行者窟と役行者 ( ぎょうじゃくつ と えんのぎょうじゃ)

行者窟について 資料

伊豆大島の泉津地区に行者窟と呼ばれる間口16m,奥行き24m ほどの海蝕洞窟があります.今般Manaさんからこの洞窟についてお尋ねがあったので,この場所に関する私自身の思いやインターネットによる検索,手持ちの文献等から判明したことをメモしておきたいと思います.

( 行者窟は正しくは ”ぎょうじゃのいわや” と読むようです.ただし我々地元の人たちはだれ一人このような呼び方はしません.行者さん,または単に行者と言います )

 

何はともあれ現地に行って見ましょう !   2008.3.17 飼い犬のサクラ♂とともに現地確認です.

大島公園のロータリーを左に見ながら南に100メートルほど進むと第2駐車場があります. 車はここに置き,「海のふるさと村」 への専用道路を歩きます.

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 路肩を走る巨大なホースはずっと先にあるフノウの滝水源から取水した水を運ぶための物.みんなが使うものです大事にしましょう.

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サンドスキー場 
かつては写真右側の松林はなく全体がスキー場のスロープを思わせる景色でした.「サンドスキー」とゆうスポーツが実在したわけでは無いようです.

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 7−8分ほど歩くと行者浜が見えてきます

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 1991年からは洞内の落石のため行者祭の護摩焚は行者海岸トンネルの公園側入り口横で行われています.

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 護岸工事により行者窟の入り口のある波打ち際と山側の陸地とは完全に隔てられています. このためかつて山側から供給されていた砂がせき止められてしまいました.

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子供のころ (40年以上以前) は完全な砂浜だったのですが,現在は一粒の砂も見えません.

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 行者浜から行者窟に至る取り付け歩道です.現在は通行止め.

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巖壁に張り付くような歩道です.

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ここからは何があっても自己責任の行動になります.

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 高さはさしてありませんが落っこちたくはない景色です.

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昔 (50年以上前) 使用されていた道の痕跡です. 今年92歳になる母は若い頃この階段を通って濡れずに行者窟にたどり着けたと証言しています.海砂が消滅した事により付近の海底が深くなった,あるいは沈降が生じているものと思われます.

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長らく通行止めが続きメンテナンスの停止された道は日々波に侵蝕されていきます.

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 見えてきました !

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 何枚か撮った内の一枚です.ピンボケですがいままで見た事のないボケ方をしています.

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 子供の頃はこの石はありませんでした. 1990年6月17日に突然落下しました.行者祭のわずか2日後でした.

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この状態では立ち入り禁止もやむを得ないですね.

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 この写真はリサイズ処理のみを施してあります.今回の訪問で何枚かピンボケ写真を撮ってしまいましたがこのような回転性のボケ写真は前出のものとこれの2枚のみです. こんなボケかたの写真は初めて撮りました. 原因は不明.

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 行者窟内部の様子

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本尊です. 新しい榊と蜜柑らしきものが供えられています. このような状態になっても危険を省みずこの場所で役行者を祀り続ける人がいます.今回は一人だったので万一の場合を考え内部には入らず望遠レンズで撮影しました. 
役小角本人の作ともいわれるこの像は第二次世界大戦で敗戦となった1945年の秋,大島に進駐したGIにより付近の海に投棄されたといわれています. その後島民が再び安置したわけですが,このエピソードが映画 「リング」 の原作で物語の基本をなす出来事としてインスパイアされました. 

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毎年6月15日 立ち入り禁止となる前はこのストーンサークルで護摩焚が行われていました.

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 かつて,この階段を昇ると現在の「海のふるさと村」にいたる道がありました.いまはほとんどが崩落し通行不能です.

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 さぁ,帰りましょう.

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 この橋は1978年(昭和53年)に架け替えられたものです.わずか30年でここまで傷んでしまいました.

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この手前にある洞窟もなかなかの雰囲気を醸しています.

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 満潮から2時間ほど経過した時点の海の様子です.通路上は常に海水で濡れていることがご理解いただけるでしょう.

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数年前まで,6月15日の行者祭の日はこの土俵で泉津小学校の相撲大会が行われました.砂は地域の工務店さんにサンドスキー場から搬入してもらいました.私自身が小学生の頃は波打ち際まで天然の砂浜があり土俵も護岸堤より海側に作りました.

