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仏法紹隆寺歴(由緒書・寺務日誌等より)

仏法紹隆寺由緒書(藩主の命により第二十六世憲海編纂)

1,旧本山上醍醐無量寿院より下賜の寺紋
2,諏訪高島藩祈願寺紋
3,菊紋
(嵯峨天皇勅願寺紋との伝承)


仏法紹隆寺の寺紋
1、竜胆紋
      (旧本山上醍醐無量寿院より下賜)
2、諏訪高島藩の諏訪梶紋
3、菊紋
 
現在は主に諏訪梶紋を用いております。

仏法紹隆寺の正式名称

鼈澤荘厳山 大虚空蔵院 仏法紹隆寺

(べったくしょうごんざん だいこくうぞういん ぶっぽうしょうりゅうじ)

元々は別澤山であったが、醍醐無量寿院元雅により「鼈澤山」と改号。
その後、新義真言宗管長より「荘厳山」を頂き、「鼈澤荘厳山」となる。

大虚空蔵院は明治初年より大覚寺大虚空蔵院の院室を兼帯したことに由来。

山号・院号・寺号を合わせると15文字にも及ぶため、鼈澤山仏法紹隆寺が通例。
略称は仏法寺。

大正九年の大火災前の姿

仏法紹隆寺の開基・草創

当山は大同元年(806)征夷大将軍坂上田村麿が諏訪大明神へ戦勝報告の際に、「神宮寺」と共に開基されたと伝わります。
その後、弘法大師空海和尚により、「神宮寺」を真言宗流布の寺(真言宗をひろめる寺)とし、当山を「真言宗の学問の道場」と草創され、信州・甲州にわたる田舎本山となりました。
開山当初より天正年中まで諏訪大社社務(別当)という役職を務めるとともに真言宗の常法談林所という、真言宗の修行と学問の道場を務めました。江戸時代には諏訪高島藩の祈願寺を務めました。
天正時代には諏訪市四賀桑原寺家の地に仏法寺の伽藍が建立されておりましたが、第十一世尊朝法印代に、当山鎮守足長明神の「この山崩落せん」との神勅を受け、桑原地頭屋敷・諏訪大祝屋敷跡と伝わる現在の地に移りました。その時尊朝法印、当山山中に仏法僧鳥の声を聴き、また仏法の紹隆を願い「仏法紹隆寺」と改号いたしました。
大正時代に大火災に遭い、本堂・庫裡・金剛殿・回廊・開山堂を焼失してしまいましたが、金剛殿・回廊以外は再建され、現在に至ります



 普賢堂厨子


諏訪大明神本地仏
諏訪大社社務
開山の後、諏訪大社の社務を務めましたが(醍醐寺三宝院文書中にも仏法寺住職が諏訪大社の社務で出張していた記述があります)、諏訪高島藩主の祈願寺・真言宗の談林寺(学問と修行の道場)など、多くの要職を務めるようになると、寺務が繁多となり、社務職の解任を願い出ました。その際に、神領御朱印を返納、その内の矢ヶ崎荘(現、茅野市矢ヶ崎)十六石を仏法紹隆寺荘園として下賜されました。
諏訪大社神宮寺の廃仏毀釈の際には、高島藩真言宗筆頭寺として、神宮寺の伽藍の再興等に尽力しますが、時代の流れには逆らえず、ほとんどの堂塔が取りつぶしとなってしまいます。その際、諏訪大明神本地普賢菩薩・普賢堂脇仏文殊菩薩・蓮池院本尊大日如来などが当山に秘かに運ばれました。後に如法院本尊普賢菩薩も当山に安置されました。
現在は普賢堂を当山境内に再建し、普賢神変山 神宮密寺の名跡を引き継いでおります。






