デッドセクション


                             米田淳一

..一部 第三閉塞・警戒


...長い一日

....新宿
 冬の雨が、かつて副都心と呼ばれていた新宿に降り注いでいる。
 霧のように煙る空へ、暖房の蒸気が各ビルの屋上から吐き出され消えていく。
 その下の線路を、新宿に乗り入れる十二の鉄道路線の列車が、鋼鉄の咽びを上げながら行き来する。

....雨
 鉄道列車の運転で、もっとも運転士の腕が発揮されるのが停車時である。
 いかに減速度をなめらかに上げながら、最後にじわりとゆるやかに止まるか。
 物理学の関数の問題だが、現実の運転では、人間の裁量でさらに最適解を追求できる。
 限界への挑戦であるが、まだ機械には法的に、この限界への挑戦は許されていない。
 NR東日本の運転士、賢島太一(かしこじま たいち)は、中央緩行線の十両編成のE231系、アルミ製の銀色に黄色帯の通勤電車を、左手一本を添えた『マスコン』と呼ばれるハンドルで操る。
 マスコンは手前に引くと加速、奥に押すとブレーキ側に作動する。
 鉄道を運転するのにはバスや自動車のようなハンドルはいらない。
 列車は、信号機と分岐器の作る線の上を黙々と走り、止まるだけだ。
 運転士の仕事は、もっぱら線路上の確認を行いながらの速度制御だけである。
 故に、運転を自動化されている列車もある。東京の新交通『ゆりかもめ』などがそうだ。
 この日は天気は悪く、ダイヤは冬の雨で乱れていた。
 それに加え、つい数十分前、信号が0キロメートル現示のまま切り替わらなくなる混乱があり、しばらくの間中央線は立ち往生していた。
 通常の鉄道では赤(停止)・黄(注意)・青(進行)の三灯、あるいはそれに黄・青(減速)と黄・黄(警戒)の五段階表示に出来るように四灯にした信号機、また高規格路線では青・青(高速進行)を表示できる五灯信号機を、線路の脇に設置する。
 しかし、最新のデジタルATC信号を搭載する中央線の電車に、赤信号はない。ATCは車上運転台の速度計のところに許容速度を指示し、運行するのだ。
 ATCは故に、車上信号機とも呼ばれる。
 特にデジタルATCはNR東日本の導入した最新の信号システムで、五キロ刻みで時速百二十キロから実質的な赤信号の時速0キロまで、二十四段階の表示で精密に運転士に最高速度を指示する。
 停車駅に近づき、現在現示、デジタルATC信号の指示が、速度計の時速七十キロの目盛りの外側にランプとして点灯している。
 現示変化予告、これから時速六十五キロ制限に切り替わるという意味のランプがそのすぐ隣で点滅する。
 普段ホームの端で時速六十キロで進入するが、その日は時速六十四キロ、四キロオーバーでで進入した。
 ダイヤを少しでも回復するためで、雨ではあるが、新鋭E231系通勤電車のブレーキでは、十分に定位置に止まることが出来る速度だ。
 車体に記された黒の『dC』表示は、デジタルATC対応の新車を示す。
 新車は気持ちがいい。
 E231系は、途中から制御系の応答速度をさらに上げた、いわば走り屋仕様である。
 三ノッチ、マスコンのブレーキ目盛り三でかけ始める。
 減速しはじめてから六ノッチへ進め、七ノッチに進める。
 そして、遅れ回復のために滅多に使わない常用最大制動、八ノッチを使った。
 太一はグッと息を殺す。
 新宿駅は、そんな運転の中でも、いつもイヤだと思う。
 人が多すぎて、いつ人と電車が接触しても不思議ではない。
 山手線を乗り超える高架の下ったところにあるので、速度がどうしてもオーバー気味になってしまう。
 人混みの中を、手にした刃物を隠しながらすり抜けなくてはならないような、ひりひりと目の周りが痛むような感触があるのだ。
 もっとも、今は昼下がりで、比較的人の少ない時間帯である。すこしは気を楽にと思いつつ進入する。
 しかし、今日はいつもと違った。
 人が多すぎる。
 信号混乱が起こっており、混雑がひどい。
 列車はホームにさしかかる。
 甲州街道の陸橋下がひときわ暗くなっているので、そこで警音を一回鳴らす。
 その直後、広告看板、女性の服、そして背の高いデパートの壁で作られる暗いのに鮮やかなトンネルに列車が飛び込む。
 ホームの屋根を支える柱と、人々が右側を駆け抜けていく。
 いつもより駅員の姿が目に付く。混雑対応で増員されているのだろう。
 乗客を誘導する呼び子笛の音がいくつも響いている。
 特に新宿駅がいやなのは、左側が大きな小田急線のデパートと一体化した建物で、右側、運転台の反対側が人混みのホームだという圧迫感のせいもある。
 右側は特に見えにくいので、注意が必要だ。
 太一は列車を減速しているが、なおもスピードはある。
 避けてくれ、と足踏みペダルでホームの人々に対して警音を鳴らす。
 だが、そっと鳴らした警音にも、その人並みの動きが止まらない。
 普段だったら何人か動きを変えるはず。
 おかしい!
 ペダルを一杯に踏み込む。警音器(タイフォン)が最大音量で鳴る。
 ごったがえす人混みの中から、グレーの背広の男が線路側に押されている。
 あっ!
 まずい!
 ブレーキハンドルを非常制動位置までグッとたたき込み、警音を短急警笛と呼ばれるやり方でならす。
