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林田力『東急不動産だまし売り裁判』新聞 映画・ゲーム

 

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人間Lに注目した作品... 1

相棒 劇場版... 2

映画『相棒』とイラク日本人人質事件... 7

靖国 YASUKUNI. 9

映画『靖国 YASUKUNI』は表現の自由の問題だ... 9

『プライド』と比較した『靖国』上映抗議の問題... 14

20世紀少年... 21

【映画】原作の雰囲気に忠実『20世紀少年 第一部』... 21

20世紀少年<第2章>」全体主義の怖さ... 23

20世紀少年 <最終章> ぼくらの旗』ともだちの悲しみ... 24

砲台を設置して村人を守る「Monster Mash... 25

 

映画

人間Lに注目した作品

L change the WorLd

デスノート 映画 松山ケンイチ

DEATH NOTE』のスピンオフ映画『L change the WorLd』が200829日から公開された。公開初日に観たので、感想を書きたい。

DEATH NOTE デスノート the Last name』において新世界の神を目指すキラこと夜神月を追い詰めた天才的な探偵Lを主役にし、Lの最後の23日間を描いた作品である。この作品を一言でまとめるならばLを観たい人のための映画である。

Lは原作のマンガから独特な雰囲気を持つ特異なキャラクターとして設定されていた。世界的な探偵というイメージとは正反対の子どもっぽいキャラクターである。猫背で親指をしゃぶり、甘い物が好き。椅子に座る時も椅子の上に両膝を立てる独特の「L座り」をする。このため、デスノートが実写化される時は、誰がLを演じるのか、原作のイメージを壊さないかに関心が集まった。しかし、松山ケンイチは見事にLを演じ、はまり役と言ってよいほどであった。

この作品は、そのLに焦点を当てている。『DEATH NOTE』本編ではエキセントリックであるものの、人格的には完成された天才的探偵という面が強かったが、この作品では成長する人間としてのLに注目している。23日間の経験で「Lが変わった」「大切なものに気付いた」と言うと、これまでのLの人生を軽視するようにも感じられるが、数日後に死ぬことが分かっている人にとっての人生は、そうでない時と比較して認識も異なるだろう。

この作品では映画本編で繰り広げられた高度な頭脳戦という要素は相対的に薄い。世界的な探偵であるLとの頭脳戦は、相手も余程の個性や特徴がないと成り立たない。Lの好敵手となれる相手は夜神月くらいしか存在しないというのが現実だろう。

夜神月と比べると今回の敵は個性も特徴も物足りない。まさか敵のレベルに合わせたわけではないだろうが、Lの天才性もあまり発揮できていない。むしろ天才Lならば、もっと効率的に戦えたのではないか、と感じてしまう。

合理的に説明するならば、Lでさえ予測できない子どもの行動に足を引っ張られて敵の暗躍を許してしまったということになろうか。天災の計算どおりに進まないからこそ、この世界は愛すべきものであるし、このような世界だからこそLは「目の前の命を諦めたくない」と発言する。この世界でもっと生きていたいというLの思いが伝わる作品であった。

 

相棒 劇場版

日本社会の非歴史性への痛烈な批判

「相棒 -劇場版-」を観た

映画「相棒 -劇場版- 絶体絶命!42.195km 東京ビッグシティマラソン」が200851日に公開された。配給元である東映のこれまでの興行記録を更新する勢いの出足となっている。

刑事物の人気ドラマシリーズの映画化である。紅茶好きの変人・杉下右京(水谷豊)と、熱血漢の亀山薫(寺脇康文)の凸凹コンビの絶妙な掛け合いが魅力である。映画版ということでスケールが大きく、社会的な事件を扱っている。

題材になっているのはイラク日本人人質事件である。人質事件での日本政府の対応、マスメディアの過剰報道、それに乗じた国民的なバッシングに対する問題提起が感じられた。大ヒットさせることが当然視されている人気ドラマの劇場版で、世論を二分した社会的事件を題材にしたことは純粋に評価したい。

しかし本作品の社会派としての特徴は、単に現実に起きた事件をなぞっている点にあるのではない。日本人・日本社会の底流にあるものを鋭く批判している点にある。本作品が痛烈に批判しているのは日本人・日本社会の非歴史性と考える。過去を水に流す性質を美徳と捉える向きもあるが、暗い過ちを記憶にとどめることなしには学習も進歩もあり得ない。

過ぎたことに拘らないことを是とする非歴史性は政府や行政にとっては非常に都合が良い。時効や被害者の死亡によって、どれだけの悪事・不祥事が葬られてきたか。真相を明らかにされることも、責任を追及されることもなく、有耶無耶のまま終わってしまったか。本作品でも、ひたすら時間稼ぎをすることによって真相を隠そうとする警察官僚組織の嫌らしさが見事に描かれている。

テレビドラマでは警察庁長官官房室長の小野田公顕(岸部一徳)が回転寿司店で食べ終わった皿をレーンに戻す、お馴染みのシーンがある。映画でも「お約束」として使われたが、非歴史性を正当化する官僚組織の論理への伏線にもなっている。

批判の矛先は政府や行政にとどまらない。過熱報道を行うマスメディアや、それに乗せられた国民も同罪である。作品中では報道被害の経験者が「マスメディアも国民も散々バッシングしておきながら、時が過ぎるとパタッと報道しなくなった。まるで事件が存在しなかったかのように」と憤っている。

非歴史的な日本人的発想では「いつまでもネチネチと批判を続けないことが美徳」と勘違いした理屈で正当化するかもしれない。しかし本来、他者を強く批判をするからには、それなりの理由と信念が存在すべきである。時の経過によって簡単に薄まるようなものではない筈である。逆に、確固とした理由も信念もなく、いい加減な気持ちで流行のようにバッシングされたならば相手は浮かばれない。ところが、それが日本の実態である。

大した理由も信念もなく、一過性の流行に乗ってバッシングする。内心では行き過ぎであると分かっているが、自分達の行為を直視する勇気はない。だからバッシングはやめるが、過去を反省することなく、事件が存在しなかったかのごとく振舞うしかない。まるで報道被害者も報道被害のことは忘れて明るく明日へ向かって歩むことが幸せであるかのように。

記憶にとどめることも反省もしない非歴史的な日本社会に対する絶望的なまでの怒りが強く感じられた。残念なことに非歴史性は日本社会の根幹をなしているといってよいほど巨大なものである。そもそも戦後日本社会自体が戦争責任を有耶無耶にし、焼け野原から経済大国にしてしまうような前に進むような発想だけで成り立ってきたと言える。もっと遡れば本気で攘夷を叫んでいた筈の維新志士達が文明開化を主導することで明治日本が生まれた。

それだけに日本社会の非歴史性を語るならば絶望も怒りも大きくなる。それに正面から取り組んだ本作品が見終わってスッキリするような誰もが満足するハッピーエンドとなり得ないことは、ある意味当然である。作品の性質上、日本社会を全否定できない娯楽作品でありながら、日本社会の抱える根本的な問題に向き合った制作者のチャレンジ精神に心から敬意を表したい。

 

●参考URL

相棒-劇場版- 公式サイト

http://www.aibou-movie.jp/

 

コメントありがとうございます。

私は記事本文で本作品がイラク人質事件を題材としていると書きました。一方で「本作品の社会派としての特徴は、単に現実に起きた事件をなぞっている点にあるのではない。日本人・日本社会の底流にあるものを鋭く批判している点にある」とも書きました。イラク人質事件は題材であって主題ではありません。何を主題と感じたかは記事本文で申し上げたとおりです。その点を御理解いただけないならば「ぼくと」記者の脊髄反射批判が該当します。

記事の主題から外れたコメントに対する私の姿勢については下記記事をご参照くだされば幸甚です。

『「反靖国」というより、むしろ…』を読んで

http://www.ohmynews.co.jp/news/20080515/25067

記事の主題からは外れることを前提とした上での話になりますが、瀬田記者の問題意識は私にとっても興味深いものがあります。この点については別記事で考察したいと思います。

 

