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林田力『東急不動産だまし売り裁判』新聞 小説

 

第141回芥川賞・直木賞 選考委員記者会見... 1

直木賞候補作『乱反射』を読む... 4

【書評】『乱反射』リアリティある平凡... 5

小説フランス革命... 6

『革命のライオン』少しの勇気が革命を起こす... 6

【書評】『バスティーユの陥落』、口火を切る勇気... 7

【書評】『聖者の戦い』怪物タレイラン... 8

『聖者の戦い 小説フランス革命V』を読んで... 9

【書評】『議会の迷走 小説フランス革命4』の感想... 10

書評... 11

【書評】『バッド・ドリーム』日本政治の闇をユーモラスに描く... 11

『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』黒井勇人著... 12

『ヒーズールの夜明け』を読んで... 13

海外小説... 15

【書評】『銀河おさわがせ執事』ドタバタSFコメディ... 15

『おり姫の日記帳』を読んで... 16

【書評】『猫の町』現実に空想が侵食する恐怖... 17

ノンフィクション... 18

『アジアに架ける橋―ミャンマーで活躍するNGO―』を読んで... 18

【書評】『密教福寿開運法』アドバイスと開運呪文... 19

【書評】『美しき日本人は死なず』感動的な人間物語... 20

『東野圭吾の謎 東野作品の研究・考察集成』の感想... 21

受験... 22

『東大理3 合格の秘訣24』を読んで... 22

『3時間でわかる! LEC式 はじめての宅建教室』を読んで... 23

『3時間でわかる! LEC式 はじめてのFP教室』を読んで... 24

 

 

第141回芥川賞・直木賞 選考委員記者会見

日本文学振興会が主催する第141回芥川賞・直木賞(2009年度上半期)の選考委員会が2009年7月15日、新喜楽(東京都中央区築地)にて開催された。磯崎憲一郎『終の住処』が芥川龍之介賞、北村薫『鷺と雪』が直木三十五賞を受賞した。

芥川賞は19時頃に発表され、山田詠美・選考委員が会見した。山田氏は『終の住処』を「小説として一番構築されている。言葉を考えている」と評価した。一方で「どうかという意見もあった」という。否定意見は「インテリジェンスだけで押している。ここまでやるならもっとやってほしい」と主張した。しかし、時間軸を考えた小説らしい小説であると評価する見解が上回った。エピソードだけでなく、自分で培ってきた小説でしかあり得ない言葉があるとする。

磯崎氏は過去に『眼と太陽』が第139回芥川賞(2008年上半期)候補作となった。それとの比較について山田氏は『眼と太陽』の方が題名も良いし、印象も強烈と持ち上げる。しかし、『終の住処』では自分の世界が創られたとする。構成については主人公の過去をもっと出すべきではないかとの意見もあったが、過去をブロックのように積み重ねる試みを評価した。

芥川賞の発表から1時間遅れた20時頃に直木賞が発表された。会見した浅田次郎・選考委員は『鷺と雪』を昭和初期という難しい時代に取り組んだ挑戦と評価した。昭和初期は自身が生まれていないが、実体験している世代の読者もいる時代であり、作家にとってはハードルが高い。この時代を書くには勇気がいると説明した。

また、北村氏が教師をしていたためか、女学生のキャラクターが活き活きしていると評した。ストーリーも後半に行くほど盛り上がる。直木賞は新人賞とはいえない状態であるが、北村作品はそれに見合うプロの作品とする。文体・作風が定まっており、安心して読める。長い小説が多い中で余分なことを書いていない。和歌や俳句のように短い言葉で大きな世界を表現することが日本文学の伝統であるとした。

『鷺と雪』は「ベッキーさんシリーズ」というシリーズ物の3作目である。同シリーズの2作目『玻璃の天』は第137回直木賞候補作であった。連作物の作品を単独で評価することは困難が伴う。1作目から読んでいれば分かることも途中の作品から読み始めた読者には不自然に思えるためである。これが第137回の選考では『玻璃の天』に不利に働いた可能性を浅田氏は率直に認めた。これに対して今回は第137回の選考で前作を読んでいるため、連作物としての不利はなかったとする。但し、あくまで一つの作品としての評価であり、シリーズ物として評価したわけではないと強調した。

ベッキーさんシリーズ3部作の中で『鷺と雪』はミステリー色が薄いが、この点は選考に影響しなかったという。むしろ浅田氏はミステリーに詳しくないので読みやすかったという。ミステリーとしてではなく、時代物として読んだ。史実にある事件を解説なしでストーリーにサラッと入れる手法は勉強になったと賞賛した。

 

芥川賞

今回の候補作は以下の通りである。

・磯崎憲一郎『終の住処』新潮6月号

・戌井昭人『まずいスープ』新潮3月号

・シリン・ネザマフィ『白い紙』文學界6月号

・藤野可織『いけにえ』すばる3月号

・松波太郎『よもぎ学園高等学校蹴球部』文學界5月号

・本谷有希子『あの子の考えることは変』群像6月号

磯崎作品と戌井作品、本谷作品が1回目の投票で残り、2回目の投票で過半数を得た磯崎作品に受賞が決まった。17時の選考開始から発表までに2時間を要したが、山田氏は磯崎作品に決まった後に選考委員で小説論が盛り上がったために遅れたという。

1回目の投票で次点であった本谷作品については読んでいて面白いが、小説でやる必要があるか疑問とした。

戌井作品は「もう一冊読んでみたい。エンタメ的な面白さがある」とする一方で、「冗漫、完成されていない」との厳しい評価が出た。投票は○か×かに分かれ、△はほとんどなかったという。

ネザマフィ作品については第139回芥川賞を受賞した楊逸『時が滲む朝』と比べ、そこまでのインパクトには至っていないとした。シリン氏は外国人候補者としてマスメディアからは注目を浴びたが、選考委員会では外国人であることは話題にもならなかったという。

藤野作品は怖くて面白いが、前半が長く、印象に残らなかったと評した。

松波作品は石原慎太郎・選考委員が面白いと言ったが、評価は低かったとする。

今回はイラン人のネザマフィ氏や演劇畑の戌井氏・本谷氏のように外国人や異ジャンルの候補者がいることが特徴である。また、受賞した磯崎氏だけが1960年代生まれで、他の候補者は70年代または80年代生まれという世代的な開きがある。この点について、山田氏は「ジャンルや国籍は意識していない。選考委員は候補者の年齢を知らないと思う。芥川賞に来る作品は公平に読み、作品本位で決めた」と強調した。

 

直木賞

今回の候補作は以下の通りである。

・北村薫『鷺と雪』文藝春秋

・西川美和『きのうの神さま』ポプラ社

・貫井徳郎『乱反射』朝日新聞出版

・葉室麟『秋月記』角川書店

・万城目学『プリンセス・トヨトミ』文藝春秋

・道尾秀介『鬼の跫音』角川書店

第1回投票を通過したのは北村作品、西川作品、葉室作品の3作である。

西村作品が受賞作に次いで評価が高かった。西村氏は映画畑の人だが、その作品は内容に映像が感じられない、はっきりした文であったという。シナリオを水増ししただけの小説が多い中で、はっきりした小説であった。一瞬のシーンの切り取り方が上手い。お祭りでバスの運転手がイカをクチャクチャ食べている姿などワンシーンが印象的であり、自分には書けないとした。

西村氏の巧みさは良書を沢山読んできたためではないかと分析した。現代はパソコンが普及しているため、執筆することのハードルは低くなり、想像力があれば小説を書けてしまう。しかし、その種の小説と西川作品は異なり、西川氏は小説というものを知っていると評価した。

但し、「細かな点でブレがある。やはりシナリオ的ではないか」との批判意見があり、今一歩というのがピッタリと評した。その上で映画監督と小説家の二足の草鞋を履き続けて欲しいとエールを送った。

葉室氏については一作毎に飛躍的に上達しており、大変成長力のある作家で常に次回作に期待できると評した。しかし、相対評価では上の2作品に譲るとした。

貫井作品は平凡な家庭の平凡な生活が長過ぎると切り捨てた。あまりにも判で押したような平凡な生活が描かれているが、いくら平凡な家庭でももっと色々ある筈と評した。

万城目作品についてはナンセンス小説と位置付け、荒唐無稽な作品でもそれを担保するリアリティが必要と述べた。

道尾作品は才能を認めるとしつつ、ホラー小説としては楽な書きかたをしていると評した。こじんまりしたところで納得して欲しくないと期待を込めた。

 

