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8. 事故調査委員会

A.  123 便事故報告書について

 この事故に関して「疑惑」という著書(早稲田出版)を著した 角田 四郎 氏は事故調査委員会について「事故
調査委員会は何故、隔壁説をデッチ上げなければならなかったのであろう。 私は委員や調査官個人にその理由
があったとは思えない。 むしろ、その矛盾に気ずき、心を痛めながらも彼らに及んだ大きな力に抗しきれなか
った姿を感じてならない。」と書いている。

 一方、事故調査委員会の 武田 峻 委員長は最終報告書を発表した後、記者会見をを行い報告書を70 点の出来と
自己採点し、「これで全てが終わたのではなく、この報告書をもとに、さまざまな討論、検討を加えて、航空機
の安全と事故の再発防止に役立ていただきたい。」
というコメントを添えた。  (元に戻る)

 私も当初、亡くなられた人に鞭をあてたくないと思いながらも、事故調査委員会に 角田 氏と同じように大きな
力に抗しきれなかった姿を感じ、武田 氏のコメントを言い訳と感じていた。
 しかし、私はこの事故の原因を解明する作業を進めていくうちに、武田 氏のこの最後コメントは、氏が真意を
語ったものであるということを確信するようになった。     
 確かに報告書は「圧力隔壁主犯説」を採っており、全体的にそれを補足する構成になっている。 しかし、
報告書の各論の部分には事実を述べている部分も多い。 写真や資料などについてもそのことが言える。
      (1-3-E の「善意」を感じる に戻る)   (5-6 のある意志を感じとることが出来る に戻る) 
 
 特にこのことについて確信を深めたのは報告書 3.1.2.1 の「ストリンガーと リブ・コード取り付け部の強度」
で 「垂直尾翼の内部が 4 PSI に加圧されれば ストリンガーと リブ・コードの取付け部が破壊する、一箇所で
もこのような破壊が発生すると周囲に同じ破壊が誘発される。」と記述されている部分である。
これは B 747 型機の垂直尾翼がフェール・セーフ 設計ではないと断じたものである。
この結論は事故調が唯一、模擬破壊試験を行って出したものであり、論理的で疑問を挟む余地のないものである。

 さらに、報告書は 205 頁に 写真 58 を挿入して 垂直尾翼のリベットの破壊 を示した。 これは B 747 型
機が有罪であることを示す直接的な証拠である。 (この写真は報告書の本文に引用されることもなく、5 章のス
ケッチと 同じように、ただ「偶然に」掲載されているだけである)

 NTSB (米、国家運輸安全委員会)は 1985 年 12 月 5 日、 FAA(米連邦航空局)に対して B 747 と 767
型機の尾翼部の設計を変更するよう勧告を出した。(勧告番号 A-85-133)  しかし、この勧告に基づく FAA
の改善命令の内容が明らかにされず、その後に開発された B 747-400 型は垂直尾翼、水平尾翼、尾部胴体など
の設計が変更され、構造が強化された。    (1-1 の アメリカ 主導のシナリオ に戻る)
 当然のことではあるが、事故調はこの事故の原因と破壊の過程について、すべてを知っていたのである。
4 PSI で破壊する フェール・セーフ ではない垂直尾翼の内部に、長い間 空気の圧力と複雑な繰り返し荷重がかか
っていたならば 4 PSI 以下の圧力でも垂直尾翼が破壊することも充分知っていたのである。
 事故調がこの事故の原因を、垂直尾翼の内部で静かに進行していた内部構造の破壊が発端であったことを知りな
がら、後部圧力隔壁の修理ミス部が突然破断し、急減圧が発生して噴出した客室の空気によって、尾部胴体と垂直
尾翼が破壊した、と アメリカ 原案の「圧力隔壁主犯説」を唱えたのは、もし、垂直尾翼の内部が破壊し、それが
事故の発端であったことが明らかになった場合、 B 747 型機の垂直尾翼の「フェール・セーフ」性が問われるこ
とになり、問題は 単に JA 8119 号機の修理ミスに留まらず、FAA(米連邦航空局)は B 747 型機の「耐空証明」
を取り消し、世界中を飛ぶ 620 機に及ぶ B 747 型機の飛行を停止して垂直尾翼の「フェール・セーフ」性を検証
せざるを得なくなる恐れがあった。
(英仏合作の コンコルドの場合、2000 年 8月 17 日に飛行停止になり、主脚や主翼が改修されて「耐空証明」
が再交付され、運航の再開が許されたのは 2002 年 11 月 7 日 である)
(日本では、東京電力の原子力発電が全て止められ、原子炉の総点検が行われている)

 日本政府はそうした場合に起こるボーイング社とアメリカの苦境を救い、日米間の経済摩擦の激化を避け、
アメリカに対して目下の同盟者としての忠誠心を示し、日米関係の「安定化」を求めたのである。
                        (初めにの L 項 アメリカ経済を救ったに戻る)

 また、垂直尾翼に初期破壊を示す明確な証拠である リベットが緩み、内部構造の破壊を示す痕跡 があったにも
かかわらず、これを無視したのは、アメリカ 原案の「圧力隔壁主犯説」を導入するためであり、写真のような
破壊が発生していたにもかかわらず、それを発見することなく 航空機を運航し続けていた者を明らかにすること
を避けたのである。 事故調は日航をかばったのである。 (事故調はボーイングと日航をかばったに戻る)