日本社会の非歴史性

日本社会の非歴史性とは一言で申し上げれば「過ぎたことにこだわらないことを是(ぜ)とする」体質です。

日本社会の非歴史性を主張するためには、一義的には日本社会の特徴から非歴史的性質を示せば十分です。外国を持ち出す必要はありません。一般に比較の多用は、むしろ自説の論拠が弱い時に行われる傾向があります。また、何でも外国と比較しなければ気がすまないところに日本人の自信のなさが見受けられます。

あくまで外国と比較されたい方のために一例を挙げます。日本とは異なり、過去の過ちを繰り返さないための試みとして、南アフリカの真実和解委員会があります。アパルトヘイト(人種隔離政策)によって組織的に引き起こされた大量の被害について、真実を究明し、記録するために設けられた委員会です。同種の機能は韓国やペルー、東チモールにも見られます。

 

相棒の良さ

相棒の良さは個性的なキャラクターによる掛け合いにあると思います。確かに今回の作品では亀山と伊丹が最初から協力的であるなどドラマの醍醐味が薄まっている面もありました。それでも笑いあり、トリックあり(事件解決との関連性は疑問ですが)、深く考えさせるところありで制作者は素晴らしい仕事をされたと思います。何より「日本社会を全否定できない娯楽作品でありながら、日本社会の抱える根本的な問題に向き合った制作者のチャレンジ精神に心から敬意を表したい」というのが偽らざる気持ちです。

 

制作者と製作者

先ず「pub男」様の観察力に敬服します。御主張の制作者と製作者の相違が何であるかは分かりませんが、著作権法における映画製作者についての議論などは理解しているつもりです。

私は基本的に制作者という言葉を使用します。作品について論評する場合、問題にするならば創作行為をした者であって、出資企業ではないと考えるためです。一方でサブタイトルには「製作者のチャレンジ精神に敬意を表す」とあります。このサブタイトルは編集部が付けてくれたものです。拙稿では「「相棒 -劇場版-」を観た」という陳腐なものでした。

私は記事本文で「作品の性質上、日本社会を全否定できない娯楽作品でありながら、日本社会の抱える根本的な問題に向き合った制作者のチャレンジ精神に心から敬意を表したい」と結びました。私としては創作活動に近い存在である制作者を念頭に置きました。

一方で、この映画が実現したのはチャレンジャブルな制作者にGOサインを出した製作者が存在したお蔭でもあります。そして製作現場において製作者の承認という点が大きな障壁であることも事実です。編集部のサブタイトルのお蔭で記事の視点が広がりました。優れた編集者が記事を引き立たせる好例です。

 

人の噂も七十五日

「作品中では報道被害の経験者が「マスメディアも国民も散々バッシングしておきながら、時が過ぎるとパタッと報道しなくなった。まるで事件が存在しなかったかのように」と憤っている。」

これは単に「人の噂も七十五日」という現象を指しているものではないと私は受け止めています。映像表現を活字でまとめたこと、映画の筋はできるだけ明らかにしたくないために抽象化したことにより、抜け落ちた要素があることは率直に認めます。この点については「映画を御覧になって御自分で判断して下さい」という回答とします。

 

真実和解委員会について

真実和解委員会(Truth and Reconciliation Commission)を例示したのは日本社会の問題解決の方法と対象的だからです。秘密裏に行われてきた犯罪の被害者を特定し、自己の巻き込まれた犯罪についての真実を明らかにし、被害者の人間的・市民的な尊厳を回復する真実和解委員会の試みは高く評価されるべきものと考えます。

勿論、真実和解委員会の方式にも批判があることは承知しております。最大の問題は加害者を恩赦してしまう点です。真実和解委員会の調査対象は、人道に対する罪と重なり、不処罰を許さないとする原則に反すると強く批判されています。この点は真実和解委員会の限界であると認識しています。

しかし、過去を明らかにせず、焼け野原から経済大国にしてしまうような前に進むことしかできない日本社会との対比において、欠点となるものではありません。焼け野原から経済大国にしてしまうような前に進むことしかできない発想では、目の前にある問題をとにかく切り抜ければいいだけになってしまいます。

尚、南アフリカの真実和解委員会の調査報告書は以下のURLにあります。

http://www.doj.gov.za/trc/report/index.htm

また、別テーマとなりますが、前に進むことしかできない日本社会の傾向に触れたものとして下記記事があります。

エネルギーを無駄にしない〜興味深い社訓を見つけた

http://www.ohmynews.co.jp/news/20080323/22444

 

非歴史性矮小化批判

管見を「人の噂も七十五日」という問題に置き換えるのは矮小化です。これは記事本文の理解不足か悪意に基づく曲解であるかの何れかです。管見は「過ぎたことにこだわらないことを是(ぜ)とする非歴史性」を問題視しています。「日本社会が忘れっぽい」「日本人は記憶力がない」というようなことではありません。

「過去のことを忘れてしまう」「ある時点では激しい怒りを抱いたとしても、時の経過によって、それほどの怒りを感じなくなる」という現象は多かれ少なかれ民族を問わず人類に普遍的な性質です。過去の事件を時の経過により風化させてしまう傾向も、どこの国の社会にも見られるでしょう。

問題なのは上記の傾向に対し、どのようなスタンスをとるか、という点です。それを是として、焼け野原から経済大国にしてしまうような前に進むことしかしないのか。それとも、過去の真相を明らかにし、暗い過ちを記憶にとどめようと努めるのか。

日本社会は前者であると主張しています。その結果、記事本文でも以下のように書いた通りの状況になっています。「時効や被害者の死亡によって、どれだけの悪事・不祥事が葬られてきたか。真相を明らかにされることも、責任を追及されることもなく、うやむやのまま終わってしまったか。」

そして映画でも加熱した報道が時の経過によって収束しただけでなく、警察は時間稼ぎによって真相の露見を隠そうとします。しかも「その方が社会にとって幸せ」との論理で正当化を図っています。記事本文で以下のように記載した通りです。「本作品でも、ひたすら時間稼ぎをすることによって真相を隠そうとする警察官僚組織のいやらしさが見事に描かれている。」

アメリカ合衆国マサチューセッツ州ではサッコ・バンゼッティ事件の死刑執行から半世紀後に偏見と敵意に基づいた冤罪であると公表し、名誉回復させました。処刑日の823日を「サッコとバンゼッティの日」とし、事件を風化させないようにしています。

 

非歴史性について

私は非歴史性を「過ぎたことにこだわらないことを是(ぜ)とする」体質と定義しました。歴史という言葉があるという理由だけで、歴史や歴史学と結びつけるのは誤った解釈です。記事本文において日本の歴史学研究のレベルが低いという類の主張をしておりません。

 

非歴史性批判について

「非歴史性」については記事本文に定義しています。歴史学や歴史研究に強引に結びつけるのは誤読です。「人の噂も七十五日」というような些細な問題とは何一つ重ならず、少しも関係ない問題であることは過去のコメントで説明しております。

 

映画『相棒』とイラク日本人人質事件

相棒 劇場版 イラク日本人人質事件

改めて映画『相棒』の奥深さを感じた

映画『相棒─劇場版─ 絶体絶命! 42.195km 東京ビッグシティマラソン』が題材としたイラク日本人人質事件について考察したい。映画『相棒』では作品内でイラク日本人人質事件と類似の事件が起きている。イラク日本人人質事件自体が多くの論議を呼び、世論を二分した事件である。その事件を前提の異なるフィクションの世界に持ち込み、そこから結論を出そうとしているため、その妥当性について議論されている。

映画では退去勧告が出された国で反政府ゲリラに拘束された青年の家族が「自己責任」としてマスメディアや国民から激しいバッシングを受けた。激しいバッシングという点で2004年に日本人3名がサラヤ・ムジャヒディン(聖戦士軍団)に誘拐された事件が該当する。映画では露骨にも当時の首相(平幹二郎)が小泉純一郎元首相を髣髴させる髪形となっている。

