
林田力『東急不動産だまし売り裁判』新聞 書評
『告発のときIn
The Valley of Elah』古閑万希子著
『資本主義最終章の始まり 大恐慌2009〜2010』を読んで
本書は1954年(昭和29年)生まれの著者が青春時代を振り返った手記である。子ども達に自分の楽しかった青春時代を伝えることを念頭に書かれた作品である。中学編、高校編、大学編1、大学編2、大学編3の5章から構成される。
現在はダムの底に沈んでしまった島根の山深い小さな町で生まれ育った著者は、中学生時代は野球漬けの日々を送り、郡大会に優勝する。高校では不完全燃焼気味の学校生活を送りつつも、初恋は大きく進展する。大学には新聞奨学生として働きながら通った。途中で新聞店を辞め、同級生と共同でアパートを借り、様々なアルバイトを経験する。スナックのバーテンのバイトを続けることで、地域の人々との人間関係を築くことになる。
これら全ての章を通じて初恋の彼女との関係が描かれる。この彼女の存在は「彼女のいない青春を想像することなどやはり出来ない」くらい大きなものであった(342ページ)。それほど大きな存在であったにもかかわらず、意外な結末を迎える。ちょっとした気持ちの齟齬を解消するコミュニケーションの難しさを実感した。
著者の青春時代は戦後日本の高度経済成長期に相当する。京都駅で待ち合わせしたところ、別の出口で待ち続けたという時代を感じさせるエピソードもある(110ページ)。携帯電話が普及した現代では考えにくい出来事である。また、日本に登場し始めたマクドナルドでのアルバイトなど、豊かになっていく日本社会の歩みと一致する。
本書のテーマは普通の人の人生にもドラマがあるという点にある。それは千里ニュータウンなどの団地をウサギ小屋と揶揄する論調への以下の反論に凝縮されている。「ウサギ小屋だなんてとんでもない。あのひとつひとつの窓の向こうや明かりの下に家庭があり、何人かの人生があるのだからすごい大きさだ」(212ページ)。
実際に著者の中学・高校生活は平凡な学生生活の感がある。それでも様々なドラマがあることが分かる。一方で大学生活は破天荒である。様々なバイトに挑戦し、自転車で京都から島根まで帰省する。バーテンのバイトでは常連客に贔屓にされ、交友関係も広がった。このような大学生は中々存在しない。私は著書の息子達に近い年代であるが、著者が青春時代を送ったことが十分実感できる一冊であった。
本書はジャーナリストから便利屋を起業した著者による、半生を振り返った自叙伝である。著者は『週刊金曜日』編集長時代に過労で鬱病になり、退職した。当初は新聞も読みたくない、テレビも見たくない、家族と会話することも面倒という状態であった。数ヶ月間、自宅療養を続けることで次第にエネルギーが蓄積されていき、「人生のリセット」を決意するに至る。
人生をリセットする手始めとして、著者は生活空間のリセットを試み、自分で自宅をリフォームした。それが近所の評判になり、近所の人からもリフォームを依頼されたのが、よろず便利屋の始まりである。近隣住民に「猫の手」を貸す便利屋稼業は、頭と体をバランスよく使うため、企業内ジャーナリスト時代には味わえなかった楽しみと快適さ、健康をもたらしてくれたという。
本書では様々な話題が提供されている。まず鬱病からの回復過程については、企業社会のストレスで悩む人にとって参考になる。便利屋として実際に行った仕事内容も書かれており、DIYに取り組みたい人にも役に立つ。古い家具の修理・再生については大量消費・大量廃棄社会への反省を迫るものである。
第4章の「三十年の記者生活」は週刊ポスト、日刊ゲンダイ、日刊アスカ、週刊金曜日でのジャーナリスト生活が書かれており、ジャーナリストの仕事に興味のある人は必見である。また、定年後の生活の送り方についても意見しており、第二の人生を送る団塊世代への応援歌にもなっている。
これだけ盛りだくさんの内容を僅か172頁でまとめている。分かりやすく読みやすい文章で一気に読むことができた。もっと詳しく知りたいと思う点もあるが、著者にとっても書きたいことは、たくさんあった筈である。あれもこれもと飽和させてしまうのではなく、贅肉を削ぎ落とし、読みやすくまとめることは大変であったと推測する。
本書は盛りだくさんの内容であるが、核となるのがジャーナリストから便利屋への転換である。これによって著者は鬱病から人生を楽しむ健康体へと変わることができた。その要因には様々な要素があるが、顧客の顔が見えるようになったという点が大きいと考える。著者はジャーナリストとして報道を続けてきたが、読者が本当に喜んでくれたか分からないと書いている。一方、便利屋では顧客が喜んでくれたかは、すぐ分かるとする。そして、顧客が喜んでくれれば心底嬉しいという。
この点が正に現代の労働では見えにくくなっている点であり、現代の労働者に鬱病や鬱病予備軍が増えている一因であると考える。仕事が細分化・分業化され、労働者からは誰に、どのような価値を提供するために働いているのかが見えにくくなっている。
本書では使えない元サラリーマンが批判されている。団地の自治会で会議や企画を仕切りたがるくせに自分では動かないで人に頼る人達のことである。会議の進行や議事録作成も満足にできなかったという。会社から与えられた仕事をこなしていただけで人間力の研鑽が疎かになっていたのではないかと著者は指摘する。これも顧客を喜ばせることを考えない労働を繰り返した結果であろう。
評者自身の経験でも思い当たることがある。評者は東急不動産(販売代理:東急リバブル)から購入したマンションでトラブルになったことがある(後掲記事参照)。評者が交渉した担当者は無責任の一言に尽きた。販売代理の東急リバブルの営業担当者は販売を代理しただけで、後は知らないという態度であった。一方、売主の東急不動産の担当者は建設地の購入や近隣対策屋を通した建設時の近隣折衝に関与しただけで、販売経緯は知らないという状況であった。
責任を持って販売後の消費者に向き合うことができる担当者が誰もいなかった。だから評者が何を問題にしているのか、何故怒っているのかを理解したのかさえ疑わしい。交渉事であるから顧客の言い分を全て受け入れるだけが担当者の仕事ではないとしても、最低限、顧客が何を問題にしているかを理解した上で拒否すべきであるが、それが全くできていなかった。
担当者の資質に依存する面もあろうが、顧客である消費者とは向き合わない分業体制からくる構造的な要因が大きいと感じられた。東急不動産は用地を仕入れて開発する、東急リバブルはモデルルームで販売する、という分業では建設されたマンションに住み続ける住人のことを考える必要はない。誰にどのような価値を提供するかを考えなくても仕事ができてしまう。
顧客に何らかの価値を提供し、喜んでもらう。この過程が抜け落ちた労働を繰り返すならば、人間力の研鑽が疎かになってしまう。または脳が悲鳴をあげて鬱病になってしまう。それを回避するための手がかりを本書は提供している。
その意味で本書は人生のリセットを考えている人はもちろん、様々な事情からストレスの多い会社生活を続けなければならない人にとっても有益である。顧客に喜ばれる仕事をする。そのような毎日の経験を仕事のステップアップにつなげる。これだけでもストレスの多い労働を潤いのある豊かなものに変えていけるのではないかと考える。
暮らし・マンション販売トラブルで「お詫び」 東急リバブル・東急不動産
http://www.news.janjan.jp/living/0710/0710023335/1.php
本書は切通しを踏み越えて鎌倉を訪れた人々の記録をまとめたものである。三方を山に囲まれた鎌倉に陸路で出入りするには山を切り開いて道を通す必要があった。これが切通しで、後に鎌倉七口と呼ばれる。
本書で取り上げた人物は、鎌倉幕府の創設者・源頼朝を筆頭に西行法師や徳川家康のような有名人から、聖護院道興や万里集九という名前の知られていない人物、「海道記」や「東関紀行」の作者のように名前の不明な人物まで実に多彩である。しかし本書の主役は人物ではない。その人達が踏み越えた切通しが主役である。
一方、単なる史跡として切通しを紹介したものではない。実際に時間をかけて鎌倉を歩く楽しさ、鎌倉の地形の面白さを感じて欲しいというのが著者の狙いである。本書は歴史を扱ったものだが、現在から切り離された過去を語るものではない。現在の鎌倉にも息づく歴史、過去の積み重ねとしての歴史を語っている。
厳密な論証をするつもりはないが、日本人が歴史好きの国民性であると主張したとしても、それほど的外れにはならない筈である。歴史小説や時代劇は人気のジャンルである。一方で日本人が好むのは物語として歴史を消費することであり、現在に続く過去としての歴史と真剣に向き合っているかという点には疑問がある。むしろ、過去を水に流すことを是とする体質は少なからぬ日本人論で指摘されており、この点では非歴史性が日本人の特徴になる。
本書は日本人の御都合主義的な歴史好きに欠けがちなものを補ってくれる。それは現在の風景から歴史を想起する視点である。そして、このような視点こそ、「武家の古都・鎌倉」として世界遺産登録を目指す鎌倉にとって何よりも必要なものである。
残念ながら鎌倉ではマンション開発などによる景観破壊が横行している。世界遺産登録どころか、歴史的遺産・歴史的景観を喪失しかねない危機にある。本書で度々言及された名越切通しを抜けた先に位置する、逗子市でも住吉城址が東急不動産によるマンション「逗子小坪レジデンス」開発で失われ、建設されるマンションは景観公害になると指摘された(佐藤夏生「マンション建設 逗子「住吉城址」消える」)。
http://www.news.janjan.jp/area/0701/0701268870/1.php
乱開発による歴史的景観の喪失は、鎌倉のみならず、日本各地で行われている。過去と現在を連続したものとして捉える感覚、過去の積み重ねとして現在を位置付け、現在から過去を振り返る視点が乏しい限り、日本で歴史的景観が大切にされることはないと考える。
本書には歴史の集積された鎌倉という街への愛着が強く感じられる。このような愛着こそが歴史的景観を保全する出発点になる。鎌倉の歴史だけでなく、鎌倉の今についても考えさせられる一冊である。
本書は米国イリノイ州在住の著者によるイリノイ州及び州内の大都市シカゴの紹介書である。特定の地域を歴史・社会・戦争・対日関係などの観点から掘り下げた「観光コースでない」シリーズの一冊である。本書も在米20年以上の著者により、外部から眺める旅行者ではなく、住人の視点でシカゴ・イリノイ、さらにアメリカ社会を浮き彫りにする。
イリノイ州はアメリカのハートランド(中核地帯)と呼ばれ、人種・年齢・所得などの人口構成が全米平均に近似するアメリカ合衆国の縮図と言える地域である。イリノイを論じることはアメリカ合衆国を明らかにすることになる。
本書から浮かび上がるアメリカ社会の特徴は、過去の出来事を忘却・風化させず、世代を越えて継承させるための努力を惜しまないことである。歴史的な出来事のあった場所にはメモリアル(記念碑)を建てる。アメリカ人にとって記憶にとどめることは責務であり、誇りである。
アメリカは歴史の浅い国と捉えられがちであるが、歴史を大切にする点については、むしろ日本は見習うべきである。特に労働者が弾圧されたヘイマーケット事件のような負の歴史をモニュメントとして残すことは、焼け野原から経済大国にしてしまうような前に進むことを是とする日本では考えにくいことである。
歴史を記念するアメリカ人の精神は、太平洋戦争時の日本の侵略行為に対しても向けられる。アメリカでは2007年に下院で日本政府に対する従軍慰安婦への謝罪要求決議が可決された。著者の指摘は、この種の決議が支持される社会的背景を明らかにするものである。
アメリカ人の対日批判に対する著者の反応は複雑である。著者は「我が非であるかのように突きつけられる」と感じ(94頁)、「アメリカに何年住もうと、びくつく思いをする」と語る(93頁)。そして戦勝の経験を誇らしげに語ることは「勝者の傲慢」ではないか、と問題提起する(223頁)。
私は「たとえ100%正しい非難であっても、過ぎ去ったことに対し、非難を繰り返すことは美徳ではない」とは考えない。むしろ、そのような発想が通用するのは、過去を水に流す歴史性の乏しい日本社会だけと考える。
個人的な次元の話で恐縮だが、私自身、東急不動産とのマンション販売紛争で勝訴した経験がある(後掲記事参照)。この経験は、機会があれば何度でも繰り返し話している。中には「いつまでも言わなくても」というステレオタイプの日本人的な反応もある。しかし、私は問題意識を持ち続けることは大切なことと考えている。同様に日本の侵略を非難する精神を保持し続けること自体は、傲慢ではなく、アメリカ社会の健全性を示しているものと受け止める。
そして私はアメリカ社会の非難の声を日本人が恐れ、不快感を抱く必要はないと考える。恐怖や不安を抱くとすれば、それは日本人が戦前の軍国主義的体質を完全に否定できていないためである。戦前の日本を否定せず、現在の日本が戦前の否定の上に成り立っていると確信を持てないからこそ、他国からの批判を嫌悪する。
このメンタリティは自虐史観という言葉がよく示している。私自身は日本の侵略や戦争犯罪を殊更強調することを自虐とは捉えない。私にとって侵略や戦争犯罪は憎むべきものであり、それは日本の民衆をも不幸にするものだからである。
