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同じ物件が異なる間取り

不動産業者の広告比較

 マンションの同じ1室の広告でも、不動産業者によって間取りが異なる広告を出している例があるので、紹介する。

 問題の物件は東京都江東区にあるマンション「アルス東陽町」である。アルス東陽町は東急不動産が分譲したマンションで、2003年9月に建築された。この物件の3階にある1室の媒介広告が2008年10月25日現在、ポータルサイト「Yahoo!不動産」に掲載されている。

 広告を出しているのは大京リアルド・ネット営業課と三井のリハウス東陽町店営業第1グループの2社である。売り主が複数の業者に仲介を依頼することは可能であり、同じ物件を複数の業者が宣伝することは珍しくない。

 問題は同じ物件であるにもかかわらず、業者によって間取りが異なることである。大京リアルドの広告では間取りを1SLDKとするのに対し、三井のリハウスの広告では2LDKとする。

 1SLDKは居室が1つにサービスルーム(S)が1つ、リビング・ダイニング・キッチン(LDK)の間取りである。これに対して2LDKは居室が2つにリビング・ダイニング・キッチン(LDK)の間取りである。

 相違は部屋の1つをサービスルーム(納戸)と位置付けるか居室とするかにある。ある部屋が納戸(サービスルーム)であるか、居室であるかは建築基準法で規定されており、不動産業者が勝手に命名してよいものではない。同じ物件の広告で1SLDKとするものと2LDKで分かれるということは大きな問題である。

 間取りのみならず、広告ページに掲載された間取り図でも部屋の広さが相違する。

 第1に北西の部屋「洋室1」が大京広告では8畳であるのに対し、三井広告では8.5畳である。

 第2に北東の部屋は大京広告では「DEN(納戸)」とされ、4畳である。これに対し、三井広告では「洋室2」とされ、3.5畳である。この部屋を納戸とするか洋室とカ
ウントするかの違いが、間取りを1SLDKとするか2LDKとするかの相違になっている。

 第3にリビング・ダイニング(LD)について大京広告は11.2畳とするが、三井広告では10.8畳とする。

 第4にキッチン(K)について大京広告は3畳とするが、三井広告では広さを記述しない。

 東急不動産が分譲時に配布した図面集によれば、間取りを1SLDKとする点でも各部屋の畳数も大京広告と合致する。記者は、このマンションの別の住戸を新築で購入しており(その後、消費者契約法に基づき、売買契約を取り消す)、その際の図面集で確認した。

 三井広告の値が、どのように算出されたかは不明であるが、実測値ならば反対にこちらが正確になる。いずれにしても同じ物件について矛盾する記載をする2社の広告が共に正しいことはあり得ず、少なくとも一方は虚偽広告である。

 実は、このマンションの不動産仲介で虚偽広告が掲載されるのは今回が初めてではない。別の住戸で東急リバブルが虚偽広告を出している。この際は駐車場の料金を実際よりも大幅に安く表示し、深刻な結露が発生する窓を隠すなど悪質であったために公正取引委員会も調査した(後掲記事「不動産広告にだまされないように」「東急リバブル、虚偽広告でお詫び」)。

 それと本件を同視するならば異論が生じようが、消費者が正しい情報を得られないという点は同じである。不動産購入に際し、消費者は慎重の上にも慎重を重ねなければならないことを2社の広告は示している。

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『名ばかり管理職』を読んで

 本書はNHKスペシャルとして放送された同名番組を書籍化したものである。管理職が労働法規の規制対象にならない労働力として、残業代も支払われずに限界まで働かされる過酷な実態を明らかにしている。特に過労で全身麻痺になり、今も寝たきりで両親の介護を受ける元ファミレス店長の話には激しい怒りを覚えた。

 「名ばかり管理職」の問題は、企業による労働基準法の悪用にある。労働基準法は労働者保護のために労働時間などを規制する。しかし、「監督若しくは管理の地位にある者」(管理監督者)については上記規制の対象外とする(労働基準法第41条)。この規定を企業が悪用し、名目上は管理監督者とした労働者(名ばかり管理職)に残業代を払わずに長時間労働をさせる。これは紛れもなく労働基準法違反である。

 どのような労働者が管理監督者に該当するかについては、裁判例や通達で明確化されている。管理監督者は以下の3要件を満たす必要がある(18ページ)。

 1.経営者と一体的な立場にある。
 2.出勤や退勤時間を自分で決められる。
 3.一般従業員よりも報酬が優遇されている。

 管理監督者であるか否かは、あくまで上記の基準に沿って判断される。部課長のような役職者であっても、それだけで管理監督者になる訳ではない。裁量も権限もない「名ばかり管理職」は言うまでもなく、裁量も権限もある名実共に管理職であったとしても、管理監督者に該当しない方が多い。

 結論として現実の企業において管理監督者に該当する労働者は、ほとんど存在しないことになる。管理監督者は労働時間規制の適用除外となる例外的存在であるから、管理監督者に該当する労働者が希少という結論は労働法の趣旨に適ったものである。

 従って「部課長だから管理監督者であり、残業代を支払わなくていい」という発想が根本的に誤っている。管理監督者の3要件は昨日今日で公表されたものではない。「名ばかり管理職」が社会問題になる前から明確化されていたものである。本書でも紹介されたマクドナルド店長の残業代支払い裁判は大きな衝撃を与えた。しかし、これが驚きをもって迎えられること自体が、労働基準法に対する無理解を示している。

 労働基準法違反が社会問題になるまで放置されていたところに、日本社会の遵法意識の低さを雄弁に物語る。管理監督者を労働時間規制の適用除外とした労働基準法に則っているような外形を見せかけつつ、実態は法の趣旨に反している。何のために法律を守るのかという肝心なところが抜けている。

 労働基準法が労働時間を規制したのは、労働者の健康を守るためである。ところが企業は労働者を管理監督者とすることで、労働基準法の規制を無視して、健康を害するまで労働者を酷使し、使い捨てにする。これは正に労働基準法が避けようとしていた事態である。それにもかかわらず、管理職は労働時間規制の対象外だから問題ないと主張する企業のコンプライアンス意識が問題である。

 店長や課長は当該企業の人事制度に基づく役職である。企業が店長を高度なマネジメント能力を必要とする管理職と位置付けることは勝手である。しかし、それは企業内の問題であり、労働基準法の管理監督者の解釈とは別問題である。企業内でしか通用しない論理を社会に押し付けようとするのは傲慢である。

 社会の常識を知らず、自社の物差しでしか考えない会社人間の傲慢さは私も経験がある。私は東急不動産(販売代理:東急リバブル)から新築マンションを購入したが、不利益事実(隣地建て替えなど)を隠して販売されたものであった(参照「「マンション販売トラブルで「お詫び」 東急リバブル・東急不動産」」)。
http://www.news.janjan.jp/living/0710/0710023335/1.php

 引き渡し後に真相を知り抗議したが、東急不動産住宅事業本部の課長(当時)は「隣地建て替えは不確定と自社で判断したため、告知しなかった」と言い放った。ここで興味深いのは東急側の騙し売りを正当化する論理である。

 消費者がどのように感じようと、自社が不確定と判断すれば消費者に不利益を与える事実であっても説明しなくていいと正当化する。ここにあるのは自社の身勝手なルールのみで、社会のルールや消費者との信義を守ろうとする思想は皆無である。

 名ばかり管理職も同根の問題である。自社で勝手に決めたルールを押し付けようとする。消費者も労働者も企業から見れば相対的な弱者である。契約や法に対する意識の低い日本社会では契約や法を無視した強者の勝手な理屈が通りやすい。名ばかり管理職が社会問題になるまで放置されたのは、このためである。

 本書の後半では名ばかり管理職への規制強化に対する企業側の戸惑いが取り上げられている。企業側の立場を紹介することで本書はバランスがとれたものになっている。しかし、そこで紹介された企業側の主張には共感も同情も覚えられない。企業側の言い訳を文字通りのものとして受けとめるならば労働法制への無知を告白するものに過ぎず、労働者を雇って事業を営む資格はない。

 前述のとおり、企業の人事上の管理職と法律上の管理監督者は同義ではない。企業が管理職と位置付けた労働者が管理監督者であることを否定されたからといって戸惑うような問題ではない。管理監督者でなくても管理職と位置付けることは問題なく、単に労働基準法という使用者に課せられた最低基準を遵守すれば済む問題である。それに抵抗があるならば、どのような言い訳をしたところで、名ばかり管理職の狙いが人件費抑制に過ぎないことは明白である。

【アニメ】「BLEACH」復讐の意義

テレビ東京系列で放映中のテレビアニメ「BLEACH」(ブリーチ)は2008年9月17日放送の第188話「決闘!天貝VS一護」で主人公・黒崎一護(くろさきいちご)が天貝繍助(あまがいしゅうすけ)と戦った。BLEACHは週刊少年ジャンプで連載中のマンガが原作である。2008年4月23日放送の第168話から原作とは異なるアニメ・オリジナルストーリー「新隊長天貝繍助篇」を放送している。

「新隊長天貝繍助篇」はアニメのオリジナルキャラクターである天貝繍助が護廷十三隊の三番隊隊長に新たに就任するところから始まる。護廷十三隊は死神の世界・尸魂界(ソウル・ソサエティ)を守護する組織で、三番隊隊長は前隊長の市丸ギンの出奔後は空席となっていた。

ところが「新隊長天貝繍助篇」と銘打つものの、肝心の天貝繍助の登場は必ずしも多くなく、物語の前半は主人公達との接点さえ存在していなかった。これに対し、別のアニメ・オリジナルキャラクターである霞大路瑠璃千代の方が主人公と絡んでおり、「新隊長天貝繍助篇」と名付けた意義が理解できないほどであった。

その後、第182話「天貝の実力、斬魄刀解放!」において一護と天貝は出会い、行動を共にすることになる。話の分かる善玉として描かれてきた天貝であったが、実は霞大路家に対する陰謀の黒幕であった。全ては抹殺された父の仇を取るための天貝による山本元柳斎への復讐計画であった。

三番隊第3席で獏爻刀(ばっこうとう)により死神の頂点に立とうとした貴船理や、霞大路家を乗っ取ろうとした雲井尭覚では実力的にも動機の面でもラスボスとしての重みに欠ける。天貝が黒幕という展開は視聴者として良い意味で欺かれた。

ここにおいてタイトルが「新隊長天貝繍助篇」であるのも明確になる。過去には「バウント編」というアニメのオリジナルストーリーが放送された。これはバウントと呼ばれる特殊な種族と戦う物語であった。それを踏まえるならば「新隊長天貝繍助篇」も天貝繍助が最後の敵となる点で命名は一貫している。

善良そうな隊長が実は黒幕であったという展開は原作の藍染惣右介と同じである。こちらは殺されたと見せかけた人物が実は生きていて黒幕であった。その点で原作の方が意外性は高い。

また、死神への遺恨を動機とする点も、バウント編の一之瀬真樹と類似する。慕っていた先代の十一番隊隊長を更木剣八に殺されたことが一之瀬の背景にある。但し、一之瀬の恨みは剣八に向かわず、狩矢神に忠誠を誓う歪んだ形をとった。最後には剣八と直接戦うことで剣八にも認められることになる。

これに対し、天貝は父親を殺した元柳斎への復讐で一貫している。剣八が先代の十一番隊隊長を倒したのは護廷十三隊のルールに則ったものである。これに対して、天貝の説明を前提とする限り、不正の口止めのために父親は殺された。天貝が復讐心を抱くこと自体は共感できる。

しかし、一護は「隊長になるだけの力があるのに、何故、その力を復讐に使うのか」と復讐の無意味さを説く。ここには良くも悪くも少年マンガの主人公らしい前向きな発想がある。天貝は復讐こそが強さの根源と主張し、相容れない二人は激突する。
一方、不正の口止めで父親が殺されたということは天貝が主張しているに過ぎない。殺したとされる元柳斎は未だ事情を説明していない。不正を隠蔽する殺人者として元柳斎を描くことは、原作との整合性から無理がある。

そのため、最後には天貝の父親が死なざるを得なかった事情が語られるのではないか。そうなると天貝の恨みは理由のない的外れなものになる。「新隊長天貝繍助篇」が復讐は何も生み出さない無意味なものとする論理を勝たせるのか、実は間違った復讐であったという帰結になるのか、興味深いところである。

「BLEACH」は次回放送の10月7日から火曜日夜6時からに放送時間が変更される。「新隊長天貝繍助篇」が、どのような形で幕を下ろすのかにも注目したい。

【コミック】家族愛がテーマ『エンジェル・ハート 第27巻』

本書(北条司『エンジェル・ハート 第27巻』新潮社、2008年9月9日発売)は『週刊コミックバンチ』で連載中の漫画単行本の最新刊である。同じ著者の代表作『シティーハンター』のアナザーワールドにおける続編を描いたハードボイルドである。

冴羽リョウや海坊主(ファルコン)、野上冴子ら『シティーハンター』で馴染みのキャラクターが登場する。一方で海坊主が黒人であるように『シティーハンター』とは全く異なる設定もある。本作品でも『シティーハンター』にあるようなコメディは健在である。しかし、それ以上に本作品では交通事故死した槇村香の心臓を移植された香瑩(シャンイン)とリョウを中心とした家族愛が主題になっている。

本作品はリョウと香瑩がシティーハンターとして依頼人から請けた仕事を解決していく物語である。数話に渡って一つの事件が展開される。伏線を引き継ぐことはあるものの、事件毎のオムニバス形式である。

この巻では最初から最後まで一つのエピソードが区切りよく収録されている。前巻までは主人公達自身の戦いという側面が強かったが、この巻では依頼人の事件を解決するという基本構成に即している。今回の依頼人は喫茶店キャッツアイの常連客の老紳士である。

20年前に離れ離れになった家族を思う気持ちが涙を誘う物語になっている。台湾マフィアの正道会の過酷な掟が背景にあるが、関係する人物が皆、本性は善人である。そのため、悲しい話でありながらも、人間に対して希望を持てるような読後感が残る。