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土俵跡ではしゃぐサクラ
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 泉津の集落の端からスタートしフノウの滝に至る海岸遊歩道は昭和13年頃に開通しました.

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右側の橋を経る道が海岸遊歩道です.鮎川義介と泉津村村長森口吉五郎の描いた壮大なリゾートパークプラン.WW2で中断を余儀なくされた夢の残滓です.

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 延々と続くこの遊歩道は大島自然公園の海岸縁を通過し泉津まで,変化に富む海岸線の景色を楽しみながら歩行する道です.お金は掛かりませんが,自然をめでる心と時間の余裕という別の豊かさが無いと終点にたどり着けません.

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 行者窟に関する思い出
わたしの生家は泉津の集落の中央付近にあり,生まれた頃は炭焼きや自作農,雇い漁師等によって生計を立てる素朴なネイティブ島民として生活していました. 1955(昭和30)の六ヶ村合併による大島町発足直前の泉津村は村内産業の6割を木炭出荷が占めるほど炭焼き業が盛んでそれなりに潤っていた自治体だったようです.そのためメリットの薄い村々の合併には消極的な立場だったようです. 私自身は1956年生れですので記憶としてあるのは1960年頃以降のことです.当時父の炭焼き窯は泉津の集落からはるかに離れたゴゼ川という場所にありました.現在の「海のふるさと村」のロッヂ付近だったと思います. 一周道路の裏砂漠付近から「海ふる」に下るルートはまだ存在しませんでした.現地に行くには大島公園のラクダ舎上を通り,サンドスキー場を抜け行者浜通過.行者窟前に至り洞窟左方にあるコンクリート製階段を昇ると断崖に張り付くようにして作られたキャットウォークを思わせる遊歩道があり,そこを通って現地にたどり着いていました.この道はその後何箇所もの崩落が起こり現在は完全に通行不能となっています.20年ほど前に通過に挑んでみましたが危険すぎて途中で引き返しました. 炭焼きをしていた当時はまだ崩落は無かったので,一番の難所はむしろ行者浜から行者窟に至る短い距離の部分でした.コチラは水面から僅かに上がっただけのグランドレベルで天然の岩肌にコンクリートをムリヤリ貼り付けて設置していたため大きめのシケに会うと簡単に崩落してしまいしょっちゅう通行不能になっていた記憶があります.またこの部分は波が集まりやすい地形なので風の強い時期には海水がかかるのを避けるため小走りでここを通過しました.現在よりはずっと脆弱な構造でした.行者窟の手前にはやや小ぶりな海蝕洞窟があり,その付近に使用をやめた古い階段や取り付け道路の痕跡がありますが,現在の海水面から見るとかなり低い位置にあります.このことからこの付近の土地は沈降しているのではないかとも思われます.かつては現在のような取り付け路ではなく海岸線伝いに足を濡らすことなく洞の側に回り込めたのかもしれません.
行者浜は現在はゴロタ石の散在する歩きにくい海岸となってしまいましたが,40年以上前はこの一帯は見事な砂浜でした.トンネルとエントランス道路が完成したのは1988年以降ですが,このあたりは50年以上前から護岸工事が何期にも分けて行われ,磯に設置された人口構造物は徐々に巨大化していきました. その甲斐あって,海岸線の侵食を阻む事はできましたが山側からの砂の供給も途絶えてしまったため,現在の石だらけの浜辺になってしまったものと思われます.
行者窟の名の由来はご承知のとおりここが役行者(役小角)が篭り住んだ場所と言われている事によります.伝承については資料を添えて後述しますので,ここでは私の主観的な思い出のみに止めます

