@ ジョヨボヨ王の予言

 

 

12世紀に東ジャワで繁栄したクディリ王国のジョヨボヨ王は時の宮廷詩人に命じて、古代インドの民族叙事詩をジャワ風に翻案させ、これは「バラタユダ」という名で知られているのだが、このバラタユダはただの文学ではなく、国家統一戦争で大量の血を流させたジョヨボヨ王の懺悔の書であり、そこには摩訶不思議な種々の予言が満ち溢れている。

 その中の一つに、「北方から黄色い人間の軍隊が来攻、長く続いた異民族支配を駆逐し、代わって支配するが、それはJagung (トウモロコシ) 一回限りの短い間である。 その後、男は女のように、女は男のようになり、世は麻の如く乱れるが、やがて白馬にまたがる救世主が登場し、永遠の平和と幸福が約束される。」 → その2を見る

 

これは丁度、16世紀より350年間続いたオランダの統治期間中、何度もインドネシア人はオランダを追い払おうと戦ったが、その都度追い払われてきたにもかかわらず、1942年、日本軍はたった10日余りでジャワ島をオランダから奪い取り、その後インドネシアの独立に繋がることと奇しくも一致している。その間の年表は以下の通り。

 

 

 

17世紀〜     オランダ東インド会社の進出 

 

          

      オランダは16世紀末以来急速にジャワ島に進出。

1610〜 バタヴィア(ジャカルタ)に目を付け東インド会社の拠点を置き、オランダは勢力扶植に成功、マタラーム王国の領土を蚕食。

 

17世紀前半            ジャワ島の情勢

西部…バンテン王国/中部……マタラーム王国、チレボン王国

これら諸王国は盛んにオランダ支配の根拠地バタヴィア(現ジャカルタ)を攻撃したが、オランダはよくこれを防ぎ、逆にバンテン王位継承に干渉して結束を崩した。

 

1755                     マタラーム王国分裂  

オランダは18世紀初めから3次にわたるマタラーム王国の王位継承戦争に介入し、この年の協定で王国をジョクジャカルタ王国とスラカルタ王国に二分し、保護下に入れた。

 

1825〜1830  ジャワ戦争  

ジョクジャカルタ王国のスルタンの子ディポネゴロは反オランダ闘争に立ち上がるが鎮圧される。

 

1942         日本軍によるインドネシア侵攻

 

 

A日本軍の侵攻

 

日本軍のインドネシア攻略は1942年1月のカリマンタン島そばのタラカン島奇襲上陸と、スラウェシ島メナドへの落下傘部隊降下で始まり、3月1日にジャワ島に上陸した部隊は9日には早くもオランダ軍を全面降伏させた。これはインドネシアの人々にとっては驚異で、インドネシアを300年以上にわたって支配したオランダが、たった1週間で降参することとなった。
 ここで人々はジョヨボヨ王の予言を思い起こし、人々は救世主の到来は間近と信じ、日本軍を紅白旗(ブンデラ・メラ・プティ=現インドネシア国旗)と国歌「インドネシア・ラヤ」の大合唱で迎えたと言われている。

 

B    日本の軍政 

 

日本の占領統治は3年5ヶ月に過ぎないが、この期間に日本の統治がインドネシアの社会に与えた影響は非常に大きいと言われている。

ジャワを占領した日本陸軍第16軍はさっそくオランダ軍により逮捕されていたスカルノやハッタ(*)らを解放し、将来の独立の約束と引き替えに日本軍政への協力を取り付けた。

(*) スカルノは後に初代大統領、ハッタは副大統領になる。日本で有名な「デビ夫人」はこのスカルノ大統領の第3夫人。ジャカルタの国際空港も二人の名より「スカルノハッタ国際空港」と名づけられており、現在も10万ルピア札には両名の肖像画が入っている。メガワティ元大統領はスカルノの長女(第一夫人の娘)

 

同時にインドネシア民衆の歓心を買うため、さまざまな懐柔策が採られ、「オランダ領東インド」は「インドネシア」に、「バタヴィア」は「ジャカルタ」に改称された。
 また、オランダ人を全員収容所へ送り、代わりにインドネシア人を役所や企業でかなり高い地位につけたので、彼らの社会進出が飛躍的に進み、さらに、公用語をオランダ語からインドネシア語に改めたことは、インドネシア語を共通語として全国に普及させる上で計り知れないプラスとなったといわれている。

「トナリグミ」「フジンカイ」「セイネンダン」など様々な団体が作られ、動員と統制の訓練が行われたことは、オランダの分割統治によって「ルーズな」構造になっていたインドネシア社会に組織原理を持ち込み、刺激を与え、又、オランダが決して行わなかった軍事教練も行なわれた。