私は本作品においてイラク日本人人質事件は題材であると考えている。あくまで題材であり、主題とは異なる。映画の主題は日本人・日本社会の底流にある非歴史性を批判することにあると受け止めている。この点は別記事「『相棒』の根底に流れる日本社会への批判」で論じたとおりである。

http://www.ohmynews.co.jp/news/20080508/24705

本作品にとってイラク日本人人質事件は主題に入るための材料であり、現実に起きた人質事件のディテールを再現させる必要はない。実際、本作品ではイラク人質事件と異なる設定も多々ある。それらを見極めることはイラク人質事件を正確に理解する上で有益である。

イラク人質事件では人質に肯定的な立場と否定的な立場で激しい対立が起きた。本作品の描き方は何れの立場も満足させるものではない。便宜上、それぞれ人質肯定派、人質否定派と呼び、議論を整理したい。

最初に人質否定派の立場で論じる。本作品では拘束された人物が批判される理由が弱い点が問題である。人質批判派は危険地域で誘拐された日本人全てを批判しているのではない。イラク人質事件では渡航自粛勧告を無視して渡航している。これに対し、本作品の青年は人道支援活動中に退去勧告が出された。しかも退去勧告が出された僅か数日後に拘束された。好んで自ら危険地域に赴いたケースとは事情が異なる。

より大きな相違としてはイラク人質事件では誘拐事件を解決するために、被害者家族らが自衛隊の撤退を要求した点にある。誘拐した武装集団に対する批判以上に政府批判に熱を入れるような姿勢が反発を招き、バッシングとなった面がある。一方、本作品には青年の家族が直接、政府を批判するシーンは見られない。

結論としてイラク人質事件と本作品では状況が異なり、人質否定派の論理では本作品の青年を激しくバッシングする理由は存在しない。しかし作品中では激しくバッシングされている。本作品をイラク人質事件のアナロジーとするならば、人質否定派は理不尽な攻撃をしたことになってしまう。根拠なく人質批判をした訳ではないと主張したい人質否定派にとって本作品は不満が残るものであろう。

次に肯定的な立場から論じる。本作品では政府の退去勧告が出されたのに退去しなかった点が「自己責任論」の根拠となっている。この論理では政府の勧告に従わなかったならば非難に値するが、そうでないならば問題ないという結論に帰着する。実は、これが本作品の重要なポイントになっている。

しかし、この論理では政府の指示が全てとなってしまう。政府の方針に反する活動を否定することになる。NGOは政府の政策の範囲内で活動するだけの存在になってしまい、NGOの存在意義を貶めるものである。

実際、イラクでレジスタンスに拘束されたオーストラリアの人道支援活動家ドナ・マルハーンは、イラク派兵を推進したハワード首相に対し、堂々とイラク撤兵を主張した。再びイラク入りした後の20041125日付ハワード首相宛て書簡ではオーストラリア政府による軍事的な関与と同等の友情と共感の人道的な関与が必要だ(I need to balance your Government's military involvement with a human involvement of friendship and compassion.)と活動を正当化している。

そもそも、主権在民の民主国家において政策を提示・批判することは国民にとって当然の権利であり、義務でもある。仮に被害者家族が自衛隊派兵に賛成していたにもかかわらず、メンバーが人質として拘束された途端に武装勢力の要求に従って自衛隊撤兵に宗旨替えしたならば変節漢として非難に値する。しかし実際は人質事件が発生したためにマスメディアが彼らの主張を大きく取り上げたに過ぎない。結論として本作品は表面的には人質肯定派に近いように見えながらも、人質肯定派の真の論理を理解していない。

本作品は人質事件の描き方としては浅く、その視点でのみ観るならば、人質肯定派にとっても人質否定派にとっても不満が生じる内容である。しかし、本作品の主題は日本社会の非歴史性批判である。過去に追いやられたイラク人質事件の論点を、このような形で思い出すこと自体が日本社会の非歴史性への抵抗になる。改めて本作品の奥深さが感じられた。

 

コメントありがとうございます。

ポイントは政府の勧告に従うか従わないかではないとの御意見ですが、それが映画のポイントであったというのが記事本文における主張です。

イラク人質事件を「ああ、ひどいコトをしたんだ」と反省している一般人は皆無とのことですが、一般人であると言えるか問題ですが、インターネット上で散見される映画評ではイラク人質事件に絡めて政府の世論誘導やマスメディアの過剰報道を批判するレビューは見られます。だからこそ、逆に人質否定派からイラク人質事件との条件相違について不満があり、それが本記事執筆の背景です。

フィクションであっても、現実に起きた社会的事件を題材にしているならば、当該事件について何らかのメッセージがあると考えるのが自然です。よって議論には意義があります。少なくとも他人に否定する資格はありません。

 

人質肯定派と擁護派

記事本文中では人質肯定派という言葉を用いています。これに対し、人質擁護派の方が相応しいのではないかとの問題提起を受けました。人質肯定派とは人質、その家族・支持者の思想・行動を肯定する人達という意味です。人質肯定派という言葉に違和感があるとすれば、人質になることを肯定する人と捉えてしまうためと思われますが、そうではありません。

また、一方では人質否定派としており、否定の反対は肯定であり、論理的な対立軸として肯定派が相応しいと考えます。さらに擁護派とすると、人質や家族が激しくバッシングされて可哀想というだけの方も包含されます。記事本文で申し上げたとおり、人質肯定派には人質の行動を正当化する論理があります。それ故、擁護派ではなく肯定派という言葉を使いました。

 

拉致問題

コメントありがとうございます。人気ドラマ「相棒」の映画化である以上、娯楽性の制約はあると考えます。私としては中途半端を限界と捉えるより、娯楽作品で、ここまでやったことを評価したいです。

拉致問題とイラク人質事件で立場の相関性が見られるかは検証していないので、分からないというのが正直な感想です。拉致問題に対して消極的な立場が存在するとしたら、拉致問題そのものを否定したいのではなく、拉致問題を声高に叫ぶグループとは一線を画したいためと思います。

 

靖国 YASUKUNI

映画『靖国 YASUKUNI』は表現の自由の問題だ

映画 靖国YASUKUNI 表現の自由 上映中止

上映支持派が触れる必要がない論点

ドキュメンタリー映画『靖国 YASUKUNI』(李纓監督)についての議論が盛んである。大まかに言えば本作品を肯定的に評価する側と否定する側に分かれる。各々のバックグランドが、肯定派が戦前の日本のあり方を否定的に捉える立場、否定派が戦前との連続性を肯定する立場に大別されることも興味深い。外国人監督作品ながら、日本社会の対立軸に見事にフィットしており、それだけでも本作品の秀逸さを示している。

香港国際映画祭にて最優秀ドキュメンタリー賞を受賞した映画『靖国 YASUKUNI』(李纓監督)上映をめぐる騒動は表現の自由の問題である。近時は上映批判派が出演者の刀匠・刈谷直治氏が出演部分の削除を求めているとの報道など制作過程の問題を指摘し、映画を批判する傾向にある。そして上映支持派が制作過程の諸問題について明確に回答していないとして批判を強めている。

私は表現の自由との関係で映画『靖国 YASUKUNI』を論じる上で、制作過程の問題に触れる必要はないと考える。そもそも上映支持派が登場したのは映画館が当該映画の上映を中止したためである。直接の中止理由は上映に抗議する右翼団体などの威嚇的・暴力的妨害を恐れたことである。

加えて上映中止の背景には稲田朋美・衆議院議員らによる様々な政治的圧力があったと主張された。上述の出演者・刈谷氏が出演部分の削除を求めている件も、有村治子参議院議員が刈谷氏に電話で削除依頼をするように促したと指摘されている。上映支持派は、これら直接間接の圧力によって上映が中止された事態を表現の自由の危機と受け止め、抗議の声をあげた。

問題は圧力がかけられたことであって、圧力をかける動機となった理由ではない。圧力の理由は色々考えられる。当該映画が十五年戦争における日本の侵略性を明らかにすることを恐れたことかもしれない。映画の内容以前に日本、中国、韓国の合作映画で真のアジア友好を目指すというコンセプトが気に入らなかったのかもしれない。それらの理由で抗議したのでは表現の自由の侵害との批判に立ち向かえないから、表向きは制作過程の問題を声高に叫ぶ方針に変更したのかもしれない。

