である。その意味で多くの原稿が「ニュースのたね」行きとなっている現状は非常にもったいない。

 本記事が作品感想の記事を書く市民記者の参考に資するところがあれば幸いである。

映画・音楽

林田力「映画「L change the WorLd」を初日に観た」オーマイニュース2008年2月14日

松山ケンイチは見事

 『DEATH NOTE』のスピンオフ映画『L change the WorLd』が、2008年2月9日から公開された。公開初日に観たので、感想を書きたい。

 『DEATH NOTE デスノート the Last name』において、新世界の神を目指すキラこと夜神月を追い詰めた、天才的な探偵Lを主役にし、Lの最後の23日間を描いた作品である。この作品を、一言でまとめるならばLを観たい人のための映画である。

 Lは原作のマンガから、独特な雰囲気を持つ特異なキャラクターとして設定されていた。世界的な探偵というイメージとは正反対の、子どもっぽいキャラクターである。猫背で親指をしゃぶり、甘い物が好き。椅子に座る時も、椅子の上に両膝を立てる独特の「L座り」をする。

 このため、実写化される時は、誰がLを演じるのか、原作のイメージを壊さないかに関心が集まった。しかし、松山ケンイチは見事にLを演じ、はまり役と言ってよいほどであった。

 この作品は、そのLに焦点を当てている。『DEATH NOTE』本編では、エキセントリックであるものの、人格的には完成された天才的探偵という面が強かったが、この作品では成長する人間としてのLに注目している。

 23日間の経験で「Lが変わった」「大切なものに気付いた」と言うと、これまでのLの人生を軽視するようにも感じられるが、数日後に死ぬことが分かっている人にとっての人生は、そうでない時と比較して認識も異なるだろう。

 この作品では、映画本編で繰り広げられた高度な頭脳戦という要素は相対的に薄い。世界的な探偵であるLとの頭脳戦は、相手も余程の個性や特徴がないと成り立たない。Lの好敵手となれる相手は、夜神月くらいしか存在しないというのが現実だろう。

 夜神月と比べると、今回の敵は個性も特徴も物足りない。まさか敵のレベルに合わせたわけではないだろうが、Lの天才性もあまり発揮できていない。むしろ天才Lならば、もっと効率的に戦えたのではないか、と感じてしまう。

 合理的に説明するならば、Lでさえ予測できない子どもの行動に、足を引っ張られて敵の暗躍を許してしまったということになろうか。計算どおりに進まないからこそ、この世界は愛すべきものであるし、このような世界だからこそLは「目の前の命を諦めたくない」と発言する。

 この世界で、もっと生きていたいというLの思いが伝わる作品であった。

林田力「アマチュアバンドの祭典「木場ストック」」オーマイニュース2008年5月16日

手作りの野外ライブ、14回目の開催

 木場ストック(Kiba Stock)2008が都立木場公園(東京都江東区)イベント広場にて、ゴールデンウィーク中、5月4日、5日の2日間、開催された。木場ストックはアマチュアバンドによる石畳のステージでの屋外ライブである。5月3日、4日に開催する予定だったが、3日は雨で中止になり、3日のプログラムを5日に実施。

 木場ストックはボランティアスタッフによって支えられている非営利のイベントだ。1997年に始まり、今年で14回目を迎えた。歴史あるイベントだけあって会場には幅広い世代が集まっていた。会場周辺には焼きそばやフランクフルトなどの模擬店も並び、お祭り気分を出していた。今年の木場ストックでは22組のアマチュアバンドが出演した。その中で記者が特に印象に残ったバンドを2組紹介したい。

 まず、4日に出演した「夜蝶の舞」である。普段は渋谷のライブハウスを中心に活動する女性ボーカル4人組バンドである。パンフレットのバンド説明からして異彩を放っている。「今宵舞い込む夜の蝶、貴方の心頂戴す」で始まっている。ボーカル大林由佳は尊敬するアーティストを椎名林檎というだけあって、意味深い歌詞が特徴である。

 「脳内戦争」という歌は「何度この手で殺したでしょう」で始まり、愛憎が表裏一体となった心境を歌っている。最後に歌った「化粧水」には、「信じてるモノだけが裏切ることもできるのでしょう」とあり、愛するからこそ傷つく、でも愛さずにはいられないという思想が流れている。