『シティーハンター』も本作品も連載当時の現代を舞台にした物語である。『シティーハンター』の連載は主に1980年代である一方、本作品は2000年代である。この時代の開きは作品にも反映している。携帯電話やインターネットなどのIT技術の普及があるが、本作品で特徴的なのは国際色が豊かになっていることである。

主人公の香瑩は台湾人であるし、新宿には日本のヤクザよりも台湾マフィアが勢力を伸張している設定になっている。この巻の依頼人も正道会のメンバーであり、それ故に異郷である日本で愛した家族への思いが強く感じられる。

◆北条司公式ホームページ
http://www.hojo-tsukasa.com/

【コミック】過去の直視が大切『ロトの紋章 紋章を継ぐ者達へ第7巻』

本書(藤原カムイ『ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章 紋章を継ぐ者達へ 第7巻』スクウェア・エニックス、2008年8月25日発売)は「ヤングガンガン」に連載中のマンガの単行本である。大人気RPGゲーム「ドラゴンクエスト」の世界を描いたマンガである。

本作品の舞台は同じ作者の『ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章』から20年後の世界である。主人公のアロスは前作で活躍した勇者アランとアステアの息子である。主人公の仲間になるリーは剣王キラと拳王ヤオの息子である。その意味で本作品は「キン肉マンII世」や「暁!男塾」などと同様、二世マンガの一種である。

しかし、本作品は前作ともドラゴンクエストの世界観からも異なる雰囲気を出している。ドラゴンクエストは人間の勇者が、人間を滅ぼそうとする魔王と戦う物語である。人間と魔王の率いるモンスターは対立関係にある。しかし、本作品では魔王に相当する存在は未だ現れていない。しかも、人間の盗賊団が人間の村を襲うなど人間同士が争っている。アロス自身、盗賊団で育っている。善対悪という単純な構図は見えない。

また、本作品ではドラゴンクエストの世界の重要な要素であった呪文が使えなくなった設定になっている。このため、戦闘シーンには華が欠ける。

加えてアロスは感情を表に出すことが少ないため、感情移入しにくいキャラクターである。戦闘でも主体的に戦うよりも傍観していることが多い。それでいて両親が勇者という血統の故か実力はあり、感情が吹っ切れれば強敵も比較的容易に倒してしまう。

明るく前向きな勇者像からすればアロスは異色の存在である。努力して修行して強くなるのではなく、普段は力を発揮しようとしないが、潜在能力を発揮しさえすれば勝てる。この点で『新世紀エヴァンゲリオン』の主人公・碇シンジと似ている。しかも、アロスの強さの根拠は両親が勇者だからという点に帰着する。努力しても報われない格差社会を反映しているようで興味深い。

二世マンガには親と似た主人公が親と同じような言動を繰り返す劣化コピーという陥りやすい罠がある。しかし、本作品は前作の主人公アルスとは対照的なアロスの性格により、この罠から免れられている。

これはアロスが前作の主人公アルスではなく、脇役の子であるという設定にも負う。アランもアステアも、アルスと同じくロトの血を継ぐ勇者であるが、前作での登場シーンはアルスの仲間よりも少なく、読者にとって相対的に新鮮な存在である。この意味で本作品は単なる前編の焼き直しにはなっていない。

戦うべき相手が明確でないまま旅を続けてきた主人公達であるが、この巻がターニングポイントとなる。アロスが過去の事実から目を背けていたことが明らかになる。アロスは不都合な過去を存在しなかったこととし、過去を美化することで、自己正当化する。

日本人は過去に水に流すことを是とする非歴史的な民族と批判される。都合の悪い過去を美化し、歴史を歪曲しているとも非難されている。感情を相手に伝えない上、相手には通用しない自分勝手な理屈で正当化するアロスは外国人から見た日本人の気持ち悪さにも通じる。外国を非難するのではなく、自国の過去を直視しなければならないのと同様、本作品でも問題は敵のモンスターにではなく、アロスの内面に存在した。

本作品は暗く鬱々とした雰囲気が漂っていたが、それは過去を直視できない主人公の弱さが影響していると思われる。この巻で主人公は自らの過ちに気付き、過去を直視しようとする。謎を生み出していたのは過去を直視しなかった主人公自身であった。一つ吹っ切れた主人公によって、謎が明らかになっていくことを期待したい。

『全日本ロボット相撲オフィシャルブック』を読んで 〜若者たちに伝える「物づくり」の楽しさ

 本書はタイトルのとおり、全日本ロボット相撲の公式ガイドブックである。競技の説明や歴史、試合結果、強豪チームへのインタビュー、出場ロボットのデータなどをまとめている。

 全日本ロボット相撲大会は、1989年に始まる歴史あるロボット競技大会である。富士ソフト株式会社が主催している。ロボット相撲は、2台のロボットが相手のロボットを土俵外に押し出すことで勝敗を決める。人間の大相撲と異なり、土俵内で倒れるのは問題ない。あくまで土俵外への押し出しで決まる。また、「土俵」とは言っても、直径1.5m強の金属板である。

 ロボットには自立型とラジコン型の2種類がある。前者はプログラムにより、ロボット自身が自動的に動作する。相手ロボットを探知し、自らも向きを変えて動く。後者は操作員が電波を利用してロボットを操作する。ロボットと聞くと、人型のものを想像したくなるが、ロボット相撲の出場ロボットは重心の低いブルドーザーのような形態である。それが相手ロボットからの衝撃に抵抗し、相手ロボットを押し出す上で合理的なのだろう。

 全日本ロボット相撲の出場者は、工業高校の生徒が多いのが特徴である。複数のチームを出場させている高校も少なくない。2007年の第19回全国大会では、初めて無作為の抽選会を行い、初戦での「同部屋対決」も初めて行われた。ロボット相撲は大相撲から着想を得ているが、大相撲の不合理な点は積極的に改めようとしている。

 本書は、ロボットをパワー重視、スピード重視、両者のバランス重視の3パターンに分類する。意外にも、パワー重視タイプは少数派という。圧倒的なパワーのロボットが存在しているため、パワーだけでは勝負にならないためと分析する。多数派はバランス重視タイプで、相手の弱点に対応した戦術で勝利を目指す(17ページ)。ロボット相撲では幅と奥行きが20cm以内、重さ3kg以内という規定があり、大相撲の力士のように巨大化する一方という訳にはいかない。それ故、ひたすら圧倒的なパワーを追求することには限界がある。

 本書は一般人に向けたロボット相撲のガイドブックであるが、競技者にとっても有益な参考書になる。全国大会に出場したロボット192台のデータは、競技者にとっては章題に記述されているとおり、知恵の宝庫である。

 出場者にとって自分のロボットの情報は、できるだけ対戦相手に知られたくない。パワーやスピードで相手を圧倒する戦いよりも、相手の弱点を突く高度な勝負が増加している状況では尚更である。逆に対戦相手の情報を知っていれば有利になる。この点で、過去の出場経験という財産のある常連出場高校が有利になる傾向は否めない。

 本書は、その差を情報公開によって少しでも縮めようとする点に意義がある。初心者にも敷居を低くし、ロボット相撲の裾野を広げることは、「ものづくり」の楽しさを伝える大会の目的にも合致する。本書によって全日本ロボット相撲大会が益々発展することを期待したい。

ヤマト運輸の親切

「ダノンビオ 野菜」14日分が到着

 私はオーマイライフが募集した体験モニター「おなかの悩みにヨーグルトの野菜味が効く?」に当選した。試供品である「ダノンビオ 野菜」14日分が2008年9月26日にわが家に送られてきた。ヤマト運輸のクール宅急便で送られてきたのだが、その時の配達担当者の対応には好感を持てた。

 最初に荷物が届けられた時は不在で、受け取ることができなかった。私は20時半過ぎに帰宅し、ポストに入れられた「ご不在連絡表」で配達を知ることになる。すぐにサービスセンターに再配達を依頼したが、配達日を翌日と指定した。その日は帰宅後すぐに別の用事で外出する予定があったためである。

 この別の用事は夜遅くまでかかる予定であったが、事情が変わり、22時前には帰宅した。帰宅後の入浴中(22時ごろ)に玄関の呼び鈴の音がする。入浴中は居留守を決め込むこともあるが、時間をあけて3回ほど呼び鈴が鳴らされたので、応対することにした。

 すると、ヤマト運輸で再配達に来たと言う。再配達は翌日に依頼したと主張したが、すぐに届けるように指示されたとのことで、話がかみ合わない。とはいえせっかく配達に来てくれたため、入浴中であった事情を説明し、「着替えてから受け取るので、5分程度待ってほしい」と話した。それに対して配達担当者は翌日に再配達すると応じた。翌日、午前9時ごろに再配達され、荷物を受け取ることができた。

 私がサービスセンターに再配達を依頼した時、本日中の再配達を希望するか聞かれ、確かに翌日と回答した。一方、21時少し前の時間帯に再配達依頼をする人は帰宅しているのが普通であり、その日のうちの再配達を希望することが多いだろう。また、ヤマト運輸としても保管場所などの観点からは荷物を早く届けたいという思いがあるだろう。

 それ故に翌日という私の希望が無視され、本日中の再配達に変わってしまったことは、私にとっては不愉快であるが、あり得ることとしては理解できる。従って起きてしまったことを、とやかく言っても生産的ではない。むしろ、わざわざ配達担当者が翌朝に再配達をしてくれたことは立派である。

 私の依頼内容が無視されて、全く別の形にされてしまった経験はほかにもある。私は購入したマンションについて売り主の東急不動産とトラブルになった(参照「東急不動産の遅過ぎたお詫び」)。

 最終的には裁判を起こすことになったが、それまでの対応が最悪であった。例えば依頼していた電話番号とは別の電話にかけてくる。また、文書での回答を要求したのに、口頭で済ませようとする。約束した隣地所有者への経緯確認を行わない。

 こちらの依頼とは明らかに別の内容であるにもかかわらず、それを押し通そうとする。これは私が東急不動産のマンションには住んでいられないと考え、売買契約の取り消しにこだわった一因となった。それと比べるとヤマト運輸の配達担当者の潔い対応は好感が持てる。

 今回の出来事にはさまざまな偶然が作用している。もともとの私の予定では、配達日の夜は遅くまで外出しているはずであった。予定通りならば、再配達されていても留守であった。偶然、帰宅していたために正しい再配達依頼が翌日であることを伝えられた。

 一方、再配達のタイミングが入浴中であったことも偶然である。入浴中でなければ荷物を受け取ることができた。翌日に再配達依頼をしていても、深く考えずに「まあ、いいか」で済ませたところである。再配達が、ちょうど30分程度の入浴中であったことはタイミングが悪かった。

 さまざまな偶然が重なりつつ、「ダノンビオ 野菜」14日分が届けられた。じっくりと味わって、体験レポートをまとめたい。

佐藤賢一『王妃の離婚』集英社、1999年

中世フランスを舞台に、不正な裁判に憤り、弁護に立ち上がった弁護士の活躍を描いた小説である。自己の方が相手を圧迫していたにも関わらず、追い詰められていると、被害妄想を抱き、なりふり構わぬ攻撃・暴力を正当化してしまう権力者の心理が描き出されている。ABCD包囲網と叫んで侵略戦争を行った往時の日本政府はまさにそのようなものであったのだろう。

よき法律家には生活・社会・経済についての深い洞察が必要であると感じた。法律家が法律学の世界にのみ閉じこもってはならないとはよく言われている。例えば医療過誤訴訟や公害訴訟、特許訴訟では科学技術についての知識が必要とされる。しかし訴訟の対象となる事件の知識を追うことは表層的なものに過ぎず、それが全てではない。

逆に科学技術の勉強ばかりしていたら、法律家としての正義感・衡平観念、更には市民としての生活感を失ってしまう危険がある。「裁判官が技術のわかる人だからといって、いい判決が書けるとは限らない」(「知力国家」読売新聞2003年7月5日(鮫島正洋))。

実際、公害訴訟では論点が技術論に終始してしまい、市民感覚から逸脱した判決が散見される。特許訴訟においても発明の科学技術的な意義に惑わされることなく、発明の経済的価値や発明の開発や実施に投資した者は誰なのかという背景まで掘り下げて分析する必要があるだろう。

佐藤賢一『カエサルを撃て』中央公論新社、1999年

「ガリア戦記」を被征服民であるガリア人側に大きく感情移入して描いた長編小説である。英雄として語られることが多いカエサルが、体面を気にする卑小な中年男として描かれているのは新鮮である。リーダーシップや実行力がもてはやされる風潮があるが、独裁者の素顔は案外そのようなものかもしれない。

共和制ローマは土木国家と位置付けられている。共和制は有力者が工事を実施し、それにより多くの市民が技術と職を得、恩恵を受けた市民が選挙で有力者やその推薦する者に投票するシステムで成り立っている。これは土建国家と揶揄される日本政治を想起させる。近時は公共事業への批判が強くなっているが、ローマや戦後日本に経済的繁栄をもたらしたのがこのシステムならば、全否定すべきでもないかもしれない。新生銀行がリスクを無視して積極出店した「そごう」を潰し、ゼネコンのハザマは救済したのも理由のあることだろう。

佐藤賢一『二人のガスコン上中下』講談社、2001年

デュマの名作「三銃士」の設定を借用した長編小説。ダルタニャンのその後を描く。「三銃士」では無茶な冒険をしたダルタニャンも、組織社会で生きていくうちに分別をつけていく。実現可能性のない夢を嘯く夢想家に対し、現実から逃げているだけと批判しており、それに相手も影響を受けている。「あふれんばかりの想像力を自慢しながら、もう月の世界、太陽の世界に逃げようとは思わない」(下巻133頁)。他方で自分では何もしないにもかかわらず他人が仕えてくれるのを当然視する王族の身勝手さに不満を感じている。

絶対王政の独裁政治を打倒し、貴族による共和政治・議会政治を目指す政治運動がある。一人の人間が勝手なことを拙速に進めないように、会議体による合議を政治の中心に置くという政治思想が絶対王政確立期に既に存在していたことは興味深い。現代は過去と断絶しているものではなく、民主主義や基本的人権も古代・中世の連続の中から発展してきたものだろう。