それを自虐と形容することは、侵略戦争を推進した人々や戦争犯罪を行った人々と同じ立場に立つことを意味することになる。それは「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」した日本国憲法前文の精神に反する。むしろ戦前の反省と決別の上に戦後日本があるならば、戦後日本人は外国人と同じ立場に立って日本の侵略や戦争犯罪を非難できなければならない。
無論、東京大空襲や原爆投下など、アメリカに対し、主張すべきことはあるだろう。しかし、それは戦前の否定・決別の上に行わなければ相手の理解は決して得られまい。前述の従軍慰安婦決議が可決された背景には、歴史を歪曲し、侵略を美化・正当化しようとする日本側の動きがあったことを忘れてはならない。
一方で、アメリカ人が過去の戦勝を誇りに感じ、勝つことの快楽を忘れられないために、現在でも世界中に軍隊を送り続けているのではないかという懸念が読み取れる。イラク戦争は太平洋戦争と同じと言えるのか、アメリカ人が考えなければならない問題である。戦争を推進する側が東条英機とサダム・フセインやテロリストを同視することで愛国心を煽るとしても、そこに論理の飛躍やすり替えはないか。ここでも重要になるのは過去を風化させない歴史意識である。何のために戦ったのか、正しい記憶を継承しなければならない。やはり過去を忘れないことはアメリカ人にとって大切なことである。
最後に本書評では話題が偏ったが、本書はシカゴとイリノイ州に関係する様々な話題に言及していることを申し添える。「観光コースではない」としつつ、観光客にも有益な内容が含まれている。本書はシカゴやイリノイの知識を得られ、アメリカ社会を知ることもでき、異文化社会を通して日本社会を考えることができる一冊である。
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マンション販売トラブルで「お詫び」 東急リバブル・東急不動産
http://www.news.janjan.jp/living/0710/0710023335/1.php
本書は那須高原でロハスな森暮らしを送る著者の体験記である。経済的には恵まれていながらも精神的には満たされていない中高年のセカンドライフとして森暮らしを勧める。定年後の田舎暮らしを奨める書籍は多数あるが、本書の特徴として2点ほど指摘したい。
第1に森暮らしに向くか向かないかの判断指針を簡明な形で提供している。森暮らしに憧れる人は少なくないが、住み慣れた地域を離れて移住することは非常にリスクが高い。移住後に問題が生じたとしても止めるならば膨大な資金と労力を無駄にすることになる。一定期間現地で生活を送って判断できれば良いが、あまり現実的ではない。
本書では通勤途上や休日に出会う樹木や花、昆虫や小鳥に興味を感じる人は森暮らしに向くと指摘する(126ページ)。都会は自然が少ないとはいえ、皆無ではない。その都会の自然に興味を持たない人が森の自然に感動することは期待薄である。森に行くまでもなく都会生活で森暮らしの適性が分かる本書の指摘は有用である。
第2に森暮らしの事例(ロハスの達人)を多数(10件以上)紹介していることである。これによって個人の体験談のみでは欠けがちな多様性を担保し、様々な背景を有する不特定多数の読者への説得力を増している。しかも紹介されたロハスの達人達は本書のために調査したものというよりも、むしろ著者の日々の生活で深めた親交に基づく面が大きい。このこと自体が人間関係の面で著者がセカンドライフを謳歌していることの証になる。
本書で注意すべき点は著者の説くロハスにはエコロジカルなライフスタイルが含まれるが、それはシャローエコロジーの要素が強いことである。本記事では3点ほど指摘する。
第1に本書の森暮らしは文明生活の享受が前提となっている。例えば著者は森暮らしでもテレビの利便性は変わらないと述べている(35ページ)。同じ森暮らしでも北海道中富良野町の竪穴式の小屋で電気・ガス・水道なしの生活を送る大浜五光氏(『遺書 唯物協動共感論に到達した田村了悟伝に代えて』ロゴス、2009年)とは趣が異なる。
また、著者は那須高原での森暮らしの利点としてスーパーが多いことを挙げる(118ページ)。スーパーに行くために自動車の使用が必須ならば、徒歩または自転車で買い物を済ませられる都会生活と比べてエコロジカルであるとは即断できない。
第2に本書では野生動物(イノシシやクマなど)による農作物被害を狩猟人口の激減に反比例すると分析する(215ページ)。野生動物が里に出て農作物を荒らすようになった原因として、開発により野生動物の棲みかが奪われたことへの言及がない点は、環境問題に敏感な層からは受け入れられにくいと思われる。
第3に本書で提言する中高年ロハス支援事業(44ページ)が新たな自然破壊の呼び水になる懸念がある。これは中高年に森暮らしを勧めるための事業だが、スーパーなどの生活関連施設の誘致も含まれている。
自然環境と都市生活の共存というコンセプトは田園都市構想でも既出のもので目新しさはない。しかも日本の田園都市は自然の残っている郊外を開発する謳い文句として利用され、無秩序な都市化の先鞭となりがちである。実際、田園都市の名を冠した東急田園都市沿線では乱開発の結果、他の地域と比べて地価下落が顕著であると報道された(「崩れ落ちるブランド住宅地 首都圏沿線別下落率で東急苦戦」AERA 2008年12月1日増大号)。
このように本書はディープエコロジストからは異論が生じる可能性がある。しかし、著者が訴えたいのは先鋭的な環境保護活動家ではなく、都市生活を享受しつつも物足りなさや問題意識を感じている大多数の人々の筈である。本書は彼らにロハスなセカンドライフの有意義さが十分に伝わる内容になっている。
告発のとき イラク戦争 PTSD
◇読者レビュー◇ 人間性を破壊するイラク戦争
本書は2008年6月28日に公開される米国映画(ポール・ハギス監督)のノベライズ版である。2003年に実際に起きたイラク帰還兵の殺害事件をもとに、泥沼のイラク戦争で人間性を破壊されたアメリカ軍の暗部を描く。従軍兵士の心を蝕むPTSD(心的外傷後ストレス障害)を直視したサスペンス・ドラマである。
退役軍人のハンクに、イラク戦争に従軍していた息子マイクがイラクからの帰還直後に失踪したとの連絡が届くところから物語が始まる。調査を続ける中で明らかになっていったものは、自由と民主主義のために戦う正義の英雄とは程遠いアメリカ軍の姿であった。
『告発のとき』は邦題で、原題は『In The Valley of Elah』である。これはエラの谷という意味で、旧約聖書サムエル記に登場する。後にイスラエルの王となる羊飼いの少年ダビデがぺリシテ人の巨人ゴリアテを倒した場所である。
果たしてアメリカ兵は巨人ゴリアテに立ち向かう勇敢なダビデと言えるのかと考えさせられるタイトルとなっている。むしろ人間性を破壊するイラク戦争を続けるアメリカ軍に抗議する声こそがダビデなのではないか、と自問したくなる。そして、この問題意識が邦題『告発のとき』につながっている。
原題の意味から離れた邦題は原題のイメージを壊すものとして、英語圏の文化に素養のある人にとっては不満が生じうるものである。しかし、上記のように考えるならば、本作品の真意を汲み取った一つの解釈として、味わい深さが感じられる。
過酷な戦場生活による人間性の破壊は日本でも他人事ではない。イラクに派遣された自衛隊員の自殺が問題を示している。自殺という形で自分を傷つけてしまう人がいるならば、攻撃の対象が他者に向かう人もいるのではないか。
アメリカと比べて自衛隊が閉鎖的で情報公開に消極的であるために明らかにされない面があるならば、日本の方が深刻である。当事者意識の薄い日本人向けだからこそ、よりストレートな意味合いを持つ邦題にする意義がある。
映像作品の小説版の良いところは、映像だけでは不十分な内容が文字により説明されている点である。これによって読者は映像だけでは分からなかった点も理解することができる。一方、説明が冗長になると物語のスピード感が損なわれるデメリットもある。
本作品でも、警察と憲兵の仕事の押し付け合いやヒスパニックへの差別感情など、アメリカ社会の背景は、本書を読んだ方が理解しやすいだろう。一方、本書は基本的に真実を追求するハンクの視点で描写されており、彼の調査の進展に応じて場面が展開する。そのため、映画を観るようなテンポで本書を読み進めることができる。
映画を観られる方にも観られない方にも推奨したい一冊である。
ポール・ハギス原案
講談社
2008年6月2日発行
167ページ
サミット G8 新自由主義
◇読者レビュー◇ 格差を拡大させるサミット体制
本書はサミット(先進国首脳会議)を頂点とする世界秩序(サミット体制)を批判的に解説した書である。サミットの歴史を振り返り、サミットの目的を明らかにし、サミット体制が各国にもたらした影響を説明する。
著者はサミット体制を多国籍企業の利益になるために世界各国に新自由主義的な経済政策を押し付ける体制と位置付ける。僅か8カ国の私的会合に過ぎないサミットがIMFや世界銀行などの超国家的機関を媒介として、世界の政治経済について事実上の政策決定を行っているとする。
1970年代以降、先進諸国はサミットを通して、資本の自由化や貿易上の保護主義の撤廃を進め、多国籍企業が経済活動を行いやすい環境の構築を図った。特に第三世界に対してはIMFや世界銀行を通じて構造調整政策を押し付けた。
この結果、多国籍企業は利益を拡大する一方で、大勢の人々は困窮した。輸入自由化による農業の崩壊や、労働法制の規制緩和による労働環境の不安定化、民営化による公共サービスの低下など人々の生活基盤を破壊し、貧富差を拡大させている。
本書では壊滅的な打撃を受けた例としてソマリアを挙げる。構造調整政策を受け入れたソマリアでは貿易の自由化による安価な輸入作物の大量流入や、農業従事者向け公共サービスの切捨てにより、国内の農畜産業が衰退した。ソマリアの食糧不足・飢餓は、構造調整政策による人災であると本書は主張する。
これまで私は、本書で強く批判されている新自由主義的な経済政策には大いにシンパシーを感じていた。日本の公務員の相次ぐ不祥事を出すまでもなく、政府を動かしているのも欲を持った個々の人間に過ぎないためである。政府の役割を過度に大きくするならば、それだけ腐敗と非効率の危険を大きくすることになる。
たとえ政府が適切に経済を管理すれば最適化できるとしても、政府を動かすのは神ならぬ人間であり、そこまで見通す力はない。自由放任により神の見えざる手が働くとは考えないが、政府の誤った政策による弊害の方がはるかに大きいため、政府の介入は可能な限り減らすべきというのが管見であった。
一方で新自由主義者とされる人々が外交・安全保障面ではタカ派の傾向を有することには違和感を覚えていた。小さな政府と軍事費増大は矛盾する。また、人間の不完全性を前提として国家権力の介入による弊害を避ける立場ならば、国家が起こしうる最大の惨禍である戦争に対して否定的になるのが自然と考える。
しかし実際は新自由主義者とされる政治家(サッチャー、レーガン、中曽根康弘ら)は揃ってタカ派である。これは私にとって一つの疑問であった。この疑問に本書は一つの回答を提供する。
1980年代に台頭した上記の新自由主義の政治家は正にサミット体制の申し子であった。そしてサミット体制が進める政策は多国籍企業の利益を守るものにほかならない。その主張する自由とは多国籍企業の経済活動の自由であって、利権の維持・拡大に必要ならば武力行使を躊躇しない。
その例として、本書ではアメリカによるイラク戦争を挙げ、戦争の目的を先進国の経済プロジェクトに従属的な政権を打ち立てることにあったとする。多国籍企業の経済活動を保護し、第三世界に対する経済支配を強化する点でサミット体制は、多くの人々にとって自由の対極に位置するものである。
サミットが開催される度に激しい抗議活動の対象となるのも、このためである。洞爺湖サミットの物々しい警備活動が報道されているとおり、警察権力に守られなければ開催できないのがサミットの実情である。サミットに抗議した人々の境遇と思いに共感するための想像力を働かせることがサミット体制を克服するための第一歩になる。
本書では2005年に中国各地で吹き荒れた反日デモもグローバル化への抗議活動と位置付ける。著者はグローバル化に揺れる中国の実態を以下のように描く。
「工場で働く人びとの大多数は低賃金であり、中国全土が日本の下請工場となりはじめている」「日本企業に出荷するために生産競争にさらされ、没落する農家さえあらわれているし、化学肥料の使いすぎで土壌汚染が進んでいることも否めない」(71頁以下)。
グローバル化による貧富差の拡大や農村破壊への中国民衆の怒りが、中国に大々的に進出しており、民衆にとって分かりやすい日本へ向かったとする。
本書で言及されているとおり、日本のプレカリアート(非正規労働者ら)が政府や企業への怒りを噴出させ始めていることは注目に値する。一方でネット右翼のように排外的な方向に転嫁して自尊心を満足させる傾向も見られる。例えば反日の声に嫌中で応じるのではなく、反グローバリズムとして連帯できるか、日本人の想像力が試されている。
以文社
2008年6月12日発行
定価:1,680円(本体価格:1,600円)
176頁
コメントありがとうございます。
ご指摘のとおり、市民一人ひとりが幸せに暮らせることにすることが本来の政治です。それがなされているとは言い難い現状が問題です。参政権を賢明に行使しなければならないと考えます。
本書は現代の天皇の祭祀と公務をまとめた書籍である。帯のコピーに「国民が思っているよりずっと、天皇陛下はお忙しい」とある通り、天皇には様々な仕事をしていることが理解できる。その中でも、あまり知られていない宮中祭祀について詳述したことが本書の特色である。
