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二子玉川東地区再開発を問う住民の会発足

 住民団体「二子玉川東地区再開発を考える会」の総会が11月30日に東京・世田谷区玉川総合支所で開かれ、「二子玉川東地区再開発を問う住民の会」(略称:二子再開発を問う会)に改組することが満場一致で決議された。

 二子玉川東地区第1種市街地再開発事業は世田谷区の二子玉川駅周辺に高層マンションやホテルなどを建設する計画である。これに対し、世田谷区民を中心として結成された「二子玉川東地区再開発を考える会」は景観破壊など再開発の問題を広く追及する。総会には50名近くの住民らが参加し、小さな子ども連れの家族も出席するなど世代的な広がりを感じさせた。

 総会は経過報告や会計報告といった事務的な議事で始まった。司会進行は事務局の飯岡三和子氏が務めた。内容は大きく、「二子再開発を問う会」への改組、再開発差し止め訴訟の方針についての弁護士の説明、会員による討議の3つに分かれる。

 第1に改組については世話人の保坂芳男氏が説明した。「考える会」は再開発計画の内容を開示させて、住民が街づくりについて考える判断材料としていきたいとの思いから、この名称になったという。その後、再開発工事が開始され、再開発地域に建設される分譲マンション「二子玉川ライズ タワー&レジデンス」の販売登録が受け付けられるなど再開発の状況は大きく変わった。住民運動も「考え、研究する集団」から「工事を差し止める戦う集団」へと性格が変わった。それに相応しい名前として「二子再開発を問う会」としたいと提案された。

 「二子再開発を問う会」は「会の目的」で、二子玉川東地区再開発を「周辺住民の迷惑を顧みない東急グループの利益優先の事業」と批判する。そして「安心して住める豊かな自然・住環境」と「住民参加の街づくり」を確かな権利として確立することを目指すとする。

その上で保坂氏は重点的な活動方針を説明した。既に再開発への反対運動は裁判という形で具体化している。二子玉川東地区市街地再開発組合に対して再開発事業の差し止めを求める民事訴訟と世田谷区に対する再開発事業への公金支出の差し止めを求める住民訴訟の2件である。訴訟の原告と支持者によって「にこたまの環境を守る会」が組織され、法廷活動が進められている。これに対し、「問う会」は法廷外の住民運動を拡大し、世論を喚起することが使命という。

 「問う会」の体制は大きく強化され、世話人も従来の10名弱から20名弱に倍増された。世話人の住所も、これまでは玉川、瀬田、上野毛など再開発隣接地域に偏在していたが、新任の世話人は豪徳寺、等々力、川崎など地理的に広がっている。

 第2に再開発差し止め訴訟についての説明である。代理人の淵脇みどり弁護士ら3名の弁護士によって訴訟の方針が説明された。再開発地域周辺の周辺住民ら64名は再開発組合に対して再開発事業の差し止めを求めて東京地方裁判所に提訴した(平成17年(ワ)第21428号)。東京地裁平成20年5月12日判決は請求を棄却したが、住民は控訴し、現在は東京高裁で係属中である(平成20年(ネ)第3210号)。

 原希世巳弁護士は最初に地裁判決の構造を説明した。地裁判決は再開発による圧迫感や景観破壊が権利侵害となることを認めながらも、再開発事業の公共性を理由に権利侵害は受忍限度を超えないとした。この判決は住民にとっては残念な内容であるが、控訴審を進める上では戦いやすい判決だという。

 「再開発に公共性があるから許される」という論理ならば、再開発に公共性がないことが証明されれば前提が崩れる。そのため、控訴審では都市工学や社会学などの知見を活用して、分譲マンションやホテルを建設する再開発計画に公共性がないことを立証すると述べた。

 次に牧戸美佳弁護士が水害の問題について説明した。一審では再開発による水害の危険性について資料が十分ではなく、踏み込めていなかったと振り返る。高層ビルと集中豪雨やヒートアイランド現象の関係など研究成果を踏まえて水害の危険を訴えていくと表明した。

 最後に淵脇みどり弁護士は「町全体が東急グループによって私物化され、住民が犠牲になっている」と再開発の状況を分析した。世界的な経済不況の中で箱ものを建設する余裕はなく、地域に合った街づくりを再検討する必要があると力説した。再開発事業をめぐっては多くのステークホルダーが存在するため、様々な分野で支持を広げていくべきだという。

 事務局からは12月16日午前11時から東京高裁822号法廷で行われる控訴審口頭弁論の傍聴の呼びかけがなされた。第3の住民の討議では、再開発の深刻な問題が改めて明らかになった。主な意見を紹介する。

・再開発組合解散後に発生した被害(地盤沈下など)については誰も責任をとろうとしない。
・再開発地域の降雨は水害の危険を高めるので周辺地域に流さず、敷地内で処理することを求めたが、法律の規定以上のことは行おうとしない。
・工事の振動と騒音が酷すぎて、寝ていられない。
・世田谷区の税金が東急グループの箱ものに浪費されているのは区民全員の問題である。

 興味深い点は住民が自発的に行動している点である。署名集めや工事中止の申し入れ、日影図の提示依頼など様々な活動が報告されたが、これらの活動は世話人の指揮の下、会として行っているわけでは必ずしもない。各人が問題意識に沿って自発的に動いた結果である。組織に期待するのではなく、各人が活動した結果を組織にフィードバックする。ここには理想的な市民運動の姿がある。住民意識の高さと街づくりへの真剣な思いを感じさせる総会であった。

2ちゃんねる型掲示板「megabbs」閉鎖

2ちゃんねる型掲示板「megabbs」(メガビ)が2008年11月4日に閉鎖した。

メガビは2ch編者が運営するスレッドフロート型掲示板サイトであったが、「管理負担増」「管理不足による無法化」を理由に突然閉鎖された。

私は某大手不動産業者の問題を追及しているが、メガビは両社に対する批判の震源地でもあった。現在、「2ちゃんねる」を中心としたインターネット上では両社に対する批判が多い。それらは消費者に不利益をもたらす販売手法への批判や景観を破壊する高層マンション建設に反対する言説である。この状況はビジネス誌が「炎上」と報道するほどになっている(「ウェブ炎上、<発言>する消費者の脅威−「モノ言う消費者」に怯える企業」週刊ダイヤモンド2007年11月17日号39頁)。

週刊ダイヤモンドの記事によると、「2ちゃんねる」で両社を批判するスレッドが急増したのは、2005年2月にこの不動産業者が提訴されたことが契機という。これは隣地建て替えなどの不利益事実を告げなかったとして、東京都江東区のマンション購入者(=林田)が売買代金の返還を求めた裁判である。これをきっかけに「自分も、このような目に遭った」と批判的な書き込みで炎上したという。

しかし、これに先立つ2004年末頃からメガビで両社を批判する書き込みが急増していたことはあまり知られていない。メガビは社会問題からアダルトまで様々な板(掲示板のカテゴリー)を有する掲示板群であるが、ほとんどの板に両社を批判するスレッドが立てられたほどであった。しかも、スレッドは立てられて終わりではなく、スレッドには両社を批判するレスが付けられ、上位スレッドに上がるほどの盛況振りであった。

中でも土木作業員板では同じグループ関連会社が八王子の公団欠陥マンションを施工したことを批判するスレッドが閉鎖時点でPart4になるほどシリーズ化した。メガビでは1スレッドに書けるレスの最大数は2000である。そこに至ると新たにPart2のスレッドを立てて議論を進めることになる。しかしメガビは利用者数が少ないため、最大レス数を使い切ることは少なかった。ここからは批判スレッドの人気振りがうかがえる。

一方、メガビ全体で見ると、この業者への批判で燃え上がった時期は短かった。土木作業員板の批判スレッドは例外的存在であった。ほとんどの板に存在するとまで一時は言われた批判スレッドも順次消滅していった。ここには利用者の絶対数が少ないメガビの限界がある。

メガビ内での沈静化と反比例するように、この不動産業者への批判は2ちゃんねるやブログなど、よりメジャーな世界に浸透していった。そこには上述の売買代金返還訴訟というきっかけがあり、2005年11月に発覚した姉歯元建築士らによる耐震強度偽装事件によって不動産問題への関心が高まったことも追い風となった。そしてビジネス誌に取り上げられるまで広がっていくことになる。

「2ちゃんねる」などに先駆けてメガビで両社への批判が活発化したことはメガビの先駆性を示すものとして高く評価できる。世の中を動かすうねりは、最初は誰も知らないようなところから発生するものである。

一方で利用者数の少ないメガビではメガビストと呼ばれる常連ユーザーの存在感が相対的に高い。そのため、東急建設批判スレッドのように常連ユーザーのマニアックな嗜好にマッチしたものは生き残ったものの、それ以外の大半は一過性のものとなってしまった。ここには良くも悪くも常連ユーザー中心の閉じたコミュニティの特徴がある。

批判の面でも足跡を残した一つのインターネットのプラットフォームが消えることに複雑な気持ちである。

老人ホーム耐震強度不足報道での読売新聞の見識

高級有料老人ホーム「バーリントンハウス馬事公苑」の耐震強度不足の問題は2008年11月12日の東京都発表に基づき各紙が報道しているが、その中で読売新聞の報道が優れていたために紹介したい。読売新聞は「老人ホーム耐震性不足 旧グッドウィル開設、都調査で判明」と題する記事をウェブ上では2008年11月12日付けで掲載している。この記事は社会保障部・小山孝記者及び社会部・広中正則記者の署名記事である。

この問題は、旧グッドウィル・グループ(現・ラディアホールディングス)が開設し、東急建設が施工した有料老人ホーム「バーリントンハウス馬事公苑」(世田谷区)が東京都の調査で耐震強度不足であったことが判明したとするものである。既に鉄筋不足が報道されており、「やっぱり」という結果であった。

読売記事では冒頭で「建築基準法上の耐震強度基準を68%しか満たしていない違法建築物である」とする。耐震強度不足の事実を説明する他紙に比べ、読売記事は「違法建築物」と強い論調で違法性を強調する。耐震強度偽装事件以来、耐震強度不足物件が次々と明らかになり、国民の感覚が麻痺してしまった感がある。耐震強度不足物件は違法建築物であるという原則を忘れない姿勢は評価できる。

続いて「国土交通省も設計や建設に関係した事業者の行政処分などを視野にさらに調査を進める」と国交省の意向を紹介する。耐震強度偽装事件では、実際の構造設計者に全責任を擦り付ける傾向が見られ、本質の解明には程遠かった。設計者だけでなく、施工業者の処分の可能性についても引き出した記者の問題意識は高く評価したい。施工業者の東急建設の名前を伏せて報道している他紙もある中、読売記事では東急建設からもコメントを得ようとしている。読売記事の踏み込み度合いは群を抜いている。

読売記事の最大の特徴は居住者の不安を取り上げている点である。記事の副見出しは「居住63人一時退去も」であり、補修工事で退去しなければならない居住者の不安を明らかにしている。バーリントンハウス馬事公苑は建て替えではなく、補修で対応する予定だが、補修内容によっては居住者が一時的な退去を迫られる可能性もある。この視点が他紙の記事には欠けている。

入居者には自宅を売却した高齢者や、介護なしでは歩くことが困難な人もいるという。読売記事は「関係者が最も配慮しなければならないのは、高齢の入居者の生活だ」と主張する。入居者の不安をクローズアップした読売記事のユニークさは、執筆記者の一人が社会保障部であったことに起因すると思われる。これにより単なる建築不動産問題ではなく、高齢者福祉の視点を記事に盛り込むことができた。

これまで日本では建築や不動産について経済の視点から論じられる傾向が強かった。しかし、住宅は生活の場であり、経済の論理だけで語ることのできるものではない。経済優先の発想が耐震強度偽装物件の「経済設計」に行き着いたと言っても的外れではない。これが日本の住環境を貧困にしている要因である。

その意味でバーリントンハウス馬事公苑の耐震強度不足の問題を高齢入居者の生活視点で論じた読売記事の着眼は貴重である。単に建築や不動産の問題として限定しない柔軟な発想が深い記事を生む好例である。今後も幅広い視点からの記事に期待したい。

【読書の秋】執着心のなさと悔恨『天地人』

本書(火坂雅志『天地人 上下』日本放送出版協会、2006年)は戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将・直江兼続を描いた歴史小説である。本書は2009年のNHK大河ドラマの原作でもある。

本書において直江兼続は上杉謙信に師事し、上杉家の執政として主君・景勝を支えた。利益のためには主君を裏切り親兄弟で争うことが常態化した戦国乱世にあって、兼続は謙信の教えに従い義を貫き通した。

圧巻は世に名高い直江状である。

豊臣秀吉没後、天下への野心を顕わにした徳川家康が上杉家に「謀反の疑いあり」と言いがかりをつけた。これに対し、兼続は「景勝が間違っているのか、内府さま(家康)に表裏があるのか、世の評判が決めましょう」と返書(直江状)で毅然と反論した(下巻288頁)。豊臣恩顧の大名でも天下の形勢を考えて家康になびく人が少なくない状況で、ここまで言い切る兼続には清々しさが感じられる。

しかし、関が原の合戦で徳川方の勝利が定まると、兼続は徹底抗戦を叫ぶ主戦派を抑え上杉家を存続させる道を選ぶ。その執着のなさは驚くべきものである。この兼続の「変心」も本書では義のための戦いとして一貫性をもって描かれる。それは兼続の薫陶を受けた真田幸村の言葉に集約される。幸村は義という目標のためなら「たとえ泥水を舐めてでもしぶとく生き抜いていく」と語る。

一方で、これまで戦ってきた人からは「何のための戦いだったか」と不満が出るのも当然である。兼続の方針転換は裏切りと受け止められかねない。主人公である兼続に肯定的な本書でも、兼続が信頼していた実弟の離反という形で不満の声を代弁している。
結果的に兼続の夢は挫折した。そこには兼続にはコントロールできない事態があったことは確かである。石田光成の挙兵も敗北もあまりにも早すぎた。また、主君景勝は後退する徳川軍への追撃を許さなかった。これらが異なれば歴史は変わっていた筈である。しかし本人には如何ともし難いこととはいえ、見通しを誤ったことや結果に対する責任は存在する。本書の末尾では晩年の兼続の心中を「兼続の胸に去来するのは、ほろ苦い悔恨の想いであったろう」と表現する。

大河ドラマの紹介文には以下のようにある。「激しい戦国時代にあって、自らの理想と、大切な人の幸せのために強く生き抜き「日本の品格」を守り通した兼続の、波乱万丈の人生を描いていきます」。兼続が「日本の品格」を守り通したとするが、義のために徳川と戦った上杉家が関が原の合戦後に臣従することが品格になるのだろうか。義のための戦いとは一回でも意地を見せればいいという程度のものなのだろうか。
これを品格とすることには抵抗があるが、兼続の変わり身の早さは日本社会では大衆受けしそうである。かつて日本は無謀な侵略戦争を推し進め、敗色が濃くなっても、「進め一億火の玉だ」と徹底抗戦を掲げ続けた。それが連合国に無条件降伏した途端、経済優先の国づくりを進める方向に転換した。戦時中は鬼畜と罵った米国を「最も強固な同盟国」と恥ずかしげもなく呼ぶことに躊躇しない。

「日本の品格」を守り通した人と兼続を持ち上げることで、日本人の無節操な性向の正当化に利用されてしまうならば作品にとっても社会にとっても不幸である。過去と向き合い、「ほろ苦い悔恨」を抱き続けた兼続と、焼け野原から経済大国にしてしまうような前に進むだけの存在では天と地の差があるからである。

自動車保険、ネット割引を活用した!