DSCF0481.JPG 会見する山田詠美・芥川賞選考委員

DSCF0487.JPG 会見する浅田次郎・直木賞選考委員

DSCF0509.JPG 受賞決定後、東京會舘で会見する磯崎憲一郎氏(左)と北村薫氏

 

直木賞候補作『乱反射』を読む

本書は無関係な人々のエゴイスティックな行動が積み重なって幼児を死に至らしめる悲劇を描くエンターテインメントである。第141回直木三十五賞の候補作となった。

本書は別々に進行していた物語が実は互いに関連があったというジグソーパズル的な手法を採っている。但し、意外性をウリにするジグソーパズル的なミステリーとは2点異なる。

第一に本書は冒頭で「あるひとりの幼児の死をめぐる物語」と宣言しており(3ページ)、読者は別々の話が無関係でないことを予見しながら読み進めている。

第二に本書は中盤で収斂させ、後半では主人公に改めてパーツを一つ一つ当てはめさせている。このため、クライマックスで全てのパーツが収まるべきところに収まり全体像が明らかになるというよくあるパターンとは異なる。

本書の特徴は意外性以上に本書の取り上げたテーマの重さにある。当人達にとっては些細なものと感じるマナー違反の連鎖によって死亡事故は起きた。登場人物達が下らないエゴに基づいて行動しなければ幼児が死ぬことがなかった。しかも自らの行為が死亡事故の遠因になったという事実を指摘された後も当事者達は保身と責任逃れに終始するばかりであった。加害の自覚さえないような人間達によって息子が殺されたとなれば遺族は浮かばれない。

人間は悲劇が起きると、誰か悪意を持った人間が悪意を実現するために行動した結果であると考えたくなる。悪人がいるならば、自分達とは違う向こう側の人間として心置きなく糾弾できるからである。しかし、現実社会の悲劇は明確な悪意があるのではなく、本書の登場人物のように加害の自覚さえないような人間達が身勝手な理屈でモラルに反する行為を積み重ねた結果であることが少なくない。

たとえば私は耐震強度偽装事件を想起する。耐震偽装事件が報道された当初は、鉄筋を抜いたマンションを建てることで暴利を上げる不動産業者や建築士、施工会社の悪意と建築確認検査機関・自治体・国土交通省・政治家を巻き込んだ陰謀があると考えられた。ところが、実態は不動産業者や建築士、施工会社、確認検査機関らの怠慢や無責任が複合した結果であった。そして彼らは皆、本書の登場人物と同じく保身と責任逃れに終始する小物ばかりで、耐震強度偽装物件の購入者の損害を回復しようとはしなかった。

この点において本書は紛れもなく社会派作品である。本書の登場人物は傲慢、見栄、責任回避、無気力など人間の詰まらない部分が極端に肥大化し、紋切り型に描かれているきらいがある。この点では社会派と呼ぶには皮相的である。しかし、強烈な悪意がなくても下らないエゴから生じた行動が大きな悲劇を生むという社会の真実を突いている点に本書の社会性がある。

本書はやるせない気持ちにさせられる作品であるが、そこに救いがあるとすれば主人公の口を通して真相を加害者達に認識させていることである。身勝手なエゴが思いもよらない悲劇の原因となることは往々にしてあるとしても、加害者はおろか被害者さえも因果関係を認識せずに終わってしまうケースが少なくない。

これに対し、本書の加害者達は謝罪を拒否し、主人公を失望させたが、それでも事実を知ったことにより、彼らの人生は従前とは異なるものとなった。主人公が期待するレベルには到底及ばないとしても、幼児の死に対して一定の責任を分担する結果となった。理不尽な悲劇に見舞われた被害者にとって泣き寝入りでもリセットでもなく、真相の究明が慰謝になることを本書から実感した。

 

著者:貫井徳郎

出版社:朝日新聞出版

定価:1800円+税

発行日:2009年2月28日

 

【書評】『乱反射』リアリティある平凡

本書(貫井徳郎『乱反射』朝日新聞出版、2009228日発行)は2009年上半期の直木賞候補作となった社会派エンタテインメント作品である。

物語は中々幼児の死に到達しない。前半は相互に関係のない人々の優越意識や嫉妬心、怠慢、無気力に彩られた日常生活が平行して進行する群像劇である。無関係な人々の不満や苛立ちの毎日が延々と続くような感がある。登場人物達は皆、平凡な普通の人達であるが、負の感情が非常に強い。

たとえば年下の人間の話を聞かない「尊大な退職者」(本書の帯の表現。以下同じ)や責任回避だけを考える「怠慢な医師」、「無気力な公務員」である。一方、「良識派の主婦」と紹介されている人物は近所のマンション建設反対運動を応援し、道路拡幅による街路樹の伐採に反対しようとするなど他の人物に比べるとまともそうな人物である。しかし、読み進めると誰かが進める反対運動を応援するだけで、自分が先頭に立って反対運動を行うのは嫌という情けない人物であることが分かる。

そのような人々の「自分さえよければいい」というルール違反やモラル違反が2歳児の死亡事故をもたらした。記者は大手不動産会社から不利益事実(隣地建て替え)を隠してマンションをだまし売りされた経験がある。隣地を建て替えるという情報は地上げブローカー、売主の不動産会社、販売を代理した不動産流通会社が皆、知っていたにもかかわらず、消費者の利益に立って行動した関係者は一人として存在しなかった。この経験があるために二歳児の父親の感じた無責任の連鎖に対する憤りは強く理解できる。

後半は息子を亡くした父親による真相の追求である。ここにもリアリティがある。二歳児の父親は告発するウェブサイトを開設する。しかし、公開しても大海に一石を投じた程度で期待していた反響はなかった。そのため、同種の被害者のウェブサイト管理人にリンクを求め、ブログにコメントを残すなど努力をすることで訪問者数を増加させた(487頁)。

ここには告発サイトのリアリティがある。ネットに対する理解が浅い人はネットを万能視するか、全否定するかの両極端に走りがちである。しかし、実際は、そのどちらでもない。ウェブサイトを作っただけで大きな反響を呼ぶわけではない。しかし、継続することで少しずつでも広げていくことができる。

記者の大手不動産会社との裁判についても、裁判そのものに対する注目よりも、裁判を契機として「営業マンの対応が高慢」「頼みもしないDMを送りつけてくる」などの不動産会社に対する批判が起こり、ビジネス誌から炎上と報道された(「ウェブ炎上、<発言>する消費者の脅威−「モノ言う消費者」に怯える企業」週刊ダイヤモンド20071117日号39頁)。

告発サイトを開設しただけではだけでは広がらないという実態を把握していることに感心した。このような細部のリアリティの追求が作品の質を高めている。

 

小説フランス革命

『革命のライオン』少しの勇気が革命を起こす

本書(佐藤賢一『革命のライオン 小説フランス革命I』集英社、20081130日発行)はフランス革命を描く歴史小説の第1巻である。全国三部会の招集からルイ16世が軍隊をヴェルサイユとパリに集結させ、一触即発の状態になるまでを描く。

著者の佐藤賢一氏は東北大学大学院で西洋史学を専攻し、『王妃の離婚』『二人のガスコン』などフランスを舞台とした歴史小説を得意とする作家である。近年は近未来のアメリカを描く『アメリカ第二次南北戦争』、織田信長を女性として描いた『女信長』などのユニークな作品を発表している。その著者が原点とも言うべきフランスに回帰した大作が「小説フランス革命」シリーズである。

本書のタイトルにあるライオンはフランス革命初期の指導者・ミラボーを指す。このミラボーとロベスピエールを中心に物語は進む。本書ではミラボーが革命に傾倒した背景を表では進歩派を気取っているものの、家族には家父長的な暴君であった父への反発として描いている(38頁)。

往々にして世の中を変える原動力は個人的な体験に基づく私憤である。記者が不動産問題を市民メディアに記事を発表するようになった契機も大手不動産会社から不利益事実(隣地建て替えなど)を説明されずに問題物件を騙し売りされたことであった。過去を水に流すことを是とする非歴史的な民族性を特色とする日本では、過去を忘れて心機一転する人を度量があると持ち上げる傾向がある。しかし、そのような人間ばかりでは反省も改善も進歩もない。何かを成し遂げるためには原点となった怒りや恨みを持続させることが必要である。