 野外ライブは今回が初めてであるが、自分たちのペースでパフォーマンスを行い、「夜蝶の舞」の存在を初めて知った観客に強く印象付けることができたのではないかと思われる。

 続いて5日に出演した「To the Very End」。全メンバーが江東区出身の女性ボーカル5人組バンドである。バンド名は「最後の最後まで」という意味で、今のメンバーで音楽を楽しむという思いを込めている。

 ボーカルAsukaは明るい性格と紹介されただけであって、MC中でもよく笑うのが印象的であった。激しいパフォーマンスで髪留めが吹っ飛んでしまうというアクシデントにも見舞われていた。

 「To the Very End」はポップで聞きやすい曲が多かったが、中でも「忘れない日々」は優れていた。全体的にテンポが良いが、聞かせるところは聞かせてくれる曲である。

 MCではギターのChangが「こんな天気(注:当日は曇天であった)で、でも僕の心は晴れています」と話すなど会場に笑いの花を咲かせていた。

■関連リンク
木場ストック公式ページ

林田力「『相棒』の根底に流れる日本社会への批判」オーマイニュース2008年5月21日

製作者のチャレンジ精神に敬意を表す

 映画『相棒─劇場版─ 絶体絶命! 42.195km 東京ビッグシティマラソン』が2008年5月1日に公開された。配給元である東映のこれまでの興行記録を更新する勢いの出足となっている。

 刑事物の人気ドラマシリーズの映画化である。紅茶好きの変人・杉下右京(水谷豊)と、熱血漢の亀山薫(寺脇康文)の凸凹コンビの絶妙な掛け合いが魅力である。映画版ということでスケールが大きく、社会的な事件を扱っている。

 題材になっているのはイラク日本人人質事件である。人質事件での日本政府の対応、マスメディアの過剰報道、それに乗じた国民的なバッシングに対する問題提起が感じられた。大ヒットさせることが当然視されている人気ドラマの劇場版で、世論を二分した社会的事件を題材にしたことは純粋に評価したい。

 しかし、本作品の社会派としての特徴は、単に現実に起きた事件をなぞっている点にあるのではない。日本人・日本社会の底流にあるものを鋭く批判している点にある。本作品が痛烈に批判しているのは日本人・日本社会の非歴史性と考える。過去を水に流す性質を美徳ととらえる向きもあるが、暗い過ちを記憶にとどめることなしには学習も進歩もあり得ない。

 過ぎたことにこだわらないことを是(ぜ)とする非歴史性は政府や行政にとっては非常に都合が良い。時効や被害者の死亡によって、どれだけの悪事・不祥事が葬られてきたか。真相を明らかにされることも、責任を追及されることもなく、うやむやのまま終わってしまったか。

 本作品でも、ひたすら時間稼ぎをすることによって真相を隠そうとする警察官僚組織のいやらしさが見事に描かれている。

 テレビドラマでは警察庁長官官房室長の小野田公顕(岸部一徳)が回転ずし店で食べ終わった皿をレーンに戻す、おなじみのシーンがある。映画でも「お約束」として使われたが、非歴史性を正当化する官僚組織の論理への伏線にもなっている。

 批判の矛先は政府や行政にとどまらない。過熱報道を行うマスメディアや、それに乗せられた国民も同罪である。作品中では報道被害の経験者が「マスメディアも国民も散々バッシングしておきながら、時が過ぎるとパタッと報道しなくなった。まるで事件が存在しなかったかのように」と憤っている。

 これは、「いつまでもネチネチと批判を続けないことが美徳」と勘違いした理屈で正当化されるかもしれない。しかし、本来、他者を強く批判をするからには、それなりの理由と信念が存在すべきである。時の経過によって簡単に薄まるようなものではないはずだ。逆に、確固とした理由も信念もなく、いい加減な気持ちで流行(はやり)のようにバッシングされたならば相手は浮かばれない。ところが、それが日本の実態なのだ。

 たいした理由も信念もなく、一過性の流行に乗ってバッシングする。内心では行き過ぎであると分かっているが、自分たちの行為を直視する勇気はない。だからバッシングはやめるが、過去を反省することなく、事件が存在しなかったかのごとく振る舞うしかない。まるで報道被害者も報道被害のことは忘れて明るく明日へ向かって歩むことが幸せであるかのように。