アクサダイレクトのインターネット割引

 アクサ損害保険株式会社の自動車保険アクサダイレクトではインターネット上で申し込みをすると保険料が最大4500円割引される(2008年11月9日現在)。実は新規申込時だけではなく、契約更新時も割引される。

 アクサはフランスを本拠とする国際的な保険会社である。アクサダイレクトは「ダイレクト」の名のとおり、インターネットやコールセンターなどを通したダイレクト販売を特色とする。代理店などの中間コストがかからないため、保険料を安くできる。このため、当家でもアクサダイレクトの自動車保険に契約している。

 現行の契約は2008年12月2日に満期を迎えるため、アクサダイレクトから更新の案内が送付されてきた。そこでは現行と同じ条件での契約内容と、保障を充実させたプランが紹介されていた。現行契約と同じ条件での更新を希望するならば保険料を払うだけで、契約が更新されるという。

 現在の契約内容には不満がなかったが、現行契約の保険料はインターネット申し込みにより割引を受けていた。ところが更新の案内文ではインターネット申し込みによる割引について言及していない。提示された保険料も割引されていない額であった。

 アクサダイレクトのWebサイトでは「マイ・アクサファイル」という契約者用ページが提供されている。契約更新時のインターネット申し込み割引について確認するため、「マイ・アクサファイル」にログインしてみた。

 するとトップ画面で現行契約が近々満期を迎えることが案内され、「インターネット上でお申し込みいただきますと、1000円のインターネット継続割引が適用されます。ぜひインターネットからお申し込みください」と告げられていた。実際、画面に表示された継続契約の保険料は、案内文の保険料より1000円安かった。インターネット上から申し込みをしたことは言うまでもない。

 アクサダイレクトがインターネット申し込みを割引するのは、Webサイトで申し込みを受けた方が、そのほかのチャネル(郵送など)よりも低コストで済むからである。

 一方、既契約者が契約を自動継続する場合、割引しなくても、そのまま保険料を払ってくれるならば、その方が企業にとっては都合が良い。

 しかし、既契約者が皆、契約を更新するわけではなく、他社への乗り換えを検討する人も存在するはずである。この点でインターネット継続割引は顧客囲い込みのために意味を有する。アクサダイレクトがインターネット継続割引という制度を設けながら、契約更新の案内文でアピールしないのは上記のような複雑な思惑があるのではないかと考える。

『イラク崩壊』の感想

 本書はイラク戦争以降のイラクを始めとする中東各地での取材をまとめたルポルタージュである。著者は朝日新聞元中東アフリカ総局特派員であるが、本書は日々の記事をまとめて一冊の書籍につなげたという類のものではない。サブタイトルに「米軍占領下、15万人の命はなぜ奪われたのか」とある通り、著書の問題意識を明確化し、危険な現地取材を通して著者なりの回答を出した力作である。

 ジャーナリズムは主観を交えず事実を淡々と報道すればよいと考える向きには本書の性格は不満だろうが、著者の分析は傾聴に値する。著者は自爆テロが続くイラク社会を「人類史上、例のない異常事態」と表現する(304頁)。しかし、そこで「ムスリムは異常だ。我々の常識が通じない」と思考停止しない点が著者の鋭いところである。

 著者は太平洋戦争における日本の特攻との類似性に思い至る。戦時中の日本は圧倒的な力を持つ米国と勝利の見込みのない戦争を続けており、国内では軍部が強権によって国民支配を正当化していた。さらに靖国神社や天皇制といった宗教的な装置が、特攻や玉砕などの死以外に選択肢のない戦い方を若者に強制する上で重要な役割を果たしていた。ここから著者は自爆の背景を探るために宗教指導者に会うことを課題の一つとした。

 本書で描かれる米軍占領下のイラクは惨憺たるものである。米軍と戦うイラクの若者はアルカイダとも911同時多発テロとも関係なかった。米軍によって屈辱を味わわされ、財産を奪われ、人生設計の変更を余儀なくされたことにより、テロリストと呼ばれる側に身を投じていったのである。

 一方で著者は米軍への抵抗勢力に対しても厳しい。本来は侵略軍への抵抗として国際的な共感を得られるはずであった。しかし、アルカイダに代表される不寛容なイスラム主義が伸張し、他派やジャーナリストをも攻撃対象とすることで、国際的な支持を得られる余地はなくなった。

 それでも著者は解決策として米軍のイラク撤兵しかないと断言する(382ページ)。イラクの現状は米軍が持ち込んだ狂気が伝播し、増幅した結果だからである。米軍の即時撤兵は平和主義的な理想論にとどまらず、イラクの現実を見据えたものである。確かにイラクではシーア派とスンニ派を中心とした内戦状態にあり、米軍の撤退は宗派間の対立を一時的に激化させる危険性がある。

 しかし、占領下でイラクの実情を無視した政策を押し付け、不法を繰り返した米軍にイラク各派の暴力を止める道義的資格は皆無である。むしろ米軍がイラクを占領している状態が武装勢力に大義名分を与えている。さらに対立宗派を「米軍の協力者」と決め付けることでイラク人同士の殺し合いが正当化されている。米軍さえ撤退すればイラクは平和になるというような楽観論には同意できないとしても、もはや米軍にはイラクに貢献する資格も能力もないという悲観的な立場からも米軍撤退は導き出せる。

 本書の最後で著者は「イラク戦争とその後の占領の最大の目的」が「イスラエル防衛」にあるとの仮説を明らかにする(389ページ)。イスラエルにとって脅威になるフセイン政権の打倒を目的と考えるならば米軍の行動は合理的に説明がつく。

 そもそもイラクには開戦の理由となった大量破壊兵器は存在しなかった。石油利権が目的だったとする陰謀論が流布しているが、米国は戦費に見合うだけの利権を得ていない。むしろ石油利権は実りのないイラク占領を国益優先主義者に納得させるためのカモフラージュではないかと推測する(176ページ)。

 イスラエル防衛目的という著者の推測は、恐ろしいほどの説得力を持つ。米国にとってイラクで親米親イスラエル政権を樹立できればベストだが、それが無理ならばイスラエルの脅威にならないようにイラクを弱体化しておくことが上策となる。

 米軍がイラク市民に不法を繰り返すことで、怒ったイラク市民を過激派へ追いやってイラクが混乱すれば、イスラエルに矛先が向かわずに済む。米軍のイラク占領政策は占領を進める上でも稚拙で、イラク市民から無用の反感を受ける内容であったが、そこにもネオコンの深謀遠慮が働いているのかもしれない。

 加えて米軍がイラクでアラブ人の憎しみの的になることはイスラエルの負担を減ずることになる。イラクでは中東各国からイスラム聖戦士(ムジャヒディン)達が続々と入国し、米軍と戦い、自爆テロを繰り返している。著者はイラクに行ったムジャヒディンを輩出するレバノンの村を取材している。

 当初、彼らはイスラエルと戦うことを望んでいたという。しかし、警戒厳重なイスラエルに比べて入国しやすいイラクを戦場とすることになる(328ページ)。米軍はイラク戦争によってアラブ中の不満分子の相手をイスラエルから肩代わりした形になる。米国の国益に反し、その威信を損ね、国力を低下させているイラク戦争はイスラエル防衛目的と考えれば辻褄が合う。

 著者は「イラクでこれだけの犠牲を払ったその目的が、千葉県より少し人口が多い程度の小国の防衛のためだったというのでは、いったいイラク人の命はどうなるのだ?」と嘆息する(390ページ)。本書が読まれることで、イラク戦争がもたらした悲惨な状況を多くの人に考えてもらいたいと願わずにいられない。

元モー娘。矢口真里がブログ開設

元モーニング娘。の矢口真里が2008年11月14日、アメーバブログに公式ブログ「初心者です。」を開設した。12時に最初の記事「初めまして」を投稿し、20時の「フゥー」まで5件の記事を投稿するほどの力の入れようである。

矢口は1998年5月に第2期メンバーとしてモー娘。に加入した。モー娘。初の派生ユニット「タンポポ」に第2期メンバーで唯一抜擢されるなど、第2期メンバーの中でも目立つ存在であった。また、矢口がリーダーを務めた派生ユニット「ミニモニ。」はファン層を小学生以下に拡大させる契機となった。国民的アイドルグループに成長したモーニング娘。の黄金時代を体現している存在である。

矢口のブログ開設に先立つ2008年8月5日にモー娘。初代リーダーの中澤裕子が公式ブログ「なかざわーるど」を開設している。実は中澤と矢口はモー娘。メンバーの中でも関係が深い。中澤が矢口を可愛がっていることは有名だが、それだけではない。
矢口は2002月4月にニッポン放送のラジオ番組「allnightnippon SUPER!」のパーソナリティーを中澤から引き継いだ。「モーニング娘。矢口真里のallnightnippon SUPER!」では男子中学生リスナーの占拠率100%を記録するという快挙を成し遂げた。

2003年4月には同じニッポン放送の「中澤裕子のallnightnippon Sunday SUPER!」の後番組として「あなたがいるから、矢口真里」が始まった。また、中澤は2004年にTBS系列の昼のドラマ「ほーむめーかー」を主演したが、矢口も2006年にTBS系列の昼のドラマ「銭湯の娘!?」を主演している。
その中澤に続いてのブログ開設ということで運命めいたものを感じる。「初心者です。」は多くのコメントやペタ(SNSの足跡に相当)が寄せられ、大盛況である。ブログによってファンとの距離が縮まることを期待したい。

秋刀魚のスープ 創新麺庵 生粋【池袋】

「創新麺庵 生粋本店」は池袋にある独創的なラーメン屋である。

私は2008年11月16日に知人に誘われて食事した。店名に「創新」とあるとおり、タレに焼き秋刀魚を使用するなど独創的な麺料理が特徴である。浦安、新小岩、本八幡にも系列店舗がある。
店舗はJR池袋駅西口からは少し歩き、西口五叉路から路地に入った先にある。分かりにくい場所にあり、通りがかりに何となく入る客は少ないと思われる。評判を聞きつけて来る客とリピーターで占められていると推測する。

店内は大正ロマンをイメージしており、レトロな雰囲気である。座席数はカウンターのみで11席と少ない。日曜日の14時半という中途半端な時間に二人で入ったが、ほとんどの座席が埋まっており、一箇所だけ並んで座れる席が空いていた状態であった。

この店は食券制である。入口右手の券売機で食券を購入する。こだわりのラーメン屋で食券制は合わない感覚もあるが、店員が紙幣や硬貨の勘定をしなくて済むのは合理的である。私は上生粋塩そばに揚蒸チャーシューのトッピングで注文した。餃子も食べたかったが、残念なことに売り切れていた。代わりに串玉飯を注文した。

上生粋塩そばは豊富な具材で埋まって麺が見えない状態であった。メニューの「上」とは多くのトッピングが入ったメニューという位置付けである。具体的にはワイン煮玉子、揚蒸チャーシュー、深谷ネギ、軟骨入りつくねなどである。チャーシューは別メニュー(トッピング)で追加しただけあって、6枚と豊富である。一般のチャーシュー麺では、これだけのチャーシューを付けてくれないだろう。しかも一枚一枚のチャーシューは厚く、ボリュームがある。チャーシューは脂身でトロトロはしておらず、肉厚の食感がある。
スープは透明感があり、さっぱりとした塩味である。塩は海洋深層水から作るバリ島の天然塩を使用しているという。秋刀魚の脂の甘さであろうか、決して塩辛くなく、そこはかとなく甘みが広がる。知人の正油そばのスープを軽く飲ませてもらったが、こちらは秋刀魚の味が濃厚に出ていた。

全体の分量はやや少なめで、さっぱり味ということもあり、スープを一気に飲み干してしまった。少なく感じるということは、十分に美味しかったことの裏返しでもある。トッピングも豊富で、限定メニューなどの企画もあり、分かりにくい場所という立地のデメリットを補うだけの魅力のある店舗である。

■創新麺庵 生粋本店
http://www.orbis-obisuke.com/food/index.html
住所:東京都豊島区池袋2-12-1 大晃ビル1階
電話:03-5950-2088
営業時間:11:30〜15:00 18:00〜22:30、日祝11:30〜15:30 18:00〜21:00

砲台を設置して村人を守る「Monster Mash」

米国の戦略アクション・ゲーム

 コンピューターゲームといえば日本が世界に誇るサブカルチャーであるが、たまには海外発のゲームをすることで外国の文化を味わうのも良い。本記事では米国Sandlot Games Corporationの戦略アクション・ゲーム「Monster Mash」を紹介する。

