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仏法紹隆寺塔頭
水晶山開敷院
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寺歴
開敷院の開創は不明ですが、寺の伝承には桑原城(別名:水晶城)登城の関所の役割をしていたと伝わります。確かなところでは、仏法紹隆寺の古文書に明暦元年(1655)再建と記されている文章が最古の記録となります。
開創当初より仏法紹隆寺の塔頭(枝院)として、仏法寺に入寺する前や後の住職、弟子等が修行に励んでおりました。(数多くあった塔頭寺院のひとつとなります。)
近年には、養蚕業の興隆により、蚕供養のため「蚕安塔」を建立いたしました。(現、微笑大師堂)
平成十八年の仏法紹隆寺の開創千二百年の記念事業の一環といたしまして、本堂・庫裡の再建を行い境内整備を進めております。
本尊様は馬頭観世音菩薩

諏訪大祝家「積善院殿」遺物
如意輪観世音菩薩

安永の頃(1772~)諏訪大社の宮司である大祝の娘「津祢」が出家。
「智海」という尼となり当山の一隅に庵を結んだ。智海尼は一生を巡礼に捧げ、秩父・坂東・西国・四国の百八十八ヵ所の巡礼をはじめ、全国各地の霊場を廻り、その功徳力により如意輪観世音菩薩を勧請した。
台座の中に智海尼の納経帳等が納められている。
平成十九年まで、開敷院歴代墓眼下に観音屋という庵が地域の智海尼のお世話をしていた方の末裔により守られてきた。
平成十九年に開敷院に移管。現在、庵跡は開敷院駐車場となっている。

開敷院味噌(諏訪資料叢書「諏訪かのゑ」より)
その昔、当山住職が信者さんのご接待を受けました。信者さんは住職のためにと、フキノトウを採り、丹精込めてフキ味噌を作りました。
実は住職の大嫌いなものがフキ味噌だったのです。しかし、信者さんがせっかく作ってくれたものだからということで、食べられないフキ味噌を一口で食べたそうです。
それを見た信者さんは住職はよっぽどフキ味噌が好きなんだと勘違いをし、たくさんのフキ味噌を御馳走したそうです。
その後、住職はフキ味噌が大好物だといううわさが広まり、やがてフキ味噌は開敷院味噌とよばれるようになりました。
開敷院味噌は「御馳走の第一」を意味する言葉になったそうです。
また「好まずして食べる喩」にもなったそうです・・・

開敷院のふき味噌

当山の名物である「開敷院ふきみそ」を復活させました。

ぜひ、一度御賞味ください!!

詳しくは仏法紹隆寺または開敷院まで



微笑大師堂(ほほえみだいしどう)
昭和十二年に蚕供養のために建立された「蚕安塔」をこのほど改修いたしました。
蚕安塔本尊の馬鳴菩薩と共に大師像を本尊に勧請いたし、「蚕安塔」を改め「微笑大師堂」といたしました。
この大師像は諏訪大社大祝娘の智海尼により勧請された弘法大師像で、口元に微笑みを湛え、私たち衆生を温かく包み込んでくださいます。
塔の二階には「子安龍頭観音」を安置いたしております。



開敷院の絶景
当山は古城桑原城の麓の高台に位置し、西は岡谷川岸辺りから東は茅野安国寺辺りまでが一望できる絶景の寺です。
当山の江戸中期の記録にも「その景、最良にして・・・」と記されております。
夕日が諏訪湖の水面に映り山々を照らし沈んでいく姿は、まさに西方極楽浄土の姿を感じさせるものであります。


歴代住職

無住の時代も多々見られるが、文書や位牌・歴代墓などより数名の住職が確認できる。
開山 不明
(普門院と共に桑原城の鬼門除・関所として開山)
中興
俊宥
(明暦年中)
開敷院再建
海乗 (宝永年中)
火付けによる火災で全焼
開敷院再建
榮範 (享保年中)
院代として復興に尽力
憲了 (享保年中)
清運
(寛保年中)
真徳寺に転住
法住 (宝暦年中)
尊雅と改め仏法紹隆寺第二十七世に転住
再建 前机など寄進
念清 (宝暦年中)
尭盛 (明和年中?)
過去帳には丁亥とのみ書かれているため、この時代か?
俊快 (享和年中)
俊恵 (天保年中?)
過去帳には乙亥とのみ書かれているため、この時代か?
宥実 (明治年中)
仏法紹隆寺第三十五世に転住
宥三
(大正年中)
岡谷照光寺に転住
宥清
(昭和年中)
仏法紹隆寺第三十七世に転住
蚕安塔建立 本堂・庫裡を解体 開敷院寮を建立
宥昶
(平成年中)
本尊を松久仏所で修復
仏法紹隆寺第三十八世(現住)に転住
宥全
(現住)
本堂・庫裡再建
開敷院境内整備中
住職以外の住侶
木食善明
(年代不明)
智海尼
(安永年中)
諏訪大社大祝の娘
二の丸家に嫁ぐが離縁、出家



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