S.Sheldon, A Stranger in the Mirror(1988)

女性のキャラクター描写が秀逸で、逆境から這い上がる女性の強さを感じさせる。これは「The Master of Game」にも当てはまる。それに引き換え、男性陣はだらしなさが目立つ。ジョセフィンの不幸も元はといえばデビッドの裏切りによるものである。デビッドには事情があろうとジョセフィンからみれば裏切りに他ならない。自分の側の勝手な事情を言い訳にしてよりを戻そうとすること自体、虫が良すぎる。それでいて相手の側の苦労や受難を想像せずに一方的に相手を責めるのは道理に合わない。それ故に本作の結末はやりきれない。人生が古い映画の筋書き通りに進むものならば、不幸のヒロインは幸福になってほしい。

柴田栄彦『レジャービジネス戦略PartII』日本工業新聞社、1990年

電鉄会社は輸送からアミューズメントを目指すべきとの問題意識から、アミューズメント産業自体についても一通り、知識があった方がいいと思い、本書を読む。発行年がやや古く、先行き不透明な長期不況を反映していないため、現在では投資リスクが高すぎてとても取り組めないような事業も紹介されている。しかしレジャービジネス成長の背景として本書が冒頭で挙げた高齢化や労働時間短縮、女性の社会進出は、現在の方がより現実味を帯びていると言ってもいい。それ故、本書の視点は現在においても新鮮味を失っていない。

興味深いのは、ショッピングセンター(SC)をアーバンリゾート施設と位置付けている点である。近時のSCはスポーツクラブ、劇場等のレジャー施設を併設し、アミューズメント・文化というファクターを取り入れ、相乗的に集客を高めている。買物は消費財を自ら生産しない都市生活者にとって生活のための営為だったが、今や楽しむものとなっている。SCは日常性と非日常性を共存させることで、利用者に近代都市の便利さとリゾート気分を同時に提供する。以上のように説明される。

生活産業が目指すアミューズメントは、このように日常性の中に非日常を提供することであると考える。住民の日常生活を支える生活産業にとっては、非日常そのものの観光よりも、地に足ついた生活を送る住民の日常生活の中の非日常の方が得意分野であり、選択・集中すべき分野と思われる。巨大な非日常の空間を現出させようとしたテーマパークの多くが赤字で撤退に至っており、日常生活で使用されるインフラ設備を活用して非日常性を加えることは、投資リスクという点からも穏当である。

そしてIT技術は空間的時間的制約を低減させるため、ITを活用することで生活者の日常生活により多くの接点を持つことができるかもしれない。ここからアイデアを考えていきたい。その場合も最初に挙げられた高齢化や女性の社会進出等の社会変化の要因を念頭に置くことを留意したい。新技術といったところで生活者の支持がなければ開発者の独り善がりであり、事業としての価値は乏しいだろう。

ゆき「青い薔薇」
本作は女性の自分探しを主題とした短編小説である。主人公は有名大学に進学した兄達やその兄達と同じ生き方を期待する母から、逃げるように上京する。しかし家族からのプレッシャーから逃れて自由になったはずの東京では、成功して認められたいという焦りからひたすら研究に没頭する。しかし恋人とのすれ違い、成果の上がらない研究に倦み、実家に戻ることで成功への呪縛が消え、新たな生活を始める決心をする。

自分が目標としていたゴールが実は自分を苦しめていたということに気付き、より身近な幸福を追求するという枠組みはオーソドックスなものである。しかし本作は一方から他方に単純に移行するというようなありきたりのものではなく、逆戻りしかねない揺れ動く心理をよく描写している。それは主人公の設定を金儲け・仕事第一のエコノミックアニマル・社蓄とするのではなく、大学院生としたことにもよろう。社蓄が会社第一から自分の人生を大切にすることに目覚める話ならば、物語の展開上、後者に進むことは明白であるし、「何を今更」という感じの平凡なものになってしまおう。

本作の主人公の動機は成功して認められたいという、すこぶる俗物的なものではあるが、活動を研究、しかも研究テーマを宗教的意義を有するものとすることで、単純に全否定できない価値になっている。事実、主人公はアカデミズムでの成功には未練はないものの、最後まで自己の研究成果に対して愛着を抱いている。そしてそのような姿勢こそ、自然を弄繰り回すのではなく自然を観察する本来的な科学者であると思う。

数年後に実家に戻った主人公は、母も兄達も様変わりしたと感じた。しかし本当に変わったのは家族なのか、興味深いところである。成功に執着しているという家族観は実は主人公の劣等感から生まれた幻想ではないだろうか。有名大学に入学し、活躍していたという兄達も実は数年前から。変わったのは家族ではなく、彼女自身がより純粋な目で家族を見られるようになったのではないか。この解釈が作者が想定したものと同じであるかは知らないし、解釈が一つに統一されなければならないものでもない。本作はこのような解釈も可能にさせる味わい深い作品である。

千と千尋の神隠し

本作品はグズで甘ったれで泣き虫な少女が「生きる力」を身につける物語と解説されることが多いように思われる。確かに千尋には大人が子どもに勝手に押し付けたがっているような「生きる力」は欠けているかもしれない。しかし彼女は大人以上に本物の生きる力を持っており、成長物語と捉えるのは、大人の傲慢であり、彼女が元々有していた能力を見落としてしまう危険がある。

冒頭の引越の車中でのふて腐れた様子で、成長する前の彼女をネガティブに描きたいようである。しかし引越は子どもにとっては、親の都合で行われるものであり、自分が育ってきて住み慣れた街、仲の良かった友達と別れなければならない辛いものである。楽しい気分になれないのはむしろ当然である。見ず知らずの新しい町での新生活がこれまで同様である保証はなく、前向きに捉えるだけでは単なる楽天家、楽しいことしか考えられない愚かな夢想家になってしまう。真の意味での生きる力からすれば、この方が問題だろう。前の町での友達との想い出に浸っている点も、過去を真剣に受け止めず、同じ過ちを繰り返す日本人の悪癖を考えれば、過去を大切にしている点で肯定的に受け取れる。

更に千尋の優れた点は、湯屋の世界に行こうとする両親に「行きたくない」と言っている点である。その後も要所で「帰りたい」と発言している。父親はそのような千尋を臆病と笑うが、彼女の方が正しかった。彼女のように危険性を直感的に察知し、危険を避けようとすることは、人が生きていく上でとても重要な能力である。危機管理がキーワードになったように、危機に陥ってからの対処能力の方に評価が集まりやすいが、むしろ危機に陥らないようにするための能力の方が重要であるし、結果的にその方がローコストで済む。企業経営においてリスク管理が重視されているのもそのためである。医療においても近時は治療よりも予防が注目されている。

行きたくないと言っていた千尋が、その発言を笑って無視した両親を助けなければならない状況は不条理である。馬鹿な親のせいで苦労しなければならない子どもは可哀想である。「もののけ姫」のアシタカも村を守るために戦った結果、呪いをかけられ村を出て行かなくなったという点で不条理である。しかしアシタカが村を守るという価値を達成するためであったのに対し、千尋には湯屋の世界が自分の住む世界とは違うことを最初から本能的に感じており、そこへ行く価値は何もない。そこに成長するための試練というような意味を読み取るならば、「しつけ」の名目で子どもに虐待を行う大人の論理に接近する。千尋は成長したというよりも、元々能力を有していたから、湯屋の世界から両親を救い出し元の世界に戻ることができたのだと思われる。

クレヨンしんちゃん オトナ帝国の逆襲

科学の進歩が人間を幸福にすると考えられていた大阪万博に代表される高度成長期のナイーブな価値観と決別し、家族の幸福という未来を歩もうとする。その頃でさえ公害(e.g.水俣病)という負の側面は既に存在していたが、現在では進歩を手放しに歓迎するのではなく、そのリスク・デメリットを見極めることが非常に重要になっている。

これは「20世紀少年」にも見られる。ここでも大阪万博的「人類の調和と進歩」の価値観が間違った方向に進む出発点になっているようである。何ら人々の生活を豊かにしたわけでもないにも関わらず、「人類が月に行った」ことを偉大なエポックメーキングなことのように捉える発想も同根だろう。

尾田栄一郎『ワンピース第29巻』(集英社、2003年)

空島編では雲の上の世界が舞台となる。そこに住む人々は地上ではありふれている土を神聖視する。単に自分達の世界にないからというだけでなく、生命を生み育むものだからである。「天空の城ラピュタ」においても「どんなに科学が発達しても、可哀想なロボット達を使っても人は土から離れたら生きていけない」ということがテーマとなっていた。地に足ついた生活を送ることの重要性を感じさせる。

神エネルの目的が地上に帰ることであることが明らかになった。人は地上に住むのが自然との論理で、筋は通っている。敵キャラもただ戦う相手というのではなく、ポリシーを持って行動している点が作品の魅力である。

『ぼくらが子役だったとき』の感想

 本書は子役経験者14人との対談集である。対談相手は紅白歌合戦での豪華衣装で名高い小林幸子氏や、主演ドラマ『相棒』が好評な水谷豊氏ら多彩な顔ぶれである。

 子役と言えば映画やテレビ、演劇における子どもの出演者がまず想起される。本書の子役は、それよりも広い。著者は子役を「幼少の職業的芸能者」と定義する(323ページ)。そのため、子どもの頃から歌手や落語家、狂言師の仕事をしていた人たちも対象になる。

 著者の中山千夏氏自身も子役経験者である。話し手も聞き手も子役という共通項があるため、話はスムーズに進む。著者だからこそ可能なインタビューになっている。インタビュー内容は子役の意識や環境という主題を掘り下げており、表面的な芸能インタビュー記事では登場しないような内容が語られている。

 子役経験者に共通しているのは、大人社会の中で生活することであった。これが子役の特殊性である。一般の子どもたちは、一日の大半を学校で同年代の子どもたちと過ごす。大人と接しているために、子役にとって他の子どもたちが非常に幼く見える。

 また、大人の顔色をうかがうことが得意であったという人が多い。中には裏表のある嫌らしい大人もおり、芸能界は決して理想社会ではない。しかし、それが現実の社会ならば、そのような社会で生きる経験は重要な社会経験となる筈である。

 学校は未成年者が社会に出るために訓練する場である。社会というものはすべての世代から構成される。にもかかわらず、学校では同年代の子どもたちを集めて教育する。しかも学力で学校や学級を分け、同年代の中でも、さらに同程度の学力を有する生徒をまとめようとする。学校教育という仕組み自体が根本的な矛盾を抱えているのではないかと感じてしまう。

 子ども時代に学校以外の世界を経験した子役だから見えることがある。それに本書は気付かされる。子役経験者の体験談が一般の子どもの生き方の参考になると著者が考える所以である。

 学校教育が大きな問題を抱えていると指摘されて久しい。学校教育の問題は学校教育を改善することで解決していくのが本筋ではある。しかし、どれほど学校教育が理想を目指したとしても、世の中のすべての子どもたちに適したものになると考えるならば傲慢である。子役という生き方も一つの選択肢として認められる社会が豊かな社会と考える。

 最後に本書への要望を一つ挙げる。著者は子役を通して、社会と子どもの関係を考察する普遍的な子ども論を展開しようとする。本書に登場した対談相手は若くても1970年代生まれであり、子ども論を展開するならば、もっと若い世代の声があれば良かったと思う。

 「子役時代を振り返る」というコンセプトであるから、現役の子役が対象外であることは理解できる。しかし、現在は20代の子役出身者も少なくない。それらも対談に含めれば、バランスのとれた子ども論を展開できたと考える。

 20代の子役経験者は、より上の世代に比べると、子役時代を振り返るには早すぎて深みに欠けるかもしれない。しかし、彼らの経験談が、より現代社会に密接であり、現代の子どもと社会を論じる上で意義を持つことは確かである。

 著者自身、昨今の芸能界の低年齢化や、親や子役の意識の変化、使い捨ての風潮などについて度々言及する。一方、「あとがき」に相当する箇所で、著者はインタビューに応じてもらうことの困難さを述べている。恐らく、この点が著者にとっても心残りであったのではないかと推測する。

カレーもつなべに挑戦!きむら屋【錦糸町】

暑い夏が続くと思っていたら、急に寒くなってきた。

鍋料理が特に美味しく感じる季節がやってくる。

一足先に私は「もつなべ きむら屋錦糸町店」でカレーもつ鍋を味わった。
「もつなべ きむら屋」は本場博多の秘伝の味をセールスポイントとし、各地に出店している。

錦糸町店はJR東日本・錦糸町駅南口を出てすぐの場所にある。駅から近いという点では好立地である。
しかし、歓楽街もある錦糸町であり、店に行くまでに「マッサージどうですか?」と怪しげな客引きに呼び止められることもある。そのため、行き辛さを感じる向きもあるかもしれないが、店内は小洒落ており、落ち着いた雰囲気である。店内では座敷とテーブル席を選ぶことができる。鍋料理だからということで、座敷を選択した。

この日は季節限定メニューということでカレーもつ鍋を食した。
具材はモツにキャベツやニラなど至ってシンプルである。点火前の鍋は野菜が山盛りになっている状態である。グツグツ煮込むことで、具材が沈んでいく。カレーもつ鍋は正統派ではないが、それなりに美味しい。当然のことながら辛いので、飲み物の消費は通常以上になる。鍋を煮過ぎるとカレーシチューのようにもなる。

モツの量は必ずしも多くなく、野菜ばかり食べた感がある。しかし味は確かで、野菜も含め、鍋料理を丸ごと味わえる。店には二人で入り、最初に二人前を注文したが、モツと野菜を一人前ずつ、追加で注文した。そして締めには、ちゃんぽんを投入した。サイドメニューの特製のレバカツや酢モツ、サラダも味わい、満腹になった。特にレバカツは逸品である。間違いなく濃厚なレバーの食感だが、レバー特有の臭みはない。レバーがあまり好きでない方にも是非お勧めしたい。

