優しい声で名前を呼んで?





「まったく……人に心配ばっかり……かけさせるんだから……」

 社内で倒れた司(つかさ)に呆れながら、あたし(恵理)は引き摺るようにして、自宅のマンションへと連れて来ていた。

 ――ずっと司を見守っていた。

 賃貸マンションを追い出され、友人宅を転々として結局は行く所も無くなって、会社の仮眠室で居候を決め込んでいた事も知っていた。

 会社の守衛さんに、司の事を黙って見過ごしていて欲しいと直接頼んだのもあたし……

 自分の過失を認めない……そんな生意気なコドモに、お姉さんからチョッとお灸を饐えて遣ろうと、少なからず内心はそう思っていたのも確かなの。


  だけど、見守っているだけなのはもう終わり。


 このまま放っては置けない。

 こうなってしまった原因の一端はあたしにもあるもの……

 あたしは自分のベッドで眠っている、司の寝顔をずっと眺めていた。

 三度の食事さえまともに摂っていなかった。

 あたしは、司に何か食べさせようと、お土産だと言っては何度もお菓子を部署内に持ち込んでいた。

 誰にも気付かれないように。

 誰にも疑われないように……

 それは司本人でさえあたしの気遣いを察知出来ないほど、自然に……

 あたしの計略は見事に的中。

 けれど、的中し過ぎて肝心の司までもが、あたしの気持ちに気付いてくれてはいなかった。

 青白く、痩せて生気を失った顔。ささくれ立って乾いた唇。剃り残された無精髭……

 馬鹿……こんなになるまで意地張って……もっと早く何とか出来なかったの?

 あたしは……いつだって傍に居たのに……

 司の事を見ていたのに……

 結局倒れた今でさえ、あたしの事に気付いて貰えない……自惚れだとは思うけれど、それでも何だか悔しくなる。


 携帯から流れる音楽に、慌てて部屋を移動した。

「もしもし……?」

―「恵理さん? 仕事中だった?」

 彼――からの電話。

 何気なく腕時計に視線を落した。

 時刻は午後の休憩時間。

 数日前に彼から貰ったブランドの華奢なバングル型腕時計。イミテーションではない本物のジュエリーが幾つも鏤められている。

 もっと華やかなものをと彼は言ってくれたけど、あたしはショーケースの中にあった、一番無難なデザインを選ばせて貰っていた。

「う……ううん。大丈夫よ?」

 休憩中だって知っている癖に。そんなに気を遣わなくっても時間なら大丈夫。

 ……時間だけなら『大丈……夫』……?

 一瞬、あたしの頭の中で、司の寝顔がフラッシュバックした。

 男を自分の部屋に引き込んで……この状態のどこが「大丈夫」なの?

 あたしは自分が嘘を吐いてしまったような錯覚を起こした。

 何だか後ろめたくなって、自分が厭になって来る。

―「少し時間が取れそうだ。良いワインが手に入ったから、今夜、食事でもどう?」

「隆章(たかあき)さん……」

 あたしは彼の名を呼んで、手にした携帯を耳から離した。

 そして、司の眠っている部屋を見詰める――

 司……

―「……恵理……さん?」

「……ごめんなさい……今日は少し体調が悪くて……」

 このまま司を放って置く訳にはいかなかった。

 だけど、傍に居ても、あたしは司に何もしてあげられられそうもない。

 あたしが何も出来ない事は十分承知しているのに。

 なぜか、素直に隆章さんのお誘いを受けられなかった。

―「そう。残念だな……」

「ごめんなさい」

―「いや……もしかしてこの間の事を怒ってる?」

 携帯の向こうで困惑した隆章さんの声がする。

 前に会った時、隆章さんはあたしの部屋に行きたいと強請った。

 婚約者であればそれはごく自然な成り行き――

 けれどあたしは頑なにそれを拒否した。

「ううん、違うわ」

―「……ならいいけど……」

 優しいのね……?

 あたしの胸がチクリと痛んだ。

「本当に、ごめんなさい」

 あたしは謝るフリをして、隆章さんの通話を遮った。

 隆章さんにそれ以上の会話をさせないように――

―「……いいんだ。また連絡するよ……じゃ」

 隆章さんは名残惜しそうに携帯を切った。

「ゴメンナサイ……」

 もう一度、あたしは微かに呟いた。

 家事さえまともに出来ない女なんて……きっと貴方は、あたしの事を軽蔑するわ……

 それが隆章さんを部屋に入れる事が出来ない、情けない理由……



「……ン?……ココどこだぁ?」

 寝室から寝惚けた司の声がした。


「……本当に美味しい……」

 あたしは司の作った手料理に改めて感激した。

 余りの空腹に司が作ったものは、サッと手早くパスタとサラダ。

 それに、何故だかお味噌汁。

「俺が飲みたかったから」

 妙な取り合わせだったけれど、司の味付けは中々のもの。


「自炊……しないの?」

 司の探るような視線が気になる。

「……忙しいもの……」

「いつもソレだな?」

「え?」

「業務でも、忙しいから、忙しいから……って、課長はいつも逃げに走ってる。それに自分に余裕を持たせてもいない。いつも切羽詰った顔してる」

 そう言って、眉間に皺を寄せた顔をした。

 それがあたしだとでも言うの?

