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俳句雑誌 滝 since 1992 |
虚実潺潺(221)
あめんぼと雨と(25)
菅原 鬨也
既にお気づきの方もおられると思いますが、飯島晴子の「ほんとうらしさを求めて」は「俳句研究」昭和四十九年十一月号に出たものです。評論集『俳句発見』(永田書房)に転載するとき一部推敲してありましたので、『俳句発見』に収録してある方を紹介させていただきました。「俳句研究」のこの号は「特集・物と言葉の周辺」と銘打ってあります。執筆者を見ると「ああ当時、活躍していた人たちの名がある」と懐かしく思う方もあろうかと思います。論文のタイトルと執筆者を書き抜いてみます。
物と言葉 金子 兜太
わが「ことば」のこと 阿部 完一
ほんとうらしさを求めて 飯島 晴子
「言葉と物」−一つの立場 大串 章
風土・事物・言葉考 岡田 日郎
オリガ・S・A・ビシュー氏の同情 折笠 美秋
物と言葉 金子 晋
文学的対象の所在 川名 大
「物と言葉」にふれて 酒井 弘司
そうしなければ僕は 坪内 稔典
言葉の「自然」をめぐって 中 拓夫
「物と言葉」の周辺から 原 裕
物と言葉に関する詩論的視野 平井 照敏
どの論文も見逃せないというか、魅力あふれる題なのですが、「編集後記」で高柳重信が言っている通り、この問題は簡単ではありません。まずその「編集後記」を掲げておきます。
■本号は、本誌の最近の誌面で、やや論争のかたちが生まれている「物と言葉」の問題について、ささやかな特集を行なった。ただし、特集といっても、本号に掲載した文章の多くは、それぞれが共通の問題点を正確に把捉して、しっかりと噛み合った論理を展開しているわけではない。
■俳句が言語による表現であることを誰も否定できない以上、俳句形式に於ける言葉とは何かという問題を徹底的に煮つめてゆかねばならぬのは、俳人として当然の責任であろう。それぞれの俳人が、たとえ、どのような熱烈な思いを俳句表現に託そうと、まさに真剣に念じていたとしても、それが俳句形式の中で、文字どおり言葉によって実現されることを切望しないならば、それは遂に俳句の問題とはならないのである。おそらく、これは、すべての俳人が肝に銘じていることにちがいない。しかし、この俳句形式は、わずか十七字の極端に短い詩型であるため、いわゆる即物的な表現が、とりあえず成功しやすいものとして、ずっと俳人たちの間で考えられてきたことも、その経験がもたらした知恵という意味で、むしろ当然であった。
■ただ、多くの俳人たちが、この一種の経験則の中で、次第に怠惰となってゆき、思考を中止したまま、ほとんど何の疑問も抱かず、いささかの不安も感じなくなってくると、物と言葉に対する弁別が、しごく曖昧な状態となってしまうのも、また、自明のことであった。その結果として、新興俳句運動以後の俳壇が、詩論以前の低い次元の議論を繰り返しながら、常に奇妙な亀裂を示してきたのは、やはり何としても残念である。今回の特集も、結局のところ、その不毛な悪循環を繰り返したに過ぎないが、辛抱づよく次の機会を待つより他にあるまい。
(第221回句会前話に代えて)
虚実潺潺(220)
あめんぼと雨と(24)
菅原 鬨也
・ 言語空間の自立が成功した場合、地上では「言葉」と「物」との間は、とりつくしまのない砂漠がひろがっているように見えても、それだからこそ、地下には「物」と「言葉」との間に、豊富な、複雑な地下水の網目が通っている。「物」の方へ向かって、草木の茂る野山をたどる場合の手ぶらの楽天主義では「言葉」はたちまち干上ってしまう。「言葉」によって呼び出されてくる「物」の或る部分の力強さは、呼び出す「言葉」の正確な選択にかかっており、呼び出されない部分や、呼び出しそこなわれた部分の怨みは、そっくりそのまま「言葉」の無念さでもある。
・ 「言葉」によって、「物」のどの部分がどれだけ呼び出されているか、途中でひっかかっている部分はないか、呼び出したはずなのに出て来ないもの、呼び出さないのに出て来た部分、いくつかの「言葉」がお互いに影響を与えたり受けたりして、消えたり現われたりする部分、変わったり変わらなかったりする部分など、「言葉」の動き、移り変わりには、いちいち、「物」の世界とのサインのとり交しがあるはずである。くり返して言うが、それは似ているかどうかをたしかめるということではない。「物」と「言薬」との対応の仕方のひろがりや、ちぐはぐや、不可思議や、微妙さや、複雑さや、素直さや、その他モロモロの要素の正確な出会いが、ほんとうらしさの成立を決定する。
・ 「物」の方へ向かって「物」の嘆きを鎮めようとして出発する人は、「物」になるべくその「物」らしいカバーをかぶせ、正しい境界線を引き、不平がないように「物」を括り分けられると信じて出掛ける。こちらの方で起こる困った問題は、ほんとうにほんとうらしさが成立しているのか、それとも、ただ「言葉」を使って「物」に似ているかのごときヤクタイモナイものがころがっているにすぎないかの見分けのむつかしさである。一見しても、二見しても同じように見えて、真贋の見きわめはきわめてむつかしい。リアリズムに厚く透明なクリスタルガラスのように貼りついているほんとうらしさがある場合、作品を「物」の世界の緑の野山から言語空間の砂漠へ連れ出しても、見事にほんとうらしさを保っている。
・ そのほんとうらしさは、直接的に「物」で支えられているから現われるのではない証拠である。言いかえれば、リアリズム以外の物指しを持って来ても立派に削れるということである。「言葉」として自立して、ほんとうらしいということである。
・ 「物」を、一見、振り切って、言語空間へ向かう人は、自然(山川草木だけではない)が無条件で信頼出来ないのである。これは、時代にもよるし、個人的な事情にも原因するであろう。人間形成される時期に、何らかの事情で自然とうまくやっていく習慣や訓練をとり逃がした人は、反リアリズムの言葉を選ぶ場合が多いのではないかと、私はひそかに思っている。これは、兎追いしかの山で育ったか、都会のコンクリートの中で育ったかなどという単純なことよりも、例えば家族関係の自然度などが大きく影響するのではないかと思う。そういうところで自然にはぐれてしまうと、後になっても「物」の方へ戻る方法をとる気にはなれない場合が多いのではなかろうか。
・ 俳句つくりも含めて、ゲイジュツと言われることにたずさわることが、特別高尚な、上等なことであるとも、私は思っていないが、「物」以外のものをつくろうというからには、どんなくそリアリストでも、「物」との間にいくぱくかの不信があることは最低の条
件であろう。その恢復を、「言葉」 音でも色でも粘土でもなく−−でしょうとしてい
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るということは、「言葉」によって、ほんとうらしさを、ぞんぶんに浴びたいということであろう。そして、ほんとうらしさというものは、何の理由もなしに、何の助けもなしに、ところを選ばず、何ものをもともなわず、全くそれ自身で顕われるものなのである。
・ もう一度くり返すと、ほんとうらしさは、何かにそっくり似ているということではなく、それ自身が一つの存在なのである。
(第220回句会前話に代えて)
虚実潺潺(219)
あめんぼと雨と(23)
菅原 鬨也・ のっぺりした総体、である「物」を、「言葉」で腑分けしようとすれば、当然そこには分けぞこないや分け洩れが出てくる。ほんとうに正確な区切り目を引くことなど不可能だし、どんなに慎重を期しても、決め間違いや括りこぼれはさけられない。もしかしたら、「物」は、「言葉」のカバー全たいについて、これではほんとうのオレではないというかもしれない。「物」は決して「言葉」を承服しているわけではない。耳を澄ましてよく聞けば、「言葉」の出生にともなう避けられない不手際によって、日のめを見ず、理不尽な取り扱いをうけている「物」の部分部分の怨みの声が聞こえるはずである。
・ 「言葉」 音や、光や、色や、石や、土でなく を使って何かをするという
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ことは、この怨みを「物」の方へ向かって、いわば後向きに恢復を試みようとするか、それとも、一たびは怨み声をふり切って、前方へ向かって言語空間の自立という栄光を獲得することによって別のかたちで償おうとするか、どちらかのことをしようとしているわけであろう。前方へ勇気を振るい立たそうと、後方への懐かしさをもう一度信じようと、どちらをとっても、どうせ大部分が徒労に終ることは、骨も残らぬ先人の死にざまの曠野を渡る風が教えてくれる。
・ 「物」と「言葉」とは相変わらずの、隙間だらけのちぐはぐの不幸な関係にある。「物」の方へ向かえば、怨みは一時的にまやかされるだけで、甘い慰藉の霧のベールが吹き晴れれば、怨みは怨みとしてゲンゼンと残っていることを知る。何事も起こってはいないのである。前方へ、言語空間の自立を目指せば、これは、神のつくり給うた自然に対立するもう一つの自然をつくる作業に従事することになる。神の向こうを張った、そんなだいそれた事業が、簡単に成功するはずのないことはわかりきっている。こちらを志せば大部分は破滅に終る。
・ しかし、また、どちらを志そうと、万の徒労の一つには奇蹟が起こる。「物」への不細工な阿諛を超えて、或いは、「言葉」へのルイルイたる生贅の彼方に、神のつくったほんとうらしさと、そのほんとうらしさの完壁度において全くひけをとらない、ほんとうらしさが成り立つことがある。ここにおいて、「物」は、はじめて「言葉」を納得し、「言葉」に鎮められる幸福が出現する。「物」と「言葉」は同等のちからを持つことになる。自然と人間とは対等になる一瞬を獲得したことになる。人間になる以前のサルの群れのうちで、うっかりと、初めて考えるということをしてしまって、それ以後、われわれの種を永い苦しいガタガタの軌道に乗せてしまった一匹のサルの大罪は、ここでやっと許されるのである。
・ 言語空間の自立を目指した方向へ、求めるほんとうらしさが成立したときは、そのほんとうらしさは、まるで「物」とは似ていないから、ほんとうらしくないと言う人がある。われわれが「言葉」のなかに感受するほんとうらしさは、それがいかに「物」に似ているように見えるかということではない。いつでも、「物」とそっくり似ているものを「言葉」の世界にさがすことによってしか、ほんとうらしさを感受しようとしない人に、なぜ「言葉」が要るのだろう。それは日常の用を足す以外、「言葉」には縁のない人である。・ 「物」と「言葉」とは似ようがない。一階はどこまで行っても一階であり、二階はどこまで行っても二階である。ただ、階段とかエレベーターとかのきまった手続きを踏むことによって、一階から二階へ、二階から一階へ行くことができるということである。それでも、一階は二階であるということは、部分的にさえ絶対起こり得ない。「言葉」の方から言えば、先にも述べたように、「言葉」は「物」をやや不正確に呼び出すはたらきがあるというにすぎない。
・ どこかで「物」に拒まれていると感じて、言語空間の自立の方へほんとうらしさを求める人の方が、「物」を信頼して「物」と「言葉」のコントン未分のなかを進む人より、はるかに意識的に「物」の世界を感じ、おそれ、あこがれているはずである。「言葉」に強くかかわるということは、即ち、「物」に強くかかわるということである。
(第219回句会前話に代えて)
虚実潺潺(218)
あめんぼと雨と(22)
菅原鬨也
以下、晴子の「ほんとうらしさ求めて−物と言葉について−」を要約して掲げようと思いましたが、極端に要約することは避けた方がいいと思い直しました。前に言ったようにこの論文を初めて読んだときの「ずいぶん詳しく悩む?もんだなあ」という印象は変わりません。また書きながら思考していく自問自答の経緯を晴子と共有しないと、文脈を見失うおそれもあり、晴子には不本意でしょうが、段落ごとに番号をつけてみました。その方が私には分かりやすかったからです。この「虚実潺潺」の分量に換算してほぼ三回分、長くなりますがごかんべんください。
*
・ 物と言葉との関係について考える場合、「言葉」は「言葉」である。しかし、「物」の方は、そう簡単にはいかな い。「物」とは何かを、どう決めるかを明らかにしておかないと、言葉についての学問の専門家でないわれわれの間 では、はなしはややこしくもつれ、迷うおそれがある。
・ 「物」というコトバは、草とか犬とか、壷とか鋏とか、本とか船とかの、具体のなかでも最も具体らしい、輪郭の くっきりしたものの一くくりを指し示すために使われる場合が最も多いことは確かである。つまり、「物」というコ トバの相当大きい部分は、以上に掲げたような具体物を呼び出す機能をもっている。
・ しかし、「物と言葉」と題して、言葉を相手にとって考えるときの「物」は、つきつめていくと、手で掴むことの 出来るもの出来ないもの、目に見えるもの見えないもの、在るもの在らないもの、とにかく、われわれをとりまく森 羅万象から「言葉」だけを差し引いた状態にたどりつく。
・ 人類が発生してから、何十万年だが何百万年だかを経たその先っぽにいる私には、言葉の無い状態を想い描くことは不可能であるけれども、それは、曖昧な不安定な境界線を引いたり、消したり、重なったり離れすぎたりしながら、時間と空間のなかを連続して切れ目なく、絶え間なくつづく、気の違いそうな、いたたまれぬ世界であろう。どうしてもそう感じてしまう、私の「物」と「言葉」である。
