銀の喇叭(ぎんのらっぱ)


                          Junichi YONETA 米田淳一





 総理官邸のオフィスの個室で、官邸沓木(くつぎ)外務担当参事は、大倉瑚珠(おおくら こだま)防衛・公安担当参事補の報告を受けていた。

 今ではテレビなどで紹介され、そう珍しくもなくなった平成の総理官邸は、中庭に竹の生えた吹き抜けがあり、空調にもアロマテラピーを応用した豪華なものであり、またその官邸スタッフの個室もまたその建築の文脈を使ったウッド使いのしゃれた部屋である。

 窓の外には永田町の裏町がこまこまと広がっている。

 国会議事堂や皇居が見える部屋はもっと上の者が使うため、沓木参事の部屋は反対側の裏町に面した部屋だが、それでも窓は分厚い防弾ガラスである。

 沓木は外務省内でチャイナスクールと呼ばれる中国語の専門家であり、本来なら外務省の代表として中国関係について外交活動をするはずだった。

 それが、外務省アジア大洋州局の分析官としてめざましく活躍したため、牧山佐生総理のあとに着任した石岡総理の目にとまり、官邸スタッフとして働いていた。

「畜生、今年は正月からずっとまた日曜返上だな」

「そうですね。でも、我々に労働基準監督署も冷たいですよ。体力勝負のところもありますから、沓木参事もちょっとなにか運動なさっては? ランニングだったらおつきあいできますよ」

 大倉瑚珠はかつて署括の刑事だったところを大きく登用され、今では官邸に防衛公安関係の報告をする参事まで上り詰めた女性である。

 背が高く、またクールビューティーとかつて呼ばれた力のある目とサッパリとしたスタイルは、まさにスマートであり、有能さがスーツを着て歩いているようにすら見える。

 この彼女が、かつて池袋で強行犯係の刑事として活躍し、少年たちを指導したというのはどうしても沓木にはつながらない。

 そして、彼女をここまで上り詰めさせた上司・鈴谷現公安局長のことも、伝説にはなっているものの、これも信じがたい。

「で、事情はこのとおりか」

「はい。しかし、本当に不運ですね、石岡総理も」

「そうでもないさ」

 沓木はメモとして渡されたにしては枚数の多い書類を見つめ、目を向けずに言った。

「窮地に立たされるたびに天災が起き、それに素早く対処することで世論の避難をかわし続けた総理もいただろう」

「そうですね。豪運と呼ばれていましたね」

「ああ」

 沓木は息を吐いた。ミドル世代で、しかもストレスを食べることで発散する傾向があるため、やや肥満気味の身体であるが、視線だけはまた鋭い。

 そして、外務官僚らしく、安物とはいえ、襟と見頃が違うシャツを着たりしている。



 その彼に瑚珠の渡したメモと、口頭による説明の事情はこうだった。


     ■


 東シナ海では、北京オリンピックをかろうじて切り抜けた中国共産党が、さらに強引に日中で帰属を争っている天然ガス田・天外天(日本名・樫)での採掘活動を進め、さらにそれを中国人民解放軍が艦艇と航空機を派遣して示威行動を繰り返していた。

 そして、それに対して日本の自衛隊も出動し、時折衝突の危険が生じていた。

 しかし、それも自衛隊のパイロットにとっては緊張するシーンではあるが、胡錦濤のころから始まったシャトル外交の結果、お互いに結論は出ないものの、日中ホットラインの設置は決まり、また対立の現場でも中国空軍と航空自衛隊のパイロットが手信号で意図をやりとりし、『お互い上の連中がしっかりしてくれないと困るな』、といったグチを空中で交わすほどにもなっていた。

 公には出来ないものの、中国空軍は独自開発のJ−10の改良型を、日本はF−22を少数試験した結果のJF−4ディーヴァと呼ばれる独自開発ステルス戦闘機と、F−3として導入しつつあるF−35を使い、高空から低空までで近接し、互いの写真を撮りながら、互いを脅威と認識し、報告していた。

 それがスクランブル発進する戦闘機パイロットの、通常の仕事だからだ。


J-10 (戦闘機) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/J-10_(%E6%88%A6%E9%97%98%E6%A9%9F
F-35 (戦闘機) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/F-35_(%E6%88%A6%E9%97%98%E6%A9%9F