 「Monster Mash」はほかのさまざまなゲームと共にインターネット上に無数にあるゲームのダウンロードサイトからダウンロードできる。私は知人から紹介されて本作品の存在を知った。海外のサイトからゲームをダウンロードして遊ぶことは英語の勉強にもなる。ゲームは有料のものが多いが、国際ブランドのあるクレジットカードがあれば決済も可能である。

 「Monster Mash」は牧歌的な世界にあるCurly Valleyの村人をモンスターから守るゲームである。この説明だけでは日本でも似たようなアクション・ゲームがありそうに思える。このゲームでは村に侵攻するモンスターをプレーヤーが守る点が特徴である。

 日本のアクション・ゲームのように敵を倒して進んでいくゲームではない。侵略するモンスターと戦うというゲームの性質に似つかわしくないメルヘンチックな画面やBGMも本作品が日本のゲームでないことを強く印象付ける。

 プレーヤーは村までの道の各所に砲台を設置する。砲台は設置されると近づくモンスターを自動的に攻撃してくれる。この砲台がすべてのモンスターを攻撃すればクリアである。反対にモンスターが攻撃をすり抜けて村まで到達すれば村人が食べられてしまう。

 砲台を設置するには資金が必要であり、無制限に設置できない。資金はモンスターを倒すことで獲得できる。砲台の設置場所によってモンスターを効果的に攻撃できるかが変わり、いかに効果的な場所に設置するかが勝敗の分かれ目になる。このゲームのジャンルがSandlot社のWebサイトでStrategy(戦略)とされるゆえんである。

 本作品の外敵から村人を守るために砲台を設置するという仕組みは海外の作品らしい。悪を倒すために攻め込むゲームが多いという日本の傾向は、そのまま日本の戦争の歴史に重なる。日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・十五年戦争と近代日本の戦争は外に攻める歴史であった。

 また、洋の東西を問わず、海外では城壁は市街地の外に作られ、城壁は都市の一般住民を守るためのものでもあった。これに対し、日本では後北条氏の小田原城の総構(そうがまえ)などを除き、城壁は領主を守るためのものでしかなかった。日本の軍隊には人民を守るという意識が歴史的に希薄である。戦前の軍隊は天皇の軍隊でしかなく、国民に「一億総玉砕」を強いるものであった。彼我の社会的背景の相違を踏まえると、「Monster Mash」のようなゲームは日本では生み出されにくい作品であると痛感する。

『東京湾の原子力空母』の感想

 本書は原子力空母ジョージ・ワシントンが横須賀米軍基地へ配備されることの危険性を明らかにした書籍である。本書は大きく4章に分かれ、原子力空母の母港化の問題を多面的に検証する。

 第1章では原子力空母を横須賀に配備することの合理性が低いことを明らかにする。現在の米軍艦隊は日本に米軍基地が存在しなくても、有事に日本周辺に継続的に展開するだけの機動力を有している。それにもかかわらず、依然として在日米軍基地が存在するのは、アフガニスタンやイラクに部隊を展開するためと本書は喝破する。

 加えて原子力空母は通常型の空母と比べて能力的に優れているわけではなく、ライフサイクル・コストは原子力空母の方が高いという実態も明らかにする。また、米国は日本で考えられている以上に市民の動向に敏感であり、日米同盟を前提としても原子力空母を受け入れる必然性は存在しないと主張する。

 第2章では原子力空母の危険性を明らかにする。原子力空母は原子力発電所と同じく原子炉を搭載する。そのため、原発が東京湾に浮かぶようなイメージとなるが、空母は通常の原発以上に危険である。原子力空母ではウラン燃料の濃縮度が原発の燃料よりも高い。長期間交換しないでも活動できるように核兵器並みの濃度になっている。また、原発建設で行われるような安全審査は行われていない。そして実際に原子力艦船で事故は起きている。

 第2章の後半では横須賀港に停泊中の原子力空母に事故が起きた場合の被害をシミュレートする。その結果は首都圏一帯に被害が広がるという恐ろしいものであった。南南西の風が吹いている場合、東京都心の多くの部分や埼玉県南端の住民が急性障害(脱毛、嘔吐、白血球異常など)になる。職業人の年間被ばく線量限度の50mシーベルトを被ばくする範囲は埼玉県東部、茨城県西部、栃木県の南部が含まれる。本書は「横須賀にこのような原子炉を「設置」しようとすることは、住民との十分な離隔が確保できず、技術的にみても不可能と判断されるべきものです」と結論付ける(62ページ)。

 第3章では横須賀に大地震が発生する可能性が高く、地震被害を受けやすい地形であることを説明する。原子力空母の事故を考える上で忘れてならない点は、自然災害の二次災害としての原子力事故である。本書では国内原発の設置基準にも当てはまらないような横須賀に原子力空母を配備することは無理があると主張する(90ページ)。2007年の新潟県中越沖地震では柏崎刈羽原発が大量の放射能漏れを起こしており、本書の着眼点は重要である。

 第4章では原子力空母の母港化に反対する市民の動きを紹介する。特定非営利法人まちづくり情報センターかながわによる調査では横須賀市民の65%が原子力空母の配備に不安を持ち、63%が反対と回答した。興味深い点は原子力空母の配備に賛成した市民も、その52%が配備の是非を住民投票に問うべきと回答している点である。

 賛成でも反対でも地域の問題を住民主体で判断するプロセスを重視する市民が増えていると本書は分析する(118ページ)。これまで市民は「国の方針」や「基地の町の宿命」ということで、生活や安全に関わる問題でも判断を停止してきた。しかし、現在では自己決定を求める新しい風が吹き始めているとする。

 本書で取り上げられている原子力空母の母港化に反対する市民運動は「Think globally, Act locally」を地で行くものである。情報収集においては米国の資料を広く集め分析する。一方で運動の要請先は基本的に国ではなく、自治体である横須賀市である。世界的視野で考え、地域に根付いた運動を進める。それが新しい風に結びついたと考える。

 本書出版後の2008年9月にジョージ・ワシントンは横須賀に配備された。しかし、それは運動の終わりを意味しない。実際、原子力潜水艦ヒューストンの放射能漏れ、沖縄県うるま市への原潜プロビデンスの無通報寄港と、原子力艦船の問題が相次いでいる。この点で原子力艦船の危険性を分かりやすく説明した本書は非常にタイムリーであり、その意義は大きい。吹き始めた新しい風が本書によって一層大きなうねりとなることを期待したい。

小室哲哉逮捕と格差社会

音楽プロデューサーの小室哲哉氏は2008年11月4日、音楽著作権の譲渡をめぐる5億円の詐欺容疑で、大阪地検特捜部に逮捕された。日本の音楽シーンに一時代を築いた大プロデューサーの転落は夢を抱きにくい日本の格差社会の閉塞感を象徴する出来事でもある。

マスメディアの報道では小室氏の浪費癖に焦点が当てられているが、困窮の原因は香港での事業の失敗により莫大な負債を抱えたことである。仮に浪費がなかったとしても、小室氏が金銭に窮することに変わらない。絶頂期の生活レベルを落とさなかったことを原因とする見方は、あまりに表層的である。

日本は格差社会に入ったと言われて久しい。資本主義を前提とする限り、貧富の差は存在する。逆に言えば貧富の差を否定したいならば資本主義そのものと戦わなければならない。しかし資本主義を肯定する立場からも格差社会は批判される。それは一度生じた格差を拡大し、固定化させてしまうためである。即ち、格差社会では金持ちは益々金持ちに、貧乏人は益々貧乏になる。しかも金持ちの子は金持ちに、貧乏人の子は貧乏のままと固定化する。

この意味で金持ちの家が金持ちであり続けることは格差社会の制度的恩恵に浴している。一方で財産を保ち続けることは傍から見るほど簡単ではない。財産を維持し続けることは、それを守る能力があることを意味する。財産があると、それを奪おうと襲いかかる人間達が決まって登場する。金持ちであり続けたいならば、どこからか財産の匂いを嗅ぎつけて近付いてくる連中を瞬時に見破る能力が求められる。

そして小室氏に決定的に欠けていたものは、この能力であった。金持ちであり続ける家の人間は意識的であれ、無意識的であれ、この能力を身につけている。だから金持ちであり続けられる。この能力を身につけられなかったことが一代で躍進した小室氏の限界であった。

日本ではマネー教育というと投資信託のような資産運用ものばかりであるが、財産の獲得や増加ばかりでなく、財産を失わないための知恵について社会的に教育することに重点を置くべきである。一部の金持ちだけが財産を失わない知恵を継承する一方、庶民は一攫千金を夢見て無駄な消費を繰り返すという状況では、日本経済の景気回復に乗せられるだけで格差は固定化するだけである。

窮乏した小室氏は他の金持ちから奪う側に転落してしまった。そこには自己の甘さから他人も同様に甘いだろうとする安直さがあったように思われる。ここには自分の過去の失敗を直視するのではなく、事態を打開することのみを考える無反省な前向きさが感じられる。焼け野原から経済大国にしてしまうような前に進むだけの発想は随所で行き詰まりを見せている。小室氏の悲劇は日本社会の閉塞感に通じるものがある。

前に進むだけではなく、失敗しても無反省に再チャレンジを目指すのでもなく、失わないことを大切にしていく社会になれば、人間を不幸にするとまで酷評された日本社会も少しは住みやすくなる。そのようなことを小室氏の逮捕から考えた。

【読書の秋】悲しくも優しい純愛『ハピネス』

本書(ホ・ジノ、キム・ヘヨン著、蓮地薫訳『ハピネス』ランダムハウス講談社、2008年10月1日発行)は2007年に韓国で上映されたホ・ジノ監督の映画『幸福』のノベライズ版の邦訳である。訳者は24年間も北朝鮮での生活を余儀なくされた拉致被害者である。

病に冒された男が恋人も仕事も全て都会に捨てて田舎の療養所に入る。難病を抱えているにもかかわらず、療養所の患者達には希望があった。彼らの希望は現在の病状を好転させることではなかった。壊れた体でもいいから、現在の生をつないでいくことを望んでいた。そのモットーは「今より悪くならない」であった(57頁)。

この発想は非常に新鮮である。日本では患者の生活を闘病生活と表現されることが多い。日本の患者には頑張って病に打ち勝つことが求められる。病気で苦しんでおり、頑張らなくていいような人々にまで頑張ることを強制し、それを美徳とするような息苦しさが日本には存在する。

しかし、その日本でも『がんばらない』というタイトルの書籍がベストセラーになるなど、日本人自身が特殊日本的精神論に嫌悪感を示し始めている。本書のように悲しくも優しさに溢れた韓流の作品が日本社会に歓迎されたのも、この辺に理由があるように思われる。

本作品の主題は幸福であるが、登場人物は中々幸せにならない。むしろ満ち足りている筈なのに別の幸せを求めたくなる。そして最後には全てを失ってしまう。失って初めて過去の幸福に気付く。

厳しい見方をすれば、本作品の主人公ハン・スヨンは相手の信頼を裏切り、自己管理さえできず、酒に溺れる存在である。彼には男性の身勝手さと愚かさが満ちている。結末の悲劇をもたらした原因が外的な不可抗力ではなく、自らの行動に起因するとあっては、やるせない気持ちになる。これでは、とても感動的なストーリーになりそうもない。

しかし、本作品は紛れもなく純愛を描いている。それは主人公が身勝手で愚かであっても、カッコ悪いほどストレートに感情を表現しているためである。そこには飾りもゴマカシも存在しない。読み終わった後に悲しみの陶酔に浸れる一冊である。

【読書の秋】心理面重視の取調べ『「落とし」の技術』

本書(北芝健『「落とし」の技術』双葉社、2004年)は元警視庁刑事による取調べの経験をまとめたものである。著者は警察時代の経験を多くの本にしているが、本書は取り調べのテクニックに焦点を絞っている。詳細な心理分析を加えており、本書で書かれた内容は日常生活での交渉や人間関係の構築にも応用可能になっている。
刑事による取調べシーンは様々な作品で描かれているが、本書の特徴は「相手の尊厳を傷つけない」ことをモットーにしている点である。被疑者の自尊心を打ち砕いて自白に導こうとするような取調べ手法が横行している中で本書は非常に新鮮である。

本書では「暴力や脅しによって自白を引き出すような方法は、あってはならない」と断言する(204頁)。帝銀事件などを担当した刑事・平塚八兵衛の取調べの実態も正直に記述している。「平塚刑事の取調べを受ける被疑者は、誰もが恐怖で顔面蒼白になって取調室に入っていった。そしてしばらくして部屋を出てきたときには、体のあちらこちらに殴られた痕を残していた」(200頁)。

日本の警察には過酷な取調べで被疑者を追い詰めて自白に追い込む傾向が強い。横浜地方裁判所による再審開始決定(2008年10月)で、横浜事件は神奈川県警特高課が拷問により自白をでっち上げたものであると認定された。最近でも鹿児島選挙違反事件(志布志事件)や富山連続婦女暴行事件のように冤罪事件は繰り返されている。
著者の主張は警察の戦前から続く旧態依然とした体質とは一線を画すものである。警察組織に属していた著者が先輩方の手法を批判することは小役人体質ではできないことである。著者は警察擁護派を自称し、内部告発者という位置づけではない。古巣の組織を批判することは、ある意味では内部告発者以上に勇気がいる。内部告発者ならば組織と完全に対立しており、これ以上関係を悪化させようがないため、かえって批判することに躊躇はない。
但し、著者の主張がどれだけ実体を有するものであるかは疑問がある。著者は別の著作において、被疑者に「徹底的に辱めを与え精神を崩壊させる」取調べの実態を物語っている(北芝健『スマン!刑事(デカ)でごめんなさい。』宝島社、2005年、167頁)。しかも、それを「刑事にとっては最高の“ストレス発散部屋”」と言っている。これでは個人の歪んだ正義感から被疑者に暴力を加えた平塚八兵衛と変わらない。