6月15日は毎年行者祭が行われ行者浜から「海ふる」へ抜けるトンネルの入り口付近で護摩焚が行われます.当日は行者講と呼ばれる信者の方や僧籍を持つ方々が内地より渡来し護摩焚の際は一緒に読経を行っています.泉津地区の人々は前々日早朝より現地に入り護摩焚きの準備を行います.燃材はヒノキの葉を用います.泉津に植林されたものから採集しますが現在は小学校跡よりやや大島公園寄りの都道付近に植栽してあるものを使用しているようです.
生前父はこの積み上げたヒノキ葉の山に着火する役目でした(45年前).現在行者窟は落盤が発生しており危険なため立ち入り禁止措置がとられていますが,私の幼少時は落石もなく自由に洞窟内に立ち入る事ができました.当時の護摩は行者窟の内部にあるストーンサークルで焚いていました.内部に空間を作る積み上げ方で,洞窟入り口に対し平行な面の左右に火道口をあらかじめ開けておき2・3メートルほどの松明を両側から差し入れ二人かかりで点火していました.
お坊さんは着火前から護摩の前に胡坐で座りお経を唱えています.ヒノキ葉の山に火がまわり,たち昇る煙と炎のなかで朗々と響く斉藤氏の読経に内地から応援に来た密教のお坊さんたちがユニゾンで唱和すると子供心にも不思議なトランス感覚が生じたのをよく覚えています.このあたりの様子は現在も同様ですし,三原山の山開きの護摩焚でも見る事ができます. 祭祀を執り行うのは真言宗泉涌寺派のお坊さんで泉津の神泉寺の住職である斉藤明道氏です.知る限りではこの方は2代目で私の子ども時代には氏の厳父である斉藤善道氏が執り行っていました.神泉寺は通常は無住の寺で斉藤氏は熱海に本拠の寺があり,葬式・法事等必要の都度熱海から客船を利用して随時渡島してきます.修験道と真言密教の関係についてはご存知のことと思いますので省略させていただきますが海辺の洞窟に篭っての修行という部分は空海にもよく似た伝承がありますね. 6月15日の行者祭を直に体験できるのは就学前の僅かな時期だけです.小学校に入学すると当日は学校行事で行者浜の海岸で一日中相撲大会が行われます.巖壁の向こう側から護摩焚や読経の様子は漂ってくるもののわれわれ生徒は一日中行事に拘束され小学校の6年間は一度も直接祭を目にした事はありません.以後中学・高校時代ともウイークデーで見学ならず.上京進学就職.Uターンし人の親となったものの当日はかつてと同様に小学校の相撲大会でPTAとして行事の実施に忙殺され100mほどの至近距離で護摩焚が行われているのに見学かなわず・・・ということで私自身はここ何十年もの間行者祭に参加どころか見学もしていません.したがって洞窟内での護摩焚の様子の記憶も4・5歳のころに見た2回がそのすべてということになります.なぜ行者祭が6月15日に行われるのか,その由来は定かではありませんが,当日は梅雨の期間中であるにもかかわらず,雨天となることは極めて稀です.どうやら晴れの(又は雨の降らない)特異日のようです.


資料
インターネットによる検索は「行者窟 役」等で検索していただけば多くの資料がヒットしますのでご自身でご確認ください. ふたつだけ比較的解説の判りやすいサイトを紹介しておきます. ひとつめURLに記載されているのは2005年に大島第三中学校の校長を退職された樋口先生のお書きになった行者窟に関する解説です.

http://www.yamatokan.com/information/seesight/gyoziakutu/index.htm

http://www.yel.m-net.ne.jp/~ebukuro/News/News2000/20000628.htm#TopicsSpecial1


なお,文中の森口幹彦氏は泉津の老舗旅館「森口館」の当主であり私の遠縁にあたります.森口館は行者講の方たちの定宿でもあります.また,大島公園の開設,泉津から行者窟を経てフノウの滝にいたる観光道路 (海岸遊歩道) の整備,橋の架設等は昭和10年前後,日産自動車の創始者である鮎川義介氏と当時の森口館当主であり泉津村長でもあった幹彦氏の父吉五郎が供に図って立ち上げた一大プロジェクトの残滓です.計画では現在の大島公園の数倍あるリゾートパークが作られる予定でしたが折り悪しく太平洋戦争の勃発で開発は中途で停止し,現在の規模で落ち着いたようです.

資料

mixi内 役行者関連コミュニティは以下のとおり.

役行者にリスペクトしている多くの方たちの存在を知る事ができます.

http://mixi.jp/view_community.pl?id=370449

http://mixi.jp/view_community.pl?id=2660241

 

資料

手元の文献・資料中に見られる役行者・行者窟に関する記述

調べてみると役行者に関する記述は正史である続日本紀に数行(後述).他に説話集である日本霊異記をはじめとした多くの書物で伝承が伝えられているそうです. 原典をあたっても私のスキルでは解読不能ですので.現在手元に実在する資料から今回の件についてあたってみました.その結果,役行者に関する記述が多数見つかりましたが大半は出典を持つ引用でした.そのなかで大島で編まれた資料ならではと思われる逸話が二点見つかりましたのでご紹介しておきます.

・その前に続日本紀にある役行者に関する記述です.