ミラボーはフランス全土に湧き上がる第三身分のアンシャン・レジーム(旧体制)への不満を実感するが、民衆のエネルギーだけでは方向性が定まらず、民衆を導く指導者が必要であると考えていた(47頁)。日本でも封建的な幕藩体制が行き詰った江戸時代の幕末には「ええじゃないか」が各地で発生した。しかし方向付ける指導者を持たなかったために世直しに向けての社会運動にはならず、エネルギーを発散させるだけで終わってしまった。

本書の特色は、表向きは強気な主張をしても、内心では軍隊に弾圧されるのではないかと怯えていた国民議会の議員達の心理を情けないほどリアルに描いていることである。議員達は決してスーパーマンではない。しかし、ほんの少し踏み出す勇気があれば世の中を大きく変えることができる。本書で描かれた革命前夜のフランス社会の行き詰まりは現代の日本に酷似する。強い人間でないとしても信念を持ち続けることが大切であると感じた。

 

【書評】『バスティーユの陥落』、口火を切る勇気

本書(佐藤賢一『バスティーユの陥落 小説フランス革命II』集英社、20081130日発行)はフランス革命を描いた歴史小説の2作目である。本書ではバスティーユ襲撃からヴェルサイユ行進までを扱う。前巻のミラボーやロベスピエールに加え、本書ではパリ市民に蜂起を促したデムーランがフィーチャーされる。

著者の佐藤賢一氏は濃厚な性的表現が多いことで知られるが、これまでのところ「小説フランス革命」シリーズでは抑え気味である。しかし、ミラボーがデムーランを扇動するシーンなどで卑猥な表現が使われている(48頁)。性愛シーンでないにもかかわらず、性的な表現が盛り込まれているところに著者らしさが感じられる。著者の描く人間像は、人間が性の衝動(リビドー)に支配されていると主張するジークムント・フロイトの人間像を想起させる。

パリ市民の政治への不満は爆発寸前であったが、知識人は批判するだけで、自分からは行動しない臆病者ばかりであった。しかし、ミラボーに焚き付けられたデムーランは「武器をとれ」と扇動する。この演説が契機となって、パリ市民は武装闘争に突入する。

私は新築マンションで大手不動産会社と裁判闘争をした経験がある。裁判を続ける中で同種の被害に遭った被害者にも数多く出会った。その中には行動を起こす意思はなく、愚痴を聞いてくれる仲間が欲しいだけとしか考えられない人もいた。真剣に相談に乗った自分が馬鹿らしく感じられるほどであった。それ故に行動しない知識人に対するミラボーの失望には共感するし、革命への口火を切ったデムーランの意義も高く評価できる。

前半のバスティーユ襲撃は変革を求める男達の熱い情熱で突っ走る。デムーランの感情の揺れや興奮の高ぶりは滑らかな筆致で書かれ、読者の胸も高揚させる。ところが、封建的特権の廃止宣言や人権宣言では様相が異なる。理想の実現にまい進するロベスピエールと覚めた目で見守るミラボーを対比させているためである。ミラボーの冷ややかな姿勢のために、人類の金字塔とも言うべき人権宣言にも高揚する気持ち一辺倒で読み進めることはできなかった。

ミラボーは議会の独断専行の危険性を以下のように指摘する。「自らの保身に有利な法律ばかりを通過させて、実質的な特権を築き上げて、あれだけ貴族を責めながら、自らが新たな貴族と化すだけだ」(212頁)。これは世襲議員ばかりになった現代日本への痛烈な批判にもなる。

ヴェルサイユ行進では男達(ミラボー、ロベスピエール、デムーラン)は傍観者に成り下がっている。女性を中心としたパリ市民がヴェルサイユ宮殿まで行進し、フランス国王ルイ16世をパリに連行した事件である。この事件を本書では支離滅裂な女性たちの行動の結果として描いている。混迷を深めるフランス革命の行方が気がかりになる終わり方であった。

 

【書評】『聖者の戦い』怪物タレイラン

本書(佐藤賢一『聖者の戦い 小説フランス革命III』集英社、2009330日発行)はフランス革命を描いた歴史小説の3作目である。

本書では新たにタレイランが主要人物として登場する。タレイランは由緒を辿ればフランス王家に匹敵するほどの大貴族の生まれである。革命当時は自身もオータン司教として特権身分の座にあった。

旧体制を代表する立場にあるタレイランはフランス革命では革命を支持する側に回った。その論理を本書は興味深く描いている。絶対王政下では大貴族であっても王の家臣でしかない。しかし、自身が制定に参加した人権宣言で人間は平等とすることで、誰もが一番になれる時代が到来したとタレイランは考えた(16頁)。「究極の貴族主義は革命をこそ歓迎する」との発想にはタレイランの怪物ぶりを示している。

このタレイランは自らも聖職者でありながら、教会財産の国有化や聖職者の特権廃止などを強引に進める。それに対し、聖職者側は反発し、容易には進まない。表題の「聖者の戦い」は、この対立を示している。進退窮まったタレイランはミラボーを仲立ちとして抵抗勢力の首領・ポワジュランと話し合いの場を持つ。

革命そのものには反対ではなく、宗教としての神秘性を維持したいポワジュランと、それを理解しようとしない現実主義者のタレイランの噛み合わない議論が興味深い。ここではミラボーが間に入ることで妥協点を見出せた。しかし、相手の理念を理解しないことからの行き違いで、協調できる者が対立することも現実には起こりうる。

このタレイランはフランス革命期よりも、ナポレオン失脚後のブルボン復古王政期の外務大臣として歴史に名を残している。当時のフランスはナポレオン侵略戦争の敗戦国であった。にもかかわらず、彼はブルボン王家も被害者とすることで、フランスの損失を最小限にとどめた。

タレイランを名外相とする意識は西欧世界に共通する外交感覚であり、今日の国際社会の価値観に続いている。この外交感覚に則るならば、第二次世界大戦の侵略国・敗戦国であり、連合国(戦勝国)の価値観を受け入れた日本政府の高官(田母神俊雄・航空幕僚長)が侵略戦争を正当化する主張をしたことは、本人の信念の是非は別として、国際社会における日本の国益を大きく損なうものであったことは確かである。

後世には名外相と称えられるタレイランも本書では自尊心ばかりが肥大化した存在である。発想はユニークであるものの、他者を説得するという感覚に乏しく、ミラボーの助け船で何とか多数派工作に成功できた状況である。今後、タレイランが名外相としての片鱗を見せるのかも『小説フランス革命』シリーズの見どころの一つである。

 

『聖者の戦い 小説フランス革命V』を読んで

本書はフランスを舞台とした歴史小説を得意とする著者による『小説フランス革命』シリーズの1冊である。全10巻を予定しており、その中の第3巻である。本書ではヴェルサイユ行進などの民衆の実力行使が一段落し、その後の憲法制定国民議会の混迷を描く。

第1巻『革命のライオン』で描かれたアンシャン・レジームの行き詰まりは閉塞感漂う現代日本のアナロジーと感じられる。同様に本書での国家の交戦権についての議論も、憲法の謳う徹底した平和主義が骨抜きにされつつある日本において参考になる内容となっている。

憲法制定国民議会とは文字通り憲法を制定するための議会である。そこでは宣戦・講和の権限を国王が持つべきか、議会が持つべきかで対立した。右派(保守派)は「防衛は急を要する」ことを理由に国王大権に属すると主張し、左派(愛国派)は「戦争をするか、しないか、それを決めるのは国民」として議会の権限であると主張した(161ページ)。

この議論が行われたのはフランスの友好国であるスペインとイギリスが一触即発の危機にあった時期であった。そのため、艦隊に出航待機命令を出し、イギリスを牽制した国王政府への支持に議会内も傾いていた。これに対して、左派のラメット議員は国王が議会に諮らずに派兵の準備を進めた手続き上の問題を指摘する。状況に流されず原則論から問題点を明確にする姿勢は付和雷同しがちな日本社会にとって眩しい存在である。

左派が国王の交戦権に反対する論理構成が興味深い。国王が宣戦・講和の権限を持てば、国王は自分の意思で軍隊を動員でき、その軍隊が再び国民を弾圧することに使われる可能性があるとする(163ページ)。ロベスピエール議員は「戦争とは常に専制君主を守るための営みだ」と喝破する(166ページ)。