また、「相手の尊厳を傷つけない」と主張するが、本書で紹介されたテクニックは不利な立場に追い込まれたと相手に思い込ませて相手に喋らせようとするものである。真の意味で人間の人格を尊重しているわけではない。意地悪な見方をすれば被疑者を心理的に追い込んで自白を誘う従来型捜査手法と五十歩百歩である。
このように本書には疑問があるものの、一般の人々の日常生活においても全ての人間関係において相手の人格を尊重することはできない。私自身、東急不動産(販売代理:東急リバブル)から不利益事実を説明されずにマンションを騙し売りされた経験があり、裁判にまで至る激しいやり取りがあった。そこでは友人や家族に対するのとは違った対応が必要になる。そのような場面において本書で紹介されたテクニックは大いに役立つものと考える。

【書評】泣く男は平和の象徴『女の前で号泣する男たち』

本書は恋人との別れ話で泣く男について調査・分析した書籍である。恋人に振られて泣く男性が増加しているという問題意識が出発点である。「男はメソメソ泣くものではない」と育てられた著者にとって、別れ話で泣く男の存在は大きな驚きだったという(8頁)。

正直なところ、著者よりも若い世代である記者にとっては別れ話で泣く男がいるということは驚く話ではない。普通に受け入れられることである。むしろ泣く男を驚きと感じる人が存在することの方が驚きである。それ故、本書に対しては「最近の若いものは」的な若年世代批判の一種でないかと予想し、それほど期待していなかった。この予想は良い意味で裏切られた。

著者は本業であるマーケティングコンサルタントの知見を活かして泣く男の実態を調査する。その結果、「泣き喚く男がジワジワと増殖している」という事実が明らかになる。その上で著者は泣く男の社会的意義を分析するが、これが秀逸である。そもそも「男はメソメソしてはならない」というのは普遍的な価値観ではなく、「ねじ曲げられた武士道精神に基づく軍国主義による影響」と喝破する(157頁)。

時代を遡れば「平安時代の男たちにとって恋愛で泣く行為は当然のことだった」という(167頁)。現代において泣く男が増えているということは、それだけ現代日本が平和な社会になったことを意味する。最後に著者は以下の主張で本書を締めくくる。「「男が泣けない社会」など二度と作ってはいけない」(203頁)。

著者は当初、「男はメソメソ泣くものではない」という価値観から、泣く男の存在に驚いていた。ここにはジェンダーに囚われた旧世代的価値観が見受けられる。ところが著者は調査・分析を経ることで、泣く男は平和な社会の象徴と積極的に評価する。著者の思索の展開には事実を直視し、異なる価値観を理解し評価する柔軟性がある。

人間には自らの理解したいものしか理解しようとしない傾向がある。異なる価値観に直面すると、頭ごなしに否定しようとする。この頑迷さは単一民族幻想・一億総中流幻想に取り付かれた日本人には特に強い。その点で著者のような柔軟な姿勢は非常に貴重である。

この著者の姿勢の原点は小学生時代に愛読していた『暮らしの手帖』にあるという(10頁)。『暮らしの手帖』は商品が表示通りの内容であるか実際に測定し、その結果を実名入りで掲載していた。著者は「事実は事実」と冷たく突き放す『暮らしの手帖』に感銘を受けたという。私自身、購入した新築マンションが不利益事実(隣地建て替えなど)を隠して販売され、売主の東急不動産との裁判でようやく売買代金を取り戻した悔しい経験がある。それ故に不都合な内容でも事実を大切にする著者の思想には強く共感できる。
現代の日本では戦後民主主義的価値観を否定し、戦前の軍国主義的価値観を無批判に美化する右傾化の危険に晒されている。しかし、戦前の国民は幸せだったのか、長い日本の歴史の中で侵略に明け暮れた戦前こそが異常な時代でなかったかなど検討すべき内容はたくさんある。泣く男を平和の象徴と結論付けたように、客観的なデータと冷静な分析という著者の手法は多くの分野で有益であると考える。

富澤豊
『女の前で号泣する男たち 事例調査・現代日本ジェンダー考』
バジリコ
2008年10月13日

『災害と共に生きる文化と教育−大震災からの伝言(メッセージ)』の感想

 本書は「災害文化」と「災害教育」について探究した書籍である。災害は起こりうるということを念頭に、被害を防止・減少させるための文化を根付かせ、教育を進めることに役立てたいという思いからまとめられている。

 内容は大きく5部に分かれる。
 第1部「阪神・淡路大震災と「災害文化」」では阪神・淡路大震災でのボランティア活動や震災の記憶を継承させるために活動を述べる。

 第2部「学校における「災害教育」の創造」では小中学校・高校・大学の各段階での災害教育の取り組みや留学生への震災教育について述べている。

 第3部「歴史とともに生きる「災害文化」」では関東大震災や南海地震・津波、阪神・淡路大震災における資料保存・展示活動についてまとめている。

 第4部「地域における新たな「災害文化」形成」では和歌山県串本町の自主防災組織などを例に各地の災害文化の形成について述べる。

 第5部「世界のなかの「災害文化」と「災害教育」」では自然災害への国際的な支援活動と、その課題について述べる。

 研究者、教育・行政関係者、NGO、ボランティア経験者ら20名弱の執筆者が各々の経験から「災害文化」と「災害教育」について特定のテーマを論じており、幅広い内容になっている。一方で本書は各執筆者の既発表論文を収録した類の書籍ではなく、統一的な編集方針の下で執筆されている。各々の論稿が有機的につながっており、この種の書籍としては通読しやすいものになっている。

 私は日本社会に災害文化を根付かせる上で障害になる要素として日本人の非歴史的性質があると考える。過去を水に流すことを是とする日本社会の傾向は、被害を嘆くよりも復興に頑張ることを前向きと評価してしまいがちである。これは日本を焼け野原から経済大国にした原動力にもなり、このこと自体については日本人の長所と受け止めてもよい。

 しかし、社会の価値観として「失ったものにクヨクヨするのではなく、前向きに頑張る」ことを押し付けるならば、被害に苦しむ人を益々苦しめてしまう。一番頑張らなくてもいいような人が「頑張れ」と励まされ、頑張ることを押し付けられる社会は生き辛い。近年、『頑張らない』という書籍がヒットし、PTSD(心的外傷後ストレス障害)が注目されている。これは日本人自身が「過去の苦しみを忘れて前向きに生きる」という日本的価値観を拒絶し始めたことを意味するように思われる。

 本書では被災者の辛い体験を社会が受けとめることの重要性を述べている。阪神・淡路大震災によって娘が精神的な障害を負った人は「初めて人に自分の話をさせていただいて、これまで溜めこんでいたものを吐き出すことができた」と涙ながらに語ったという(42ページ)。このような心のケアこそ日本社会に最も欠けている要素であり、それを正面から取り上げる本書は貴重である。

 ようやく「心のケア」という言葉が市民権を得たが、早く立ち直らせるための取り組みという程度の理解では悲しみを直視したい被害者を苦しめるだけである。「悲しみや苦しみを、忘れるのではなく、乗り越えていかなければ生きていけない」のである(280ページ)。

 「災害文化」をテーマとすることで、単なる災害対策には得られない視点が本書では存在する。興味深い点を2点ほど指摘する。

 第1に「災害文化」をテーマとすることで、対極の存在である「災害−非文化」に目配りすることができた。「災害−非文化」状況の極端な例として、関東大震災における朝鮮人や社会主義者の大量虐殺が挙げられる。上述の被害を語る場がなかった孤立した被災者も「災害−非文化」の1例になる。これら「災害−非文化」が生じないように努めることも災害文化の発展には必要と本書は主張する(9ページ)。

 第2に災害への対応を体系的な知識や技術ではなく、文化として捉えている点である。ここには人々が日々作っていくものという意識がある。自然災害による被害の防止・減少を第1とするならば専門家によるシステマティックな対応が最も効率的に思える。しかし、行政・専門家任せは住民自身の災害対処力を減退させるというパラドックスに陥る。加えて国家主導の防災となると、人々の生活よりも国家の目的が優先される恐れがある。実際、上述の被災者の心のケアは経済復興優先という行政目標の中で無視されてしまった。

 関東大震災後の防災訓練が防空演習に変質し、戦時体制に組み込まれていったとの指摘を紹介する(9ページ)。また、関東大震災の震災復興記念館に展示された絵画を摂政宮(後の昭和天皇)の視線の下での復興を記念していると解釈する(186ページ)。関東大震災からの復興が天皇制イデオロギーや軍国主義の維持・強化に利用されたことになる。

 「災害文化」という位置付けは「文化としての災害ボランティア活動」におけるボランティア観に集約されているように思われる。ここではボランティア活動を「社会選択肢のひとつとして根付こうとしながらも、つねにそれでよいのかと問い直しつづける運動」と定義する(226ページ)。

 ここにはボランティア活動の普及を肯定する一方で、ボランティアが既存のシステムに取り込まれてはならないという問題意識がある。NPO(Non-Profit Organization)が「非」営利組織として、営利組織でないという点に存在意義を有するように、ボランティアも本職や本務でないことに特徴がある。既存の活動ではないという「否定の力」があればこそ社会に新鮮な選択肢を提示できる(221ページ)。

 災害文化も決して固定的なものではなく、常に問い直し続けながら発展させていくものである。災害文化の普及を求めつつ、画一的な方針を押し付けるのではなく、ボランティアなど草の根の活動に軸足を置いた本書は広く読まれて欲しい1冊である。

麻生首相の失言と特殊日本的精神論

麻生太郎首相の相次ぐ失言が批判を集めている。「踏襲」を「ふしゅう」と読んでしまうようなKY(漢字が読めない)と合わせて麻生首相個人の見識を問う傾向にある。しかし、麻生首相の失言には日本社会の悪い面を体現していると考える。

麻生太郎首相は2008年11月19日、首相官邸での全国都道府県知事会議で「社会的常識がかなり欠落している人(医師)が多い」と発言した。20日の経済財政諮問会議では「たらたら飲んで、食べて、何もしない人(病人)の分の金(医療費)を何で私が払うんだ」と述べた。両発言は強く批判され、麻生首相は釈明を余儀なくされた。

麻生首相発言の問題点は医者や病人を傷つけ、不快にしただけではない。制度的な課題への対応を個人の問題に矮小化している点が総理大臣の発言として心得違いである。地方の医師不足や社会保障費抑制は制度的な問題である。それに対して、「医者が社会常識を身につけるべき」「高齢者は病気の予防に努めるべき」というだけでは、制度を改善することにはならない。「各人が善人となって最善を尽くして頑張れば社会が良くなる」と主張しているに過ぎない。これで上手くいくならば政策を立案することも制度を改善していく必要もない。社会にとって政治家は不要である。

麻生首相の失言は政治家としての無能さを自白するに等しい。恐ろしいことに制度的な問題を個人の頑張りで乗り切ろうとする精神論は麻生首相だけの話ではない。特殊日本的精神論と呼べるほど日本社会に根付いている。根本原因を明らかにするための地道な責任追及を「後ろ向き」と否定し、過ぎたことは過ぎたこととして、これから頑張ることを「前向き」と評価するような輩は旧態依然とした日本の組織に腐るほど存在する。

記者(=林田)自身にも思い当たる経験がある。記者は某大手不動産から不利益事実(隣地建て替え)を説明されずに新築マンションを購入してしまった。真相を知って抗議したが、担当の課長は不誠実極まりないことに「隣地が新しく建替えられれば建物が綺麗になる」「建て替えをプラスに見るかマイナスに見るかの問題だ」と被害者をプラス思考に誘導させることで正当化しようとした。

記者は売買代金返還訴訟を東京地裁に提起したが、裁判でも不誠実なプラス思考は変わらなかった。和解協議において売買契約の取消しではなく、仲介での売却を提案したのである。「過ぎたことは過ぎたこととして、被害者と加害者が協力することで損害を最小限にしよう」という発想である。一度、不動産取引で騙された被害者が新たな取引に応じる筈がない。当然のことながら和解協議は決裂し、東京地裁平成18年8月30日判決で売買代金全額の支払いが命じられた。

戦後の日本社会自体が焼け野原になってしまった原因を追及することよりも、焼け野原から経済大国にしてしまうことを誇るようなメンタリティの上に成り立っている。仮に焼け野原から経済大国にするほどの才覚があるならば焼け野原にならなければ、もっと発展していた筈である。失ったものの大きさを考えれば、焼け野原にしてしまったことを恥ずべきであって、焼け野原から経済大国にすることは誇れるようなことでは決してない。
失言を重ねる麻生首相は大いに批判されるべきである。しかし、表面的な言葉尻の批判に終始するのではなく、麻生首相の失言の背景になっている特殊日本的精神論にまで切り込むことを期待したい。それが頑張ることを強制する日本社会を少しでも人間的なものに近づけることになる。

【アニメ】家族愛で原作をリメイク『ドラえもん』

テレビ朝日系列で放送中のアニメ『ドラえもん』は2008年11月21日に「ざぶとんにもたましいがある」を放映した。「ざぶとんにもたましいがある」は、てんとう虫コミックス第39巻(小学館、1988年)に収録された同名の話が原作であるが、アニメでは家族愛の観点から大きくリメイクされた。

のび太がドラえもんの道具「たましいステッキ」を使って、家中の物品に魂を宿させる。魂を持った物が物扱いを止めない人間に反抗して大騒動になる。これが原作とアニメに共通する大まかなストーリーである。タイトルにあるように野比家の座布団にも魂が宿される。

原作では魂を持った座布団は、のび太の父・のび助に対し、「汚い尻を乗せるな」と抗議する。のび助が放屁すると、怒った座布団は、のび助をひっくり返してしまう。「たましいステッキ」をオフにした後でも、のび助は座布団に対し、「なんとなく座るのが悪いような気がする」と遠慮した感想を抱く。

「たましいステッキ」は物を粗末にする人を諌めるために開発されたという設定である。ドラえもんのいた22世紀でも物が粗末されることが問題になっているためである。しかし、のび助は物を粗末にするような行為をしていない。逆に座布団に座っていただけで「汚い尻を乗せるな」と怒られてしまう。そして座布団の本来の使途である座ることさえ躊躇するようになってしまう。

原作では、のび助が物を粗末にしたことの応報というよりも、ドラえもんの道具によるイタズラの被害者という面が強い。実際、『ドラえもん』では、のび太の両親が道具の実験台にさせられるようなパターンが多い。ジャイアンやスネ夫に苛められたから道具を使って仕返しするというようなパターンだけでなく、無関係の人がイタズラ被害に遭うという不条理なドタバタ感も原作漫画の魅力である。