これまでの天皇論は日本国憲法第一章の条項から演繹的に結論を出す傾向が強かった。天皇制も国の制度の一つである以上、憲法に従わなければならない。法的には憲法に規定される故に天皇制が認められるのであり、その逆ではない。それ故に憲法から演繹する姿勢は誤りではない。
しかし問題は憲法から演繹的に現実を説明しようとする発想があることである。この場合、現実に天皇が行っている宮中祭祀は国事行為でもなく、公的行為とも呼び難いため、まるで存在しないかのような扱いとなる。しかし、これは現実を無視する非科学的態度である。その意味で本書の内容は貴重であり、天皇制に批判的な立場も含めて参考になる。ここでは考えられる論点を3点ほど指摘する。
第一に祭祀の宗教性である。天皇の祭祀が神道そのものであることが再確認できる。それ故に宮中祭祀は国家ではなく皇室行事とすることで政教分離原則との抵触を回避していると説明されることが多い。しかし、皇室と神道が不可分に結びついている以上、天皇を国民統合の象徴と仰ぐことは日本国において神道に特別な位置付けを与えることになる。これは国家による特定の宗教の優遇にならないか、または神道は習俗・慣習化しているから許されるのかという問題が生じる。
第二に祭祀の目的である。本書は祭祀が「単に宮廷・天皇のためだけではなくて、むしろ天下・万民のための行事として営まれてきた」と主張する(83ページ)。一方で四方拝は宇多天皇が藤原基経との権力闘争を打開したことの感謝を起源とし、純然たる天皇家の私的な繁栄を目的としていた。祝詞にも「朝廷再興」との言葉がある(49ページ)。
「君が代」を国歌とすることに対し、天皇を賛美する歌詞は国民主権にそぐわないとの批判がある。伝統的儀式と位置付けるならば問題は少ないとしても、「君が代」と同種の議論が当てはまる。
第三に政府要人の出席である。新嘗祭では内閣総理大臣、国会正副議長、最高裁判所長官らが拝礼する(75ページ)。三権の長の出席が当然視される行事は皇室行事として国家とは別個の行事と言い切れるか議論の余地がある。
本書の一方の柱である天皇の公務についてはユニークな評価をしている点が印象に残った。伝統的な憲法学の立場は天皇に積極的な意義を見出さない。日本国憲法は天皇主権の大日本帝国憲法の否定の上に成り立っているためである。君主の存在は国民主権と緊張関係にあるし、世襲による皇位継承は法の下の平等と矛盾する。そのため、実権のない象徴天皇制は民主主義への実害がないため許容されると説明される。
これに対して本書は天皇に「国民統合の象徴」(憲法第1条)としての意義を見出す。例えば首相や最高裁判所長官は天皇から任命されることによって、「単に賛成する与党や時の内閣を越えて、国家・国民全体のために働くべき存在として、権威を付与される」とする(140ページ)。このような考え方もあるのかと新鮮に感じた。
本書は日本の国会議員の少なからぬ割合を占める世襲議員を分析し、世襲議員が増えている理由及び問題点を明らかにし、改善策を提言する。
本書では世襲議員を「父母(義父、養父を含む)または祖父母が、同じ県内の選挙区で当選し、国会議員または知事(政令市長を含む)を務めていた国会議員」と定義する(19ページ)。このため、鳩山由紀夫・民主党代表は鳩山一郎元首相の孫にして、鳩山威一郎元参議院議員の子であるが、本書の定義では世襲ではない(準世襲に分類する)。北海道9区選出の鳩山代表は祖父(旧東京1区)や父(比例代表)の選挙区を引き継いでいないためである。
本書が世襲議員を厳格に定義するのは感情的な世襲批判ではなく、世襲の問題点を明確に意識するためである。地盤・看板・鞄を継承できる世襲候補者は選挙を有利に戦うことができる。それは非世襲候補者の不利の裏返しであり、幅広い人材が政界に集まることを阻害する。
日本の問題は制度が世襲議員に有利に作られていることである。政治家個人の資金管理団体は親族しか引き継げず、団体の引継ぎであるので相続税は課せられない(27ページ)。また、候補者の名前を書く日本の投票制度も世襲議員に有利に働く。外国では投票用紙に書かれた名前にチェックを入れる、または穴を開けるなどの方式が主流である。自書式では代々続いていて有権者に認知されている名前が有利である(41ページ)。
また、本書は世襲議員が消極的な選択で生まれる背景も明らかにしている。国会議員が引退する場合に県議や秘書によって後継争いが起きる場合がある。そのため、誰もが反対しにくく後援会が団結できる息子や娘が無難な選択肢になってしまう(25ページ)。
安倍晋三元首相と福田康夫前首相が連続して政権を投げ出したことが象徴するように世襲議員には脆弱というイメージがある。ここには本人の志よりも、組織の分裂を恐れる後援会幹部の意向で世襲候補者が擁立される組織事情に問題がある。本来ならば意欲のある人達が徹底的に後継者争いをすることで有権者に選択肢を提示し、政治にダイナミズムをもたらすことになる。
最後に本書は2009年7月9日発行であり、歴史的な政権交代が実現した第45回衆議院議員選挙(8月30日投票)の結果は反映されていない。本書の分析によって自民党が他党と比べて世襲議員の割合が圧倒的に高いことが明らかになった。世襲議員の多さは日本の特徴というよりも、自民党が多数派であるために国会議員全体でも多くなるという面がある。このため、自民党が凋落した現在の衆議院議員中の世襲議員の割合に興味がある。その結果次第では日本における世襲議員の多さは、これまで自民党を支持してきた国民の民度に帰着する可能性がある。
本書は世界を支配する闇の勢力の存在と陰謀を告発した書籍である。闇の勢力とは古代バビロニア時代から現代まで続く秘密組織ルシフェリアンである。そして宗教改革、フランス革命、明治維新、ロシア革命、911同時多発テロなど歴史上の大事件の陰にはルシフェリアンの陰謀があったとする。
資本家(ロスチャイルド家、ロックフェラー家)やユダヤ人、フリーメーソンを世界支配の黒幕とする陰謀論は数多い。本書に登場する陰謀の内容は既存の陰謀論と重なる。本書の独自性は黒幕勢力をルシフェリアンとした点である。ロスチャイルド家やロックフェラー家、フリーメーソンはルシフェリアンの一党または手先という位置付けである。
黒幕勢力を資本家やユダヤ系組織ではなく、ルシフェリアンとすることによって、より納得のいく陰謀論の説明が可能になる。
第一に陰謀論では世界を支配している黒幕勢力が破滅的な戦争(第三次世界大戦、ハルマゲドン)を引き起こすことを企んでいるとするが、ここには大きな矛盾がある。黒幕勢力が世界を支配しているならば、世界を破滅に追い込むことは自らの支配基盤を危うくすることになる。これは支配勢力にとって合理的な選択とはいえない。しかし、バビロニアの宗教の一部を勝手に取り入れて歪曲したキリスト教に根深い恨みを抱いているルシフェリアンが現社会を破滅させようとすることは不自然ではない。
第二にアメリカのイラク戦争についてである。イラク戦争はイラク人民にとって悲惨な結果をもたらしているが、それはアメリカ国力も消耗させ、声望を貶めている。中東民主化、大量破壊兵器、石油利権などでは正当化できず、アメリカにとって合理的な選択とは言い難い。しかし、バビロニア王国の復活をもくろんでいるとするならば、説明としては筋が通る。
本書には信じ難い内容が多いが、著者に対する奇妙な攻撃が逆に著者の主張の説得力を増大させている。著者が911事件を追及し始めてから、著者を陥れようとするイメージ操作が何者かによって行われるようになったという(169ページ)。インターネット上では頭がおかしくなったと誹謗中傷する書き込みがなされ、UFOを信じている狂人とラベリングされたとする(170ページ)。
記者は購入したマンションのトラブルから売買代金の返還を求めて売主の東急不動産を提訴した経験がある(「マンション販売トラブルで「お詫び」 東急リバブル・東急不動産」)。
http://www.news.janjan.jp/living/0710/0710023335/1.php
裁判中にはマンションの他の住戸に怪文書を配布され、住宅ローンの返済に窮したために訴訟しているなどと事実無根の風評を立てられたことがあった。それ故に著者への攻撃は実感をもって理解できるし、それがあるために一層、著者の主張を信用したくなる。
本書のタイトルは「世界と日本の絶対支配者」とあるが、本書を読めばルシフェリアンは決して万能ではなく、その支配は破綻し始めていることが分かる。本書の趣旨はルシフェリアンのなすがままにされる現状を追認することではなく、ルシフェリアンの支配に抗うための知恵を提供することにある。
とりわけ著者は日本に期待している。現在の日本は中国脅威論が喧伝され、嫌中思想が根付いている。本書は、これをルシフェリアンの情報操作の結果とする(219ページ)。韓国も北朝鮮も中国もロシアも嫌いという、雇われ右翼的発想では日本は極東で孤立する。孤立した日本はアメリカに依存するしかなく、ルシフェリアンはアメリカを通して支配できる。
著者は「真の改革を実現し、本物の独立を勝ち取ることができるか?日本はいま、正念場を迎えている」と結ぶ(234ページ)。陰謀論を信じられない人でも、日本が対米従属状況のままでいいのか、日本人が嫌韓や嫌中になることで得をする勢力がいるのではないか、と考えることはあるだろう。本書は多面的な考察をするための材料を与えてくれる一冊である。
本書は在日コリアンを当事者とした裁判や事件をまとめたものである。在日コリアンは在日韓国・朝鮮人とも呼ばれるが、この記事では本書の呼称にあわせて、在日コリアンで統一する。本書は副題に「中高生の戦後史理解のために」とあるとおり、平易な言葉で分かりやすく説明しており、専門的な法的知識がなくても読み進めることができる。
本書で紹介された在日コリアンをめぐる裁判や事件は実に多岐に渡る。刑事事件、従軍慰安婦、BC級戦犯、サハリン残留コリアンの帰還問題、日本国籍確認訴訟、就職差別、教育権、ウトロ裁判、入居差別、ゴルフ会員権差別、指紋押捺拒否訴訟、無年金差別、管理職裁判、司法修習生、調停委員・司法委員、地方参政権である。
驚かされるのは本書の裁判や事件が現代日本の法的論点の多くをカバーしていることである。私は大学及び大学院で法律学を専攻したが、本書の判決は大学の講義で紹介されたものも少なくない。私が殊更、在日コリアンの問題に集中していたわけではない。
在日コリアンが当事者となった裁判の判決の多くが、良い内容であれ、問題のある内容であれ、司法の場では先例となっているという現実がある。在日コリアンの問題を掘り下げれば、日本の社会と歴史が見えてくるのである。副題の「戦後史理解のために」は決して誇大広告ではなく、文字どおり、在日コリアンの裁判が戦後史理解の鍵になる。
より驚かされるのは在日コリアンの抱える問題が、一般の日本人にとっても決して他人事ではないことである。在日コリアンは日本社会においてマイノリティーである。同質性の強い日本社会を当然視する日本人が在日コリアンの問題について関心が低い傾向は否めない。
本書は「はしがき」で「在日コリアンと呼ばれる民族的なマイノリティー(少数者)が戦後の日本社会をどのように生きてきたかを知ってもらうこと」を本書の目的の一つとする。ここには、これまで在日コリアンの問題について広く知ってもらいたいという思いがある。日本社会が直視してこなかった在日コリアンの問題に光をあてただけでも本書には意義がある。
しかし、本書を読めば、在日コリアンが抱える問題は在日コリアンであるが故の問題とは言い切れないことが分かる。確かに在日コリアンは在日コリアンであるが故に差別され、非合理な扱いを受けている。しかし民族の相違が根本的な問題ではない。在日コリアンを差別する日本社会は、日本人に対しても同じように牙を向けることを認識する必要がある。
金喜老事件では静岡県警による民族差別が問題になったが、当の警察官は「私には朝鮮人を侮辱したことは身に覚えのないことであるが、万一そういうことがあったら謝罪する」と何ら謝罪になっていない相手の感情を逆撫ででする発言で応じた(54頁)。過去の問題を直視しない警察組織の不誠実は、日本人に対する冤罪事件でも見られるものである。
また、在日コリアンは日本国籍を持たないという理由で就職や入居を断られている。これも在日コリアン特有の問題ではない。たとえば老人も同じである。就職したいと思っても年齢制限に引っかかることが多い。独居老人には家を貸してくれないことも多い。
在日コリアンの差別を放置・助長するような政府では日本人の人権を保障してくれるかも疑わしい。日本国憲法が保障した自由や平等や個人の尊厳が、いかに日本社会に定着していないか、愕然とする思いで本書を読んだ。この意味で差別を是正するための在日コリアンの裁判闘争は、日本人の人権状況も向上させるものである。
最終章では「残された課題」と題して在日コリアンの参政権の問題について紙数を割いている。裁判によって権利回復を図ろうとしてきた在日コリアンが参政権に行き着くことは当然の帰結である。何故ならば多くの判決が、在日コリアンへの配慮が欠いている現状を認めつつも、立法政策の問題として在日コリアンを敗訴させている現実があるためである。
どのような法制度を採用するかは一義的には国会が決める問題である。そのため、裁判所は国会の判断を尊重し、法律が存在しないのに、または法律に反してまで在日コリアンを救済することに消極的であった。このような裁判所の姿勢は司法消極主義と呼ばれ、強い批判も存在する。