平和主義は空想的と非難されることがある。しかし、有事に軍隊が国民を守ってくれるとは考えない点で真の平和主義者は現実主義者である。現実問題として近代憲法は最大の人権侵害の主体を自国政府と位置付けている。国家が戦争を行わないようにすることは理想論ではなく、権力の害悪を直視した現実論である。

日本国憲法が平和主義を憲法の3原則の一つにまで高めた理由は平和がなければ国民主権も基本的人権も画餅に帰すと考えたためである。ここに日本国憲法の斬新さがあるが、戦争と平和の問題はフランス革命の時代においても内政上の争点であり、民主主義や人権に直結する問題であると理解できた。

 

著者:佐藤賢一

出版社:講談社

定価:1500+税

発行日:2009年3月30日

 

【書評】『議会の迷走 小説フランス革命4』の感想

本書(佐藤賢一『議会の迷走 小説フランス革命W』集英社、2009年9月30日発行)はフランス革命をテーマにした歴史小説『小説フランス革命』シリーズの第4巻である。本書ではナンシー事件からミラボーの死までを対象とする。

著者は大学院で西洋史学を専攻し、フランスを舞台とした歴史小説を得意とするが、平板な歴史叙述ではなく、登場人物の熱いモノローグが特徴である。『小説フランス革命』シリーズでもミラボーやロベスピエールなどアンシャン・レジームを打破し、革命を成し遂げようとする熱い人物が登場する。

しかし、この巻の前半では俗物的なモノローグが目に付く。「武器を取れ」の演説で市民に放棄を促したデムーランは恋人リュシルとの幸福な結婚生活を何より大切にする小市民的発想に落ち着いた。タレーランに至っては名門の生まれの人間として他人に頭を下げるのは嫌だという子供じみた考えから後先考えずに行動する。

彼らは自分達の考えが俗物的であることを自覚しつつも、理屈をこね回して正当化する。その思考過程がモノローグとして書かれるため、気持ちが高揚するような読後感ではない。しかし、万人がカッコいい人間ばかりではないという社会の現実を反映したリアリティがある。

後半になるとミラボーとロベスピエールという2人の英雄の想いが交錯し、著者らしさが出てくる。ミラボーは王族の亡命を禁止する法案に反対する。王族にも人権はあり、亡命する権利があるためである。ジャコバン派は反革命の脅威がある有事であることを理由に亡命禁止法を正当化したが、ミラボーは「独裁者が好んで持ち出す理屈が、世の治安であり、社会の安寧である」と批判した(203ページ)。これは「テロとの戦い」を名目に人権の制約が正当化された現代への警鐘にもなる。

史実ではロベスピエールは恐怖政治に突き進むことになる。この巻でなされたミラボーとロベスピエールの対話やミラボー死後のロベスピエールの感傷は、その後を暗示していて興味深い。まだ先になるが、著者が恐怖政治をどのように描くのかも楽しみである。

 

関連記事:『聖者の戦い 小説フランス革命3』の感想

http://www.book.janjan.jp/0908/0908259301/1.php

 

書評

【書評】『バッド・ドリーム』日本政治の闇をユーモラスに描く

本書(落合誓子『バッド・ドリーム 村長候補はイヌ!?色恋村選挙戦狂騒曲』自然食通信社、2009830日発行)は日本海に面する架空の小さな村を舞台とした村長選挙の物語である。公共事業の利権で腐敗した日本政治の実態をユーモラスに描く。

産業廃棄物処分場プロジェクト誘致をめぐり、村は開発優先の賛成派と環境保全の反対派に2分される。賛成派は急死した全村長一家の飼い犬を立候補者にし、買収や反対派への嫌がらせなど何でもありの選挙戦を展開する。

著者は石川県珠洲市の市議会議員であり、珠洲原発の問題について書籍を刊行している(『原発がやってくる町』すずさわ書店、1992年)。本書はフィクションであるが、珠洲原発建設をめぐる賛成派と反対派の対立の経験が活かされているように思われる。

反対派と賛成派を分ける要素は反対派住民の言葉が象徴する。「嫌なもんは嫌という人種と、金にでもできればという人種」である(117頁)。救いがたいのは「金にでもできれば」と考える賛成派の思考に合理性がないことである。

日本人には「(家族が)赤紙一枚で殺されても、まだお上にくっ付いてさえおれば、お上が良いようにしてくれて美味い目にあうと考える」おめでたいほどのお人よしが多い。だから何度だまされても懲りることがない。日本で革命が起きない理由は、この点にあると考える。その意味では反対運動は社会を変える第一歩になる。

選挙戦で賛成派側は現金配布、新聞社を騙った偽調査、反対派支援者への嫌がらせの手紙など手段を選ばない実態が描かれる。反対派が確かな証拠から警察に訴えても、警察は取り上げようとしない(151頁)。ここにも日本の暗い現実が描かれている。

本書の優れたところは選挙戦終了後に反対派の主だったメンバーに自問自答させていることである。それによって彼らは反対運動への確信を深めていく。これこそが市民運動を一過性で終わらせないために必要な要素である。

 

『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』黒井勇人著

ブラック会社 2ちゃんねる 匿名掲示板

◇読者レビュー◇ 2ちゃんねるも格差社会

本書はインターネット掲示板「2ちゃんねる」のスレッドを書籍化したものである。中卒ニートの主人公「マ男」が母の死をきっかけに一念発起して就職したIT企業での過酷な体験を描いた作品である。出版社がスレッド文学と位置付けているとおり、全編「2ちゃんねる」のスレッドの書き込みを書籍化した形になっている。

もっとも「2ちゃんねる」の書籍化とはいうものの、『電車男』とは趣を異にする。『電車男』では電車男がエルメスとのデートの場所などについて相談するために掲示板を利用した。掲示板のやり取りが、物語を形成する軸になっている。電車男とスレ住人の共同作業によって生まれた物語である。故に『電車男』ではスレッドの書き込みを、そのまま書籍化する意味があった。

これに対し、本書はスレ主であるマ男の体験談が中心である。それ以外の住民の書き込みは体験談に対する感想や突っ込みであり、ストーリー展開を左右するものではない。この点でスレッド文学の形式を採る必然性はない。むしろストーリーが実に面白く作られており、一般の小説形式でも十分に楽しめる水準である。このような作品が「2ちゃんねる」から生まれた点に、匿名掲示板の文化発信力の高まりが感じられる。

本書はタイトルや出版社の紹介文を読む限り、ブラック企業の過酷な労働環境をテーマとしたものと受け取ってしまいがちである。その種の描写が多いのは確かであるが、むしろ本題は主人公の職業人としての成長を描くことにある。

実際のところ、マ男は飲み込みが早く、かなり優秀な人物である。本書が示すように文才もある。高校中退で就業経験なしという設定が嘘臭く思えてしまうほどである。また、ブラック企業といいつつ、かなりスキルの高い同僚もいる。最底辺の職場の苦しみというよりも、ソフトウェア開発現場の実態を誇張しつつも生々しく描いたところが共感を集めたのではないか。

従って格差社会・ワーキングプア・過労死などの問題意識から本書を読むならば肩透かしとなる。ポテンシャルのある人物が厳しい環境に揉まれて成長したという成功物語ではワーキングプアへの応援歌にはならない。

むしろ苛酷な労働環境を生む社会的矛盾から目をそらし、本人の頑張りで克服するという教訓を導き出すならば、悪しき日本的精神論に堕していると批判の対象になる。それは本物のワーキングプアやニートを、ますます絶望に追い込むだけである。

秋葉原通り魔事件で逮捕された加藤智大容疑者は匿名掲示板で行った殺人予告に対し、反応がなかったために「無視された」と感じたという。一方で本書のような面白い内容ならばレスがつくし、反響が大きければ書籍化までされる。匿名掲示板は誰でも書き込めるが、皆が同じ匿名者として平等に扱われる訳ではない。

例えば「2ちゃんねる」では企業への告発情報が溢れかえっているが、ほとんどが見向きもされない。一方でマンションの売買代金返還訴訟を契機とした東急リバブル・東急不動産への批判は裁判の枠組みを越えて大きく広がり、ビジネス誌に炎上と紹介されるに至った(参照「住民反対運動を招く東急電鉄の不誠実」)。