 もちろん互いに武装もしているし、極端な行動をすれば、警告射撃、そしてさらにすすめば衝突となることも覚悟していた。

 互いの主権を守ること、国を愛すること、それは中国空軍も航空自衛隊も同じ思いだった。

 だが、すこしずつ、現場では情がやりとりされつつあった。



 そして、その海域での中国の艦艇の警戒に、日本はP−1とよばれるP−3C後継の独自開発ジェット哨戒機を出動させていた。

P-X (航空機) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/P-X_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F


 装備品に多くのセンサーを統合するエキスパートシステムを搭載し、潜水艦と水上艦艇から不審船舶までを警戒し、対潜警告弾や発煙マーカーを搭載して、海からの日本への脅威に対抗するこの機は、もともと日本が太平洋戦争で太平洋を争ったときの影の主役である二式大艇と同じように、長大な航続力と滞空時間のうえに、国産エンジンによる高速性能を発揮し、まさに海上自衛隊の空の主力になりつつあった。

 エンジンの国産は日本の大きな課題であったが、苦しい時代を経て、このP−1にも使われ、そして納入されはじめて戦力化しつつあるJF−4の超音速巡航エンジンにまで結実していた。

 そのP−1のクルーもまた、中国軍とのこの微妙な、そして危険な対立のなかで、緊張しながら、それでいて現実よりもたんなる興奮を求める国内の一部の人々に心を痛めつつ、その人々を含んで国を守る意志と魂で向かい合い、互いをある意味尊敬さえしていた。



 そして、この1月の成人式の過ぎた日曜日だった。



 こういった防衛の現場に日曜はない。旧海軍の歌にあった月月火水木金金は今でもである。

 いつものように、P−1の1機が領有を争う天外天ガス田基地に接近していた。


東シナ海ガス田問題 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E3%82%B7%E3%83%8A%E6%B5%B7%E3%82%AC%E3%82%B9%E7%94%B0%E5%95%8F%E9%A1%8C


 迎撃に中国空軍の戦闘機J−10が接近してきたことをレーダーと逆探知システムで確認しながら、P−1のTACCOと呼ばれる機上指揮官が、その接近の記録をつけるように指示した。

 そして、P−1の機首に装備したFLIRという赤外線カメラを、記録のためにJ−10に向けたときだった。


 J−10に異変が起きた。

 何が起きたか、それは海上自衛隊の新データリンクを通して市ヶ谷に届けられた。

 分析の結果、J−10の動翼が異常動作していることが確認され、制御系、とくにフライバイワイヤ系統の異常が発生したものだと海上幕僚部と情報本部画像分析隊が推測した。

 制御不能に陥ったJ−10のパイロットは射出座席で脱出、そして自動展開するパラシュートでパイロットは着水し、海面に浮かんだ。

 P−1それを追跡、はすぐに那覇基地にいるUS−2救難飛行艇の救難出動を要請した。


US-2 (航空機) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/US-2_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)


 中国空軍にも海軍にも、まだこの海域で十分な活動の出来る救難隊が存在しないと見込まれていたためである。

 あくまでも、人命救助のためだった。1月の海での漂流は、いくら東シナ海でも恐ろしいものであることを、航空機に乗りながらも海の男でもある海上自衛隊のクルーも思い知らされているからだ。

 P−1は連絡を取りながら、降下して救難用の自動膨張ボートを含んだパックを投下し、上空を旋回して待機しながら、US−2飛行艇の誘導をする救難活動を始めた。


 それが、この長い日曜日の朝だった。


 航空自衛隊の新警戒管制システムJADGEとよばれる警戒システムが、中国軍の通信量の増大と、当該海域へ接近する戦闘機らしき反応を検知し、それがそのシステムとリンクしたE−767空中指揮管制機につながった。


自動警戒管制組織 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%AD%A6%E6%88%92%E7%AE%A1%E5%88%B6%E7%B5%84%E7%B9%94


 那覇基地から、JF−4が離陸した。

 超音速巡航エンジンと高度戦闘システムを搭載したJF−4は、かつての実験機「心神」をベースに拡大強化された実用機で、航空自衛隊の切り札とも言うべき最新鋭戦闘機である。



心神 (航空機) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E7%A5%9E_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F