司法消極主義が正当化できるとしたら、国会が国民の代表者である国会議員によって構成されているためである。国会議員が国民の代表者であるという図式(治者と被治者の自同性)が成立する限りにおいて、国会の議決は国民の意思を反映したものとなる。仮に国会の議決が不当であり、国民の利益を損なうものであるならば国民は次の選挙で国会議員を代えることができる。故に裁判所としては国会の判断を尊重すべきとの結論が導かれる。
この司法消極主義の論拠に対しては少数派を考慮していないとの批判がある。そして少数派の権利を守ることこそ、司法の務めであると問題提起されている。一方で在日コリアンにとって司法消極主義は大変な問題である。在日コリアンには選挙権・被選挙権が認められていないためである。在日コリアンには自分たちの代表を選ぶ権利がない。それなのに裁判所は国会で決めるべき問題であるとして門戸を閉ざしてしまった。在日コリアンは参政権を持たなければ救済されないのである。
本書は多くの日本人に読んで欲しいと思える一冊である。在日コリアンの問題は在日コリアンだけの問題ではない。在日コリアンの尊厳が守られていないという状況は、日本で生活する人全てにとっても人権の危機である。本書は日本に暮らす全ての人が尊厳をもって生きていけるような社会を構築するための重要なテキストになるであろう。
本書は歌人の金夏日(キム・ハイル)氏の短歌と随筆を収録した歌集である。金氏は1026年、日帝植民地時代の韓国慶尚北道に生まれ、1939年に日本に渡って以来、在日コリアンとして生活する。1941年にハンセン病を患い、施設生活を送ることになる。
在日コリアン差別とハンセン病患者差別という近代日本の負の側面の生き証人ともいうべき人物である。その金氏が自己表現の手段として短歌という支配民族の文学形式を駆使していることには、文学の持つ普遍的な力を実感する。これは「ストライク」を「よし」と言い換えるなど外来語を敵性語として排除した戦時中の日本の偏狭さとは対照的である。
金氏の長兄は太平洋戦争中に海軍軍属に取られ、戦死した。その兄の戦死を「他国より押し付けられし金岡姓名乗り続けて戦死せし兄」と詠む(73ページ)。ここでは感情を表に出さない淡々とした表現でありながら、文化的ジェノサイドと形容できる日帝支配の残酷さを強く訴えている。
本書のタイトル「一族の墓」は金氏の韓国慶尚北道の山中にある先祖代々の墓を指す。墓のある山が金氏の知らないところで売却されてしまったが、事実を知った金氏は山を買い戻し、整備した。「兄の墓両親の墓われの墓一族の墓山に並べり」(37ページ)との短歌には先祖伝来の山を守り、自分や家族の墓を加えることができた金氏の万感の思いが込められているようで胸に迫るものがある。
金氏は、らい予防法違憲国家賠償請求訴訟原告団の一員であり、国賠訴訟で得た賠償金を山の買戻し代金の一部に充てたという(150ページ)。金氏の日本政府に対する裁判闘争はハンセン病患者としての尊厳だけでなく、民族的アイデンティティーの回復という二重の意味が存在したことになる。
金氏の短歌には日常生活をそのまま歌にしたような作品も多い。たとえば「民営化にて小さな栗生郵便局国際為替組めなくなれり」という短歌がある(125ページ)。これは郵便局が地方在住者にとって重要なインフラであることを示している。国際為替の取り扱い廃止は地方では国際為替の需要は少ないとの判断だろうが、海外に親類縁者の多い在日外国人にとっては死活問題である。2005年の郵政解散総選挙で熱病のように支持された郵政民営化では論じられなかった問題点である。
短歌に慣れていない人にとって、短歌を詠むことは特別な作業と身構えてしまいがちである。これに対して、著者は日常生活の中で感じたことを自然に詠んでいる。日常生活で感じたことを五七五七七にまとめた形になっているが、音読すると豊かなリズムが生まれてくる。
たとえば墓地に舗装した道路が開通し、テープカットをした際の短歌「いくつものテープカットの爽やかな鋏の音が秋野に響く」がある(30ページ)。「の」を繰り返し、名詞にも「の」で終わらせる言葉「秋野(あきの)」を使うことで心地よいリズムが生じる。一見すると簡単そうでありがながら、言葉の選択を細心の注意を払う短歌の奥深さを実感した。
本書は韓国の小説である。日本は独島(竹島)の領有権回復を名目に韓国を攻撃する。これに対し、韓国と北朝鮮は協力して核ミサイルを開発し、日本の侵略に応戦する。韓国軍は東京を含む日本の大都市に核ミサイルを撃ち込む能力があるにもかかわらず、わざと目標をそらし、日本に対する警告にとどめた。
日本は竹島を名目に戦争しながら、韓国の経済力を破壊するために工業地帯を徹底的に空爆し、破壊し尽す。そのような被害を受けた後ならば日本の大都市に向けてミサイルを発射して応戦を試みるのは当然の対応である。
自国の工業地帯が日本から空襲を受けている状態での韓国政府の度量には外国人ながら評価に値する。本作品は日本では「反日」とラベリングされる傾向にあるが、そのような見方しかできない日本社会こそ狭量さを示している。
日本人は他国民を平気で傷つけるのに対し、自国の被害にだけは過剰反応する傾向がある。むしろ焼け野原から経済大国にしてしまうような前に進むことしかできない能天気な発想を持たない他国民は侵略の傷跡を深く記憶していることを認識すべきある。
歴史を自国に都合よく歪曲し、自国を美化してしまう非科学的な性向は日本人に対する批判として非難されている。侵略戦争を行った日本を殊更美化することはリアリティに反し、歴史の歪曲である。「国賊」「売国奴」と発言するような幼稚な人間が、無益で不毛な戦争を推し進めた。愚かな国家が存在するために犠牲になる者が存在する。愚かな主導者が存在するために環境が破壊される。
『紺碧の艦隊』のように現実とはあまりに違いすぎる美化された日本軍が連戦連勝を続けるような作品が典型である。韓国の立場に立てば、日本が植民地支配される『コードギアス』でさえ、筋違いの被害妄想を植えつけ、侵略を正当化する言説に寄与しかねないと批判することができる。
日本を美化するのではなく、植民地支配に苦しむ人民の痛みに思いを馳せることが国際化社会における日本人に求められる。決して焼け野原から経済大国にしてしまうような恥ずかしい方向にエネルギーを費やすのではなく、過去を直視することが大切である。
記者は右翼でも左翼でもない。記者を突き動かしているものを挙げるならば反東急リバブル東急不動産である。私は東急不動産(販売代理:東急リバブル)から一生に一度あるかないかの大きな買い物で無価値の物件を騙し売りされた経験がある。
それ故に弱者や虐げられた人々にはシンパシーを抱く。焼け野原から経済大国にしてしまう前に進むことしかできない発想ではなく、虐げた元凶と徹底的に戦う姿勢を全面的に支持する。
史実に反する日本軍の美化
日本軍の侵略により甚大を受けたアジア人民の苦痛を否定し、日本の戦争犯罪を隠蔽し、日本の戦争責任から目をそらして歴史を美化することは史実に反する。歴史歪曲教科書と批判された検定前の扶桑社の教科書白本に「歴史は科学ではない」と記載されていることが、それを物語っている。
アジア人民が焼け野原から経済大国にするような前に進むことしかできない愚かしい方向にエネルギーを浪費せず、あくまで過去を直視し日本の戦争責任を追及する姿勢を持ち続けることは世界にとって好ましいことである。同様に東急リバブル東急不動産の騙し売りの問題を直視し続けたいと考える。
敗戦記念日
韓国にとって8月15日は、日本の過酷な植民地支配から解放された光復節として歓迎すべき日である。日本の敗戦はアジアの国々に根付いている負の対日感情を日本が直視しない限り、アジアとの真の友好はあり得ない。
戦時中の日本では多くの政治犯が獄中にあったが、敗戦後も数ヶ月間は釈放されなかった。政治犯釈放運動や政治犯への面会に積極的だったのは在日朝鮮人であった。「政治犯釈放の運動をやったのは、朝鮮人です。日本人はこわがって、治安維持法でやられた連中でさえこわがってなかなか来ない」(山辺健太郎『社会主義運動半世紀』岩波新書、1976年、216頁)。日本人の政治犯に対する釈放・出獄歓迎運動で友好・連帯を示した在日朝鮮人の勇気と度量を評価したい。
日本語を読めず、論理破綻したコメント読むと、東急リバブル東急不動産の愚かしさが思い出されます。東急リバブル東急不動産も、ろくな反論ができないくせに「隣地建物が建て替えられて綺麗になるから良い」などと日照が皆無になる人に対する嫌がらせ発言だけは上手であった。ちょうど植民地支配でインフラ整備したのだから強制連行や従軍慰安婦で奴隷にされても感謝しろというネット右翼と同じ論理を東急リバブル東急不動産が有していることは興味深い。
本書(張誠a著、吉崎英治訳、田原総一朗監修『金正日最後の賭け 宣戦布告か和平か』ランダムハウス講談社、2009年7月29日発行)は韓国の政治学者による金正日及び朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)のドキュメントである。
北朝鮮は日本が未だに国交を正常化できていない唯一の近隣諸国であり、その動向は日本の安全保障上重要な関心事である。しかし、日本における北朝鮮についての言説は、あまりに感情的なものや、過度に脅威を強調するものが目立つ。これに対して、本書は等身大の北朝鮮を冷静に分析している。
たとえば北朝鮮の特殊性に注目する論者が多い中で、本書は北朝鮮と中国、ベトナムの共通性に着目する(180頁)。共にソ連崩壊後も政治的には社会主義国として残っている。これらの国は日本などの帝国主義国家の植民地支配を受け、人民が命がけで民族解放運動を起こした点で類似する。日帝支配の中で反帝国・反植民地主義に基盤を置く抵抗的民族主義意識が人民の間に浸透している。この点が簡単には崩壊しない北朝鮮の体制分析のポイントになる。
北朝鮮の核開発は北東アジアの安全を脅かす国際問題になっているが、現在の国際情勢の下では北朝鮮にとって合理的な選択であることを本書は示す。北朝鮮がアフガニスタンやイラクと異なり、アメリカから攻撃されないのは核のお蔭であると北朝鮮は考えている。加えて経済不振に苦しむ北朝鮮が通常兵器の維持拡大に資金を注ぎ込み続けることは困難である。核兵器は最新鋭の通常兵器を大量配備することよりも相対的に安価である。そのため、核開発には北朝鮮の国防費を縮小する狙いもある(193頁)。
核開発は北朝鮮にとって合理性があるため、北朝鮮に核開発を放棄させる解決策として、本書は核兵器と同じレベルで体制の安全を保障する外交的代替策を提示することを主張する(205頁)。そのためには核問題と経済協力を切り離し、経済的相互依存関係を高めることで軍事挑発の素地を減らし、開放政策を採れるように誘導していくべきとする。
北朝鮮の核開発は国際社会が等しく憂慮するが、米国や中国が憂慮する理由は日本人には予想外なものであった。米国や中国にとって脅威は北朝鮮そのものではなく、北朝鮮の核開発に対抗する日本の軍拡・核開発である(311頁)。米国も中国も過去に日本の軍事攻撃を受けたという共通の歴史を有する。この発想は拉致問題の被害者意識に凝り固まった日本では出てこない。今起きていることだけでなく、歴史的スパンで考えることの重要さを実感した。
本書はタイムマネジメントについての考え方と具体策をまとめたものである。本書は大きく4つのパートに分かれている。
第一の「なぜ、ホワイトカラーの生産性は向上しないのか?」ではホワイトカラーの生産性向上策についての誤った常識を批判し、発想の転換を迫る。
第二の「仕事の「見える化」を達成するための12の法則」では、仕事を可視化するためのルールを説明する。
第三の「こうして生産性は一気に向上した!」はタイムマネジメントの成功事例を紹介する。
最後の「これが「社員力」を「経営力」にする特効薬だ!」はIT技術の活用策を説明する。
タイムマネジメントが求められる背景として、日本のホワイトカラーの生産性が先進国で最低水準にあるという問題意識がある。マネジメントするためには対象を把握しなければならない。そこでIT技術(主にマイクロソフト製品)を活用して仕事を可視化する。即ち仕事の可視化・見える化によって生産性を向上させることが本書の狙いである。
本書の立場を裏返すならば、日本のホワイトカラーの生産性の低さは、タイムマネジメントができていないことが原因となる。日本のホワイトカラーは諸外国の労働者と比べて時間を大切にしていないことになる。著者は「ホワイトカラーの生産性の低さは、日本の特異性ともいえます」とまで指摘する(14頁)。ここに私は戦後日本の負の遺産・モーレツ社員の残像が感じられてならない。
モーレツ社員は高度経済成長期に描かれた従業員像である。ひたすら前に進むだけのモーレツ社員の発想では、効率よく仕事を進めるタイムマネジメントが定着しないことは当然である。失敗しても時間を無駄にしても、最後には徹夜でもして気合と根性で頑張れば挽回できるという発想では、これまでの仕事の進め方を見つめ直し、組織の体質改善を進めていこうとする思想は受け入れられにくい。
現代日本ではモーレツ社員は過去の遺物となり、多くの場合、否定的ニュアンスで使用される言葉になった。これは日本の労働環境が多少は人間的になったという意味で喜ばしいことである。一方で多くの企業ではモーレツ社員だった人々が重役クラスに出世しており、本質的なところは変わっていないのではないかと感じている。
タイムマネジメントの先達を自認する著者は、タイムマネジメントという言葉自体は人口に膾炙しつつあるものの、まだまだフロンティアの段階と現状を分析する。日本企業には浸透していないのが現実である。タイムマネジメントが広く日本企業に受け入れられるようになれば「人間を幸福にしないシステム」とまで酷評された日本の企業社会も人間的なものに変わっていく筈である。
