第一話 出勤



    「行ってらっしゃい」

     今朝も二つ年下の夫に軽くキスをすると、彩香は満面の笑みで手を振って彼を送り出した。

     彼女は如月彩香(きさらぎ あやか)、二十七歳。ごく普通の恋愛をして、ごく普通の結婚生活を送っているが、彼女には夫にも言えない秘密があった――


     ピピピ……

     単調な一定のメロディがポケットに入れていた携帯から聞えた。

     彼女のパソコンに一通のメールが入ったと言う知らせだ。

     朝食の片付けをしていた彩香は、エプロンを外してパソコンのある寝室へと向かった。

    ―「アヤ姉、仕事だ」

     画面には、彼女よりも三、四歳以上も若い男が映っていた。

     少し頬が痩せてやつれている様に見えるが、女性の眼から見れば、それはそれで彼の精悍さを維持する上での一つの魅力的要因にもなっている。

     彩香の視線が急に獲物を狙う獣の様に変わり、艶っぽくなった。

    「今度は誰? 修司」

     彩香のふっくらとしたコーラルピンクの口元が綻んだ。奥に整然と並んだ白い歯がチラリと見え、そこから可愛らしい舌先が唇をなぞる。

     余裕の微笑で、徐に細いフレームの眼鏡を外し、軽く頭を振って肩に掛かったストレートの黒髪をさらりと流した。

     そこには、たった今自分の夫を無邪気に送り出していた妻の面影は無かった。

     その彩香の仕草に、画面の修司から思わず生唾を飲み込む音が聞えた。

    ―「……朝っぱらから盛らないでくれる? コッチ、署内なんだよ?」

    「うふふ……で? 誰?」

     パソコンデスクに肩肘を突き、彩香は小首を傾げて含み笑いをした。

     修司は彩香の妖しい微笑みに既にのぼせてしまっている。

    ―「もー、アヤ姉(ねえ)には叶わないなー」

    「早く言ってよぉー」

     じれったく身体を捩らせて彼女が言うと、その言葉の響きさえ微妙に取れるから不思議だ。

     画面の修司は退いたが、退きっぱなしでは話が続かないなと気を取り直し、軽く咳払いをして見せた。

    ―「せ……先週言ってた榛名明彦(はるな あきひこ)の裏が取れた。奴は当たりだ」

    「……判ったわ」

     彩香は軽く頷いた。



     彩香はシャワーを浴びると純白の毛足の長いバスタオルで身体を包み、姿見の前に立った。

     濡れた髪の数本が、張りのある艶やかな彩香の白い項に貼り付いていた。温水で上気した白い肌はほんのりと桜色を帯び、バスタオルに包まれた少し大きめの胸は寄せ上げられ、つんとすまして隆起していた。急激に狭まったウェストから腰のラインにかけて再び大きく曲線を描く――

     蒸気が彩香の成熟した肢体を姿見の前から曇らせる。

     姿見のサイドテーブルに置いてあったパウダーコロンの化粧壜を取ると、彩香はそれまで自分を包み隠していたバスタオルをはらりと足元に落した。

     全身に隈なくパウダーコロンを浴びせる。甘美なムスクの芳香が彩香を包み込んだ。そしてもう一つの薬壜にすんなりとした指先を伸ばし、錠剤を一つ口に含む。




    「すっ、スミマセン……あっ、あの、お怪我はありませんでしたか?」

     大きく胸元を寛げた細いブルーの縦縞シャツに、濃紺のタイトスカート。足元は黒のピンヒールという出で立ちで、彩香はそのすらりとした脚を滑らせて自分の車から降りて来た。

     ルームミラーでドライバーの彩香の姿を確認した男の目が、一瞬にやりと笑う。

     男は片手で頚椎を押さえ、苦痛の呻き声を漏らした。

    「だ、大丈夫ですか?」

     彩香は自分がぶつけた車の運転席を覗き込んだ。


     相手の車は国産ではあるが、超高級ランクのセダン。その後部に彩香の軽ワゴン自動車が追突していた。

     造りが丈夫なセダンとは違い、彩香の車のフロントは紙細工の様にメチャクチャだ。

    「ご、ごめんなさい。わ、私、つい余所見をしちゃってたみたいです」

     事の重大さに驚いてひたすら謝る彩香だったが、男は俯いて呻いたまま何も言わない。

    「あ、あの……警察は呼ばないで欲しいんですけど……」

    「ああ?」

     男が反応した。

     歳は五十前後だろうか? やや恰幅を帯びたスーツ姿の男は、どこぞの社長クラスに見える。外見は白髪交じりの老紳士といった風体だが、その中身は違っていた。

    「私、減点されると……困る」

     消え入りそうな声で言った。

    「示談交渉するってのか?」

     乱暴な言い草に彩香は怯えて息を呑み、困った表情をした。

    「え……ええ」

     彩香は軽く腰を折った状態で運転席を覗いていた。両手を祈る様に胸の前で組み合わせると、男の声に小さくなりながら、今にも泣き出しそうな顔でコクコクと頷いた。

     その組み合わせた両手の奥に、深い谷間が見え隠れする。

    「ふーん」

     男は彩香の胸元に執拗に視線を這わせながら携帯を手に取った。

    「あ、俺だ。若いモンニ、三人遣してくれ……」




    「示談で交渉だなんて、アンタも相手見て言えば良かったのにな?」

     肩までのロン毛に顎鬚を蓄えた、見るからに軽そうな男が彩香に同情する様に言った。

    「ホント。縒りにも拠って明兄(あきにい)さんの大事な車に傷を付けたんだ。アンタにそれが賠償出来るとは思えないんだよね? アンタのショボイ車だし」

     逆毛を立てた金髪にタオルを巻いてピアスを幾つも付けた男も同感だと頷いた。

     彩香は男の指示で遣って来た白いワンボックスに乗せられていた。自分よりも年下の男二人に左右を挟まれて小さくなっている。

     男達は口々に彩香の災難を表面上は気の毒がっている様子だった。

    「あ、あのっ、私、何処へ連れて行かれるの?」

     視線が定まらず、浮き足立ちながらも彩香は尋ねた。

    「修理代、払えるのかい?」

    「あれ、特注品も入ってたんだよぉ? アンタの連絡先を聞いてから、今すぐ自宅に送り返すってぇワケには行きそうも無いな」

    「そ、そんなぁ……」

     彩香は怯えて情けない声を漏らした。

    (身体で払えって言うの?)

    『追突OK即、現金』のフレーズが彩香の脳裏に浮かんだ。


    「ねえ、チョッとその眼鏡外して見せてよ」

     金髪男が彩香を値踏みする視線を向けながら言った。

    「えー? だってコレ外すと見えなくなっちゃう……」

    「良いじゃん」

     反対から手が伸びて、ロン毛の男が眼鏡をひょいと取った。

    「きゃっ?」

    「おおーっ? 好いセンかも?」

     意味深にそう言うと、男達は互いの視線を合わせてニヤリと笑った。


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