防衛省技術研究本部|ニュース
http://www.mod.go.jp/trdi/news/0605.html

 ステルス性能ももつこの機は米軍のF−22ラプター、ロシアのPAK FAに続く航空支配戦闘機と号されるほどの能力を持つ。

 それに反応したのだろうか。

 中国空軍は、一斉に国産の高機動戦闘機J−10と、かつての蜜月関係時に導入したロシア開発のJ−11、ロシアで言うSu−27戦闘機を一斉に発進させた。



 すこしずつ、朝のもやが薄く立ちこめる天外天付近で、悪夢が始まった。


 
 その悪夢が、最悪の瞬間を迎えた。

 US−2が到着する寸前、P−1の見張り員が、双眼鏡で、投下された救難ボート上の中国パイロットが銃らしき物を振り回しているのを発見したのだ。

 TACCOは即座にUS−2に救難のための着水を中止させ、またその状況をFLIRで撮影し、市ヶ谷に中継した。

 P−1には映像情報転送装置と高速通信衛星のアンテナがある。

 そのデータ通信が使われた。


 
     ■


 
 そして、沓木参事官にその情報が届き、日中ホットラインによる問い合わせが要請されたのだ。



 沓木はかつて大学時代、学生日中国際協力会議のワークショップで、成潮功という男と知り合っていた。

 沓木はそのとき、外交官試験を受けるつもりでいたし、成も外交をはじめとした中国の改革に魂を燃やしていた。

 大いに語り合ったその会議の後の合宿で、成は話し始めた。



 ちょうど、中国共産党の悪夢であり、大きな国際的な恥で終わった北京オリンピックの後だった。

 場所は、会議の行われた栃木から少しはずれた温泉宿の露天風呂だった。

 みな、話し込んで熱中するなか、成と沓木は互いに意気投合するものがあり、そっと抜け出し、湯煙のなか、二人で檜の浴槽に入った。

 成は、そこでチベットでの共産党の悪政について、大きく嘆いていた。

 我々現代の心ある中国人は、チベットとその文化を尊敬している。

 だからこそ、鉄道も敷くし、投資もする。

 だが、ボタンの掛け違いと、強欲な人々の暴虐と、それを取り締まることをしないチベットの党の姿勢によって、大日本帝国が作った満州国とおなじことになった。

 いくつもの残虐な事件が起きた。

 自分はその共産党の教育を、面従腹背で受けた。

 中国がいかにいびつか、それをこうやって留学した国際社会の場で感じてきた。

 たしかに我々は大陸の血だ、デリカシーに欠けるところはある。

 だが、あのチベットと天安門はひどすぎる。


 
 沓木は、それを聞いて驚いた。

 成は、幸せに暮らす子犬のような愛嬌のある優しい眼をした男だ。

 背はそれほど高くなく、華奢な体つきだった。

 それでも、自分たちをデリカシーに欠けると言う。


 
 沓木は胸を打たれずにはいられなかった。
 


 そこで、沓木は口を開いた。

 日本も、かつて満州国に理想郷の夢を描いた。

 しかし、その夢を書いた男は、日本人の強欲に、日本は4島だけの小国になるだろうと嘆いて去った、と。

 知っているだろうが、この世は地獄だ。

 だが、魂は永遠だと信じたい。

 そして、同じように、苦しみと理想を、共有したい。


 
 成は、大きく深く頷いた。

 なんとも慎み深い男だった。


 
 そして、この会議の運営を行う教授が、露天風呂で語り合っていた沓木と成に声をかけに来た。

 戦略的互恵関係と、かつて言った。

 たしかに経済の理想は、正しい判断が自然に生まれ、見えざる手で調整を行い、最良の状態を導くという。

 だが、人間の一生はそれに任せるには、あまりにも短い。

 経済はミクロだのマクロだのというが、究極的にはつながっている。

 そのなかでは、あまりにも全てが緻密で膨大すぎて、人は結局、魂の永遠を、その俗世の外に信じなければ、耐えられない。

 そう思うよ。


 
 日本の大学のその教授は、息を吐いた。


 
 もう大きな戦争などないと皆信じ切っている。

 だが、日本で現在整備が進められている防災放送にしろ、無駄に思える道路や空港の整備も、結局は誰も表だっては言わないが、有事を見越してのことだ。

 余り知られていないが、有事の際に放送される有事を知らせる警報音も、すでにウェブでは公開されている。

 数分で日本に届くミサイルを、中国も北朝鮮も持っているし、ロシアはいつ政体がおかしくなるかわからない。