これに対し、アニメでは、のび助は古くなったので座布団を捨てようとしていた。しかし「たましいステッキ」がもたらした騒動を経て、捨てようとした座布団が結婚の記念に購入したものであること、野比家の歴史が詰まっているものであることを思い出す。そして座布団を捨てずに使い続けることになる。アニメでは「物を粗末にしてはならない」という道徳的メッセージで一貫している。原作以上に教育色が強いアニメならではのリメイクである。

加えてアニメの特徴は家族愛を絡ませている点である。家中の物が家族を攻撃してくるという状況の中で、のび助は家族を守るために奮闘する。そして騒動終結後には座布団にまつわる家族の思い出を回想する。家族への愛と座布団への愛着が一つの流れになっている。座布団を大切にすることと家族を大切にすることがつながる。
原作漫画を読み慣れていると、教育的メッセージを強調したアニメ作品の優等生ぶりが鼻につくことがある。しかし、今回のリメイクでは存在感の乏しかった父親を活躍させ、家族愛に結び付けている点で説教臭くならず、自然に楽しむことができた。今回のリメイクは原作を新しい視点で再構成した好例と考える。

『新規事業がうまくいかない理由』の感想

 本書は企業家であり、事業開発のコンサルタントである著者が、新規事業がうまくいかない理由を説明し、新規事業に成功するためのノウハウを明らかにした書籍である。本書は企業内起業、すなわち既存企業が新規事業を立ち上げる場合に対象を絞っている。

 個人がベンチャーを立ち上げる場合に比べ、企業内起業は人、金、物のリソースを企業内から調達できるという恵まれた立場にある。それ故、一見すると個人のベンチャーに比べて成功は容易に思えるが、実際の成功確率は高くない。本書は、その理由を明らかにする。

 個人のベンチャーと企業内起業の大きな相違はモチベーションやハングリー精神といったメンタル要素である。起業の成功にはメンタル要素が人、金、物といった物理的なリソースと同じくらい重要になる。そのメンタル要素が企業内起業の場合、個人のベンチャーと比べて劣っている。

 そもそもチャレンジよりも安定や現状肯定を望むから企業に就職している。起業家マインドが強ければ就職せずに起業している筈である。企業内起業にアサインされた人員が新規事業に人生を懸ける「炎の集団」であることを期待するのは無理な相談である。この現実を理解しなければ新規事業は絶対に成功しないと著者は断言する(21ページ)。

 著者の見解は卓見である。モチベーションなどのメンタル要素は躓きの石になる。メンタル要素は定量化できないため、正確な理解は難しい。そのために世の中の論説はメンタル要素を過小評価するか過大評価するかの何れかに偏りがちである。

 一方ではメンタル要素に触れずに論を進める。具体的に計測できないものを分かったように論じることに比べれば謙虚な姿勢である。しかし、メンタル要素が大きな影響を及ぼすことはビジネスの実経験から容易に体感できることである。それ故、メンタル要素を完全に無視したならば議論としては物足りないものになる。

 他方ではメンタル要素を過度に重要視する立場がある。これは「やる気があれば何でもできる」「上手くいかないのは、やる気が足りないからだ」という精神論に行き着いてしまう。太平洋戦争中の日本において竹槍でB29を撃墜しようとした愚行が典型的である。この種の精神論は現代の日本企業においても、体育会系という言葉があるように完全には払拭できていない。

 本書は上記の両極端の立場の何れにも与しない。著者はメンタル要素の重要性を主張している。一方でメンタル要素を強調することで起業を成功させようとはしていない。反対に「ハングリー精神やモチベーションの乏しい人間がオペレーションを行うということを前提とした事業を選べばいい」と主張する(23ページ)。

 著者は「メンタル要素が足りないから、もっと頑張らせる」というような非生産的な思考に陥っていない。メンタル要素の重要性を認めつつも、そのような実体のないものが都合よく利用できると考えるほど甘い妄想に囚われていない。論語・雍也篇の「敬鬼神而遠之(鬼神を敬して之を遠ざく)」に通じる健全さが感じられる。

 この思想は具体策においても一貫している。例えば著者は企業内起業の担当者に退路を絶たせる人事施策に反対する。「失敗したら本社に戻れて、しかもそのことがマイナスの評価にならないモデルにすべき」と主張する(109ページ)。従業員を追い込むことで頑張らせようというような発想は有害無益である。

 著者のユニークさは本書のタイトルにも表れている。タイトルの「新規事業がうまくいかない理由」はネガティブな表現である。失敗しようとして起業を検討している人はいない。新規事業を企画する部署の人が、部署の予算で本書を購入しようとしたら、「失敗したことを考えてどうする」と叱責されそうである。現に起業に問題を抱えている人も、うまくいっていない理由を考えるよりも、何とかして軌道に乗せたいと考える筈である。それ故に「新規事業を成功させる方法」とでもした方が多くの読者を狙えるのではないかと考えてしまう。

 本書の副題は「「プロ」が教える成功法則」、帯には「失敗率90%の崖っぷちから御社を救う、最強の知恵」とあり、起業を成功させるためのノウハウがあることをアピールしている。本書の内容も新規事業の失敗と同じくらいの分量で、新規事業を成功させるための指針や成功した新規ビジネスの実例について記述する。

 このため、本書の性格上、「新規事業を成功させる方法」というタイトルにしても不思議はない。しかし本書は、あえて「新規事業がうまくいかない理由」とネガティブな表現をとった。そこには意外性ある書名で惹き付ける効果を狙っただけでなく、新規事業がうまくいっていないという問題の直視すらできなければ改善もないという冷厳な事実を突きつけられているように感じられる。

 問題点を内省せず、ひたすら成功するための方法を追求するだけの前に進むことしか考えないタイプでは、タイトルだけで本書を忌避してしまうだろう。その意味で本書は読者を選別する書籍とも言えそうである。本書が日本社会に受け入れられるか否かによって日本の企業内起業家の成熟度を測ることができるようにも思われる。

ストローで楽に膨らむ!用途自在のトラベルクッション

「ストロー・オールマイティークッション」を使用してみる

 本記事は記者が2008年11月に体験したストロー・オールマイティークッションの体験リポートである。本製品は空気で膨らませるタイプのクッションである。商品名のとおり、枕や足置きとしても使用できるオールマイティーなクッションである。

 本製品の最大の特徴は、これも製品名の一部になっているとおり、ストローを使用して空気を入れることである。ストローを使用することで浮輪についているようなバルブ(エアプラグ)型に比べ楽に空気を入れることができる。

 記者は2007年10月に現在の住居に引っ越し、ようやく1年が過ぎた。引っ越しの契機はもともと居住していた新築マンションの売買契約を消費者契約法(不利益事実不告知)に基づき取り消したことである(参照「東急不動産の遅過ぎたおわび」)。

 引っ越しによって居住面積が50平方メ−トルから90平方メートル弱に拡大したため、家の広さに比べて物が少ない状態であった。特にソファが置いてあるだけの殺風景なリビングにクッションを置いてみたいというのが今回の体験リポート「携帯に便利なエアクッション」の応募動機である。製品は2008年11月21日に当家に到着した。製品は奥行き20cm足らずの長方形のビニール袋に入れられていた。これならばコンパクトであり、旅行時もかさばらずに便利である。

コロンブスの卵と同じで最初に着想することは大変

 袋を開けると、クッションのビニール皮の匂いが強烈である。いかにも新品という感じがする。皮の表面にはフロッキーで加工されており、起毛で柔らかい肌触りとなっている。早速、ストローを使って空気を入れてみる。ストローは製品に付属しているが、市販のものでも可能である。

 ストローを製品の右上にある丸いセロハンで覆われた部分に差し込み、空気を入れる。セールスポイントに「楽に膨らむ」とあるとおり、バルブに空気を入れるよりもはるかに楽である。バルブの場合、対象物を顔に近づけないと空気を入れられないために、それだけで疲れてしまう。この点、ストローならば対象物と距離があり、楽な姿勢で空気を入れられる。ストローは取り換えることができるので、衛生的でもある。

 空気を入れ終えたら、ストローを抜き、空気注入口を指で押さえる。

 「このような簡単な方法で穴がふさがるのか」と思っていたが、実際にふさがった。ストローを差し込むということは穴を開けることを意味し、ストローを外したら、そこから空気が漏れてしまうのではないかとの心配は杞憂(きゆう)であった。実に簡単にクッションを作ることができた。作ったクッションはソファに置いたり、抱え持ったりして愛用している。

 ストロー・クッションは後から考えると何気ないアイデアであるが、コロンブスの卵と同じで最初に着想することは大変である。しかも、この問題では空気を入れたストローを外した後に空気を抜けなくするという技術的課題を解決する必要があった。

 製造元の株式会社ゴーウェル(京都市右京区)はユニークなアイデア商品を次々と製作している。今後も便利な商品を開発されることを期待する。

『貧困にあえぐ国ニッポンと貧困をなくした国スウェーデン』の感想

 本書は貧困をなくした生活大国スウェーデンの実態を説明した書籍である。著者は元ストックホルム大学客員教授で、スウェーデンの社会制度についての書籍を複数冊出版しているスウェーデン通である。

 本書で描かれるスウェーデン社会は、格差が拡大する日本とは対照的である。スウェーデンではワーキングプアやネットカフェ難民のような、生活に苦しむ若者の存在はあり得ないとする。スウェーデンでは無職の若者がすぐに生活保護を受給でき、短期に自立できるためである(3ページ)。

 このスウェーデンモデルを支える思想が「公的主義であり、個人生活への公的責任」である(167ページ)。これは個人の生活を支えることを公(国、地方自治体)の責任とする考え方である。日本で勢いを得ている「小さな政府」の対極の思想である。著者は「小さい国家と政府では、人びとが満足し、かつ安心できるような役割を果たせないことだけは明白である」と断言する(59ページ)。

 これに対しては国が個人生活まで負担するとなると、財政がパンクしてしまうとの批判が考えられる。ところがスウェーデンの財政は日本政府よりもはるかに健全である。これは国による個人生活への支援によって個々人の自立が促され、結果として中間所得層が拡大するためである。中間層が拡大すれば救済すべき貧困者は減少し、税収は増加する(107ページ)。この好循環は、格差拡大が消費減退をもたらし景気を失速させ、それが一層格差を拡大させるという悪循環に陥っている日本と対比できる。

 日本では「大きな政府」といえば、高福祉高負担となり、財政が悪化し、社会から活力がそがれるというお決まりの論法が登場する。しかし本書は、その種の言い尽くされた議論では得られない新鮮な視点を提供してくれる。それは1年の半分近くをスウェーデンで暮らすという著者ならではの客観的な視点である。日本を離れることで、日本の非合理な点を直視できる。例えば以下のような主張ができる日本人は少ないだろう。

 「日本では、自らを勤勉と自画自賛してきた。しかし、広い世界を見回せば、過酷な気候、社会、それに労働の条件の下で懸命に働く途上国の人びとも勤勉といえるはずであるので、日本人自身の傲慢で狭量な過信に過ぎなかった。」(26ページ)

 私は日本社会を批判する書籍を多く読んできたが、物足りなさを感じることも多かった。それは多くの論者が日本の問題点を批判しつつも、それでも日本社会は諸外国と比べて格別悪いわけではないという類の無根拠な思い込みが背後に見え隠れしていたためである。批判者であっても「日本には悪いところもあるが、良いところもある」という身贔屓な感情を捨てきれていない論者が少なくない。

 日本の政治が問題を抱えていることは多くの国民が認識していることである。それにもかかわらず、日本では政権交代がほとんど行われていない。そこには現状を批判する立場の人々も、どこかに現状を肯定したい気持ちがあり、全否定できないという甘さを抱えていたことが一因である。

 それに比べると、著者は島国という井の中の蛙になっていない。それ故に日本の問題点を直視できるし、悪いところを躊躇なく切り捨てることもできる。本書は日本国内の常識が決して世界の常識ではないことに気付かせてくれる。多くの人々が本書を読み、社会のあり方について考えるきっかけにして欲しい一冊である。

【書評】弁護士なしでの裁判体験談『訴えてやる!』

本書は個人事業主の著者が踏み倒された請負代金を回収するための奮闘記である。

著者は書籍の制作を請け負ったが、代金の入金はなかった。催促しても発注者は逃げ回っているばかりである。内容証明郵便を送付しても受け取りを拒否された。そのため、支払督促、訴訟、強制執行と司法手続きによって回収することになる。これらの手続きを弁護士なしの独力で進めたことが本書の特色である。

私は東急不動産(販売代理:東急リバブル)から新築マンションを購入したが、実は不利益事実(隣地建て替え)が説明されない問題物件であった。引渡し後に真相を知り、消費者契約法に基づき売買契約を取り消し、裁判で売買代金を取り戻した経験がある。それ故に著者の経験には大いに共感するところがある。

本書は全部で8章あるが、後半に入る第5章でようやく司法手続き(支払督促)に入る。それまでの章は発注者への督促や法律相談に費やされている。裁判記録として位置付けるならばバランスの悪い構成であるが、一般の人にとって裁判を起こすのはよほどのことであり、そこに至るまでには様々な出来事があることが多い。私自身、不誠実な対応を繰り返された末に東急不動産を提訴している。このため、本書の構成は一般人の裁判記録としては非常にリアリティがある。

本書では支払督促に対し、相手方(発注者)から異議を申し立てられ、簡易裁判所での通常訴訟に移行した。法廷では相手方は「事務所が入居していたビルが差し押さえられた」などの身勝手な言い訳をするのみで、法律的な主張を展開は弱かった。このため、著者の主張に沿った訴訟上の和解があっさりと成立した。この点において本書は、両当事者が法律的な争いを続ける通常の民事訴訟の参考にはならないという限界がある。

本書の醍醐味は法律的な議論よりも、相手方の不誠実や裁判制度の複雑さなど一般人の思いを率直に表現していることである。訴訟上の和解成立後に相手方は「今回はすみませんでした」と謝ってきたという。それに対し、著者は「胸の奥にはまだ田村(注:相手方の社長)に対する怒りがくすぶっていたのだ。割り切った対応をする自身がなく、早く一階に下りて、田村と別れたい。その一心だった」と赤裸々に告白している(119頁)。

