母の被爆体験記

私は被爆2世です。
私の母は9歳のとき、被爆しました。

私が幼少の頃から、私には、隠さず被爆の悲惨さを話してくれていましたが、

「子供じゃったけぇ、人前で語れるようなことは覚えとらん。
 私なんかより、もっと、きちっと話ができる人が、語り部さんをしてくれてのほうがええけぇ。
 それに、比治山の影じゃったけぇ、ひどい火傷もしとりゃあせんし、家も壊れたけど、焼けるこたぁなかった。
 ほいじゃけぇ、もっとひどい目にあった人のことを思うたら、うちなんかが、人前で話すことはできんけぇ」
と人前で多くを語ることはありませんでした。

もしかしたら、自分が被爆者であり、つまり、娘の私が被爆2世だと言うことを、わざわざ公表したりして、
私の就職や結婚・出産などに影響があったら…と心配して口をつぐんでいたのかもしれません。

それが、被爆して35年たって、私が高校生の頃、人にすすめられ、冊子に寄稿したのです。
「生協原爆被害者の会 広島医療生活共同組合」発行の、被爆体験記「ピカにやかれて」という冊子に。
第5集となる冊子は、その回で「被爆2世を考える」と副題がついていました。

人前で被爆体験を話すのをこばんでいた母が、「被爆2世を考える」というテーマを前に「書かねば!」と思ってくれたのだとしたら、
私は、その想いを引き継いでいかねばなりません。

母が、この被爆体験記を書いたのは、今から28年前、44歳のときでした。
来年、私は44歳になり、私の娘は、母が被爆した年齢と同じ小学3年生になります。
2008.夏


被爆体験記「ピカにやかれて」 〜被爆二世を考える〜 第5集
(生協原爆被害者の会 広島医療生活共同組合)1981年8月発行より

子どものみた原爆 −比治山のかでげでも−

 昭和二十年八月六日朝八時頃、
 空襲警報が警戒警報に変わりました。

 段原国民学校三年生であった私と一年生の弟は、
 戦争が激しくなってからは近くの家に集まり、
 寺小屋のような形で勉強していました。
 その朝も五分ぐらい離れたその家に行きました。
 着いたとたん、家がガチャガチャと壊れ、地震のように揺れ、
 私は家の戸口から中まで三メートルぐらい飛ばされました。

 あたりが暗くてそこにいた子ども達は皆「お母さん、お母さん」と泣いていました。
 少しすると明るくなったので、
 一緒にいた弟を捜しましたがいません。
 壁の下敷きになった子、畳の下敷きになった子、
 私の力で助けられるだけ起こしました。
 それでも弟はいないので、一応家に帰ってみることにしました。
 
 道路は壊れた瓦やガラスで三十センチぐらいうずもっていました。
 下駄はいつの間にかなくなり、
 素足で走るようにして家へ向かいました。
 途中、馬車が動けなくなり馬が目をむいて暴れていました。
 怪我をした人が、
 皆ゆうれいのように手を前にブラブラふって歩くので、
 私の服は血まみれになりました。

 家は大丈夫と思って帰ってきたのに、
 手がつけられないぐらい壊れていました。
 留守番をしていた四才の妹と二才の弟は奥の方で泣いていました。
 玄関は下駄箱が二つとも倒れ、
 ガラス戸や障子がからんでいて、
 入ることも出来ません。
 通りがかりの男の人に頼んで少しのけてもらい助け出しました。

 すると一緒にいた一年生の弟が、
 ずいぶん遠くへ飛ばされたと言って帰ってきました。
 壊れた家へは入れないし、
 祖母が親類へのり団子を買いに行っていたので、
 子どもばかり四人。
 血が出たと言って泣く二才の弟をおんぶし、
 四才の妹の手を引き、
 親類の家へ行くことにしました。

 途中で祖母がすすけた顔でよろよろ歩いてくるのに出会いました。
 祖母は家へ帰ろうと言ったけれど全部壊れて入れないと言うと、
 あきらめて他の人たちが逃げて行く方へついて逃げました。