 そこで日本は、自身を守ろうと必死だ。

 ゲリラ対策に陸上自衛隊も訓練をしている。

 そして、海上自衛隊は弾道ミサイル防衛のためを含んだイージス艦をそろえている。



 だが、それは、自身を守るためであっても、多くの歴史で、それにつけこんで自衛を理由に軍備を拡大し、さらには戦争さえ仕掛ける例はあった。

 同じことは中国にも言える。

 抑止のためといいながら核兵器を持ち、弾道ミサイルを持ち、大きな人民解放軍に、近代化として武装を強化している。

 互いに互いを脅威と言い続け、互いに軍備に投資を続けている。

 これはチキンレースなのかも知れない。

 どちらがその軍備拡大で経済を破滅させるかの。

 かつての米ソ冷戦と同じ構図が、生じている。



 悲しいことだ。

 日本人は中国の共産党がいけないという。

 だが、程度の差はあるが、日本も、だれがどう国をどのように制御するか不明確な官僚制度と、それと結託した政界と財界の連立で動いている。

 その結果、日本では3万人以上が毎年自殺し、儲かっているはずの企業は社員の怪我すら治しもしないし、本当に国を支えている中小企業も経営が立ち居かなくなりつつある。

 それにかわる情報産業も、アメリカという外圧がなければ、なんの規制緩和もなく、たんなる利権維持だけに狂奔している。

 どちらも地獄だ。


 
 だからこそ、君たちに期待しているよ。


 
 教授はほほえんだ。



 
 その温泉の合宿の夜を過ぎ、沓木と成は国に帰り、ともに外交官僚となった。

 成は、外交を中心にしながらも、その能力と実直で温かい心で着々と支持を集め、次々と昇進し、そして多くの論文で中国共産党のなかに成潮功ありと目されるにまでなった。

 沓木も、分析を中心としながらも、霞ヶ関の人事交流で防衛省にも行ったし、外交分析についても能力を発揮した。

 そして、沓木の人生を決定づけたのが、ある休みの日、まだ結婚していない沓木が家族連れに混じって一人で回転寿司を食べているときに、成からかかってきた電話だった。

 共産党のなかでの沿岸部と内陸部の対立は一般にさえ知られていたが、そのなかで、中間として香港系の人間が初めて党の指導層に入る、というのが電話の内容だった。

 全人代、中国における最高会議の直前だった。

 沓木は、最重要の情報源である成を守るべく、別の筋にも確認しようとし、回転寿司の皿も伝票もそのままにして、五千円札をレジにたたきつけて駆けだした。


 夏が近づく夜だった。蒸し暑く、東京の夜はどろりとしたタールのような闇を抱きながら、それを下の灯で照らされ、妙にぎらついて不気味ですらあった。

 自前の携帯の国際電話の料金が気になったが、こういった電話を外務省の電話では出来ない。外務省の電話はマークされていて、傍受の可能性があるからである。

 個人持ちの電話で、情報源の個人持ちの電話とするしかない。

 中国共産党、中国国務院と中国の経済人との電話で、その情報の裏を取り、そして沓木は上司であるチャイナスクールのトップ、アジア大洋州局長に報告した。

 外務省はすぐにレクと呼ばれる報道記者との会合を始めた。

 この情報を中国の外でつかんだ人間は、世界中で沓木が初めてだった。



 これで、外務省アジア局に沓木ありとされることになった。

 もちろん、大きな揶揄、嫉妬、批判にも晒されるようになった。

 しかし、沓木は負けなかった。

 成は、同じ魂を持っている。

 そして、そのために引っ張り上げてくれたのだ。

 自分だけ逃げてはいけない。



 その結果、こうして官邸に詰めるスタッフにまでなった。

 目の前には日中首脳ホットラインの端末。

 普段は最優先ラインのために、LINKのLEDランプが点灯しているはずだった。

 そして、このランプを、成も見ているはずだった。

 長い時間を経て、沓木と成は、日中首脳のホットラインによる電話会談の地ならしをする要員にまでなったのだ。



 そして、今回の事件である。

 LINKが途絶え、ランプが消灯するとともに、防衛省から官邸に報告が入った。

 各省庁・各自治体の連絡官が並ぶ官邸オペレーションルームでは、正面の大スクリーンにP−1の撮影した画像が繰り返され、また自衛隊の弾道ミサイル迎撃指揮官が、展開準備態勢に入ったことが報告されていた。