真の理由が何であれ、表現の自由との関係で問題なのは理由ではない。日本は法治国家であり、自力救済は禁止されている。仮に映画を否定することに正当な理由があったとしても、圧力をかけて上映を中止させることは認められない。当該映画の制作過程に問題があったとしても、それ故に圧力をかけて上映中止に追い込むことは正当化されない。

上映支持派にとっては、映画の制作過程の問題の有無は論点とは無関係な問題である。恣意的な圧力により上映が中止になる事態を問題視しており、圧力の動機に理由があろうとなかろうと問題ではない。自説を正当化するために、当該映画の制作過程に問題がないことを主張する必要さえない。従って上映批判派の問題意識は無視されることになる。

当該映画の制作過程に問題があったと指摘し、当該映画が映画制作のルールを逸脱しており、上映に値する作品ではないと主張することは自由である。それも一つの映画批判になりうる。しかし、それは上映を妨害しようとした右翼団体の抗議活動を正当化することにはならない。上映中止を表現の自由の危機と捉えて立ち上がった上映支持派に対する批判にもならない。その点が混同されている限り、映画『靖国 YASUKUNI』は表現の自由をめぐる問題であり続ける。

 

コメントありがとうございます。

映画批判が靖国神社や戦争犯罪人に都合の悪い表現を抑圧するという、表現の自由を損なうことが目的ではなく、純粋に制作過程の問題について問題提起したいならば表現の自由を損なう手段をとるべきではないというのが管見です。

また、未※欄では「靖国批判派批判と東急リバブル批判がいつ繋がるか楽しみにしてる」とのコメントをいただきました。私は東急リバブル東急不動産の騙し売りの問題について少なからぬ記事を書いております。たとえば記事「東急リバブル、間取り図でも虚偽広告」があります。

この件は消費者契約法(不利益事実不告知)、欠陥、虚偽広告、子会社の管理会社の杜撰な管理、再開発による周辺住民の被害など論点が多岐に渡る大きな問題です。今後も問題意識を持ち続け、御期待に応えられるよう、記事を書いていきたいと思います。

 

本記事の意義

本記事の意義は御指摘の「取材された側からの抗議に応えていない」という上映批判派の不満に対する上映支持派からの回答を出している点にあると考えております。

上映支持派は「取材手法の批判」=「上映妨害」=「表現の自由の侵害」という図式が成立することを懸念しています。現時点で上記の図式が成立していないならば、表現の自由にとって喜ばしいことです。表現の自由を守る上映支持派の活動の意義があったことになります。

政治的圧力という事実が確認されていないと主張されますが、そのような論理に立つならば逆もまた真なりです。本作品の制作過程に問題があったという事実は確認されていません。確認されていない情報で上映妨害が行われたことになります。

 

表現の自由

表現の自由とは基本的に憲法上の「表現の自由」を念頭に置いております。「基本的」と前提を付したのは御質問の背景が不明なためです。表現の自由は世界人権宣言でも認められている普遍的な人権であり、日本国憲法にのみ依拠しているわけではありません。

また、国家による人権侵害を禁止するための権利章典として憲法を位置付けるならば、右翼団体による上映妨害は私人間の問題であり、憲法の権利侵害に該当しないのではないかという議論もあります(私人間適用の問題)。御質問を深読みすれば色々な回答が考えられますが、回答は憲法上の「表現の自由」で問題ないと考えています。

 

表現の自由が損なわれるような圧力

問題は表現の自由が損なわれるような圧力がかけられたことです。影響力が相対的に小さい一期・二期の議員であろうと国政調査権という公権力を振りかざして表現の自由を侵害しようとすることは許されません。圧力をかけられた側が、大した圧力でないからという理由だけで大騒ぎしてはならないということにはなりません。

結果的に組織的な妨害がなかったことは表現の自由を守ろうとした側の勝利であり、上映支持派の活動が正しかったことの証左です。また、映画『靖国 YASUKUNI』撮影が公共の福祉に反して撮影されたという事実は何ら確認されていません。記事本文で申し上げた通り、第三者が勝手に判断して、上映妨害することが問題です。

 

国政調査権と表現の自由

国会議員による自称「国政調査権」の発動が説明されるとおり、表現の自由を損なう意図はなく、助成金の使途の確認が目的ならば、検閲と批判されるような手法を採用したことが、そもそも誤りです。影響力は相対的に小さかったとしても、不当な圧力に対して、耐え忍ぶことが美徳ではありません。過去を水に流して焼け野原から経済大国にするような前に進むことしかできない発想をすることが美徳でもありません。

右翼団体が日本の侵略戦争によりアジア人民を奴隷化せんとした試みを美化する立場から、本作品を批判したとしても、表現の自由を享受させることに否定している訳ではありません。ボン基本法的な「戦う民主主義」の立場ならば別論ですが、日本国憲法は異なると考えます。

映画『靖国 YASUKUNI』における問題は右翼団体の暴力的威嚇的な抗議により、上映中止に追い込まれたことです。これは法的には右翼団体の映画館、さらには配給会社への不法行為です。日本国憲法の条項違反を直接問題にするものではありません。

しかし、一部の団体による威嚇や暴力によって映画が上映できなくなるという事態は、日本国憲法が想定した表現の自由が保障される社会とは異なると考えます。私人間適用を否定する立場から憲法第21条違反を認めないとしても、上映支持派が表現の自由の危機として抗議することは妥当と考えます。法的な請求権がある場合というような狭い意味に限定して憲法上の語を使わなければならないということではないと思います。

 

類型化について

上映支持派、反対派と単純化してしまう点については以下の通り回答します。現実は上映支持又は反対の意思を持つ人も十人十色、それぞれの理由がある筈です。それを上映支持派・反対派と類型化することで各自の独自の理由が捨象されてしまう点は確かです。もし上映支持派又は反対派の特定の個人に焦点をあてて、その主張を分析する場合は、上記のような類型化は避けるべきです。

一方で社会全体として捉え、理解するためには類型化は必要です。個々の主張を蓄積するだけでは、それ自体は価値のあることですが、まとめにも考察にもならないからです。類型化自体は社会科学において当然に採用されている手法です。

類型化そのものの意義を認めたとして、次に適切な類型化であるかが問題です。余りにも荒すぎる類型化では複雑な社会事象を説明できないとの批判が出ます。例えば上映反対派にも暴力的に上映中止に追い込もうとする反対派と言論で当該映画の問題を指摘する反対派を区別すべきではないかとの考えることも可能です。これを仮に暴力的反対派と言論的反対派と名付けます。

表現の自由の観点では暴力的反対派は不当ですが、言論的反対派は許容できます。そして上映中止に抗議した上映支持派が批判した対象も暴力的反対派です。言論的反対派が制作過程の問題を言論空間で批判すること自体は表現の自由の観点から問題ありません。この点で上映支持派と言論的批判派が交わることはありません。

ところが、言論的批判派が制作過程の問題を根拠に上映支持派を批判し、上映支持派から明確な回答がなされないことをもって批判を強めていることが問題です。言論的批判派が暴力的批判派と区別されるならば、言論的批判派にとって暴力的批判派は否定されるべき対象であり、その限りで上映支持派と同じ地平に立っている筈です。

言論的批判派自体が立ち位置を混同しているのか、本質的に言論的批判派も暴力的批判派も同じなのかという点までは未考察です。いずれにしても記事本文を執筆する上では殊更両者を区別して議論を複雑化する必要性はないものと判断しました。

 

作家の手法と映画「プライド」

作家の手法の問題についてですが、本記事の趣旨は「表現の自由との関係で映画『靖国 YASUKUNI』を論じる上で、制作過程の問題に触れる必要はない」という点にあります。仮に問題のある映画だからといって上映中止に追い込むことは表現の自由に対する侵害です。

未登録コメント欄で御要望のありました映画「プライド」との比較については慎重に考察した上で別記事を執筆して、論じたいと思います。

 