・ 私の遠い遠い先祖は、こういう世界(鬨也注・森羅万象から言葉だけを差し引いた状態)にいたのではないか、そして、結局、私もそこから来たのではないかと思うと、見てはいけないものを見ようとしているような息苦しさを感じる。どちらにしても、ことがなければカーテンをひいて考えたくないところである。だから、普段は、トースターや座布団にはカバーをかけ、皿や茶碗は食器戸棚にしまっておくように、無理にでも「言葉」でもって整理しておく。私と一緒に棲んでいるヒトなどは、人間・男・夫・父 親・サラリーマンと、ト重ハタ重のカバーをかぶりかぶせられ、区切りに区切られて、どうやって息をついているのかと思うくらいである。
・ 「物」は「言葉」で仕切ったり、決めたり、括ったり、覆ったりされて、やっとわれわれの日常世界の安定平安の秩序を保っている。考えるということがまだ始まらないから、「言葉」を持たなくて済んだわれわれの遠い先祖が、「物」の一部分であった時代から、「物と言葉について」という題で考えなければならない事態に立ち至った今日まで、「物」と「言葉」との永い永い、複雑な、せめぎ合いや和合の道程は、想像も出来ない気の遠くなるような歴史であるにちがいない。
・ アフリカかどこかの森林の中に棲んでいた、サルだかヒトだかまだきまらないわれわれの先祖が、森全体から樹と草とをなぜ区別してとり出そうとしたのだろう。樹の幹と葉とをなぜ分けようとしたのだろう。考えるということが 始まり、いやおうなしに「言葉」という、いわば自然ではないものが発生する原初の段階の人間の世界のありさまについては、特別そういう学問に関心のない素人でも、ふと思いを致せばワクワクするものがある。 (つづく)
虚実潺潺(217)
あめんぼと雨と(21)
菅原 鬨也
飯島晴子の論文「ほんとうらしさ求めて−物と言葉について−」を紹介します。
先月号の「滝」で私の宮城県涌谷町での講演の前段を掲載しました。その中で道元の「魚行(ゆ)いて魚に似たり、鳥飛んで鳥の如し」という言葉について、私なりの解釈を述べました。禅の言葉であるならば、人間の認識と〈無〉ということについて言ったのであろうと述べました。でも、別のことも考えたのです。「魚」も「鳥」も人間が名づけた言葉です。晴子流に言えば、この呼び名は魚や鳥にとって迷惑なのかも知れません。「魚」は厳密に言えば、「われわれが魚と呼んでいるその魚らしきもの」、「鳥」は「われわれが鳥と名づけたその鳥らしきもの」というのが正しいのではあるまいか。道元の言葉はそんなふうにも解釈できる。これは〈ことば〉の問題なのだということも一応は考えたのです。講演では、ますます混乱するおそれがありましたのでそうした悩みは述べませんでした。でも晴子の文を読むと、こうしたことも考える必要が出てきそうな感じがします。
藤田湘子は「晴子は言葉との果てしない格闘に身を委ねることになった。」と指摘していますが、それはいつごろを指すのでしょう。はじめは「馬酔木」に参加していたのですが、四十二歳で湘子の「樅の会」へ入ります。そのころは「馬酔木」の抒情ゆたかな写生を目指していましたが、少しずつ疑問を持っていったようです。その萌芽と言えるかどうかは分かりませんが、昭和三十九年(四十三歳)、つまりこの論文を書くおよそ十年前、
谺が待つ山の郭公鳴き出すを 飯島 晴子
という句を作っています。最近のことですが、「滝」では、
文脈をつなぐ郭公こだまかな 佐々木博子
という句がありました。一般的に〈こだま〉は、〈響き〉の現象として捉えられます。博子の句は、その〈響き〉が、文脈をつないでくれたという、いわゆる「打坐即刻」を感じさせる澄んだ感覚があります。これも佳句というべきでしょう。しかし晴子は〈谺〉という現象のうしろに〈木霊〉という「モノ意識」を隠しています。隠しているというより〈谺〉をモノとして扱っています。宮崎駿のアニメ大作「もののけ姫」を覚えていますか。あどけない子どものようなニンゲンの一歩手前のような愛らしいキャラクターが無数に出てきます。〈木霊〉を擬人化したものですが、無抵抗の 〈木霊〉たちが、自分たちを破壊してしまう何か恐ろしいものに怯えているさまが描かれていたように記憶していま す。(このことについては極めて曖昧、皆さんのご教示をお待ちしています)。
もちろん晴子は「もののけ姫」を知らなかったでしょう。しかし、「谺が待つ」と言うことによって、〈谺〉の「ほんとうらしさ」を書き得たのだと思います。もっとも〈木霊〉はそもそも「コタマ」が正しい発音だったらしく、樹木の精霊が声に化したということから出来た言葉だそうです。ですから現象を物に変換して表現することは宮崎駿のキャラクターのように比較的たやすいと言えますが、晴子の「言葉との格闘」の始まりの句とは思えませんか。
前置きが長くなって、却って混乱させてしまったかも知れませんが、まず、晴子の論文の書き出しをそのまま引きます。ここをよく読んでおかないと問題の所在がうやむやになってしまいそうだからです。
物と言葉との関係について考える場合、「言葉」は「言葉」である。しかし「物」の方は、そう簡単にはいかない。「物」とは何かを、どう決めるかを明らかにしておかないと、言葉についての学問の専門家ではないわれわれの間では、はなしはややこしくもつれ、迷うおそれがある。
「「言葉」は「言葉」である」という断定的な表現にまず戸惑いますが、とりあえず、言葉は人間が物を表すため、物にあたえたものということにしておきます。長い時間をかけて、その「物」への言葉を決めてきました。そして増やしたり減らしたりもしてきました。変化させたりもしてきました。そのことはまず措いて、「物」の側から考えてみようということです。中途半端ですが、つづきは次回。 (第217回句会前話に代えて)
虚実潺潺(216)
あめんぼと雨と(20)
菅原 鬨也
「飯島晴子読本」(富士見書房)が出ると知ったとき、彼女の評論で何が収録され、何が外されるかを思ってみました。予想が当たったのは二つ。収録される評論の当確は「言葉の現れるとき」、外されるのは「ほんとうらしさを求めて−物と言葉について−」です。発表の舞台(雑誌)が何であれ、手を抜くということはしない人でしたが、ことに「言葉の現れるとき」の発表の舞台が「文学」(岩波書店・昭和五十一年一月号・vol44−1《短詩系文学》)であったことも多少意識したのでしょうか。発表と同時に読んだとき、精魂を込めたような迫力を感じたものです。しかし、晴子の人間味がしのばれるなあと思ったのは「ほんとうらしさ……」でした。彼女の評論で私が初めて読んだのが「ほんとうらしさ……」だったこともあり、歯切れがよさそうに見えてそうではなく、自分の悩んだ過程をそのままたどっていったようなもどかしさがありました。それが却って親しみを覚えたのかもしれません。
今回「物自体」なる言葉に出会って、あらためて「ほんとうらしさ……」を読んでみました。「ずいぶん、詳しく悩む?」ものだなあという印象は当時と変わりませんでした。実は同時に永島靖子さんの「藤田湘子論」も読んでいましたので、ちょっと話してみたいと思い早速電話してみました。彼女も飯島晴子のこの論文をよく覚えていて、結語部分の「言葉によってほんとうらしさをぞんぶんに浴びたいということ」「(作品の)ほんとうらしさはそれ自身が一つの存在なのである」という点には全く共鳴しますね、という感想をもらしてくれました。晴子自身の落としどころも「存在」だったわけですが、やはりこの論文もこの「虚実潺潺」に残しておきたいと思いました。が、それは来月ということにして、永島靖子さんの「藤田湘子の方法序説」という論文に少しだけ触れてみたいと思います。この論文は、「俳句研究」(俳句研究社)昭和五十二年九月号の「特集・藤田湘子」に書かれたことです。何しろ三十年も前のことですから、あの時点では「あめんぼ」の句が生まれることなど、湘子本人にも、誰にも想像出来ないことでしたが、永島さんの論文を読めば「ああ、そういうこともありましたね」と懐かしく思い出される箇所がいくつかあるのです。大雑把な紹介で永島さんには、たいへん失礼と思いますが、三点だけ挙げてみます。
その一。永島さんは、「湘子は寡黙の俳人、自己表現を〈俳句〉にしかとどめない典型的な人である。」と書き、湘子の「一度活字にしてしまった自分の作品に、とやかく尾鰭をつけたくない。」(「鷹」昭和五十一年一月号)。という自句自解ぎらいの弁について「<とやかく尾鰭>とは言いながら、切り捨てた部分の実情は〈尾鰭〉などではない重要な部分であろうからである。」と看破しています。まあ、後年、ある人に(湘子の言葉でいうと世の中には知恵者がいるもので)「作品そのものについて述べるのではなく、その周辺ならどうですか」といったことを言われ、自解らしいことを書いていますが……。
その二。飯島晴子句集『蕨手』の序(湘子)、「(飯島さんは)ものの性質や形態をうたうことから、ものの存在をとらえる作家に成長した。だが、その当然の帰結として飯島さんは、言葉との果てしない格闘に身を委ねることとなった。作品として書かれた言葉のうしろに私は、そうした格闘によって流れ去った尨大な時間を知っている」という一節を挙げ、永島さんは「湘子自身が切り捨てた言葉と、費消した尨大な時間とに裏打ちされて出てきた語であろう。」と書いています。つまり奥坂まやの言う「物自体」に関連づけて言えば、「言葉」によってその「物」の存在を確かなものにするために晴子は言葉と果てしない格闘をする結果になった。それを知っている湘子は、湘子自身にもそうした葛藤の経験、それに費消した尨大な時間があったからだろう、と永島さんは言っているのですね。
その三。永島さんは、要約すれば湘子という俳人は論の根拠を意味性の排除に置いている。俳句は意味を求める詩ではなく、〈像〉を結ぶことにその特徴がある。〈結果だけを書け〉という湘子は〈結果の詩人〉と言うべきであろうと述べています。だいぶ遠回りな言い方ですが、こうなると湘子の別の顔が見えてきそうです。湘子には湘子の存在論意識があって、ある意味では晴子のそれよりも強靱だったのかもしれません。
(第216回句会前話に代えて)
虚実潺潺(215)
あめんぼと雨と(19)
菅原鬨也
岡井省二に「俳句は存在詩。感情詩に非ず」という一文があります。省二の「存在詩」という主張は彼の行き着いた到達点の一つとも言えるものですが、それは「感情詩」という対立軸、それを否定する形で理解されるものです。具体的に俳句の実例で示してもらうのが手っとり早いのですが、それがないために私も十分説明出来ず、客観写生とどこが違うのか、戸惑いはありますが、あるいはこれが奥坂まやの「物自体」「写生の極致」を考える手助けになるかもしれない。そんな感じがしますので一応、提示しておきたいと思います。ただし、省二はあくまで密教的世界観、宇宙体系の中の生命観ということに立って「詩」というものを考えていますので却って問題を複雑にしてしまうおそれなきにしもあらずですが、ともあれ、省二の小文を読んでください。
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俳句は存在詩。感情詩にあらず。
俳句は存在の詩、感情の詩にあらず。
ふたたび三たび、たびたび繰り返したい。
感情、情緒、情動、心理、感懐、抒情、叙情は存在についてくるもの 。
感情が感情のたぐいが先に在るものではない。それが先行するのではない。
そこのところ、俳句の核を、かけ値なしに、それこそ感情論なしに、確認しておきたい。俳句は存在の詩。
存在の刻印の詩。
あとはおのずからついてくる肉付き。
そこのところが現代今日の俳句の流れでは認識、確認されていない。
従って、軽薄な表層の感情だけを、狭い自己体験、特殊体験、人生諷詠として詠めば事りるとする。最も詩から遠ざかった所で表現するのみの弊におちいっている。
現代俳句には、すべてとは言わないが大方は存在論が欠けている。感情論に傾きすぎている。
外来語を使うのはいやだが、「今日の俳句にはゾルレンが先行してザインが無さすぎる」。
現代俳句に存在論をとりもどせ、と強く訴えたい。感情俳句を排せ、と切に訴えたい。 むしろ感情俳句無用と言いたい。何故ならそれは、くりかえすが、存在、霊(モノ)に おのずからついてくるものだからである。
俳句は存在で出すべし、霊(モノ)で出すべし。
*
文章はもっと続きます。むしろここからが省二の本領ともいうべきことが書いてあります。ただ、私が省二の論には重要な結び目とも言える箇所があり、そこから先に進めなくなるということがよくありました。この文で言えば「霊」を「モノ」と読ませた所がそうです。ここが後の文の理解を困難にしています。私の記憶に間違いがなければ、省二が「霊=モノ」と言いだしたのは、
われもまたむかしもののふ西行忌 森 澄雄
の句に対する矢島渚男の批判、それに対する澄雄の反論(というより怒りに近い文)で「もののふ」は「武士というだけでなく、上代は朝廷に使えた官人」の意を敷衍して、「文士の風格」もまた「もののふ」の心といった内容のことが書かれたとき、省二は「もののふ」の「もの」に密教的意味を含めて「霊」を充てたように思います。するとここは深入りは禁物。私が言いたいのは、「あめんぼと雨」が感情詩ではないことをはっきりさせることによって、存在詩と言えそうだということ。これが「物自体」の理解に少しは役立つかと思ったのです。 (第215回句会前話に代えて)