考えてみれば当たり前であるが、書き込み内容に価値がなければ反響を呼ぶことはない。現実社会から疎外されている人が匿名掲示板だから受け入れられるとは限らない。ともに苛酷な職場環境への不満を出発点としつつ、書籍化までされたマ男と、匿名掲示板からも疎外された加藤容疑者の落差は大きい。「2ちゃんねる」もまた、格差社会の一翼を担っているという現実を実感した。

 

新潮社

2008627日発売

定価1470

 

コメントありがとうございます

ご指摘のとおり、読み手が価値ある書き込みと、つまらない書き込みを同列には受け取ることはありません。それは匿名掲示板でも同じです。むしろ、書き手のブランドが通用しない匿名掲示板だからこそシビアに内容で評価されます。

一方で、現実社会から疎外された人が匿名掲示板からも疎外されたということは精神的に大きなショックだったのではないかと感じました。

 

『ヒーズールの夜明け』を読んで

本書はヒーズール国のマホロバ村を舞台とした物語である。ヒーズール国は、ほぼ単一民族により構成された架空の島国で、マホロバ村は都から遠く離れた小村である。

ヒーズール国は明らかに現代日本をモデルとする国である。制度上は民主主義体制であるが、真に国民のための政治が行われているとは言い難い。特に日本の年金問題と同様、社会保険料の不正・無駄遣いが大きな問題となっていた。

これに対し、マホロバ村は理想郷と位置付けられる。村人達は旧来からの社会主義的システムを維持し、平和に穏やかに暮らしていた。また、村では外部からの攻撃に対し、極力穏便で最善の策を講ずるという掟を守り、資本主義市場経済を採る国全体との軋轢を少なくするように努めてきた。たとえ理不尽な目に遭っても、仲間内で助け合いながら切り抜けてきた。

しかし、社会保険料の不正や無駄遣いに代表されるヒーズール国の政治に対し、マホロバ村出身者達の不満は限界に達した。他者の苦しみを傍観することも自分達への不正を放置することもできないと主張し、国政改革を志向するようになる。

本書はユートピア文学に分類できるが、既存のユートピア文学とは異なる特徴が見られる。ここでは三点指摘する。

第一に外部社会との関係である。伝統的なユートピアは外界から途絶した完結した社会として描かれる傾向にあった。しかしマホロバ村では村に必要な専門知識を得るために若者を外部に送り出すなど、外部社会と一定の関係を有している。

さらに村の人口が増え過ぎて自然環境を破壊しないように、あえて村外で生活する人々も存在する。これはユートピア社会が、それだけで成り立つのかということを考えさせられる内容である。そして村外で暮らすマホロバ村出身者は出鱈目なヒーズール国の政治に怒り、良い社会にするために行動を開始する。

第二にマホロバ村における管理の薄さである。伝統的なユートピアは管理社会として描かれることが多い。社会全体が管理された収容所のようで、個人の自由を尊重する立場からは、むしろ理想社会の対極に位置する。それに比べるとマホロバ村は管理するための機構を持ちようがない小さな村である。

また、マホロバ村では正月に集会場に村人が集まり、各人が順番に壇上で出し物をする行事がある。これは大きな声で意図を伝えることで、社会に対する自己主張の仕方を学ぶ教育効果を意図しているという。このようにマホロバ村が、共同体の調和を乱さず、管理に従うだけの住民を求めていないことは注目に値する。

但し、それでもマホロバ村には管理社会的な面があることに注意すべきである。生活必需品は、代金の支払いなしで住民の必要に応じて配分されるが、いつ、誰に、どれだけ配分したかは記録される。これによって特定人に過度又は過少の配分がなされ、不公平感が生じるのを回避している。

これは自分が何を消費したかを村が記録していることを意味し、見方によっては恐るべき管理社会ということもできる。現実社会では企業が商品に無線ICタグ(RFIDタグ)を付して管理することに対し、消費者団体が消費者のプライバシーを侵害すると抗議したことがある。

それでもマホロバ村では管理されている感覚を持たなくて済むのは、顔の見える小さな村内だからという面があろう。面識のない官僚機構と顔の知っている隣人とでは、仮に同じような管理が行われても、受け止め方が異なるのは当然である。

この点はユートピアを考える上で重要な意味を持つ。ユートピアは個々人の際限のない欲望を制御する社会である。そのために管理社会として描かれる傾向にあるが、それを国家レベルで行うならば官僚に権力が集中する中央集権的な全体主義となってしまう。これでは理想郷とは程遠い。

ユートピア文学とは理想的な社会像を描くことで、問題を抱えた現実の社会を改善する方向性を示すものである。冷たい管理社会に陥らないためには、権力・決定権・裁量を分散し、可能な限り、小さな組織単位で完結させることが望ましいと言える。

第三にユートピアを構成する枠組みである。ユートピア社会が人々にとって理想郷である根拠は、伝統的なユートピアでは特徴的な社会主義的制度に負うところが大きい。本書でも独特の制度が描かれるが、加えてマホロバ村民の生体的な差異を示唆する。

社会主義的な制度では、成果が報酬に結びつかないならば、誰も頑張って仕事をしなくなるのではないかという懸念がある。制度的には周囲の目によって怠けさせないようにすることが考えられるが、それを徹底するならば監視社会・密告社会となってしまう。

この点、マホロバ村では村人の性質が協調的・利他的で欲深くないことが、理想郷として成立している要因と示唆されている。本書の表紙に龍安寺の知足の蹲踞(つくばい)が使われていることが示すように、「足るを知る」という人々の意識が理想郷を作ることになる。

そして主人公ソキュウは、利他的な人と利己的な人の間には生物学的な差異が存在するのではないかとの仮説を立てる。食生活の乱れや化学物質・電磁波などの脳への影響が指摘される現代において興味深いアプローチである。但し、利己的な人を自分とは違う種類の人間と決め付けるならば、優生思想的な差別主義に陥る危険もある。本書では都に住むソキュウの旧友リハツを登場させることで、バランスをとっている。

このように本書は理想社会を考える上で示唆に富む内容になっている。ユートピア文学の新たな地平を切り開いた作品と考える。

 

海外小説

【書評】『銀河おさわがせ執事』ドタバタSFコメディ

本書は人類が宇宙に進出した未来社会を舞台に、宇宙軍士官であるウィラルド・フールの活躍を描く「銀河おさわがせ」シリーズの第6作である。フールは銀河有数の大富豪であるが、ジェスターの名前で軍人になっている。上層部からは疎まれて、落ちこぼれ部隊・オメガ中隊の隊長に任命される。フールは自身の度量と豊富な財力によってオメガ中隊を掌握し、銀河を縦横に活躍する。

作品世界の統一政体である宇宙連邦には人類の他にエイリアン種族も参加しており、映画「スター・ウォーズ」の世界観と類似する。一方で帝国のような明確な敵対勢力は存在しない。過去の巻ではマフィアを相手に大立ち回りをすることもあったが、今作では倒すべき明確な敵はいない。

フールの執事ビーカーが恋人ラヴェルナと再会した途端、ラブラブモードになり、勝手に休暇旅行に出かけてしまう。ビーカーに連絡を取る必要があったフールは追跡の旅に出る。中隊員のスシとドゥーワップは影ながらフールを助けるために、その後を追う。間が悪いことにフールが追跡に出かけた直後に、フールを敵視するブリッツクリーク大将がオメガ中隊を視察することになった。レンブラント中尉以下の中隊の面々は大将に中隊長不在を気付かれずに視察を受けなければならない。

この三者の展開によって物語は進む。登場人物達は色々な計画を立て、策を練るが、事態は彼らの思い通りには進行しない。ビーカーとラヴェルナの足取りを追うフールは後一歩のところで近づけず、いくつもの惑星を旅することになる。その後を追うスシとドゥーワップも最後までフールを直接的に助けることはなかった。レンブラント中尉らはブリッツクリーク大将を欺くために準備するが、機械の故障という番狂わせが起こる。

このように全てがうまく行かないが、偶然的な要素が働き、最後は予定調和の大団円を迎えることになる。登場人物が知恵と力の限りを尽くして相手を出し抜くのではなく、ケセラセラ(なるようになる)の精神が物語を貫いている。登場人物間の粋な会話のやり取りを楽しむ作品である。

 

ロバート・アスプリン、ピーター・J・ペック著、月岡小穂訳

『銀河おさわがせ執事』

早川書房

2007425日発行

 