 車両は軋り音を上げ、急に速度を落としていく。
 ブレーキパッドとブレーキディスク、そして車輪が急制動の指示に金属の鋭い悲鳴を上げる。
 ぱぱぱっと鳴る短急警笛音に、駅員たちが駆け出した。
 誰かが背広の男を、雑踏の中から無理矢理線路側に押している。
 背広の男を押す手の赤いバンドの時計が、太一の目に飛び込んできた。
 そして、背広の男は重たい荷物を思わせるように線路に落ちた。
 太一の目に誤りはない。
 彼は今、自分が運転する電車の線路にいるのだ。
 止まれ!
 物理学は冷酷だった。
 一両当たり三十トンの十両編成、合計三百トンのアルミの電車が強い思いだけで止まるはずもない。
 イヤな衝撃音と共に、列車はグレーの背広を右側に巻き込み、減速しながら少し震えた。
 列車はそれでもなお進んだ。
 太一はブレーキを作動させながら、列車の状況を見る。
 上の架線を見る。滅多にないことだが、何かに乗り上げると列車はパンタグラフで架線を切ってしまうことがあるのだ。
 どうやら乗り上げてはいないようだ。
 メーター確認。ブレーキ空気直通管圧力正常。ブレーキ系の配管は傷ついていない。
 轢いたことは轢いた。だがそれを悲しむよりも先に、後ろに乗っている乗客のためにも列車を防護せねばならない。
 列車がホームの中ほどでとまると同時に、連絡ブザーが鳴った。
 最後尾の車掌からの合図だ。
 車内電話の受話器を取る。
「人身ですか!」
 受話器の向こうで叫ぶのは今年入ったばかりの新人女性車掌、新峪早希(しんたに さき)である。
「すぐに手配を」
 太一はすぐに指示する。
「はい!」
 早希の声が車内放送で流れる。
「お客様に申し上げます。現在人身事故のため、列車は新宿駅構内で停車しております。今しばらくお待ちください」
 太一は、人身事故はこれで三度目である。
 だが、瞳を閉じても消えない、今回の犠牲者を押した、あの手。
 消えない。
 でも、仕事を止めるわけには行かない。
 列車無線を取る。
「こちら三鷹2087列車、人身事故発生」
 太一は停車した電車の状況を確認し、降りることにした。
 ATC車内信号は×、非常停止の信号になった。
 駅員がホームにある非常スイッチで信号所に手配したのだ。
 これなら線路に降りても他の列車はやってこない。
 最新のE231系電車は運転装置をキーを差し込むことで作動させている。
 そのキーを抜き、椅子を跳ね上げて、立つ。
 胴乱と呼ばれるカバンをあけ、用意してあるビニールコートを制服の上に羽織る。
 こういう職業で帽子を被っている人間は傘を差さないのがルールだ。
 そして、運転室側の側開戸、ドアを開ける。
 椅子を跳ね上げたのは、このドアから出るには邪魔になるからだ。
 銀色の冷え切ったドアを開けると、冬の凍える大気が、それまでの暖かな運転室の空調を引き裂いて吹きこんだ。
 その上、ちくちくと耳に刺さるほどの、凍える冬の雨が降っている。
 目の前は巨大な広告看板があり、その下はごちゃごちゃとした信号を収めた配管、そして砂利の軌道である。
 駅員も何人か線路に降りている。
 運転士は救急隊員が来るまで、遺体を見守らなくてはならない。
 事故処理の鉄道電話の通話を終えた車掌の早希がやってきたが、現場をみて言葉に詰まっていた。
 遺体は、電車のスカート、下回りを覆うカバーの前で無惨に引きちぎられていた。
 ホームの人だかりも、好奇心で一瞬のぞくが、すぐに目をそらす。
 だが、鉄道員は好奇心に踊らされず、目をそらしたくなる現実と立ち向かわなくてはならない。
 身体は四散していた。即死だっただろう。
 衣服はピンク色に近い鮮血に染まり、元のスーツの灰色はほとんど残っていない。
 太一はまず、胴乱の中から白いシーツを取り出し、遺体の上にかけた。
 シーツは使いたくないものだが、鉄道員は全て、このような人身事故のために用意しているものである。
 いやなものだ。しかし、覚悟はしてきている。
 運転時に常に着用する白手袋も、白いシーツも、泣きたくなるような冬の雨のなか、赤い色に滲み、染まっていく。
 太一は、喉周りにドロリとした、いやな感触がした。
 かといってネクタイをゆるめる気にもならず、ただ帽子を一度脱いだ。
 そして被りなおすと、駅員の一人が気付いた。
「左足が見つからない。列車の下かもしれない」
「探そう」
 駅員が動き出すのに、女性車掌、早希は動けない。
「早希君」
 太一は、早希の気持ちが痛いほど分かった。
 でも、これが鉄道員として、避けえない悲しい義務だ。
「早希君、探そう」
 太一は早希の肩に手を置いた。
 早希は頷いた。
 震えている。
 だが、そこで一度頭を振った早希は、すぐに気を取り直し、懐中電灯を点けた。
 そして、駆け出していった。
 その後ろ姿を太一は見送った。
 運転士はこの場合、現場、列車の停止している位置で待機している必要がある。
 ホームからの視線を絶え間なく感じた。
 ――野次馬に何が分かる。
 ちょっと毒づきたくなる。
 一人の人生が終わったのだ。
 こんな悲惨な形で。
 しかも、その人生は『終わらされた』のかも知れないのだ。
 赤いバンドの時計の手によって。
「ありました!」
 三両目の下を覗いていた駅員のその声と同時に、救急隊員と警察官が来た。