虚実潺潺(214)
あめんぼと雨と(18)
菅原鬨也
私はこれまで島崎藤村の『破戒』の丑松ではないけれど、まるで親の遺言のように口に出さないできたことがあります。出してはいけないと決めていたことがあります。そのタブーを今日は破ることになりそうです。そのタブーを自分に課した理由に「哲学苦手」ということがあります。私の哲学など、ちょろちょろ流れる浅瀬のようなもので口に出したら笑われること必定です。そのコンプレックス。中でも哲学でいう「存在」ということを口にしてはいけない。分かるまでは口にしてはいけない。分からなかったら一生、口にしなくてもいい。そう考えてきました。俳人から「存在」という言葉をとったら俳人ではなくなる。「俳人らしい顔をして俳壇に紛れ込んでいる人間」、そういうことになるのだろう。それはそれで仕方がないと考えていました。
年に数回、選者席で隣り合わせになる「きたごち」の柏原眠雨先生。哲学の権威なのに哲学の「テ」の字も言わない。そこがますます怖い。畏まってしまう。「存在」を含めて、「この人の即物写生」への絶対的自信には哲学の裏付けがある。うっかり話すべきではない。そういう〈信念〉?が私を丑松にしていることは否めません。
そして「俳句饗宴」の岩田諒さんが『存在の家』という句集を出したこと。一冊ならまだしも『存在の家U』まで出しました。岩田さんにとって「存在」などということは「お茶の子さいさい」なのでしょう。よもや私の家には言葉が充満し、ハンマーもありますという程度のことではなかろう。岩田さんだけでなく、「存在」は大半の人が知っているのだろうと思いながら、「知っているような仮面」を付けている丑松はとても辛い。
しかし、「あめんぼと雨と」論であるいはここを越えれば沃野がひらけるかもしれない。この「虚実潺潺」のひとつの大きな山場でもあるかもしれないと予感する奥坂まやの「物自体」論、「写生の極致」論が出てきてしまった。難しい本質論はもうちょっとこちらが勉強してからにしてほしいという願いも虚しく、出てきてしまったのです。
丑松は葛藤しました。ハイデカーやサルトルを知らなければ「存在」は語れないのか。開き直ってそこから考えたのです。丑松は丑松が考えた「存在」という言葉の認識で語らないと一歩も進めないぞ、お前のボクシングはそこでゴングだぞ。ならば当たって砕けろ。これまでいろんな人の「あめんぼと雨と」論をみてきたろう。何がお前を納得させ、何がたちはだかったか、静かに思い返してみよ。−−−分かりました。言ってみます。釈然としなかったその一例。句について、「甘草の芽のとびくのひとならび 高野素十」を引き合いに出していいところまでは論じられてきましたが、二言目には「草の芽俳句だ」「トリビアリズムだ」となっていって、「存在」という言葉につなげてくれる人がいなかった。そういう捉え方ではなく「存在」ということでどなたか教えてくださいと祈るような気持ちでいました。あれほど素っ裸の俳句もないじゃないですか。なぜあれが「トリビアリズム」なのですか。「存在」を知らない私の口からそれを言うのはおこがましいのですが、時空を超えて全宇宙に発信しているようには見えないでしょうか。そう思ってはイエローカードですか。たしかに私は分かっていません。ただ西洋哲学が苦手なので、仏教にすり替えますが今日は、空海の名句(偈と言ったらいいのでしょうか)を書きとめておきたい気分です。
五大にみな響きあり
十界に言語を具す
六塵ことごとく文字なり
法身これ実相なり
五大は「地、水、火、風、空」、これに「識」を加えると六大。十界は「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、菩薩、仏」、六塵は「色、声、香、味、触、法」。言葉は人間がつくった? 人間には言葉があるという前提、その疑問はもう解決済みなのでしょうか。「内外の風気わずかに発すれば、必ず響くを声というなり」で始まる『声字実相義』。私はそこから知りたいのです。
(第214回句会前話に代えて)
虚実潺潺(213)
あめんぼと雨と(17)
菅原鬨也
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奥坂まや「写生句の極致」 |
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先に紹介した「俳句朝日」1999年11月号 <藤田湘子最新句集『神楽』を読む>からの「物自体」と題した小文が思い出されます。この「ウエップ」に書いたことは、「物自体」を肉付けしたようになっています。その「物自体」をもう一度、書き出してみます。
あめんぼと雨とあめんぼと雨と
考えてはできない。なんの意味も無いのだから。ここには、音(調べ)を通じて現れる「物」しか存在しない。だが 「物」は、水面を踏まえるあめんぼとそこに降り込む雨滴とは確かに在る。もともとは意味でしかない言葉が、物自体 となって存在してしまうことは、奇蹟にも等しい、詩の究極の姿のひとつだ。この句を前に、我々はただ茫然とする。
そして今回の「写生句の極致」。(原文のまま紹介します)
言うまでもないことだが、私達人間は普段、言葉を伝達の手段として使っている。しかしながら、世界のあらゆる民族が意味を伝えるだけではない「歌」を擁することからも分かるように、人間と言葉との関係は、機能だけに尽きるものではない。
私達は、おそらく根本的な渇望のひとつとして、言葉に手段以上のもの、言葉自体が単なる意味を超えた確固たる存在であるような状態、を求めてやまない。もちろん「詩」も、そこに発生する。
俳句は世界でもっとも短い詩といわれる。フランスの偉大な詩人イヴ・ボンヌフォワは、正岡子規国際俳句賞を受賞 した際の講演で、「短詩型は他のどんな詩形よりも、詩的経験そのものに向かう戸口になることができます」と述べて いる。物語のような長いかたちをとるものは、どうしても事態の展開や因果関係の連なりが必要で、意味のほうに引き寄せられることが多くなってしまうからだ。
俳句の詩としての面を考える時に、大きく分けて二つの、たいへん異なる世界があると思われる。ひとつは、松尾芭蕉の「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」や三橋敏雄の「絶滅のかの狼を連れ歩く」に代表される、詩的な内容をもつもの である。このタイプは、近代以後の詩の概念に親しんでいる私達には分かりやすく、誰もが傑出した詩であることを認めるものだ。
もうひとつの世界は、内容としては詩とはなんら関係がないが、言葉がそのまま「物自体」に成りおおせているもので、野沢凡兆の「ながくと川一筋や雪の原」や高浜虚子の「流れゆく大根の葉の早さかな」が典型的な作品である。 こちらの方は、内容がごく普通のことなので、ともすれば「只事」の句と思われかねない。しかし、単なる音の連なり にすぎない「言葉」を、目の前に存在する実際の「物」そのもののように感じとる事ができるというのは奇跡のような事態に他ならないのだ。真の「写生」句というのは、このような俳句を指すのだと思う。人間が言葉に抱いている理想 の状態のひとつが実現して、これもまた見事な詩作品になっている。対象の切り取り方、響きを含めた言葉の選択・順序、ちょっとでも狂えば、この桃源郷は喪われてしまうだろう。
「あめんばと雨とあめんばと雨と」は、こちらのタイプに属する優れた作品である。下五字足らずなのだが、「と」のあとに小休止が入るので、実質五音になっている。この句を読む者は誰でも、雨脚が水面に当たって拡がるたくさん の水輪と、その間に繊い足を張るあめんぼの銀色の線を目にすることができる。四回繰り返される「と」の音が、雨滴 そのものとなって落下してくる。藤田湘子の写生句の極致といってよいと思う。
この小論を読んで私は飯島晴子を仙台に迎えたとき、彼女から直接「言葉が物になるということですよね」と聞いたことと、そのことに関連して、二編の評論を思い出しました。そのうち二編だけを紹介したいと思います。永島靖子と飯島晴子の文です。それは来月。 (第213回句会前話に代えて)
虚実潺潺(212)
あめんぼと雨と(16)
菅原 鬨也
坪内稔典「詩を生む反復」、高野ムツオ「リズムの想像力」、タイトルにどこか共通したところがあります。二人とも俳論に精通、どんなテーマでも一応の解答を出せる人のようです。
坪内は先にインターネットで「(筍やとあめんぼとの二句とも)リズムが明るいだけであり、暗さや不思議さがない。表現の仕方が楽しいだけであろう」と述べたことを紹介しました(「虚実潺潺」205)。それはそれで納得できました。ご自身の「三月の甘納豆のうふふふふ」につながるような感想を語っているようにも思われました。今回は根本的にそう違いはないようですが、まず、「甘草の芽のとびくのひとならび 素十」の句と対比しています。これは前回の中山世一と同じ。ただ中山との相違は「あめんぼと」も草の根俳句の一種だと言っている点です。「詩を作ろうとした果敢な冒険」と一応、詩としては称えているように見えますが、「あまり俳句的ではないかも」というのがどうも結論らしく思えます。後半は、「筍や雨粒ひとつふたつ百」の「百」から連想した「朝顔や百たび訪はば母死なむ 永田耕衣」を持ち出し、湘子の「百」は微温的、微温的とは草の芽俳句の条件、だから湘子の句は、良い意味でも悪い意味でも草の芽俳句であると結んでいます。「えっ、これで終わり?」と言う感じです。含むところを私は読めませんでした。 高野の文の導入部は、湘子の最後の句集の名が『てんてん』だったことに触れ、小川軽舟の言葉を引用、「てんてん」が読者それぞれに想像すればいいのと同じように「あめんぼ」も「想像世界を展開することを意図して作られたといって よい」と断言するに至ります。高柳重信の「夜のダ・カポ/ダ・カポのダ・カポ/噴火のダ・カポ」を先行句として挙げ、「湘子のどこかにこの句が絶えず揺曳していたのではないかなどとも想像を膨らますのである。」と結んでいます。重信なら「だば どぼ/だば どぼ/駄馬ゆく/ぼく ゆく/故郷の村道」もあり、リフレイン論を言ったのだろうか。それだけではないとは思いながら、ならば、次の筑紫磐井にかなり近いと考えていいのかもしれないと思いました。
筑紫磐井―。博覧強記。俳句の評論ならどんな角度からでも入っていける人です。今回は、標語から俳句の近代定型論なるアプローチを試みています。挙げられた標語は戦前の「一銭を笑ふ者は一銭に泣く」「欲しがりません 勝つまでは」「撃ちてしやまむ」、戦後の「飛び出すな車は急に止まれない」「狭い日本 そんなに急いでどこへ行く」。これら標語の最大の特色はやたらと反復が多いことであるとし、「見よ空 征け空 拓け空」「今日も決戦、明日も決戦」「柏手を 打つ手 強い手、興亜の手」などを挙げています。そして「近代俳句には、内容ではない、形式を主にした名句が登場してきた」と述べています。標語といえば、湘子もよく「この土手を登るべからず警視庁」を挙げて、俳句との違いを述べていました。筑紫に標語のことをもち出されて苦笑しているでしょう。湘子はやや勇み足で「警視庁」の部分(下五)をどんな季語をもってくればいいかというところまで語ってしまったのです。「手垢のついた言葉は使うな」と指導する一方で「この土手を登るべからず」の下五を考えさせる。これは、失敗だったと言うべきでしょう。
さて、筑紫は「形式至上の文学の発見(「構造主義的」)に近代の定型の技術が加わってできたのが湘子の「あめんぼ」だと言っています。ほかに形式を主にした俳句として挙げられたのは
鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規
帚木に影といふものありにけり 高濱虚子
一月の川一月の谷の中 飯田龍太
です。標語からできた名句というものもあり、大正時代の「今日は帝劇、明日は三越」から、
幾千代も散るは美し明日は三越 摂津幸彦
を挙げています。専門家の論でもこれはよく分かるし、近代俳句の歴史的考察から見た見解として納得できます。
まあ、高野素十を挙げるか、高柳重信を挙げるか、摂津幸彦を挙げるか、それを例句とするのはとてもいいことですが、それをどのように説明できているかが重要なことのように思われます。 (第212回句会前話に代えて)
虚実潺潺(211)
あめんぼと雨と(15)
菅原鬨也
湘子の「あめんぼと雨と」に戻ります。今回は他の句との比較で述べられたお二人のコメントを紹介します。はじめは中山世一。
あめんぼと雨とあめんぼと雨と 湘 子
甘草の芽のとびくのひとならび 素 十
この二句について「形式上の類似点はリズム感があることであり、違いは湘子句が完全な繰り返しであるのに対して高野素十の句はリフレインはあるが繰り返しではない点である。」と断った上で、しかし、「心には大きな共通性がある。それは作者の意思を表面的には明らかにしていないということである。ポンとモノを置いただけである。いわゆる意味性が消えている。」と述べています。さらに素十の句に触れ「優れた写生句であるという賛同論と同じくらいの強さで〈草の芽俳句〉とか〈トリビアリズムに過ぎる〉という反対論があった。」と続けています。素十のこの句がそうした評価、批判を受けてきたことは事実です。氏はこれに続けて、こうした〈草の芽俳句〉〈トリビアリズム〉に虚子・素十と秋桜子が袂を分かつ原因であった。なのに秋桜子の弟子の湘子が長い時間をへて、「あめんぼ」にたどり着いた。「あの論争は一体なんであったのだろうか」と疑問を投げています。そして素十三十六歳、湘子晩年のそれぞれの句に感慨深いものがあるとした上で、湘子の過去の五句を挙げ、「あめんぼ」の句に至り着くまでにはかなりの紆余曲折があるとコメントしています。ここにその五句を掲げます。