本書はビジネス書であり、スキルアップを目指すホワイトカラーや組織の生産性向上を目指す管理職・経営者を対象とする。一方で日本人の長時間労働は古くは欧米諸国から不公正競争と批判され、過労死の温床となり、最近では少子化や家庭崩壊の要因とも指摘される。タイムマネジメントによる生産性向上が労働時間短縮に結び付くならば、社会的要請となっているワーク・ライフ・バランス(仕事と生活の調和)にも効果的である。その意味でもタイムマネジメントの普及に期待したい。
本書ではタイムマネジメントのための様々な具体策を紹介するが、書評での紹介は控える。本書のような書籍の価値は文章表現よりも、上記の具体策のようなアイデアにある。アイデア自体は著作権の保護対象外であるが、著者の立場は尊重したい。個々の具体策については是非とも各自が本書を手にとって確認されることを希望する。
本書は経済アナリストの森永卓郎氏が大不況という大変な時代を生き抜くヒントをまとめた書籍である。同じ著者の2007年の書籍『緊急版 年収120万円時代 生き抜くための知恵と工夫』をアップデートした内容になっている。本書は大きく3つの部分から構成される。
第一に書名にもなっている年収120万円時代が迫っているという事実を明らかにする(第1〜3章)。サブプライム・ショックに端を発した金融危機の影響が大きいが、日本社会が格差を助長・固定化する方向に進んできた結果である。最近株価が底を打った感があるが、経済危機の要因は解消されていないことが理解できる。
第二に経済危機を打破するための政策提言である(第4章)。著者の提言は共感できる内容が多いが、それ以上に衝撃的であったのは現在の日本政府が著者の提言の正反対の方針を採っていることである。日本政府の政策には大企業の負担を軽くし、貧しい人々から増税しようとする傾向が見られる。日本社会の格差が深刻化するのも当然である。
第三に個人レベルで年収120万円時代を生き抜くための知恵を紹介する(第5〜6章)。ここが本書の肝になる。資産運用では伝統的な運用方法(預貯金、株式、金)への評価が高い。一方、外貨預金や投資信託、不動産投資信託(REIT)のような比較的新しい運用方法には辛口である。
特に不動産投信は「冬の時代」と表現する(169ページ)。「メンテナンス費用や固定資産税、さらには値下がりによる含み損を考えれば、資産運用どころか資産を目減りさせる元凶になりかねません」と不動産を切り捨てるためである(171ページ)。これは不利益事実を隠してだまし売りされた新築マンションの売買契約を取り消した私にとって大いに納得でき、励まされる言葉である(参照「マンション販売トラブルで「お詫び」 東急リバブル・東急不動産」)。
http://www.book.janjan.jp/0906/0905304289/1.php
著者は資産を増やすだけでなく、最低年収で楽しく暮らすための知恵を身につけるべきと主張する。それは高額な物の消費をステータスとする見栄を捨てることである。著者は「「負け組」になる不安を怯えながら毎日走り回るような生活を続けるのか、あるいは「勝ち組」になるという幻想を捨てて、自由な時間を余裕を持って楽しめる生活を求めていくのか」と問う(203ページ)。弱肉強食のアングロサクソン型資本主義の行き詰まりは明らかだが、それを変えていくのは人々の消費行動であると実感した。
著者:森永 卓郎
出版社:あ・うん
定価:1400円+税
発行日:2009年4月22日
本書はデータベースのトップベンダーである日本オラクルの歴史や戦略を明らかにした書籍である。各部門のキーパーソンにインタビューして日本オラクルの全体像に迫っている。本記事では日本オラクルの成功を特徴付ける要素として2点を指摘したい。
第一に日本オラクルは米国Oracle Corporationの日本法人であるが、米国流のビジネスモデルにこだわらなかったことである。アメリカのビジネスモデルを直輸入するのではなく、日本市場にマッチした手法を採った。
オラクルは北米では売上げの7割が直接ユーザーに販売する直販であり、日本法人にも直販を重視することを指示していた(107ページ)。これに対して日本オラクルは代理店(パートナー)を経由して販売するパートナー・モデルが売り上げの約9割に達している(158ページ)。日本側が米国本社にパートナー・モデルの素晴らしさを苦労して認めさせた結果である(161ページ)。これが日本での成功をもたらした。
この日本オラクルの日本に根付いた姿勢を象徴するのが新社屋・オラクル青山センター24階に設けられた茶室「聚想庵」である。茶室の設置は日本らしい施設として、日本文化を愛するOracle Corporationの共同設立者ラリー・エリソンと相談して決めたという(126ページ)。最先端のIT企業と茶室は妙な取り合わせである。しかし、室町時代後期や安土桃山時代に南蛮貿易で栄えた堺の豪商らによって茶道の礎が築かれた歴史を踏まえれば意外と合っていると考える。
第二に過去の成功体験に囚われないことである。上述のとおり、パートナー・モデルは日本オラクルの成功の原動力である。しかし、オラクルがデータベースだけでなく、様々なミドルウェアやアプリケーションを扱うようになると課題が生じた。ミドルウェアやアプリケーションでは顧客の課題に応えるソリューションを提案する必要がある。そのため、日本オラクルの営業が早くから顧客に直接訪問するエンタープライズ・セールスを展開するようにした(162ページ)。ここにはパートナー・モデルに安住しないオラクルの積極性がある。
本書は外資系IT企業を取り上げたために、外来語が非常に多い。たとえば「EBS、SCMの製品群ですとか、そのライセンスの数字をマキシマイズするのが役目です」(204ページ)というような表現が頻繁に登場する。IT業界の用語になれていないと面食らうが、本書から得られる教訓(日本市場にマッチした売り方をすることや過去の成功体験に囚われないこと)はビジネスにおいて普遍的な内容である。IT業界の成功事例も他業種で応用可能であることが理解できる。
本書は米国で活躍するインド生まれの経済学者が、日本と米国を中心として混乱する資本主義の現状を分析し、今後の処方箋を提示した書籍である。タイトルは「資本主義最終章」「大恐慌」とインパクトが強烈だが、内容は穏当である。
著者の主張は明確である。昨今の経済混乱の原因を「金融システムにあるのではなく、世界の消費者の購買力が低いこと」にあると主張する(131ページ)。金融システムが根本原因ではないため、金融システムを救済しても危機を脱することにはならない。消費者の購買力を高めなければ経済成長はあり得ないことになる。
消費者の購買力が低められた一因として本書は興味深い分析をしている。それは米国のレーガン政権を「最悪の社会主義的政権」と規定していることである(93ページ)。本書がレーガン政権を社会主義的と呼ぶ理由はレーガン政権が富の再分配を実施したためである。但し、レーガン政権は金持ち優遇減税など「貧しい人々から富を奪って、金持ちに配った」点で従来の社会主義とは正反対であり、それ故に最悪の社会主義的政権となる。
一般にレーガン政権の新自由主義的政策は社会主義の対極と位置付けられており、それを社会主義的と呼ぶ本書はユニークである。ここでは新自由主義を評価する上で忘れがちな留意点を教えてくれる。新自由主義は「民間にできることは民間に」を合言葉に小さな政府を志向するものである。政府の役割を減らすという主張は、肥大化した政府による人権侵害を警戒するリベラル派からも同意を集めやすい。これが先進諸国で新自由主義が席巻した一因であるが、政府の役割を減らすことで何を実現したいのかという点が置き去りにされてきた。
競争原理にさらされていない政府機関は非効率だから小さな政府とすべきとの主張は納得しやすいが、主張者に貧者から収奪して富者を富ませる「富の再配分」の動機が隠れていないか慎重に吟味すべきである。さもなければ、かんぽの宿関連施設を僅か評価額1000円で取得した東急リバブルが4900万円で転売した事例に象徴される不明朗な濡れ手で粟の暴利が横行してしまうだろう。
本書の説く危機からの脱出方法は公共事業などによる重要喚起であり、物足りないほどオーソドックスである。それでも実効的な需要創出にターゲットを絞ることを主張しており、日本政府のバラマキ型経済対策とは一線を画す。たとえばアニメの殿堂について、「どれほどの雇用創出効果、景気刺激効果、また、内需拡大効果があるのか」と批判する(211ページ)。経済について一つの視点を提供する一冊である。
著者:ラビ・バトラ
監訳者:ぺマ・ギャルポ、藤原直哉
出版社:あ・うん
定価:1400円+税
発行日:2009年7月13日
強欲資本主義の崩壊
ラビ・バトラ『資本主義最終章の始まり 大恐慌2009〜2010』は資本主義の崩壊を予言する。派遣切りや期間工の雇い止めについて「企業やその経営者、人事担当者が、いかに強欲に自社の利益のみを追求しているかということのあらわれであり、なによりも企業の自己矛盾なのだ」と痛烈に批判する(208頁)。
目先の利益から、その場しのぎの方策しか考えない企業姿勢は林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』に登場する東急リバブル・東急不動産と同じである。ここでは不利益事実(隣地建て替えなど)を隠して新築マンションをだまし売りした。この事件は消費者が勝利し売買代金を全額取り戻したが(東急不動産消費者契約法違反訴訟、東京地裁平成18年8月30日判決、平成17年(ワ)3018号)、これが資本主義の実態ならば、そのような強欲資本主義は崩壊すべきである。
本書は悪徳商法を潜入取材し、キャッチセールス評論家の肩書きを持つルポライターとプロのマジシャンが対談により、だましの手法を解き明かす内容である。「まえがき」と「あとがき」を除き、最初から最後まで対談形式で進行する。
記者は東急不動産(販売代理:東急リバブル)から不利益事実(隣地建て替えなど)が隠された新築マンションを購入したという被害経験がある。本書で明らかにされた「だましの手口」は恐ろしいほどに記者の経験と重なるものであった。
例えば本書では「悪質業者は客に充分に考える時間を与えず、契約の決断を迫ってくる」と指摘する(157頁)。東急リバブルも「決算の関係」という名目を持ち出して記者に6月中の契約締結を迫った。
また、上手くだますためのテクニックとして「余計な嘘はつかない」ということが紹介される。「だます側が積極的に「嘘をつく」のではなくて、相手が勝手に思い込むことで、こちらが望む結果を示してくれればいい」という(147頁)。
これはまさに記者の被害経験にあてはまる。東急不動産はマンション建設後に隣地が建て替えられることを知っていたにもかかわらず、販売時に説明しなかった。しかし、トラブルになると東急不動産の担当者は「隣地が建て替えられないとは言っていない」と言い訳する。問題は東急側が隣地建て替えというマンション購入者が嫌がる不都合な事実を販売時に説明しなかったことであるが、「嘘はついていない」と論理をすりかえている。まさに本書で紹介された、だます側の論理である。
このような主張をする悪徳業者に対しては、消費者契約法の不利益事実不告知が消費者の強力な武器になる。記者も不利益事実不告知を法的根拠として売買契約を取り消した。
不利益事実不告知は業者が利益となる事実を告知しながら、不利益となる事実を告知しなかった場合に消費者に契約の取消権を与える制度である。これは一定の条件下で業者に不利益な事実を説明する義務を課したものである。これによって「嘘はついていない」という悪徳業者の言い訳を封じ込めることができる。
不利益事実不告知が悪徳業者への有効な対策になることが本書からも裏付けられた。本書では「絶対にだまされない秘訣」などはなく、「人は皆、だまされやすい成功を持つ」とする(158頁)。残念ながら悪徳商法の被害者がゼロになることはないだろうが、悪徳業者の痛いところを突いた消費者契約法が積極的に活用されることを期待したい。
多田文明、ゆうきとも
『だましの技術!』
メディアファクトリー
2009年1月31日発行
流通ジャーナリストにして、国際値切リストの金子哲雄氏が『「値切り」のマジック』(講談社)を刊行する。その金子氏にライフワークとなった値切りへの情熱と極意をうかがった。
定価19800円のところを9800円で購入したスーツをはじめ、上はメガネから下は靴まで値切り購入品で身を固めた金子氏は開口一番、「安売りには悪い安売りと良い安売りがある」と説明した。悪い安売りは利益を削って安く売る、業者を叩いて安く売らせることである。これではデフレスパイラルに陥ってしまう。これに対して、良い安売りは在庫調整型の安売りで、ここに値引きの存在理由がある。
在庫を抱え過ぎることは売り手のコストを増加させる。それ故に値引きしたとしても顧客が購入するならば売り手にとってもメリットになる。値引きは売り手に強要するものではなく、売り手の「在庫処理のお手伝い」というスタンスである。しかも抱え過ぎた在庫は廃棄されてしまうこともある。そのような商品を値引きによって購入することはエコにも貢献する。これが金子氏の値引き哲学の出発点となっている。
―値引き交渉しなければ安くならない業者よりも、最初から値引きの余地のない価格で販売する業者の方が誠実と評価できます。交渉しなければ適正価格で購入できない市場は資本主義として遅れているのではないでしょうか?