表現の自由の擁護

上映支持派が表現の自由を擁護するために立ち上がった契機は御指摘の「上映自粛の発端となった一部団体の抗議行動」です。このような妨害行為が行われたことが問題です。上映支持派の抗議によって、目立った上映妨害が起きていないならば、それは表現の自由にとって歓迎すべきことであり、表現の自由を擁護するための活動に意義があったことを示します。抗議活動の手際が良かった点については別記事で考察する予定です。

 

表現の自由の侵害

記事本文で申し上げた通り、「右翼団体などの威嚇的・暴力的妨害」や「稲田朋美・衆議院議員らによるさまざまな政治的圧力」を問題にしております。

各人が各人の関心から記事を書くことは大いに結構なことと思います。大勢の関心が表現の自由から別の話題に移ったとしても、過去を振り返って問題提起することは意義あることと思います。焼け野原から経済大国にするような前に進むことしかできない発想をすることが美徳ではありません。過去があるから現在があるのであり、現在は全て過去を引きずるものです。

 

公務員による公権力行使

公務員による公権力行使は私人の言論活動と同視できません。表現の自由は傷つきやすく、回復されにくいという脆弱性があります。焼け野原から経済大国にしてしまうような前に進むことしかできない鈍感な発想では対応できません。

また、表現の自由は優越的地位が認められています。この優越的地位とは憲法が保障する諸々の人権(ex.財産権)と比較してのものです。真の意味で国民主権を実現するためには自由な議論が不可欠であり、表現の自由は民主主義社会の基盤となるものだからです。

よって、公権力は国民の表現の自由を最大限尊重しなければなりません。その行使にあたっては、表現の自由を損なわないよう、慎重さが求められます。上映中止が国政調査権の目的でないならば、検閲と批判されるような真似はすべきではありませんでした。この点で批判されるのは当然です。

 

『プライド』と比較した『靖国』上映抗議の問題

プライド 運命の瞬間 靖国YASUKUNI 表現の自由 抗議

やはり『靖国』は表現の自由の問題だ

映画『靖国 YASUKUNI』(李纓監督)上映に対する抗議は、同じく上映が抗議された映画『プライド 運命の瞬間(とき)』(伊藤俊也監督、1998年)と比較されやすい。本記事では両者の動きを比較し、『靖国 YASUKUNI』上映騒動の問題性を指摘したい。

『プライド』はA級戦犯として絞首刑に処せられた東条英機元首相が主役の映画である。この映画は日本による侵略戦争をアジア解放の戦争のように印象づけ、歴史を歪曲・偽造していると強く批判された。製作した東映の労働組合や文化人らによって結成された「映画『プライド』を批判する会」は東映に対し、映画公開の中止を申し入れた。

「映画『プライド』を批判する会」の発展的解消により結成された「映画の自由と真実を守る全国ネットワーク」(映画の自由と真実ネット)は映画『ムルデカ17805』(藤由紀夫監督、2001年)にも抗議した。インドネシア独立の戦いを描いた作品だが、日本がインドネシア独立をもたらしたとして、侵略戦争の歴史的事実を歪曲し、美化するものと批判した。これらの映画の上映に抗議した人々が、『靖国』では上映妨害の動きを批判する。これをダブルスタンダード(二重基準)と批判する見解がある。

結論から言えば『プライド』の上映中止を求めた人が、『靖国』上映中止の動きに抗議することは一貫性のある行動である。『プライド』批判は、労組や市民団体が中心であった。言論の自由の範囲内の抗議活動である。これに対し、『靖国』では右翼団体による映画館への威嚇や稲田朋美・衆議院議員らによる政治的圧力が問題視された。このような動きに対して表現の自由を守るために抗議した。

実際、映画演劇労働組合連合会(映演労連)の200841日の声明では以下のように主張する。「公開が決まっていた映画が、政治圧力や上映妨害によって圧殺されるという事態は、日本映画と日本映画界に、将来にわたって深刻なダメージを与えるものである。」

あくまで抗議は、政治圧力や上映妨害という手法に対してである。ここでは『靖国』批判派が『靖国』を批判する理由は問題にされていない。『靖国』を「反日的である」「制作過程に問題がある」と批判することは自由である。問題なのは上映妨害や政治圧力が行われたことである。

そして映画における表現の自由を守るための戦いは『靖国』だけで行われていたわけではない。南京大虐殺を描いた映画『南京1937』においても右翼団体による上映妨害が繰り返されていた。19986月には横浜市の映画館で上映中に右翼団体構成員によってスクリーンが切り裂かれた。199910月には千葉県柏市が右翼団体の抗議活動を理由に上映会場である市民文化会館の使用許可を取り消した。

『靖国』上映中止の動きに抗議した人々の多くは『南京1937』の上映妨害に対しても強く抗議していた。『靖国』上映支持派の抗議活動が手際よく行われたことを疑問視する向きもある。しかし、上映妨害は今回が初めてではなく、過去の活動の蓄積があるため、手際が良くて当然である。

歴史歪曲映画に対する抗議と表現の自由の侵害に対する抗議が一貫性あるものとして認識されていることは「映画の自由と真実ネット」の発足アピール文を読めば明白になる。

「1年前に公開された映画『プライド〜運命の瞬間〜』は、戦後半世紀を経てはじめてと言っていいほど、歴史の真実に背を向けたものでしたが、その公開と併行して「歴史の真実」に迫る中国映画『南京1937』の上映は、右翼による激しい暴力的な妨害に直面しました。その右翼の街宣車に『プライド』のポスターが貼られていたことが示すように、「歴史の真実」を踏みにじる力と「映画の自由」を押しつぶそうとするものとは、完全に表裏一体を成しています。」

公正とは「等しきものには等しく、等しからざるものには等しからざるものを」ということである。『プライド』に対する抗議と『靖国』に対する抗議は本質的に異なる。表面的な現象の類似性に惑わされず、等しからざるものには異なる評価を下すことが公正な判断である。

 

●関連URL

映演労連声明「日本映画界とすべての映画人に、映画「靖国」の公開の場を確保することを訴える!」200841

http://www.ei-en.net/appeal/080401_yasukuni.html

「映画の自由と真実ネット」発足!

http://www.ei-en.net/frenet/syukai.htm

 

『靖国YASUKUNI』上映中止にジャーナリストや映画人ら抗議会見

http://www.news.janjan.jp/culture/0804/0804104673/1.php

映画『靖国YASUKUNI』上映中止 李纓監督らの訴え

http://www.news.janjan.jp/culture/0804/0804124740/1.php

リ・イン監督、田原総一朗らが抗議「靖国 YASUKUNI」緊急記者会見

http://eiga.com/buzz/20080411/1

映画『靖国』問題 出演者の刈谷直治さんが削除希望をしているというのは、有村治子議員による"作り話"だった - blog*色即是空

http://d.hatena.ne.jp/yamaki622/20080415/p1

映画そのものの破壊工作をする有村治子議員を罷免せよ:ペガサス・ブログ版:So-net blog

http://pegasus1.blog.so-net.ne.jp/2008-04-10-1

カナダで日本語「有村治子の映画『靖国YASUKUNI』出演者への圧力を許していいのか」

 

http://minnie111.blog40.fc2.com/blog-entry-865.html

平成暗黒日記: まだ映画「靖国」が圧力を受けている

http://ankoku-mirai.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/mada.html

さるのつぶやき: 映画「靖国 YASUKUNI」(追加)

http://saru.txt-nifty.com/blog/2008/05/yasukuni_1564.html

映画「靖国YASUKUNI」妨害に抗議 京都文化団体連絡協【2008.04.26】(京都民報) - 戦後責任ドットコムブログ

http://d.hatena.ne.jp/dotcom-sengo/20080516/1210952745

「猫の教室」 平和のために小さな声を集めよう: 映画、「靖国」無事上映開始

http://heiwawomamorou.seesaa.net/article/95791335.html

 

私のスタンス

私を左翼と呼ぶ方がおられましたので、最初に私のスタンスを明示します。コメントへの直接の返答にはなりませんが、相互理解に有益と思います。私は自分を左翼とも右翼とも思っていません。政治思想的なバックボーンはありません。強いてイデオロギーを挙げるならば反東急です。東急リバブル東急不動産の問題については幾つか記事を書きました。例えば「東急不動産の遅過ぎたお詫び」を御覧ください。