「雪しろき奥嶺があげし二日月」「愛されずして沖遠く泳ぐなり」「胡桃二つころがりふたつ音違ふ」「口笛ひゆうと ゴッホ死にたるは夏か」「水の輪とかやつり草と祭かな」
氏は一句ごとに特徴的な点を述べ、最後の五句目は「写生句である。」とし、「ホトトギス」の写生句と区別がつかないと言っています。しかし私はここで首を傾げました。五句目に至る過程で湘子は「愚昧論ノート」を書き、虚子を見直 しています。見直してはいるのですが、急激に「ホトトギス」調の写生句に傾いていったとは思えないのです。それに 「ホトトギス」では言葉の繰り返しによる写生句がそんなにあったのでしょうか。これは写生句ふうに出来てはいますが「水の輪と」の上五に抒情を感じるべき句だと思うのです。
このあと氏は湘子の一日十句(多作)に対し、「湘子は湘子なりに行き詰まりを感じ、打開策を講じていたものであろう。」そして「頭で句を作るのではなく反射的に体で句を作ることに挑戦したのに違いない。」との理解を示し、「頭で句を作らないということは実は季語を信じ、モノを信じ、読者を信じるということを前提としている。」と述べ、結論として、湘子の気持ちを代弁するかのように「〈この句が分かるか〉〈分かってくれよ〉という思いが込められているのである。」と言い、最後に「湘子はその思いに師秋桜子の重んじた調べを乗せたのである。」と結んでいます。
一日十句(多作)の動機の件はともあれ、結びは私も賛成、しっかり帳尻が合ったという感じです。
次の仲村青彦ですが、スペースの関係で簡単に述べます。
ああ/はるか/よるの/薔薇 八木 重吉
赤の寡婦黄の寡婦青の寡婦寡婦寡婦 渡邊 白泉
氏は重吉の詩と自由律の俳句について述べたあと、「白泉の作品は〈赤の寡婦/黄の寡婦青の/寡婦寡婦寡婦〉の仮想的音律と合わせ鏡になっている。この合わせ鏡は、〈赤〉〈黄〉が〈青〉へとうごくベクトルを匂わせながら、整列している寡婦の群を連想させるのである。……それは定型の構造、音律の合わせ鏡という構造を活用した試みであった」として、これに対し、「湘子は白泉と別の試みをしたのかもしれない。ことばあそびを取り込むことであめんぼと雨とのありようを情緒づけようとしたのかもしれない。」と述べていますが、さてどうでしょう。私は白泉の〈寡婦〉の句と〈あめんぼ〉の定型、音律の認識にそれほどの差異はないと思うですが……。 (第211回句会前話に代えて)
虚実潺潺(210) あめんぼと雨と(中休み)
菅原鬨也
ここで一息入れます。中西夕紀さんの「都市」5月号に加藤静夫氏が興味深いことを寄稿していました。「あめんぼと雨と」の句に直接関係はありませんが、湘子の言語感覚の厳しさを述べています。私の記憶を交えて紹介します。
私は湘子の「木の芽という美しい季語があるのに芽木とは何ぞや」という言葉を幾度も聞きました。全く同感、と思っていましたのでそのまま引き継いだのです。ですから「滝」では、「芽木」を使った俳句は一句も無いはずです。ただ、例外として川名禾乃さんの句集『ひと結び』(滝発行所)には入っています。これは「滝」入会以前の句も是非収録したいという彼女の意向を尊重したためです。静夫氏はこれにまつわる俳句研究賞の選考について書いています。私はうっかり選考経過を読んでいなかったのですが、Aという人の作品がほぼ受賞と決まりそうになったとき、応募作五十句の中に季語として「芽木」を用いた句があったため、湘子は猛然と反対したというのです。「メギ、メギ、なんていやな言葉だろう。木の芽という美しい季語があるのに、なぜわざわざ、メギと言わなくてはならないのか。木の芽風をメギの風などと言って澄ましている者を、私は俳人とは認めたくない」。湘子はおおよそそのような主張をして一歩も譲らなかった、そして、先人から受け継いだ季語という財産に勝手に手をつけられたようで我慢がならなかったのであろう、と書いています。結局、その迫力に太刀打ち出来る選考委員はひとりもおらず、Aの受賞は見送られることになったそうです。
これは佐治英子さんから聞いた話ですが、遠藤梧逸氏は「花かぼちゃ」を認めなかったそうです。そういうかぼちゃの種類は無いというのだそうです。これにも私は賛成。ですから「滝」に「花かぼちゃ」はありません。ただ、「ゆすらの花」を「花ゆすら」とするなど、認められている例はたくさんあります。これには植物学的な理由と慣例による場合があり、歳時記をまめに調べるほかにないようです。例えば「花の冷」があるのに「リラの冷」は使われていない。最近では「山開き」「囀り」など、「き」や「り」を送るケースが増えているなど、時代の変化というのもあります。
それから私が記憶している湘子の指摘に「鳥雲に」を「鳥雲や」とする人、「白木蓮」を「白れん」と書いて「はくれん」と読ませるつもりの人(「白蓮」は蓮の花のこと)などの例がありました。また動詞では「食む」を乱用するな、ということもありました。「苺食む」などと聞くと「苺ハム」みたいで気持ちが悪いと言っていました。これも大方賛成、私はほとんど「食う」を使っていますが、会員に強制してはいません。
静夫氏の文はさらに風花を「風の花」とする輩も同罪と書かれてあり、これは私が「鷹」を去ってからそう書いて投句した人がいたということでしょう。私が困ったのは、「なぜ郭公に遠いを付けて遠郭公としなければならないのか。郭公は遠くで鳴いていてこそ郭公。手乗り文鳥じゃあるまいし縁先で鳴かれてたまるもんか。」といった趣意の湘子語録です。私は知らなかったのです。言われてみればその通りなのです。なぜ気づかなかったのかと悔やまれます。湘子は「夕焼」に「大」を付けて何故「大夕焼」と言うのかとも言っていましたので、そこから気づくべきだったのです。
さらに、助詞の「で」をよく槍玉に挙げたこと。つまり「自転車で」「ひとりで」等、「で」の散文的な響きが湘子の美意識に合わなかったということ。また、カタカナ語を毛嫌いしたことなどを静夫氏は書いています。カタカナ語嫌いは私も知っていましたが、次第に強くなっていったようです。「鷹」に仁藤さくらが登場したとき、「いやあ、外人の名前が頻繁に出てくるので人名録を買っちゃたよ」と笑っていたのを覚えています。その口調から、多分に仁藤さくらへの期待ということもあったようですが、カタカナや外人の名をまったく否定していたわけではなかったのですが、カタカナ嫌いが強くなっていったのでしょう。カタカナでしか表せない最小限の語に限っていったようです。私が選句で最初に悩んだカタカナ語は「リストラ」でした。自己葛藤の末、「この言葉を禁じたらこの作者を駄目にしかねない」と不本意ながら容認した記憶があります。静夫氏はもっと興味深いことを書いているのですが、ついに電子辞書の使用禁止までいったそうです。いかにも湘子らしいと思います。そのことですが、「滝」では、明朝については略字でない正式の字体が出てくるソフトを使っています。その他、たくさんありますがまた別の席で。
(第210回句会前話に代えて)
虚実潺潺(209)
あめんぼと雨と(14)
菅原鬨也
「WEP俳句通信」に戻ります。
針ケ谷隆一の「韻律精神の一滴」は、湘子が韻律を重視するようになったその源流を探り、土居光知→水原秋櫻子→藤田湘子という流れを紹介しています。即ち土居光知著『文学序論』に掲げられた音脚配置を秋櫻子がその著書『現代俳句論』に引用、それを読んだ湘子が特に音律に関わる部分に感激、影響を受けたことを指摘しています。針ケ谷は〈あめんぼ〉の句について言えば、「一気に読むと十六音」「中七の句またがりに読むと八音・八音」といった具合に区切り方によってリズムが異なる、それを五つに分けて紹介しています。そして音脚配置を紹介しています。〈あめんぼ〉の句の音脚配置は、
2 2 1 2 1 2 2 1 2 1
あめ んぼ と あめ と あめ んぼ と あめ と
となり、彼はこの音脚配置から「定型五・七・五ではないのにこの安定したリズムと響きは母音(ア)の起用と相まって美しい形に仕上がっている。このことは結果論であって作者の意図したものは当然主題の〈あめんぼ〉そして対峙する〈雨〉とのコラボレーションにある。」と述べています。
私はこのコンピューターの記号のような区切り方から、どうしてそのような立派な結論が出るのか分かりませんが、音譜の読めない楽譜が目の前にあるようで、これは「そういうことだそうです」と紹介するしかありません。ただ、湘子が秋櫻子に影響を受けたことは湘子の『俳句の方法』(角川選書)に書かれてある通りで彼もこれを紹介していますので、もう一度ここに掲げておきます。
「俳句における韻律、秋櫻子言うところの調べがいかに大切なことであるか、よく理解できる。理解できるどころかそ の後およそ五十年、私は韻律を最優先するといっても過言ではない作句をして来たし、そのことを仲間や後進にもきつ く要求している。」
次の寺井谷子は、湘子著『20週俳句入門』についてカッコ付きで(斯くまで、自身の全てを出しての指導書を私は知らない)と書いています。これをこのまま読めばまったくその通りで初心者でない人もこの本の世話になった人は多いと思います。特に「鷹」の人にとってみればバイブルのようなもので、普段口に出さないことも書いてあるものですから、湘子はこんなにいろんなことを知っていたのかと驚いた人もたくさん居たと思います。実は私もその一人です。また、寺井は冒頭、WEP俳句通信からの原稿依頼書に「この一句は音の上では字足らずですが、声に出して読んでみると、違和感がありません」とあったことを取り上げ、「〈アアそうか〉〈字足らず〉というより〈破調〉かな、という感じなのである。」と述べています。〈親切な入門書〉と〈字足らず〉の指摘、関係が無いように見えますが、ここに彼女の直感が出ているように思われました。彼女は「五・七・五と指を折るような感覚は持っていないから」と断っているように〈字足らず〉や〈字余り〉はいけないなどという考えもはじめから無く、ましてそれらが欠陥作品などという意識はさらさら無いということです。『20週俳句入門』では、「さまざまな変形」として〈字余り〉〈字足らず〉〈破調〉〈句またがり〉を丁寧に説明したあと、湘子自身の句「口笛ひゆうとゴッホ死にたるは夏か」について説明していることを指摘しています。この句について湘子は「私の心底には定型に則ってできたという感覚が巌とあって、これを五七五にしようという気は、はじめからなかった。」と述べ、あとは前々回のこの「虚実潺潺」で取り上げた奈良文夫の内在律と同様のことを述べ、湘子が「(破調句)は、初心者が作ろうとしても無駄」と書いたことを一応の結論としています。ほかにNHKでの出来事に少し触れて、湘子の「五七五」に対する厳しさを述懐しています。
なお、句またがりや発音的に七・五音でうまく処理されていればいいのですが、湘子の中八嫌い、というより中八不採用は、原則として私も引き継いでいます。
(第209回句会前話に代えて)
虚実潺潺(208)
あめんぼと雨と(13)
菅原鬨也
前回の奈良文夫の内在律、須原和男の一回性、根本的には同義と思います。湘子は、既に同様のことを
七月や雨脚を見て門司にあり (昭和49年)
の自解で述べています。これは「虚実潺潺(203)」で紹介しましたが、もういちど紹介します。
(略)私はこのごろ、一句は書き足らなくてもいけないし、書き剰してもいけない、それ以上でも以下でもない書き方をしたい。それでいて、読み手の中にとどまって、消そうとしても消えない俳句、そういうものをつくりたい、と切に念じている。顧ると、この句あたりからそんなことを考えはじめていたように思う。(「自作ノート)
そしてこの翌年、殆どの方が「あめんぼ」の句との関連を指摘している「筍や雨粒ひとつふたつ百」が出来たことを紹介しました。しかし私は、
号泣の子に筍の露ひとつ (昭和44年)
七月や雨脚を見て門司にあり (昭和49年)
筍や雨粒ひとつふたつ百 (昭和50年)
筍は天を忘れて横たはる (昭和58年)
筍にきつね雨とはうれしさよ (昭和58年)
筍として大は大小は小 (昭和59年)
という作句の軌跡を無視できないと考えています。さらにもっと遡ることを許して貰えるなら、
病穂にも露は目覚めて基地砂川 (昭和31年)
たゝかひ解かず膝寄せ露の荒筵 ( 〃 )
野鼠走り空畑の露緊迫す ( 〃 )
という、「露」の句も湘子の作句体験、その行方を探るために無視できないと思っています。これは、国鉄の労組員として砂川基地建設反対闘争に参加したときの句なのですが、当時、こうした社会性俳句ともいうべき作品は「馬酔木」には殆ど無かったのであり、また湘子の志向するテーマとも遠いところにあったと思われます。それが水原秋桜子に容認された。このことは、湘子を勇気づけ、自信を深める力になったと思われるのです。秋桜子に将来を期待されていた湘子にしてできたことだったのです。
さて突然ですが、ここで視点を変え、湘子の初期の〈揚羽〉の句を見てみましょう。
愉しまず道の罅はた黒揚羽 (昭和34年)
南より揚羽北より知らぬ楽 (昭和36年)
揚羽蝶しばらく行きて硝子割れ (昭和42年)