金子:けっして、遅れているのではありません。むしろ、進んでいるのです。というのは、製品のライフサイクルが早まるなか、全ての商品がナマモノ化しているんです。例えば、生鮮食品は閉店間際になって鮮度が落ちれば値引きします。タイミングによって価値が変動するのが自然です。家電製品等も発売してからの経過時間、すなわち鮮度によって、価格は変動し、その時、消費者が欲しい値段、すなわち“時価”で売買されるようになってきています。
―ネットで購入する消費者が増えています。ネット通販では値引き交渉をするのではなく、安い店を探す形になります。ネットからの購入が増えていくと、値切りの重要性は低下していくのではないでしょうか?
金子:ネット店舗では売れ筋商品に注力する傾向があり、意外とリアル店舗の方が豊富な在庫があって賢い買い物ができることもあるんです。
―値引き交渉の失敗経験はありますか?
金子:ありません。場所とタイミングを誤らなければ値切りは成功します。反対に言えば何も営業努力をしなくても客が入る店、すなわち1等地にある店では、ほとんど値切れません。繁華街にあるけれど、駅から遠い店など、2等立地の店で買い物することがポイントです。
自らの成功体験をまとめた値切りハウツー本は以前から存在するが、金子氏のユニークさは流通ジャーナリストとして流通の仕組みを踏まえた上で値引きを論じている点にある。それ故に金子氏の値切りは買い手の要求を一方的に押し付ける強要型の根切りではなく、長期在庫処理という売主のメリットを提示する提案型の値引きとなっている。
正直なところ、私は値切ることに好印象を抱いていなかった。値切り要求の強い人にだけ値引きするのではなく、最初から値引きの余地のない価格で提供する業者こそ誠実な業者と考えていたためである。
日本が他のアジア諸国に先駆けて資本主義の導入に成功した背景には既に江戸時代から三井越後屋などによって正札販売(値札をつけて値引きをしない販売手法)が普及していたことが一因である。途上国の外国人向け土産物屋のように消費者が値切らなければ賢い買い物ができない市場は後進的ではないかという認識があった。
しかし流通の実態は、それほど単純ではないことが金子氏の説明から理解できた。物としては変わらなくても、新しいモデルが出れば一世代前のモデルの価値は下がってしまう。また、売り場では人気色を映えさせるために不人気な色の商品も一定数を仕入れざるを得ず、長期在庫が生じがちである。ここに消費者が値切りによって適正価格を決めていく意義がある。
値切りを卑しい行為と捉える発想に対し、金子氏は「値切りには品格が必要」「値切りは紳士的な行為」と力説する。明るくスマートに値切りを実践する金子氏からは、既存の値切り観を覆す迫力が感じられた。
本書は『ミシュランガイド東京2008』で星を獲得したレストラン・料理店を辛口グルメ評論家が再検証した書籍である。3つ星店・全8軒、2つ星店・全25軒、1つ星店・117軒中56軒の計89軒を検証する。加えて著者の推奨店9軒を紹介する。本書はグルメレポートとしてはユニークな書籍である。ここでは3点ほど指摘する。
第1に、価格に見合った味であるかというコスト・パフォーマンスを意識していることである。自腹で食べ歩いた著者ならではの視点である。コスト・パフォーマンスという言葉は何度も使用されるため、CPという略語を登場させるほどである。
第2に、料理だけでなく、店の雰囲気や内装にも気を配っている。もっとも建物や内装の豪華さを絶賛する訳ではない。料金を払って食事をする場所としての良し悪しを評価している。
第3に、これが最大の特徴となるが、辛口評論であることである。著者の友里征耶氏は辛口グルメ評論家・覆面ライターである。本書のタイトル『ガチミシュラン』はミシュランにガチンコ対決の意味であり、ミシュランの評価軸に真っ向から異を唱える形になっている。
辛口評論には皮肉や嫌味が効いており、読みながら思わず笑ってしまった箇所もあった。例えば地下街にある店舗がバリアフリーを謳っていることに対して、地下街に入るには狭い階段を下りなければならないのに、「地下の飲食店のフロアだけをバリアフリーにして何を狙いたいのか私には理解できません」と疑問を投げかける(44ページ)。
レビューという行為はレビュー対象が存在して初めて成り立つ。それ故にレビュアーはレビュー対象へのリスペクトの気持ちを忘れないようにすべきと考える。この観点からは「この店に行くのなら時間と費用をもっと有効にお使いください」(79ページ)とまで扱き下ろす著者の辛口スタンスには嫌悪感を抱く向きもあるだろう。
しかし、辛辣な指摘も理由や根拠を明示しており、一つの価値観として筋を通している。著者は「レストランの嗜好、とりわけ料理(味)の好き嫌いに個人差がある」ことを前提とする(224ページ)。同じ店の同じ料理に対しても異なる評価は存在する。故に一般読者は「自分と嗜好の合う書き手の評価を参考にすれば良い」とする(225ページ)。
著者は表現こそ厳しいものの、自分と異なる考えを認めない類の偏狭な人物ではない。それ故に料理店経営者は著者に酷評されたとしても、営業妨害と過剰反応する必要はない。著者の嗜好を満足させられなかったに過ぎない。別の嗜好の顧客を満足させられるように精進すれば良い。
著者をして辛口批評に駆り立てる原動力は癒着したグルメ批評への激しい怒りである。一般客の役に立つことよりもシェフや経営者と仲良くなることばかりを考えて提灯記事を書くグルメライター達が幅を利かせている。この消費者無視の実態への怒りは、不利益事実を説明されずにマンションを購入してしまった失敗経験を持つ私にとって大いに共感できる(「マンション販売トラブルで「お詫び」 東急リバブル・東急不動産」)。
http://www.news.janjan.jp/living/0710/0710023335/1.php
実際のところ、著者が糾弾する高いだけの料理店と新築マンション販売の問題点は重なるところが多い。例えば満席でもないのに満席と主張することで、過熱感を装って客を呼び込もうとする策略があるという(7ページ)。新築マンションでも売れていないにもかかわらず、モデルルームでは成約済みの花をつけて、売れ行き好調に見せかける手法が指摘されている。
また、肝心の料理ではなく、内外装の奇抜さで客を引っ掛ける傾向もあるという。マンションでも日々の住み心地や建物の耐久性を軽視して、実際は利用せず維持費ばかりかかる豪華な設備を売り物にする物件がある。
著者は再開発ビルに入居する店舗にコスト・パフォーマンスの良い店はないとも指摘する(10ページ)。この点も地域住民を無視した再開発の記事を書いてきた私にとって「さもありなん」と思える内容である(「二子玉川東地区再開発を問う住民の会発足」など)。
http://www.news.janjan.jp/area/0812/0812022692/1.php
市場原理が理想的に機能すれば、高額な料金に見合った料理を出さない店は淘汰される。ところが社用族や接待族が跋扈するために、値段が張るだけの店にも需要が存在する。需要があれば供給がなされる。それ故に虚名だけの高級店も存続できてしまう。そのような店を一般消費者がありがたがる必要性はない。本書の率直な批評は、市場原理を補完する点で大きな意義を有している。
本書は多重債務状態に陥っていた著者がクレジットカード会社や消費者金融から返済し過ぎた金(過払い金)600万円を取り戻した実録ドキュメントである。本書の意義として3点ほど指摘したい。
第一に専門家ではなく、債務者の視点に立っていることである。著者が実際に複数の借入先と交渉して過払金を取り戻した経過を描いており、過払い金を取り戻そうとしている人の参考になる。
過払い金の返還は判例も確立され、裁判になれば絶対に勝てるとまで言われている。しかし、圧倒的大多数の債務者は過払い金を請求できることすら知らない。専門家による書籍は既に色々とあるが、手軽に読めるペーパーバックの形で本書が出版された意義は大きい。
第二に弁護士などに依頼する場合の指針にもなることである。過払い金請求は弁護士にとって労少なくして勝てる分野であり、参入した弁護士には質の低い者もおり、依頼者とのトラブルも生じている。本書では本人ができることや、弁護士に頼む場合でも自身でしておくべきことなどを整理しており、有益である。
第三に私が最も感心したことであるが、決してブレることのない著者の姿勢である。著者の過払い金請求は順風満帆ではなかった。過払い金を値切る業者、虚偽を主張して消費者を丸め込む業者、ブラックリストに掲載すると脅す業者など魑魅魍魎の世界であった。しかし、著者は過払い金返還請求を当然の権利行使というスタンスを譲らず、過払い金返還を貫徹した。
著者が小気味よいほどまでに主張を貫けた背景を私なりに考察したい。そこには著者の「過払い金は、法律でも最高裁の判決でも認められた私自身のお金です」(121頁)という発想がある。
一般人が裁判から先ず連想するものは損害賠償請求であるが、損害賠償請求の主張には弱さを内包している。損害賠償は相手の行動で損害を被ったことを理由に賠償を求めるものであるが、損害発生は賠償の十分条件ではない。原則として加害者側に故意または過失が必要である(過失責任の原則)。それ故に加害者側は「自分に過失はない」ことを立証して損害賠償を免れようとする。この結果、重大な損害が発生し、被害者が苦しんでいるにも関わらず、救済されないという悲劇的な状況が発生する。現実に公害や薬害、耐震強度偽装事件などで繰り返されてきた。
これに対して著者は「過払い金は自分の金だから、返されて当然」という発想である。払い過ぎた自分の金を返してもらうだけであり、業者側の事情は関係ない。これが著者の主張の強みになっている。私も大手不動産会社との新築マンション購入トラブルで売買代金を取り戻した経験がある(参照「マンション販売トラブルで「お詫び」 東急リバブル・東急不動産」)。
http://www.news.janjan.jp/living/0710/0710023335/1.php
私の勝因も消費者契約法(不利益事実)に基づき売買契約を取り消したことにより、売買契約は白紙に戻ったのだから、支払い済みの売買代金は私の金であるというスタンスに負う部分が多い。本書の主題は過払い金返還だが、より普遍的な権利主張の根幹についても考えさせられた。
本書は池袋でヤミ金を営む著者が自らの半生を振り返った自伝的作品である。本書の見所は大きく2点ある。
第1に著者の波乱の半生である。捨て子、素封家の養子、覚せい剤漬け不良中学生、少年院、ヤクザの鉄砲玉、オウム真理教担当のTVリポーター、ヤミ金業者と「事実は小説より奇なり」を地でいく人生である。その特異な人生経験から著者の独特の正義感と人生哲学が形成されていく。
第2にヤミ金の実態である。ヤミ金は非合法なビジネスであり、建前は存在自体が許されないものである。しかし、それは社会にヤミ金が存在しないことを意味しない。ヤミ金とヤミ金を求める人間の実態を直視しただけでも本書の内容は貴重である。加えて著者のヤミ金としての仕事ぶりには独特な人生哲学が反映されており、金貸しのあり方について考えさせられる内容になっている。
本書は単体でも十分に面白い2つの観点が入り混じった濃厚な内容になっている。そこで本書評では(上)で第1の観点、(下)で第2の観点を中心に述べたい。
著者はアンダーグラウンドで生きている存在と自認するが、著者なりの熱い正義感を有しており、筋を通す人物である。著者は16歳の時に恋人を強姦したヤクザをアイスピックでメッタ刺しにし、少年院送りになる。この相手のヤクザが嫌らしい人物であった。
著者が少年院を出所する日に少年院の入口で十数人の男達を引き連れて待ち構えていたのである(125ページ)。お礼参りに来たものと誰もが思う展開であるが、ヤクザは「お互い昔のことは水に流そうや」と発言し、あろうことか「うちの若い衆にならないか」と勧誘してきたのである。
このような人物は本当に腹立たしい存在である。自分のしたことは棚に挙げ、被害者感情を斟酌する意思も能力も欠けている。単に度量が広い自分を演出して自己満足と自己陶酔に浸りたいだけである。記者は東急不動産(販売代理:東急リバブル)から不利益事実(隣地建て替えなど)を説明されずにマンションを購入したため、裁判で売買代金を取り戻した経験がある(参照「マンション販売トラブルで「お詫び」 東急リバブル・東急不動産」)。
http://www.news.janjan.jp/living/0710/0710023335/1.php
裁判後に売買代金の返還を受け、東急不動産にマンションを明け渡した際、東急不動産の課長(当時)は記者に「迷惑をかけた」と詫びた上で、驚くべきことに「ご縁があれば(東急不動産を)宜しく」と発言したのである。この発言を聞いて記者は、本書の表現を借りるならば「いまだかつて感じたことのないほどの「怒り」に身を引き裂かれそうになった」(23ページ)。
一般の消費者にとって不動産の購入は一生に一度あるかないかの経験である。一度失敗したからといって、簡単にやり直しができるものではない。散々苦しめられた業者から購入したいと考える筈がないが、それ以前に記者が改めて物件を購入すると考えること自体が信じ難い。騙し売り被害者が新たに不動産を購入する気持ちになり、その能力があると考えたならば、あまりに被害者の痛みについて認識が足らない。
著者もヤクザの勧誘には頭ごなしに拒否する。日本には加害者が態度を変えれば、被害者側も過去に拘泥しないことが期待(というよりも強制)される愚かしい傾向がある。これは日本人の民族的性向として娯楽小説で揶揄されるほどである。
「日本人は加害者でありながら被害者に向かって「すんだことをいつまでもガタガタいうな」と言ってのけることができる民族なのだ」(田中芳樹『創竜伝4四兄弟脱出行』講談社、1994年、138ページ)。