「だって……」

 言い訳しようとしたあたしを、司は更に追い込んだ。

「時間が無いんじゃないんだ。作ろうとしない。作ろうと努力もしないで、逃げ出してるだけなんだよ」

「……」

 言い当てられて俯いてしまう。

「何よ……アンタにあたしの何が判るのよ……?」

「さあね?」

 ――冷たい言い方。



「ねえ、ねえ……」

 食べ終わると、司はあたしに擦り寄った。

「あに?」

 司の変わりように、あたしは内心驚いた。

 瞳がキラキラ輝いて、何だか無邪気な猫か、コドモみたい。

「ありがとーのキスは?」

 司はそう言って自分の頬を指差した。

「……」

 全く……考える事がコドモだわ。

 呆れるほどに純粋なのね。

 でも、ホッペなら……いいかな?

 軽い気持ちでそう思って、あたしは司との距離を縮めた。

 司の悪戯っ子みたいな顔が近付いて来る。

 本当は司がじっと眼を閉じて、あたしが来るのを待ってくれているのに……

「ん……ン?」

 ちゅっ!

 頬にあたしの唇が触れる瞬間を、狙ったように司が顔の向きを変えた。

 絶妙のタイミング。

「んっ? んん……」

 司の唇に触れて、あたしは慌てて逃げ出そうとする。

 けれど司は両腕でしっかりとあたしの身体を抱き締めていた。

「司……」

「んあ? 課長、俺のコト呼び捨て?」

 あたしの隙を突いて、挑発的な鋭い視線を投掛けると、一本取ったぞとばかりにすぐに嬉しそうな顔をした。

 そういうトコロがコドモなのよ。

「アンタこそ、どうして肩書きであたしを呼ぶの?」

 納得出来ない。

「そ、その、『課長』って言うの、止めてくれない?」

「だったら、どう呼べば良い?」

「……」

 考えていなかった。こんな状況になるだなんて。

 だけど、今はまだ司に『恵理』って呼んで欲しくない。

「いいじゃん、普段は俺の課長なんだからさ」

 司は全然気にしていない。




 司はあたしの本当の姿を知っていた。

 正確には、知っていたのじゃなくて、気付いていたらしい。

 外でのあたしと部屋の中でのあたし。

 全く違う両極端な自分……

 仕事を持って、外では颯爽としているけれど、自宅のマンションに戻ればタダの雑でガサツな……家事さえまともに出来ないダラシナイ女――

 この部屋だって、週に何回か昼間の留守中に家政婦さんが遣って来て、あたしの帰宅時間までに総てを完了させてくれている。

 今日は家政婦さんが来ていたはずなのに……

 どうして? なんで司に解かるのよ?

「ムリして自分を演じていると、必ず何処かに歪みが出るよ?」

 なにそれ?

 司は本当のあたしを知っているの?

 知ったかぶりもいい加減にしてよね?

 年下なのに――

 偉そうに……



 ベッドの中で軽く抵抗するあたし。

 護身術を嗜んでいたから、向かい合ってさえいれば何とかあたしの腕でも司をねじ伏せられる。司も何度か痛い目にあってその事を弁えている。

 だから、今は後から抑え付けられていた。

 駄目。悔しいけれど身動き出来ない。

「な……に、するのよ?」

 首を捩って後の司を見上げる。

 あたしと視線が合って、司は嬉しそうな顔をした。

 そしてイヤラシそうに含み笑いをする。

「くくく……自分の方が、そのコドモだと思っているヤツに襲われてる……課長の方がよっぽどコドモじゃん」

「違う!」

「嘘。違わない」

「違う。あたしは司とは違う」

「自分を騙して隠している課長には言われたくないね?」

 なに? あたしが自分を騙している?

 一体……何の事?