◆もつなべ きむら屋 錦糸町店
東京都墨田区江東橋3-11-3シリアル錦糸町ビル2F
TEL 03-3846-3261
営業時間 17:00〜翌5:00 Last Order 4:00

【アニメ】世界に反逆する主人公『コードギアスR2』最終回

TBS系列で放送されたアニメ『コードギアス 反逆のルルーシュR2』が2008年9月28日放送のTURN 25『Re;』で最終回を迎えた。「コードギアス」は現実とは別の歴史・技術力をもつ世界において、主人公ルルーシュが神聖ブリタニア帝国に反逆する物語である。

ルルーシュは北米大陸を本土とする広大な帝国・ブリタニアの皇子であるが、母を暗殺で失い、妹ナナリーと共に人質同然の状態で日本に送られた。他人に自分の命令を強制する絶対遵守の力「ギアス」を手に入れたルルーシュはブリタニアに戦いを挑む。

ルルーシュにとって戦う目的は母の死の真相解明と妹が幸せに暮らせる世界の構築という極めて個人的なものであった。しかし最後にはルルーシュの目的は自己を犠牲にして全人類の幸福を目指す方向に昇華する。そこに偽善的な要素はない。ギアスを使い人の心を踏みにじった罪を直視し、人々の憎しみを引き受けるルルーシュの潔さは感動的である。

ルルーシュの戦いも当初は、ブリタニアの植民地となった日本の解放という局地的なものであった。その後、超合衆国を設立することで、反ブリタニア諸国を巻き込み、世界的規模の戦いになる。さらに戦いの帰趨が人類の行く末を左右することになる。

両親であるシャルルとマリアンヌは嘘のない世界(=変化のない世界)の構築を目指す。兄シュナイゼルは破壊の恐怖によって平和を実現しようとする。そしてナナリーは世界中の憎しみをダモクレスに集めることで憎しみの連鎖に終止符を打とうとする。ルルーシュは彼らに抵抗し、あくまでも自らの理想を押し通す。

本作品はストーリーの進展によってテーマが広がっていたが、最終回は上手にまとめている。ルルーシュはタイトル「反逆のルルーシュ」のとおり、反逆者として幕を閉じた。物語中でルルーシュの立場は実に大きく変転したが、最初から最後まで世界に反逆するルルーシュを主人公とした物語であった。

愛憎が交差する準主役級の枢木スザクも最後までルルーシュと絡み合う。スザクはルルーシュと同じ志の下、別の生を歩むことになる。そして物語の前半でのゼロ(=ルルーシュ)の名言「撃っていいのは撃たれる覚悟があるやつだけだ」が最終回でも意味を持つ。

ルルーシュは母が暗殺され、妹も暗殺に怯えて隠れて暮らさなければならない世界を変えようとした。虚偽や争いをなくすために世界を固定化しようとしたシャルルやシュナイゼルにも抗った。人々が幸せを求めて変化する世界を望むためである。

しかし変化を望むならば、ルルーシュの世界を変えられてしまうことを受け入れなければならない。新たなゼロを登場させることで、ルルーシュ自身が身をもって示した。深く考えさせられるアニメであった。

◆コードギアス 反逆のルルーシュR2 公式サイト
http://www.geass.jp/

マック、マックリブらを新発売

マクドナルド流の不易流行

 大手ハンバーガーチェーンの日本マクドナルド株式会社は2008年10月3日から期間限定メニューとしてマックリブ、マックリブダブル、ベーコンポテトパイを発売した。私は発売日にマックリブダブルとベーコンポテトパイを食べたので、報告する。

 マックリブはポークパティのサンドイッチである。過去にも複数回、期間限定商品として登場した。マックリブダブルはポークパティが2枚で、ボリュームのある商品である。マックリブダブルは今回初めて商品化された。

 ハンバーガーと比べた特徴は形態である。ハンバーガーのバンズが円形であるのに対し、マックリブは楕円(だえん)形である。マックリブのキャッチコピーは

 「おいしい時間は、長いほうがいい」

である。円形のハンバーガーと比べて、細長い分、文字通り長く食べられる。

 マクドナルドは効率化を徹底している企業である。さまざまな種類のハンバーガーを提供するが、同じ形のバンズを使用することで、多品種少量の材料を用意しなければならないことによる高コストを回避してきた。

 マックリブのように異なる形のバンズをメニューとして導入するならば配送時の容器や保管時の配置方法なども、それに応じて変える必要が生じうる。その意味でマックリブは思い切ったメニューである。既に何度も期間限定で販売しており、売れ行きに手応えを有していることがうかがえる。

 マックリブは味も独特である。マックリブにはゴマ付きの楕円形バンズにポークパティと、バーベキューソース、レタス、オニオン、スイートレモンソースが挟まれている。目立つのはバーベキューソースである。ケチャップ色の強いバーベキューソースにより、ホットドックを食べているような感覚になる。マクドナルドでありながら、非マクドナルド的な感覚にもなるメニューである。

 ベーコンポテトパイは1990年から2002年までレギュラーメニューとして販売されていた商品である。ホットアップルパイと並ぶサイドメニューとの位置付けであった。ホットアップルパイは甘く、お菓子としても食べられる。ホットアップルパイが後に100円マックのひとつになるが、これも軽食としての利用を期待した戦略であろう。

 これに対し、ベーコンポテトパイはベーコンやポテト、オニオンなどの具材が濃厚で、食事のサイドメニューとして十分なボリュームがある。フライトポテトを食べても芋を食べているという感覚はないが、こちらは芋の味を強く感じることができる。また、アップルパイのようにメニュー名に「ホット」を冠していないものの、トロトロした具材はアツアツである。こちらの方が「ホット」にふさわしく、特に寒い季節には向いている。

 マックリブもベーコンポテトパイも過去に登場した商品の復活である。ここには過去の成果や資産を活用する企業姿勢が見られる。一方でマックリブダブルというボリュームのある新商品を登場させた。

 また、ベーコンポテトパイは、パイ系のサイドメニューを一度は気軽に食べられるホットアップルパイに一本化した後での復活である。これにより、メガマックのヒットに代表されるようなボリュームを求める消費者の傾向に応えている。今回の期間限定メニューからはマクドナルド流の不易流行が感じられた。

現役探偵らによるトークイベントに参加!『探偵裏物語』

現役探偵らによるトークイベント『小原誠が初めて明かす!! 〜探偵裏物語〜』が2008年10月3日、阿佐ヶ谷ロフトA(Asagaya/Loft A)で開催された。阿佐ヶ谷ロフトAは東京都杉並区にあるトーク&ミュージックライブハウスである。

小原氏はオハラ調査事務所の所長で、探偵歴35年のベテラン探偵である。フィクション作品内では脚光を浴びるものの、実際に接することは少なく、あまり知られていない探偵の裏話をたっぷりと語った。イベントは2部構成で進行した。第1部は小原氏を含む4人の探偵が登場し、探偵の苦労や失敗談、業界の将来について語った。司会者は体調不良で欠席したため、小原氏が司会も務めた。

最初に小原氏は自著『探偵裏物語』(バジリコ)を紹介した。笑いあり、涙ありの吉本新喜劇のような作品と説明した。今回のイベントはバジリコによる書籍の販売や著者によるサインも行われ、出版記念イベントの側面を有していた。

探偵業界については、探偵業法(探偵業の業務の適正化に関する法律)施行により、大きく変わったとする。契約トラブルを回避するために不動産取引のように重要事項説明書が必要になった。

契約条件については「言った、言わない」でトラブルになりがちである。私も東急不動産からマンションを購入した際、マンション竣工後に隣地が建て替えられるという説明を受けなかったために売買契約を取り消した経験がある。その裁判では重要事項説明書で隣地建て替えを明示していないことを証拠の一つとした。このように重要事項説明書は法的に重要な意味を有する書類である。

また、IT技術の発達・普及も探偵の仕事内容を変えつつある。たとえば小型のGPS装置をターゲットに装着すれば尾行をする必要はない。このため、10年後には従来型の探偵の仕事は消滅してしまうかもしれないとの悲観的な見方も出された。また、弁護士が増えている現在、仕事にあぶれた弁護士が探偵の仕事を奪っていく可能性もある。

情報が溢れており、比較的容易に情報を入手できる時代だからこそ、正確な調査・分析が求められるとまとめられた。加えて小原氏は探偵の面白みは達成感であるとし、少なくともここにいる探偵は金銭だけでは動かないと結論付けた。

第1部の最後の方では、御堂岡啓昭氏が登場した。御堂岡氏はインターネット関係に詳しく、その方面での助言や調査などをしていると紹介された。探偵の調査では特定の専門知識が必要になることも多い。専門分野については、それぞれの専門家に依頼することになる。バランスの取れた探偵になるためには広く浅く知識を持つことが重要と小原氏は主張した。

第2部では小原氏、石原伸司氏、御堂岡啓昭氏により、石原氏の活動を中心に子どもの問題が語られた。石原氏は「夜回り組長」として知られる作家である。山口組系の暴力団組長であったが、引退後は繁華街で夜回りを始め、非行少年少女の更生に尽力している。

石原氏は「子ども達は本気で話せば分かる」と力説した。少年少女から感謝される今は生きていて楽しいという。浮浪児であった自分の経験を元に「人間は、やる気があれば、いくらでも変われる」と主張した。親の気持ちで子どもは変われるため、いい親になって欲しいと観客に訴えた。

現役探偵や元暴力団組長という多彩な顔ぶれによるトークイベントでは、通常では聞くことができない話を聞けて興味深い内容であった。

『韓国現代史60年』の感想

 本書は光復から盧武鉉政権までの大韓民国の激動の現代史を綴ったものである。幾多の弾圧を乗り越えて発展した民主化運動の歩みが主題である。本書の特徴、日本との関係、翻訳の3点について論じたい。

 第1に、本書の特徴である。本書は「現代史」と銘打つものの、通史的な解説書と比べると、特徴的な内容になっている。ここでは2点ほど指摘する。

 先ず本書は民主化の進展に焦点が絞られている。これは本書が韓国の民主化運動を記録し継承するために設立された法人「民主化運動記念事業会」の企画で出版されたものであることと無縁ではない。その影響で文化史や技術史の記述は弱くなっている。

 日本の植民地支配によって朝鮮人の大半が被支配者・無産者に陥った状態から出発し、軍部の独裁に苦しめられながらも不屈の精神で民主化を達成した歩みを簡明に叙述する。ここには紆余曲折を辿りつつも、民主化が進む方向を社会の進歩とする歴史観がうかがえる。

 韓国に比べると、日本は民主主義を進展させたと胸を張れるような現代史になっているか、大いに疑問である。日本国憲法によって基本的人権の尊重、主権在民、平和主義が謳われた。これが世界に大きな災厄をもたらした15年戦争を生み出した旧体制への反省に基づくものであることは憲法前文が示している。

 しかし、日本の戦後の歩みを総括するならば、憲法の理念を徹底させるのではなく、反対に骨抜きにしていく方向にあった。本書のような民主化運動を是とする歴史観に立つならば、日本の戦後史は後退につぐ後退の歴史と映るだろう。

 次の特徴として本書は出来事を中心に記述する。本書には多くの人物が登場するが、彼らの生い立ちや思いについての記述はほとんどない。あくまで出来事の説明として人名を登場させている。本書の主人公は韓国人民であって、個人の英雄的な活躍を賞賛するものではない。この点は独裁者の圧制によって苦しめられた経験が反映されているように思われる。人間ドラマとしての歴史を好む傾向が強い日本社会にとっては新鮮な歴史認識である。

 結論として本書は韓国の現代史を知るだけでなく、歴史そのものについての捉え方についても考えさせられる1冊である。

 第2に、日本との関係についてである。本書の出版自体に大きな価値があるが、邦訳されたことの意義も大きい。日本では数十年前の隣国で民主化を求めた人民の苦闘の歴史があったことは、それほど知られていない。本書冒頭の「日本語版によせて」で「日本人は韓国現代史をよく知らない」とあるとおりである。

 本書では日本に対する視点は厳しい。民族性を抹殺させようとする過酷な植民地支配を行っただけでなく、戦後の日本政府が民主化運動を妨げる側を擁護したためである。たとえば独裁者・朴正煕の維新大統領就任式(1978年)には米国も台湾も使節団を送らない中で、日本の岸信介・元首相らのみが参加した(124ページ)。このように日本政府は独裁政権の支持者として振舞った。

 日本政府が朴正煕軍事政権を歓迎した理由を、「国会なしの軍事政権なので韓日国交正常化がしやすいという判断もあった」と分析する(89ページ)。軍事政権の方が自国に都合が良いという発想である。これは日本政府の行動原理から民主主義という基準が欠落していることを示している。韓国人民が日本政府に反感を抱くのも無理がない。

 また、韓国において日本のイメージを実際以上に悪化させたものとして、親日派の存在がある。光復後の韓国では親日派の責任追及が十分ではなく、反対に要職に就いて民主化を弾圧する側に回った。親日派への反感が反日感情を増幅させている面がある。

 本書では日本の陸軍士官学校出身の朴大統領について「自身の感情を制御できないまま日本軍人風の短気に身を任せていた」と表現する(127ページ)。このように親日派の悪性格が日本のイメージと結び付けられている。

 これは一義的には韓国内部の問題である。親日派の悪事の責任を日本に帰さすならば、日本にとっては迷惑な話である。しかし、日本政府が戦後も民主化運動を弾圧する親日派を支持していた。このため、日本にも責任がある。

 近時の日本ではルサンチマンの蓄積したネット右翼などが声高に「嫌韓」を叫ぶ傾向が見られる。嫌韓を正当化する根拠として、韓国が「反日」であるためと主張される。しかし、上述のとおり、韓国の反日には根拠がある。それは民主主義を信奉する日本人にとっても支持できるものである。日本の国是の1つに民主主義が存在するならば、愛国的な日本人であることと、韓国の反日を支持することには少しの矛盾も存在しない。正しく歴史を理解する必要がある。