一方で左翼思想と親和性があることは認めます。不動産騙し売り被害者のような立場の人に門戸を開いてくれるのは革新系であるためです。これが好むと好まざるとに関わらず、日本の現実です。もっとも私自身は柔軟な姿勢を持とうと心がけております。民主党の保守系政治家の支援者の集まりにも顔を出したこともあります。東急の問題を通じて自民党の政治家の支援活動をしている方とも知り合いになりました。このスタンスを持ち続けたいと思います。

 

コメントありがとうございます。

本記事は上映中止を求める意思表明と威嚇・暴力によって上映妨害することの峻別の上に成立しています。『プライド』抗議は前者でした。一方、『靖国』では後者により映画館による上映中止が起きたため、表現の自由の問題になりました。

同じような主張の記事を立て続けに掲載する点については以下のように考えます。オーマイニュースでは読みやすくするために、一つの記事で一つの論点に絞り込む傾向があります。一つの記事に複数の論点を入れると、ぼやけてしまうためです。このため、複数記事になることは自然です。また、今回の記事も他の記事もコメント欄の論争の中で生まれたものです。その意味では論じ続ける意義があると考えます。

非歴史性について以下のとおり反論します。「過去の真相を明らかにし、暗い過ちを記憶にとどめようと努める」ことは歴史学や歴史学者の仕事とは考えません。人間ならば誰しも行うべきことです。過去から学ばなければ人間としての成長はありません。

 

稲田議員による政治的圧力について

稲田議員の言い訳する国政調査権の行使が、助成金の使途確認が目的で、上映中止を狙ったものでないならば、検閲と批判されるような真似はすべきではありませんでした。検閲に該当するようなことをしなくても、調査の目的は達成できる筈であるのに、あえて検閲と批判されるような主張を採ったために表現の自由の侵害と批判されました。映画製作側が稲田議員らの意図を変に物分りよく議員に媚びた解釈をせずに、表現の自由の侵害と抗議の声をあげたことは賢明な姿勢でした。

 

『靖国』上映中止の背景

『靖国』上映中止の背景に政治的圧力があることは既に言い尽くされているほど指摘されています。また、『靖国』を上映する予定だった都内の映画館に街宣をかけた右翼団体構成員が逮捕されています(「映画「靖国」街宣の右翼団体構成員ら逮捕」産経新聞200852日)。

右翼団体による映画館への上映妨害が大規模な組織的背景を有するものか否かについてですが、一部の個人が勝手にやったことと矮小化する根拠はありません。アホなガキの個人的な不法行為と断言されても、何を持ってそこまで言い切れるのかと思わざるを得ません。

自分が受けた被害を過小評価することは決して美徳ではありません。敵対者の小さな過ちを見過ごし、笑って済ませてしまうことは度量の大きさではなく、間抜けさを示すものです。特に加害者でありながら被害者に向かって無反省にも「済んだことをいつまでもガタガタいうな」と言ってのける傾向がある日本人に対しては、過去にこだわることは大切です。今回の騒動で、焼け野原から経済大国にしてしまう前に進むことしかできない発想で、生産的な方向にエネルギーを注力するような真似をしなかったことは高く評価します。

この上ない悪意と敵意に基づく妄想批判に対しては以下の通り反論します。そもそも管見と「人の噂も七五日」とは全く関係ありません。人の記事と完全に無関係で、少しも重なるところのない的外れな結び付けをすることが脳内の妄想です。「過去の真相を明らかにし、暗い過ちを記憶にとどめようと努める」という人間ならば誰しも行うべきことを歴史学や歴史学者の仕事に制限する偏狭極まりない発想です。

 

林田力主演映画

未登録コメント欄で映画撮影について言及されました。映画を撮影されるならば、東急リバブル東急不動産と戦う映画を希望します。因みに東急不動産の騙し売り裁判では私自身が記事を書いただけでなく、他の市民記者から取材を受けました。詳細は「東急不動産の裁判事件で市民記者から取材」をご参照下さい。

 

妄想批判は失当

そもそも勝手な思い込みから、管見を「人の噂も七五日」などという全く無関係な、詰まらない言葉に結びつけるという頓珍漢な矮小化が失当であり、脳内の妄想です。個人的意見に過ぎないというならば、上記の的外れの結びつけ自体が個人的意見に過ぎません。当然のことながら、何一つ共感できる点も同意できる点も存在せず、脳内の妄想批判は失当です。

人間は過去から学ぶ生き物です。それは歴史学者だけが行っていればいい問題ではありません。もし日本社会が歴史学者だけの仕事と考えているならば、それは日本社会の非歴史性という管見を強化します。

コメント欄に脳内の妄想などという言葉を使う人物がいることはきちんと記憶に止めたいと思います。そして過去から学ぶ正しい人間のあり方として、今後同一人物に対しては、その全ての面について脳内の妄想という発言をした人物として適切に評価するように努めます。

 

過去から学ぶ

先ずコメント欄で「脳内で炎上」などという言葉が出ること自体を問題視しております。

過去から学ぼうとせず、歴史学者だけに任せてしまうような姿勢と比べるならば、過去の事実から現在及び将来の行動を規定する固定的な結論を導き出すことは遥かに人間として優れた姿勢です。カール・マルクスは人間の歴史は自ら選んだ状況の下ではなく、過去から与えられた状況の下で作られると言いました。

焼け野原から経済大国にしてしまう前に進むことしかできない発想は随所で行き詰まっています。再チャレンジという能天気なスローガンを掲げた安倍晋三首相は失脚同然の形で首相の座を放り出しました。

戦後最悪の集団食中毒事件とも言われた雪印食中毒事件の発覚後は、多くの雪印製品が廃棄処分とされました。中には安全なものもあったかもしれません。むしろ、ほとんど安全なものだったかもしれません。それでも雪印製品というだけで廃棄処分にしたことは賢明な選択でした。無反省にも「変わった」といって認識を改めさせようとする資格はありません。「短所だけでなく、長所も評価してくれ」などと主張するのは噴飯物です。

 

『靖国』検閲問題

稲田朋美議員らによる映画公開前の試写要求が、まるで戦前の検閲同然であると、批判しています。事後的に稲田議員が助成金の使途確認目的による試写要求に過ぎず、上映中止を目的としてはいないと見え透いた言い訳することは、表現の自由の侵害を論じる上で無意味です。表現の自由を侵害された側が侵害された側に悪意がなかったと御目出度い解釈することは正義・公平に反します。

焼け野原から経済大国にしてしまう類の前に進むことしかできない連中のように打たれ強くなることは美点ではなく、愚かしい欠点です。対立者からは過剰と思われるくらいの敏感な反応をしたことは感受性の鋭さを示しており、この上なく正しい選択でした。

Cf.ほんとはあった稲田議員「靖国」公開前の試写要求

http://www.news.janjan.jp/culture/0804/0804064360/1.php

 

非歴史性という問題意識

日本社会の非歴史性についてですが、過去を水に流すことを是とする体質の異常性については、前々から問題意識を有していたテーマです。私の思索において大きな割合を示すテーマです。その意味で日本社会の非歴史性という主張が個々の記事の主題を越えてまで論議を呼び、関心を集めたことは喜ばしいことと受け止めております。

私の記事の中で最も大きな割合を占めるのは、読者諸賢の御承知のとおり、東急リバブル東急不動産のマンションの騙し売りの問題です。この問題でさえ、不利益事実を隠してマンションを販売した騙し売りそのものと同じくらい、売買契約が履行され引渡し済みとなった以上、一切の責任を取りたくないという東急リバブル東急不動産の無責任な姿勢に対する激しい怒りがありました。東急不動産の物件には住んでいられないと考え、売買契約の取消しに拘ったのも、このためです。

非歴史性という言葉を使用しておりませんが、モーレツ社員について同種の問題意識から言及した書評を別媒体で書きました。合わせて御参照くだされば幸甚です。

『見える化で社員の力を引き出すタイムマネジメント』を読んで

http://www.book.janjan.jp/0806/0805318443/1.php

 