「くっ……」

 凄い力。

 駄目、このままだと……

「こんなコトして……許さないわ!」

「なんで? 俺、許してくれって言ってないよ?」

 司はそう囁いてあたしの耳朶を甘咬みする。

 一瞬、感電したように、びくりとあたしの顎が仰け反った。

「く……このまま襲う心算? 卑怯……」

「卑怯って言うのは、課長みたいなのを言うんだよ?」

「何?」

「俺がずっと困っていたの、面白がって見ていただろ?」

 どきりと、心臓がいやな音を立てた。

「違う! そんな……面白がって……って……そんな心算は……」

 ショックだわ……

 ただ見守っていただけなのに……司はそうは思ってくれていなかった……


 シャツの破れる音がした。

 力任せに右肩を剥き出しにされる。

「ああ!」

 司の熱い唇が、あたしの首筋から肩口へとゆっくりと這っていく。

 頭の中が痺れて、背筋がゾクッとした。

 なに? この感覚……

「こんな風にして欲しかったんだろ? 携帯の彼氏に……」

「!」

 さっきの会話、聴かれてる……そんな事まで知っているの?

「俺が居たから約束を断った……じゃ、ない?」

「う……」

 急に目の前がぼやけて、あたしの腕から力が消えた。

 別に司に押し負かされた訳でもない。

 ……悔しい……

 余りにも司が……あたしの事なのに……あたしよりもずっとあたしの事を知っているから……

「ナンだ……当たりか」

『つまんねー』

 溜め息でも吐くように、司からそう言われたような気がした。


『つまんねー女……』

 言われたくないそのフレーズ。

 だけど、今のあたしにはぴったりだわ……

 本当にそうだもの。

 それでもあたしは必死になって……懲りずにまた自分を装った。

 手にしたものは数枚の一万円札。

 お金に困っていた司はすぐに反応した。

「これで司を買えば良い?」

「……ナニ……言ってンの? 逆援交? 頭、大丈夫?」

 お金には反応したけれど、あたしの言葉に司は冷たく言い放った。

「俺、娼婦じゃねーよ?」

 一瞬見せる、司のシラケタ表情。

 ……怒ってる。

 いつも怒っている短気な司とは、明らかに違う怒り方……

「……解ってる」

「解ってねーよ! 課長はまだ……」

 言いよどんで、司はハァ……と深い溜め息を吐いた。

「……どこでそんな冗談を覚えた? どこまで自分を騙して汚そうとすれば気が済むんだよ? それで自分を変えられたとでも思ってンの? 勘違いだよ」

 司の真っ直ぐな視線があたしを射抜く。

「だから……」

「お生憎様。金は貰っても、課長の処女は要らない」

「ひど……」

 呆れる程にあっけらかんと、司はあたしの目の前で言い放った。


 あたしの心は……粉々に砕けた――


 誰も知らない、誰にも判るハズのない秘密まで、司はどうして知ってるの?

「馬鹿……」

 そんな事、面と向かってどうして言えるのよ?

 悔しい……

「ぐす……う、う……」

 後から後から涙が溢れる。

 どうしてこの男はあたしの事をこんなにも知っているの?

 頻りに両手で涙を拭った。

 二十五年間生きて来て、ここまで侮辱されるだなんて。

 別に護って来た訳じゃないのに……


 不意に、ふわりとあたしの身体が包まれた――

「……ゴメン……ってか俺……言い過ぎたよな?」

 悔しい……人前で涙なんか……見せたコト無かったのに……

「う……」

「ゴメンな?」

 司はあたしの両手首を掴んで顔から離すと、そっとあたしの唇を塞いだ。

 いたわるような優しいキス……司のガサツな外見からは、全く想像出来ない。

 あたしは身体を強張らせながら、重ねる度に深くなっていく司のキスに、いつの間にか応えていた。

「司……」

「ナニ?」

「このキスで女の子何人落としたの?」

「またそう言う……」

 司は話をはぐらかして軽く笑った。

「課長お嬢様の戯言には答えられません」

「……ふざけないでよ」

 司の妙なお惚けに、ほんの少しだけ気持ちが上向きになった。

 クスクス笑いながら、司はあたしの身体を抱き締めて、背中からベッドに倒れ込む。


「う……ん」

 司はあたしと身体を入れ換えて、あたしに圧し掛かった。

 あたしよりも大きい身体に、ベッドが重く沈んだ。

 ゴツゴツした、熱い大きい手が、服の上からあたしの身体を弄ってくる。

 本当は、身体に触れられるのは厭じゃない。

 温かくって気持ち良い。

 元気を貰っているようで、とっても気持ち良いもの……

 今の司は、あたしだけを見ていてくれている……

 こんなあたしでも……

 『今』だけでもいい……

「あん……」

 自然と甘い声が漏れた。

「感じてる課長の横顔……良いッ」

 あたしは素直になれそうなのに、どうして司はフザケルの?