この日本人の醜い性質を本書のヤクザは見事に体現している。著者は「あなたがやったことについても、きちんとした言葉をいただきたい」とヤクザに迫る。これに対して、ヤクザは「俺がやったことをいまさらなんだっていうんだ?俺もお前のことは許す、だからお互いに水に流そうって話をしたばかりじゃないか」と無反省にも逆ギレする(133ページ)。しかし、著者は「俺の女が受けた傷は一生癒えることがない」と正論を譲らず、自己の主張を貫徹させた。日本社会の下らない「常識」に惑わされず、自己のケジメを貫く著者には清々しさを覚える。この一本筋の通った著者の正義感はヤミ金業者としても発揮され続けることになる。
続いてヤミ金という仕事の観点から論じる。著者の根底には人間は約束を守らなければならず、借りた金は返すべきという思想がある。ところが、債務者の中には返済に窮すると弁護士に委任し、「弁護士に任せてあるから」と言って連絡を絶つ者も少なくない。法律的には弁護士に委任した以上、弁護士を通すことが正しいとしても、人間的には恥ずかしくないのか、と著者は疑問を呈する(281ページ)。
記者は違法な高利でも債務者が了承して借りたのだから返済することが道徳的義務という自己責任論的発想には与しない。高利貸しは金が必要という借り手の弱みに付け込むことによって成り立つ商売である。自由な意思決定が存在しないため、いわゆる自己責任論は当てはまらない。この点から一般論的なヤミ金の論理は、あまり同意できなかった。
反対に具体的な批判はリアリティがあって共感できる内容が多かった。特に悪徳弁護士への糾弾は印象に残る。本書ではマスメディアで正義の味方面して債務者救済を叫んでいるA弁護士の悪徳ぶりを詳述する(275ページ)。A弁護士は着手金を払う金もない多重債務者に「ヤミ金から借りてでも用意しなさい」と言っているという。ヤミ金は違法金融業者なので返済する義務はないという理屈である。つまり、踏み倒すことを前提でヤミ金から金を借りさせている。
元々、記者は債務整理を専門とする弁護士には好印象を抱いていない。記者は東急不動産(販売代理:東急リバブル)とのマンション購入トラブルで売買代金返還の裁判をするために弁護士を探した経験がある。債務整理を主業務とする法律事務所は電話相談窓口を開設するなど、弁護士へのツテがない一般消費者への敷居を低くしている。しかし、実際に相談すると「消費者契約法に基づく不動産売買契約の取消しのような難しい案件はウチでは扱っていない」と断られてしまった。
弁護士にとって金融業者に対する過払い請求は常勝が期待できる分野であり、他の事件と比べると楽な仕事である。それ故に多くの法律事務所が債務整理を手がけるようになったが、それが弁護士のレベルを落としているという社会的なデメリットもあるのではないかと考える。
著者が「唾棄すべき存在」と扱き下ろすA弁護士は、それらの定型的な仕事しかできない債務整理専門弁護士とは異なり、隠された裏の顔があると告発する。A弁護士は過去に整理屋の真似事をし、広域暴力団にケツ持ちをさせていたという(277ページ)。記者は債務整理を中心とする法律事務所に胡散臭さを感じたことがあるため、著者の怒りは共感できる。
その法律事務所は著者の事務所と同じく池袋にあり、所長はマスメディアに積極的に出演している(そのため、本書のA弁護士は、ここの所長を指しているのではないかと思ったほどである)。この事務所と記者の接点は、やはり上述の東急不動産との裁判である。被告・東急不動産の訴訟代理人の一人が池袋の法律事務所に所属する弁護士であった。当初の被告代理人の構成は、別の法律事務所に所属するボス弁一人とイソ弁二人であった。ところが、一審の途中でイソ弁の一人の所属が池袋の法律事務所に変わった。
池袋の法律事務所は債務者の味方として金融業者に対峙するというイメージで宣伝していたため、所属事務所の変更には違和感を抱いた記憶がある。消費者が消費者契約法に基づいて請求する裁判で企業側の代理人をする弁護士が多重債務者の利益を追求できるのか疑問に思えた。
しかも東急不動産の代理人のボス弁は過払金の返還請求訴訟において貸金業者側の代理人として最高裁で争っていた(最判昭和55年1月24日民集34巻1号61頁不当利益金返還事件)。このため、イソ弁は正反対の傾向を持つ事務所に転職したことになる。そのようなことが成り立ちうるならば池袋の法律事務所のポリシーは何なのか胡散臭く感じていた。
その後、池袋の法律事務所では破産申し立て手続きを怠り債権者に損害を与えたと訴えられ、裁判所の判決で「2年間も破産申し立てを遅らせるなど、重大な過失があった」として損害賠償を命じられた(東京地裁平成19年2月13日判決)。これらのことから金融業者は悪で債務整理に携わる弁護士が正義と単純化することには躊躇する。
著者がA弁護士を激しく糾弾する背景にも自己の商売を邪魔されたことへの腹いせ以上の義憤があることは理解できる。著者も自認するとおり、ヤミ金業者は「世間的には間違いなく“悪”の存在」である(334ページ)。多重債務が大きな社会問題となっている現在、ヤミ金側の論理を取り上げること自体が憚られる雰囲気になっている。しかし、ヤミ金が悪であるとしても、その主張を取り上げる価値がないことを意味しない。本書はマスメディアが垂れ流す価値判断では得られない貴重な視点を提供する一冊である。
本書は高校や大学の学生を念頭において書かれた情報技術の入門書である。ワープロソフトWord及び表計算ソフトExcel、Windows、Webページ、ネットワークなどを概説する。情報技術の入門書は既に色々とあるが、類書と比較した本書の特色を3点ほど指摘する。
第一に説明順序である。本書では最初にアプリケーション(Word及びExcel)、次にOS(Windows)の使用法を説明する。情報処理の基本部分(2進数や論理回路)の説明は、その後である。
論理的に考えるならば説明順序は逆になる筈である。2進数や論理回路がコンピュータを考える上での出発点となる。また、OSの上にアプリケーションが乗っかるのであり、OSを説明した上でアプリケーションを説明する方がシステム寄りに考えるならば自然である。実際、そのような順序で説明する類書は多い。
しかし自動車を組み立てられなくても自動車を運転できるように、情報技術の学習者全員がシステムの隅々まで知る必要はない。WordやExcelを利用したい人に2進数や論理回路の話から始めることは挫折の要因になる。むしろユーザーにとって身近な存在であるアプリケーションから始めることは情報技術への関心を深めやすい。
第二に本書では画面コピーを最小限にしている。本書には図表の掲載が豊富だが、画面全体のコピーは少ない。ソフトウェアの使用法を説明する場合、モニター画面のコピーがあれば理解しやすくなることは確かである。そのため、説明文よりも画面コピーの割合の方が多い書籍もある。
しかし人間は言葉を使う動物である。自分の言葉で表現できて初めて人は事象を真の意味で理解したと言える。その意味で画面コピーに安易に頼らず、文章で説明しようとする著者の姿勢は教育者として評価する。
第三にショートカットキーの重視である。ショートカットキーはキーボード入力で命令するためのキーの組み合わせである。例えばコントロールボタンと「C」を同時に押すことでコピーができる。マウス操作や打鍵数を減らせるため、作業効率を上げることができる。
GUIに対応したソフトウェアでは画面上のメニューからマウスで選択して実行できるようになっており、メニューボタンなどから機能が分かるようになっている。そのため、初めて使うソフトウェアでも、マニュアルを読まなくても大体の操作が可能である。これは本書のような入門書へのニーズを低下させることになるが、本書はショートカットキーを説明することで存在意義を示している。
以上のとおり、本書は先行の類書に比してユニークな要素を有し、情報活用能力を向上させることが期待できる入門書である。
本書は2008年11月10日に放送されたNHKスペシャル「デジタルネイティブ〜次代を変える若者たち」の書籍版である。デジタルネイティブとは子どもの頃から、インターネットを水や空気のように使いこなしてきた世代を指す。本書は既存の常識や価値観に捉われない考え方や行動力によってデジタルネイティブが世界を一変させる可能性に注目する。
デジタルネイティブの主な特徴としては以下の3点が挙げられる。
(1)リアルとネットを区別しない
(2)相手の年齢や所属肩書にこだわらない
(3)情報は無料と考える
まず(1)は物心がついた時からネットが存在するデジタルネイティブらしい特徴である。私は物心がついた後でネットが普及したデジタルイミグラント(デジタル移民)の世代に属する。私はネットを理解せずに悪玉視する保守的な世代的発想には嫌悪感を抱き、ネットの利点を積極的に評価するが、あくまでリアルとネットの区別を前提としていた。デジタルネイティブにとっては、そのような区別自体が意味をなさないことになる。
(2)についてはSNSで築いた人脈を利用してグローバルに活動するデジタルネイティブ達の活躍が描かれる。彼らは年齢や所属肩書だけでなく、国境や民族へのこだわりも低い。デジタルネイティブはコスモポリタンである。彼らが社会の主流になれば世界はもっと平和になるのではないかと心底から感じられた。
(3)については株式会社はてなの近藤淳也社長の思想を具体的に紹介する。1975年生まれの近藤社長は年代的にはデジタルネイティブではないが、デジタルネイティブらしい考え方の人物として取り上げている。近藤社長は「ネットの向こうの不特定多数を信じる」という信念を持ち、はてな社内では情報の私物化を禁止する(64ページ)。
近藤社長をはじめとしたデジタルネイティブ的存在は物質的な欲が少なく、自分が好きな道を追及する傾向が強い。これは同じIT企業社長でも堀江貴文・元ライブドア社長に象徴されるヒルズ族とは対照的である。著者は日本社会の閉塞感をデジタルネイティブが打破することを期待している(72ページ)。
マスメディアによるインターネット報道はネットのマイナス面を喧伝する傾向がある。最近では、お笑いタレント・スマイリーキクチさんへの中傷に対する一斉摘発が大きく報道されたが、虚偽内容に基づく名誉毀損や脅迫が罪状であるにもかかわらず、ブログ炎上自体が問題であるかのような報道が散見された。炎上そのものは発言の場がなかった個人が直接批判の声をあげられるようになったという積極的な意義がある(参照「『ケータイ不安』の感想」)。
http://www.book.janjan.jp/0901/0901125269/1.php
これに対して、本書は「デジタルネイティブが奏でる「希望の物語」の可能性を信じていたい」というスタンスでまとめられている(174ページ)。そのため、ネットを擁護することが多い私には気持ちよく読み進められるが、かえって現実の日本のネット社会との落差を浮き彫りにする。
本書のデジタルネイティブはコスモポリタン的である。本書で紹介するエイズ撲滅活動に取り組む大学院生は「日本という限定された空間でエイズに関する活動を行うことの限界を感じた」という(133ページ)。しかし、日本のネットでは他民族を貶めて自尊心を保つネット右翼が幅を利かせている。子ども達も部外者には分からないように作った学校裏サイトで情報交換するなど身近な範囲しか関心をもたない傾向がある。
本書では先進国・発展途上国を問わず、デジタルネイティブが手を取り合って活躍している。このままでは日本だけが世界から取り残されてしまうように感じられた。ネット利用を好意的に考察する本書だからこそ、ネット社会の理想像と日本の現実の落差が浮かび上がる。デジタルネイティブによる変革への期待に彩られた本書のスタンスとは裏腹に日本の現状に対する危機感を抱かせる一冊である。
本書はケータイやネットによるトラブルから子ども達を守るための入門書である。子ども達がケータイやネットを使用することに対する漠然とした不安を検証し、具体的なリスクへの対処法を教授する。本書は大きく3部に分かれる。
第1部では子ども達のケータイやネットの使い方を概観する。
第2部ではケータイやネット利用で巻き込まれる危険の予防とトラブルの対処法を説明する。
第3部では教育機関や業界、社会の取り組みを紹介し、今後を展望する。
本書のスタンスはケータイやネットを頭ごなしに悪と決め付けていないことである。ネット世界が子ども達にとってリアルよりも危険とは限らない。ネットで知り合っただけの人の誘いに無防備について行ってしまう子どもは、路上でナンパされても無防備について行ってしまう可能性があるとする。しかも路上では強引に車に連れ込まれて誘拐されてしまう危険があるが、ネット上では無理やり誘拐される危険はない(26頁)。
また、ネットでは別人格になれるという特性についても、それによって子供たちが救われる面があると指摘する。(28頁)。リアル世界で息苦しい子どもの変身願望を満たすことができるためである。
人は自分が理解できる範囲しか理解しようとしない。そのため、ケータイやネットについて無知な大人は頭ごなしに危険視する傾向がある。これに対してIT社会の現実を直視する本書は、子ども達のケータイ使用を禁止してしまおうとする保守的な傾向を「軽率な対応」と批判する。「発達段階に応じた情報モラルを教え、インターネットの新しい世界へ大人が子どもを適切にナビゲートすることによって初めて、ネットいじめや犯罪から子どもを守ることができる」とする(61頁)。