私自身、東急不動産の課長から最後に「ご迷惑をおかけしました」と言われ、「某不動産業者の不誠実な対応で何倍にも迷惑が増大したのに、今更そのような発言をする資格があるのか」と腸が煮えくり返った思いがある。相手の苦しみに配慮せず、自己満足のためにポーズを取る人間の醜さを見せ付けられた。このように本書は裁判経験のある私にとって大いに共感できる内容である。裁判をしようと考えている方や現に裁判中の方にお勧めの一冊である。

梅中伸介
『訴えてやる!』
扶桑社
2007年9月10日

「テクニカル分析」をハンズオン体験してきました

 新光証券が主催するネット取引セミナー「テクニカル分析実践編」に2008年10月23日、参加した。

 さまざまなチャート分析の方法を知って、売買のタイミングをつかもう、というのがセミナーの目的だ。

前日終値が判断基準にならなくなった

 新光証券はみずほフィナンシャルグループの証券会社で、東京駅八重洲南口に面する本社ビルの電光掲示板が有名である。

 新宿支店も、外から見られる電光掲示板に日経平均株価などが表示され、証券会社の店舗であることを雄弁に主張していた。

 新宿支店には、ネットブースと呼ばれるスペースにノートパソコンが用意され、さまざまなセミナーを提供している。新宿支店以外でも、各支店で株式市場の見通しから相続対策まで、幅広いテーマの講座を開催しているようだ。

 さて、記者はネットで現物の株取引をたしなむ程度である。時間的な制約から立会時間終了後に注文することが多い。したがって、これまで基本的には、その日の終値を翌日の注文の判断基準としていた。

 ところが、昨今の相場は乱高下が激しい。前日の終値とかけ離れた価格帯で翌日に取引されることも多くなっている。

 チャートをより深く分析することで、株価が上がり基調なのか、下がり基調なのか、判断できるようになるのではないか──。そんな風に考えるようになった。これが本セミナーの受講動機である。

9つのチャートを1画面で

 セミナーは新光証券提供のネットサービス「新光ネット倶楽部」を実際に操作しながら、講師が各種テクニカル分析指標を解説していく手順で進んでいった。

 冒頭、「新光ネット倶楽部」へのアクセス方法から説明してくれた。インターネット初心者でも、戸惑わずに操作できるように、という配慮だろう、講師の荒井佳弘マネージャーは、例えばこのサイトをブラウザの「お気に入り」に追加すれば、簡単にアクセスできますよ、というような、ブラウザの基本操作まで説明してくれた。

 講師以外にもスタッフがついて、うまく操作できない受講者をアシストしていた。そのため、パソコン操作に自信がない人にも勧められるセミナーとなっていた。

 「新光ネット倶楽部」のメニュー「投資情報」は、9種類のチャートが1画面で閲覧でき(ナインチャート)。そして30種類以上のテクニカル指標で、株価を分析できる。

 一般に高機能であるほど、初期設定が大変で、使いこなしにくくなる。しかし、ナインチャートは業種別に、1業種につき主要企業9社のチャートをプルダウンメニューで選択できるなど、設定なしで使える情報が満載である。

 また、テクニカル指標の操作も、「設定」ボタンで選定画面を表示し、表示させたい指標のチェックボックスをチェックし、「チャート」ボタンをクリックするだけで表示できる。指標の種類は数多いが、表示操作は共通である。このため使いやすい。

 ただし、銘柄の表示は証券コード(たとえば、トヨタ自動車の証券コードは7203)で入力する必要がある。このため、表示させたい銘柄の証券コードを事前に把握しておかなければならない。

 この点、初心者には負担かもしれない。ただ、テクニカル分析を駆使するヘビーな投資家には、銘柄名(会社名)ではなく、証券コードで検索させたとしても、さほど高度な要求ではないという判断があるのだろう。

 忘れてはいけないのは表示速度である。いかに優れた機能であっても、重たければストレスになる。おそらく支店のネットワーク環境は最適化されていると予想されるため、安易な一般化はできないが、ナインチャートの初期表示に数秒かかる程度で、テクニカル指標の表示の切り替えは迅速であった。

チャートから売買のシグナルを読み取る

 セミナーの大半は、ボリンジャーバンドをはじめ各種テクニカル指標の説明で費やされた。セミナーのタイトルに「実践編タイミングをとらえる」とあるとおり、売買のシグナルの読み方に特化した、証券取引の実践的な内容であった。

 ただし、指標を算出するための計算方法についての説明は乏しかった。このため、理詰めで理解したい向きには本セミナーをきっかけとして、自分自身で研究していく必要がある。

 (チャートの基本であるローソク足については解説がなかった。おそらく「テクニカル分析 基礎編」の方で説明があったのだろう)

 本セミナーの受講によって、テクニカル指標を活用することで勝率を上げられそうな気持ちになったが、注意すべき点もある。大きく2点の指摘がなされた。

統計学の成果と応用範囲

 第1にテクニカル指標は基本的には統計学の成果を利用している。そのため、仕手筋のような恣意的な影響を受けにくく、出来高の多い銘柄で効果を発揮する。すなわち、テクニカル指標を活用するためには適切な銘柄選択が前提になる。

 第2にテクニカル指標は過去のデータから将来を予測するものであるため、現在までの取引価格に織り込まれていない外部要因が生じた場合は予測が大きく外れることになる。近時のリーマン・ショックによる大暴落が正にこれである。

 本セミナーは「新光ネット倶楽部」をハンズオンで体験でき、各種テクニカル指標の読み方から限界までを理解できる有意義なセミナーであった。限界に注意しつつ、様々な指標を今後の投資に活用していきたいと考える。

〔2008年10月23日16時30分〜18時、新光証券新宿支店で〕

高級ハンバーガー、クォーターパウンダー

大手ファーストフードチェーン・日本マクドナルドの新商品ダブル・クォーターパウンダー・チーズを食べた。クォーターパウンダー(Quarter Pounder)は1/4ポンド(パウンド)の牛肉を使用した高級感あるハンバーガーである。

日本マクドナルドは2008年11月に表参道と渋谷駅東口の直営2店舗を「QUARTER POUNDER SHOP」に改名して、クォーターパウンダーを販売するという斬新なキャンペーンを実施した。同店ではマクドナルドのブランドが隠され、黒と赤を基調にしたスタイリッシュなデザインはファミリー層向けの既存マクドナルド店舗とは大きく趣を異にしていた。この意外性や謎を前面に出したキャンペーンは話題となり、同店は行列ができるほどであった。

キャンペーンの成功が追い風となり、11月28日からは関東などの店舗でクォーターパウンダーが新商品として販売を開始した。海外のマクドナルドでは定番メニューとなっているクォーターパウンダーであったが、日本では1970年代に販売された後は一部の地域で販売されるのみであった。

販売されるクォーターパウンダーは、クォーターパウンダー・チーズとダブル・クォーターパウンダー・チーズの2種類である。後者はビーフパティとチーズが二枚重ねになっている。私は12月2日に東京都江東区の店舗で後者を注文した。その店舗では店員のユニホームも赤と黒を基調としたクォーターパウンダー風に変わっていた。

クォーターパウンダーはパティの肉厚が通常の2.5倍というボリューム感をセールスポイントにした商品である。それは「1/4ポンド」に由来する商品名から裏付けられる。しかし、ハンバーガーの外観は既存のハンバーガーと比べて、それほど意外性がない。メガマックを最初に見た時の方がはるかに衝撃的であった。

メガマックが衝撃的であったのはハンバーガーの高さのためである。ダブル・クォーターパウンダー・チーズの高さはビッグマック以下であり、サイズ的にはそれほどでもない。しかし、メガマックの大きさは通常人の口のサイズに合っていない。食べている途中で崩れてしまい、綺麗に食べられないことが多い。そのため、メガマックの食べ方は高級とは言いがたいものになってしまう。その意味でクォーターパウンダーの大きさは高級志向にマッチしている。

味付けはマクドナルドの既存のハンバーガーと大きく変わるものではなく、既存メニューに親しんだ人にとっても違和感なく食べられるものである。むしろ味付けは抑制されており、牛肉のボリュームの割にはあっさりとした食後感であった。普段はメガマックを食べている身には物足りなさが残るくらいであった。この点も空腹を満たすのではなく、牛肉を味わうという高級志向の食べ方にマッチしている。

『篤姫』過去とつながる現在【大河ドラマ】

NHK大河ドラマ「篤姫」が2008年12月14日の放送の最終話「一本の道」で完結した。幕末に薩摩藩から江戸幕府13代将軍・徳川家定に嫁いだ天璋院篤姫(宮アあおい)を主人公とした物語である。幕末物は視聴率が伸びないというジンクスを見事に裏切る高視聴率を記録した。

「篤姫」の優れている点は脚本の緻密さである。大河ドラマは1年間、全50話という非常に長いドラマである。民放のドラマの4倍であり、物語の前半と後半では舞台や状況が大きく異なってしまうことも多い。特に大河ドラマは歴史上の業績のある人物の一生を描くことが多い。少年時代と老年時代では本人も周囲も社会も大きく変わっている。歴史的な偉業を成し遂げた人は人生の変転も大きい。このため、一つのドラマとしての統一性・一貫性に欠けてしまう危険がある。

篤姫の人生も激動の人生であった。薩摩藩主・島津家の分家である今和泉家・島津忠剛の娘として生まれながら、薩摩藩主・島津斉彬の養女となり、徳川家定の御台所となる。明治維新では江戸城無血開城のために大奥を立ち退くことになる。特に薩摩の少女時代と将軍家への輿入れ後では環境が大きく異なる。

しかし、本作品は異なる環境で新しい話を進めるのではなく、過去のエピソードが新しい環境においても活かされている。最終話のサブタイトル「一本の道」は於一(篤姫)が斉彬の養女となる際に女中・菊本(佐々木すみ江)が語った「女の道は一本道」から来ている。

戊辰戦争に際しては幾島(松坂慶子)が再登場して天璋院のために行動した。さらに西郷隆盛(小澤征悦)に江戸総攻撃を思い止まらせたのは、天璋院が勝海舟(北大路欣也)に託した斉彬の手紙であった。また、最終話では天璋院は薩摩から来た母親・お幸(樋口可南子)と兄・忠敬(岡田義徳)と再会する。京都に戻った静寛院(堀北真希)や、大奥を離れた滝山(稲森いずみ)、重野(中嶋朋子)らとも再会する。

人との別れとは、小松帯刀(瑛太)の台詞にある「また会う楽しみのために一時離れ離れになること」であることを物語が実証した形になっている。過去が現在つながっており、波乱の人生を上手にまとめた作品として高く評価したい。

まるで雲の上にいるような快適な気分に!

トラベルクッション『ON THE CLOUD』を体験

 本記事は私が2008年11月に体験したトラベルクッションON THE CLOUD(オンザクラウド)の体験レポートである。本製品は株式会社ゴーウェル(京都市右京区)のネッククッションである。2段のクッションが首と頭部を快適に支える。ゴーウェルは旅行用品を中心にユニークな商品を企画・製造する企業である。別の体験レポートで紹介した「ストロー・オールマイティークッション」も同社の製品である。

 私は長時間パソコンで作業することがある。集中すると頭をモニターに近づけてしまい、変な姿勢で疲れてしまうことがある。少しは楽に作業できるようにすることが今回の体験レポート「携帯に便利なネッククッション」応募の動機である。

 本商品は独立した2段のクッションから構成される。本製品も「ストロー・オールマイティークッション」と同じく、奥行き20センチ足らずの長方形のビニール袋に梱包(こんぽう)されていた。携帯に便利な形である。一方、クッションは「ストロー・オールマイティークッション」とは異なり、バルブから空気を入れる形式である。

 上段用のクッションと下段用のクッションの2種類に空気を入れる。空気を入れると下段のクッションはコの字型、上段のクッションは三日月型である。下段のクッションの上部と上段のクッションの下部にマジックテープが付着しており、2つのクッションをドッキングする。

 コの字型の下段クッションを首にはめることで首を支え、三日月型の上段クッションに後頭部を預けることができる。これによってもたれかかっても頭部は快適である。製品名にある雲の上にいるような快適な気分に近い感覚になる。

 本製品のユニークな点はクッションが上下2段に分かれている点である。独立しているために単品で使用することもできる。例えば1つのクッションだけにして枕として使うこともできる。ネッククッションとしての本来的な用法においても2段に分かれている点には意義がある。本製品は2つのクッションに空気を入れなければならない。これは1つのネッククッションとして利用することを考えた場合、手間が多いというデメリットとして受けとめられるかもしれない。

 しかし、別々に空気を入れるということは入れる空気の量を別個に調整できることを意味する。例えば首周りを締める下段のクッションはきついと苦しくなるので空気を緩めにする。

 後頭部を支える上段のクッションは空気を多く入れることで頭部をしっかりと支えることができる。反対に機内や車内などで休みたい時は、上段のクッションの空気を緩めにして頭部を後ろにもたれかかれるようにすることが考えられる。さまざまなシーンで役に立つ製品であり、今後も使っていきたい。

『ローマ美術研究序説』の感想

 本書はローマ美術とは何かという難問に正面から取り組んだ力作である。著者のオットー・ブレンデルはドイツに生まれ、アメリカで活躍した考古学者・美術史家である。

本書は先行の研究を丹念に紐解いた上で著者の見解を明らかにする学術性の高い書籍である。ローマ美術や先行研究についての知識を当然の前提として書かれている。但し日本語版では訳者解説や本文で言及された作品の写真、ローマの歴史年表を追加することで、理解しやすくなっている。

 私はローマの文化といえばホラティウスの言葉「征服されたギリシア人は、猛きローマを征服した」を想起する。法律(ローマ法)や建築(水道橋など)のような実用面では構成に大きな影響を与えたものの、芸術や学問はギリシア文化の焼き直しに過ぎないという印象を抱いていた。しかし本書は、それほど単純な問題ではないことを明らかにする。