 最後に、本書の訳語について指摘したい。本書は韓国人の立場で書かれたものであり、それは邦訳版でも変わらない。たとえば日本と韓国間の関係を述べるときは「日韓」ではなく、「韓日」である。

 また、韓国で使われている漢語表現を、そのまま訳語にしている。たとえば本書では政治の実権を握ることを執権と表現している。日本語でも執権は権力を掌握するという意味を持つが、鎌倉幕府執権が有名過ぎて、現代政治では使われることは少ない。

 他にも与党候補は農村部、野党候補は都市部に強い状況を意味する「与村野都現象」(45ページ)のような韓国政治の術語が頻繁に登場する。加えて、「檀君以来最大の金融事件といわれた李哲煕・張玲子事件」という表現がある(156ページ)。これは檀君が神話上の最初の王であるという知識がなければ意味を理解できない。

 以上のように本書は韓国についての予備知識を持たない日本人には必ずしも親切とは言えない。しかし、語学の分野ではなくても外国を研究する上で相手国の言葉を知ることは必要である。韓国の術語を大幅に残した本書は韓国現代史の認識を深める上で有用な1冊である。

【コミック】毎日が発見と驚き『よつばと!第8巻』

本書(あずま きよひこ著、電撃コミックス、2008年8月27日発売)は「月刊コミック電撃大王」に連載中のコメディ・マンガの単行本である。主人公である5歳の少女「小岩井よつば」の新鮮な日々を綴った作品である。

題名の「よつばと」は主人公の名前「よつば」に英語のandに相当する並立助詞「と」を付したものである。これは本作品を構成する各話のタイトルと関係する。本作品では各話のタイトルは「よつばとたいふう」「よつばとおまつり」というように「よつばと○○」となっている。○○には、その話の主題となる「よつば」が経験したものが入る。『よつばと』は「よつば」と「よつば」が経験した物事の総称を象徴している。

本作品は一話完結のオムニバス形式である。しかし、各話は別個独立しているのではなく、連続している。表紙の「よつば」が法被を着ていることが示すとおり、この巻では「よつば」が祭りに参加する話がある。

それより前の話で法被の購入について登場人物が話し合っていた。「よつばとおまつり」を読むことで、お祭りのために法被を買おうとしていたことが認識できる。このような仕掛けによって「よつば」達が連続した日々を送っていることが実感できる。これは本作品をリアリティのある構成にしている。

本作品は「いつでも今日が、いちばん楽しい日。」をキャッチコピーとする。それは決して過去をリセットして今を楽しむ刹那的な発想ではない。過去の積み重ねが現在を構成する。そして過去の蓄積を踏まえた上で、現在において新たな発見をすることで、今日を一番楽しい日とする。

本作品の魅力は、当たり前のことにも驚く「よつば」の反応である。何事も当然のように感じてしまい、発見も驚きもない日常を繰り返しがちな現代人にとって、「よつば」の反応は新鮮である。好奇心いっぱいの「よつば」からは、ヨースタイン・ゴルデルのベストセラー作品『ソフィーの世界』を想起した。

『ソフィーの世界』で哲学者アルベルト・クノックスはソフィーに、赤ん坊は偉大な哲学者であると繰り返し主張した。赤ん坊にとっては世界の全てが新しく珍しいため、当たり前と決め付けることはない。この世界に来たばかりの存在である赤ん坊は、習慣の奴隷になっていないためである。これは「よつば」にも当てはまる。

本作品は自由奔放な子どもの言動が周囲の大人を振り回し、それが笑いを誘う。この点で臼井儀人の『クレヨンしんちゃん』と比較したくなるが、両者はコンセプトが異なる。「野原しんのすけ」は現代社会にどっぷりつかったマセた子どもである。これに対し、遠くの島で育った「よつば」は日本の都市生活そのものが初めての経験である。「しんのすけ」が子どもらしくない言動で周囲を振り回す。一方、「よつば」は初めての経験からの純粋な驚きがベースとなっている。

そして「憎まれっ子世にはばかる」的な「しんのすけ」に対し、「よつば」が自由奔放に行動できる背景には周囲の人々の暖かさがある。「とーちゃん」や、その友人のジャンボ、隣家の綾瀬家の母親のように「よつば」と正面から向き合う度量をもった大人は現実には中々存在しない。これは会社人間では無理である。実際、「とーちゃん」の仕事が翻訳家で、家にいることが多い点が本作品の基本的な設定になっている。

社蓄とまで言われる会社人間的生き方は、既に多くの人々にとって魅力的なものではなくなっている。しかし正社員にならない非正規雇用にはワーキングプアという現実がある。会社人間を否定したとしても豊かな生活には直結しない。

現実の日本社会には「よつば」を受け入れるだけの余裕はなさそうである。本作品が愛しく感じられるのも、毎日が新鮮だった子ども時代を回顧させるだけではない。格差が拡大し、社会から余裕が失われた現代日本において、望み得ない日々が描かれるためと考える。

【音楽】同心円が新曲発表

インディーズ・ロックバンドの同心円が2008年9月29日のJR東日本錦糸町駅前(東京都墨田区)のストリートライブで新曲「very good song」を発表した。ライブでは初演奏である。同心円は竹内洋平と高橋晃によるアコースティックギターを主としたロックデュオである。

同心円は東関東を中心に活動し、錦糸町駅南口の広場では定期的に路上ライブを実施している。ミニアルバム「背中合わせの憂鬱と抱き寄せた小さな幸福」はタワーレコード錦糸町店にて週間インディーズチャート(2008年6月8日〜14日)第1位を獲得した。

錦糸町での路上ライブは15時半からの4部構成で行われた。記者は18時半からの4部で初めて同心円の楽曲を聴いたが、アコースティックギターを使った飾らない音楽である。ロックとは言うものの激しい楽曲ではなく、二人のハーモニーが奏でる聴かせる曲になっている。

新曲「very good song」も聴かせる楽曲である。MCによると「世の中、勝ち負けじゃない」という趣旨の曲という。「他の誰かと比べることはない」と主張する。これは大ヒットしたSMAPの「世界に一つだけの花」と重なるテーマである。とはいえ、この曲にはオンリーワンという力みもない。

競争で勝つことよりも個性を重視する「世界に一つだけの花」は大きなインパクトを与えた楽曲であった。個性を否定する日本社会において、自他共にナンバーワンと認められるトップアイドルが「No.1にならなくてもいい」と歌うことには非常に大きな意義があった。この点は、どれほど高く評価してもし過ぎることはない。

しかし、それ故にポスト「世界に一つだけの花」の音楽シーンにおいて、その克服が一つの課題になる。「世界に一つだけの花」は競争を否定する一方で、実はオンリーワンを志向する。オンリーワンも、ある観点では他者よりも抜きん出た状態である。特別なオンリーワンでなければならないとするならば、押し付けがましさからくる息苦しさは払拭できない。それは苦しい立場にいる人を却って苦しめてしまう可能性がある。

その意味で「very good song」は自然体で元気な気持ちになれる曲である。個性尊重が少なくとも建前上は当然の価値観となった世の中において、いつまでもオンリーワンを志向するのでは進歩がない。「very good song」のような楽曲が発表されたことは素直に歓迎したい。

曲の合間のMCでは単なる楽曲紹介以上にとどめず、積極的に同心円をアピールしていた。とはいえ、朴訥な感は否めず、あくまで自己表現は音楽であると感じさせる二人であった。最後まで聴いてくれていた人々に感謝の言葉をかけていたのも印象的であった。この日は曇天模様であったが、小雨が降り始めたのは路上ライブ終了後で、何とか天候にも恵まれた。今後の二人の活躍に期待したい。

同心円 Official Web Site
http://www.dousinen.com/

【読書の秋】警察の暗部も正直に『スマン!刑事でごめんなさい。』

本書(北芝健『スマン!刑事(デカ)でごめんなさい。』宝島社、2005年)は著者の自伝的な作品である。著者は警視庁元刑事にして、マンガ原作者もしているという異色の人物である。警察時代も交番勤務から刑事、公安警察まで勤めたという。

その幅広い職務経験に基づき、著者は多くの著作を世に出してきたが、その中でも本書は体系だった自伝的要素の強い作品である。警察に入る前の喧嘩に明け暮れた愚連隊の日々やロンドン留学でのロマンスについても語られており、北芝健という人間を知ることができる好著である。

本書において著者は実にメチャクチャなことをしている。タイトルの『ごめんなさい』には好き勝手に暴走してきたことへの懺悔の念があるが、本文では著者の「活躍」が武勇伝的に語られている。脚色された自慢話の羅列に辟易する向きもあるだろう。それでも痛快に読ませるだけのテンポと表現力が本書にはある。

本書に書かれた内容の、どこまでが真実かは分からない。現実に起きたならば大問題になる内容もある。たとえば刑事が被疑者を暴行し、怪我をさせても「暴れて自ら転倒。机のカドで胸部を強打」と報告書に記して責任逃れをするエピソードがある(169頁)。警察の不当な取調べや冤罪の経験がある人にとっては警察に対する怒りを増幅させかねない内容である。

しかも、被疑者への暴行を「良民を泣かす犯罪者には屈辱を与えるのがいちばんだ」と正当化する(168頁)。ここには犯罪者と被疑者を同視するという根本的な誤りがある。上記エピソードは日本の警察の遵法精神と人権意識の希薄さを示すものであり、近代国家の司法警察職員として失格である。

また、数々の警察不祥事で激しく批判された身内に甘い警察の体質を実証するエピソードもある。右翼団体に買収された公安捜査員を糾弾せず、匿い続けたという。その理由は「彼を挙げることで、ひとりふたりと同じようなことをしているヤツが出てきて内部で叩きあいが始まることを恐れた」からとする(52頁)。

このように本書は警察批判に活用することも可能な内容になっている。それは「警察絶対擁護派」という著者のスタンスとは対極に位置する。つまり本書は著者とは正反対の立場の人でさえ、得るものがある。それは脚色を加えていても芯の部分では著者がストレートで正直だからである。それ故に本書は単なる自己肯定・組織正当化で終わらず、警察に好感を抱く人も反感を抱く人も一読の価値がある一冊になっている。

【読書の秋】軽妙なコミカル・ミステリー『顧客名簿』

本書(ローレンス・サンダーズ著、高野裕美子訳『顧客名簿』講談社、1999年)はアーチィ・マクナリーを主人公としたコミカル・ミステリーである。

アーチィは父親の経営する法律事務所の秘密調査員である。法律事務所のクライアントに持ちかけられた投資話の裏を探ることが今回のストーリーである。それは精緻な仕掛けで名高いロシア皇帝の秘宝「ファベルジュの卵」についてのものであった。
本書は同じ主人公によるアーチィ・マクナリー・シリーズの一冊であるが、ストーリーは各巻で独立しており、この一冊だけ読んでも十分に楽しめる。このマクナリー・シリーズの原題は「McNally's Puzzle」「McNally's Secret」「McNally's Dilemma」という形で「マクナリーの○○」という形になっている。本書の原題は「McNally's Gamble」である。こちらの方が新しいが、『涼宮ハルヒの憂鬱』などの涼宮ハルヒシリーズを想起すれば分かりやすい。

本書は主人公が探偵として活躍するミステリーだが、主人公は知性派でも肉体派とも言い難い。口が達者のお調子者である。料理や酒、女性とのデートの話題も頻繁に登場し、軽いタッチで展開する。
これは舞台が南国フロリダであることも影響している。ビジネス街を舞台にしたリーガル小説に見られる重々しさはない。それは大都市の法律家と異なり、時間にあくせくしていないからである。アーチィには時間的な余裕があり、それが人生を楽しむ余裕にもなっている。
一方でアーチィは軽薄に見えつつも、芯の通った人物である。命を狙われたために友人から「銃は持たないのか」と心配される。それに対し、「持つもんか!どっちに銃口を向ければいいのさえ、わからない。ご心配なく、ぼくは誠意と正義と真心で武装しているから」と応じる(267頁)。小説の中とはいえ、中々勇気ある発言である。
日本という極度に中央集権化された島国に居住していると、アメリカも同じような形で単一的な社会として見てしまいがちである。しかし、本書では金儲け優先で働き詰めの法律家や銃社会というステレオタイプのアメリカとは異なるアメリカ像を見せてくれる。深刻な問題を抱えつつも、やはりアメリカは多様で豊かな社会であると感じてしまう。

本書は騙しの手口も犯人の動機も単純である。純粋にミステリーとしてまとめるならば短編で済ませることも可能な内容である。それが一冊の書籍の分量になっているが、決して薄く引き延ばした作品ではない。むしろ人生を謳歌する主人公らの粋な毎日が詰まった作品である。

【読書の秋】異色の健康論『北芝健のアンチエイジング道場』

本書(北芝健『北芝健のアンチエイジング道場』バジリコ、2007年)は元警視庁刑事にして作家の著者による健康を維持する秘訣をまとめた書籍である。

著者は自伝的なノンフィクションやマンガ原作のようなノンフィクションを問わず、多くの作品を発表しているが、それらの大半は自らが在職した警察の話題である。それに対して本書は健康をメインテーマとしており、著者の作品群の中でも異色である。

世の中では空前の健康ブームである。何しろ貧富を問わず、老いや死は何人も免れない。健康が多くの人の関心事となることは当然である。また、現在では医療費の増大が国家財政を圧迫しつつある。故に病気になってから治療することよりも、病気を防ぎ健康維持に努めることは社会的要請でもある。この点で健康への関心の高まりは好ましい傾向である。

一方で、健康志向の高まりについて批判する立場もある。その極端な例がタバコ規制に対する禁煙ファシズム論である。そこには健康を至上の価値とすることで、不健康な活動を排斥し、社会から豊かさや多様性が奪われてしまうことを懸念する。

管見は禁煙ファシズム論を支持するつもりはないが、健康を目的化する風潮に窮屈さを感じる人が少なからず存在するであろうことは理解できる。

そのような健康志向がもたらす息苦しさとは本書は無縁である。本書の「はじめに」のサブタイトルは「不健康なことを楽しむには、健康な身体が必要なのだ!」と書かれている。