 しかしながら、オランダが築いた中央集権的国家機構は陸軍と海軍の分割占領(ジャワ島−陸軍第16軍、スマトラ島−陸軍第25軍、その他全域−海軍)によって崩れ、経済もオランダの輸出入市場と切り離されたため崩壊、インフレ率は3年半の軍政で4000%に達した。
 にも関わらず軍政当局は米の生産量の3〜5割を強制的に徴用したので、人々は生活苦にあえぎ、加えて、随時「ロームシャ(労務者)」が徴発され、日本軍のために強制労働させられ、その数は約30万に及び、終戦時に生き残っていたのはわずか7万人だったと言われている。

 スカルノやハッタは日本がなかなか具体的な独立の青写真を示さないのに対し不満を募らせていたが、1943年後半、戦局が厳しさを増すと、日本はようやく重い腰を上げ、まずインドネシア国民軍設立の要望に応え、「郷土防衛義勇軍(ペタ)」を結成する。     ここには大団(500人)以上の機構はなく、参謀も養成されず、実際には日本軍の補助兵力に過ぎなかったが、翌44年11月に3万5000人に達したこの第一線の戦闘部隊は、のちにインドネシア国軍の中核を形成する。次いで日本は、9月にスカルノを議長とする中央参議院を設立した。
 戦況が逼迫してくると、日本はさらにインドネシア国民に譲歩を重ね、1944年9月には日本の小磯内閣が将来「東印度」独立を認めると声明、同じ頃、紅白国旗(ブンデラ・メラ・プティ)と国歌「インドネシア・ラヤ」の使用が許可され、独立への期待が高まり、1945年3月、いよいよ、イ日共同の「インドネシア独立準備調査会」が発足。
 6月の調査会の席上、インドネシア側委員スカルノは、インドネシア独立の基本理念として「@民族主義A国際主義B民主主義C社会福祉(社会的正義)D神への信仰」の5つを提唱した。「パンチャ=シラ(五つの基本理念)」と名付けられたこれらの原則は、現在に至るまでインドネシア共和国の国是となっている。

 準備調査を終えたスカルノやハッタたちは、日本南方軍総司令部から8月24日独立という約束を内々に取りつけ、8月14日には「独立準備委員会」の委員21名が任命され、あとは18日の第1回会議を待つばかりであったが、8月15日、日本の無条件降伏となった。

 

 

C 日本とインドネシアの関係

 

 

<年表>

14世紀            スマトラ島のシュリウイジャヤ王国の港に琉球の船が出入りしていたことが歴史書に記されており、このころより日−イ間の交流が始まったと言われている。

1613/1618    バタビア城建設の為、1613年・1618年の2回にわたり長崎のオランダ商館を通じ日本から大工左官が送られる。

1639                                鎖国令により交流が途絶える

1850頃      明治の開国とともに交流が本格的再開

1910頃      第1次大戦を境に日−イ間の交流が密接になる

1941                                日蘭間の関係悪化により在インドネシア日本人引き揚げへ

1942                                日本軍がジャワ島を占領。

 

交流の始まり

 

14世紀にスマトラ島のシュリウイジャヤ王国の港に琉球の船が出入りしていたころより日−イ間の交流が始まったと言われているが、その後豊臣秀吉の時代に朱印船貿易の制度のもと、南洋の各地にも日本船が進出した。

一方,この頃アジアへやってきたスペイン/ポルトガル人をはじめとするヨーロッパ人達が東南アジア各地における勢力拡大や拠点作りの為に日本人のすぐれた戦闘能力や土木建築その他技術を必要としていた。よって戦国の世で禄を失った浪人たちが,外国の用兵として雇われて南方へ赴いたり、大工,左官、鍛冶などの職人がその器用さを買われてヨーロッパ船で南方各地に渡り、日本人町と呼ばれる一角が出来るほどまでなったとのこと。

 

 

バタビア城建設

17世紀よりオランダ東インド会社が勢力をもった後、当初、東インド会社はジャワ島西端のバンテンに商館を構えていたが1619年に現在のジャカルタに新しい町、バタビアを建設しここに拠点を移した。この植民地都市の建設に先立ち1613年・1618年の2回にわたり長崎のオランダ商館を通じ日本から大工左官等、約120人の契約移民が送られたと言われている。その他独自のルートで渡航した商人たちも居住しており,1623年現在約160人の日本人が居住していたと言われている。

よって独立した日本人町が作られるわけではなかったが、ヨーロッパによる植民地化の過程で日本人は関与していたが、1639年の鎖国令により、日本からの渡航者が途絶えた。しかしながら東インド会社との貿易は制限つきながら認められており、日本船はバタビアを拠点として発着していた為日本からの積荷はこの地にも数多く搬入された。

 

明治の開国 / からゆきさんとTOKO JEPANG

 明治の開国とともに日−イ間の交流は本格的に再開されたが、この時期に最初に海を渡ったのは、腕のいい職人・野心に燃える商人・冒険を求めた侍のように新天地を求めての渡航ではなく多くはその意に反して、時にはだまされて海を渡った人たちだった。

 貧しさの為、東南アジアに渡り「からゆき」さんとしてその身をひさいだ女性が多くあったといわれ、当時植民地都市と言われるような町や、ヨーロッパ資本の農園や鉱山で賑わった地域には必ずといっていいほどヨーロッパ人・華僑の金持ち相手の日本の娼館があり、明治末期にはインドネシア全域で1500人いたと言われる。