 記憶にとどめることも反省もしない非歴史的な日本社会に対する絶望的なまでの怒りが強く感じられた。残念なことに非歴史性は日本社会の根幹をなしているといってよいほど巨大なものだと思う。

 戦後、日本社会自体は戦争責任をうやむやにし、焼け野原から経済大国にしてしまうような前に進むような発想だけで成り立ってきたと言える。もっとさかのぼれば本気で攘夷(じょうい)を叫んでいたはずの維新志士たちが文明開化を主導することで明治日本が生まれた。

 日本社会の非歴史性に正面から取り組んだ本作品が、見終わって誰もが満足するスッキリしたハッピーエンドになり得ないことは、ある意味当然だ。作品の性質上、日本社会を全否定できない娯楽作品でありながら、日本社会の抱える根本的な問題に向き合った制作者のチャレンジ精神に心から敬意を表したい。

林田力「大ヒット映画『相棒』とイラク日本人人質事件」オーマイニュース2008年5月27日

過去の事件思い返させる奥深さ

 大ヒット映画『相棒─劇場版─絶体絶命! 42.195km東京ビッグシティマラソン』が題材としたイラク日本人人質事件について考察したい。

  映画『相棒』では、作品内でイラク日本人人質事件と類似の事件が起きている。イラク日本人人質事件自体が多くの論議を呼び、世論を二分した事件である。その事件を、前提の異なるフィクションの世界に持ち込み、そこから結論を出そうとしているため、その妥当性について議論されている。

 映画では、退去勧告が出された国で反政府ゲリラに拘束された青年の家族が、「自己責任」だとしてマスメディアや国民から激しいバッシングを受ける。この点で2004年に日本人3名がサラヤ・ムジャヒディン(聖戦士軍団)に誘拐された事件を彷彿させる。また、平幹二郎演じる時の首相が小泉純一郎元首相を思い起こさせる髪形をしている。

 私は、本作品においてイラク日本人人質事件は「題材」であると考えている。もちろん、あくまで「題材」であり、「主題」とは異なる。映画の主題は、日本人、日本社会の底流にある非歴史性を批判することにあると受け止めている。この点は別記事「『相棒』の根底に流れる日本社会への批判」で論じたとおりである。

 本作品にとって、イラク日本人人質事件は、主題に入るための材料であり、現実に起きた人質事件のディテールを再現させる必要はない。実際、本作品ではイラク人質事件と異なる設定も多々ある。それらを見極めることはイラク人質事件を正確に理解する上で有益である。

 イラク人質事件では、人質に肯定的な立場と否定的な立場で激しい対立が起きた。本作品の描き方は、いずれの立場も満足させるものではない。便宜上、それぞれ人質肯定派、人質否定派と呼び、議論を整理したい。

人質否定派の立場から

 最初に人質否定派の立場で論じる。本作品では、拘束された人物が批判される理由が弱い点が問題である。人質批判派は、危険地域で誘拐された日本人全てを批判しているのではない。イラク人質事件では、渡航自粛勧告を無視して現地に渡航している。これに対し、本作品の青年は人道支援活動中に退去勧告が出された。しかも、退去勧告が出された僅か数日後に拘束された。好んで自ら危険地域に赴いたケースとは、事情が異なる。

 より大きな相違としては、イラク人質事件では誘拐事件解決のために被害者家族らが自衛隊の撤退を求めた点にある。誘拐した武装集団に対する批判以上に政府批判に熱を入れるような姿勢が反発を招き、バッシングとなった面がある。一方、本作品には青年の家族が直接、政府を批判するシーンは見られない。

 結論として、イラク人質事件と本作品では状況が異なり、人質否定派の論理では本作品の青年を激しくバッシングする理由は存在しない。しかし、作品中では激しくバッシングされている。本作品をイラク人質事件のアナロジーとするならば、人質否定派は理不尽な攻撃をしたことになってしまう。根拠なく人質批判をした訳ではないと主張したい人質否定派にとって、本作品は不満が残るものであろう。