稲田朋美議員らの試写要求は政治的圧力

稲田朋美衆院議員(自民党)が映画公開前に試写会を要求したことが問題です。「選良である我々が観て反日的でないという御墨付きを与えた後で、国民向けに上映することを許してやる」という不遜な態度が見え隠れします。

試写会を開く目的は映画館に圧力をかけるのが目的であったとみなされても否定できません。これは、まぎれもなく検閲です。「私たちの勉強会は公的な助成金が妥当かどうかの1点に絞って問題にしてきたので上映中止は残念」などと上映中止を他人事のように論評する資格はありません。

 

裁判は選択肢の一つ

裁判だけが戦いの手段ではありません。表現の自由の侵害に抗議の声をあげる言論活動も立派な戦いです。

 

映画「靖国」への圧力

映画「靖国」に対する圧力は表現の自由を侵害し、民主主義の根幹を脅かす国民全てに関わる重大な問題です。上映中止は表現の自由が脅かされた非常事態を意味します。適正な助成をうけた映画の普及を阻害し、国民から鑑賞の機会を奪うものです。

 

表現の自由の擁護

映画「靖国」を上映する予定であった映画館が上映中止に追い込まれたことが問題の発端です。そして上映中止に追い込むような上映妨害や検閲と同視される政治的圧力を批判しています。

映画が盛況であるという事実は、表現の自由を侵害してまでアジア人民に未曾有の惨禍をもたらした日本の戦争責任を否定しようとする悪意ある試みが挫折したことを意味します。表現の自由を擁護する戦いの勝利であり、抗議の正しさを示すものです。表現の自由を擁護する主張を弱める理由にはなりません。

 

日本社会の非歴史性の考察

御意見の多かった日本社会の非歴史性について別の媒体で書評の中で言及しています。非歴史性についての考察が深められたと思っています。御参照くだされば幸甚です。

『かまくら切通しストーリー』を読んで

http://www.book.janjan.jp/0806/0806078966/1.php

 

卑劣な言論弾圧への抗議

アジア人民に未曾有の惨禍をもたらした日本の戦争責任を隠蔽しようとした卑劣な言論弾圧に対する果敢な抗議活動によって、映画「靖国」が上映され、表現の自由が確保されたことは実に歓迎すべきことです。歓迎すべきことだからこそ、この事実を繰り返し語る意義があります。

 

国会議員が試写を要求すること

国会議員が試写を要求すること、出演者またはその妻に出演の意図について直接電話をかけて確認すること自体が通常では行われない尋常ではないことです。大日本帝国のシンボルである靖国神社を批判したのだから、権力者から釈明が求められるのは当然という前提に立つならば、その発想自体が表現の自由を侵害します。

仮に助成金の使途目的を問題にするならば表現の自由を損なわない方法で行うべきです。国勢調査権の行使ならば表現の自由を侵害が許されるわけではありません。ことさら『靖国』を狙い撃ちにするような調査ならば、表現の自由を侵害する意図があったとの批判を免れません。

結果的に映画が公開されたのは制作側と表現の自由の侵害に対して抗議した人々の努力によるものです。表現の自由の侵害者と非難された側が表現の自由を尊重したからでも、「上映の機会が保障されることを支持します」という類の映画制作側が聞けば腹立たしく思われる発言があったからでもありません。焼け野原から経済大国にしてしまう前に進むことかできない人間のように打たれ強くなることが美徳ではありません。

 

日本国憲法第21

日本国憲法第21条第1項は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定めます。第2項は「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」と定めます。国会議員が権力を行使して表現の自由を侵害するならば、紛れもなく憲法違反になります。

 

20世紀少年

【映画】原作の雰囲気に忠実『20世紀少年 第一部』

本作品(堤幸彦監督)は浦沢直樹の科学冒険漫画を実写映画化したものである。原作の単行本は『20世紀少年』全22巻、『21世紀少年』上・下巻に渡る大部なものになっている。映画も全3部作の巨編で、その第1章が2008830日に公開された。

本作品のタイトルはロックバンドT-REXの名曲「20th Century Boy」に因む。主人公ケンジ(唐沢寿明)が愛唱していた曲という設定である。この曲は本作品のテーマ曲にもなっている。私が本作品を観た映画館では上映前のBGMにも使われており、雰囲気を出していた。

ケンジはロックバンドを結成していた過去があり、現在でもギターでロックを奏でる。原作でも演奏シーンは多く登場するが、音はマンガでは表現できない。魂を震わせるロックの演奏は映像作品ならではの迫力がある。

漫画原作の映画となると、原作の雰囲気を壊さないかという点も気になるところである。既に絵で表現されている漫画には、小説の映画化とは異なる難しさがある。その点、本作品はキャストが原作のキャラクターに恐ろしいほど似ている。本作品は登場人物が大人になった現代と少年時代の回想が入り混じるが、それぞれの大人と子どもの役者も似ており、違和感なく楽しめる。

漫画原作の実写映画化で反響を呼んだ作品としては『DEATH NOTE』がある。この作品も実写化が難しいキャラクターである探偵Lを松山ケンイチが原作の雰囲気を壊さずに好演した。松山ケンイチの評価は高く、映画オリジナルのスピンオフ作品『L change the WorLd』が公開されるほどであった。

一方で夜神総一郎役の鹿賀丈史が原作のキャラクター以上に渋くてカッコよかったなど、『DEATH NOTE』では映画独自の世界観を形成していた。それに比べると本作品は脇役に至るまで原作キャラクターの雰囲気を出している。

本作品はストーリーも原作にほぼ忠実であるが、原作の分量を映画に合うようにまとめているため、省略された点も少なくない。コミックスでは過去の記憶が断片的に明かされ、一向に展開が進まず、じれったい思いをした記憶がある。それに比べると映画の展開は早い。特にオッチョと「ともだち」の正体に関するエピソードが削られており、映画だけでは理解できないと思われる。

映画の第1章の内容は原作の第1部に重なる。原作と大きく異なる点は、原作が現在進行形で展開したのに対し、映画はオッチョ(豊川悦司)の回想という形をとる。これは第1部の結末を探る上で大きな相違になる。

原作ではケンジ達と「ともだち」のどちらが「血のおおみそか」を制したのかは第2部に入らなければ分からない。これに対し、映画ではオッチョが回想している場所が通常とは異なる場所であるため、ある程度の予想ができてしまう。ここから第2部の主役になる遠藤カンナ(平愛梨)につながることになる。これによって第2部に期待を持たせる終わり方にしている。

20世紀少年』はカルト教団による世界征服という壮大な物語である。細菌散布や宗教団体が政党を結成して国政を乗っ取るなど社会性のある内容でもある。しかし原作では最後はケンジの少年時代の罪に収斂していく。

人類の存亡がかかったストーリー展開でありながら、最後は主人公の精神的成長で終わらせるのはテレビアニメの『新世紀エヴァンゲリオン』や岩明均の漫画『寄生獣』にも見られる。このような終わり方は、世界がどうなるのかという点に関心を抱いて作品を見ていた人にとっては肩透かしになる。

一方で日本人は過去を水に流す非歴史的な民族性と批判されている。自らの美しくない過去を直視することこそが現実の日本の大人達に最も欠けていることである。主人公に徹底的に内省させることを作品で実現することこそ、日本社会において作品を発表する意義があると考える。

回想後にオッチョはケンジを「逃げなかった真のヒーロー」と評する。ケンジの全てを知らないオッチョの体験から導き出した結論としては正しい評価である。しかし原作の結末を踏まえると、この言葉は意味深長である。映画作品が原作と同じ結末を辿るのか、オッチョの評価が伏線になるのか、第2部以降に期待したい。

 

20世紀少年<第2章>」全体主義の怖さ

映画「20世紀少年<第2章>最後の希望」(堤幸彦監督)が2009131日に公開された。本作品は浦沢直樹のSFサスペンス漫画『20世紀少年』『21世紀少年』を原作とする実写映画である。映画は3部作になっており、本作品は第2章になる。