 相手は米ロほどではないとはいえ、核搭載弾道ミサイルをいくつももつ国である。

 日本は自衛隊を持つとはいえ、弾道ミサイルのような決定的な兵器を持たない、受け身の国である。

 そして、攻撃は最大の防御であるとの通り、逆に防衛のための装備は高価で、なおかつ扱いが難しい。

 
 それでも日本は、備えつつあった。

 
「参事官、なぜでしょうね。ここにいる皆が、悪夢であってほしいと思っている。

 でも、事態は悪化を続けている」

 瑚珠に、沓木は頷いた。

 
 ホットラインのLINKランプは消えたままだ。




 コーヒーカップに向ける手も、どうしてもこの危機と情報不足に苛立ち、こわばってしまう。


「鈴谷公安局長は?」

「いつものとおり、出かけているそうです。ただ、メールで一言、参事官へ」

「なんだ?」

「『ホットラインだけを信じろ』だそうです」

「そりゃそうしたいさ」

 沓木は声を裏返らせて嘆いた。

「でも、相手は世界第3の大国で、もうすぐ第2になるかも知れないんだ。

 もしやと思うさ」

「そうですね」

「とにかく、情報収集を頼む。外務省関連は私も当たってみる」

 そのとき、瑚珠の携帯が鳴った。

 彼女の表情が見る見るうちに変わっていく。

「どうした!」

 沓木の声に、瑚珠は、ロケーションフリーと呼ばれる無線接続の液晶端末を見せた。

「海上自衛隊の航空護衛艦〈ひゅうが〉に中国海軍の潜水艦が潜航したまま接近、哨戒機の投下した警告弾を無視して現在も追尾中」

 沓木が読んだ。

「そうですよ! なんですかこれは!」

 瑚珠は叫んだ。

「落ち着こう」

 沓木はしかし、拳を握った。

「でも、このままでは人命が!」

 瑚珠の声に、彼は口をゆがめた。

 そこに、官邸秘書室の事務官が『第3回会議を開きます』と声をかけに来た。


 
 官邸オペレーションルームでの会議は、当然紛糾した。

 矢面に立ったのは、沓木だった。

 ホットライン不通が特に問題だった。

 中国がその気になれば、日本は二十分で弾道ミサイルの雨を浴びて消滅するんだぞ、と叫ぶものもいた。

 しかし、と沓木は苦しく述べた。

「事態を拡大させると、不測の事態が」

 もうそんなものはとっくに起きているではないか!

 罵声が飛ぶ。

 日本よりもそこまで中国様が大事か、チャイナスクールは!

 とも叫ぶものすらいた。

 日本は再び70年前の焦土になるんだぞ!

 それでも中国を信じろというのか!

 
 沓木は耐えた。


 
 それでも、LINKランプは点かない。


 
 自衛隊はついに、防衛出動準備命令を発令する手続きに入った。

 しかし、石岡総理は、沓木の窮状にアイコンタクトして、口にした。



 命令の発令は、ホットラインの回復が絶望となったときに正式とする。


 
 それが、沓木を最後の一線で救った。

 石岡は、それだけ冷静な判断をする男だからこそ、総理に上り詰めたのだ。


 
 沓木は疲れ切っていた。

 官房長官が『休め』と命令し、一度帰宅することになった。

 警視庁警備部のSPが運転と同乗をする車で、築地の自宅のマンションに帰った。

 いつ頃か官僚制度批判で官舎はなくなり、妻の実家からのプレゼントでようやく手に入れた中古のマンションに、不釣り合いなほど磨き抜かれた要人輸送用の黒塗りの車で帰ることになった。
 

     ■
 

 お父さん、お帰りなさい!