人質肯定派の立場から

 次に肯定的な立場から論じる。本作品では、政府の退去勧告が出されたのに退去しなかった点が「自己責任論」の根拠となっている。この論理では、政府の勧告に従わなかったならば非難に値するが、そうでないならば問題ないという結論に帰着する。実は、これが本作品の重要なポイントになっている。

 この論理では、政府の指示が全てとなってしまう。政府の方針に反する活動を否定することになる。NGOは、政府の政策の範囲内で活動するだけの存在になってしまい、NGOの存在意義を貶めるものである。

 実際、イラクで拘束されたオーストラリアの人道支援活動家ドナ・マルハーンは、イラク派兵を推進したハワード首相に対し、堂々とイラク撤兵を主張した。

 再びイラク入りした後の2004年11月25日付ハワード首相宛て書簡では、オーストラリア政府による軍事的な関与と同等の友情と共感の人道的な関与が必要だ(I need to balance your Government's military involvement with a human involvement of friendship and compassion.)と活動を正当化している。

 そもそも、主権在民の民主国家において政策を提示、批判することは、国民にとって当然の権利であり、義務でもある。

 仮に被害者家族が自衛隊派兵に賛成していたにもかかわらず、メンバーが人質として拘束された途端、武装勢力の要求に従って自衛隊撤兵に宗旨替えしたならば、変節漢として非難に値する。ところが、実際は人質事件が発生したためにマスメディアが彼らの主張を大きく取り上げたに過ぎない。

 結論として、本作品は表面的には、人質肯定派に近いように見えながらも、人質肯定派の真の論理を理解していない。

「非歴史性」批判

 本作品は、人質事件の描き方としては浅く、その視点でのみ観るならば、人質肯定派にとっても、人質否定派にとっても不満が生じる内容である。

 しかし、本作品の主題は、日本社会の非歴史性批判である。

 既に「過去」へと追いやられたような感のあるイラク人質事件の論点を、このような形で思い出すこと自体が、日本社会の非歴史性への抵抗になる。あらためて本作品の奥深さが感じられた。

林田力「映画『靖国』は表現の自由の問題だ」オーマイニュース2008年5月24日

上映支持派が触れる必要がない論点

 香港国際映画祭にて最優秀ドキュメンタリー賞を受賞した映画『靖国 YASUKUNI』(李纓監督)上映をめぐる騒動は、表現の自由の問題である。

 この映画をめぐっては、上映批判派が、出演者の刀匠・刈谷直治氏が出演部分の削除を求めているとの報道など制作過程の問題を指摘し、映画そのものも批判している傾向がある。さらに、制作過程の諸問題について明確に回答していないとして上映支持派に対しても批判を強めている。

 だが私は、表現の自由との関係で映画『靖国 YASUKUNI』を論じる上で、制作過程の問題に触れる必要はないと考える。

 そもそも、上映支持派が登場したのは、映画館が当該映画の上映を中止したためである。直接の中止理由は上映に抗議する右翼団体などの威嚇的・暴力的妨害を恐れたことである。

 加えて、上映中止の背景には、稲田朋美・衆議院議員らによるさまざまな政治的圧力があったと主張された。上述の出演者・刈谷氏が出演部分の削除を求めている件も、有村治子参議院議員が刈谷氏に電話で削除依頼をするように促したと指摘されている。

 上映支持派は、これら直接・間接の圧力によって上映が中止された事態を「表現の自由の危機」と受け止め、抗議の声をあげた。

 問題は圧力がかけられたことであって、圧力をかける動機となった理由ではない。

 圧力の理由はいろいろ考えられる。

 当該映画が15年戦争における日本の侵略性を明らかにすることを恐れたことかもしれない。

 映画の内容以前に日本、中国、韓国の合作映画で真のアジア友好を目指すというコンセプトが気に入らなかったのかもしれない。

 それらの理由で抗議したのでは表現の自由の侵害との批判に立ち向かえないから、表向きは制作過程の問題を声高に叫ぶ方針に変更したのかもしれない。

 真の理由が何であれ、表現の自由との関係で問題なのは理由ではない。日本は法治国家であり、自力救済は禁止されている。

 仮に映画を否定することに正当な理由があったとしても、圧力をかけて上映を中止させることは認められない。当該映画の制作過程に問題があったとしても、それ故に圧力をかけて上映中止に追い込むことは正当化されない。