「不摂生をしても病気にならない生活習慣」という禁欲的な健康追求家から見れば不道徳と非難されそうな章もある。健康は人間にとって目的ではなく、生を楽しむための手段であることが本書の一貫したスタンスである。

内容的にも著者の健康法はユニークである。一般に健康志向は自然志向に結びつく。自然の素材を食し、人工的な合成物を避ける傾向にある。しかし、著者はサプリメントの効用を説く。著者自身、サプリメント代として月15万円を投資しているという。

この点についての著者の思想は、糖尿病とインシュリンについての記述で明確化されている。著者はインシュリンを最後の手段とし、食事制限や運動を主体とする糖尿病の治療法に批判的である。反対にインシュリンを活用して、時には好物を食べて楽しみながら血糖値をコントロールする治療法に好意的である(92頁)。

末尾に「本書の健康術の効果は、著者自身の身体を基準にしたもの」との注意書きがあるとおり、本書の内容が万人に効果があるとは限らない。しかし、本書の思想は健康志向の人も、一般の健康志向に疑問の持つ人にとっても考えさせられる内容である。

江東区南砂町に大規模SC「SUNAMO」開業

地域密着型ショッピングセンター

 「南砂町ショッピングセンター SUNAMO(スナモ)」が2008年10月9日にオープンした。SUNAMOは東京メトロ東西線南砂駅そばの江東区新砂3丁目に立地する大型複合商業施設である。建物は地上7階建てで、店舗部分は4階までである。5階以上は駐車場になっている。

 SUNAMOはスーパーのイオンや家電専門店のコジマら7つの大型店と約100の専門店が入る。フードコートには「佐世保バーガー LOG KIT」や「富士宮焼きそば 本 清水商店」などユニークな店舗が並ぶ。三菱地所株式会社が開発し、アクアシティお台場などの実績がある三菱地所リテールマネジメント株式会社が運営する。

 SUNAMOという名称は南砂町の川風に揺らぐ美しい砂面(すなも)をイメージし、「砂町」「モール」「SUN(太陽)」「AMUR(愛)」を複合したという。首都圏の私鉄共通ICカード「パスモ」や横浜の商業施設「港北みなも」を連想させる語感でもある。「も」で終わらせると柔らかい感じがする。

 ただし、砂町だから砂面(すなも)というのは安直な感がある。砂町という地名は、江戸時代の開拓者・砂村新左衛門に由来するためである。この地に砂が多いとか、砂を使って埋め立てられたという歴史があるわけではない。

 私は10月11日にSUNAMOを訪問した。開業後の初の休日ということで、大勢の人でにぎわっていた。敷地の外から行列でスタッフが誘導するほどの混雑で、自転車を止めるだけでも一苦労であった。各店舗でさまざまな開店記念セールを実施しており、多くの客を集めていた。

 江東区には既にショッピングセンターは多数存在する。同じ南砂町駅付近にはジャスコやDIYセンター・ドイトを核とするトピレックプラザがある。東陽町にはクイーンズ伊勢丹のあるイースト21がある。木場にはイトーヨーカドーを中心とする深川ギャザリアがある。再開発が進む豊洲には「アーバンドック ららぽーと豊洲」ができた。さらに東雲にもイオンがある。

 一見すると飽和状態であるが、少なくとも徒歩圏の住民は確実に集客できるはずである。同じ南砂町にトピレックプラザがあるが、駅の北側・南側に分かれており、近隣の住民は近い方に行くだろう。SUNAMOの近隣には高層マンションが林立しており、近接住民だけでも、それなりの数になる。

 SUNAMOが地域密着型の複合商業施設をうたっているが、これは近接住民を絶対に失わないという決意の表れと思われる。テナントには接骨院や幼児教室、写真館、カルチャーセンターまであり、生活に必要な店舗のほとんどがそろっている。イオンやドゥ・スポーツのようにほかのSCに入居しているテナントが入っているのも、「近くの住民は近くの店で」という発想だろう。

 近接住民に対しては近さという圧倒的な優位性があるが、車で来る客に対してはほかのSCと競合になる。一つの差別化要素としては、家電専門店のコジマが入居していることである。これまで家電は秋葉原や有楽町のビックカメラ、錦糸町のヨドバシカメラで購入していた江東区民も多かったはずである。コジマが自動車圏の買い物客を集客する鍵になると考える。

 地域密着型ショッピングセンターや平仮名の「すなも」を落款風にしたシンボルマークなど、SUNAMOは江東区に散在するSCとの差別化に努めている。消費者にとって選択肢が増えることは歓迎でき、SC間で競い合って発展することを期待する。

■関連リンク
南砂町ショッピングセンターSUNAMO(スナモ)/公式サイト

【音楽】江東区民祭りでTo The Very Endが熱唱

第26回江東区民まつり中央祭りが2008年10月18日及び19日の2日間に渡って都立木場公園にて開催された。区民まつりは毎年行われる江東区民の祭典で、模擬店が立ち並び、各都道府県の特産物の販売や人力車や駕籠に乗るアトラクションもある。公園内の各所に設けられたステージでは歌謡ショーや「木場の木遣」「深川の力持」などの伝統芸能が演じられた。

区民祭りでは多くのアマチュアバンドもステージに立った。その一つが19日に出演したTo The Very Endである。女性ボーカル5人組ロックバンドTo The Very Endはメンバー全員が江東区出身で、現在は月1回のペースでライブを行うなど精力的に活動している。

区民祭りでは「翼をください」「Happy Birthday」「もらいもの」「忘れない日々」「PARADISE」の5曲を披露した。冒頭の「翼をください」はサッカー日本代表チームの応援歌としても歌われている曲をロック調にアレンジしたものである。区民祭りは通常のライブと比べると幅広い世代が聴衆になる。誰もが知っている楽曲にすることで、多くの人が関心を持てるように選曲の工夫がうかがえる。

多くの人に興味を持ってもらう工夫という点では、演奏前にバンドを紹介する小冊子を配布するのがTo The Very Endの特色である。小冊子は手書きで、かわいらしいイラストが多用されており、親しみが持てる内容になっている。

最後の「忘れない日々」と「PARADISE」はTo The Very Endのライブで繰り返し演奏されている代表的な楽曲である。このバンドの楽曲はポップで明るく元気な曲が多いが、「忘れない日々」はしんみりと聞かせる内容になっている。思い出を胸に旅立つ心情を歌っている。卒業をテーマにしたバラードの名曲は数多いものの、聞かせる曲でありながら、アップテンポなポップさを失っていない点が特徴である。

一方、「PARADISE」は、このバンドらしいノリの良い曲になっている。歌詞も「きっと世界は あたしが中心」と自己肯定に満ちている。一方で「ワガママばかりだけの自分では、ロクな大人になれない」という趣旨の部分もあり、結論が自己肯定なのか性格を直すべきなのか分からないところがある。

恐らく聞き手の立場や心情によって異なる解釈になるだろう。そのような多義性を有することが、この楽曲が繰り返し演奏される一因と思われる。

To The Very Endは地元である城東地域(江東区、江戸川区、墨田区)を中心に活動していたが、ライブを六本木や高円寺で予定するなど活動場所を広げている。今後の活躍を期待したい。



◆To The Very End公式
http://www.geocities.jp/tothe_veryend/

【書評】爆発的な流行のメカニズム『急に売れ始めるにはワケがある』

本書(マルコム・グラッドウェル著、高橋啓訳『急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則』ソフトバンク クリエイティブ、2007年)は、流行が爆発的に広がっていくメカニズムを論じた書籍である。

本書は2000年に出版された『The Tipping Point: How Little Things Can Make a Big Difference』の邦訳である。飛鳥新社から同じく2000年に『ティッピング・ポイント―いかにして「小さな変化」が「大きな変化」を生み出すか』のタイトルで出版された。それが上述のタイトルに改題し、文庫化して再出版された。

文庫版はビジネス書的なタイトルになっているが、本書は人間社会のあらゆる分野に適用される普遍的な内容を扱っている。実際、本書が取り上げる爆発的な流行はヒット商品に限らない。ニューヨーク市の犯罪率の低下やボルティモア市の梅毒感染、アメリカ独立革命、十代の禁煙、乳がん予防など実に幅広い。これは著者が経済学者やコンサルタントではなく、ジャーナリスト出身であることが影響しているように感じられる。

本書の主題は原題のタイトルにもなっている「ティッピング・ポイント」である。これは臨界点や閾値などを意味し、本書では「すべてが一気に変化する劇的な瞬間」と位置付けている。流行は伝染病のように爆発的に広がるという認識があり、感染を広げていくための「世界を傾ける(ティップ)点」がティッピング・ポイントになる。

そしてティッピング・ポイントに至るメカニズムを明らかにすることが本書の目的である。それは物量に依存した大規模な活動ではなく、むしろ慎ましい活動による小さな変化であることが明らかになる。

本書で取り上げられた「伝染」に比べればささやかであるとしても、私にも思い当たる経験がある。私は購入したマンションのトラブルで、売主の東急不動産と裁判をした。マンション販売時に東急不動産(販売代理:東急リバブル)が不利益事実(隣地建て替え)を説明しなかったことが引渡し後に判明したためである。

この訴訟が契機となって、インターネット掲示板上では「自分もこのような目に遭った」と東急リバブル・東急不動産への批判が続出した。これはビジネス誌にも取り上げられ、炎上と報道された(「ウェブ炎上、<発言>する消費者の脅威−「モノ言う消費者」におびえる企業」週刊ダイヤモンド2007年11月17日号39頁)。

本書の理論に従うならば裁判を起こした私は口コミ伝染を司る「通人(メイブン)」に相当する。通人は商品などが爆発的にヒットする口コミ伝染を司る少数者の一類型である。商品やサービスを注意深く観察し、適正でないと判断すれば、それなりの行動を起こす人々である。悪質な企業には関係各所に苦情を申し立て、友人や知人に「買うな」と言い触らす人々である。

本書では「こういう人が市場を公正にしている」と肯定的に評価する(87頁)。週刊ダイヤモンドの記事中で東急リバブル関係者は「今は営業マンの教育や契約書の念入りなチェックなど顧客重視の姿勢をさらに徹底している」と答えている。これが事実であるか否かは確認できていないが、このような回答が少なくとも表向きはなされることは、通人の活躍に文字通り市場を公正にする効果があることを意味する。

本書は2000年に書かれたものであるが、内容は少しも色褪せていない。これは賞味期限の短い分野であるビジネス書的なタイトルに改題されて文庫化されたことが示している。むしろWeb 2.0やCGMによってインターネット上の口コミが威力を発揮する時代において、本書の理論は一層大きな意義を持つと思われる。

【コミック】敵をも感化させる主人公『蒼天の拳 第19巻』

本書(原哲夫作、武論尊監修『蒼天の拳 第19巻』新潮社、2008年10月9日発売)は週刊コミックバンチに連載中のマンガの単行本である。人気マンガ『北斗の拳』の世界観を継承した物語である。
舞台は1930年代の中国で、北斗神拳第62代伝承者・霞拳志郎(かすみ けんしろう)が主人公である。ケンシロウの2代前の伝承者で、北斗二千年の歴史上、最も奔放苛烈と呼ばれた男とされる。タイトルにある蒼天は主人公の清々しい生き方を象徴している。

この巻では天授の儀が中心となる。天授の儀は北斗神拳の真の伝承者を決める闘いである。拳志郎は北斗劉家拳伝承者の劉宗武と戦うことになる。しかし、すぐに二人が戦う訳ではない。戦う前に二人で花見をして酒を酌み交わす。戦いの当日には竜巻が起こり、天授の儀を見守るために五爪の龍が光臨する。すぐに戦いを始めずに、天授の儀を盛り上げる展開である。

宗武はナチス・ドイツの将校として登場し、ひたすら争乱を求める奸雄的な位置付けであった。それが拳志郎と出会うことで大きく化けた。この巻では桜の花を見事と感じるような心の余裕も生まれている。単に北斗劉家拳伝承者だからというだけでなく、人物的にも天授の儀の相手として相応しい存在に成長した。主人公が巨大な敵と戦うことで成長する展開はよくあるが、本作品では反対に主人公が相手を感化させ、成長させる。拳志郎と接することで、蒼天を見るような晴れやかな気持ちになる。

宗武は拳志郎の最後の強敵としても遜色ないが、一方で本作品では未だ決着がついていない強敵として、西斗月拳のヤサカが残っている。ヤサカは極十字聖拳の流飛燕を殺し、宗武を負傷させるほどの使い手として描かれている。何より西斗月拳には北斗神拳始祖シュケンに皆殺しにされたという因縁がある。天授の儀の後には北斗神拳と西斗月拳の因縁に決着が付けられるのではないかと思われる。
しかし、この巻でのヤサカは精彩を欠く。ヤサカは天授の儀の激闘で弱り果てた剣士を倒そうとしているのではないかと北斗曹家拳伝承者の張太炎に嘲笑される。そして太炎に言われるままに天授の儀を見届けることになるが、拳志郎と宗武の動きが速くて目が追いつかない。太炎に「やつらはどこに?」と場所を教えてもらっていた。
確かにヤサカは飛燕や宗武を圧倒していたが、正々堂々と戦って勝利したわけではない。飛燕との戦いでは少年を囮とし、少年を庇った飛燕を攻撃した。宗武との戦いでは、馬糞の中に潜み、杜天風を倒すことに夢中な宗武を不意打ちにした。戦い方までも踏まえるならば、それほど実力があるようには感じられない。
少なくとも現在の宗武の方が強そうであり、天授の儀の後でヤサカと決着をつけるというベタな展開では盛り下げてしまう危険がある。天授の儀を見届けることで、ヤサカも大きく化けるかもしれない。そのような展開を予想させる巻であった。