湘子の華々しい時期の句としてはまずしい感じがしませんか。ことに第一句と第三句の間には、ほぼ八年の歳月があるにもかかわらず、ほぼ変わっていません。〈蝶〉だけの句ですと、
あてどなく急げる蝶に似たらずや (昭和25年)
愉しさの夫人と蝶と坂に逢ふ (昭和27年)
音楽を降らしめよ夥しき蝶に (昭和29年)
心覚むるを待たず初蝶去りにけり (昭和38年)
のように、いずれも感動を与え、人口に膾炙されるほどの句をつくっていたにも関わらず〈揚羽〉では極めて弱い。この〈揚羽〉が、突然、輝きだしたのはさらに十年後の
揚羽より速し吉野の女学生 (昭和52年)
です。この句とほぼ同時に
白露の中や揚羽の曵く音も (昭和52年)
が出来、湘子本来の美意識、叙情性が発揮されました。
つまり、砂川における「露」は、二つの方向に進んでいったと考えるのです。もちろん、私の独断であることは百も承知です。しかしやはり言っておきたい。砂川は俳句の対象としては異質であったために湘子自身の衝撃的体験となった。その衝撃ということもあって、湘子における「露」は、〈揚羽〉の句に結実させる方向と〈筍〉の句に結実させる方向にわかれ、〈筍〉はやがて〈あめんぼ〉へと昇華されるに至ったのだと。
(第208回句会前話に代えて)
虚実潺潺(207)
めんぼと雨と(12)
菅原鬨也
「WEP俳句通信」(・ウエップ)36号(2007年2月14日発売)は、特集「<あめんぼと雨とあめんぼと雨と>について」を組んでいます。問題提起(リード)はこうあります。
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「藤田湘子氏晩年の一句に<あめんぼと雨とあめんぼと雨と>があり、これを湘子氏の秀吟のひとつと数える人が少なくありません。その理由は何か。あるいはこの作品をどう読み、どう評価するか。また、この作品は音の上では字足らずですが、声に出して読んでみると、違和感がありません。そのあたりをどう考えるかについて、述べていただきました。」 |
執筆者は十八人。多からず少なからず興味津々の顔ぶれです。この「虚実潺潺」で最初に取り上げた「俳句」(平成20年2月号)の特集「本当に名句?」と重複している人は土肥あき子氏のみ。また、「俳句朝日」1999年11月号の「藤田湘子最新句集『神楽』を読む」で〈あめんぼと〉を挙げた人と重複しているのは小川軽舟氏。また私がインターネットから取り上げた坪内稔典氏も加わっています。結局、「鷹」から参加しているのは小川軽舟のほかに奥坂まや、高柳克弘の三氏ということになり、いきおいこの三氏には注目したのですが、贔屓の引き倒しにならぬよう概ね、適度の抑制心がはたらいているように見受けられた点、この特集は成功したと思われます。
しかし、藤田湘子との関わりの度合いがこの句の評価にも影響していることは否めません。その人数は極めて少ないのですが、行間ににじむ批判、といってもそう強いものではありませんが、句の宿命として若干の批判が感じられる文もあり、これらの意見に耳を傾ける必要があることは言を待ちません。またこれほどの人にしては、と思われる文も無いではないのですが、湘子との距離があるため、本来の筆力が発揮できなかったと考えるべきではないかと思いました。前置きはこのくらいにして、執筆者と文の題を紹介します。これだけでもかなりの情報量があると思われます。
奈良文夫−俳句と内在律
須原和男−省略の極致
針ケ谷隆一−韻律精神の一滴
寺井谷子−厳と・・・定型
中山世一−修練の果て
仲村青彦−定型という構造
坪内稔典−詩を生む反復
高野ムツオ−リズムの想像力
筑紫磐井−「あめんぼと雨と」×2は文学か
奥坂まや−写生句の極致
丹羽真一−あめんぼとその世界
今井 聖−あめんぼの句について
星野高士−雅
稲田眸子−交響楽
坊城俊樹−藤田純情
小川軽舟−一行の詩
土あき子−欠落したままの空洞
高柳克弘−見えてくる
以下は敬称略で書きます。「ウエップ」の指摘をまつまでもなく、この句を評価する最も重要な観点は、韻律が俳句にかなっているか、かなっているとすれば何がそれを可能にしているのか、です。
冒頭にある奈良の文はこの特集の大宗を決定するかのように〈内在律〉という言葉を使って説明しています。〈内在律〉という言葉は、ややもすれば誤解されがちで詩歌のもっている韻律と思っている人もあるようですが、そうではなく、表現者個々人ののっぴきならぬリズム、金輪際こうでなければというリズムのことです。奈良はですからこれを〈内在リズム〉と言い換えて「心の中の嘆き、悲しみ、喜びなどの感情がリズムとなって表現されるもので、作者の生命と結びついたものだ。結果として句またぎ、字余り、字足らずも生じ得る。それが真の俳句のリズムだ。」と述べています。
次の須原はこれを受けるかのように、〈昼寝してをり蘭鋳も妻も〉〈家庭医学一巻母の曝書〉のご自分の二句を挙げ、これ以上は一語・一音も足したくないという場合があることを述べています。はじめから自由律を標榜しているのとは違います。定型を尊重しつつなお、やむにやまれず、破調になることを言います。須原はこれにとどまらず、〈あめんぼ〉の句については、「と」を省いて四行詩の形に表記すると、「あ」の頭韻が四つあることに言及、この句は模倣や追随を許さぬ、一回限りの成果だと述べています。「一語・一音も足したくない」というのは、「七月や雨脚を見て門司にあり湘子」のところで述べたことと一致します。来月はそこから。 (第207回句会前話に代えて)
虚実潺潺(206)
あめんぼと雨と(11)
菅原鬨也
インターネットにどんなことが書かれているか、少し気になります。前号につづき、目についた分を紹介します。この中の太田かほりは、「浮野」(落合水尾主宰)に所属し息長く俳句鑑賞をしており、既に『俳句回廊』『鷹羽狩行の俳句』を著しています。早くから紙媒体とネットを駆使しエネルギッシュに書きつづけている人です。彼女と至遊はほぼ同じことを指摘しています。つまり字足らずなのに調子は獲得できているということ。後の深草昌子、尾形敏行は水原秋櫻子との関わりからこの句の内包していることを捉えようとしているようです。
これで外堀はほぼ埋めたと思います。次回から「WEP俳句通信」の特集を紹介します。
あめんぼと雨とあめんぼと雨と 藤田湘子
よく採り上げられる句なので、ご存知の方も多いだろう。「あめんぼと雨と」を2回繰り返しただけである。この半分で8音だから、繰り返しても16音にしかならない。山頭火や放哉のように自由律という訳でもない。一般に字余りに比べると字足らずは拍子抜けのするところがある。でもこの句の場合、字足らずであること自体に気づかないで読んでいる方が多そうだ。「一体どこで切るんですか?」という質問がくる。これにも色々な答えようがあるが、リフレインである限り、真中でちょっとだけ息を入れてあげたらと思っている。不思議なことに、この句は急いで読むとかなりの雨に聞え、ゆっくり読むと小雨になる。そうは思いませんか? (至遊)
あめんぼと雨とあめんぼと雨と 藤田湘子
型破りな句である。乱暴といえば乱暴な、ぶっきらぼうといえばぶっきらぼうな句である。合計で十六音の字足らずはよいとして、どこに切れを置くかさんざんに迷わせら れる。結局どこで切っても雨とあめんぼうしかないことに落ち着いて妙に合点してしまう。視界は限定され、雨脚と水面の接点にできるくぼみとあめんぼうの四肢と水面の接点にできるくぼみが、点々と広がる。雨の規則的な動とあめんぼうの不規則的な動とが縦横に交錯して一つのリズムが生じる。雨とあめんぼうしか描かれていないからかえって両者の細部までが見える。あめんぼうのいきいきと跳ぶような泳ぎ、雨の弾むような降り方、雨を水面に受ける水の騒ぎなどが見えてくる。単純化された楽しい句である。
あめんぼと雨とあめんぼと雨と 湘子
は、素十の写生のスタイルだろう。だがこの句の余韻に湘子の内面が映し出されていないだろうか。あめんぼと雨と、つかの間の憩いさえ湘子にかかると泣けてくるのである。〈冬菊のまとふはおのがひかりのみ 秋櫻子〉の哀しみに似ている。「この冬菊」だけ、「このあめんぼ」だけ、そのありようのさびしさ。秋櫻子も一人、湘子も一人。 後年、虚子を見直した。そのことがいっそう秋櫻子へ回帰させたのではないだろうか。 (深草昌子)
あめんぼと雨とあめんぼと雨と 藤田湘子
俳号に「子」を持つ人も多いが、これ大抵は男性である。藤田湘子は神奈川は小田原に生まれた人で、横浜生活の長い私にはとりわけ親近感があり、また俳句の韻文精神や切れを終生強く呼びかけた人でもあり、そのロマン的作品の数々からも敬意を捧げる人である。水原秋櫻子の「馬酔木」より袂を分かち、独立して「鷹」という結社を創立。 弟子に厳しかったことでも知られる作者の、私にとっては最高の作。指折り数えればなんと下五は字足らず。しかしこのリズム感は他者には出せぬだろう。これでも俳句かと常識を逸脱しており、こういうのが新しい表現、傑作というのだろう。いつの時も感性は理屈の先を行くのだと思う。「あめんぼ」と「雨」のお互いが何と楽しそうなことだろう。(尾形敏行) (第205回句会前話に代えて)
虚実潺潺(205)
菅原鬨也
あめんぼと雨と(10)
あめんぼと雨とあめんぼと雨と 藤田湘子
リフレインが活きている句です。「あめ」という読みを4回繰り返されるリズム感が いい。そして「と」の繰り返し も活きている。降り止まぬ雨がまだしとしと降り止ま ぬという感じをうける。又、作者はどれぐらいの時間雨と対面し ていたのか。少しの 時間ではこうは詠めないと思う。あめんぼと雨とそして自分とがしばらく時を共有する 。
そういう時に人は何を思うのだろう。その心は読む人によって違うのかもしれない。 この句はリフレインによるリズム感で詩情が生まれてくる秀句である。
だがこの句、説明しようと思えばいかようにも説明できそうで、説明しなくても感じ ようと思えばいかようにも感じ られる反面、何も感じない人もおそらくけっこういる だろう。だから?と言われそう。その点少し微妙かも……俺は好 きだけどね。(ちく 虎)
これはインターネットのブログにあった文です。私は「ちく虎」なる人を存じあげないのですが、自由に俳句の鑑賞を行っている方のようです。だいぶ以前に書かれたものらしく、長い間私の資料の中に眠っていました。殊に「説明しようと思えばいかようにも説明できそうで」というところに興味がありました。どんな言葉をどれだけ使えば説明できるのか、私にはこの問題意識がつよかったのです。
坪内稔典氏は彼のホームページ2006年4月11日付けで「春星をことごとく得しその瞑さ 藤田湘子」の鑑賞の中で他の二句、「筍や」と「あめんぼと」にも触れているのですが、「この2句、リズムが明るいだけであり、暗さや不思議さがない。表現の仕方が楽しいだけであろう。」と述べています。軽く一蹴、という感じですね。稔典氏といえば、多くの人が認める実力者です。軽く一蹴してしまっていいのかな? 私はちょっと心配だったのです。
この句は、リズム、韻文といったことの技法的な面だけをとらえて云々されていますが、内に秘めているものはよく解明されていないのです。
*
突拍子もない譬えを出しますが、数十年も前のことです。仕事のことで田辺製薬(現田辺三菱製薬)のA氏と話したことがありました。当時、田辺製薬では「アスパラ」を主力商品として力を入れていました。主成分はアスパラギン酸カリウムだったと記憶しています。また同社では「エビオス」も扱っていました(現在は医科向けだけが田辺、一般向けはアサヒフードアンドヘルスケアが販売)。「エビオス」はビール酵母から作られています。A氏によると、「アスパラ」は化学的分析の結果、成分がすっかり分かっている、だから効能の範囲も分かっている。しかし、「エビオス」は自然の材料を用いているため、その効果が完全に把握されているとは言えない、効能は未知数で説明されている効能のほかに、今後、別の効能も発見される可能性もあるというのです。彼の予言した通り、ビール酵母の効能分析が進んできて服用の目的に多様性が出てきているようです。巷間、「エビオス」は男性の性的な面にも作用するなどと言われ、インターネットでも堂々と主張しているページも出てきているありさまです。まあ、さすがにメーカー側ではこの点についてはノーコメントのようですが、エビオスの効能分析はまだ完了していないということの表れでしょう。
俳句は、定型、切れ、季語から成り立っているということでそれぞれ別々に論じられています。「や」の切字は「七つの〈や〉」などと、薬に譬えればその成分分析はかなり進んでいますが、それでも十全とは言えません。同様に〈韻は中身をも語る〉という成分分析はまだまだのようです。しかし、俳句のリズムはリズムだけではないと誰もが直感していることは事実です。それが明確に言えないから、私にとって「あめんぼ」の句は、まだエビオス状態なのです。
今、講談社では『新日本大歳時記−愛蔵版』、過去の五分冊を一冊にしたものの販売に懸命です。宣伝カタログも綺麗で感じのいいものです。季節ごとの三句が取り上げられているのですが、この中に「あめんぼ」の句が入っています。講談社としても無視できない作品と考えたのではないでしょうか。
虚実潺潺(204)
あめんぼと雨と(9)
菅原鬨也
あめんぼと雨とあめんぼと雨と 藤田湘子