『おり姫の日記帳』を読んで

本書は女子高生チンニョ(韓国語で織姫)のハチャメチャな生活を日記風に綴った青春小説である。ピザ屋でのアルバイト、孤児院への奉仕活動、家出、人気アイドルの旧友としてのテレビ出演、済州島への修学旅行、家族旅行、大学受験、卒業など多彩な生活が描かれる。

作品中にはテンチャンチゲ(味噌鍋)や牛黄清心元(丸薬)など韓国ならではの物品が登場し、韓国の作品であることを印象付ける。一方では登場人物の心理描写には国境を越えた普遍性が存在する。たとえば大人達は自分が間違っていても決して謝ろうとはしない。誤りを指摘しても「お前の大人に対する口答えは何だ」と逆切れする(24頁)。

これは日本の小説の貫井徳郎『乱反射』(朝日新聞出版、2009年)に登場する傲慢な定年退職者と同じである。彼は犬の糞を放置し、女子高生に注意されても開き直る。その種の大人達への不満を本書は女子高生の目から描いている。これには日本の若年層も共感できる内容である。

本書の特徴として3点指摘する。

第1に人間関係が物語の中心になっていることである。本書には新たな進路に向けた高校生の精神的成長を描く面もある。精神的成長を描くとなると主人公のモノローグが多くなりそうである。確かにモノローグは随所に登場するが、コンパクトにまとめられており、それほど多さを感じない。むしろ他者との会話のやり取りがテンポよく進む。私の中に内向する日本文学の傾向と比較すると、外に向かう韓国文学の勢いが感じられる。

第2に人間関係が意外と濃厚である。本書は人間関係の希薄化という現代社会の病理がところどころで顔を出す。チンニョは家族と上手くいっているとは感じておらず、居住するマンションには顔見知りの住民はほとんどいない。

しかし、現実の日本のハイティーンで本書ほどの会話がある兄妹は少ない。また、顔見知りの住民とは一緒に銭湯に行き、食事にも招待されている。韓国も先進国に共通する人間関係の希薄化は免れていないものの、日本の現実を踏まえるならば、まだまだ本書で描かれた韓国社会は元気で救いがある。

第3に青春小説でありながら、恋愛的要素が乏しいことである。恋愛は小説でよく取り上げられるテーマだが、本気で取り組めば恋愛だけになってしまうほど重たいテーマである。しかも恋愛は友人関係と比べて排他的であり、人間関係の広がりがなくなる。そのために本書が恋愛的要素を出さなかったことは豊かな高校生活を描く上で成功である。

本書の帯には「女子高生版『猟奇的彼女』」とある。『猟奇的彼女』のインパクトとは異なり、『おり姫の日記帳』というタイトルからは内容を想像しにくいが、読み始めると引き込まれる小説である。

 

【書評】『猫の町』現実に空想が侵食する恐怖

本書(ナリ・ポドリスキイ著、津和田美佳訳『猫の町』群像社、200995日発行)は、ロシアの考古学者・作家によるソ連時代のクリミア半島の田舎町を舞台としたパニック小説である。1970年代に書かれた作品であるが、ソ連の検閲体制に阻まれ、モスクワで公刊されたのは1998年になってからである。

人々は猫を愛し、街には飼い猫や野良猫が溢れていた。しかし、猫を媒介としたウィルスが人に感染すると、街は封鎖され、住人は猫の虐殺を始める。粗筋をまとめるならば現代の新型インフルエンザ騒動を髣髴とさせる典型的なパニック小説となる。

しかし、実際の読後感は大きく異なる。本書の中心は現実に起きた恐怖やパニックではない。現実と空想が入り混じった不安定さが特徴である。たとえば人間が次の瞬間にはアメーバに変形してしまうような幻覚を主人公は感じている。この点ではフランツ・カフカの作品に似ている。次から次へと襲い来る恐怖で息もつかせない作品ではない。

しかも町中の人間が皆、精神のバランスを失っているようで、町自体が現実離れした空間の様相を呈している。この現実と空想の境界の曖昧さはウィルス感染発覚前から存在していた。空想が現実に侵食していく恐怖は、唯物論を信奉する社会主義国家が舞台であり、主人公が科学者(海洋学者)であることによって増幅される。

人々の不安は「常に誰かに監視されている」「突然、秘密警察に消されるかもしれない」という全体主義体制の圧迫感が背景になっている。この点は監視社会化しつつある現代日本においても他人事ではない。

また、主人公の科学万能思想も躓きの石になっている。主人公は科学で説明できない現象を知覚しても、神経の化学反応の結果に過ぎないと頭ごなしに否定する。そのような強引な科学的理由付けが却って物事の本質から目をそらさせ、主人公を狂気の世界に陥れる。非科学的な現象を頭ごなしに否定しなければ自我を保てない科学信奉者の精神の脆さを実感した。

 

ノンフィクション

『アジアに架ける橋―ミャンマーで活躍するNGO―』を読んで

本書はアジアでの国際協力に生涯を捧げたNGOブリッジエーシアジャパン(BAJ)設立者の遺稿集である。本書は大きく三部に分かれる。第1章から第6章まででミャンマーでの国際協力の実体験を語る。第7章及び第8章で日本のODAの問題点とNGOの重要性を説明する。最後の「未完のエピローグ」は未完に終わった自叙伝である。

最初のミャンマーでの国際協力が本書の大部分を占める。BAJはインフラがないに等しい西端の辺境ラカイン州マウンドーを拠点として、難民や少数民族女性の自立支援、井戸や橋の建設を行った。国際協力と言うと聞こえがいいが、ミャンマーのような軍事政権の下で活動することは綺麗事では済まされない。

軍事政権が支配する地域で活動するということは軍事政権の規則に従って行動することである。軍事政権を批判することは不可能で、結果的に軍事政権に加担することになりかねない。このため、NGOとしては軍事政権の非正当性や人権侵害を国外から批判し、国際的な圧力をかけて現状を変えていこうとする選択肢もある。

この問題に著者は悩みながらも、現地の人々の厳しい現実を目の当たりにし、自分達でできることが少なからずあると考え、ミャンマーでの活動を決意した。政治信条からビルマを国名として使い続ける人が多いにもかかわらず、本書がミャンマーで統一しているのも、相手国の決めた方針に沿って行動するというBAJのスタンスに則ったものである(241ページ)。

但し、著者には自己の判断の正しさを強制する押し付けがましさはない。「どちらが正しいというのではなく、各団体や各個人がどちらを選ぶかという問題だ」とする(34ページ)。ここには複数の団体が並存し、価値観の相対性を許容するNGOという枠組みの良さがある。

ミャンマーは太平洋戦争中に日本軍の侵略し、インパール作戦などで大きな被害を受けた。日本では『ビルマの竪琴』のように日本側の被害ばかり注目されるが、現地調達を基本とする日本軍による現地住民の被害は甚大であった。そのため、現地住民には戦火の記憶が根強く残っている。著者達がマウンドーを訪れた時も「近いうちに日本の軍隊が入ってくるかもしれない」との噂が流れたという(75ページ)。ここにも綺麗事ではすまない国際協力の現実がある。

官僚的で硬直したODAの無駄が指摘されて久しい。開発コンサルタント・パシフィックコンサルタンツインターナショナル(PCI)によるODAの不正も発覚した。それに比べると住民参加で進めるBAJの取り組みは対照的であり、その経験に裏打ちされたNGO重視の提言には説得力がある。国際協力のあり方について考えさせられた一冊である。

 

【書評】『密教福寿開運法』アドバイスと開運呪文

本書(三郎丸光明『密教福寿開運法 願いをかなえる開運呪文パワー』実業之日本社、2000年)は密教僧侶の著者による願いをかなえる呪文と修法を紹介した書籍である。

本書の目次を開くと、対人関係や恋愛、仕事、金運、美容など現代人の欲望を満たすための項目が並んでいることに驚かされる。密教からは山奥の修行が想起され、一般人には近寄りがたい雰囲気がある。その密教と通俗的な願望は一見するとつながらないように感じられる。密教の呪文で恋愛成就やビジネスの成功を願うのは、密教への冒涜になるのではないかとの怖れてしまう。