 ローマ美術論を難しくさせる一因は、ローマ美術と一括りにするには古代ローマの美術が多様である点にある。本書はローマ美術の二元性として整理する(122ページ)。イタリア(エトルリア)的対ギリシア的の二元論や古典的対非古典的の二元論である。ローマ美術にはイタリア半島の土着文化の影響を受けた作品群がある一方で、ギリシア・ヘレニズム文化の影響を受けた作品がある。

 また、現在を過去の偉大な再生とする古典的様式が周期的に復活する傾向が見られる。この古典主義の周期的な復活は14世紀以降のイタリアで花開いたルネサンスや18世紀のフランスで流布した新古典主義のように近代ヨーロッパにも見られる傾向である。ここにはローマと近代の類似性が見られる。そして、これは著者の結論に関係していく。

 著者は「ローマ美術における様式的統一の欠如」を「驚くべきことではない」と主張する(157ページ)。これは現代において様々な様式の美術作品が制作されていることと同じだからである。古代ローマにおいては過去の作例や構想を認識した上で、受容または拒絶が判断された。つまり、ローマ人は趣味や目的に応じて選択していたのである。この点において「ローマ美術は史上初の「近代」美術と考えられるかもしれない」と結論付ける。

 著者の主張は過去の文化をカテゴライズする際に忘れてはいけない点を想起させてくれる。例えば現代の日本美術を平成美術と一括りにしてしまったならば多くの芸術家の多様な作品を理解することはできなくなる。カテゴライズには個性を捨象してしまう危険が存在する。

 一方で芸術家個人ではなく、一つの社会における美術を研究するならば、様式に基づくカテゴライズは必要である。個々の作品を羅列するだけでは事実を箇条書きしただけだからである。個々の事実を結び付けて意味のある分類をしてこそ知的営為となる。

 特定の社会の美術をカテゴライズすることには学問的必要性と多様性(個性)を捨象する危険性の相反する緊張関係が存在する。この緊急関係の中でローマ美術を論じた本書は古代ローマ美術だけでなく、美術史学に共通する普遍的な問題を提起する。美術史に関心のある人に薦めたい一冊である。

『科捜研 うそ発見の現場』を読む〜「先入観」くつがえすポリグラフ

 ベテランの科捜研技術吏員がポリグラフ検査の経験を分かりやすく書いた。著者は大阪府警本部科学捜査研究所に35年間勤め、数多くのポリグラフ検査に従事し、その実体験が描かれている。

 本書を読むと、あたかも真実であるかのように平然と嘘をつく人間がいることが分かる。著者が「犯人ではなさそう」との印象を受けた被疑者の多くが、ポリグラフ検査では特異反応を示している。そのような事例を特に集めたのかもしれないが、人は見かけだけで簡単に騙されてしまうことを意味している。

 私自身、売り主の東急不動産(販売代理:東急リバブル)から不利益事実を隠されてマンションを購入した経験がある。売買代金の返還を求めた裁判では被告の嘘を崩すことが大きな課題であった(参考:「マンション販売トラブルで「お詫び」 東急リバブル・東急不動産」)。「嘘をつくと顔に出るから分かる」というようなレベルの問題ではないことを、身をもって経験しているため、本書の内容は考えさせられた。


 著者は先入観から手痛い失敗をしている。それは中古車販売会社の売上金紛失事件での経験である。営業所入口の鍵を持っている6人の従業員の誰かが犯人ということで、ポリグラフ検査をすることになった。その中で若い女性事務員については最初から捜査員は関係なしと決め付け、それを真に受けた著者もおざなりの検査で済ませてしまう。

 ポリグラフ検査では犯人は分からずに終わったが、後日、その女性事務員が犯人であったことが判明する。この経験から、著者は「いかなる事情があろうとも、予断を持った手抜き的検査は禁物であり、検査記録が唯一の判断材料であることを身をもって知った」と語る(83ページ)。

 その後も著者の第一印象が裏切られる事例が語られる。データを歪曲せずに検査結果を受け止める著者の技術者マインドは評価に値する。これは、見込み捜査が批判される日本の警察においては重要である。

 本書を警察の内幕物として見ると、ポリグラフ検査を専門とする技術吏員の視点で書かれた点に特徴がある。警察組織は本庁と所轄、キャリアとノンキャリア、刑事警察と公安警察など様々な対立要素を抱えている。テレビドラマ「踊る大捜査線」が人気を博したのも、警察内部の対立構造をリアルに描いたためである。それを踏まえれば、本書でも技術吏員という特殊な職種故に立場の異なる他部署との軋轢や苦労話がありそうに思える。ところが本書では、著者も現場の刑事も互いの職務を尊重して、自然体で仕事をしている様子が描かれている。

 この描写から、私は別の元警察官の著書の一節を想起した。「仕事の優劣なんてまったくない。例えば警備の任務にしても、交通課の協力がないと交通整理もできないし、信号も変えられない。そのため、お互いの部署間の関係にはとても気を使うし、お互いを尊重し合っている。だから、一つの仕事に対して優越感や劣等感なんて内部的思考は全くない」(北芝健『やんちゃ、刑事。』竹書房、2007年、177頁)。

 警察内部に醜い争いがあることは否定できない事実であろう。その一方で、下らない優越感や劣等感・対抗意識を持たず、互いの職務を尊重し、協力して成果をあげている人々がいることも事実である。これが仕事のできる人とできない人を分ける一因になっていると感じられた。

【ドラマ】「ブラッディ・マンデイ」余韻が残る最終回

テレビドラマ「ブラッディ・マンデイ」が2008年12月20日放送の第11話「今夜0時東京壊滅テロ宣言へ!!生死を懸けた終幕へ」で最終回を迎えた。週刊少年マガジンで連載中の龍門諒原作・恵広史画の漫画を原作とし、10月11日からTBS系列で放送されていた作品である。

本作品は高校生ながら天才的なハッカーである高木藤丸(三浦春馬)が、そのハッキング能力を駆使してテロリスト教団に立ち向かう物語である。ハッキングやウィルス、中性子爆弾、テロ、裏切りと盛りだくさんの内容になっている。最終回では教団の首謀者Kが実は藤丸の同級生の安斎真子(徳永えり)であり、「宝石箱を開ける」という最終計画を遂行しようとする。それを阻止するために藤丸らは奔走する。

藤丸とKの対決では、藤丸はKを「人殺し」と批判する。これに対し、Kは「1人を殺すことで1000万人の命を救える」と難問を突きつける。この対決は霧島悟郎(吉沢悠)の登場により都合よく解決することになる。藤丸は最後まで青臭いままで、自分の手は汚さない。御都合主義的と批判されるかもしれないが、主人公が高校生であることを踏まえれば却ってリアリティがある。

テロリスト教団にはKの他にも、天才的数学者にして参謀のJ(成宮寛貴)や金で雇われた折原マヤ(吉瀬美智子)のような曲者揃いである。この二人はK以上に悪役然としていた。それ故に、この二人との決着がつかない結末は勧善懲悪物としてはフラストレーションが溜まる。特にJについては、彼の思惑通りに展開しており、藤丸はJに利用され出し抜かれている。大団円の最終回というよりも、第一幕閉幕という印象を受ける。

最終回の演技や演出についても語っておきたい。演技では本作品が連続ドラマ初主演となる三浦春馬が光っていた。妹の遙(川島海荷)から「今年のクリスマスは三人(注:父親・兄・自分の家族全員)一緒だね」と話しかけられ、回答に窮する切ない心情を上手く表現していた。後に遙も真実を明確に知ることになるだろうが、そこは視聴者の想像に委ねている。

演出ではJが消えてメロンソーダだけが残るシーンにケレン味を感じた。Jは法律上死亡したことになっている人間である。そのため、「僕はどこにでもいてどこにもいない。存在しないはずの人間だからね」と語っている。このJの発言を、Jを消すことで上手く映像化した。残されたメロンソーダが、確かにJが存在したことを示している。
総じて最終回は余韻を残す終わり方になった。現在、原作漫画は佳境を迎えているところであり、結末は見えていない。この段階でのドラマ化であるため、全てが明快に説明されないのは、ある意味仕方ない。スケールが大きすぎて消化しきれなかった点については続編やスピンオフを期待したい。

【M-1グランプリ】好テンポのNON STYLEが優勝

「M-1グランプリ2008」決勝戦が2008年12月21日、テレビ朝日で開催され、NON STYLEが優勝を飾った。M-1グランプリは結成10年以内の漫才コンビ日本一を決める大会である。最終決戦にはオードリー、NON STYLE、ナイツが駒を進めた。

今年の大会では下馬評で有力視されていたキングコングが最終決戦に進めないという波乱もあった。やや上がり気味であった昨年と比べ、今年のキングコングは安定感があり、レベルアップが感じられた。それ故に最終決戦に進めないという結果は意外であった。

審査員からは「技術はあるが、ハートを置き忘れている」と指摘されたが、キングコングは既に若手が持つパッションで突っ走る段階を卒業していると見ることもできる。若手向けのグランプリには相応しくないとしても、芸が円熟したと肯定的に評価できる。

また、「笑いをとるまでの前振りが長過ぎた」と指摘された。これはキングコングが漫才ライブ「KING KONG LIVE」を精力的にこなし、舞台慣れしてしまった結果かもしれない。時間が短いテレビではネタをコンパクトにまとめる必要がある。これはテレビ向けでないということを意味するに過ぎず、漫才師としての実力を損なうものではない。

キングコングのM1にかける情熱は強く前宣伝されていたために、記者は「ヤラセ」的な要素がないか、厳しい視線でキングコングを見ていた。しかし、M-1グランプリでは彼らの安定した実力を示した。それでも最終決戦には残らなかった。そこには大会の厳しさと審査の健全性が感じられる。

記者が一番笑ったコンビは敗者復活から勝ち上がったオードリーである。決勝戦で披露したネタは若林正恭の住宅の悩みであった。記者は不利益事実(隣地建て替えなど)を説明されずに東急不動産(販売代理:東急リバブル)から新築マンションを購入し、裁判トラブルになった経験がある。

故に住宅問題は人一倍関心がある。そのため、若林の話を真剣に聞くが、春日俊彰が的外れなボケや突っ込みで混ぜっ返すために話が中々進まない。真剣に聞いているだけに変なことを言われると思わず笑ってしまう。最後は「物件選びは妥協するな」と至極もっともな結論を持ってきている。社会派的な感覚もあるコンビである。

一方でオードリーの面白さは「このような漫才があるのか」という驚きに起因する面が大きい。正統派というよりは異端である。その意味でテンポの良かったNON STYLEの優勝は穏当な結論と考える。優勝したコンビも敗退したコンビも各自の実力を発揮できた大会であった。今後の活躍に期待したい。

『打ったらハマるパチンコの罠PART2』の感想

 本書はパチンコ依存症の問題を指摘し、それを放置する日本社会を批判した書籍である。パチンコを禁止した韓国の事情を取材し、日本でもパチンコ禁止を訴える。著者のパチンコ批判は徹底している。「ほんの一握りのパチンコ業界関係者や警察官僚の莫大な利益のために、100万人以上の人が依存症で苦しみ、その依存症の人たちを放置している国は国家としての体をなしていない」とまで断言する。

 著者によると、パチンコが放置されることによる弊害は実に多方面にわたっている。「犯罪の多発にしても、自殺者の増加にしても、韓国のようにパチンコを禁止すれば済むことが少なくない」と主張する。

 また、パチンコによる浪費が消費低迷の要因になっているとする。これは特に自動車のような高額商品に影響が大きい。「若者の多くは、スロットやパチンコで負け続けて、車を買うお金がなくなっている」とする。そしてパチンコ屋の存在は街の景観や行きかう人の心理にも影響を及ぼしうる。「ケバケバしいパチンコ屋の看板や、パチンコ屋のネオンがないだけでも、街の景観は大いに救われる面が大きい」

 さらに、自民党遊戯業振興議員連盟にみられるように業界擁護の政治家の姿勢と北朝鮮問題を絡め、「拉致問題に熱心だと言われる議員が、北朝鮮に多額の送金をしているパチンコ業界を応援しているのはどういうことなのか」と問題提起する。

 これらにはパチンコを批判するあまりバランスを失している見解もなくはない。たとえば新車の販売低迷は排気ガスや交通事故の問題を考えれば必ずしも悪いことではない。新車に乗ることをカッコいいとする発想もマスメディアが作り出した価値観に踊らされた結果であり、健全な消費とは言い難い。また、パチンコ店の経営者に在日コリアンが多いという指摘も、日本企業に存在する就職差別を無視して論じるならば民族的偏見を煽る危険がある。

 とはいえ、パチンコの問題が様々な分野に影響を及ぼしていることには純粋に驚かされる。そして一つの問題から徹底的に掘り下げる著者の粘り強さに敬服する。

 私が市民記者として初めて書いた記事は、自身が経験した不動産トラブルの裁判についてであった(参照「不動産トラブルと消費者契約法」)。以来、幾つかの記事を書いているが、不動産問題と直接関係しないテーマであっても、上記裁判の経験を引き寄せることで考察を深められることがある。

 その不動産問題に関して、本書では住宅ローンで購入した分譲住宅をマイホームではなく、「バンカーホーム(銀行の家)」と称している。「借金までして「バンカーホーム」の支払いに追われ、時には人生を破滅させる人までおられるのは理解に苦しむ」と主張する。

 実際、欠陥住宅や耐震強度偽装物件の購入被害者が一過性の悲劇で終わらないのは、物件が無価値であっても、形式的には住宅ローンの返済義務が残るためである。これは売買契約を取り消した記者のトラブルでも問題になるが、東京高裁における訴訟上の和解において既払いの金利・保証料を上乗せした形で売買代金が返還されたため、踏み込んだ法的判断はなされなかった。

 パチンコの問題を論じた本書で私の問題意識と重なる文章に出会うとは思ってもみなかった。まさに「すべての道はローマに通ず」である。本書から一つのテーマを掘り下げることの重要性を改めて認識した。