 途中雨が降り出し、
 よその家の軒先で少しやすませてもらいました。
 そこにはポンプの水があったので、
 口の中をゆすぎました。
 黄色いつばが出てきて気持ちが悪かったのです。

 太ももがざくろのように開いて、
 今にももげそうな人が走っていました。
 私たちが「おじさん、ひどい怪我ねぇ」と言うと、
 それまで知らなかったのか傷をみてすくんで歩けなくなりました。
 大八車に、真黒にこげて顔もわからないような人を乗せて、
 大きな声でその人の名前を呼んでいましたが、
 返事はしていませんでした。

 今の東雲町あたりは、
 れんこん畠とぶどう棚がたくさんありました。
 ぶどう棚の下なら飛行機から見えないと思い、
 その中に入らせてもらいました。

 しばらくすると他の人たちが、
 ここは被服支しょうが近いから爆弾が落ちるかもしれないと言って
 逃げて行きましたが、
 私たちは祖母が座ったとたん腰がぬけたのか動けなくなり、
 そこにいることになりました。

 夜もぶどう棚の下で寝ることになりました。
 夜中になっても避難してくる人が多く、
 危ないと言われたぶどう畠もいっぱいになりました。
 その中には知らない人の赤ん坊を連れている人がいました。
 夢中で逃げていると赤ん坊の泣き声が聞こえ、
 みると母親がかがみこむような姿勢で子どもを抱き、
 かばっていたそうですが、
 その母親は死んでいたそうです。

 広島駅の方の空は真っ赤になり、
 あちこちが燃え出したことがわかりました。

 次の日、
 広島駅前郵便局の三階にいて被爆した母が、
 頭に大怪我をし、
 意識不明のまま助けられ、
 尾長の学校で気がつき、
 杖をついて大まわりをして帰ってきました。

 八日に姉が大やけどとして、
 今の段原中学校の講堂にいることを
 人づてに聞き訪ねて行きました。
 姉は学徒動員で鶴見橋のたもとで
 建物疎開の整理をしていたのです。
 六日の朝、今朝は行きたくないと言ったのに、
 母が戦争に行っている父のことを思えば休んではならない、
 と無理に行かせたのです。

 姉のやけどは相当なものでした。
 畳の裏に何も敷かずに裸で寝ていました。
 そこでは兵隊さんが治療にあたっていました。
 「兵隊さん、水を下さい」
 と今にも死にそうな声で言っている人、
 「兵隊さん、鏡を見せて下さい」
 と言っている娘さんの顔は真っ黒にこげて、
 眼鼻もわからないほどはれていました。
 学校の防空壕の中には死んだ人が積んでありました。

 姉がうわ言で「米びつに米がない」と言っていました。
 私たち四人の幼い妹弟は恐ろしくて、
 あまりそばへ寄りませんでした。
 その夜、姉は亡くなりましたが、
 死んでも当然のような気がして涙も出ませんでした。

 母の頭の傷は口をあけていて赤チンをつけても、
 なかなか治りませんでした。
 四人の妹弟もデキモノが出来たり、
 下痢が続いたりして、
 足が立たなくなっていましたが、
 助かりました。
 祖母も一年ぐらい寝たきりでしたが、
 杖をついてふるえる足で歩けるようになりました。
 その後の暮らしを書けばきりがありません。
 数年後になっても大正橋の下で貝ほりをしていると、
 人の骨がいくつもありました。
 多くの人が川で死んでいったことを物語っています。

 今、核廃絶、世界平和、を願い生き残っている被爆者は、
 その体験を語り、
 戦争が恐ろしいだけでなく、
 人類の破滅であることを、
 子ども達に教えていかなければなりません。
 と同時に、世界中に訴えていかなければなりません。
 今頃になって、たとえ援護法が制定されても遅すぎます。
 貧しかった、苦しかった、悲しかった子ども時代はかえってこないのですから。

戻る