子供のころはミズスマシと言って遊んだ。俳句を始めてあれはアメンボウだと教えられたが、ずっと違和感が残り、 自分の言葉として認識するのに時間がかかった。水馬は至るところで見ているのに句にならなかったのはそのため。唐 招提寺の池で思いが霽れた。[湘子自註]
ここには二つの情報が入っています。一つは子供のころ覚えた(周囲がそのように呼んでいた)〈ミズスマシ〉から脱することが難しかった。一つは、動機となった場所が唐招提寺であるということ。誰でも子供のころ覚えた名称と後年、歳時記などで見る名称には心理的にギャップが生まれるということはよくあることです。
そのような言葉との違和感、心理的なギャップはそれ自体、興味深いことでこれだけでも大きなテーマになりそうですね。特に湘子のそうした言語へのこだわりは彼の鋭敏な感性と裏腹にあることですのでよく分かります。ところが主宰という立場にあったこともそうですが、俳人は年とともにいつまでもこだわっていては自分を開くことができません。湘子が〈アメンボウ〉を使うことができるようになったのは、〈ゴーヤ〉をいまだに食べることができない私がゴーヤを食べるほど画期的だったのでしょう。
〈アメンボウ〉どころか〈アメンボ〉と詰めた表現もできるようになったのだから、大きな変化です。
というところで以下、湘子本人から離れて多くの人の意見にじっくり耳を傾けたいと思います。あらためてテーマをはっきりさせておきます。テーマは「あめんぼと雨とあめんぼと雨と」の句についてどう思うか、です。
「俳句朝日」1999年11月号 <藤田湘子最新句集『神楽』を読む>から
無名性ということ 小川軽舟
あめんぼと雨とあめんぼと雨と
平成九年作。水面がある。ついつい遊ぶあめんぼがいて、ぽつぽつ落ちる雨粒がある。その繰り返しだけだ。「あめんぼと雨と/あめんぼと雨と」と八・八に棒読みしては味わいがなくなる。
あめんぼと/雨とあめんぼ/と・雨と
最後の「雨と」の前に一拍休止を置いて、抑揚のある五・七・五の韻律が生まれる。
この句において、作者の姿はみごとに消し去られている。作者の作為の痕跡をとどめず、極限まで単純化された物象の世界だけがある。「わが名も消えて」と詠んだ覚悟の一つの到達点がここにあるように思う。
歓喜 大石悦子
あめんぼと雨とあめんぼと雨と
池の面に雨つぶがぽつんと落ち、あめんぼが驚いて跳ねる。またひとつ、雨つぶが落ち、あめんばが跳ね……次々と、にぎやかになっていく雨の日の水辺の光景を、ノスタルジックに描いている。また、(あめ)という明るい音のくり返しは、わらべ唄の世界を彷彿させるが、この句の中心に据えられているのは、雨と戯れるあめんばの歓喜であろう。
物自体 奥坂まや
あめんぼと雨とあめんぼと雨と
考えてはできない。なんの意味も無いのだから。ここには、音(調べ)を通じて現れる「物」しか存在しない。だが 「物」は、水面を踏まえるあめんぼとそこに降り込む雨滴とは確かに在る。もともとは意味でしかない言葉が、物自体となって存在してしまうことは、奇蹟にも等しい、詩の究極の姿のひとつだ。この句を前に、我々はただ茫然とする。
(第204回句会前話に代えて)
虚実潺潺(203)
あめんぼと雨と(8)
菅原鬨也
先日ふと思ったことがあります。先に仲寒蝉氏の意見を紹介(「虚実潺潺」198)したとき、氏は絵画の福田平八郎の世界を髣髴させると言っていました。あのときは写真(鮮明ではありませんでしたが)を入れて紹介しました。あの絵の屋根瓦にぽつりぽつりと落ちる雨粒はむしろ
筍や雨粒ひとつふたつ百 藤田湘子
の句の方にふさわしいと思ったのです。そこから記憶をたどっているうち、湘子はたしか、絵画を見ながら作句に役立てる句について書いていた文があったことを思い出したのです。内容は定かではありませんが、「月」の句を例に出していたように思い出しました。どこで読んだかもはっきりせず、永島靖子さんが編集長時代の「鷹」だったと思い、永島さんに電話してみました。永島さんも記憶していないとの事でした。ところが偶然、永島さんも福田平八郎を引用して書いたことがあるというのです。そのコピーを送っていただきました。「俳句」平成4年2月号の大特集「あなたの俳句上達を妨げている危険な作句法」の中の「危険な数の作句法」について寄稿した文であることが分かりました。湘子の絵画と作句のことは、いずれ見つかることを期待して、永島さんが書かれた文を紹介します。
筍や雨粒ひとつふたつ百 藤田湘子
ぱらぱらと雨が一粒二粒こぼれ始めたと思ったら、見る間にぱっと雨量が増した。もう十、二十と数えることはできない。ふたつの次は一挙に百である。筍の季節の移ろい易い雲の動き、辺りの藪のそよぎまで見えてくる。自解に《筍という季語は案外手強く(略)どうにもおもいが拡がってくれぬ。ならばすべてのおもいを絶ってと居直った》とあるが、まさに何の思い入れもなく筍と雨粒だけが提示されている。この句に接する度に私は、福田平八郎の『雨』という絵を連想する。それは敷きつめられた瓦の上の雨粒の痕だけが描かれているもの。ちょうど「雨粒ひとつふたつ百」の状態である。筍の雨粒も屋根瓦の雨粒も、ものに極限された表現が逆に豊かな時間と空間を呼ぶ。
数を詠み込むには、ここまでの実質把握は無理だとしても、単に何かが何個あったからというのでは駄目である。数が対象に即した抜き差しならぬ個数や距離や広さを示していなければいなければならない。数は対象をよく見ることを通じて啓示のように授かることもあろう。その辺の機微には写生の要諦に通じるものがある。 永島靖子
湘子が「雨粒ひとつふたつ百」の言葉を得たのは福田平八郎の絵が影響しているなどと迂闊なことは言えませんが、絵画好きだった湘子のことを思うと俄に否定することもできず、これは〈謎〉として残しておきたいような気がします。
*
さて、以上で外堀は埋まった感じがします。今や
号泣の子に筍の露ひとつ 藤田湘子
筍や雨粒ひとつふたつ百 〃
の二句、それに
七月や雨脚を見て門司にあり 〃 (昭和49年作)
など絡めて、「あめんぼ」の句に迫っていってももいいのではなかろうかと思っています。殊に「七月や」の句については、こんな自注を残しているのです。
(略)私はこのごろ、一句は書き足らなくてもいけないし、書き剰してもいけない、それ以上でも以下でもない書き方をしたい。それでいて、読み手の中にとどまって、消そうとしても消えない俳句、そういうものをつくりたい、と切に念じている。顧ると、この句あたりからそんなことを考えはじめていたように思う。(「自作ノート)
この翌年、「筍や」の句が生まれました。この「七月や」について書いた〈言葉に過不足のない句〉が、やがて韻だけの作「あめんぼと雨と」につながってゆくように思われるのです。 (第203回句会前話に代えて)
虚実潺潺(202)
あめんぼと雨と(7)
菅原鬨也
筍や雨粒ひとつふたつ百 藤田湘子
について、もう一つ紹介しておきたい文があるのですが、その前に湘子の〈筍〉の句について、一応のまとめをしておきたいと思います。湘子には昭和五十九年六月十二日の作として
筍として大は大小は小 藤田湘子
があります。この句は、〈筍〉というと現実に引き戻されてしまうと言っていた湘子が、その葛藤の末に〈筍〉をモノとして捉えたいという意識がはたらいていたことを示す一句と見ていいでしょう。その前年、昭和五十八年四月十八日の作の次の句もまたモノに即した句ですが、擬人的に作られています。
筍は天を忘れて横たはる 藤田湘子
そして、この句に関連してこう言っています。
一つの季物を、ある時徹底して一物俳句にする。二十句三十句と作ることはかなり大切な勉強法で、私は今でもしば しばこの方法を試みて多作する。二句三句ではあまり飛躍した発想は期待できないが、十句二十句と攻めていくと、自 分で思ってもみなかった言葉が飛びだすことがある。もっとも、そんなうまい発想や言葉が出てくるのは調子のいい時 で、三十句がみんな徒労に終わることだって少なくない。そういうムダな作業も、やがて自分の肥やしになると思えば、心豊かになるのである。
たまたま偶然ですが、これを書いている四日前(九月十六日)、角川学芸出版「俳句」編集部から依頼されいた「特集・類句類想」について書き終え、多作についても触れたばかりでした。私は若干、違った視点から多作について書いていたのですが、偶然の符合におやおやと思いました。私が「類句類想」との関連で述べた多作のことは、本誌五十三ページの「俳句」十一月号の広告でも予告されていますのでご覧ください。
さて、「筍は天を忘れて横たはる」の二日後、彼は、「筍にきつね雨とはうれしさよ
湘子」を作ったのですが、これについて述べたことが本日紹介したいと言った文章です。
*
筍にきつね雨とはうれしさよ
竹薮に生えている筍の句では、五十年作の、
筍や雨粒ひとつふたつ百
があって、なんとなく私の代表作の一つになってしまった。某邸に招待された時の実景だが、ケレンなく詠もうと心がけたのがよかったのだろう。私は、あるていどの自信作が一句できると、数年間は同じ季語を用いぬようにしているのだが、掲句の時分はもうその呪縛も解けたと思えたので、ふたたび筍の句に挑戦しはじめたのであった。しかし、どうしても「雨粒」の句がチラチラして、なかなかうまくいかない。あきらめかけていたら、ある日、西の丘を散歩している時、日照雨に遭った。西の丘のいつも歩くコースには、そう大きくはないが竹薮があって、毎年かなりの数の筍が生 える。この年はまだ時期が早かったけれど、事実を超えてすっとできたのであった。なんだか「雨粒」の句を裏返ししたような趣になってしまったけれど、これはこれで気に入っている。「雨粒」の句には乏しい心のゆとりが、こっちにはあると自分では思えるからだが、両者の優劣を、作者自身が云々するのは筋違いだから、このくらいにとどめておこう。(平成元年5月)<以上『俳句好日』(角川書店)から>
もうお気づきのことと思いますが、〈筍〉をモノとして捉えることに腐心し、一応の成果を挙げています。しかしまだ〈雨〉から脱却してはいないのです。まだ私の直観の域を脱してはいませんが、中間的な考えとして〈あめんぼ〉の句は〈筍〉の〈雨〉があったことに始まったのではないかと思っています。
虚実潺潺(201)
あめんぼと雨と(6)
菅原鬨也
参考までに
号泣の子に筍の露ひとつ 藤田湘子
が挙がったところで、湘子の〈自註〉を紹介しておきます。〈自註〉は、「俳句研究」2000年(平成十二年)四月号から十二月号まで連載されました。先に紹介した〈自解〉は『現代俳句全集4』(立風書房・1977)に載ったものでタイトルは[自作ノート]です。ここで紹介する「俳句研究」に載ったものは[湘子自註]のタイトルが付されています。(以下、[自作ノート][湘子自註]と区別しながら紹介します)
例によって、[自作ノート]にせよ、[湘子自註]にせよ、句そのものについて語っているものは少なく、その句に纏わる感想、あるいは述懐などがほとんどです。そこのところを十分お含みおきください。
[湘子自註]
号泣の子に筍の露ひとつ (昭和四十四年作 『白面』)
二物衝撃という手法を、私はいま「鷹」の人たちに強調している。考えてみると過去 にこれで納得いく作が出来た ときは、緊張感が相当高まっていたと思う。前句もこ れも一句の虚飾を捨てようとしているが、それで簡単に治まら ぬものが四十代の複 雑なところ。
(※鬨也注 〈前句も〉とあるのは、この句の前の自註句「どこからか婆来て坐る春 の石」のこと。)
この「虚実潺潺」で取り上げている「あめんぼと雨と」には直接関係が無いと言えばそうかもしれません。しかし、私はそうは思いません。私が「滝」創刊以来、指導原理としてきたのはまさにこの〈二物衝撃〉でした。そのことは「滝」の皆さんが耳にたこができるほど聴いてきたはずです。湘子が言っているように二物衝撃で一句が出来たときは、かなり高揚するものです。以前、述べたことがあるのですが、「鷹」では〈二物衝撃〉という語を使い、〈取り合わせ〉〈二句一章〉〈配合〉などの語はあまり使われませんでした。湘子がそうだったからです。〈取り合わせ〉〈二句一章〉〈配合〉などは、何となく生ぬるいと感じたのでしょうか。〈二物衝撃〉という言葉は山口誓子がはじめに使いました。
「馬酔木」の重大事の一つに誓子が「馬酔木」を離れ、石田波郷の「馬酔木」復帰(昭和二十三年)ということがありました。ために湘子は波郷は近く、誓子は遠い存在に思えたと回想しています。ですから、〈二物衝撃〉が誓子から出たと言ってもその用語だけを使ったのであって、真の実践者になったのは誓子よりも湘子だったと思います。
脱線してしまいましたが、この「号泣の子に筍の露ひとつ」において、なぜ〈二物衝撃〉を持ち出したか。それは、句を見れば大方察しがつくことなのですが、山全体に響くがごとき〈号泣〉に対し、たった〈一粒の露〉が落ちたという静謐、その衝撃によって一編の詩を目指したのです。この手法、技法は〈動と静の対比〉と言ってもいいでしょう。そしてこれは単に手法、技法ということだけではなく、俳句の根本に関わる理念となっていくのです。
さて、前回のこの欄で
筍や雨粒ひとつふたつ百 (昭和五十年作 『狩人』)
の自解、[自作ノート]からのそれを紹介しましたが、この句は、[湘子自註]にも出てきます。
秋桜子は調べと言い波郷は声調と言った。それを両方の耳にしっかり止(とど)めて 育ったから、作句のさいリズムを整えることを忘れない。めったにないが、対象と私の リズムとがうまく響き合うと、巧まずしてたのしい一句になってくれることがある。