 1985 年当時、日本航空においては、国内線を運航する航空機を昼の間は飛ばし続け、整備は夜にしか行って
いなかったのである。 当然、夜間、屋外で行われる日常点検整備では 高さ 20 メートルの垂直尾翼などを詳細
に検査を出来ない。 その後、これも日本航空労働組合の主張を受け入れる形で「ライン整備引当機制度」を導
入し "A" 整備(当時は 250 現在は 500 飛行時間毎に行う定例のライン整備作業)を昼間に行うようにした。
 現場の人達に歓迎されたこの「ライン整備引当機制度」の導入は一見、組合の主張を受け入れるような形をと
ったが、垂直尾翼に 4-3, 4-4 の写真のような破壊が発生していたにもかかわらず、それを発見することなく
飛行機を飛ばし続けていたことを知った事故調が裏で動いて、日本航空に整備体制の変更を求めたものと見るの
が妥当である。

 事故調のこのような、ある特定の団体の利益を擁護したり、そのために事実を覆いかくしたりする姿勢
(全く同じ闇 行為を、米国の NTSB や FAA を通して ボーイング 社とも行った。 このような行為をを、
非科学的であり、事故の再発を防止するという本来の任務を放棄したものであると非難することは容易である。
 しかし、この 123 便の事故に限ってだけ そのことを責めることは出来ない。
 下の B 項に述べるように航空産業に働く人達は機会ある度毎に 事故調とは異なる見解を発表し、航空機の
安全運行を主張をしてきた。 しかしその声が全く国民の耳には届いていなかったのである。 日本のマスコミ
もまた権力には弱いのである。
 そのような状態が長く 続いた結果、今日では事故調の役割が、ある特定の団体の利益を擁護したり、乗員など
を司直の手に引き渡すことであるかのように、変わってしまったのである。そのようななかで、今回の事故調は、
報告書に垂直尾翼の強度について詳細な記述を残し、垂直尾翼の破壊を示す写真を残し、また 武田 峻 委員長
は最後のコメント
を残し、報告書を詳細に検討すればこの事故の真実に到達出来ることを説いた。

 これらのことは「科学者 武田 峻 氏の人間としての最後の良心」として真摯に受け止めるべきであると思う。


B.  事故調査委員会の現状


 日本において最初に本格的な事故調査委員会が活動したのは 1966 年 4 月に起きた、全日空 B-727 型機東
京湾墜落事故であった。この時の事故調査委員会の委員長は木村秀政氏であった。
 この調査委員の中に本論冒頭の「初めに」に紹介した山名 正男 氏がいた。 氏の数々の調査と研究は委員長
に受け入れられず、結局、事故の原因は限りなくパイロット・ミスに近い原因不明という結論になった。
 山名 氏はこの結論を察知し事故調を離れ独自に調査活動を行った。
 そしてその結果を羽田沖全日空機墜落事故の調査と研究「最後の 30 秒」(朝日新聞社)として著された。
 委員長の木村 秀政 氏は B-727 型機を日本に導入するために活躍した人であった。

 1993 年 4 月 18 日、日本エアーシステム社の DC-9 型機が強風下の花巻空港において着陸に失敗し、ハー
ドランデングとなり、接地後火災が発生した。その際、搭乗者 77 名中 3 名の方が重傷を負い、55 名の方が軽
傷を負った。
 この事故において果たした事故調の役割は現在の事故調査委員会の姿を如実に物語るものである。
 事故調の常套手段は先ずマスコミを通して世論を誘導することにより始まる。
 123 便事故の場合は後部圧力隔壁の破壊がそれに相当し、「圧力隔壁主犯説」が新聞等に発表されたのは事
故後 4 日目のことでである。
 花巻空港事故の場合、副操縦士が操縦していた、副操縦士が横風に機首を合わせるのに気をとられ着陸速度を
下回わり失速した、等の報道である。
 123 便事故を含め、このような情報は事故調以外には知り得ないものであり、彼等が予断にもとづいて意図
的に報道関係者に情報を流したものである。
 これに対し、日乗連(日本乗員組合連絡会)は自分達の身を守るために大学の研究機関などの協力を得て、花
巻空港の地理的条件と事故発生当時の気象条件を再現し、当時、花巻空港にウインド・シエアー(地表面近くで
発生する一種の乱気流)が発生していたことを立証した。
 当初このウインド・シエアー説に反対していた事故調が 1994 年 12 月 2 日に発表した事故報告書は以下の
ようなものであった。
 「風向風速が大きく変動する強風下で、ウインド・シエアーに対する十分な警戒をすることなく着陸のための
進入を行い、滑走帯付近をを通過する際、激しいウインド・シエアーに遭遇したため、ハードランデングし、火
災が発生したものと推定される。」と事故の原因をウインド・シエアーであるとした。
 しかし、事故調は「所見」として以下のような意見を付け加えた。
 「本事故のような気象条件下で着陸する場合、着陸復行も含め安全上最適の措置をとるよう細心の注意を尽く
すこと。」
 この報告書をうけて岩手県警は 1995 年 3 月 9 日、二人の乗務員を盛岡地検に書類送検した。罪名は「業務
上過失傷害」「航空法違反」「航空危険罪」であった。
 空港周辺で発生するウインド・シエアーを予知することは、今、世界の航空関係者を悩ませている難問中の難
問である。 目には見えないウインド・シエアーに対して、細心の注意を尽くせば事故は防止出来るというこの
知見は、非科学的であるばかりでなく、あまりに馬鹿げている。
 事故の原因がウインド・シエアーによるものであるとするならば、その責任をパイロットに求めるのではな
く、再びウインド・シエアーによって事故が発生しないように、その対策を「建議」することが事故調の役割で
ある。
 この事故を教訓に、日乗連をはじめ航空関係に働く人達は「空港周辺のウインド・シエアーの観測、警報体制
を開発、設置」するよう求めた。
 そして、事故調に対しても同じような「建議」を行うことを求めた。
 しかし、報告書はそれらについては一言も触れなかった。
 日本の航空事故調査委員会は国民の生命と財産を守る立場に立っていない。



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