『ハイチ いのちとの闘い−日本人医師300日の記録』の感想

 本書はカリブ海に浮かぶ島国、ハイチ共和国で医療活動に従事した日本人医師の体験記である。著者は「学ぶべきことは人々の中にある」というNGO代表の言葉に触発され、ハイチへの赴任を決意する。ハイチではカポジ肉腫・日和見感染研究所においてエイズの治療と研究を行うものの、2004年のクーデター騒乱によって出国する。

 著者は専門家としてハイチに赴任したが、本書の内容は専門分野に閉じこもったものではなく、ハイチ社会と向き合った等身大の体験を記述する。ハイチ赴任のきっかけとなった言葉「学ぶべきことは人々の中にある」を文字通り体現している。

 著者が赴任したカポジ肉腫・日和見感染研究所は過去10年以上にわたり、日本政府の援助を受けていたという。にもかかわらず、日本との人的交流は乏しかった。これは「顔の見えない」と形容される日本の援助の一例である。

 著者は「こうした状況を変えてみたい」と考え、熊本で行われる感染症対策の研修コースに研修生を送り出す。著者がカポジ肉腫・日和見感染研究所に赴任し、それがきっかけでハイチの医者が日本を訪れる。これだけでも著者の赴任には意味がある。

 本書の最後はクーデター騒乱の混乱の中からの身一つでの出国を描く。この騒乱は2004年にハイチ解放再建革命戦線が蜂起し、ジャン=ベルトラン・アリスティド大統領が「亡命」した内戦である。ここにはキナ臭い話が色々とある。米国が反乱軍の武器を提供していた、アリスティド大統領の労働者保護政策に反対する米国人実業家アンドレ・アパイドが反政府勢力を率いていたなどである。

 しかし、本書では、その種の政治的な裏話には触れていない。この点で国際政治の生々しい現実を知りたい向きには不満が残るが、現実に途上国で草の根の国際協力を行うためには政治に深入りしないことが必要であるかもしれない。

 また、著者はハイチが混乱する背景として「麻薬を扱って利益を得ている集団」の存在を挙げる。この集団にとって安定した社会は不都合であるため、騒動を引き起こし、国内を不安定な状況に陥らせようとする。これを著者は「許しがたい」と非難する(184ページ)。実際の世の中は明らかな悪を持ち出し、それを非難すれば済むというほど単純ではないと考える。しかし、誰もが合意できるところから非難していくということが現実的な知恵なのかもしれない。

 本書では政治的な言説は抑制されているが、印象に残ったものはアメリカ在住のハイチ人アブジャスの言葉である。民主的に選ばれたアリスティドの施政下の混乱に直面して、「デュバリエ独裁時代のほうがハイチは豊かで、秩序があった」と独裁政権を懐かしむハイチ人がいることを彼は批判する。彼は独裁政権下の秩序を「恐怖の中での秩序」と位置付け、「自由のない社会の秩序は、自由のもたらす弊害以上に恐ろしい」と主張する(132ページ)。

 大衆が結果的には自らの首を絞めることになるにもかかわらず、独裁者を支持してしまうことは「パンとサーカス」で骨抜きにされた古代ローマから、ナチス・ドイツが台頭したワイマール共和国に至るまで繰り返されてきた。現代日本でも格差の拡大の中で鬱積したルサンチマンを歴史の美化や嫌韓によって埋め合わせようとする危険な傾向があり、決して他人事ではない。

 日本社会の格差以上に深刻な苦しみを抱えるハイチで、独裁政権の恐怖を冷静に訴える意見に出会えたことは人間に対して明るい希望を与えてくれる。まさに「学ぶべきことは人々の中にある」という言葉の通りである。

【コミック】一瞬一瞬の心理描写が深い『HUNTER×HUNTER 第26巻』

本書(冨樫義博『HUNTER×HUNTER 第26巻』集英社、2008年10月3日発売)は週刊少年ジャンプの連載マンガの単行本である。架空の世界を舞台として、少年ゴン・フリークスらハンターの冒険を描く作品である。

この巻ではキメラ=アントという人間を捕食する危険な生物との戦いが山場を迎える。ゴンやキルアらがハンター試験を受験するところから始まった本作品であるが、このキメラ=アント編ではハンター協会会長に実力を認められるほどに成長した。キメラ=アントとの戦いはハンターとしてもレベルの高い戦いになっている。

タイトルにもなっているハンターは、念と呼ばれる特殊な能力を駆使して冒険する人々を指す。ハンターの使う念はオーラ(生命エネルギー)を操る能力で、念能力者は各々独特の能力を有する。荒木飛呂彦の作品『ジョジョの奇妙な冒険』のスタンド(幽波紋)にも似ている。本作品はバトル中心のマンガであるが、個性ある念能力が戦いを単純な力対力の対決以上のものにしている。

とりわけ「制約と誓約」という念の特性が戦闘を複雑にする。これは能力の発動条件を厳しくすればするほど、威力が巨大になるという性質である。たとえば主要登場人物のクラピカの能力「束縛する中指の鎖(チェーンジェイル)」は鎖を巻きつけることで相手を無力化できるが、幻影旅団員に対してしか使用できないという制限がある。戦いにおいては自分の能力の発動条件に適した状態にしなければならないため、頭脳戦の要素も出てくる。

さらに、この巻では強者同士のレベルの高い戦いが展開され、戦いの一瞬一瞬での心理描写が詳細になっている。攻防を繰り返す度にキャラクターの心理説明がなされる。戦闘シーンというと派手なアクションで魅せるマンガとなりがちであるが、これほど詳細な説明がなされることに驚きである。

戦いにおいてキメラ=アント側が合理的で、主人公側が非合理的という逆転現象が生じている点も興味深い。キメラ=アントの護衛軍は、あくまで王を守るという目的を忘れない。これに対して、ナックルは計画遂行よりもシュートが侮辱されたという怒りを優先させて行動する。それを諌めるべきシュートも、ナックルの行動を支持する。

人間の価値観に基づくならば人間を捕食するキメラ=アントは悪である。故にキメラ=アントと戦うハンター達の戦いは人間にとって正義の戦いになるはずである。しかし、戦いを担う登場人物は、むしろ自分達の感情に従って行動する。人類のためという偽善的な自負心が前面に出ない分、かえって作品にリアリティを持たせている。

特に主人公のゴンは恐ろしいほど非合理性を爆発させた。これまでゴンは天真爛漫な明るく優しい性格の持ち主として描かれてきた。暗殺者の家系に生まれたキルアや同胞を幻影旅団に滅ぼされたクラピカのような影がないため、キャラクターとしての深みに欠ける点は否めない。それが、この巻では戦意を示さないネフェルピトーと対峙して、やり場のない怒りで感情が制御できなくなる。優等生的なキャラクターの人間的な側面を垣間見ることができた。

本作品は度々休載され、連載再開がニュースとして報道されるほどの状態である。最近では単行本の発売と連載再開がセットになっている感もある。それでも打ち切られず、読者から見放されないだけのクオリティが本作品には存在する。継続して欲しい作品である。

【書評】不満のない家が理想『省エネ時代の家づくり』

本書(兼坂亮一『省エネ時代の家づくり』けやき出版、2008年)は、一級建築士にしてハウスメーカーの経営者である著者による家づくりの本である。

業者の書籍になるが、宣伝色は少ない。著者の出発点が自分の家が欲しいというところにあるためである。著者は安くて良い家を手に入れる方法を見つけるために建築業界に入ったという(9頁)。そして自らの家を二回も建てた経験を持ち、二度目の家作りで満足できる家を建てられたという。つまり著者には住宅の居住者としての視点も有している。それが業者の書籍でありながら、類書とは異なる性格を本書に与えている。

本書は『省エネ時代の家づくり』のタイトルのとおり、断熱や換気にこだわっている。本書には一般に流布している俗説に真っ向から対立する主張もあり、勉強になる。本記事では2点ほど指摘する。

第一に結露についてである。高温多湿の日本では大抵の結露は許容範囲で済まされがちである。これに対し、著者は「結露はカビを繁殖させ、土台を腐らせるので絶対に防がなければならない。第一、結露が発生する家は不潔だ」と妥協しない(38頁)。そもそも、乾燥する冬にも結露は発生しており、気候風土が原因ではなく人口結露であると喝破する。

結露の発生を避けるためには、家の断熱性を高めて換気をすべきと主張する。私が東急不動産(販売代理:東急リバブル)から購入したマンションでは冬場に北側の窓に滴がポタポタ落ちるほどの結露が発生した。断熱や通風に問題があったことを示している。マンション購入時に隣地建て替えなどの不利益事実を説明されなかったことが後に判明したため、消費者契約法に基づき、売買契約を取り消したが、正解であった。

第二に外断熱についてである。一般に欧米で主流の外断熱が内断熱よりも優れているとの外断熱信仰が流布している。これに対し、本書は以下のように地震と断熱工法の関係を説明する。「北欧では地震が起きない国なので、外断熱工法が可能なのだ。日本は地震が多い国なので、コンクリート造に内断熱工法が採用されている」(51頁)。

実際、耐震強度偽装事件で強度不足の物件の多くのデベロッパーであったヒューザーは外断熱をセールスポイントの一つとしていた。また、多くの強度不足の物件を施工した木村建設はドイツの工法を移入することで工期短縮を図ると説明していた。海外の事例を学ぶことは非常に大切なことであるが、単純に「外断熱」「海外で主流」というキーワードに飛びつくだけでは大きな落とし穴に陥ることを示している。

著者は本書において「よい家」を「不満のない家」と定義する。「暑くなく、寒くなく、結露もカビも発生しない家が快適住宅である」とする(121頁)。長年生活していく住宅にではプラスを追い求めるのではなく、マイナスを避けることが重要になる。とかく美点ばかりをアピールしがちなマーケティング手法にも反省を迫るものである。

私が売買契約を取り消した東急不動産のマンションも都合の良い点ばかりを宣伝し、不都合な事実は説明しなかった。隣地建て替えを抗議しても東急不動産の課長(当時)は「隣地が新築の建物になれば綺麗になってよい」とプラスの面を無理やり探し出して正当化しようとした。不満のない家を目指す著者と、プラス面しか見ようとしない東急不動産では対照的である。どちらが消費者にとって好ましいかは言うまでもない。

本書は「あなたが居住性の高い家に住みたければ、今住んでいる家の不満に気づくことが何よりも大切である」とも説く(96頁)。不満をあげつらうことは減点主義としてネガティブに評価する傾向もあるが、物事のプラス面ばかり見て前向きに進むのでは進歩も改善もない。不満を直視することが家づくりに限らず全ての活動の第一歩になる。

【読書の秋】不寛容への怒り『秘密の巻物』

本書(ロナルド・カトラー著、新谷寿美香『秘密の巻物―イエス文書に書かれていたこと』イースト・プレス、2008年10月1日発行)は、イエスの自筆文書とみられる巻物をめぐるミステリーである。著者はアメリカのラジオ番組のパーソナリティーであり、プロディーサーであり、脚本家でもある人物で、本書は著者の処女小説である。

主人公はイスラエルを休暇で訪れたアメリカの考古学者ジョシュ・コーハンである。彼は死海近くの洞窟で運命的に古代の壺を発見する。壺の中にはアラム語で書かれた巻物が入っていた。巻物には作者がヨシュア・ベン・ヨセフ(ヨセフの息子ヨシュア)であると書かれていた。

本物であるとすれば今日、イエス・キリストとして知られている人の自筆文書となり、考古学上の大発見となる。ジョシュはイスラエル考古庁(Israel Antiquities Authority; IAA)に発見を連絡したところ、事件に巻き込まれていく。

イエスの人間的側面を掘り下げている点で、世界的ベストセラーとなったダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』を髣髴とさせる作品である。但し本書には『ダ・ヴィンチ・コード』のようにカトリックが真実を隠していたという類の要素はなく、悪役は異端の教団である。その点で教会との緊張関係を生む作品ではない。

また、『ダ・ヴィンチ・コード』が過去の真実に迫ろうとする作品であったのに対し、本作品では信仰が現代社会にも意義あるものとして存在感を持っている。主人公も科学者であるだけでなく、霊的な能力を有した存在として描かれている。その意味で宗教を題材とした作品として深みがある。

本書の一貫したテーマは不寛容に対する怒りである。残虐な行為を正当化するために宗教が悪用されることへの怒りである。もともと主人公は独善的な非寛容に対する怒りを抱いた人物として描かれているが、巻物をめぐる争いを経て、その思想はより強化された。

しかし、パレスチナ問題の現実を踏まえるならば本書の寛容には限界がある。主人公側の寛容の精神はイスラム教徒にも向けられているが、イスラエルの存在は当然の前提としている。イスラエルがパレスチナ人の土地を奪って建国されたという現実には目を向けていない。

土地を奪った人間が寛容の精神を説いたところで、土地を奪われた被害者が受け入れる筈がない。国際社会がイスラエルの暴虐を非難するにもかかわらず、アメリカだけがイスラエルを擁護している。その背景としてイスラエル寄りの発想がアメリカ社会に根付いていることを感じさせる一冊でもあった。

「江戸・東京の茶の湯展」【日本橋】

「江戸・東京の茶の湯展−近代茶の湯の黎明−」が2008年10月22日から11月4日まで日本橋高島屋(東京都中央区)8階ホールにて開催された。

この展覧会は「江戸・東京の茶の湯展」実行委員会、NHK、NHKプロモーション、日本経済新聞社が主催するものである。東京茶道会の創立100周年を記念した展覧会で、表千家や裏千家、遠州流など所属する10流派が一堂に集い、江戸・東京における茶道文化を回顧し今後を展望する。

この展覧会では徳川家康、秀忠、家光の三代将軍ゆかりの茶入れをはじめ、江戸から東京に至る各時代を生きてきた茶人愛用の茶道具を展示する。江戸時代以降の茶の湯文化を萌芽(江戸時代初期)、開花(中期)、爛漫(後期)、新生(明治以降)の4つに時代区分し、時代順に展示しているため、時代背景も理解しやすい。最後は東京茶道会所属の各流派の立礼卓(りゅうれいじょく)で締めている。
 希少な茶道具を展示するだけでなく、一つのメッセージを打ち出していることが展覧会の特色である。それは時代を経るごとに茶の湯の担い手が広がっていたという主張である。
 江戸時代初期には将軍家の権威付けのために茶道が利用された。幕藩体制が安定した元禄期は武士の間に広がり、江戸時代後期には町人にも普及した。この頃では文化面でも名実共に江戸が日本の中心地となった。