文武天皇三年五月丁丑  役君小角(えんのきみ しょうかく) 伊豆島ニ流サル 初メ小角葛城山(かつらぎさん)ニ住シ呪術ヲ以テ外ニ称サル 従五位下韓国連廣足(からくにのむらじ ひろたり)初メ師ト為ス 後其ノ能ヲ害(そこな)ヒ 讒(ざん)スルニ妖惑ヲ以テス 故ニ遠処ニ配ス 世ノ相伝ニ言ク 小角能ク鬼神ヲ役使シ 水ヲ汲ミ薪ヲ採セ 若シ命ヲ用ヒザレバ即チ呪ヲ以テ之ヲ縛ス (原漢文)

伊豆大島志考 立木猛治著 721

岩窟内に安置せる石像は、年代作者とも不明であり、かつ説をなす者もあるが採るに足らぬ。大東亜戦争の終わった昭和二十年の秋、米軍接収にきたり、こともあろうにこの像を海中に投棄せりと。往昔、天馬空を征った仙聖役君の神通力はその精を失わず、後日地民深く海底を索ってこれを得、旧のごとく安置して今日に至るという。島民は、毎年六月一日三原山に登山して御神火鎮護の大行を終え、続いて同じ月の十五日、この行者の窟に参詣するのを最大の行事として、今日もなお行われている。小角について、大島には、「巖窟内で行をした」と、ただ漠然たる口碑だけでその他には何も伝えられていない。

大島町史 民族編 329頁

文武三年(六九九)大島に流された役行者こと役小角は、泉津の洞窟で煉行三年、赦免され島を離れたが、島での彼にまつわる伝説は残っていない。江戸時代に修験道の霊地として信仰となり海陸の交通や旅の安全を祈願するものが徐々に増し今日に至っている。この行者窟にまつわる比較的新しい話として泉津に次のような言伝えがある。 

時は大正十二年(一九二三)のこと。

このころお穴(洞窟)に参るには断崖を這って渡らなければならなかった。そのため足の弱い人のため石祠を建て、これを前穴様といって危険な参道を通らなくても参拝できるようになっていた。この石祠近くに小屋を作り,炭を焼いて暮らす中年の独身者がいた。奇人とまではいかないが、たいそう変った人で、独身で通すことを神に願をかけ、また行者様をも崇めたのでその願いはかなえられていた。 ある夏の、正確に言えば大正十二年八月三十一日の昼下がりのことだった。役の行者のお使いだという白髪の翁が現れて、その炭焼きに行者がお召しだと伝えた。炭焼きは疑いもせずその翁のあとをついて行った。 神苑とはこのことであろうか、着いた所は一面金色燦然としていうにいわれぬ馥郁たる香りがたちこめていて、一段高くて女神が正座し、左右に大小の天狗が侍従していた。その神々しさのためか恐ろしさのためか、炭焼きは体がすくんで思わず平伏してしまった。すると女神が微笑みながら、

「地変が起る故すぐここを立ち去れ」

と言った。炭焼きは、すぐさま荷物をまとめて村へ下り、この顛末を皆に語った。その翌日が関東大震災でその炭焼き小屋は山崩れのため埋没してしまい、神のお告げがなければ危うく生き埋めになるところであった。 島では、霧のため遭難しかかった船が行者様に助けられた話もあり、今も変らぬ信仰の対象となっている。

 

別ページ資料

大島公園の設立に関する資料はこちらをクリックしてください.「大島公園回顧録」

 

 

2008年6月15日 行者祭 点描

ホラ貝はかなりの音量です.  「はじまるぞー」といっているように聞こえます.

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般若心経を唱える来島した行者講の信者さんたち

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四国のお遍路さんでおなじみのロゴですね. 

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ナムダイシヘンロ・・・読めません ^_^;   

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今回初参加の方々.ライアーが珍しいです. 本物は初見でした.

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本尊はこの奥の洞窟にあるのですが落石で通行止め

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落石の危険を物ともせず多くの信者さんが本尊にお参りしたようです.

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点火は地元の若い衆の役目です.  竹竿の先端にヒノキをくくりつけたものに火をつけて差し入れます.
かつて父もこの役をやっていたのを思い出しました.

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護摩の燃材はヒノキの葉です.

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読経の合間にほら貝の音が響き渡ります.

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祈り

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 すぐ近くの別会場では小学生の相撲大会が開かれています.

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セレモニーもほぼ終盤です.

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end

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