 これに続き生活必需品をからゆきさんに供給する為に少数の商人が渡航し、その後第1時産業革命を終えた明治の後半頃からは現地の住民を対象に日本製の雑貨や薬を販売する商人たちの渡航が見られるようになる。

その多くはブラジル/ハワイへの移民同様,農家の次男・三男坊で国内で生きていく道がなく止む無く海をわたったものであるが,中には南方に新天地を求めた高学歴のものなどもいたと言われている。

 いずれにせよ、南米・北米への移民と違う点は、ネシアへ行った人たちは、「移民」と言う形はとらず、あくまで日本国籍を保持したままの「出かせぎ」であった点、さらに農業よりも商業を生業とするものが圧倒的に多かった。

 彼らの多くは裸一貫で渡航してきて行商・雑貨商をして腰を落ち着けていったが、当時インドネシアでは工業製品のほとんどはヨーロッパからの輸入に頼っており、これらは当然高価であったが、日本が産出する製品は安価で土地の人々にも入手可能であった.。また日本人はインドネシア人に対しても腰が低かった為、住民には「TOKO JEPANG(日本人の店)」として親しまれたと言う。16〜17世紀の日本人の進出は、ヨーロッパ人植民地者の利益と深く結びついたものであった。

 この時期の渡航は日本の国策といったものとは全く無関係で行なわれた。「脱亜」で常に欧米を向いていた当時の日本は、この地域にはほとんど関心を持たず、政府レベルの正式関係は皆無であった。

 

日本の目がアジアへ

日露戦争終結以後、第2時産業革命により生じた工業製品の市場を求めて、企業や銀行の経済進出が見られるようになり、1909年にはバタビアに日本領事館(1919年に総領事館)が開設された。その後1913年バタビア日本人会が作られ、その後日本人学校が1925年にスラバヤに1928年にバタビアに開設された。

 尚、これらの在留邦人は当初は法的に華僑やアラブ人と同等の「東洋外国人」と呼ばれる人種グループに入れられていたが、1899年に、オランダと日本との間の政治的取り決めによりヨーロッパ人と同等の地位が与えられることとなった。

 1910年頃、第1次大戦を境にして、日本とインドネシアの経済的関係が急激に密接となり、1932年には宗主国のオランダを上回り、翌年には東インド会社の全輸入量の30%以上を占めることとなった。

 

2次大戦へ

 日本の輸出拡大が宗主国オランダの地位を脅かしていたのと同じ頃、日中戦争の拡大に批判的なアメリカは日本に対して主要原料、軍需資材の輸出削減という経済制裁を行なった。

 これを受けて日本政府は1940年8月からオランダ植民地政庁との間に第2時日蘭会商を行ない、インドネシアから資源を獲得する方法を模索したが、翌41年6月に交渉決裂、戦争への道へ進んでいくこととなった。ますます緊張する日蘭関係の中で翌7月にはオランダ政庁は日本人資産の凍結を行い、在留邦人は経済活動が出来なくなった。

日本政府は9月に在留邦人に対して引き揚げ命令を出し、引き上げ船の派遣を決定。1939年の調査によるとインドネシア在留日本人は6500人、その内5000人がジャワ島在住であった。

引き揚げに当たっては一人当たりわずかのみの持ち出しを許可されただけで、ほとんどの者がこれまで築いた資産を失っての帰国であった。彼らが残した資産はやがて開戦と共に「敵産」としてオランダ当局に接収され、その後日本軍がこの地を占領した際、再びそれが「敵産」として日本軍に接収されたがとうとう最後まで本来の所有者の手には戻らなかった。

そして1941年12月の開戦時には引き揚げ船を待っていた日本人がこの時点でなお、2000人残っていたが、彼らはオランダ官憲に逮捕され、収容所に送られた。翌42年1月、領事館関係者等一部のものを除いて彼らはオーストラリアに移送された。

 そしてまもなく3月、日本軍がジャワ島を占領した。

 

 現在日本はインドネシアに対する最大の援助国であることもあり、インドネシアにおける現在の日常生活の中で、日本人とインドネシア人の立場を比較すると、やはり日本人が上位に立つ場合が多いと思われ、自分自身も知らぬ間に必要以上に横柄になっている時があるように思われる。

しかし今回レポートを纏める中で、改めて 「インドネシアにおける日本の立場は昔から“現在のようなもの”では無かった」ということを再認識し、現在の日イ間の関係/日本人−インドネシア人の立場の違いも、これは歴史上一時的なもので今後もしかすると立場が逆転という事もありうるのでは?という疑問も湧いた。

 いずれにせよ現在の日本人の立場は日本人の先人により築かれたものであり、当然のようにその立場を謳歌するのでなく、インドネシアの一住民として、インドネシアについての知識・理解を深めていくよう日々努めていこうと考えた次第です。

                

 

 

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