「筍」というのは手ごわい、すぐに現実に引き戻されると書いた[自作ノート]とは別の感想を述べています。でもこの二つの文はつながりますね。現実に引き戻されやすい筍という句材をどう克服するか、それは自分のリズム、つまり俳句の韻文性が救ってくれるということだと思います。(つづく) (第201回句会前話に代えて)
虚実潺潺(200) あめんぼと雨と・
菅原鬨也
前回は「そもそも湘子の「露」好きはどのへんから始まったのでしょう。」というところまでで
した。その前に、
筍や雨粒ひとつふたつ百 藤田湘子
について少し述べようと思います。これには自解があります。そもそも湘子は自解が好きではあり
ませんでした。折角、凝縮した思いを再び散文に戻すことに強い反発を持っていたのです。私など
は、一句ごとにそれほどドラマチックな思いを抱くなどということはありませんでしたので、「先生
はそのあたりが違うんだなあ」と別の景色を眺めるような気分でいました。その湘子がある日突然、
自解を書くことになったのです。自解を読みたいという希望は「鷹」会員の間から出てはいたので
すが、湘子にうまいことを言った人がいたと覚えています。手元に資料がないのでそのまま再現出
来ませんが、湘子は「中には知恵者がいるもので…」と言ってその説得者の言葉を紹介していまし
た。「作品の内容を書くというのではなく、その句の背景やら感想でいいですから」というようなこ
とを言ったらしい。「搦手できた」と書いていたかどうかはさだかではありませんが、自解を書くこ
との弁解は、自分に決意を言い聞かせるような感じだったことを覚えています。当時、私も例えば、
水母より西に行かむと思ひしのみ 藤田湘子(『狩人』所収 昭和五十年)のような気
になる句がとても多く、湘子の弁を聴きたいと切に思ったものです。さて前置きが長くなりましたが、
筍や雨粒ひとつふたつ百
の自解はこうです。
昭和五十年作。実作する立場から言うと、筍という季語は案外手強いところがある。 とっつき
はいいのだが、とっついたあと、どうにもおもいが拡がってくれぬ。すぐ現実へひきもどされてしま
う。それで、ならばすべてのおもいを絶って、と居直ったらこんな形になったというのがこの句である。
句の説明はしていませんね。普通、これは筍掘りの句だろうか、だとすればどんな場所でどんな人
が掘っているのかを知りたいというのが人情というものでしょう。湘子にしても昔、子供のころ、こ
んなことがあったなどと書くのはたやすいことでしょう。しかしそれでは、この句を台無しにしかね
ません。〈筍〉というモノがある、あとは彼の感性が〈雨粒〉を導いたのですが、自解はそこまでく
る葛藤をよく物語っています。逆に言えば、さまざまな雑念、例えばこの雑念の中の〈筍の食べ物〉
としての現実ひとつを挙げてもそれを取り払うことは容易ではありません。しかし、そうしなけれ
ば〈雨粒〉が出てこなかったのですね。ことばとしてのモノ、そのモノと何を関連づけるか、何が
イメージを喚起することば、モノなのだろうか、この自解がじつは〈あめんぼ〉の句の底にあると
思わなければならないと思います。
これを補強するかのような飯島耕一の鑑賞を紹介します。
これは実際いい句である。いい句はすぐに覚えられるからわかる。そして口誦まずにはいられ
ないのだ。「雨粒」は アメツブとぼくは読みたい。アマツブでは口がよくまわらない。この一句は、
音楽的にも絵画的にも文句のつけようがない。しかも「ひとつふたつ百」というところに、上等な
ユーモアがある。これは俳そのもので、この一句で湘子という俳人はすはらしい存在となった。筍
も、雨粒もこの句によって格段に株が上ったのである。筍も雨粒も、現代に蘇ったと称してもいい。
この句があるだけで『狩人』はみごとな集だ。
いい鑑賞だと思います。俳句には状況の説明は不要なことがよく分かると思います。
しからば私が、この句以前の句として挙げた
号泣の子に筍の露ひとつ 藤田湘子
はどうなるのでしょう。やや独断的ですが、〈あめんぼ〉の句は〈露〉、ひとつぶの露から始まった
と言っていいのではなかろうかと思っています。(つづく)
(第200回句会前話に代えて)
虚実潺潺(199)
あめんぼと雨と(4)
菅原鬨也
「俳句」が原稿依頼したのはあと二人。土肥あき子、高山れおなの両氏です。まず二方
の意見を紹介しましょう。
☆土肥あき子
俳句8の字説がある。どうにもつながらない二つを、身をくねらしてつなぐのだという
例えだが、掲句はいうなれば 永遠に続く∞(無限大)の俳句だ。雨は天から、あめんぼ
は池から永遠に湧き出してくるようなリズムを生み出している。文字の姿かたちだけでは
なく、それに伴う音も効果的に利用し、また喚起させる映像もごく単純化されたロゴマー
クのように明確に描かせる。谷川俊太郎の「いるか」(いるかいるかいないかいるか)や
「かっぱ」(かっぱかっぱらった)にみられる愉快な言葉遊びに、日本的な抒情や余韻を
トッピングした写生句が掲句であり、巧拙を越えた印象深さを読者に残すのだろう。
谷川俊太郎の引用など、説得力がありますね。「巧拙を越えた印象深さを読者に残すのだ
ろう。」というのも好意的な指摘だと思われます。
☆高山れおな
百年以上前に作られて子供でも知っている子規の句と、作られて十年を経たに過ぎず俳
句界の一部にしか知られていない湘子の句を、同じ土俵で「本当に名句ですか?」と問う
とは如何にも乱暴だが、その乱暴さに同意しなければ原稿など書けはしない。極端な単純
化と頭韻の効果が面白い掲句を私も嫌いではないが、だからと言ってたいへん充実してい
た『神楽』を、例えば「瑠璃蜥蜴さみしからずや息合はそ」「闊歩して詩人にならうねこじ
やらし」「死蝉をときをり落し蝉しぐれ」「天山の夕空も見ず鷹老いぬ」などの句を差し置
いて代表する句とも思えない。巧まれた親しみやすさが、いささか見え透いてはおります
まいか。
「百年以上前……」は、この稿のはじめにも紹介したように、当を得た指摘だと思いま
す。そして他の作品との比較において、湘子の代表作とするにはどうかと疑問を投げかけ
ています。これは「俳句」編集部の問いにしっかり答えていると思われます。れおな氏の
意見は、はじめに「俳句」編集部の設問に対する疑問があったのですから、この答え方も
一つの識見であろうと思います。
さて、次に『WEP俳句通信』三十六号の特集に入りたいと思います。この特集には
〈あめんぼ〉の句について、十八人の方が回答、一人当たりの字数も多いので読みごたえ
があります。
『WEP俳句通信』でも指摘した方がいるのですが、この〈あめんぼ〉の句は、藤田湘子
の作品の蓄積と無関係にひょっこり出たとは思えません。まず、咄嗟に思い出されるのは、
筍や雨粒ひとつふたつ百 藤田湘子 (『狩人』所収 昭和五十年)です。
しかし、この〈雨粒ひとつふたつ百〉もさらに六年遡る必要があると私は思っています。
号泣の子に筍の露ひとつ 藤田湘子 (『白面』所収 昭和四十四年)
〈あめんぼ〉の句は、どうやら、この二句あたりから連想されていったのではなかろうか、
そう思っているのですが、そもそも湘子の「露」好きはどのへんから始まったのでしょう。
(つづく)
虚実潺潺 (198)
あめんぼと雨と・
菅原鬨也
(前号のつづき)
☆仲 寒蝉
まず寒蝉氏の全文を紹介しましょう。
一読してリズムがわるい。五三五三という破調はかなりの冒険だったと思う。そのこ
と自体はわるくはない、大いに やるべし。だが成功しているかと問われると?なので
ある。/視界にはあめんばと雨だけ。絵としては真にシンプル、 福田平八郎の世界を
髣髴させる。極小の詩として俳句に単純化は欠かせない。その意味ではツボを押さえた
手練の句。 /雨は水面に落ちて広がる水輪として目の前にある。あめんぼも少し動く
と水輪を作る。そこが似ている。その発見自 体はさして新しいものとは言えない。だ
が似ているとも何とも言わず名詞を並べただけの潔さがいい。切り口は斬新、 表現も
素晴しいのだがリズムがわるいのである。
〈あめんぼと雨と〉について考えてみようと思ったときから、私の胸中にあった句が、
この文によって再び蘇りました。
たそがれの水紋に痴れ業平忌 大庭紫逢
です。大庭紫逢は永島靖子の次、小澤實の前の「鷹」編集長です。この句は昭和五十一年
九月号の「鷹」の巻頭を飾りました。寒蝉氏の〈雨が水面に落ちて広がる水輪〉〈あめん
ぼも少し動くと水輪を作る〉という文節をみれば、私が紫逢句を想起したことがご理解い
ただけるかと思います。ただ、この句が湘子の〈あめんぼ〉の句に影響したかどうかは判
断できません。あくまで私の中で類似の映像としてあったというだけです。興味深いのは、
更に寒蝉氏のコメントによって福田平八郎の絵画とのイメージの異同についても考えさせ
られることになったことです。
福田には「雨」(昭和二十八年)と題する代表作(東京国立近代美術館蔵)があります。
有名な絵なのでご存じの方も多いと思いますが、整然と組まれた屋根瓦の上に夕立寸前の
雨粒がポツリ、ポツリと落ち、落ちては瓦に滲んでいくさまを描いています=写真略=。
屋根瓦ですから構図はきわめてシンプル。色彩的には瓦のグレーが主なので福田の作品の
中では最も地味です。殊に「鴛鴦」などのようなカラフルな作品に比べれば、別人の作品
と間違えられそうです。福田には他に「漣」、「水」、「雪」(これも屋根に積もった雪)と
いった作品があります。
寒蝉氏は福田の作品を特定せずそのシンプル性を指摘しているだけなので一概には言え
ませんが、やはり、ここでは「雨」を脳裏に文を綴ったと思います。
現代アートでは、さまざまな道具を使って時間を表現することも容易にできますが、ラ
ンダムに雨粒の落ちるさまは、まさしく時間の表現です。私は寒蝉氏がそこに着眼した点
に共感するのですが、皆さんは、どのようにこの〈あめんぼと雨と〉の句を読んでいるの
でしょう。
湘子は「俳句は時間を切って詠むもの」と強調していますが、この〈あめんぼと雨と〉
に限って、自ら禁を破っていると思っています。私は、夕立寸前のイメージほどの速度は
ないのですが、〈あめんぼ〉と思えば〈雨〉、再び次の〈あめんぼ〉と思えば〈雨〉といっ
たふうに半ば無意識に視線が移るようなイメージでこの句を理解しています。その繰り返し
がどれほど続くのかは、個人個人がイメージすればいいのではと考えています。
寒蝉氏の文で問題なのは、〈切り口は斬新、表現も素晴らしいのだがリズムがわるいので
ある〉という点です。〈リズムがわるい〉というところはこの句の死活に関わる発言です。
たしかに俳句的には破調で私がとやこう言えることではありませんが、少なくとも舌頭千
転してみた私とのズレは否めないようです。
虚実潺潺(197)
あめんぼと雨と・
菅原鬨也
「俳句」2月号の大特集「本当に名句?−評価の分かれる有名句」に挙げられた
あめんぼと雨とあめんぼと雨と 藤田湘子
について、回答を依頼された片山由美子、福永法弘、仲 寒蝉、土肥あき子、高山れおなの
五氏の見と私の感想を述べてみます。
☆片山由美子
「……が……である」といった叙述が二カ所あって、若干戸惑いを隠せないようです。
「(あめんぼと雨と)の部分をそっくり重ねている。それによって場面もはっきり浮かぶの
だが、俳句としてはやや素っ気ない気がしなくもない。」「いっさい無駄なことを言っていない
即物的な面白さをそこに見ることもできるが、これを俳句としてどのレベルのテクニックとし
て評価したらよいか迷うところである。」というところです。彼女はフィギュアスケートに譬
えて、「演技は難易度別に評価基準があるが、それに倣って考えると、この句の評価はレベル
4といえるかどうかちょっと心配になる。」と述べ、「名句かどうかの境である。」という結論を
出しています。彼女らしい正直な感想だと思います。ただ、レベル4というのは採点基準のあ
るものを例え話にしたのであって、これを完璧性と解するのは早計です。俳句に完璧などある
はずもなく、仮にあったとしても〈完璧=名句〉とはならないと思うからです。
☆福永法弘
「作者が亡くなって間がなく、まだ身近に体温を感じている俳人も多いことから、名句とし
て世に定着するかどうかは、作者を知らない世代の仕事ということになるのだろう。」というく
だりは前回紹介したようにまさにその通りだと思います。ただ、「生きている俳人は生臭い。
死後もすぐには、俳人の魂は仏の境地には至れないものらしい。だが、それこそ人間だ。臭み
があっていい。」というところは、結論との関連に含みをもたせているのかどうか、この句の評
価に繋がるのか、理解に苦しむ文節です。結局、言いたいところは、「掲句、どこで切って読む
か、論争(?)になったと記憶しているが、(あめん/ぼと雨と/あめん/ぼと雨と/あめん/
ぼと雨と/……)と、無限の連鎖として読んでみるのも楽しかろう。「あめん」は「アーメン」
と響き合う。臨終の床で呟くのに最適な句だ。訥々と繰り返しながら、黄泉に沈んでゆくので
ある。」ということのようです。が、〈臨終の床で呟き、黄泉に沈んでゆく〉のはご自身の臨終
場面を想定しているのだと思われます。特に「〈あめん〉は〈アーメン〉と響き合う。」という
くだりは氏独自の感覚で私には思いもよらぬことでした。ここは、何か悪い冗談を聴いている
ような気がしました。ただ、編集部の設問「本当に名句?」ということには始めに答えられない
と断っているのですから、その前提で接すべき文なのでしょう。 ただ偶然ですが、私に何か