 上映支持派にとっては、映画の制作過程の問題の有無は論点とは無関係な問題である。恣意的な圧力により上映が中止になる事態を問題視しており、圧力の動機に理由があろうとなかろうと問題ではない。自説を正当化するために、当該映画の制作過程に問題がないことを主張する必要さえない。従って上映批判派の問題意識は無視されることになる。

 当該映画の制作過程に問題があったと指摘し、当該映画が映画制作のルールを逸脱しており、上映に値する作品ではないと主張することは自由である。それも1つの映画批判になりうる。

 しかし、それは上映を妨害しようとした団体の抗議活動を正当化することにはならない。上映中止を表現の自由の危機ととらえて立ち上がった上映支持派に対する批判にもならない。

 その点が混同されている限り、映画『靖国 YASUKUNI』は表現の自由をめぐる問題であり続ける。

林田力「『プライド』と比較してわかる『靖国』騒動の論点」オーマイニュース2008年5月28日

表現の自由が問われている

 映画『靖国 YASUKUNI』(李纓監督)上映に対する抗議は、同じく上映が抗議された映画『プライド 運命の瞬間(とき)』(伊藤俊也監督、1998年)と比較されやすい。本記事では両者の動きを比較し、『靖国 YASUKUNI』上映騒動の問題性を指摘したい。

 『プライド』はA級戦犯として絞首刑に処せられた東条英機元首相が主役の映画である。

 この映画は日本による侵略戦争をアジア解放の戦争のように印象づけ、歴史を歪曲(わいきょく)・偽造していると強く批判された。製作した東映の労働組合や文化人らによって結成された「映画『プライド』を批判する会」は東映に対し、映画公開の中止を申し入れた。

 「映画『プライド』を批判する会」の発展的解消により結成された「映画の自由と真実を守る全国ネットワーク」(映画の自由と真実ネット)は映画『ムルデカ 17805』(藤由紀夫監督、2001年)にも抗議した。

 これはインドネシア独立の戦いを描いた作品だが、日本がインドネシア独立をもたらしたとして、侵略戦争の歴史的事実を歪曲し、美化するものと批判した。これらの映画の上映に抗議した人々が、『靖国』では、上映妨害の動きを批判する。これをダブルスタンダード(二重基準)だと批判する見解がある。

 結論から言えば『プライド』の上映中止を求めた人が、今回、『靖国』上映中止の動きに抗議する(つまり、上映を求める)ことは一貫性のある行動である。

 なぜなら、『プライド』批判は、主に労組や市民団体による「言論の自由」の範囲内の抗議活動である。これに対し、『靖国』では右翼団体による映画館への威嚇や稲田朋美・衆議院議員らによる政治的圧力が問題視された。このような動きに対して、表現の自由を守るために抗議したからだ。

 実際、映画演劇労働組合連合会(映演労連)の2008年4月1日の声明では以下のように主張する。

 「公開が決まっていた映画が、政治圧力や上映妨害によって圧殺されるという事態は、日本映画と日本映画界に、将来にわたって深刻なダメージを与えるものである」

 ここでの抗議の対象は、あくまで、政治圧力や上映妨害という手法に対してである。『靖国』批判派が『靖国』を批判する当の理由については、問題にされていない。『靖国』を「反日的である」「制作過程に問題がある」と批判することは全くの自由なのだ。問題なのは上映妨害や政治圧力である。

 映画における表現の自由を守るための戦いは、『靖国』が最初ではない。

 南京大虐殺を描いた映画『南京1937』においても右翼団体による上映妨害が繰り返されていた。1998年6月には横浜市の映画館で上映中に右翼団体構成員によってスクリーンが切り裂かれた。1999年10月には千葉県柏市が右翼団体の抗議活動を理由に上映会場である市民文化会館の使用許可を取り消した。

 『靖国』上映中止の動きに抗議した人々の多くは、『南京1937』の上映妨害に対しても強く抗議していた。『靖国』上映支持のデモが手際よく行われたことを疑問視する向きもある。しかし、上映妨害は今回が初めてではないのだ。過去の活動(上映妨害阻止)の蓄積があるため、手際が良くて当然である。

 歴史歪曲映画に対する抗議と、表現の自由の侵害に対する抗議──。これらが一貫性あるものとして認識されていることは「映画の自由と真実ネット」の発足アピール文を読めば明白になる。