2章はケンジ(唐沢寿明)の姪のカンナ(平愛梨)が主人公的存在である。時は西暦2015年で、第1章では幼児だったカンナも高校生に成長した。2015年の日本は救世主とされた「ともだち」が支配する社会になっている。2000年の「血の大みそか」はケンジ一派のテロと濡れ衣を着せられた状態である。行方不明のケンジに代わり、カンナやヨシツネ(香川照之)、オッチョ(豊川悦司)は「ともだち」の正体に迫る。

2章も第1章に引き続き、原作の雰囲気に忠実であった。ストーリーも原作をなぞっていたが、長編漫画を映画にまとめる関係上、省略されたエピソードも多い。そのため、次第に日常が非日常に侵食されていくという原作の不気味さは弱まっているが、一気に見せる映画の性質上止むを得ない。一方、「ともだち」の正体は原作とは異なり、第2章の最後になっても分からずじまいで、第3章のお楽しみとなっている。この点は原作と異なる内容になる可能性があり、第3作も観なければならないという気にさせられる。

オーディションで大抜擢されたカンナ役の平愛梨をはじめとしてキャストの好演が光った本作品であるが、不気味さを怪演していたのは高須光代(小池栄子)及び彼女の率いる「ともだちランド」スタッフである。高須らは「ともだち」教団の裏仕事を担当するが、悪事をしているという後ろめたさを全く感じさせないハイテンションさが不気味である。

1章でケンジの経営するコンビニを襲撃した集団は、いかにも洗脳されている狂信者という印象であった。これに対し、高須らは非常に軽い。命令に対して「サンキュー」や「喜んで」と答える。まるでサービス業の接客マニュアルのような応対振りである。それがかえって怖さを感じさせる。

「ともだち」の組織はカルト的な宗教団体である。それが自作自演のテロ事件を起こし、日本を支配することになる。現実にもオウム真理教による地下鉄サリン事件などが起きており、決して荒唐無稽な話ではない。それでもカルト組織は通常の市民生活を送る人々にとっては縁遠い別世界の話である。

ところが、高須らの集団は日本社会に普通に存在するサービス業従事者のような行動規範である。ここには企業組織が容易に全体主義の歯車に転嫁してしまう怖さを感じてしまう。実際、多くの企業不祥事は企業内部の常識が世間の常識とずれていたために起きている。企業の内部にいると、社会的には悪いことをしているという感覚が磨耗してしまう。

記者も東急不動産(販売代理:東急リバブル)から不利益事実(隣地建て替えなど)を説明されずにマンションを購入して裁判で売買代金を取り戻した経験があるが、その時の東急不動産の課長(当時)の論理は「隣地建て替えを説明しても、もし建て替えられなかったならば問題になる」という消費者の利益を無視した身勝手なものであった。消費者の立場を理解しようとしない東急不動産従業員には宇宙人と話しているような不気味さがあった。同じ不気味さが高須らの集団からも感じられた。

カルトという特別な集団だから問題なのではない。普通の企業であっても、間違った方針の下、構成員が思考を停止し、歯車になってしまえばカルトと同じような暴走をする。異常なカルト教団が社会に浸透する恐怖を描いた第1章に対し、第2章ではカルトに限らない全体主義の怖さがある。そして一見するとソフトな全体主義こそ、現代日本において第一に警戒しなければならないものである。その意味で第2章は前作にも増して社会性が深まった作品である。

 

20世紀少年 <最終章> ぼくらの旗』ともだちの悲しみ

映画「20世紀少年 <最終章> ぼくらの旗」(堤幸彦監督)が2009829日に公開された。浦沢直樹の科学冒険漫画『20世紀少年』『21世紀少年』を実写映画化した3部作の完結編である。原作とは異なる結末が話題になっている作品である。

新興宗教の教祖で、自作自演の予言でテロを達成し、世界支配を目論む「ともだち」の不気味さが本作品の魅力である。主人公・ケンジ(唐沢寿明)らの少年時代に「ともだち」の謎を解く鍵がある。この大きな流れは原作と映画で共通するが、映画では「ともだち」の心情を丁寧に掘り下げていた。

「ともだち」は無差別テロを行い、何十億という人々を殺害した。ケンジへの恨みだけでは無差別テロの動機としては不十分である。人類全体への敵意を抱く背景となった「ともだち」の孤独や悲しみ、トラウマが映画では浮き彫りにされた。人類の大半が滅亡した世界の支配者になっても面白くないように思えるが、「ともだち」の心理状況では納得できる。

また、映画ではケンジやオッチョ(豊川悦司)、カンナ(平愛梨)ら特定人の超人的な活躍で全てを解決するのではなく、彼らをきっかけとしつつも大勢の人々の行動が大きな力を持つことを描いている。

作品世界の一般の人々の多くも内心では「ともだち」支配のおかしさを認識している。ユキジ(常盤貴子)が地球防衛軍を説得するシーンが印象的である。地球防衛軍のバイザーを上げて素顔を晒させることで、組織の犬から良心ある個人への転換を象徴する。『20世紀少年』にはカルト的な宗教団体が社会を支配する点で現実社会に警鐘を鳴らす社会派的側面があるが、一般の人々の良心に基づく行動によって社会を変えられるとのメッセージを感じた。

映画オリジナルのラストの10分は試写会でも放映しないことで注目を集めた。このラスト10分が大作の最終章を見事に締めている。過去を水に流す日本人は自らの美しくない過去を直視することを避ける傾向がある。その結果、フィクションでも悪を倒して大団円とし、終わりよければ全て良しとなってしまう作品が多い。その意味で作品の質を高めたラスト10分であった。

 

砲台を設置して村人を守る「Monster Mash

米国の戦略アクション・ゲーム

コンピュータゲームといえば日本が世界に誇るサブカルチャーであるが、たまには海外発のゲームをすることで外国の文化を味わうのも良い。本記事では米国Sandlot Games Corporation戦略アクション・ゲームMonster Mash」を紹介する。

Monster Mash」は他の様々なゲームと共にインターネット上に無数にあるゲームのダウンロードサイトからダウンロードできる。私は知人から紹介されて本作品の存在を知った。海外のサイトからゲームをダウンロードして遊ぶことは英語の勉強にもなる。ゲームは有料のものが多いが、国際ブランドのあるクレジットカードがあれば決済も可能である。

Monster Mash」は牧歌的な世界にあるCurly Valleyの村人をモンスターから守るゲームである。この説明だけでは日本でも似たようなアクション・ゲームがありそうに思える。このゲームでは村に侵攻するモンスターをプレイヤーが守る点が特徴である。

日本のアクション・ゲームのように敵を倒して進んでいくゲームではない。侵略するモンスターと戦うというゲームの性質に似つかわしくないメルヘンチックな画面やBGMも本作品が日本のゲームでないことを強く印象付ける。

プレイヤーは村までの道の各所に砲台を設置する。砲台は設置されると近付くモンスターを自動的に攻撃してくれる。この砲台が全てのモンスターを攻撃すればクリアである。反対にモンスターが攻撃をすり抜けて村まで到達すれば村人が食べられてしまう。

砲台を設置するには資金が必要であり、無制限に設置できない。資金はモンスターを倒すことで獲得できる。砲台の設置場所によってモンスターを効果的に攻撃できるかが変わり、いかに効果的な場所に設置するかが勝敗の分かれ目になる。このゲームのジャンルがSandlot社のWebサイトでStrategy(戦略)とされる所以である。

本作品の外敵から村人を守るために砲台を設置するという仕組みは海外の作品らしい。悪を倒すために攻め込むゲームが多いという日本の傾向は、そのまま日本の戦争の歴史に重なる。日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・十五年戦争と近代日本の戦争は外に攻める歴史であった。

また、洋の東西を問わず、海外では城壁は市街地の外に作られ、城壁は都市の一般住民を守るためのものでもあった。これに対し、日本では後北条氏の小田原城総構などを除き、城壁は領主を守るためのものでしかなかった。日本の軍隊には人民を守るという意識が歴史的に希薄である。戦前の軍隊は天皇の軍隊でしかなく、国民に「一億総玉砕」を強いるものであった。彼我の社会的背景の相違を踏まえると、「Monster Mash」のようなゲームは日本では生み出されにくい作品であると痛感する。