....運行
 列車は交代の運転士に引き継ぎ、太一は新宿署交通課の実況検分と事情聴取に出席する。
 鉄道警察隊もあるが、こういった人身事故は所轄の交通警察の仕切りである。
 太一は濡れた帽子を手にしている。
「そこで、赤いバンドの腕時計をした手が被害者を押したのが見えたんですね」
「はい」
 太一は思い返した。
 ここはホーム端の詰め所、事務室である。表の看板には駅長事務室と出ている。
「確かに赤いバンドです」
 だが、警官は不審がった。
「運転席から見えるかなあ。右側は運転席から死角に近いからなあ」
 警官の疑う口調に、太一は先ほどの遺体のショックを吐きだすように鋭く言い返した。
「見えたんです」
「まあ、刑事課に連絡しておきます」
 ――え、それだけ?
「ちょっと待ってくださいよ」
 太一は立ちあがってしまった。
 途中から運輸区の助役、運転士のまとめ役の梯田(はしだ)がやってきて、やりとりを見ていた。
 梯田も帽子が濡れていた。
「いえね、我々もそういう事情であれば人を出したいんですが、東京でのG9、九ヶ国蔵相会議開催の警備準備で人が各課で根こそぎ引き抜かれてまして」
 警官は記録を取り続けている。
「でも、そんなことで」
 太一は力無く座った。
「私も身体がひとつしかないんです」
「そんな……」
「でも、うちの刑事課には優秀なのがいるんで、後日事情聴取に来てください」
 警官は目の下にくまが出来ていた。
 疲れ切った警官を責めるのは酷かもしれないが、人が殺されたのだ。
「お宅は多摩センターですか。じゃあ、場所は多摩署になります。お時間はいつが……」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」
 太一がつっかかったそのとき、梯田が割って入った。
「太一、ちょっと来い」
 梯田助役はかまわず、隣の部屋へ太一を連れて行った。
 老齢の梯田助役には、太一も信頼を置いていた。
 不承不承であるが、しかし急を聞いてやってきた助役を無視は出来ない。



<戻る>