 玄関を開けると、息子たちがまだ起きていた。

 中古マンションのリフォームがはやっているとはいえ、古い設計の低い天井の下に、すこしずつ買い集めたばらばらの家具がならぶ、いつもの狭い自宅である。



 飛行機や電車、車などの乗り物は、世界のほとんどの男の子が好むものである。

 上の子はネットで騒がれている軍事関係の速報ニュース記事に釘付けだと妻が言う。

 だが、それでも直接当事者である父に聞かないところが、ああ外交官の子だなと思う。

 あと数年で、大学受験、そしてできれば外交の道に入ってほしいと沓木は妻に話していた。

 浪花節は世界共通だ。そして、それを理解する魂も。

 沓木は背からスーツを脱がせた妻に、息を吐いた。

 疲れたでしょう。

 妻のそんな心使いに、沓木は頷いた。

 正彦は? と沓木は下の子のことを聞いた。

 テレビの戦闘機のニュースに興奮しちゃって、まだ起きているの。

 着替えた沓木がリビングにはいると、小学生の正彦は戦闘機のプラモデルを作っていた。

 プラモデルの箱には『トランペッター』の文字。

 中国のプラモデルメーカーである。

 ドイツ・レベル社の下請けのようでありながら、独自にも製品を作って、中国模型界の水準を押し上げている、と嬉しげに言っていたのが、他ならぬ成だった。

トランペッター (企業) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BC_%28%E4%BC%81%E6%A5%AD%29

 成の家でも、こういったプラモデルを子が作っていただろう。

 成の子は上が女の子だが、下は正彦と同じぐらいの年だ。

 そして、成もまた、模型好きだ。

 沓木は胸に痛みを感じた。

 あの官邸で荒れ狂っていた様々な省庁と議員一人一人、全て親もいて、子もいて、その全てが、中国の製品をはじめとした輸入物資で衣食住を賄っている。

 そして、中国も、日本のその調達のカネで、潤っている。

 馬鹿な映画脚本家が、馬鹿なネットの雑魚どもの発言に浮かされたのか、日本鎖国などという馬鹿な映画を作っていた。

 北朝鮮やミャンマーですらそれが難しいというのに、この報道が自由な日本でなぜそれが無理だとわからないのか。

 これがなんとかの壁という奴だろうか、と沓木は息を吐いた。


 
 妻が栄養ドリンクを持って来た。

 ありがとうといって、飲んだ。

 辛い味が、今日は甘く思えた。

 その目に、テレビの画面が映った。

 あっ、と思った。

 自衛隊の基地前や、滑走路の終わりのフェンス外に、マスコミのカメラが並んでいる。

 すこしでも自衛隊が動けば、反応するつもりだろう。


 テレビは『日中衝突?』と煽っている。
 
 報道の自由とはいえ、これはあまりにもひどすぎる。

 たしかに官邸のテレビ放送監視の部署の者が報道とウェブの過熱ぶりについて報告していた。

 異常な過熱だが、報道の自由があるからどうにもならない、と。


 しかし、ここまでとは!

 
 そこまで衝突させたいのか!

 
 衝突か、じゃない。

 
 衝突するところを取れば、視聴率が取れてスポンサーが喜ぶのか!

 
 それが経済か!


 これは報道に名を借り不安増大を使った利殖ではないか!


 こんな連中が国民の財産の電波を使っているのか!