藩主守護仏
 大聖歓喜天
(諏訪聖天)
諏訪高島藩主祈願寺
諏訪高島藩政時代になると、藩主の祈願を多く行うようになり、藩主の祈願寺として特別な地位を得ます。
当山で行う祈祷は「聖天厄除祈祷」「厄除不動護摩」「参勤交代日時選び」「旅中御守祈祷」「病気平癒祈祷」「御役成就祈祷」「新船御祈祷」「節分会」「安産祈祷」「大般若転読祈祷」「葬儀日程選び」「藩主幼名選び」「高島城地鎮・家堅」など、多岐にわたり藩の無事を御祈祷いたしました。
藩主守護仏大聖歓喜天(聖天)は当山住職が高島城まで出向き御祈祷しておりましたが、享保六年、四代藩主忠虎公が住職の苦労を想い、当山の一隅に聖天堂を移転し、五代藩主忠林公は祈祷料四石を付け、護持させました。
また、九代藩主忠誠公は円檀や仏具を新調寄進いたしました。
その後聖天さまには藩主のみならず、家老・御家人・御用商人に至るまで多くの領民に信仰され、現在でも古来よりの祈祷を続けております。
不動護摩祈祷は藩の解体により、藩主の護摩祈祷をすることはなくなりますが、明治に入り、多くの方々のために、新たに成田山新勝寺より分尊を勧請し、成田堂を建立。以後、皆様の御祈祷を行っております。









新義真言宗松橋密派
(当山古文書
  松橋流法流資料)





第六世俊尊浄書
「秘鈔」

常法談林所

談林寺とは真言教学学問の道場であるお寺のことです。
弘法大師空海和尚により真言宗の学問の道場とされた当山は、真言宗信州教相談林の最初であり、随一といわれました。多くの僧侶を輩出し、多くの寺院の建立・中興にかかわることとなります。
また、醍醐の名僧・関東松橋法流の始祖俊海が当山に法流をもたらしました。
以後、当山は醍醐松橋流の一大拠点となります。(京都醍醐寺に「仏法紹隆寺に密教の重要儀式<潅頂>の道具を置くこと許可する」文書も現存いたします。)
第十一世には、紀州根来寺の学頭「尊朝」を住職として迎えることとなります。この尊朝は、後の智積院(真言宗智山派本山)中興の祖「玄宥」と親交が深く、幾度となく玄宥により智積院に昇住を請われますが固辞いたし、諏訪一円の真言宗発展に尽力します。
これにより、一段と真言宗の談林としての重要性が増していきます。
江戸時代には諏訪領内の真言宗寺院を統括、また直末寺7ヶ寺・門徒6ヶ寺を有し、領外にも多くの末寺を有し、結集百十余人を抱える田舎本山でありました。
また、当山住職は多くの末寺・法類寺院の中より優秀な者が、藩主の任命により着任することが通例となっており、当山文書の中には「たとえ一年でもよいので、仏法寺の住職になりたい」との嘆願も残されております。
明治時代には大覚寺大虚空蔵院の院室兼帯寺となります。
また、真言宗各派独立の際には、真言宗智山派に属し、智山派の管長の選挙権を持つ永代能選談林という寺格を有しておりました。その後、高野山金剛峯寺恵光院院主より高野山真言宗への招請を受け、高野山真言宗へ所属しております。
第三十二世より、当山の法流を継ぐものには「宥」の一字を僧名に入れるようになり、現在でも多くの関係寺院でその風習が残されております。


仏法紹隆寺の石高
当山は、諏訪が八条院領であったころより多くの荘園を有していたと伝わります。しかし、武田の諏訪への侵攻により寺領を減らされました。諏訪大社社務職を務めていた頃は、諏訪大社領より配分を受けておりました。また、諏訪大社文書(信玄十一軸)には、仏法寺の修行僧に武田に弓をひいた諏訪薩摩守満隆の子賢聖がいたので、仏法寺領の薩摩守領は没収という意の記述があります。織田信長軍の諏訪進攻で一時当山も憂き目に遭いますが、その後、諏訪家再興の祖「頼忠公」より第十一世尊朝を住職に迎える際に勝頼の御代の如くの寺領を認めるとのことで、各寺領を治めました。
諏訪高島藩政時代には、諏訪大社社務領の朱印を返納し、その代りとして矢ヶ崎村のうち十六石・それに祈願寺として黒印五十石(上桑原村)を所有し、その他、5代藩主忠林公に高島藩守護仏の聖天堂に四石を賜りました。
また、各末寺にも寺領や朱印・黒印を有しておりました。


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