一方で著者はネットやケータイを使いこなす現代っ子を礼賛するだけではない。ユニークな点は炎上についての分析である。炎上は批判コメントが殺到するネット上の現象である。この炎上であるが、子ども達のサイトでは何ヶ月も炎上することはほとんどないという。悪口の書き込みがなされてもスルーされて、元の雰囲気のまま楽しく会話が続く。若しくは悪口を契機として誰も書き込まなくなってしまう。
著者は「いったん誹謗中傷がなされると反論もせず、周りも引いてしまうせいではないか、炎上するほどにまで相手にぶつかっていくエネルギーがなくなっているせいではないか」と推測する(44頁)。そして炎上することさえできなくなった子ども達は言いたいことも言えず、ストレスを溜め込み、いつか爆発させてしまうのではないかと危惧する。
炎上は否定的に言及されることが多いが、これまでは発言の場がなかった市井の個人が怒りを表明できるようになったという側面がある。多くの人が怒りのコメントを書き込むことで、リアル社会におけるデモと類似の効果がある。
例えばビジネス誌の週刊ダイヤモンドは、従来は泣き寝入りしていた消費者がネット上で企業への不満を主張し、炎上させる状況を「お客が企業に対等にモノを言う時代」に突入したと位置付ける(「ウェブ炎上、<発言>する消費者の脅威−「モノ言う消費者」に怯える企業」週刊ダイヤモンド2007年11月17日号39頁)。
公正性のために補足すると、前掲ダイヤモンド記事は私の東急不動産に対する裁判(東京地裁、平成17年(ワ)第3018号)が関係する。この裁判を契機として、「自分もこのような目に遭った」と東急不動産や販売代理の東急リバブルへの批判がインターネットで急増して炎上状態になったと記事では報道する。
話を本書に戻すと、子ども達が炎上しないとの著者の分析は考えさせられる。現代の子ども達がネット空間においてさえ、「炎上するほどにまで相手にぶつかっていくエネルギーがなくなっている」ならば、非常に勿体ないと感じる。
リアル空間において相手にぶつかっていくことは非常に大きなエネルギーを要する。特に相手が政府や大企業のような巨大組織や権力者である場合は尚更である。これに対してネットではコストをかけなくても個人が情報発信者になれる。これはネットが発達する以前では考えられなかったことである。
本書の対象とする子どもは物心ついたときからネットが存在するデジタルネイティブである。ネットが当たり前な彼らは却ってネットの恩恵を意識しにくいのかもしれない。それ故に日常会話をメールで代用する類の当たり障りのないコミュニケーションに活用するだけではスキルの持ち腐れである。たとえITスキルは劣っているとしても、大人だからこそデジタルネイティブに教えられる内容はある。その意味でも保護者が子どもを導くことを想定して書かれた本書の意義は大きい。
本書はイタリア・ヴェネチィアのサンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂(以下、フラーリ聖堂)の装飾美術と寄進者のヴェネチィア貴族ペーザロ家の関係から、聖母被昇天などルネサンス期イタリアのキリスト教美術作品の製作意図や背景を明らかにした書籍である。
フランチェスコ修道会に属したフラーリ聖堂にはベッリーニやティツィアーノらヴェネチィア派の画家による祭壇画などが飾られ、それらの多くはヴェネチィア貴族によって寄進されたものであった。当時のフラーリ聖堂は現在と比べて明るい彩色や装飾、図案に満ち溢れており、その失われた栄光を心の目で蘇らせると同時に、歴史や社会、宗教とのつながりによって確立された文化的環境を蘇らせることが本書のスタンスである(36ページ)。
製作当時の社会的文化的背景を探る本書のスタンスは全ての歴史的な作品の解釈に妥当する。日本でも古色蒼然たる禅寺を見て、日本的な「詫び」の精神を体現していると勘違いする人がいる。しかし、中世の禅寺は中国文化の移入拠点であり、創建当時の山門は中国の建物を真似て色鮮やかで派手であった。現在のような印象になったのは文字通り古びたからである。
前近代におけるヨーロッパの芸術がパトロンの後援によって成立していたことは有名だが、本書では教会への装飾美術などの寄進が積極的になされた背景として、パトロンには死後に教会に埋葬されるという見返りがあったと指摘する(42ページ)。日本の仏教寺院が封建領主としてではなく、信徒を固定化することで経済基盤を確立したのは江戸時代の檀家制度が契機であった。これは葬式仏教と揶揄され、宗教としてのダイナミズムを喪失したと否定的に捉えられがちであるが、カトリックでも埋葬によって教会と信徒が新たな結びつきを得たことは興味深い。
ルネサンス文化の中心地と言えばフィレンチェが高名だが、本書はヴェネチィアを対象とすることで成功した。フィレンチェと比べてヴェネチィアは門閥貴族の力が強く、貴族は個人の才覚や財力以前に既に貴族の血統であることによって名望を得ていた。ヴェネチィア貴族の寄進に一族の優越性を誇示する意図があったことは確かだが、一方で成金的な露骨な自己顕示に終わらず、信仰に基づいた宗教的イデオロギーを示す余裕もあった。それが聖母の無原罪懐胎である。
聖母マリアが原罪を負っていたか否かは神学上の大きな争点であったが、フラーリ聖堂は無原罪懐胎を寓意する祭壇画を飾ることで、無原罪懐胎を掲げるフランチェスコ修道会の主張の正当性をアピールした。さらに無原罪懐胎への信仰はアドリア海の女王と称され、聖母マリアに自身のイメージを投影していたヴェネチィア共和国の威信を高めることにも利用された。本書は政治や社会と宗教が密接に結びついていた時代の一側面を明らかにした好著である。
本書は盛岡大学言語教育委員会による言語教育の研究活動の成果をまとめた論文集である。日本語論文5篇、英語論文2篇を収録する。本記事では印象に残った3論文を論評する。
齋藤岳城「〈言語活動の充実〉ということをめぐって」では学習環境の重要性を強調する。生徒が発言や議論に積極的でないからといって、ボキャブラリーが貧しく引っ込み思案というように決め付けることに反対する。むしろ発言しても嫌な思いをすることが多かったなどの環境に起因することが多いと主張する(9ページ)。
日本では劣悪な環境にもかかわらず本人の頑張りで克服することを美徳とする前代的な精神論が未だに横行している。それに対して、「そういう環境にないものが、そういう能力を発揮することはありえない」と断言する著者の感覚は健全である。
峰岸玲子「日本語において省略を可能にするもの」では省略表現の研究から日本語の特質を明らかにする。「先生が私に優を与えた」「私は彼女が来ることを希望する」という表現は日本語として不自然である。「先生が優を与えた」「彼女が来ることを希望する」というように「私」を省略する方が自然である。これは自己を客体化して傍観者的に捉える発想に欠ける日本語の特質に起因する(19ページ)。
峰岸論文は日本人の集団主義について興味深い示唆を与えてくれる。特殊日本的集団主義は自己と集団を同一視してしまう自我の未成熟さが原因であると分析される。これは自己を客観視して第三者的に叙述することが不得手な日本語の性質に影響された面もあるのではないかと感じた。
鈴木健之「ユニバーサリズムの社会学」ではジョン・F・ケネディとバラク・オバマ米国大統領の演説から文化社会学的な意味を考察する。翻って日本の政治家の言葉には考察するだけの価値があるか疑問である。厚生労働省の分割問題では麻生太郎首相のブレが批判されたが、言葉の一貫性を軽視する政治家を横行させる日本の政治状況を考えさせられてしまう。
本書は言語教育に関する専門的な論稿を集めたものだが、国語教育や外国語教育の枠を超え、社会や文化にまで視点が広がっている。人間を動物と区別するものが言語であり、言語が文化や社会の中核となっていることを改めて実感した。
本書はイマヌエル・カントの哲学の入門書である。カントの主著である『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の三批判書を平易に読み解いていく。そこでは他の思想家(デカルト、ニーチェら)の思想と照らし合わせており、カントのみならず西洋哲学の潮流も理解していくことができる。
本書の特徴は入門書でありながら、カントの思想を概説するだけでなく、一つの問題意識に沿って論を展開している点にある。まず現代は、ひとそれぞれの主観的な感覚や考えが尊重される価値相対主義の中にあると位置付ける。これは一つの考え方を絶対的な真理として抑圧が正当化されていた時代への反省に基づくものである。
それ故に「みんな違って、それでいい」という価値相対主義は大きな進歩である。しかし、価値相対主義が普及した先には新たな問題が生じる。あらゆる物事が「みんな違って、それでいい」で済むかという問題である。善悪や優劣を定めなければならない局面があるのではないか、その場合にどうするのかという問題である。
カントは「対象というものは、客観的にあるものではなく、わたしたちの認識(主観)にとってのみあらわれている」と主張した(106ページ)。絶対的な真理は知り得ないとした点で価値相対主義の側に立つ。一方でカントは個々人の主観がバラバラであることを前提としつつ、その主観から人間に共通する普遍性を取り出そうとした。
この普遍性を取り出すカントの哲学は価値相対主義によって他者と共有できる価値観が乏しくなった現代において実践的な意義を持つと本書は位置付ける。そして絶対的な真理を振りかざすのではなく、より多くの人の納得できるような言葉を作り出す態度によって、他者と共に試され、鍛えられることが普遍性を獲得する道と主張する。
私は本書で規定した前提に基づく結論(価値相対主義の中での普遍性の獲得方法)には同意する。但し、現実の日本社会では建前の市民社会レベルでは価値相対主義を咀嚼していても、個々の集団内部では絶対的な真理の押し付けが幅を利かせている。この現実を踏まえると本書の前提は、まだまだ遠い先の話と思えてしまう。
価値相対主義の下では私の意見が他者とは別人格の意見であるということだけで尊重されるべきである。これは私の意見に普遍的な価値があろうとなかろうと、普遍性を持たせる努力をしようとしまいと変わらない。しかし、この常識が日本ではまだまだ通用しない。それは市民メディアの記事に「記事として相応しくない」云々とコメンターの基準で記事の存在価値を全否定するコメントが散見されることからも明らかである。
ここでは「私の自由であり、他人が口を挟む問題ではない」ことを確立することが先決問題となる。このような状況においても、言葉を交わすことで他者と共に普遍性を鍛えていくべきであるのか。これが本書の射程からは外れるが、本書の前提に到達していない環境にある私が感じた疑問である。
一般に哲学書や哲学の解説書には難解という印象がある。それは平易な表現を心掛けている本書でも完全には免れていない。しかし、本書は価値相対主義の中で如何にして普遍性を見出していくかという上述の問題意識で一貫している。このため、一読して頭に入らない表現があったとしても趣旨の理解は容易である。世界的なベストセラーになった哲学の入門書に『ソフィーの世界』があるが、これも「私は何者か」という問いを考えていくものであった。哲学が知識体系の学問ではなく、考える学問であることを再認識した一冊である。
本書は衣服の面から北海道(特に函館を中心とした道南地方)の生活文化の歴史をまとめたものである。土地の古老の話を聞き取った貴重な記録の成果である。
著者の専門は被服学であり、本書のタイトルも「洋服化への道」であるため、一見すると北海道における洋服の普及史と思える。しかし、本書では衣服を切り口にしながらも、生活文化全般に渡る。人間が常に身に着け、一番身近な人工物である衣服は生活文化の中核的要素であることを示している。
本書通読後の最初の感想は生活文化において衣服の占める位置が大きいにもかかわらず、同じ国内の数世代前の衣服について、ほとんど知られていないことへの驚きであった。著者も「はじめに」で北海道の近代の衣服に関する文献が少ないことが出発点であったと述べている。
また、当時の衣服が、あまり残っていないことも意外である。この点は著者も実物を調査できなくて苦労している。これは僅か数世代前の文化が記憶されることなく、消失しつつあることを意味する。その意味で本書の取り組みの意義は大きい。
本書から感じた北海道の生活文化の特色は進取の気風である。北海道は環境が異なる他地域からの出身者が集まったという独特の歴史的経緯がある。新しいものを受け入れて自分のものにしていく気風が本州よりも強いと感じた。本記事では2点ほど指摘したい。
第一に学生の制服である。北海道では早くから洋風の制服が推進されていた。例えば明治後半から広まった女学生のエビ茶袴は青森県よりも北海道の普及時期が早い。本書では青森県で普及が遅れた理由を「教育界の上層部が伝統に固執していた」と推測する(155ページ)。
その後、1970年代になると高校学園紛争が勃発し、北海道では制服を廃止する高校が増加する。一方、東北地方で服装自由化実施の動きが生じるのは、かなり後とする。
第二に結婚式である。道南地域では披露宴よりも、会費制の祝賀会形式が普及しているという(137ページ)。本州では結婚祝いの金額が不明瞭である。それに比べると会費制は金額が明瞭で合理的である。
一般に歴史となると政治史、特に政治指導者の人生に関心が集中しがちである。しかし、社会を形成しているのは民衆である。軽視されがちな民衆の生活史を取り上げた本書の意義を高く評価したい。
最後に一点だけ本書に指摘する。各地の出身者が集まって北海道の日本人社会は形成されていくが、無人の土地に移民したわけではない。北海道にはアイヌという先住民が存在した。和人による北海道の生活文化の発展の影にはアイヌ文化の抑圧と犠牲が存在していた。アイヌの衰退と同化の過程にも目も向けることで北海道の生活史としての本書の完成度を高められると考える。