 そして明治以降は大名家秘蔵の名物が数寄者と呼ばれる実業家に収集されることになる。さらに洋風の生活スタイルに合わせ、椅子に座って手前する新しいスタイル「立礼」も産み出された。
江戸から明治というと価値観が変わり、全く別の時代になったという印象を抱きがちである。これに対して、この展覧会では茶の湯文化の拡大という視点から、江戸から明治への変遷をも連続的に捉えている。
日本の伝統文化の中には文明開化によって壊滅的な打撃を受けたものも少なくない。それらに比べると茶道具類の海外流出が皆無ではないとしても、茶の湯の歩みは幸福であった。そこには東京茶道会の前身である茶道協会を設立した先人達の苦労と努力があったものと思われる。
 翻って格差社会がクローズアップされる現代もまた、価値観の面では明治維新や敗戦に匹敵する激動の時代である。IT長者と呼ばれるニューリッチ層が登場したが、文化の新たな担い手とは呼び難い。「人の心はお金で買える」と豪語したホリエモン(堀江貴文)に象徴されるように、高価な商品やサービスを消費することを幸福と考える金銭万能主義的傾向が強いためである。戦前の数寄者も元は卑しい成金で、悪評も多かったが、それでも文化面で足跡を残していることとは対照的である。
 
明治という大きな変革期を乗り越えて広がりを続けた茶の湯にとって、むしろ現代の方が試練の時代なのかもしれない。その意味でも、江戸から明治に続く茶の湯の広がりを振り返る本展覧会の開催には意義がある。

■江戸・東京の茶の湯展−近代茶の湯の黎明−
http://www.nhk-p.co.jp/tenran/20081022_225010.html

『素人がよく分かる相対性理論の大間違い』の感想

 本書は相対性理論が誤りであると主張し、著者が考える理由を分かりやすく説明している。相対性理論は現代物理学の重要な柱の一つであり、それを根本的な誤りと主張する本書は非常に野心的な著作である。

 著者は自説を展開するに当たり、批判対象である相対性理論については、訳書ではあるものの提唱者であるアインシュタインの著作に依拠している。また、相対性理論を批判する先行の論稿(窪田登司『アインシュタインの相対性理論は間違っていた』など)も研究している。著者は物理学者ではなく、美しい夕日を眺めていた際に相対性理論の誤りを直感的に閃いたと説明するが、研究手法はオーソドックスである。

 著者の問題意識は多くの人々が自ら考えることなく、アカデミズムに受け入れられた相対性理論を正しいものと無批判に受け止めてしまっている現状にある。そのような現状に一石を投じようとする著者の思いは「巨大なマインドコントロールを解く」というサブタイトルに込められている。

 そして相対性理論の正否を自ら考えた上で判断してもらうために、本書では図を多用し、分かりやすい説明を心がけている。タイトルに「素人がよく分かる」とある通りである。本書では見開きの2ページで1つのトピックを扱っている。右側のページには文章による説明を行い、左側のページにはマンガチックな図や比較的単純な数式で解説する。

 但し、理解しやすくするための努力が皮肉なことに、ある意味では本書を分かりにくくしている面もある。相対性理論は一言で説明できるような簡単な内容ではない。それ故に本書も相対性理論を構成する個々の原理(一般相対性原理や等価原理など)毎にトピックを分けて批判する。

 各々の主張は図解もあり分かりやすい上、そもそも相対性理論は人間が知覚から認識できる経験則に反している内容も多いため、本書の説明は説得的な面がある。しかし、個々の原理を攻撃しても、相対性理論の全体像からの位置づけは見えにくい。そのため、意地悪な立場からは、著者の批判は枝葉の揚げ足取りに過ぎず、相対性理論の本質への批判になっていないと一蹴される恐れもある。

 実際、本書は相対性理論の説明でよく使用されている絵の誤りを指摘するところから始まる。著者の主張が正しいとしても、「相対性理論の説明でよく使用されている絵の誤り」が「相対性理論の誤り」に直結する訳ではない。

 相対性理論を批判するならば、最初に相対性理論を体系立てて説明した方が理解しやすい。特に本書は中高生でも理解できることを念頭に書かれたとするが、そもそも中高生をはじめとする一般読者は相対性理論を正確に理解しているとは限らない。読者層を考えるならば相対性理論自体の体系的な説明は必須である。

 著者にとって相対性理論は批判すべき誤った理論であり、詳しく紹介する価値はないものかもしれない。しかし、自説を前面に押し出すのではなく、「相対性理論の大間違い」と相対性理論の知名度に寄りかかった論稿にしている以上、本書で批判する相対性理論についての定義を最初に登場させることが望ましい。相対性理論の正確な定義をできてこそ、批判も説得力を有する。

 本書の主張は物理学の通説に真っ向から対立するものであり、「疑似科学」「トンデモ本」と嫌悪感を有する人も存在するだろう。しかし「疑似科学」とラベリングして声高に排斥する疑似科学批判者の姿勢こそ科学的な精神から最も乖離している。世の中の疑似科学批判者が疑似科学を誤りとする根拠の中には首肯できるものもあるものの、その攻撃性には強い違和感を覚えている。

 仮に疑似科学の主張に誤りがあるとした場合、その誤りを指摘することは正常な言論過程である。しかし、疑似科学批判者が決め付けた「疑似科学」を主張したり紹介したりすることが、社会的・道義的に悪いことであるかのように人格的に非難される筋合いは存在しない。言論空間は疑似科学と決め付けるとことでしか自己の優位を保てない人々のために存在するわけではない。

 その意味で著者を「科学的素養がない」「物理学の基礎知識がない」と頭ごなしに決め付けるような人々が存在する限り、本書のような書籍が出版されることには意義がある。著者の活躍を期待したい。

商品券でもポイントが貯まるアイワイカード

オーマイライフの原稿料の使途

 流通業大手「セブン&アイ・ホールディングス」のハウスカードにアイワイカードがある。イトーヨーカドーやエスパなど傘下の店舗で買い物をすると購入額の1%、クレジットで買い物をすると0.5%分のポイントが付与される。貯まったポイントはイトーヨーカドーなどでの買い物時に1ポイント1円で使用できる。

 普段の買い物でポイントを使用できる上、1ポイントから消費できる。この仕組みにより、ポイントには有効期限があるものの、無駄なく消費できる。そのため、なるべく買い物ではアイワイカードを使用するようにしている。

 このアイワイカードは、商品券で購入した場合でもポイントを貯めることができる。これに気付いたのはオーマイライフの原稿料がきっかけである。オーマイニュースはオーマイライフにリニューアルし、原稿料は銀行振り込みから商品券に変更された。私にとってオーマイライフとしては初の原稿料が2008年11月3日に送付された。

 商品券到着後に早速、イトーヨーカドー木場店での買い物で使用した。商品券には釣り銭が払われないため、額面分を商品券、残金をクレジットで支払った。レシートを確認すると商品券で支払った分の金額も含めた購入額にショッピングポイントが付与されていた。商品券で買い物した上にポイントまで受け取れるとは少し得した気分になる。

 オーマイライフへのリニューアルによって原稿料が現金から商品券へ変更されたことにより、市民記者から少なからぬ不満が生じたことは確かである。商品券は現金と比べて利用できる場所に制約がある。商品券を使うために余計な買い物をしなければならないとしたら、かえって無駄遣いになってしまう。

 しかし、私はそれほど問題視していなかった。生活必需品を購入することが多いイトーヨーカドーで商品券が使用できるためである。商品券がなくても出費したであろう日常の買い物で商品券を使用すれば無駄遣いにならない。このため、商品券への変更に抵抗はなかった。

 強いてデメリットを挙げるならば、商品券で支払った購入額にはクレジットのポイントが付与されないことである。オーマイニュース時代は振り込まれた原稿料が、そのまま預金になった。日常の買い物はクレジットで支払っていたため、クレジットのポイントを獲得できた。この分が原稿料支払い方法の変更による「損失」になる。

 世界的な景気失速に対応するため、日本政府は追加経済対策として生活支援定額給付金の支給を発表した。確実に消費に回すために現金ではなく、商品券による配布も検討されている。しかし、上述の例で示したとおり、商品券にしたとしても、必要な消費に使われるだけで消費を増やす効果に結びつくかは疑問である。この点は既に多くの論者によって指摘されているが、私自身の消費行動からも妥当性が裏付けられる。

美味しい野菜味「ダノンビオ 野菜」

【体験レポート】おなかの悩みにヨーグルトが効く?

 オーマイライフの企画「おなかの悩みにヨーグルトの野菜味が効く?」により、私は「ダノンビオ 野菜」14日分を2008年9月末から10月上旬にかけて毎日食べた。本記事は、その体験レポートである。

 「ダノンビオ 野菜」はダノンジャパンが2008年9月に発売した新製品のヨーグルトである。ダノンはフランスを拠点にワールドワイドに展開する食品企業である。ダノンビオはダノンのヨーグルトのブランドの一種で、高生存ビフィズス菌「BE80」を含む健康機能性ヨーグルトである。この菌は腸の動きを促進するため、便秘解消に効果的という。「ダノンビオ 野菜」は16種類の野菜と3種類のフルーツをブレンドした商品である。

 私は普段からヨーグルトを食べている。ヨーグルトは大抵、近所のスーパーで購入しており、価格と量からコスト・パフォーマンスの良い商品を選択している。たまには別のヨーグルトも食べてみようということで、今回の企画に応募した。

 私は脂肪がつきにくい体質で、ダイエットは必要としない。ただし運動どころか外出もしなかった大学院生時代に、おなかにだけ肉がついてしまったことがある。極端にデフォルメすれば仏教の地獄絵図の餓鬼のような体格に近づいてしまう。それ以降は適度の運動を心がけ、食事にも気をつけている。

 とはいえ、食べたいものを我慢するつもりはない。豆腐やコンニャクしか口にしない人々は、香り高く、脂肪分たっぷりの美食を遠ざけ、人生の大きな楽しみのひとつを享受しないことになる。実際のところ、私は肉が好きで、たくさん食べる方である。

 一般に肉は消化されずに腸に残りやすい。そのため、腸内をクリーンにする成分を意識的に摂取している。おいしくて手軽に食べられるヨーグルトは、うってつけである。これは私の独自の主張ではなく、作家の北芝健氏も主張されている(『北芝健のアンチエイジング道場』バジリコ、2007年、42ページ)。

 「ダノンビオ 野菜」は、見た目は桃色ないしは薄紫色である。この色だけで、多くの野菜がブレンドされていると実感できる。ブレンドされた野菜の中にはブロッコリー、カリフラワー、パセリのように、普段は避けている野菜も入っている。

 しかし、食べてみると、個々の野菜の味はなく、上品な甘さがある。この商品は健康への効果を宣伝しているため、味は二の次だろうと考えていた。正直なところ、ここまでおいしいとは思わなかった。毎日喜んで食べ続けられる味である。

 ダノンビオは便秘の解消に効果的とされる。実際に食べてみると、効果があったと感じられた。私は便秘気味であった訳ではないため、むしろ出過ぎるくらいであった。おいしいので一度に複数個食べてしまいたくなるが、気をつけた方がいいかもしれない。

 残念な点を挙げるならば、ヨーグルトの蓋をはがす際に蓋にヨーグルトがついてしまうことである。全て味わいたいならば蓋の方も舐めなければならない。ただし、これは他社のヨーグルトでも見られることである。また、蓋に付着するほど容器いっぱいにヨーグルトが入っていると考えれば必ずしも悪いことではない。

 本商品は「おいしくて、きちんと健康に役立つこと」というダノンジャパンのキャッチコピーに合致した商品である。女性をメインターゲットとしているが、例えばメタボリック症候群を気にする男性にも薦められるヨーグルトである。

【江東区】東陽1丁目町会が法人化へ

東京都江東区にある東陽1丁目町会が法人化する方針を発表した。

東陽1丁目は江東区の中心部、東京メトロ東西線木場駅の近くに位置する。かつては洲崎弁天町と呼ばれ、遊郭で賑わった時代もある。その名残もあり、現在でも町会活動は活発である。

法人化する直接の契機は倉庫用地の取得である。町会では、お祭りの神輿などを保管する倉庫が必要である。これまでは町内にあるホテルの敷地を借りていたが、ホテルの経営者が変わった関係で困難になり、新たに倉庫用地を取得することにした。しかし、任意団体のままでは土地を登記することはできない。法人格を取得して町会名義で登記することが法人化の狙いである。

地方自治法第260条の2第1項は地縁による団体が市町村長(東京都区部は特別区長)の認可を受けた場合に法人格が認められる。認可を受けるためには幾つかの書類が必要になるが、その中でハードルが高いのは構成員名簿である。町会の構成員(町内の住民)の氏名と住所が書かれたものであるが、全住民の過半数の書名が必要とされる。この住民には生まれたての赤ちゃんから高齢者までの全てで、外国人も含まれる。
認可地縁団体は「一定の区域に住所を有する者の地縁に基づいて形成された団体」であるため、現行の東陽1丁目町会とは会員の範囲が異なる。相違点は大きく2点ある。

第一に現行町会は世帯単位であるが、法人化されると個人が会員となる。
第二に住民の団体であるため、商店などの非居住者は会員になれない。但し、東陽1丁目町会としては賛助会員として残ってもらう方針である。
東陽1丁目町会では2008年9月7日に臨時総会を開催し、法人化の方針を決定した。12月までに町会規約や構成員名簿を作成し、2009年2月に総会を開催し、3月以降に認可申請する予定である。特に構成員名簿を作成するためには住民の過半数の協力が必要であり、町会では町会報などで広く協力を呼びかけている。

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