 「1年前に公開された映画『プライド〜運命の瞬間〜』は、戦後半世紀を経て初めてと言っていいほど、歴史の真実に背を向けたものでしたが、その公開と併行して「歴史の真実」に迫る中国映画『南京1937』の上映は、右翼による激しい暴力的な妨害に直面しました。その右翼の街宣車に『プライド』のポスターが貼られていたことが示すように、「歴史の真実」を踏みにじる力と「映画の自由」を押しつぶそうとするものとは、完全に表裏一体を成しています」(「映画の自由と真実ネット」の発足アピール文より抜粋)

 公正とは「等しきものには等しく、等しからざるものには等しからざるものを」ということである。『プライド』に対する抗議と『靖国』に対する抗議は本質的に異なる。表面的な現象の類似性に惑わされず、等しからざるものには異なる評価を下すことが公正な判断である。

■関連リンク
映演労連声明「日本映画界とすべての映画人に、映画「靖国」の公開の場を確保することを訴える!」
「映画の自由と真実ネット」発足!

記事感想

林田力「「元少年と同じようなことを…」を読んで」オーマイニュース2008年5月1日

プラットホームとしての市民メディアの意義を考える

 昿野洋一記者の記事「元少年と同じようなことをした私の体験」が波紋を呼んでいる。本記事では自身の思春期のころの体験談から、光市母子殺害事件も元少年が性欲に支配されて理性的に行動できなくなった結果ではないかと主張する。そして「日本には性に対するはけ口があまりにもなさ過ぎる」として、「国の性に対する整備の欠陥についても考えられるべきではないだろうか」と主張する。

 非常に衝撃的な内容である。記事には性犯罪被害者の痛みも被害者・遺族に対する同情・共感の姿勢は皆無である。性のはけ口という視点しかなく、女性の尊厳を踏みにじるものと言ってよい。よって本記事に対し、批判コメントが殺到するのは当然の反応である。むしろ市民記者の健全性を示すものと考えたい。しかし、気になるのは記事の削除を求めるコメントが日増しに強まっていることである。

 編集長は掲載理由を回答したコメント中で本記事を「一歩間違えれば自分もそうなっていたかもしれないと読者に内省を促す、“グレー体験者”ならではのオリジナリティーのある体験談」と位置付ける。その上で「光市事件判決直後、さまざまな投稿が寄せられる中で、事件を人ごととして論評するだけではなく、自分の問題として考え、議論する一助になると判断」したとする。

 コメント欄に寄せられた市民記者の反応は、記事を否定するものばかりで「一歩間違えれば自分もそうなっていたかもしれない」と「自分の問題として考え、議論する」ことになったとは言い難い。この点では編集長の意図は通じなかったと言える。

 一方で読者が本記事から「自分は元少年や昿野記者とは違う、元少年や昿野記者は向こう側の存在だ」と結論付けたならば、自己の正常性や元少年や昿野記者の異質性を認識したことになる。自分の問題として考えようとした上で、自分ならば絶対にやらないと結論付けたことになり、その限りで本記事は「自分の問題として考え、議論する一助」になったと言える。この意味では意図した方向とは異なるとしても掲載の狙いは達成できたことになる。

光市母子殺害事件の論点

 光市母子殺害事件が話題になったのは犯罪の異常性・残酷性だけではない。刑事訴訟手続きについても大きな問題を投げかけた。犯罪被害者・遺族の権利がないがしろにされているのではないか、被告人の罪を軽くするためならばいかなる弁護活動も許されるのかという点が議論された。

 本記事は、それらの問題について全く触れていない。記事中で記者は判決言い渡し日の広島高裁に大勢の人がいるのを見て、事件について「新聞やインターネットで調べた」と書いている。ここからは昿野記者は光市事件について、それほど詳しくないのではないかと推測できる。被害者の遺族である本村洋氏の苦闘について知らずに記事を書いた可能性もある。この点も私が本記事、さらには記者のスタンスに共感できない理由のひとつである。

 私は硬直的な司法制度と戦い続けた本村洋氏を尊敬する。私自身、民事訴訟であるが、マンションの売買契約をめぐって東急不動産と裁判闘争をした経験がある(記事「東急不動産の遅過ぎたお詫び」)。

