小笠原父島の戦跡

2008年12月12日より26日にかけて父島に17回目の出張をしました.休日の12月20日,

島内では板長のニックネームで知らぬ人とてない名ガイド,池田さんの案内で主に夜明山の

陣地跡周辺を巡りました. 

 海軍墓地 ここに葬られている方々は父島の民間人を含めた戦死者約4600名の極一部です.なお,109師団は陸軍式に師団と称していますが陸海の混成旅団により編成されていました.

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夜明山に残る戦時中の鉄塔の残骸

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道路をまたいだ反対側にある鉄塔跡

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通信棟

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 窓からのピンポイント爆撃を受けた通信棟内部.スラブの鉄筋の密度はさすが軍用施設ですが梁の鉄筋が少なすぎる

ような気がします..外壁は70cmほどの厚さのコンクリート製で通常の爆撃には耐える構造でしたが,米軍は窓から屋

内に爆弾を投てきする猛訓練を積み攻撃を敢行し成功.ただしその時点で内部の全ての施設は地下壕に移設された後

で建物内はもぬけのカラ.人的被害もゼロだったということです.

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 こんな狭い窓から飛行機で爆弾を放り込むことができたとは驚嘆すべき飛行テクニックだと思います.目撃者の証言では

「てっきり衝突自爆と思ったら爆弾を放り込んで急上昇し直後に建物から大音響」とのことです.なお,周囲の木々は戦後

生えたもので当時は視界が開けていたと思われます.

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 こちらは隣接の発電棟にのこる発電機のベッド(置き台).大きさから推測すると100kWから200kW程度の出力と考えられ

かなりの電力容量だったとおもわれます.同じものが柱の向こうにもう一つあります.

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 こちらも通信棟と同様,左側の窓からピンポイント爆撃を受けています.1階で爆発したためにスラブが上方に膨らんで

いるのがわかります.

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ガイドの池田さん.戦跡はこのようなジャングルの中に点在しています.直径70〜80センチ程の落ち葉のたまったくぼみが

随所に見られますが,それらはすべてタコツボと呼ばれた一人用塹壕の跡だそうです.

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 焼夷弾により変形した一升瓶

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 こちらは当時の乾電池の残骸とナパーム弾により変形した一升瓶.上の焼夷弾写真と比してナパーム弾の燃焼温度の

高さが想像できる表面状態です.

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 米軍の砲弾の破片です. この状態ではパウダーは完全燃焼していないと思われます.

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 このような地下壕が山中のいたるところに口をあけています.

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 内部にはトロッコ用線路が随所に見られます.硫黄島とは異なり地熱はまったく感じませんでした.

( ワタシは硫黄島の地熱を短時間ながら経験したことがあります.滑走路脇をほん少し地面を掘っただけながらそこは

天然のスチーム風呂として自衛隊員の憩いの場となっていました)

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 艦砲だそうです(陸軍の砲ではない).口径120ミリ程度. なぜか屋外に露出している砲身より駐退機のほうが腐食が激しい.

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109師団の作戦本部跡です.当時は内側の樹木はなくビロウヤシの葉でカモフラージュを兼ねた屋根がかかっていたそうです.

木の生えている部分が円卓となりそれを囲むように各部隊の代表が集いそれぞれに隊旗を立てて着席.会議をおこなっていた

ようです.

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円形 半地下に堀抜いた高射砲陣地の土留め.ご覧のとおりシロウトの手による石組みではない.軍人以外にも軍属とし

て建築・土木関係の人々が動員されていたことがうかがわれます.

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 艦載機の銃撃による弾痕

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米軍の通信のワッチに使用されたアンテナ線.なんとアルミニューム製です.

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先ほどとは別な艦砲.開脚型牽引架台の設置状況がわかりやすい.移動時は軍馬が引いたそうです.塗装が残って

いるほど状態が良いのは陣地の後部入口が終戦時封印されたため.武装解除に対する抵抗だったのか使用不能にする

ための工作が面倒だったのか理由は不明.銃眼は急な斜面に開口しているため山腹からの接近は難しい.

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薬莢?

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先に掲載した砲はどれも駆逐艦クラスの小型艦用の砲を上陸阻止戦闘のため転用したものですが,こちらはれっきとした

陸軍の制式砲.台座に残る銘盤に38の文字が見えることから38式野砲と思われます.WW1から陸軍で使用され続け

WW2当時は骨董品に属していた武器ですが軽量で機動性が高いため見かけ以上の活躍をしたそうです.

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ジャングルを歩いていたら忽然と現れた140ミリ砲.海岸からかなり離れた地点にあり露天ながら状態はかなり良いです.

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砲口が破損しているのは砲弾不足で150ミリ砲弾を無理矢理に使用したためと言われています.砲身は砲口付近で

テーパー状に絞り込まれ射出寸前に内部の密閉度を高めて発射速度を上げます.そのためライフル(腔線)の磨耗が

砲口付近で特に激しいことが確認できます.

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架台からEL軸がズレ,駐退機も破損しているのは武装解除時にダイナマイト等で砲基部を爆破したためではないかと

想像されます.

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 米潜水艦から発射され砂浜に打ちあがったまま残された魚雷.(境浦付近)

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撃墜された米軍機の残骸.機種の特定は難しいですがアヴェンジャー雷撃機ではないかと思われます.

※「小笠原事件」で犠牲になったのはこの機体のクルーたちだったのでしょうか.

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戦闘機の 残骸越しに見える海上の物体は米潜水艦の魚雷攻撃を受け湾内に逃げ込んで擱坐した戦時貨物船「浜江丸」. 

1983年初めて当地を訪れたときには甲板や上部構造物が残存していましたが25年の歳月が経ちほとんどの部分が海中

に没しました.無残な光景です.

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 父島共同墓地付近に屋外展示してある240ミリ砲の砲身と戦車の砲塔.父島は硫黄島とは異なり戦車の展開は

なかったのですが米軍の上空偵察を欺瞞するため砲塔のみを多数配置して武装堅固を装ったそうです.

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 ※「小笠原事件」について

 唐突ですが狐狸庵先生こと遠藤周作氏の著作「海と毒薬」をご存知でしょうか.墜落したB29搭乗員8名を生きたまま解剖したという実話を小説化したものです.若い頃読んだときにはさほどの実感がなく心に残るというほどの作品ではなかったのですが,いくらか年齢を重ねた現在,内容を思い返してみるとその残虐性に驚きます.実はここ父島でも似たような出来事がありました.墜落した米機の搭乗員捕虜8名を軍刀の試し切りにと惨殺した上,その内5名の遺体を軍医に解剖させ士気高揚のためと称して酒宴を開き将官たちで食べた(!)という事件です.この出来事は小笠原事件と呼ばれ2007年の文藝春秋7月号紙上で少壮のルポライター梯久美子氏の手により広く知られることとなりました.捕虜処刑を指示し自らもその人肉を食した立花 芳夫中将は映画「硫黄島からの手紙」で多くの日本人がその存在を知った第109師団長 栗林忠道大将の後任者です.彼は敗戦の翌年グアム軍事法廷で絞首刑が言い渡され、1947年に処刑されました.なお硫黄島・父島の守備隊はともに第109師団長の隷下にありました.

 

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