しかし、このような発想は密教の歴史を踏まえれば誤りである。奈良時代の仏教は国家を守るための鎮護国家仏教であった。これは僧侶の政治介入という弊害を生み、それを避けるために桓武天皇は平安京に遷都した。この平安時代に唐から帰国した最澄や空海らによって密教が発展することになる。密教僧は除災招福などの現世利益を期待する貴族らのための加持祈祷を行った。ここには国のための宗教から個人を救済する宗教への転換がある。現在の仏教界に俗世から離れることを是とする傾向がある中で、著者の姿勢は密教のあるべき姿に則ったものである。

勿論、本書は個人のエゴに無条件に奉仕するものではない。たとえば「恋愛・結婚」の章では「思う相手を自分のものにすることは、誰かからその人を引きはがすということになりがち」との説明から始まる(58頁)。そして仲を引き裂かれて恋人を奪われた相手には怨みが生じる。そこで本書は怨みの念波の回避方法を説明する。

恋愛成就の方法を語る書籍で、引き裂かれた相手の怨みを指摘し、その回避方法から説明することは非常に珍しい。ここには自分が幸せになる影には泣く人が存在することを直視し、それへの配慮を忘れないという深い思想がある。それはWin-Winの関係を目指すなどと語る安っぽいビジネスパーソンとは比べられない冷徹な現状認識と弱者への愛が感じられる。

本書では様々な呪文を紹介するが、全てを呪文で解決しようとはしていない。むしろ呪文は最後の手段と位置付け、現実的なアドバイスが続く。たとえば美容について「やせるからといって、老化促進剤でもあるタバコを吸ってはいけません」(151頁)などである。

また、「危ない会社の見分け方」では対応が悪く、すぐにタライ回しにする会社をダメな会社とする(126頁)。これは林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』(ロゴス社、2009年)に登場する不動産会社と同じである。東急不動産だまし売り裁判において消費者はマンション売買契約を取り消したが、その正しさは密教僧侶によっても裏付けられた。

現代人の生活に即した現実的なアドバイスと密教の呪文を紹介する本書は、全てを信仰心で解決できるとも思わないが、偏狭な科学信奉者にも疲れさせられている現代人にとって非常にバランスの良い書籍である。

 

だまし売り裁判に通じる実践的な開運法

三郎丸光明『密教福寿開運法 願いをかなえる開運呪文パワー』には開運のコツが豊富に紹介されている。金運では「ひとつの道を貫く」「金と物を大切に扱う」「独立心とプライドの両方を持つ」が紹介された(128頁)。これは林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』の原告が採ったものと同じである。

「ひとつの道を貫く」では原告は不利益時事を隠して問題物件をだまし売りした東急不動産(販売代理:東急リバブル)に対し、売買契約の取り消しを貫くことで売買代金全額を取り戻した。原告が決して妥協しなかったのは「独立心とプライドの両方」を持っていたからである。

「金と物を大切に扱う」では売買契約を取り消した後でもマンションの管理会社・東急コミュニティーの怠慢や契約違反を明らかにすることで、管理会社変更に先鞭をつけ、管理委託費の無駄遣いを食い止めた。本書は裁判にも通じる実践的な開運法である。

 

【書評】『美しき日本人は死なず』感動的な人間物語

本書(勝谷誠彦『美しき日本人は死なず』アスコム、2009911日発行)は、24時間営業の小児科医やタイでHIV感染孤児施設を運営する女性など感動的な個人の物語10編を収録したノンフィクションである。雑誌「女性自身」に掲載された連載「シリーズ人間」の内容を著者が厳選して書籍化した。

本書のタイトルには「美しき日本人」とあり、表紙は旭日旗を連想させる太陽のデザインである。帯には保守派の論客・櫻井よしこ氏が顔写真入りで登場する。ここからは右寄りの印象を与える。

内容的には右に偏っている訳ではない。たとえば女優の吉永小百合氏はボランティアで原爆や沖縄戦の悲惨さを語り、「非戦非核のメッセージを発信し続けること」を使命と言う(184頁)。むしろ本書で取り上げた活動は右派・左派という政治思想を越えて共感・感動できるものばかりである。それにもかかわらず、左派から抵抗感を持たれるタイトル・装丁としたことが商業的に成功であるかは興味あるところである。

あえてタイトルを『美しき日本人は死なず』とした理由として、著者は「日本人ならでは」の物語と感じたためとする(5頁)。そこには義や志、利他の精神がある。記者は民族を超えた普遍性を有するからこそ美徳になると考えるが、本書に日本人ならではの美徳があるとすれば、どのような悪条件下にあっても目の前の問題を放っておけない性質である。

もっとも、これは目の前の火を消すことだけに熱中し、火事が起きた根本原因を考えない日本人の悪徳でもある。たとえば本書では医療問題が多く取り上げられているが、現代の医療崩壊は個々人の善意と超人的な努力では解決できない構造的な欠陥を抱えている。それを個人の美徳で乗り越えたとするならば問題解決への誤ったメッセージを与えることになる。制度的な問題を個人の頑張りで乗り切ろうとする精神論は特殊日本的精神論と呼べるほど日本社会に根付いている(「麻生首相の失言と特殊日本的精神論」参照)。この意味で本書の物語は良くも悪くも日本的である。

制度の欠陥から目を背けさせる危険はあるものの、本書の物語が美談であることに変わりはない。近年の報道では人間としての最低限の倫理観も失った日本人ばかりが登場する。記者自身も利益優先の不動産会社から不利益事実を隠して新築マンションをだまし売りされる被害に遭っている(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』参照)。閉塞感漂う日本社会に絶望したくなる状況であるが、日本人も捨てたものではないと思わせる一冊である。

 

『東野圭吾の謎 東野作品の研究・考察集成』の感想

本書は作家・東野圭吾氏の作品についての研究本である。東野氏はミステリーを中心とする作家で、『容疑者Xの献身』『秘密』『流星の絆』などの作品がある。福山雅治主演でドラマ化された『探偵ガリレオ』など映像化された作品も多い。

その東野氏の作品を研究対象とする本書は、過去にヒットした『磯野家の謎』のような謎本と同系統に属する。謎本としての本書の特徴を3点指摘する。

第1に著者が東野作品のコアなファンであることである。謎本は世間のブームに便乗したものも少なくないが、著者は東野作品の知名度が低かった1990年代半ばから東野作品を読み続けてきたとする(6頁)。古くからの東野作品ファンである著者は、「東野圭吾=ミステリー作家」という固定観点から解放されている。本書ではSFという切り口からも東野作品を分析している。

第2に漫画との比較である。「時生とドラえもんの共通点」など漫画との比較が多い。ここには謎本が漫画研究から出発したことの影響が感じられる。

特に参考文献に『ドラえもん』1〜45巻が挙げられているように、藤子・F・不二雄作品には詳しい。のび太の不幸な運命を変えるためにドラえもんが未来から来たという説明を歴史改変のパラドックスの観点から「納得できかねる話」とする(118ページ)。同じ出版社の世田谷ドラえもん研究会『ドラえもんの秘密』と同じ主張になっている点が興味深い。

第3に文章表現である。本書は「であるが……」「だろうか?」など断定を避ける文章の終わり方が圧倒的に多い。これは一般の論文では避けなければならない表現だが、謎本では有益である。謎本では作品の矛盾点の指摘や著者の独自の解釈が盛り込まれる。それは謎本の読者である作品ファンからは重箱の隅をつつく行為や牽強付会に受け止められ、反発される危険がある。このため、本書が結論を押し付けるような書き方をしていない点は好感が持てる。

本書の研究の白眉は「『白夜行』と『幻夜』超考察」である。『幻夜』は『白夜行』の続編なのか、両作品の主人公・雪穂と美冬は同一人物なのかという謎に迫る。私には理屈以前に続編であって欲しいという願望がある。『白夜行』の雪穂と亮司には同じ痛みを知る者同士の心が通じ合うものがあった。これに対して『幻夜』は欲望を追求する美冬と、それに振り回され続けた雅也の悲劇ばかりで読後感が悪い。続編であれば雪穂の過去と重ね合わせることで、少しは美冬に感情移入できるような気がする。

これに対して、本書はトラウマを否定した美冬の言葉を重視する(195ページ)。美冬は「幼い時に傷つくことがあって、それが私を操っているというわけ?そんな安っぽいストーリーは勘弁してちょうだい」と言う。その上で本書は『白夜行』がトラウマというキーワードで論じられることは東野氏にとって不本意であると指摘する。

雪穂と美冬が同一人物であるとすれば、美冬という人間を理解しやすくなる。しかし、そのような安直な理解を東野氏は意図していない可能性を本書から気付かされた。『白夜行』の先入観なしで、『幻夜』を読んでみたくなった。