 引き渡しが終わった不動産取引では契約の白紙撤回が認められることは難しいと指摘されたが、泣き寝入りすることなく、消費者契約法に基づく契約取消しを貫き通し、売買代金の全額返還を勝ち取ることができた。新たな先例に踏み出させることの大変さを実感しているため、本村洋氏の活動には感服する。

 そのような視点のかけらもない本記事は私の関心を満たすものではない。しかし、これは記事のスコープの問題である。私にとって興味深い記事ではないということを意味するにとどまり、本記事が掲載する意義を有するかという点は別問題である。

本記事の意義

 本記事に意義があるとすれば、特異な犯罪を行った者の心理を明らかにする手がかりを提供する点にある。いかなる動機で犯罪が行われたのかを知ろうとすることには意義がある。少なくとも誰かが、そのような関心を抱くことを他人に否定する資格はない。

 刑事事件としての光市事件では死刑という量刑が妥当であるかという点が最大の論点であった。犯罪結果の重大性に対する応報として刑罰を考えるならば具体的な動機が何であれ、死刑という結果に影響を及ぼすものではないという主張はもっともであると考える。
 しかし本記事は量刑の妥当性を問題視しておらず、そのような視点から本記事を批判することにはあまり意味がない(ただし、本記事は「死刑の是非を考える」という特集からリンクされており、その限りで上述の批判は妥当する)。

 私自身を含む多くの人にとって光市事件の関心事は量刑や、被害者遺族の人権、弁護活動の妥当性であった。従って、それらに触れていない本記事は多くの人の関心を満たすものではないことは事実である。元少年が意図して殺害したか否かが問題であって、どのような心理状態でいたのかという点に関心を持つ人は少数と思われる。しかし、だからといって本記事に掲載する意義が存在しないことにはならない。

 内容的にも人間の行動を性欲面から説明しようとする記者の試みは格別並外れたものではない。ジークムント・フロイトは人間が無意識の世界にある性の衝動(Libido)に支配されていると主張した。本記事には批判されるべき点が多々あるが、記事を掲載すべきか削除すべきかの判断は別である。

玉石混交こそ市民メディアの醍醐味(だいごみ)

 市民記者が本記事を削除すべきとコメントする最大の理由は、本記事が掲載されることで媒体(オーマイニュース)への評価が損なわれるのではないか、という点にあると思われる。変な記事が掲載されることで、媒体自体が問題記事と同様のスタンスをとっていると同視されるという懸念である。その結果、同じ媒体に掲載されたほかの記事についても色眼鏡で見られ、市民記者の自尊心をもおとしめるのではないかとの問題意識である。

 市民メディアとは多数の市民記者によって成り立つ媒体である。既存メディアの従業員記者と比べるならば、市民記者間の目的意識も価値観もバラバラであることを想定している。

 特にオーマイニュースは「○○も、××も、みんなで作るニュースサイト」を標榜(ひょうぼう)している。○○や××には「老い」「若き」、「喫煙者」「嫌煙家」、「頭脳派」「肉体派」など対照的な言葉が入る。市民メディアの中でも市民記者間の価値観の多様性を尊重し、多様な価値観に基づいた記事を掲載するプラットホームであることを意識していると考えられる。

 故に市民メディアに、ある市民記者にとって「とても受け入れ難い」と思われる変な記事が掲載されることは市民記者にとって想定している範囲内の出来事のはずである。優れた記事があれば、変な記事もある。玉石混交が市民メディアの醍醐味である。だから変な記事が掲載されたとしても、憤慨することも掲載した編集部を責めることも妥当ではないと考える。

 市民メディアという存在自体が社会的に認知されているとは言い難い状況では、変な記事が掲載されることで媒体自体の評価がおとしめられてしまう可能性は否定できない。それに対しては、玉石混交の記事を発表する、プラットホームとしての市民メディアの意義を認知させていくことが正しい対応法であると考える。

 社会多数派に迎合する記事のみを掲載することが市民メディア編集部の見識ではないし、それを市民記者側が求めるのは市民メディアにとって自殺行為である。

林田力「『「反靖国」というより、むしろ…』を読んで」オーマイニュース2008年5月16日

記事内容に即したコメントを書きたい

 塩川慶子記者の記事『「反靖国」というより、むしろ…』から市民メディアにおける記事とコメントの関係について考察したい。当該記事のコメント欄の展開はほかの市民記者の記事にコメントを寄せる立場として考えさせるものであった。