 
 沓木は、喉で叫んだ。

 そして、そばにあった新聞の束をひっつかみ、投げた。

 そして、ティッシュの紙箱も投げつけた。

 叫びはまだ続いた。

「お父さんやめて!」

 正彦がおびえ、上の子が部屋から飛び出してきて止めに入った。



「すまない」

 沓木は、肩で息をしていた。


 
 沈黙が、あった。

「大丈夫だよ」



 沓木は、ソファにがっくりと座った。

 息子たちも、座った。
 
 沓木は、疲れ切っていたが、話し出した。


 
 大人にも、真のともだちといえるともだちができることがある。

 でも、それを裏切ったら、その罪に時効はない。

 パパも、子供のころは、バカだったから、何度も裏切られたし、裏切った。

 悲しいことも、苦しいこともあった。

 それがあって、ようやく、ママと出会った。

 他にも、大事なともだちがいる。


 
 それが、いま、ぎりぎりだ。


 
 子供たちは、真剣に聞いていた。


 
 でも、大丈夫だよ。

 そういう、たましいのともだちが、世界を作っている。

 そして、その魂は、世界が壊れても、決して壊れないんだ。


 
 子供たちは、考え込んでいた。


 
 すまない。先に寝るよ。


 
 沓木が眼を細めると、息子たちは、パパ、お休みなさい、と声をそろえた。


 
 夫婦のベッドルームにはいると、妻が、別のスーツを持って来た。

 明日これを着ていって。きっと大変でしょうから。

 そのときにあの安売りスーツじゃいけないわ。


 
 電話がかかってきた。

 マスコミだった。

 妻が出て、取材はお断りしますと答えて受話器を置いた。

 そして沓木は妻に視線を走らせ、妻は電話のモジュラーコンセントを抜いた。


 
 これで、沓木の家は、電話が不通になった。

 外務省や官邸からの電話は沓木の携帯に着信するので、問題はない。


 
 そして、沓木は妻を見た。


 
 その小柄な身体を、彼は抱いた。

 あなたが信じるものは、私も、子供たちも信じているわ。


 
 妻は、小さな身体ながら、そうしっかりと応えた。


 
 沓木は、目頭を押さえた。


 
 そして、ベッドに沈んだ。


 
     ■


 
 長い日曜日が終わり、月曜の朝がやってきた。


 
 SPに起きたと携帯で連絡し、朝の支度をして、SPの迎えを受けて家を出て、車に乗った。


 
 途中の街の風景は、いつもの朝のラッシュだった。

 だが、沓木が学生だったころより、少し人が少ない。

 これが少子高齢化という奴なんだろうな、と思う。


 
 官邸にはいると、いつも情報の検討のペアをやっている外務省アジア局分析官・速水が出迎えた。

 背の高い、眼の切れた男である。噂では車いじりが趣味といわれているが、それを伺わせるような独特の鋭さがある。

「防衛庁情報です。中国空軍はCAP、戦闘空中哨戒に入りました。また、ネットには米国防総省筋との名で中国弾道ミサイル部隊が展開、発射準備に入ったとあります。

 証拠に偵察衛星からの映像が公開されています」

「それで官邸前に右翼がいるのか」

「左翼もですよ。機動隊が対応して引き離していますが、表は七十年代みたいです」

「平日なのに、仕事はどうしたんだあいつら」

「ともかく、官邸まで地下の合同庁舎からのトンネルを使って正解でしたね」

 官邸と霞ヶ関の合同庁舎の間には、秘密の連絡トンネルがあるのだ。

「ああ。それで、鈴谷公安局長は?」

「あいかわらず所在不明ですが、瑚珠参事補を呼んだようです」

「まさか」

「やめてくださいよ。これ以上いろいろあったら、国家ごとアンコントローラブルです」

「そうなっていると思ったが」

「ともかく、今日の第1回会合は9時です」

「すごいな。こんな早起きな役所なんて、旧海軍省みたいだ」

「うわ、それ、ぞくーっとしますよ」

「そうだな」



 部屋に入った。

 相変わらず、ホットラインのLINKのランプは点かない。

 石岡総理は、会議にはすこし遅れてくると言うが、しかし総理職の激務はそばで見ていて知っている。

 この国に現人神はいなくなったが、しかし総理は神に最も近い無限の体力と精神力を要求される。

 そして、その総理が号令すれば、まだ引き返せる。

 総理の判断を、助けなければ。


 
 そのとき、ドアをノックされた。

「どうぞ」

 現れたのは、瑚珠だった。



「私は久しぶりに徹夜でしたけど、鈴谷局長は自衛隊情報本部より先に感づいていたようです」

 沓木は聞き入った。

「金盾(きんじゅん)というものはご存じでしょう。

 赤いエシュロン、情報の長城とよばれる中国共産党の電子検閲システムです。

 2008年に完成していましたが、この事態を仕掛けた者は、その金盾と、もとから欧米、そして日本にもあった米系のエシュロン傍受検閲システムを組み合わせたのです。

 巧妙に情報の途絶と、偽情報のリークで、この事態は作られました。

 おそらく、P−1に観察された中国空軍のパイロットは、P−1にソフトキル兵器、航空機の制御システムを妨害し、墜落させる兵器があるという噂を聞かされていたのでしょう。