「司……」

「はい?」

「課長は……あ、やん……」

 あたしの次の台詞を言わせないように、司はあたしのシャツを脱がせ、キャミソールを顔の方にたくし上げた。

 『課長』って呼ぶの、わざと……なの?

 まるであたしがパワハラしているみたいじゃない。

「ちょ、ちょっと……」

 あたしはキャミソールで目隠しされた状態になった。

「何スか?」

 いつもの社内での声。

 ご飯食べたから、少し張りがある。ちょっとは元気になったのかな?

「これじゃ、見えな……」

「だって、見えないようにしたから」

「え?」

「視覚に頼らないで……感じてごらんよ?」

 耳元でそっと優しく囁かれた。

 温かい司の吐息がくすぐったい。

「きゃっ?」

 言うが早いが、司はブラを着けた下着越しにあたしの胸の谷間に顔を埋めて来た。

「課長のおっぱい、でかっ。俺、窒息しそう」

 嬉しそうに頬ずりをした。

 司の無精髭がちくちくして痛い。

「ああん、や……」

 ゆっくりと、左右に拡がった胸を真ん中に押し戻しながら揉みしだく。

 司はあたしの背中に腕を廻すと、ブラを片手で簡単に外した。

 敏感な部分を含んで舌先で転がし始める。

「ああぁ……」

 くすぐったいのと同時に、気持ち良い……甘い声が漏れて、身体が撓った。

 自分で触れてもそんなに感じたことが無かったのに……

 視界が遮られる事への心細さと、これから何をされるのかという期待と不安に、あたしは妙に興奮して、胸が高鳴り息遣いが荒くなる。

「素敵だよ? 課長。俺、その声で今すぐにでもイキそう……」

 司の息が上がって肌が火照っているのが判る。

「……馬鹿……」

 司とは違って、あたしはそんなにまだ感じていない。

 それとも、もしかして不感症? ……それだけは嫌。

「課長の肌、もう冷たい……さっき、キスした時は熱かったのに……」

 自分のセックステクニックを、あたしの身体から否定された気持ちになったのか、司の声は不満そう。

「だって……緊張するもの……」

 緊張すれば、自然と手足が冷たくなってくる。

「自律神経のモンダイ……」

「課長、あのね……」

 司が呆れて口を閉ざす。

 言葉が途切れて、あたしの唇が襲われた。

 それは、これ以上あたしを喋らせないため。

「ふ……うっ、んっ」

 唇を奪われる度に、あたしの顎が軽く仰け反る。

 再びあたしの身体が、内側から火を点された。

 燃焼していくみたいに、次第に熱く火照って来る――

 呼吸が少し苦しくなって、軽く喘いだ。

「官能的状況下での理論的な分析は止めてくれる?」

 司は急に声のトーンを落とし、わざと真面目な声でそう言った。

 今のは情緒の無いあたしへのお返し……なの?

「……」

 一瞬の間をおいて、どちらからともなくお互いにくすくすと笑い出す。

 あたしは、司の息が肩に掛かってくすぐったかったせいもあった。

 ほんの少しココロとカラダが軽くなった気がする。

 どうして?

 傍に司が居てくれるから……かな?


 あたしの反応に機嫌を良くした司が、荒い息を吐きながら、あたしの身体から一枚、また一枚と服を剥がして行く。

 どうすれば脱がせ易いのか、どうすれば色っぽく脱がせるコトが出来るのか……この男はそれを知っている。

 司はそんなの簡単なコトだって笑った。

 もっと触れて欲しいけど、年下の司に好いようにされて、それはそれで何だか厭だ。

 複雑な心境――


 司があたしに触れた所が熱くなり、徐々にあたしの身体全体を火照らせる。

 司の愛撫にあたしは気を失うようにして、深い眠りに誘われた――



 眼が覚めると、司の姿は部屋には無かった――

 一枚の書置きと、あたしが司に払ったはずの一万円札が数枚。

 あ、一枚足りない。

『ごちそーさん』

 たった……それだけ?

 まあ……司らしいわよね?

「くす……」

 もう少し、綺麗な字で書けないの?

 司に対しての不満は、何故だか全く持てなかった。

 寧ろ、何だか今までのモヤモヤしていたものがスッキリ取れた感じがする。


 振り返って壁掛け時計を見る。

「ええーっ、もう八時?」

 始業時間まであと三十分。

 あたしは慌てて跳ね起きる。

 司が用意してくれていたトーストを焼き、コーヒーを淹れる。

 遅刻確定の大きなハンコを背中に押された気分に、憂鬱になりながら、あたしは先に司が行ったであろう会社へと、出勤する準備を急いだ――



-END-







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