『紫焔・九〇〇〇億円奪取』
                              Junichi YONETA
                              米田淳一
..序章

 A world is incalculable.
 世界は計算可能ではない。

...オープニング・届いたメールの衝撃
■注意・監視該当メール■
title:六〇〇〇万人の命と引き替えに九〇〇〇億円を用意しろ。
to:首相官邸担当者
from:〈沢藤朔一〉sawafuji1944@free4.dove.ne.jp
 私、沢藤朔一(さわふじ・さくいち)は、愛知県小牧市・小牧核融合研究所のSC型核融合炉のプラズマ放散弁の開放権限を奪った。
 頭の悪い君たちに教えてやるが、この弁を完全に開けば熱核爆弾(水爆)と同じ十億度のプラズマが開放され、核攻撃を受けたと同じような状態で中部地方は消滅する。しかもこの炉はこれまでの核融合炉と違い、暴走すると死の灰を出す。今、風は西から東へ吹いている。死の灰は千葉まで届くだろう。
 開放権限は私のノートパソコンにコピーした。私でなければこの権限を元に戻すことは出来ない。
 ソマリア・スワジシア銀行の指定する口座に九〇〇〇億円を振り込め。
 これが私の要求だ。
 オンラインで銀行への入金を確認し、ソマリアに脱出したとき、開放権限を元に戻すパスワードを教えることとする。
 私は本気だ。
 それに、日本を信じて惨殺された沢藤機関の末裔として、パスワードを教えずに開放弁を放つなどということはしない。
 しかし、私の身に何か起こすようであれば、躊躇なく弁を開けて中部地方を消滅させる。
 あと三〇分後に弁を一%開ける。結果を見れば明らかだろう。
 九〇〇〇億円の入金を今すぐ行え。
 猶予は四時間だ。ちなみに私は気が短い。恨みも持っている。容赦はしない。

 首相官邸ホームページに寄せられるメールをチェックするシステムが、『用意しろ』『奪った』『要求』などのキーワードでこのメッセージを抽出し、さらにそれをチェックする内閣官房広報室の星崎に、絶望に限りなく近い諦めの感情をもたせる。
 いつもの手順でマウスを操作し、いつものように官邸内LANの共有フォルダに格納する。
「高岩さん、これ、どう思います?」
 深夜勤務の疲れでぐったりしながら聞く。こういうメールの件数は非常に多いので、もう手順は半分脳で自動化されているなと思う。
 訪欧している総理の留守居の秘書の高岩が時計を見上げる。
「送信時刻から二十八分。あと二分だな」
 常に冷静な彼らしい口調の後、すっと検索エンジンDoveのページを使って、自分のパソコンに小牧市の上空を撮影している固定カメラの画像をウェブ経由で呼び出した。
「SC型って何でしょう? 聞いたことないですけど」
 普段は自分に割り振られたメールに集中して、滅多に他の人間に関心を向けない室員たちが、ちょっとした和みムードで話し合う。
「イタズラですね、きっと。最近は変な奴が多いし。厨房って言うらしいですよ、こういうウェブを使った悪戯好きのガキを」
「一応、脅迫ということで愛知県警と警視庁に連絡しておきましょう。検索エンジン・doveのフリーメールだから、身元はわからないかもしれないですけれど」
「そうですね」
 Doveとはホワイトドーヴという使い捨てのメールサービスで、コンピュータの書籍を出版する会社の資本による検索エンジン・ホワイトドーヴのサービスである。登録の時に、有料のウェブサービスと違い、実在しない住所氏名生年月日でも使えてしまう犯罪の温床である。
 全員、パソコンの画面にウインドウを開いて小牧上空を目の片隅に見ていた、そのときだった。
 空に白いドーム状の霧が急速に広がり、画面が真っ白になった。それが収まっていくなか、カメラが揺れているのか、画像がビリビリと振動している。
 室内の全員が目を見合わせた。沈黙があった。星崎は何かの間違いであって欲しいと思った。全員が同じ視線を高岩に向けた。高岩も表情を硬くしている。
 電話が鳴った。
「愛知県警から通報。衝撃波らしきものを感じた小牧市の住民から一一〇番受理台に多数問い合わせあり」
 それが、身代金事件としては前代未聞の事件の始まりだった。
 中部地方の人口は二千百六十五万人。そしてSC型核融合炉の最大の弱点、暴走の可能性と共に、生成してしまう死の灰を関東首都圏四千四十六万人の頭上に降らせる可能性がある。
 九千億円と六千万人の人質の安全を賭けて、戦いが始まった。



 日本政府へ。九千億円を私に渡せ。さもなくば中部地方を核で壊滅させ、関東全域に死の灰を降らせる。
 九千億円。積み上げれば高さ九百メートル、重さにして九十トンの超多額身代金要求のメールが官邸に届いた。
 いかにその巨額の金を受け取るのか、その疑問以前に、いたずらだろうと官邸のスタッフが思うと同時、中部地方全域に衝撃波が走る。
 愛知県小牧市、名古屋市近郊の原子力研究センターのSC型核融合炉実験炉『紫焔』のエネルギーが1%開放されたのだ。その衝撃波は静岡・京都でも地震計に検出される。
 犯人は沢藤と名乗り、太平洋戦争の動乱の中、暗躍した国際策謀機関・沢藤機関の末裔を名乗っている。文部科学省が紫焔の臨界試験を監察するための監察官に偽装していた沢藤。来歴は何者かに隠蔽されているものの、そのテクニックと頭脳は政府を震撼させる。
 彼にとって融合研は、スーパーフェリオスとロボット警備システム・IZUNAによって、占拠排除を図る警察や自衛隊を防ぐ完全に難攻不落の要塞となった。
 融合研構内に閉じこめられた研究者、押屋保は事態に驚きつつも、それでも紙一重の融合研奪回策を図る。首相が訪欧で不在の官邸に残っていた二十八年ぶりの女性官房長官・牧山佐生は、即座に中部管区警察局SATと空挺レンジャーのみの陸上自衛隊特殊部隊・Gekkoを派遣することを決定した。Gekko第1分隊隊長・中川二華は、六年ぶりの沢藤との再会をこういう形になるとは想像もしていなかった。かつて、未来を誓い合った二人が、融合研を舞台に対峙する。
 そして官房長官と保の戦いは、混乱のなか進んでいく。官房長官の秘策で、政府は事態をテレビで公表した。前代未聞の深夜の三千万人の空前の大脱出劇の中、SATが融合研に到着する。保は絶句する。融合研構内に自分の仕掛けた全てのワナが、自分に向かってくる。それでも保は負けない。犯人だって、人間だ。ミスが無くても、人間であることの限界は超えられないはず。沢藤機関の情報を巡っても攻防が演じられる。戦時中の三号計画、日本独自の原子炉開発のために狙われたシンガポール沖のサナンバス島の大公家を舞台に渡り合った元勲の家・沢藤家と旧陸軍の謀略。
 緊急事態対応制度がまだ決まっていなかった中で、官房長官はついに決断する。


 参考・プリンセス・プラスティック世界での核融合の歴史
400円(税手数料込み)




<戻る>