 世界各国のほとんどの軍用機の脱出装備には、自衛用の拳銃も通常備えられています。

 彼はJ−10に仕掛けられた墜落に沸騰した頭で、拳銃を振り回しました。

 そして、それをもとに中国空軍が動いたのも、その情報と、日本が天外天を一挙に奪取するという偽情報を中国情報部がつかまされたのです」

「ばかな」

「ええ。彼らはそんな罠にかかるほどレベルは低くありません。

 ですが、この事態の黒幕は、その説得力を持っていたのです。

 覚えていますか? 一週間前、日本とロシアが合弁してつくったシベリアからの天然ガスのパイプラインが漏出の危険があるために閉鎖されました。

 そして、その時と同時に、日本の戦略備蓄用の石油やガスの調達予算を石岡総理が改革の名の下、見直すと発表しました。

 戦略的互恵関係を強化することで、備蓄に回していた予算を進みすぎる少子高齢化問題対策にに回すと」

「それか!」

「そうです。日本が中国の天然ガスを奪おうとしている、それが中国に現在存在する日本脅威論です。

 そのタイミングが完全に決まりました。

 中国の潜水艦による航空護衛艦追尾は、実は中国の潜水艦は未だに戦略・戦術データリンクの整備が遅れ、こういった事態の悪化を知らず、通常通りの偵察訓練を行っていた。

 タイミングが最悪です」

「そしてウェブとマスコミか」

「ええ。意図的リークと意図的遮断。

 Googleでさえ、利潤のためには中立といいながらGoogle八分と呼ばれる検閲をします。

 現代の情報の自由は、虚像に過ぎません。

 逆に、匿名の海に潜みながら、自作自演で火のないところに煙を起こせる時代、それが現代なのです」

「その首謀者は」

「鈴谷局長の指揮のもと、米政府をはじめとした対テロネットワークで追跡をしています」

「テロだったのか!」

「いえ、それは実行犯に過ぎません。

 実行犯に資金を提供したのは、国際的に資金を移動し、動乱による資源価格の変動を利潤にする、小規模の人間による『ファンド』に名を借りた『経済海賊』とでも言うべき存在です」

「それはたしか、この前のG8で言葉が出たが、それか!」

「ええ」



「ということは」

 瑚珠は頷いた。

「『まさか』と思っていたものが、『もしや』と思い、そして『もしも』のためにと動きだし、そして『万が一』といいながらその動きが増幅される。それがこの情報世界の大国同士の信頼が揺らぐことの最大の危険です。

 中国共産党は沓木参事官のご存じの通り、無理があるし、信頼を裏切ることもあります。

 しかし、彼らもまた、人間であり、魂なのです。

 それを邪魔する組織の改善、それこそが、参事官のお相手の目標だったと存じております」

「ああ」

 沓木は頷いた。

「そうか。さすが公安だ、ちゃんと調べたんだな」

「ええ。その鈴谷局長の言葉です。

 現代の情報社会を生きる者は、夜の霧の中に迷い込んだ飛行機パイロットのようなものだと。

 霧の中、空の星々なのか、地上の街や漁り火の輝きなのかがわからなくなり、上下の感覚を失うことを、航空用語でバーティゴ、空間識失調と言います。

 その解決は、愛機の計器だけを信じ、自分のあやふやな感覚を一度捨て去ることとされています。

 それと同じだそうです。

 愛してもいないものの言葉の霧にだまされるより、愛する者のシグナルだけを信じろ、と。

 そうすれば、霧はいずれ晴れる。

 それが、あのメールだったようです」

 沓木は、頷いた。

「悪夢でした。しかし、夢ときというものがあります。夢を見ても、その意味を上手く取れば、それは吉兆にもなり得るのです。

 そして今、それが起きようとしているのです」

 瑚珠はそういうと、息を吐いた。

 昨日の緊張した表情とは違い、確信に満ちた強い瞳と、クールな顔立ちが、この運命を解いた女神のように、朝日に輝いていた。


 
 そして、日中ホットラインの緑色のLINKランプが、点灯した。


 
 沓木は、その受話器を取った。



<END TEXT>
55.1枚08/05/16(金)00:03
55.6枚08/05/16(金)01:40

読みました

 ↑当テキストは無料ではありますが、このページのテキストと写真は著作権は米田淳一が、リンク先のページの著作権はリンク先ページの所有者・作成者が保有しております。
 もしここまでお読みになったら、この読みましたリンクの1クリックで十分です。それでさらなるモチベーションになりますので、よろしければクリックをお願いします。

<戻る>