あったとき、この句を口走ってしまうかもしれないと頭をかすめたことがあります。俳句で言
えば、〈古池や〉とか〈閑や〉といった句を悠長に口誦するよりも、この〈あめんぼと〉を言う
か、口ごもる可能性が高いのではなかろうかと思ったのです。彼が言っている無限の連鎖といった
切り方とは違いますが、そう感じたことは確かのようです。この「あめんぼ」の句については、
「俳句」の特集だけでなく、別な資料の紹介も考えていますが、韻律の音数的な分析は、湘子が
悩み抜いたというか、自信を持つに至る経過、自分との葛藤の末の結果であろうと私は考えてい
ます。この句をどこで切るか、その音数的考察はほかの人の意見にもあります。それこそが、作者
の予想したところで、その論議が繰り返されるど、この句は強くなっていくという側面を持っています。
湘子が意識していたかどうかは知りませんが、福永さんの音数分析もまさに、「死せる孔明、
生ける仲達を走らす」を思わせるのです。それは私自身にも言えることです。
(つづく) (第197回句会前話に代えて)
虚実潺潺(196)
あめんぼと雨と
菅原鬨也
前回は私の単なる備忘録として、「愛媛俳人の好み」と題して「好きな俳句」を第二十位まで
紹介しました。この中の第二位の「春や昔十五万石の城下町 正岡子規」と第十位の「濤音の
月日のしだれざくらかな 篠崎圭介」は、明らかに地元人気だと申し上げました。俳句の評価で
人気と名句は必ずしも一致しないということを言いたかったのです。因みに「好きな季語」の第
一位は「雪」であることも紹介しました。雪月花と言いますが、愛媛で「雪」がトップだったこ
とは何かうれしい気もしました。しかし、これも注意が必要です。眺める雪、風情ある雪景色へ
の憧れと実際に積雪の多い土地で暮らすことは違います。私ごとになりますが、次女が結婚した
相手は九州生まれ、四国の某国立大を出て、某社に就職しました。今は東京本社ですが次女と出
会ったときは仙台支社勤務でした。希望でこちらに勤務したそうです。誠実ではあるのですが、
言うことがにくいのです。「雪が見たかった」から仙台勤務を希望したと言うのです。九州や四
国の人はそんなに「雪」に憧れるのかと思いました。彼は東北六県をいやというほど回った挙げ句、
「雪は素晴らしい」などとは口が裂けても言わなくなりました。
前置きはこれくらいにして本題に入りましょう。今、頭の中をめぐっている諺と俳句があります。
諺は「死せる孔明、生ける仲達を走らす」です。
俳句は「鎌倉右大臣実朝の忌なりけり 尾崎迷堂」です。
先月、「俳句」2月号が大特集と銘打って行った「本当に名句?」について考えてみたいと述べ
ました。ここで目指す俳人はただ一人、藤田湘子です。「本当に名句?」とまな板に乗せられた句は、
あめんぼと雨とあめんぼと雨と 藤田湘子
です。回答を依頼された人は片山由美子、福永法弘、仲 寒蝉、土肥あき子、高山れおなの五氏。
この特集には「評価の分かれる有名句」というサブタイトルがついています。どんな句が挙げられて
いるか、問題になった句の壮観なこと。正岡子規から攝津幸彦までその時代差はかなりあります。
高山れおなは「百年以上前の子規の句と、作られてから十年を経たに過ぎず俳句界の一部にしか
知られていない湘子の句を、同じ土俵で〈本当に名句ですか?〉と問うことは如何にも乱暴だが、
その乱暴さに同意しなければ原稿など書けはしない」と言い、同様に福永法弘も「作者が亡くなっ
て間がなく、身近に体温を感じている俳人も多いことから、名句として世に定着するかどうかは
作者を知らない世代の仕事ということになるだろう」という意見に見られるように他と比べれば、
藤田湘子は亡くなって日が浅い方なのです。それなのにこの特集に句が挙げられている。正岡子規
ならそうは思いませんが、私の頭に「死せる孔明、生ける仲達を走らす」が巡っているのもお分かり
いただけるかと思います。 また湘子は、石田波郷ゆずりの韻文精神を頑に主張してきた人です。
そのことに関して私は、
鎌倉右大臣実朝の忌なりけり 尾崎迷堂
の読み方について、幾度も聴きました。湘子は披講にも神経を使う人でした。「鷹」中央例会で
〈披講賞〉を設けるほど執着していました。俳句は心地良く聴きたいという、これも彼の美的感覚
でした。で、「鎌倉右大臣実朝」ですが、「かまくらのー」と「の」を入れて少しのばして披講すべ
きだというのです。当たり前だという気持ちで聴いていましたが、実際に「かまくらうだいじん」
と続ける人がいたそうで、それが俳句は韻文であることを忘れるなという譬えとなったのです。
よほど嫌だったのでしょう。先生の句集『神楽』に
一盞は千利休の忌のために 藤田湘子
というのがあるのですが、「千」の横に「せんの」とルビが振ってあります。ならば「せんのりきゅう」
と全部にルビを振ってしまえばいいのにと思ったほど、句の姿が情けなくなりました。湘子にしても
ルビは振りたくなかったに違いありません。でも、やむを得ず振った気持ちがよく分かるのです。
(つづく)
虚実潺潺(195)
愛媛俳人の好み 菅原鬨也
@閑かさや岩にしみ入る蝉の声 松尾芭蕉
A春や昔十五万石の城下町
正岡子規
B遠山に日の当りたる枯野かな 高濱虚子
Cまさをなる空よりしだれざくらかな
富安風生
Dあなたなる夜雨の葛のあなたかな
芝不器男
E朝顔に釣瓶とられてもらひ水
加賀千代女
F外にも出よ触るるばかりに春の月 中村汀女
G海に出て木枯帰るところなし 山口誓子
G萬緑の中や吾子の歯生え初むる 中村草田男
I濤音の月日のしだれざくらかな 篠崎圭介
J五月雨をあつめて早し最上川 松尾芭蕉
K柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
正岡子規
L降る雪や明治は遠くなりにけり
中村草田男
M荒海や佐渡に横たふ天の川
松尾芭蕉
M山路来て何やらゆかしすみれ草
松尾芭蕉
O花衣脱ぐやまつはる紐いろいろ
杉田久女
O古池や蛙飛びこむ水の音
松尾芭蕉
Q去年今年貫く棒の如きもの 高濱虚子
Rいくたびも雪の深さを尋ねけり 正岡子規
R分け入っても分け入っても青い山
種田山頭火
(同じ順位があるのは得票が同点であるため)
これは「愛媛の俳人が選んだ好きな一句百選」のうち、二十位までを抽いたものです。
『えひめ俳人名鑑』(平成四年二月二十六日発行)の末尾に付いていた「俳人データ分析」
にありました。愛媛新聞社が創刊一一五周年を記念して同名鑑を発行するとき、俳人のプ
ロフィールを問い合わせ、同時にアンケートを実施したとあります(調査時期は平成三年)
この『名鑑』の問い合わせに応じたのは5116人というから驚きます。百位までの句
を見ますと、もっと上位に入ってもおかしくないと思う句が目白押しです。第二位に「春
や昔十五万石の城下町 正岡子規」が入っています。子規の句では「柿くへば鐘が鳴るな
り法隆寺」「いくたびも雪の深さを尋ねけり」を抜く圧倒的な人気です。回答者の郷土愛
が伺われます。(ちなみに「鶏頭の十四五本はありぬべし 子規」は三十七位)。
また、篠崎圭介の句の人気が高いのも特徴です。これも地域性によるものでしょう。
この調査の時点で地元愛媛に発行所を置く結社の中では、篠崎圭介主宰の「糸瓜」が最多
の会員数を誇っていました。以下、「柿」「渋柿」「愛媛若葉」「星」「虎杖」「峠」
「いしづち」などの順でした。この「糸瓜」の生みの親は永野孫柳の祖父野間叟柳(本誌
平成二十年一月号、「発行所アーカイブス」参照)です。叟柳が森薫花壇を動かし創刊した
のです。薫花壇亡き後、東京に住んでいた篠崎圭介が呼ばれ、主宰後継したのですが、平
成十三年「糸瓜」七〇〇号記念(子規没後一〇〇年)に「子規・松山発」などの業績を残
し、平成十六年死去、「糸瓜」は解散しましたので現在の勢力地図は大分変わっていると
思われます。
ついでですから、もう一つ面白いデータを紹介します。「好きな俳句作者は誰か」という
質問です。
@正岡子規 A松尾芭蕉 B高濱虚子 C篠崎圭介 D芝不器男 E中村汀女
F富安風生 G山口誓子 H石田波郷 I種田山頭火 J中村草田男 K水原秋櫻子
L村上杏史 M今井つる女 N稲畑汀子 O飯田龍太 P松根東洋城 Q芝不器男
Q米田双葉子 S稲荷島人
これを見ても、俳句の選を通して篠崎圭介の恩恵を受けた人の多さが偲ばれます。およ
そ一〇〇〇人いた「糸瓜」の会員はどこへ行ったのでしょう。
もっと面白いデータがあります。「好きな季語」。第二十五位までを挙げますが、何と第
一位が「雪」です。私たちにとっては不思議はないのですが、愛媛で「雪」がトップとい
うのはうれしいですね。
@雪 A紅葉 B風花 C桜 D月 E花 F時雨 G梅 H花野 I風光る
J雲の峰 K涼し L早春 M爽か N水温む O花冷 P風薫る Q枯野
R小春 S山眠る 21日脚伸ぶ 22落葉 22新涼 24炎天
ここまでは私の備忘録を兼ねた単なるメモです。本題は「俳句」2月号が大特集と銘打
って行った「本当に名句?」について、考えてみたかったのです。それは来月。
虚実潺潺(194)
石原素秋先生逝く
菅原鬨也
一月十四日、宮城県俳句協会の賀詞交歓会があった日、石崎素秋先生が逝去しました。
例年だと会場正面の顧問席から、新V年のご挨拶をいただいていたのですが、昨年暮、
体調を崩され入院、一進一退を繰り返ヤし、心不全のため帰らぬ人となりました。大正十年
三月二十六日生まれですから享年八十\八歳でした。宮城県俳壇としてはまさにトップの人
を失ったことになります。人格温厚でナ常に自分のことより他人の気持ちを思う優しい人
でした。先生の業績をひとことで言う、のは簡単ではありませんが、限られた範囲で述べ
てみます。
第一は、俳誌「俳句饗宴」の主宰とニして創始者永野孫柳先生の跡を継いで
平成七年から今日まで滞りなく発行を続けてきたことです。ちなみにこの平成二十年一月
号で637号に至っています。主宰継p承してからは十三年ですが、実は編集長としての
年数でみれば、同誌の大半を手掛けてトきたと言ってもいいのです。即ち、昭和三十二年、
「俳句饗宴」に入会、そして日をおかゥず同人となり、三十五年から編集担当となったの
です。正確に言えば、第23号までが斎藤五子、72号までが北島白蜂子、第73号以降が素秋
先生と編集担当が変わり、素秋先生のフ代になって、単なる編集担当ではなく名実ともに
編集長となったのです。孫柳先生亡きォ後はご自分が主宰兼編集者となったので、彼の手に
よって発行されたのは550号を優にノ超えるのです。他方、「麦」同人としても長い間
活躍しました。 <
第二は宮城県俳句協会の幹事長や会長として松島芭蕉祭などの行事を先頭に立って運営
してきました。特に俳句クラブ時代、A芭蕉祭十周年記念として瑞巌寺に建てた〈芭蕉碑〉
の選文と揮毫は先生の手になるものでナす。芭蕉祭のことで忘れられないのは、私が
『二十五年史』の編集を担当していたスとき、第二回の入選句集が見当たらず、見切り発車
かと諦めてかけたとき、ついに素秋先謳カが探してくれたことです。あれがなかったら、
『三十五年史』も『五十年史』も連続ア性を確保できなかったのです。芭蕉祭の選者となっ
て、昨年の選が最後になってしまったスのが残念です。
第三は現代俳句協会での活動です。先生が同協会の会員に当選したのは昭和四十四年。
当時は全国投票で宮城県に組織票を持揩スない俳人は容易に会員になれなかったのです。
一度、かなりの票が入ったのですが、A落選したことがあるそうです。現代俳句協会は今で
こそ、簡単に入会できますが、それはヘ先生らのご苦労があってのことなのです。素秋先生
が同協会の名誉会員になるまでは、東喧k地区連合会長、宮城県現代俳句協会顧問など、
その道のりはとても険しかったのですキ。
第四は、宮城県芸術協会での活躍です。同協会には現代俳句協会と同じ昭和四十四年に
入会されたのですが、翌四十五年から発行された『宮城県文芸年鑑』の編集委員(俳句部門
の責任者)として、私に引き継ぐ平成十一年まで何と三十年間も務めました。役職の方も
運営委員、評議員、理事、参事と経験しました。 他に、日本詩歌文学館評議員、毎日新聞
宮城版文園(俳句)選者のほか、各種大会の選者は数え知れず、宮城県民会館俳句講座講師、
松島句会、松韻句会の指導など、後進の育成に力を注ぎました。これらの業績に対し、
平成二年宮城県教育文化功労賞、同十年地域文化功労文部大臣表彰、同十八年松島町功労者
表彰などを受けられました。
昨年、「俳句饗宴」創刊五十五周年を記念し、松島湾を一望する松島町新富山公園に句碑
が建てられました。
青岬遠くで別の汽笛鳴る 素秋
この場所には先に「小浜菊水主にもありし御船歌 永野孫柳」の句碑が建っており、
宮城県涌谷町黄金山神社と同様、師弟の句碑が並びました。また句集はご自分のは後回し
にしてきたのですが、『まぼろしの塔』(昭和六十二年、永野孫柳序)、『まぼろしの塔・』
(平成四年)を出しました。対象の守備範囲が広く多彩だったのですが、殊に松島の風景、
奥様への愛、犬の句などを主潮としていました。技法的にはリフレインの句を好みました。
葬儀の際、喪主御礼挨拶で石崎径子さんは、病院のベッドで、冷え性になった素秋先生が
一句できたと言って「佐保姫の足より冷えてきたりけり」と言ったそうです。これが辞世か
どうかは分かりませんが、何とく死を悟ったような気がする素秋先生らしい句だと思いました。
合掌。
(第194回句会前話に代えて)