 

受験

『東大理3 合格の秘訣24』を読んで

本書は大学受験最難関と称される東京大学理科3類の2009年入試合格者44人の体験記を集めた書籍である。予備校講師や合格者の母親のコラムも掲載する。

勉強方法だけでなく、生い立ちや高校生活、志望動機などの記述が充実しており、合格者の人間像に迫ることができる。理科三類は大学受験の最難関であるが、医者を送り出す教育機関でもある。本書の合格者のほとんどが医者になること、病気や怪我を治すことという明確な動機を抱いていることは好ましい。

驚かされた点は合格者達が受験勉強一筋ではなかったことである。受験中の睡眠時間は大体7時間程度である。意外にも文化祭や部活動など充実した高校生活を送っていた。一般に詰め込み教育や偏差値人間の弊害が説かれており、歓迎できる内容である。一方で死ぬほど勉強しなくても合格したという事実は、凡人でも必死に勉強すれば報われるという希望を喪失させてしまう。次に述べる格差社会化と合わせると複雑な気分になる。

近年の格差社会化においては親の収入と子どもの学力・学歴との相関が指摘される。合格者達は超がつくほどの金持ちではないが、幼い頃から習い事や小中学校を受験しており、生活の苦労を感じさせない。一方で格差の拡大によって一昔前の中流の生活が困難になっている家庭が急増している。この意味では東大理3の合格者も格差社会を反映している。

本書のユニークさは合格者に「派遣切りの原因はいったい何だと思いますか?」という社会派的な質問をしている点にある。この回答は経済情勢(不況)や企業姿勢(企業倫理の欠如)、制度上の問題(派遣労働者の立場の弱さ)に大別された。

派遣切りは格差社会の悲劇として大々的に報道されたが、一方で派遣労働者という立場に甘んじていたとする自業自得論も主張された。これに対して、本書の合格者の中では派遣切りの原因を派遣労働者側に負わせる回答は僅か1件(「技能が低い」)であった。ここに救いが感じられる。

自業自得論は持つ者が持たざる者を蔑視することから生じる無責任な感情論であると考える。仮に自業自得論が正当化できるとしたならば、本人の努力によって派遣労働者の境遇から抜け出すことができなければならない。これができないからワーキングプアが社会問題になっており、自業自得論は現実を無視した空論である。この点において、かなりの努力をした筈の東大合格者の多くが自業自得論に与していないことは重要である。

実際のところ、自分よりも下の層を貶めて自尊心を満足させる人々は別として、真の成功者は自らの成功に対して謙虚である。自分一人の努力だけで成し遂げたとは考えておらず、失敗者を本人の努力が足りないからと見下して悦に入ることもない。本書の合格者達には世の中の成功者達と共通する他者への共感力が存在する。医療を取り巻く環境は厳しいが、合格者達が今の気持ちを忘れずに活躍することを期待する。

 

『3時間でわかる! LEC式 はじめての宅建教室』を読んで

本書は大手資格試験予備校による国家資格・宅地建物取引主任者(宅建)の受験検討者向けの入門書である。宅建主任者の仕事内容や待遇、試験内容を分かりやすく紹介する。メインターゲットは資格取得に向け一歩を踏み出そうとする受験予備軍であり、受験生向けの試験問題集とは異なる。しかし、本書では現実の裁判例をベースに具体的な問題を解説しており、受験生でも得るものがある深い内容になっている。

一般に資格試験予備校に対する社会的評価は高くない。受験に合格するためのテクニックだけを教える場所という印象があるためである。しかし、その種の予備校観を本書は覆すものである。

本書での宅建資格に対するスタンスは一貫している。不動産取引は一生かけて支払うほどの大きな金額が動き、数々のトラブルが生じやすい。そのために国家資格者である宅建主任者がトラブルから守る必要があるとする。たとえば本書には以下の表現がある。

「宅地建物取引主任者が法律問題に明るくない人を、こうしたトラブルから守ってあげなくてはならない」(35ページ)

「厳しい規定を守っているからこそ、一般消費者は宅建業者に金額の大きな商品の取引を信用して委ねることができる」(145ページ)

法律は消費者を守るためのものであって、法の抜け穴を突いて儲けるために存在するわけではないことを本書は理解している。相手の無知につけ込み、自社の有利になるように取引条件をまとめることが宅建主任者の仕事ではないことを本書は認識している。

それ故に本書が推奨する学習法も試験を突破するテクニックではなく、法の趣旨に沿ったものとなる。民法など権利関係については「不動産取引のトラブルを公平に解決するためにはどうすればいいのか、自分が登場人物の立場になって考えると意外と簡単に答えが出てくる」とする。また、宅建業法については「この分野の学習のコツは消費者の立場に立って考えること」と述べる(31ページ)。

私は宅建業者から不利益事実を隠して新築マンションをだまし売りされた経験がある(参照「マンション販売トラブルで「お詫び」 東急リバブル・東急不動産」)。

http://www.news.janjan.jp/living/0710/0710023335/1.php

そこでの宅建業者や宅建主任者の姿勢は本書が期待するものとは正反対であった。法の趣旨には反するが、消費者に問題物件を押し付けて、自社の利益を上げるだけの宅建主任者は存在する。このような現実があるからこそ、本書のスタンスは輝いている。編著者のような教育機関が受験指導を行うことには社会的意義があると感じた。

 

『3時間でわかる! LEC式 はじめてのFP教室』を読んで

本書は大手資格試験予備校によるファイナンシャル・プランナー(FP)の入門書である。資金計画の必要性から始まり、FPの仕事内容、資格内容、資格取得のための試験科目、FPの仕事に必要な心構え、資格の活用法について平易に説明する。

資格試験予備校の書籍であるため、試験に合格するためのテクニックが書かれているとの先入観を抱きがちである。しかし、本書はFP資格取得の動機付けとするための書籍であり、FPの仕事内容の説明に力点が置かれている。これは同一シリーズの『3時間でわかる! LEC式 はじめての宅建教室』と共通する。

一方、『宅建教室』では試験問題にも登場しうる具体的な裁判事例を出して、法律的な考え方を説明していたが、そこまで『FP教室』では踏み込んでいない。これは宅地建物取引主任者(宅建)に比べ、FPの資格イメージや仕事内容が相対的に不明確であることに起因すると考える。

FPの資格自体が国家資格「ファイナンシャル・プランニング技能士」(3級・2級・1級)、民間資格「AFP(アフィリエイテッド・ファイナンシャル・プランナー)」「CFP(サーティファイド・ファイナンシャル・プランナー)」と多彩である。

また、宅建は有資格者でなければできない業務(重要事項説明など)が法律で規定されているが、FPの仕事は有資格者でなくても可能である。反対にFPに関係しそうな仕事でも他の国家資格との関係で扱ってはいけないものもある。たとえば確定申告の書類作成を税理士ではないFPが業務で行うと違法になる(120ページ)。

このために本書がFP論に紙数を割くことは必然的な帰結である。中でもFPの倫理については厳しい。FPはクライアントの収入や家族構成など普通ならば他人に話さない情報を知る立場にある。当然のことながら、それらの情報は絶対に口外してはならない守秘義務が課せられている。この点について本書は厳しい表現が並んでいる(121ページ)。

「おしゃべりな人には向いていません」

「つい他人に話したくなるような秘密を知りえたとしても、それを口外した瞬間、FP生命は終わり」

「一度失ってしまった信頼を取り戻すことはできません」

「顧客の秘密を守るということは、資格の有無よりも重要なFPの義務だということを心得ておいてください」

私は東急不動産(販売代理:東急リバブル)から新築マンションをだまし売りされ、裁判で売買代金を取り戻した(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』)。裁判で東急不動産の代理人弁護士から年収や家族構成を暴露される陰湿な攻撃を受けた。守秘義務のある弁護士にあるまじき態度に激しい憤りを抱いた。この経験があるために有資格者の倫理に厳しい本書の姿勢は好感が持てる。

資格試験予備校は試験への合格が一義的な目的であるが、本書は資格保持者のあるべき姿を描いている。資格を取得して終わりとしない本書の姿勢を高く評価する。

 

『3時間でわかる! LEC式 はじめての宅建教室』の感想

http://www.book.janjan.jp/0907/0907056415/1.php