

朝、目の前に止まった電車。
いつもの通勤に使うよねでん線の電車。
いつものように乗ろうとした。
いつものように。
いつものように、右足から車内に入ろうとした。
寸時の間だった。
迷いとしかいいようのない、イヤな感覚。
なんだろう。この感じ。
これまでもあったけれど、思い出せない。
でも、その感覚が、私の心を奪った。
気が着いたらドアが閉まっていた。
いつものよねでん線。
いつもの駅。
でも、今日は職場への上り電車を乗り逃がした。
上り電車のテールライトが遠ざかっていく。
単線のよねでん線。
すぐには次の列車は来ない。
だが、さっき乗ろうとした上り電車とすれ違った下り電車がやってきた。
「すいません、ひどい風邪引いちゃって。これから病院に行きます」
言い訳を会社への携帯電話でしながら、下り電車に乗った。
『おだいじに』と言われ、僕は電話を切った。
下り電車に揺られていく。
滅多に乗らないよねでん線の下り終点、小倉嵐山方面へ。
ある春の朝の、小さなズル休み、逃避行だった。

電車は走っていく。
次の駅で降り、街を歩くことにした。

よねでん線は自動改札化されていない。
定期券で乗車して反対側に乗ってきたので、精算が必要だった。

駅は車両基地の駅だった。
電車を降り、駅前の踏切にさしかかった。
和服のご婦人が、下がった遮断機の向こうにむけて、焦った表情で足踏みをしている。
「息子が、息子が!」
「どうなさったんですか」
「交通事故にあって、すぐに300万円振り込まなくちゃいけないんです!」
降りた電車が出発するまで、踏切の遮断機は上がらない。
「あの、それ、ご子息に確認しました?」
「だって、『僕、大変なことに』って言って、お巡りさんも仰っていたし」
「とにかく落ち着きましょうよ。交通事故ですぐにお金を払う事なんて、そうそうある事じゃないですよ」
その前を、電車が走っていく。

電車が過ぎて、遮断機の上がった踏切を渡って、街に入った。
小路には『極楽通り』とアーチ看板が掛かっている。
「駅前に電話ボックスがあるでしょうから、もういちど確認しましょうよ。そうしてからでも間に合いますよ」
しかしご婦人は狼狽している。
郵便配達のスクーターが見えた。しかし、配達のオジサンは忙しそうだった。
参ったな。

駅前の広場、角に喫茶店が2軒。喫茶店からはかすかにジャズの音色が流れている。
そしてその隣に交番があった。
「ご子息は事故をなさっていれば、きっとお巡りさんに届けているでしょう。お巡りさんに聞いてからでも良いじゃないですか。それに、お巡りさんの方にお怪我とかの話も伝わっているかも知れませんよ」
ご婦人を促し、交番のサッシドアをノックした。
「あのー」
室内にはだれもいない。
スチール机の上に、『パトロール中です。この電話で本署とお話しください』の札が、電話機と共に置かれている。
どうしよう。
そのときだった。
ギギギ、と言う自転車のブレーキの音が聞こえてきた。
「どうなさいました?」
自転車の巡査が自転車を止めて、入ってきたのだった。
まさに『騎兵隊登場!』のようだった。
事情を話すと、巡査は警察電話で調べてくれた。
「県警本部に問い合わせましたが、未だ事故の届け出はないようです。息子さんのお電話とかご存じですか? かけてみたらどうでしょう」
巡査の言葉に、ご婦人は懐から使い込んだ手帳を取り出した。
ご婦人は老眼鏡を取り出し、携帯電話を持ちなさいと息子にいつも言われているが、どうにも苦手でと言っている。
すこし平常心が戻ってきたのだろう。
でも、ご婦人の声は未だ震えている。
「本官が代わりにダイヤルしますよ」
巡査が申し出る。
震えるご婦人の声をもとに、巡査が電話した。
「あの、小倉嵐山駅前交番のものですが、船曳秀旭(ふなびき ひであき)さまですか?」
巡査が目配せした。
「事故では、ないそうです」
ご婦人は、息を吐き、交番のソファに崩れた。
「大丈夫ですか!」
巡査が受話器をご婦人に渡す。
「秀旭! 大丈夫だったかい! ホント、ドキッとしたわよ。寿命が縮まったわ。孫の顔を見るまでは死なないと思ったのに」
ご婦人は涙していた。
一件落着。
「あの、あなた」
巡査が呼び止めた。
「オレオレ詐欺を未然に防げました。ありがとうございます。もしよろしければご連絡先を」
「いえ、そんなたいそうなものじゃありません」
私は逃げ出した。
ズル休みがばれる以上に、何か後ろめたかった。
交番を出て、すぐの角を曲がった。
すると、そこは電車の基地だった。

電車が並ぶ基地に、突然足を踏み入れてしまった。
これ、鉄道構内だよなあ。
でも、電車にも、詰め所にも人影がないように静かだ。
どうしたんだろう。

線路の砂利は、すっかり丸くなって砂のように砕け、それが踏み固められて道のようになっている。
線路が生活道路なんて。
しかし、線路に向けて入口を見せる消防倉庫と木造アパートを見ると、これがこの鉄道なんだと思えてきた。
列車に興味のない私ではない。
そっと入っていくと、乗務員詰め所らしきコンクリートの建物で、笑い声がした。
誰かいるんだろうか。
「あれ、奥さん! どうなさったんですか? そちらの方は?」

(イメージ・『鉄道むすめ』より)
詰め所の中に灰色の制服の鉄道員たちが集まっていて、僕の方を見て声をかけてきた。
えっ、奥さん?
僕の後ろに、いつの間にかあのご婦人がいた。
「この方は私の恩人なんですのよ」
ご婦人は船曳幸江(ふなびき さちえ)というかたで、このよねでん線、米田電気鉄道の船曳会長の奥さんらしい。
「是非御礼を」
「いえ、それは困ります」
私は本当にどうしていいか分からなかった。
会社をズル休みして、こんなことに。

よねでん線はローカル線だと思っていたけれど、案外忙しいようだ。
乗務員詰め所で、遠慮したのに結局ココアを頂いてしまった。
温かいココアを借り物のサーモマグで飲む。
その間に、砂利運搬の貨物列車が通過していく。
2軸貨車の、ゴットンゴットンというジョイント音が響いている。
「でも、本当に御礼しないと」
ご婦人は詰め所で、応接セットすら使わず、一般の鉄道員用の事務椅子に腰掛けて、思案している。
「いいんですよ。たいしたことじゃありません」
「いや、そうはいきませんわ」
どうしようと思いながら、詰め所の様子を見た。
電車を運転するブレーキハンドルにマスターキー、行路表が整然と並んでいる。
鴨居には鉄道の『安全綱領』が飾られている。
ノンビリとした感じの詰め所だが、一角では始業点呼が行われている。
「運転士船堀、体調異常ありません」
「車掌松河、体調異常ありません」
体調を報告し、行路表を読み、関係制限と呼ばれる臨時の制限速度を確認し、時計をあわせる。
そこだけ、きりりとした緊張感が漂っている。
そのとき、タタ、タタと言う特徴的な列車の音が聞こえた。
「あっ」
<次へ続く>