『憲法改正試案集』

【読者レビュー】護憲派も改憲派もまずは改正案を知ろう

 本書は現在公表されている日本国憲法の主要な改正案や改正意見を比較し、解説したものである。取り上げた改正案・改正意見は公的なもの(衆議院および参議院の憲法調査会最終報告書)から、政党の作成したもの(自民党新憲法草案、民主党提言など)、議員個人のもの(鳩山由起夫「新憲法試案」など)、民間のもの(読売新聞試案など)まで網羅している。

 著者は長年ジャーナリストとして選挙・政治報道に携わり、現在は政治学の研究者である。憲法学者ではなく、著者のような経歴の持ち主によって本書が刊行されたことは、現代日本において憲法改正問題が、すぐれて政治的な性格をはらんでいることを示している。

 なぜならば護憲が一方の党派の政治目標になっている状況では、憲法改正を論じること自体が特定の政治的立場の表明につながるためである。これに対し、本書では改憲反対論者であっても、むやみに憲法改正論を非難するのではなく、議論に加わるべきとする。それが「国のかたち」を豊かにすると主張する。

 実際、憲法改正案を並べてみると、改憲論の問題点が浮かび上がってくる。多くの憲法改正案に対する私の第一印象は、「果たして改正案と言えるのか」というものであった。改正とは不適当な個所を改めることである。憲法改正とは現行憲法を前提として、その中の不備な部分を改めることである。

 ところが改正案は、現行憲法の文章を修正するのではなく、全く新しい文言になっているものが多い。これは前文に顕著である。憲法改正案ではなく、新憲法制定と呼ぶ方が内容的にはふさわしい。

 ここには日本人の憲法改正に対する未熟さがある。日本の歴史上、実質的な意味での憲法改正は一度も行われていない。形式的には大日本帝国憲法(明治憲法)から日本国憲法への改正一度のみである。これは改正の形式を採っているものの、天皇主権から国民主権への根本的な変更であり、実質的には新憲法制定であった。この経験しかないため、「憲法改正=憲法の作り直し」という発想になっているものと思われる。

 日本の敗戦時には憲法をゼロから作り直す必然性があった。日本が受諾したポツダム宣言は無責任な軍国主義の駆逐を主張しており、日本は軍国主義国家から人権を尊重する民主的な平和国家に生まれ変わらなければならなかった。そのためには天皇主権の大日本帝国憲法を全否定する必要があった。

 かくして日本国憲法は誕生した。基本的に護憲派を自認する人々は日本国憲法に象徴される戦後の民主化を肯定的に評価する。これに対して改憲論には「押しつけ憲法論」に見られるように日本国憲法そのものに否定的な立場もある。そのような憲法否定論者も改憲論に与(くみ)しているところに改憲議論が紛糾する原因がある。

 本来、憲法改正とは憲法を改正したいだけの内容があって、その部分を変更するものである。その意味で改憲派と護憲派という対立軸が生じること自体が本来は不自然である。例えば「日本国憲法の中の天皇制だけは容認できない。国民主権や法の下の平等を定めた憲法のほかの条項とも矛盾する。だから第一章を抹消すべき」という主張があるとする。ここには天皇制廃止についての賛成派と反対派の対立があり、憲法を改正するかしないかは結果に過ぎない。

 ところが、現代日本の改憲議論は新しい憲法を作るべきか、そのままの日本国憲法でいいか、という改憲の是非自体が目的化された感がある。この点については憲法を聖典のように扱う護憲派に原因があると非難されることが多かった。

 しかし現憲法を継承しない新たに創作した文章を憲法改正案として提示する改憲派も、特定の政策の実現ではなく憲法の作り替えを目的化していると批判できる。これは護憲派が改憲議論への参加自体を拒否することを正当化する理由にもなりうる。

 実際のところ、本書で指摘されているとおり、憲法改正案で改正される内容の多くは現行憲法の枠内でも新規立法で実現できるものである。憲法改正案の多くは国会議員の手によるものだが、国会議員の本務は憲法に従って法律を議決することである。本来の任務である立法権でできることを行わず、憲法改正を名目とした憲法制定ゴッコに明け暮れているとしたならば本末転倒のそしりを免れない。

 本書は改正案の紹介が主眼で、著者の主張は抑制している。それでも時折登場する著者の意見は非常に鋭い。印象的な内容は、公の支配に属しない教育事業への公金支出を禁じた現憲法第89条についての議論である。

 この条項は私学助成との関係で問題になる。多くの論者は価値判断として私学助成を肯定する。私立学校も公立学校と同じく重要な教育の基盤になっているためである。そのため、私学助成に違憲の疑いが生じないような憲法改正を主張する立場もある。

 これに対し、著者は「私学振興の目的のためには、高い学費を支払わされる私学生に対して授業料(あるいは入学金)の直接助成をするべきだった」と主張する(208ページ)。私立学校に助成するために、私立学校への文部科学省の口出しが可能になり、天下りポストを提供する結果にもなっている。この弊害を避けることが現憲法第89条の趣旨ではないかとも主張する。実に興味深い見解である。著者の憲法論を前面に押し出した論稿も読んでみたいと思わせる内容であった。

『憲法改正試案集』
井芹 浩文
集英社新書
2008年5月16日発売
定価777円(税込み)
280ページ

【紅白歌合戦】マンネリ打破の曲順が白組の勝因

大晦日恒例の「第59回NHK紅白歌合戦」が2008年12月31日、東京・渋谷のNHKホールで開催された。テーマ「歌の力 人の絆」に相応しく歌を前面に出した番組となった。別室での生演奏の仕組みを紹介するなど歌番組としての工夫が見られた。

今回の特徴は歌唱の順序である。従来は、その年に勢いのあった初登場歌手がトップバッター、大物歌手が大トリを務めた。ところが、今回は浜崎あゆみがトップバッター、氷川きよしが大トリを飾った。これによってマンネリを打破し、歌の力で番組を盛り上げることに成功した。

特に大トリの氷川きよしが「きよしのズンドコ節」を熱唱することで、一体感を持って明るく締めくくったことは白組優勝の原動力になった。紅組もアイドル的人気を有するテクノユニットPerfumeや再結成したSPEED、「手紙 〜拝啓 十五の君へ〜」を感動的に歌ったアンジェラ・アキのように盛り上がりの要素はあった。しかし、順番的には中ほどに集中しており、審査時のインパクトは弱かった。

これに対し、白組は船のパフォーマンスで迫力を見せた北島三郎、別会場ならではの迫力あるパフォーマンスを見せたMr. Childrenのように後半の好演が光った。また、森進一の「おふくろさん」も歌唱禁止解禁後の披露ということで注目された。そして大トリの氷川きよしの熱唱で紅組に止めを刺した格好であった。
今年の紅白歌合戦に感じられたことはNHKのみならず、テレビ界を締めくくる番組との自負である。テレビの世界には他局の話はしないというお約束があるが、紅白歌合戦では他局も含めた2008年のテレビの集大成の様相を示した。

それはフジテレビ系のバラエティ番組「クイズ!ヘキサゴンII」から誕生したユニット「羞恥心with Pabo」が出場しただけではない。緒形拳を追悼するコーナーでは民放ドラマ「風のガーデン」が遺作であり、その主題歌が平原綾香が歌う「ノクターン」あることを紹介した。ジブリ映画のテーマ曲のコーナーもジブリと日本テレビの蜜月を踏まえればNHK的ではない。

この傾向については視聴率獲得のためのなりふり構わぬ手法と批判的に指摘されることもある。しかし、紅白歌合戦がNHKという一放送局だけではなく、日本のテレビ界の年末を代表する番組であるとの自負心から来る余裕と肯定的に評価したい。

他局の流行にも目を配った今回の紅白であるが、社会を振り返るという点では弱かった。ブラジル移民100周年と新宿・コマ劇場閉鎖くらいである。2008年はリーマン・ショックや派遣切りなど先行きの不安を強めた年であった。しかし、そのような要素は番組には見られなかった。前後半の間に挟まれたニュース番組ではボランティアが非正規労働者に炊き出し支援をしていると報じていた。番組内のお祭り騒ぎと非常に対照的であった。

唯一の救いはゲスト審査員の姜尚中・東京大学大学院教授の「仕事にあぶれている人達が歌で勇気付けられるといい」という感想であった。紅白歌合戦に暗い話題は相応しくない。しかし、非正規労働者の苦しみを別世界の話として切り離してしまうならば、紅白歌合戦は今を楽しめる状況にある人達だけの番組となってしまう。それは格差社会を肯定することになる。エンターテイナーは楽しませることが仕事である。不況だからといって深刻そうにするのは正しくないが、社会性を置き忘れてはならないと考える。

【かっぱ寿司】トロ尽くしの新春初売り

記者は2008年1月2日に、かっぱ寿司与野店(さいたま市)で寿司を食した。

かっぱ寿司はカッパ・クリエイト株式会社の運営する回転寿司のチェーン店である。高級そうなイメージのある寿司を庶民的にしたのが回転寿司であるが、かっぱ寿司は庶民的傾向を徹底している。

その特色は一般の寿司屋らしからぬメニューを充実させていることである。洋風のネタ(ハンバーグ、生ハムなど)やサイドメニュー(チキンナゲット、たこ焼きなど)、デザート(チーズケーキ、デザートなど)などである。生魚が苦手の人も含め、ファミリー層が楽しめる店になっている。

かっぱ寿司では「新春初売り」と称して年始から営業している。新春初売りキャンペーンでは、「自慢の大トロ食べ比べ」をキャッチコピーに「みなみまぐろとろ」「とろびんちょう」「とろかじき」などトロを中心としたネタを提供する。
握り寿司の代表格はマグロである。そのマグロが沢山あることは嬉しい。また、トロというと先ずマグロを想起するが、本来は肉の脂肪の多い部分を指し、マグロに限定されない。「とろサーモン」や「鴨とろ」など様々なトロを味わえることも魅力である。

記者が印象に残ったネタは「とろかじき」である。通常の握り寿司は一皿に2貫乗っているが、これは一皿に1貫しかない高級品である。カジキマグロは通常のマグロに比べて歯応えがあるものである。しかし、口に入れるとフワフワで、脂身が旨みとなって口の中に広がる。引き締まった脂身を味わうことができた。

記者が店に入ったのは13時半くらいという中途半端な時間にもかかわらず、満席状態で少し待つ必要があった。店を出た14時過ぎになっても待っている客は増加の一方という盛況振りであった。
満席の場合、受付のカウンターに名前を書いて待つ。順番が来たら呼ばれて席に案内される仕組みである。先着順に案内するのが基本であるが、人数や席の希望(カウンター席かテーブル席か)によって順番が前後してしまうことがある。その場合、アナウンスで「お席の関係で順番が前後しますが、○○様をご案内します」とフォローを入れている。一言付けるだけだが、嬉しい気配りである。

記者は東急不動産(販売代理:東急リバブル)から不利益事実(隣地建て替えなど)を説明されずにマンションを購入して裁判トラブルになった経験がある。その経験があるため、消費者の立場に立った企業姿勢は高く評価する。かっぱ寿司が正月から繁盛していることに納得できる味とサービスであった。

【ドラマ】「相棒 元日スペシャル」新しい相棒

テレビドラマ「相棒 元日スペシャル ノアの方舟」が2009年1月1日にテレビ朝日系列で放送された。「相棒」は紅茶好きの知性派変人・杉下右京(水谷豊)が活躍する人気刑事ドラマである。2008年5月1日に公開された映画「相棒 -劇場版- 絶体絶命!42.195km 東京ビッグシティマラソン」も大ヒットした。

相棒はタイトルの通り、杉下の相棒になる熱血漢の亀山薫(寺脇康文)との対照的なコンビが魅力であった。しかし、その亀山は「亀山薫 最後の事件」(2008年12月17日放送)で警視庁を退職する。一人だけの特命係となった杉下による最初の放送が今回の元日スペシャルである。

今回の放送はスペシャル番組に相応しい、どんでん返しの連続であった。地球温暖化阻止を提唱するエコテロ集団「ジャッカロープ」によるテロによって物語は幕を開ける。しかし、テロの背後には環境問題に乗じて私腹を肥やす政官業の癒着があることが明かされる。さらに約30年前の公害問題まで絡んでくる。前半に登場したヒントが後半の推理に活かされており、長丁場ながら最初から観ていなければ楽しめない工夫を凝らしていた。

米国同時多発テロ以降、「テロとの戦い」が錦の御旗になった感がある。テロとの戦いのためならば人権侵害も正当化できるという危険な傾向が見られる。これに対し、本番組が極悪非道のテロリストを潰せば平和になるという類の単純な価値観に汚染されていないことは評価できる。一方で過去の公害問題への復讐という動機は積極的には「相棒」らしい社会派、消極的にはマンネリ化と評価が分かれるところであろう。
注目されたのは杉下の相棒であるが、今回は姉川聖子・法務省官房長補佐官(田畑智子)である。これも「相棒=亀山」の印象が強いために好き嫌いが分かれるところである。法務省キャリアの姉川は、猪突猛進型で「人材の墓場」である特命係に押しやられた亀山とは対照的な存在である。

姉川は肉体派ではなく、頭脳派的な位置付けになる筈だが、推理力の冴え渡る杉下と組む以上、頭脳面ではなく、足で貢献することになるのは番組の宿命である。しかし、捜査経験のない姉川にできることは限られている。そのため、推理面では相棒というよりも視聴者に説明するためのワトソン的存在であった。それでも最後には犯人にタックルまでするようになった。

性格面では姉川は秘めた情熱を有する人物である。不法投棄の国家賠償訴訟では住民の救済を願い、被害住民の立場に立つ法務大臣を守ろうとする。この点で亀山と共通する熱い人間である。結局のところ、杉下と好対照をなす相棒となるには亀山的にならざるを得ない。姉川のように法務省キャリアという亀山とは対照的な設定にしたとしても、性格や行動は亀山的でないと「相棒」としては座りが悪い。

しかし、新しい相棒が小亀山になってしまうと、マンネリ打破のリニューアルにならない。既存の亀山ファンからは「亀山の方が良かった」とブーイングされるであろう。姉川は法務省に戻ることになり、杉下の新たな相棒は不明なままである。どのような人物が新しい相棒になるのか、しばらく「相棒」から目が離せない。

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