 当該記事は表現の自由との関係で話題になった映画『靖国 YASUKUNI』のレビューである。当該映画は「反日的」として抗議を受けており、右翼団体などの暴力的な妨害活動を恐れて上映中止を決定した映画館も出た作品である。

 ちなみに上述の「反日的」とは反日的と主張する側の感覚に合わせて使用したもので、管見を反映したものではない。私自身は、日本の軍国主義や侵略戦争を批判し、戦争犯罪を明らかにすることが反日的とは考えていない。軍国主義や侵略戦争はアジア人民のみならず、日本の民衆をも犠牲にするものと考えるためである。そのため、括弧つきで「反日的」と表現した。

 塩川記者は映画を見た感想として「とても反靖国の映画とは思えませんでした」と述べる。そして「素材を提供するから、これをたたき台として、よく考えてください」という種類の映画だと指摘した。

 一般に右翼団体が抗議した映画となると、それだけで「反日的」な内容であると思い込んでしまいがちである。その意味で塩川記者の感想はユニークである。思い込み、先入観で判断してしまうことの危険を気付かせてくれる。

 この記事のコメント欄が過熱している。話題になった映画のレビューであり、主張もユニークなため、多くのコメントが寄せられること自体は想像できる。しかし、気になるのはコメント欄が映画『靖国 YASUKUNI』の制作過程の問題に終始する傾向がある点である。

 当該映画の批判者は、出演者の刀匠・刈谷直治氏が出演部分の削除を求めているとの報道などを根拠として映画の制作過程に問題があったと指摘する。私としても指摘されている制作過程の問題が映画『靖国 YASUKUNI』を語る上で一つの論点になることは否定しない。しかし、この問題が本記事のコメント欄で長々と議論されることに違和感を覚える。

 「8割程度は靖国肯定視線でした」とまで書く塩川記者の感想に対しては、異なる受け止め方をする人も少なくないはずである。

 実際、稲田朋美・衆議院議員は国会議員向け試写会後に「靖国神社が侵略戦争に国民を駆り立てる装置だったというイデオロギー的メッセージを感じた」と語った(「国会議員横ヤリの「靖国」試写会に80人」asahi.com 2008年3月12日)。

 塩川記者の主張は論争を呼ぶべき内容であるが、コメント欄が記者の問題意識に対応した議論の場となっていないことは残念である。

 コメント欄は、あくまでも記事に付属したものである。特定のテーマについて自由に討論する掲示板とは異なる。本記事の主題は当該映画の内容が一般に考えられているような靖国神社を弾劾するものではなかったという点にある。当該映画の制作過程を論評したものではない。その記事に対して制作過程の問題をコメントすること自体が的外れな脱線である。

 もちろん、中には制作過程の問題が『靖国YASUKUNI』を語る上で避けては通れない問題であると考える人もいるだろう。コメント欄による活発な議論を求める立場からは、コメントに書くべき内容を規制することは好ましくない。記事の主題とは離れることを認識した上で、それでも映画『靖国 YASUKUNI』の製作過程についてコメントで問題提起すること自体は結構なことであると思われる。

 しかし記事の主題そっちのけでの論争はコメント欄のあるべき姿から離れている。コメント欄は記事読者の意見交換の場であって、記事の主題とは無関係に当該映画について思うところを放言する場ではないと主張したい。

 記事に対してコメントするからには、記者の言わんとしていることを理解した上で行いたい。同意と理解は別である。記者の主張に同意する必要はないが、読者ならば理解しようと努める必要はある。対象のテーマについて一家言あるからコメントを寄せる場合が多いとはいえ、記者の主張を理解しないで批判コメントを書くならば、ためにする批判に過ぎない。

 本来、記事の主題から脱線したコメントを書くことは、自らの理解力や読解力のなさをさらけ出すことを意味し、とても恥ずかしいことである。

 記者が何を主張しているのかを把握しようと努めることが読者として最低限のマナーである。記事を書いているのも生身の人間であり、個性ある個人として相手をリスペクトする姿勢は忘れないようにしたい。

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